店の隅に掛けられているカレンダーを見ると、そこには14月と書かれていた。ノーマンズランドでは地球歴をそのまま転用していたので1年は365日で12ヶ月となっていたが、どうやらアクアは違うらしい。
店主にそのことを訊ねると、火星の公転周期が地球のおよそ倍で、ネオ・ヴェネツィアで言えば季節の移ろう早さはほぼ地球の半分だ。その為、アクアでは地球歴2年分に及ぶ火星歴1年分の24ヶ月カレンダーが存在しており、その普及率は地球歴のものよりも高いらしい。ただ、やはり地球が政治や経済の中心ということもあり、火星歴のカレンダーにも小さく地球歴の何年何月かが記載されているものも少なくない。
「ちなみに、火星歴だと1年が地球歴の倍もあるので、季節行事はともかく誕生日がややこしいことになってしまいます。そこで、誕生日の12ヶ月後を裏誕生日というもう1つの誕生日とする風習も生まれています。つまり、アクアの人々は火星歴の1年でもちゃんと2つ歳をとる、ということです」
「そんなことは聞いていない」
「これは失礼を。では、お詫びにネオ・ヴェネツィアの夏の風物詩の一つを御紹介しましょう」
店主の言葉を半ば聞き流しながら、ナイブズはこの星に来てから既に1年以上が経っていたことを初めて実感した。
もう1年でも、まだ1年でもない。1年が経ったのだ、という実感だけだった。そんな感覚にすら、今までの人生にない穏やかさを覚えていた。少なくとも、1年経ってもまだ慣れない事だらけだということは間違いない。
▽
ナイブズはいつものようにネオ・ヴェネツィアの街を散策していたが、いつもと違って目的地は決まっている。
ナイブズにとって、日本や日本の文化というものは少々特別なものなのだ。ナイブズとヴァッシュの育ての親とも言うべき女性――レム・セイブレムから、地球で暮らしていた頃の思い出話として何度もそれらを聞かされていたから。
「ナイブズさん、こんにちは」
考え事をしながら歩いていると、不意に声を掛けられた。聞き覚えのある声に足を止め、そちらに振り向く。
「アテナか、久し振りだな」
気付けば、アテナと最後に会ってから既に1年以上が経過していた。あちらは水の3大妖精と呼ばれる人気者であり実力者だ、街で見かけるような暇がそもそも無かったとも考えられるだろう。実際、同じ3大妖精の晃と会ったのは仕事中、もう1人に至っては名前を聞いただけで見たことすら無いのだ。
「あらあら。アテナちゃん、この人がナイブズさん?」
すると、アテナの後ろにいた金髪の女性が口を開いた。落ち着いた口調とごく自然に浮かんでいる微笑みが調和した、見るからに穏やかな人物だ。どこと無く、雨の日に出会った秋乃を連想させる。
連想して、見覚えがあることに気付いた。あれは、この星に着いた翌日のことだ。よく覚えている。
「お前は、灯里の先輩の水先案内人か」
「まぁ……何処かでお会いしたことがありましたか?」
「いや。お前が灯里にカーニヴァルの解説をしていたのを、遠目に見ていたのを思い出した」
「あら、そうだったんですか」
女性は驚いているようだが、あまりそうは見えない。表情はともかく、声色の変化が非常に小さい為だろうか。すると、女性は一呼吸置いてから居住まいを正してナイブズに会釈した。
「申し遅れました。私、アテナちゃんの友達のアリシア・フローレンスです。普段はARIAカンパニーで
名を聞いて、すぐに聞き覚えがあることに気付いた。通り名は『
「お前も水の3大妖精か。晃とも共通の友人か?」
「はい。晃ちゃんとアテナちゃんは、
ナイブズは、そうか、と小さく頷いた。灯里、藍華、アリスの3人組の内2人の先輩が水の3大妖精で友人関係だったから、灯里の先輩もそうではないかと考えたこともあったのだ。冗談半分にとはいえ予想していた事態だけに、ナイブズはアリシアの素性にさして驚きもせずに納得していた。普通に考えれば、空恐ろしいほどの偶然の一致のようにも思えるが。
「ナイブズさんは、これからどこに行くんですか?」
「夜光鈴を買いに行くところだ」
「それなら、私達と一緒ですね。折角ですから、一緒に行きませんか?」
問いに答えるやすぐに返って来たアテナからの誘いに、ナイブズはすぐには答えず彼女の顔を見返した。どうやら、自分に対する苦手意識などは完全に払拭されているらしい。
そのことを確認すると、ナイブズは踵を返してアテナとアリシアに背を向けた。
「……好きにしろ」
後ろを付いて来る気配は、振り返って確かめるまでもない。
▽
「わぁ。今年もたくさん屋台が出てるね」
店主に教えられたマーケットに来たが、アテナの言うとおり、たくさんの夜光鈴の屋台が軒を連ねていた。小さな飾り物だけを取り扱うマーケットということでもっと小規模なものを想像していたが、まさかサン・マルコ広場を丸ごと貸し切っているとは思わなかった。
これだけの規模のマーケットで、武装した警備員がいないのも驚きだ。売上金を狙うような輩もここにはいない、ということなのだろう。
夜光鈴の屋台の前を歩きながら、どのような物があるのかと流し見る。形状は全てほぼ同一、個々の違いは大きさと絵柄ぐらいか。後ろでアテナとアリシアが夜光鈴を見ながら色々と言っているのを聞き流しながら、歩を進める。
「久し振りだな、兄さん」
通りかかった屋台の男に呼び止められた。屋台に吊るされた夜光鈴の向こうを見ると、そこには見覚えのある男がいた。
「お前は、花見の時の」
ネオ・アドリア海に浮かぶ桜の島で、ナイブズを花見に誘った男だった。まさかこんな所で再会するとは思っておらず、ナイブズは少し間の抜けた声を出してしまった。だが、男の方は気にした素振りも見せず夜光鈴の一つを指す。
「どうだい? ウチの特製の夜光鈴」
「この模様は……白い犬ですか?」
横からアテナがその夜光鈴の模様を見て、モチーフの動物について訊ねた。何となくナイブズには狼のように見えるが、デザインモチーフとしては犬の方がポピュラーだろう。
「いや、狼だ。似たようなもんだがな」
「狼もいいけど、こっちの猫柄の夜光鈴もいかがですか?」
男が答えると、それに続くように隣の屋台から声が掛かった。屋台にいるのは男女の2人組だが顔立ちが似ている、恐らく姉弟なのだろう。売られている夜光鈴はガラスは透明さを残したまま濃い目の黄色で着色され、猫の顔があしらわれている。他と比べて随分と思い切ったデザインだ。
「あらあら。とてもかわいらしいですね」
「工芸体験で作ったもんが、どうして商品レベルになりますかねぇ……」
アリシアが言うと、弟の方が溜息混じりにそのような言葉を吐き出した。素人の作として見ると、他の屋台の夜光鈴と見劣りせず遜色も無いことを考えるとかなり良い出来なのだろう。ナイブズは買おうとは思わないが。
「だ、だって……凄くポヨいじゃない!?」
「ポヨイ?」
「お客さんに通じる言葉喋ろうぜ、姉ちゃん」
姉の方が発した『ポヨイ』なる謎の言語にアテナが首を傾げた。それを見て、弟の方が咎めたのを見るに、どうやら姉の造語のようだ。
すると、小さく「ヒァー」という何かの鳴き声が聞こえた。周りの喧騒と会話で聞き取れなかったのかアテナとアリシア、姉弟も何の反応も示していなかったが、聞き間違いではない。
声の聞こえた屋台の奥の方を見ると、置物かぬいぐるみと見紛うような丸い生物がいた。丸いというより、球形の生物だった。丸まっているのではなく体形そのものが球形とは、非常に珍しいのではないだろうか。
姉弟の発言と顔のパーツから推測するに、この生物を基に夜光鈴を作ったのだろう。ならば、アレは火星猫ということになるか。まさかあの形状で地球猫ということはあるまい。
「これ、あなたの手作りなんですか?」
「はい。父の知り合いに夜光鈴を作っている人がいて、そこでちょっと作らせてもらったら、随分とウケが良かったみたいで」
アリシアが問い掛けると、姉の方は気恥しそうに、簡単に事情を説明した。すると、それを聞いた男も横から口を挟む。
「あいつは大の猫好きだからな。それに、この街は
「ありがとうございます」
男の遠回しな褒め言葉に、姉の方は恐縮したように小さく頭を下げた。どうやら男と姉弟は知り合いのようだ。或いはその縁で隣同士で屋台を開いているのだろう。
「ついでに馬鹿な猫バカの貰い手もいりゃあな……」
「失礼な! 私にだって結婚を約束した相手ぐらいいたよ!?」
「ポヨの為にその縁談蹴っといて何言ってやがる」
「あらあら」
「お姉さんにそんなことを言ったら駄目だよ」
姉弟との会話に混ざりつつ、アテナとアリシアはその夜光鈴を気に入ったらしくどれを買おうかと選び始めた。ナイブズにはどれも同じに見えるが、どうやら表情差分も混ざっているようだ。
ナイブズは男の屋台に視線を戻し、並んでいる夜光鈴を改めて見た。
「……狼以外にも柄があるな」
狼の他は、鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、猪、猫。何の統一性も見出せない選出だが、絵柄は全て白い体に赤の模様で統一されている。模様の書き込みは細かく、特に狼の物は精緻という言葉以外に表現できないほどだ。
「狼を戌に見立てりゃ、十二支の揃い踏みさ。オマケで、日本の御伽噺じゃ十二支になり損ねた猫柄もある」
「十二支?」
何の統一性も無いと思っていた絵柄の動物達に共通項があると聞き、すぐに聞き返す。これらがどのような共通項を持つのか、興味を引かれた。
「日本とかのアジア地域には干支っていう文化があるのさ。それで十二支という12種の動物がいて、それぞれが1年ごとにその年の象徴となる」
「時計の数時を動物に変え、単位を年にしたような物か」
「それが近いな。他にも色々とあるんだが……まぁ小難しい話は置いとくとして、何か買ってくかい?」
簡単な説明を聞き、仔細については自分で調べるかと考える。恐らくは最初に言った御伽噺が原典なのだろう。
それはそれとして、ナイブズもここで夜光鈴を買うことにした。
「この、狼を貰おう」
「毎度」
少々高値だったが、金は殆ど使わず余らせている。多少の出費は問題無い。横を見ると、調度アテナとアリシアも夜光鈴を買っているところだった。
「ポヨ風鈴、お買い上げありがとうございまーす!」
「あ、あとサインいいっすか? 知り合いが大ファンなもんで」
「いいですよ」
「サイン? どうして?」
「姉ちゃん、よく見ろよ。アリシア・フローレンスとアテナ・グローリィ。姉ちゃんも一度会いたいって言ってた水の3大妖精だよ」
「……え、マジで?」
「うふふ。もう1枚、書きましょうか?」
「是非! あ、折角ですからもう1個でも10個でも持って行っちゃって下さい!」
「あらあら」
「えっと……それじゃあ、お言葉に甘えてもう1つ」
アテナとアリシアと姉弟のやり取りを見て、水の3大妖精の知名度と人気を実感する。その割に普段の様子からそういうものが感じられないのは、本人達の人格によるものか。そんなことを考えながら、ナイブズはなんとなく、2人がサインを書き終えるのを待った。
▽
アテナ達と別れ、逗留先の部屋に戻ると、ナイブズは早速夜光鈴を窓辺に飾った。
吹き抜ける風に揺られて、夜光鈴が、チリン、チリン、と涼やかな音を鳴らす。音で涼を取るとはどういうことかと当初は懐疑的だったが、実際に試してみればなるほどと納得できるものだった。
吹き抜ける風の音、川や水路を流れる水のせせらぎ、打ち寄せる波の音。それらに通じるものを感ずる透き通った音色は、肉体的にではなく精神的に涼しさを感じられるのだ。
同時に、夜光鈴が夜になると淡い冷光を発するのも興味深かった。暗闇で光る苔や藻類や菌類、冷光を発する蛍という昆虫についてはある程度の知識を有していたが、実際にそうした光を目にするのは初めてであり、新鮮な体験だった。
1つのもので2つを楽しむ。一石二鳥……ではなく、一挙両得というものだろう。
店主曰く、この夜光鈴の寿命は一夏の間が限界だという。普通ならば1ヶ月で寿命が尽きるのだからかなり長めということらしいが、1年にも満たない寿命とはナイブズにとってはあまりにも短いものに見えた。
ならばそれまでの間、せいぜい楽しませてもらおう。
その日の夜はふと思い立って、夜光鈴の光を頼りに、店主から借りた干支や火星歴、風鈴についての書物を読み耽った。
暗くも無く、眩し過ぎもせず、本を読むには十分な光だった。