これは、まだムーミンパパが旅人であったころ――
小さな谷の静かな暮らしに馴染む前の、ひとりのムーミンが世界に問いかけていた、遠い日の物語です。
その日、ムーミンは森を歩いておりました。背中にちいさな包みを担ぎ、雫に濡れた落ち葉の上を、ぺたぺたと歩いていました。
空はどんよりと曇り、風は冷たく、雨粒がぽつり、ぽつりと降りかかってきます。
「うーん、まいったなぁ」
ぽつりと呟いた声は、木立の間をすり抜け、どこか淋しそうに響きました。
それでもムーミンは前に進もうとしました。
なぜなら、彼には帰る場所がなかったからです。
ひと晩の宿を求めて、ムーミンはふと見つけた大きなブナの根元の穴に、そっと身を横たえました。
雨をしのぎ、冷たい風から逃れるには十分な庇です。
けれど温かい毛布も、心配してくれる誰かの声も、そこにはありません。
ムーミンは目を閉じて、思い出します。
あの谷にいた日々。フィリフヨンカさんの孤児院。厳しくも規則正しい生活のなかで、ムーミンは夢を抱いていました。
「ぼくは、大きくなったら冒険者になるんだ」
そう言ったとき、隣のちびすけは笑いました。
「じゃあ、ぼくは火山に住むんだ」
もうひとりは「私は海賊」と言っていました。
けれどその夢は、いつも屋根裏部屋で眠るとき、窓から見える遠い月のように、手が届きそうで届きませんでした。
ある晩、ムーミンはそっと抜け出しました。
大人になって旅に出るのでは遅すぎる気がしたのです。
今出なければ心の中の冒険者は消えてしまう、そんな気がしていました。
そして、いま。空腹と雨に打たれて眠りに落ちようとするムーミンの耳に、風が語りかけるような気がしました。
『おいで』
それは母の声にも似て、風のざわめきにも似ていました。
けれどムーミンは、安心してその声に従って、うとうとと夢の中へ落ちていきました。
さて、遠い世界の遠い国。その名をトリステイン王国と申します。
王国の片隅に、ヴァリエールという名の立派なお屋敷がありました。そこにはピンク色の髪をもつ少女がおりました。名をルイズといいます。
ルイズは泣いていました。そっと庭の池に浮かぶ小舟に腰掛けて、ひとり声を殺して泣いていたのです。なぜかといえば、彼女には魔法が使えなかったからです。
この国では、魔法を操る者が貴族とされ、力ある者こそが誇りとされていました。
けれどルイズには、火ひとつ灯すこともできません。
何度唱えても、結果は爆発――それも盛大にです。
「私さえいなければ……」
声なき声を水面に投げ、立ち上がったそのとき。ふと、母の言葉が胸をよぎります。
『魔法が使えなくても、あなたは私の娘です』
それは、厳しくも優しい母、カリーヌの心からの言葉でした。
「……負けてられないわね」
ルイズはもう一度、魔法の詠唱を始めます。震える指先、拙くも真剣な声――
すると池の水がぶわっと吹き上がり、しぶきが彼女を濡らしました。
「きゃっ……」
目をこするルイズの前に、何かが浮かび上がってきます。
「え……?」
それは、ずんぐりとした体に、灰色の皮膚、長い鼻――どう見ても、ムーミンです。
「わっぷ、わっぷ! た、たすけてぇ!」
ルイズは呆然としながら小舟を近づけ、その毛深い身体をぐいと引き上げました。手にぬるりとした感触が伝わります。
「やあ、ピンクのお嬢さん。ここはどこかな?」
ルイズは、一瞬むっとしながらも答えました。
「ここは、トリステインのヴァリエール邸。……あなた、誰?」
ムーミンは、くるりと優雅にお辞儀をして言いました。
「ぼくはムーミン。世界を旅する冒険者さ……なれたら、いいなって思ってる」
ふっと、ルイズの口元に笑みがこぼれました。
魔法の失敗も、家の重責も、この灰色の不思議な来訪者が、すこしだけ遠ざけてくれたのです。
「ふう……まったく、変な使い魔を呼び出したものね」
その言葉に、ムーミンはきょとんと首をかしげました。
「使い魔って、美味しいの?」
ルイズは返す言葉を失い、ただため息をつきました。
こうして、ひとりの少女と一匹のムーミンの物語は静かに始まったのです。