人語を理解する灰色の豚。
生物学的に見れば極めて珍しい存在かもしれませんが、それよりも重大なのは、その亜人がヴァリエール公爵家の館に侵入していた、という事実でした。
トリステイン王国でも屈指の名門であるヴァリエール家。
その屋敷は石造りの堀と城壁に囲まれ、さながら小さな要塞のようです。
使用人も衛兵も、すべてが訓練されており、外敵の侵入など通常なら考えられません。
そんな場所にぬけぬけと現れたのが、いまルイズの前で尻尾を揺らしているムーミンというわけです。
「良いこと、黙ってついてくるのよ」
ルイズはその丸い顔を両手で掴んで目を覗き込みました。どうやらこっそり部屋へ連れていくつもりのようです。
ムーミンは特に反論もせず、「うん」と素直に頷いてついてきました。
部屋に入るなり、ルイズは慌ただしく扉を閉め鍵をかけ、ため息をつきました。
「ふう、危なかった……」
すると背後で、もごもごと何かを噛む音がします。
振り返ると、ムーミンが卓上のクックベリーパイを手に取って夢中で頬張っていました。
「ちょ、ちょっと! それ私のよ!」
「はぐ、はぐ……ごめん、でもすっごく美味しくて……」
ムーミンは三皿目を平らげながら、机の上をまったく汚さずに食べ続けています。
ルイズは唖然としながらも、やがて腰を下ろし紅茶を一口すすりました。
「……お腹、空いてたの?」
「うん。一晩中森を歩いてたから。あ、これ、ほんとに美味しいね。ごちそうさま」
ムーミンは口元にベリーソースをつけたまま、尻尾をゆらゆらと揺らしていました。
なんとも無防備で、緊張感というものがありません。
「いい、あんた。夜まで大人しくしてなさい」
「なんで?」
「いいから! 今、公爵家の館に侵入してるってわかってる!? もし母様や姉様に見つかったら、大変なことになるのよ」
ルイズの言葉に、ムーミンは目をぱちぱちとさせるだけで、危機感を持っている様子はありません。
「僕、木の根元で寝てただけなのに……」
「それが問題なのよ……」
ルイズはこめかみを押さえましたが、爆発以外の魔法の成果を初めて見た嬉しさも、胸の奥で確かに感じていました。
「まあ、今はとにかく静かにしてなさい。あとで両親が帰ってくるから、そのとき私から説明するから」
「……お腹いっぱいになったら、眠くなってきた……」
そう言って、ムーミンはルイズのベッドに上がり、丸くなって寝息を立てはじめました。
「ちょっと、そこ私の……! もう……」
あまりに無防備な寝顔に、ルイズも怒る気が失せました。仕方なく、そっと毛布を掛けてやります。
「ほんと、変な亜人……」
「――では、この亜人をルイズが召喚したというのですね」
数刻後。ムーミンがまだいびきをかいて眠っているベッドの傍らで、ルイズは父ヴァリエール公爵、そして母カリーヌと向き合っていました。
「は、はい。そうです」
母の鋭い視線に、ルイズは自然と背筋を伸ばしました。
カリーヌの手が、ゆっくりとルイズに伸びてきます。
身構えるルイズ――けれど、その手は彼女を抱きしめました。
「おめでとう、ルイズ。あなたがついに魔法を成功させたこと、母はとても嬉しい」
母の声は震えていました。厳しく、誇り高いあの母が。
ルイズの目に熱いものが滲みました。
傍らで公爵も、静かに頷いています。
「よくやった、ルイズ」
ルイズの胸の奥がじんわりとあたたかくなっていきます。
「それで……使い魔との契約は、もう済ませたのか?」
「い、いえ。お父様とお母様にご報告してからと思いまして」
思わず出た言い訳でしたが、両親はむしろ満足げでした。
「まあ、嬉しいことを言ってくれる」
「では、私たちの前でやってみせてくれるか」
ルイズはもはや退くに退けません。
「は、はい……」
彼女はベッドに近づき、寝ているムーミンの肩をそっと揺らしました。
「ムーミン、起きて。ちょっとだけ協力して」
「ん……おはよう、ルイズ」
のんびりと目を開けたムーミンに、ルイズは小声で囁きました。
「後でクックベリーパイをもう一皿、ね?」
「ほんと? わかったよ!」
期待に満ちた目で頷くムーミン。
ルイズは立ち上がり、深呼吸をしました。
「我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。五つの力を司るペンタゴンよ、我の運命に従いししもべよ――」
詠唱を終え、ムーミンの額にそっと口づけます。
「熱っ!? な、なんか熱いっ!」
ムーミンがびくっとなって、腕を押さえて跳ね上がりました。
「ちょっと!? じっとしてなさいってば!」
床をごろごろ転がって、やがてばたりと気絶してしまいました。
ルイズは青ざめましたが、カリーヌがムーミンの腕をとって確認すると、淡く光る紋章が浮かんでいます。
「おめでとうルイズ。コントラクト・サーヴァントは無事成功したようですね」
ルイズは、気を失ったムーミンをそっと見下ろしました。
「……変な使い魔だけど、まあ……いっか」
その夜、ヴァリエール邸には穏やかな時間が流れていました。
夜空に浮かぶ二つの月が、白銀の光で石造りの館を照らしています。ルイズの部屋も、静かな明かりに包まれていました。
ムーミンはベッドに丸くなって眠り続けていましたが、契約の魔力がようやく落ち着いたのか、静かに目を覚ましました。
「ん……あれ? 夢だったのかな」
淡く光る刻印が、自分の前足に残っていることに気づき、ムーミンはゆっくりと尻尾を揺らしました。
ルイズは机に向かって日記を書いていました。その背中越しにムーミンは、ぽつりとつぶやきました。
「……契約って、なにか変わるの?」
ルイズは手を止めて振り向きます。
「わからない。でも、あなたがこの世界に来た意味、これから一緒に見つけていきましょ」
その言葉に、ムーミンはしばらく黙っていました。
やがて、ぽそっと笑いました。
「……じゃあ、とりあえず。クックベリーパイ、もう一皿お願いね」
ルイズは、ぷっと吹き出して笑いました。
「はいはい。契約完了のご褒美ね、使い魔さん」