夕日が地平線に傾き始めた頃、窓から風が流れて来ます。顔の前にかかった前髪をかき上げるマチルダさんの前で、オスマンは机に詰まれた書類にかりかりとペンでサインを書き込んでいます。
「ミス・ロングビル、腕が痛むので休憩をしても良いかな? ほれ、そろそろ夕飯の時間……」
マチルダさんは一睨みをして黙らせました。
学院長は暇ではありません。地位のある者には責任があります。王室からの会計監査に備えた準備でした。王室から補助金を無駄に使っていないか、学院に無駄は無いかと調べられます。
時おり呻き声を漏らすオスマンの顔は腫れ上がっています。ええ、マチルダにお仕置きされたのです。
水の秘薬や魔法を使えば簡単に治りますが、まだ許してはいません。今日の仕事が終わるまではこのままです。
机の端に視線を向けるマチルダ。置かれた滑車をねずみがからからと音をたてて回しています。
モートソグニル2世――モートソグニルも子供を作っていました。そっと溜め息を吐くマチルダ。ねずみはねずみ算に増えると言う事を思い出しました。
(ジジイと一緒でしぶとい使い魔だね)
人生は思い通りになる事の方が少ない物です。マチルダは「今度やったらもぎますよ」とオスマンに釘を差しました。賢明なオスマンは「何が?」と聞き返したりはしませんでした。
ルイズはベットに横になり膝を抱えていました。一日が終わり一人になると物思いに耽ってしまいます。思い出すのはムーミンと過ごした騒がしい日々。考えるのはもう少し優しくしてやればよかったと言う後悔。
人は 後悔をしますが今を生きています。ルイズに必要なのは前を向いて進む事です。
「ヴァリエール」
ノックも無しにお隣のキュルケさんがやって来ました。
ルイズは気だるげに閉じていた目を開けました。「何よ」と声には出しませんが、瞳の色に意思が灯り反応しています。
ルイズの反応を見てキュルケは内心で気圧されながらも表面には現さずに提げていたワインを見せます。
「タルブ産のワインよ。一緒にどう?」
そう言いながらワイングラスをルイズに持たせます。
「私、飲むなんて言ってないんだけど」
「まぁまぁ、良いじゃない」
のろのろと起き出すルイズ。スカートの乱れをキュルケは然り気無く直してあげました。
注がれたワイングラスに視線を向けるルイズ。タルブの地名にルイズは楽しい思い出がありません。ですがワインに 罪はありません。
「乾杯」とグラスを軽く合わせてキュルケが口をつけると、ルイズも口をつけました。
口に含まれたワインの香りが鼻腔を刺激します。
「私、あんまりワインは好きじゃ無いの」そう言うキュルケに先を促す様にルイズは視線を向けます。
「ゲルマニアではやっぱりビールが一番ね」
アルコールが入りほんのりと頬を赤らめながらキュルケは饒舌に語ります。ゲルマニアでの食生活や娯楽、観光地。あえてそう言う波風の立たない話題を選んだのか、ルイズの気晴らしに成りました。
「――トリステインでは何処に遊びに行くの?」
「領内から外に出る事はあまりなかったわ」
王都での買い物、ラグラリン湖での王家主催園遊会それぐらいしか覚えていない。
「あら、そうなの?」
ルイズはこの気さくに話しかけてくる隣人に慣れてきました。穏やかな気持ち。自然な話し相手でした。
夕食の時間に成るとルイズとキュルケは連れ立って食堂に入りました。
対面の席が空いているのに隣同士に座る二人を見てモンモランシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモランシは内心で突っ込みを入れていた。
(何であの二人、急接近してるの!)
世話を焼くキュルケと相槌を交えながら反応するルイズ。モンモランシーはヴァリエールとツエルプストー両家の息女が仲睦まじく会話している姿を見て目を疑いました。両家の因縁はトリステインとゲルマニアの歴史と言っても良い物です。殆どキュルケが一方的に話しかけて時おりルイズが相槌を返すだけでしたが、それでも会話が成立している事は奇跡に思えました。
「どうしちゃったの。あの二人」
ルイズとキュルケの間に流れる穏やかな空気。その原因に思い当たる者は居ませんでした。
ヴァリエール公爵家の一門に列なる貴族の師弟は好意的に事実を受け止めておりました。有事に駆り出されるのは彼らだからです。余計な波風など立たない方が良いのです。
マリコルヌ・ド・グランドプレは例外で、忌々しげな表情でルイズを睨んでいました。遠巻きに警護をしている親衛隊の姿を見かけ舌打ちをすると離れます。
魔法の授業が本格的に始まるとルイズが魔法を使えないと言う事は周知の事実となりました。しかし表立ってルイズを嘲笑う者は居ない。アキテーヌ、ガスコーニュ、ポワトゥと言った有力な貴族の子弟による親衛隊の存在。公爵家の権威が怖いのです。
マルコリヌは臆病者で用心深い性格です。ヴァリエール公爵家を正面から敵に回すほど大胆ではありませんでした。今までは――。
居室に集まり酒盛りをする少年たち。話題は授業内容や異性に関する話題です。
「ルイズ嬢は魔法の才能を除けば申し分無いんだけどな」
「うん、全くだ」
「それはどうかな」
マリコルヌはヴァリエールとツェルプストーが共謀して王家に反旗を翻そうとしていると噂を流していました。
「公爵は王位簒奪を狙っている。血筋から言っても無理ではない。ツェルプストーへの接近は反意の表れだよ」
ワインの瓶を床に転がして椅子から立ち上がると、ふらふらしていました。
「おいおい、本気か?」
そんな言葉に同調する者はほとんど居ません。酒の席での悪い冗談だと思ってました。
「マリコルヌ。君はヴァリエールをどうして目の敵にするんだい?」
「あの女は僕の差し出した手をはね除けたんだ」
他の女子なら分かるが相手は魔法の出来ない可哀想なルイズ。そう見下していた相手に軽んじられる事は最大の侮辱でした。
ルイズには日中、親衛隊が付いていますから男子が御近付きになる事は難しいです。
そうなると害意を持つ者が事故に偽装した襲撃も不可能に近い。
(今は無理でも、いつかは隙が出来るはずだ。その時は必ず、必ず辱めにあわせてやる)
マリコルヌの瞳には憎悪が浮かんでいました。そんな空気ではしらけて飲み会お開きになりました。
酒宴を終えるとギーシュはある建物を目指しました。
生徒による自治を名目として校内保安委員会と言う組織があります。実態はヴァリエール派閥による親衛隊がそのまま移行しています。委員会の本部は学院の敷地内に錬金された建物に置かれていました。
建物にはまだ灯りがついており、訪れたギーシュをレイナルドが迎えてくれました。
「ミスタ・グランドプレに不穏な動きがあると」
レイナルドは眼鏡の位置を直しながら尋ねた。
「ああ、彼はミス・ヴァリエールをじっと睨んでいた。あれは恋する男の目では無いね」
答えたのはギーシュ・ド・グラモン。軍の実権を握るグラモン元帥の子息です。マリコルヌ・ド・グランドプレはギーシュの友人の一人でしたが、友人におかしな所があれば諌めるだけの関係を築いていました。
「成る程。情報提供有難う、ミスタ・グラモン」
グラモン元帥はヴァリエール公爵の政敵で、宮廷から追い出そうと画策していました。その息子がヴァリエール公爵の娘の為に動くとは不思議です。レイナルドの顔を見てギーシュは笑みを浮かべます。
「その顔だと、何故、僕がミス・ヴァリエールに協力するか疑問かな」
「御父上の立場を考えれば疑問ではあるな」
謀る事は許さないと強い眼差しをギーシュに向けます。
「何、簡単な事だよ。父は父、僕は僕。そして薔薇は乙女を楽しませる物さ」
後半は意味不明ですが、親の怨恨と子供は関係無いと言いたいのだと理解しました。
「何にせよ感謝する。これからもよろしく頼む」
表情を和らげて差し出されたレイナルドの手をギーシュは握りました。
「ギーシュだ」
「ギーシュ」
隣人が敵であると言うのは珍しくありません。まして親友と思っていた相手が裏切っていたと言う事は昔からあります。今は利害関係が一致していると、ギーシュの情報を信用しました。