夢現   作:T・M

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#12.小さな不幸、小さな出会い

 朝目覚めてすぐに、ナイブズは驚愕に目を瞠った。僅かな眠気も一瞬で無となり、自らを驚愕させたそれを再び知覚することに努めた。

 この星に来てから一度として感じることは無かった、しかし、決して忘れ得ぬ同胞の気配。しかも、この気配の主は人が歩くような速さで動き回っている。それの意味するところに、たちどころに気付いた。もうそれだけで、居ても立ってもいられなくなった。店主からの挨拶を無視して、ナイブズは一目散に外へと向かった。

 この時、店主と落ち着いて話をしておけばよかったのだということは、この時もこの後も、ナイブズは知る由も無かった。

 裏側から表側へと今繋がっている路地をすぐに見つけ出し、一直線に駆け抜ける。ネオ・ヴェネツィアの街は狭くて細い路地が無数にあり、視覚に頼って人を探すのは難しい。だが、この感覚を頼りに近付いていけばいい。ただ、それだけのことで確実に会えるのだ。

 表側の路地へ出てすぐ、ナイブズは逸る気持ちを自覚して移動を走行から歩行に切り替えながら呼吸を整える。この時、ある特殊な石を踏んでいたのだが、他に意識が集中していたナイブズは気が付かなかった。

 その石を踏んだ途端に“彼女”の気配が忽然と消えてしまった。

「……どういうことだ」

 思わず声に出して呟き、足を止める。彼女の気配は決して強いものではなかったが、今にも消えてしまいそうなほど弱いものでも無かった。或いは、ナイブズ自身の感応力の方に異常が出ているのかもしれない。

 ナイブズの力は、最早絞り粕程度。力の行使にも限度があり、今や肉体の維持で精一杯。エンジェルアームや尖翼の発動はおろか、肉体の変形でさえもままならないほどに弱体化している。その悪影響が今、この時に同胞同士の感応力にも現れてしまったのではないか。あり得ないことではない。

「とにかく、行くか」

 現状把握がままならないのは歯痒いが、彼女のいた凡その場所は判明している。取り敢えずはそちらへ向かい、後は地道に探すしかない。

 なんとか気を取り直して、ナイブズは足早に彼女の気配を最後に感じた場所へと向かった。

 その場所に近付いてから気付いたが、そこは一度通りがかったことのある場所だった。この星に来たばかりの頃、カーニヴァルの解説を聞いた場所。灯里が所属する水先案内業の会社、ARIAカンパニーだ。会社とは言っても非常に小規模で、社屋も一軒家とさして変わらない。従業員の人数も猫を含めたとて5人もいるまい。

 彼女は舟に乗ったのではないだろうかと思いARIAカンパニーの前まで来たが、彼女の気配はおろか、人の気配も無い。これでは尋ねることもできない。そこまで考えて、そもそも相手の特徴すら分からないのに何をどう尋ねればよいのかと気付く。

 どうしたものかと再び考え、足を使う以外に無いと踵を返し街へと戻る。闇雲に探し続け、しかし微かな情報の糸を手繰り寄せるのはやはり不可能であり、どうしたものかと途方に暮れる。

 一先ず腰を落ち着けて、焦りを鎮めて考えを練り直そうと、行き着いた広場の隅に腰を下ろした。確かこの広場は、以前『宝探し』の折に通りかかった広場の一つだ。

 何となく宝箱があった場所に目を向けると、子供達がしきりに何かを探している様子だった。果たしてあの宝が、子供の目にはどのように映るのだろうかと何とは無しに思った時、不意に、何かが近付いて来るのを感じた。気配とも違う、普通には感じ取れない存在のオーラとでも言うべきか。

 殺気や敵意を振りまいている訳ではなく、ただそこにいるだけで、他を圧倒する程の存在感を放っている。それでいて、近くにあるのがごく当り前であるかのように、錯覚ではなく自然とそう感じてしまう、不可思議な感覚。

 そちらを見ると、そこには白い犬……いや、狼がいた。しかし、ただの狼ではない。全身に施されている鮮やかな朱色の化粧紋様は豪快にして精緻、神を信ぜぬナイブズに神々しさというものを覚えさせるほどだった。

「あ、ワンワンだ~」

「ワンちゃん、一緒に遊ぶ?」

 いや、神々しさ云々は単なる気のせいだったのかもしれない。

 近寄って来た子供達に、口々に犬を意味する呼び名で呼ばれて嬉しそうに尾を振り、ボールを使って一緒に遊ぶ様子は、そもそも狼なのかも疑わしくなって来る。

 暫く白い狼が広場の中心で子供達と戯れるのを、気を落ち着けるついでになんとなく見続けた。その内、ふと気付いた。あの狼に施された化粧紋様には見覚えがある。ナイブズが買った夜光鈴に描かれた狼のものと殆ど同じなのだ。そして、アクアの長い夏の間ずっと灯り続ける特別な夜光鈴が、幻の名物だとされていることも思い出した。花火大会の帰りに夜光鈴の話になり、その時に藍華とアリスとアルから教えられたのだ。

 曰く、神の姿を描いた特別な夜光鈴は、神の御加護によって特別に美しく明るい光を灯し、一夏もの間明かりを灯し続けるのだと。

 それほど特別な物ならば大層人気がありそうなものだが、不思議なことに、市場で他の屋台と軒を連ねて一緒に売っているというのに、その夜光鈴を買える人間は殆どいないという。普通の人間では知ってはいてもその店に気付けない、気付けたとしても買おうと思えない、選ばれし者のみが手にすることを許される幻の逸品、などと噂されているらしい。

 ナイブズからすれば、隣の屋台にいた球状の生物の方がよっぽど不思議な存在だったのだが、やはりそれはナイブズが『不思議な存在』の側に近い立ち位置だからだろう。

 それでも、ナイブズは神というものを信じていない。自分が宗教組織の武闘派秘密結社によって現人神のように崇められていたことも一因だが、最大の要因は、ナイブズは今まで現実の中で醜さと厳しさに直面し過ぎたのだ。だから現実さえも嫌悪して、自らが掲げた理想を実現させようとした。

 この世に神がいるのならば、世界はもっとまともであるべきなのだ。ナイブズの狂気が、ヴァッシュの苦悩が、テスラの悲劇が、そもそも存在しえないような世界であるべきなのだ。

 神への不信を、誰に聞かせるでもなく内心で唱え続ける。すると、急に狼と目が合った。

 憐れみではない、哀れんでいるわけでもない。それでもどこか悲しげな、優しい目だった。

 子供達から離れ、狼がナイブズの傍に歩み寄って来て、目前の位置でちょこんと座った。

「……同胞を探している。構っている暇は無い」

 何となく居心地の悪さや気まずさのようなものを感じ、一言告げてその場を離れようとして、今度は幼い少女と目が合った。他の子供達と違い、その少女は狼ではなくナイブズを見ている。

「もしかして、ナイブズさんですか?」

「そうだが、どうして俺を知っている」

 ナイブズが問いに即座に応じると、少女は楽しげな笑顔を見せながらナイブズに歩み寄って来た。

「私、アイって言います。灯里さんからメールで聞いてたんです。見た目はちょっと怖いけど、実は素敵なおじさんだって」

 子供らしい、自分の主観情報を一切補足しない、ある意味で分かりにくく、ある意味では分かり易い回答だった。しかしナイブズにそういう言い回しに対する感想は無く、ある一言が引っ掛かり、つい聞き返した。

「俺が、素敵だと……?」

 今まで他人からそのような評価を受けたことが無いナイブズは困惑し、混乱した。自分のような存在のどこに“素敵”と見られる点があるというのか、皆目見当がつかないのだ。

「はい。大人になっても、なんだか子供みたいにとっても純粋な人だって書いてありました」

 アイからの返事――間接的に聞かされた灯里の言葉――に、ナイブズは一瞬の間を置いてから、つい吹き出してしまった。

「くっ……ははは」

 まさか。まさかもまさか。この俺が、ヴァッシュと同じようなものだと言われることになるとは、思いもしなかった。

 悪い気はしない。だが見当違いもいいところだと、笑いが堪えられない。

「あの、なにかおかしかなこと言いましたか?」

「可笑しい、と言うよりも、愉快だったな。それで、話は終わりか?」

 気の済むほど笑って、すぐにいつもの仏頂面に戻る。これで終わりならば、そろそろ気を取り直して彼女を探すのを再開しなければならない。

「あの、実は……わたし、迷子になっちゃって……」

「そうか」

 これ以上話すべきことは無いと知ると、ナイブズはすぐさま顔を逸らして歩き出そうとしたが、アイに呼び止められる。

「助けてくれないんですか?」

「そうする理由が無い」

「……叫びますよ?」

「好きなだけ叫んでいろ。俺には関係無い」

 顔も見ないまま一方的に告げて、微かに聞こえる泣き声を無視して一歩を踏み出した。更に一歩を踏み出そうとした時、白い狼が前に回り込んで来た。そのままそこで立ち止まると、何かを訴えかけるような視線をナイブズに送り、一度だけナイブズの後ろを見てから、ワンっ、と小さく吠えた。

「……手伝え、というのか?」

 ナイブズが訊くと、狼は頷くようなしぐさを見せた。人語を解する獣は、火星猫という前例もある。この狼が人間と同等の知性と感情を持っていても、何らおかしいことはあるまい。

 暫し狼と視線を交わして、やがて根負けした。

「まさか、狼に諭されるとはな……」

 自分が会ったばかりの狼に殆ど無言で諭され、不承不承ながらも承諾したと知ったら、ヴァッシュはどう思うだろうか。悔しがるか、呆れるか、喜ぶか、案外馬鹿にしたように笑われるということもありえるかもしれない。

 しかしそれを言えば、この街に来たナイブズを導いたのも、街の裏側に招いたのも、カーニヴァルに誘ったのも、全ては猫だった。今、狼に諭されたのも、笑い話ではなくある意味道理に適ったことなのかもしれない、などと考える。

 振り返り、アイに手伝うことを伝えると、アイは泣き顔から一変してすぐにお礼を言って来た。だが心変わりの要因は狼だと伝えると、

「ありがとう、シロちゃん!」

 勝手に名前を付けて満面の笑みでお礼を言った。狼も不平は無いのか、アイの顔に残っていた涙を拭うように、彼女の頬を優しく舐める。それが終わると、アイの襟を咥えるや宙に放り投げて自分の背に乗せた。

 その様子を見た子供達が一様に羨ましがり、自分もやってみたいと口にし出し、このままでは囲まれて面倒なことになると察し、ナイブズは狼を連れて広場を後にした。

 この時、一つだけ気になる言葉が聞こえた。狼を見た1人の婦人が「雪みたいに真っ白な毛並み」と口にして、誰もそれに異を唱えなかったことだ。

「シロちゃん、赤いお化粧きれいだね」

 ナイブズだけでなくアイにも、狼は真っ白ではなく、赤い化粧を全身に施した姿で見えている。このことが少々気にかかったが、深くは考えず、アイを早急に目的地に送ることに頭を切り替える。そうしなければ、彼女を探すこともままならない。

 無論、彼女の存在を再び知覚できたら捨て置いてそちらに行くつもりだったが、残念ながらその機会は訪れない。

 

 

 

 

「それで、お前をどこに連れて行けばいい」

 当て所なく歩きながら、狼の背に乗って御機嫌の様子のアイに尋ねる。聞かされたのは迷子になったという事実だけで、肝心の行く先については何も聞いていない。これでは探しようがない。

「灯里さんに会いに来たんですけど、ARIAカンパニーには誰もいなくて。それで、藍華さんの姫屋に行こうと思ったら、何時の間にか道に迷っちゃって。あっ、灯里さんに会いに来たのは……」

「つまり、灯里に会えればいいんだな?」

「はい」

 御丁寧にこの街に来た理由から迷子になった理由まで仔細に話し始めたのを、必要最低限の情報を得られた時点でナイブズは素早く遮り、話を先に進める。

「まずは……水路か。狼、心当たりはあるか?」

 水先案内人の外出先ということで水路が真っ先に思い浮かび、それを当面の指針として定めると、ナイブズは白い狼に試しに尋ねたが、狼は首を傾げた。狼は灯里も藍華も知らないのだから当然か。

 成り立ちようの無い問答を早々に切り捨て、ナイブズは灯里の行き先についての推測とそれに基づいて水路に沿って歩き回ることを伝える。アイも狼も異論を唱えず、元気の良い返事で応えた。

 歩き始めてから瞬く間に1時間以上が経過したが、狭い路地と水路が無数に走る複雑な構造の街で、碌な手がかりも無しに人を一人そう容易く見つけられるはずも無い。同時に彼女の気配も探り続けたが、一向に知覚できる兆しが見られない。

 途中、渡し船の船着き場にあゆみ達の姿を見かけて声を掛け、灯里の居場所を訊ねる。結果、少なくともあゆみたち3人はARIAカンパニーの半人前の姿を見ていないと判明する。少なくともこの運河を通過する経路を除外していいだろうと判断し、この後のルートを選別する。

 ナイブズが思案を巡らせている傍らで、あゆみ達はアイと共に狼をシロと呼んで戯れている。ナイブズには今まで狼としか見えなかったが、本当は犬なのではないかと思えて来た。それでも、やはり狼にしか見えなかった。

 一頻り遊び終わってから、あゆみ達に別れを告げてナイブズが絞り込んだルートへと移動する。宝探し以来、久し振りにこの街の大きさを、広さと複雑さを実感する。

 この時、もう少し話をしていたらあゆみが藍華の行き先についての心当たりを思い出し、それを聞くことが出来たのだが、ナイブズには知る由も無かった。

 正午の鐘が鳴ってから数十分経つと、アイが「お腹が空いた」と言い出した。これを受けて、ナイブズも偶には外食するのも良いかと気紛れを起こし、手近な所に店がないかと探し始めると、狼が先導するように歩き出し、やがて『海猫亭』という料理屋を見つけ、そこに入った。

 ウミネコは本来ネコのような鳴き声の鳥の事を指すのだが、この街らしいと言うべきか、看板猫のいる店だった。気のせいか、従業員と店主の顔も猫に似ている。

「……ここは境の店か?」

「密に願います」

 もしやと思って問うと、配膳係の女性はアイをちらりと横目で見てから、短く答えた。ナイブズはその返答を理解すると同時に納得し、無言で頷く。アイは狼と一緒にお品書きを睨み、読めない漢字をどうにか読もうと悪戦苦闘している。

 別の従業員がやって来て、アイに漢字の読み方とどういう料理かを丁寧に教える。アイはその説明を聞いて、本日のオススメとなる料理を注文する。ナイブズは天丼を注文する。何故か狼も一声吠えて、従業員はその注文も承って奥の厨房に伝える。

 厨房がまるで竜巻でも起きているのかという程騒がしくなり、それが収まって間もなく、注文した料理が3つ同時に配膳される。アイと狼の料理は海鮮丼という、生魚の切り身がご飯の上に乗っている料理だ。ナイブズが字面の面白さから注文した天丼は、魚や海老などの魚介類を、衣を付けて揚げた天麩羅というものがこれまたご飯の上に乗っている物だった。

 箸を使って食事をするのも久し振りだと思い返しながら、無言で箸とどんぶりに手を伸ばすと、横から制止の声が飛んで来た。

「ナイブズさん、ダメですよ。ちゃんと手を合わせて『いただきます』しなきゃ」

「………………そうだったな」

 かつて、レムから日本式の食事の作法を教えられたことを思い出し、子供からの指摘にも腹を立てることは無く、寧ろ素直に頷いて、アイと一緒に手を合わせる。

「いただきます」

 食前の挨拶を唱えるナイブズやアイと一緒に、狼も小さく吠えた。

 途中で海老の天麩羅をおねだりという形で半分奪われるという事態もあったが、無事に食べ終える。

 天丼というものは初めて食べたが、美味という称賛に十二分に値する味だった。

「ナイブズさん、食べ終わったら」

「そうだったな」

 アイに促されて、食後の挨拶もあったことを思い出し、再び食膳の前に手を合わせる。

「ごちそうさまでした」

 再び、狼も小さく吠える。

 従業員は皆アイの礼儀正しさに感心しており、アイを褒めるために態々料理人を兼任する店主も現れる程だった。この後、直接に「おいしかったです」とアイが伝えると、これが余程嬉しかったのか、今日のお代は特別割引ということになった。

 素材は鮮度が命、料理は速度が要、とは店主の言葉だ。素材を母なる海から釣り上げてから仕入れるまで、仕入れてから調理するまで、全ては速さこそが要であり、食材の命である鮮度を十全に活かす為には不可欠なのだと言う。

 ノーマンズランドは、食材から食器に至るまで、殆ど全てをプラントが生産していた。鮮度という概念や釣り上げるという行為は、ナイブズからはとても新鮮なものに映った。

 食後の雑談を終えて、ナイブズが3人分の食事代を支払う。アイは自分の分ぐらい自分で払うと言ったが、こういう場合は年長者が纏めて払うべきだろうと漠然と感じていた。

 海猫亭を出て、灯里探しを再開する。灯里が会社に戻っている可能性も考えて、一旦ARIAカンパニーを訪ねるコースを選択する。彼女の気配は、やはり感じられない。狼は歩き始めるとすぐに、再びアイを背に乗せた。アイも余程乗り心地を気に入ったのか、今度は自分から狼に跨った。

 

 

 

 

 再びARIAカンパニーを訪ねたが、誰かが戻って来た形跡も無く、再び街を探し回ることになった。この時、桟橋に黒い舟が繋がれているのを確認し、アイからARIAカンパニーに半人前は灯里しかいないことを確認し、水路沿いのコース選びは早合点だったと気付く。

 今度は人通りの多い場所や灯里が好みそうな不思議な場所を中心に2時間ほど歩き回ったが、やはり見つからない。ここでナイブズは灯里がネオ・ヴェネツィアの外に出かけている可能性に思い至った。もし本当にそうであれば、この探索も徒労でしかない。

 そのことをアイに伝えると、途端に残念そうな表情になった。どうしても灯里に会いたいと。それでも会えないものはしょうが無いのだから後日出直せとナイブズが言っても、用事や理由は無くとも今日会いたいのだと駄々をこねる。

 ふと、ヴァッシュと一緒に移民船の中を勝手に探検してレムに叱られた、幼き日のことを思い出す。あの頃は、まだ生まれて半年を過ぎたぐらいだっただろうか。今自分で振り返っても、童子の探求心や好奇心ほど抑えが利かず屁理屈で押し通したがるものは無いと呆れるばかりだ。きっと、今のアイの心境も似たようなものなのだろう。

 そうなると、どうしたものか。アイに然程の落ち度がない以上は叱るのも怒るのもお門違い、しかしやんちゃ盛りの頃のナイブズとヴァッシュはしでかす度に叱られて怒られた。こういう場合にどうすればよいのか見当もつかない。

 すると、狼が急に走り出した。一瞬、理解と認識が追いつかず呆然としてしまったが、すぐに後を追う。

「シロちゃん、どうしたのっ?」

 背に乗ったアイが呼びかけても、応じることも立ち止まることもせず、狼は狭く入り組んだ街の中を軽快に駆け抜ける。ナイブズもその後を追うが、引き離されないようにするだけで精一杯だった。

 狼は人を避けるのも障害物をかわすのも角を曲がるのも巧みだったが、ナイブズはそうもいかない。ナイブズがもしも力加減を誤って人間を突き飛ばしてしまえば、下手をすれば死傷事件になりかねない。街中では気を配る点が多過ぎるのだ。

 それにしても、狼は何処へ向かっているのだろう。無我夢中で走り回っているのではなく、一心不乱に目指す場所へ向かっているように見えるが、果たしてそれは真実か、それともナイブズの勝手な思い込みか。

 途中、狼の姿を見て仰天した2人連れの少年少女とすれ違ったが、構っている余裕はなかった。この時に少年少女と合流していれば、ナイブズにとって貴重な情報を得られたのだが、今回はその機会を逸してしまうこととなった。

 やがて人の数が減り、視界も開けた。この機にナイブズは一息で狼に追い付き、並走する。

「わぁ……!」

 アイは怯えた様子もナイブズに気付いた様子も無く、辺りの景色を見て嘆息を漏らしている。ナイブズも辺りを見渡して、走り続けている内に街を抜け、街の外を水路に沿って走っていることに気付いた。人通りが少なくなったのも、見通しが良くなったのも合点がいく。

 なだらかな丘に畑と草原が広がり、家の数も人影もまばらだ。舗装されているのは水路ぐらいのもので、道は草の生えていない地面がそのまま剥き出しになっている。

 荒野や砂漠ばかりを見慣れたナイブズは、海を初めて見た時と極めて似た高揚感を覚えた。その心持ちのまま狼を見た、この時、初めて気付いた。

 狼が駆け抜ける後に、黄金色に輝く花々が咲き乱れていることに。

「なっ……!?」

 思わず声を漏らし、絶句のあまり呼吸が乱れペースが落ち、狼の後ろへと下がる。

 黄金色の花々は、風に吹かれたわけでも無く、狼から一定の距離が離れると幻のように散って後には何も残っていない。それでも確かに、今この時も、白い脚が駆け抜けた跡には、黄金の花々が咲き乱れて行くのだ。

 これは、どういうことなのだろうか。夢か、幻か、それとも、まさかこの狼はプラントと同じ“持って来る力”を持っていて、それを走りながら発散させているとでもいうのか。

 答えは出ない。理解もできない。しかしそれでも、目の前で起きていることを現実として受け止める。

 乱れた呼吸を整え、ペースを戻して再び狼に並走する。途中で追い越した舟の乗客や水先案内人に目を剥かれたような気もしたが、気にも留まらない。先程まではただ何となく追いかけているだけだったが、今はこの狼が何処へ向かい、其処で何をする気なのか、俄然興味が湧いていた。

 狼はまるで野を縫う白い糸のように、緩やかな曲線を描く水路に沿って野原を駆け抜ける。

 途中で大きな段差に出くわしたが、備え付けの階段をナイブズも狼も用いずに一足で跳び越す。狼はアイを乗せたまま、まるで空中で見えない地面を蹴ったように身を翻してクルクルと回転する。その時には、ナイブズが見たことも無い紅い木の葉がはらはらと舞い散り、思わずナイブズも見惚れてしまった。

 狼の背のアイは、乱暴に振り回されて怯えることも無く、無邪気に笑いながら乗り心地を楽しんでいる。存外肝が据わっているのか、それとも子供ゆえの無知から来る向う見ずの怖いもの知らずか。この際はどちらであれ、楽しんでいるのだからそれで良いのだろう。

 走っては跳び、走って走ってまた跳び、走って走って走り続けて――遂に、狼の足が止まった。

 辿り着いたのは、風力発電の為の風車が林立する場所だった。

 風車など、今の時代ではナイブズでなくとも博物資料でしか見たことが無いというのが一般的だ。しかし、古き良き時代の地球を再現するという志の下に街作りのみならず“星作り”が行われている火星(アクア)では、立派な現役の発電機械なのだ。

 どうやら此処が、狼が2人を連れて来たかった場所らしく、アイを背から下ろしてちょこんと行儀よく座る。アイは初めて見る風車に目を輝かせて駆け寄り、前から後ろから、横から下から具に風車を観察し始めた。ナイブズは風車の群れをざっと見回し、風車が回る微かな音に耳を傾ける。

 羽根車が風を受けて回る。たったそれだけのことでエネルギーが生じ、電力に変換されて供給される。エネルギーを別次元から“持って来る”ことのできるナイブズには、単純な理屈で行われているそれらのことが、この時ばかりは不思議でたまらなかった。実際に風車の前に立っているからこそ、風車の果たしている役割が不思議に思えてしまうのだ。

 本来ならば食料や資材はおろか、エネルギーを生み出すことにすら、プラントは必須の存在ではない。そのことを、今までネオ・ヴェネツィアの人々の暮らしを見て来て、今こうして風車の前に立っていることで実感できる。

 プラントがいなくとも、人は生きて行くことができる。この星にプラントが存在しないことを知った日から、漠然と心の奥底で考えていた疑惑が、今や確信となっていた。

 ノーマンズランドでは人間の生活はプラントに完全に依存し、一部の者は神格化し信仰の対象とまでしていた。プラントなくして原住生物以外の生存はあり得ない環境で生き続けて来たナイブズにとって、その事実は驚くべきことだった。

 ならば、何故プラントは生まれたのだ?

 人とプラントが共に在ることに意味はあるのか?

 今までは考えたことも無かった疑問が、誰に問い掛けるでもなく、己の裡に沸々と湧き上がり響き渡る。その間も、ただ風車は泰然とし、悠然と回り続ける。

 急に、狼が大きな声で吠えた。ナイブズは思考の渦から抜け出し、アイも風車から視線を外して狼を見る。狼は顔を振って、来た道の方を見ろと示している。促されるまま、そちらを見る。

 丘の上からは、ネオ・ヴェネツィアの街が一望できた。

 小さい。あれほど広大に感じた街が、少し離れて見てみれば、こんなにも小さく見える。

 視点が変われば、物の見え方も変わる。天に輝く星々さえも、観測場所が変われば星図は変動する。そんなのは当たり前のことだ。そして、それは絶対不変の真実だ。

 ナイブズ自身も、星という大きな視点が変わったからこそ、世界の見え方が大きく変わったのだ。150年間もの間凝り固まった視点が変わって、まだ1年。浮かび上がり続ける疑問の数々に、焦る必要など無い。答えはいつか必ず導き出せる。

「あ!」

 綺麗な風景に満足げだったアイの表情が、傾き出した太陽を見て一変する。何か用事を思い出したのだろう。

「どうしよう……。早く帰らないと、お姉ちゃんが心配しちゃう……!」

 それを聞くや、狼が再びアイの襟首を咥えて投げて背中に乗せる。ナイブズはそれを見て、準備を整える。

 ナイブズと狼は、同時に来た道を再び走り出した。途中、すれ違った舟に乗っていた少年少女が狼を見て悲鳴のような声を上げた。どうやら狼の知り合いらしい。

 狼は聞こえないふりをして、足を緩めず風のような速さで駆け抜ける。それに少しも遅れず、ナイブズもぴたりと並走する。

 30分と経たないうちにネオ・ヴェネツィアへと戻ると、すぐに狼の足が止まり、背に乗るアイを振り返る。

「行き先を聞いているようだな」

「あ、そっか。えっとね……」

 アイはポケットから携帯端末を取り出して地図アプリケーションを開き、ネオ・ヴェネツィアを指定して予め登録されている場所へのナビゲーション機能を起動させる。ノーマンズランドならばロストテクノロジーだと騒がれる代物も、火星では子供も持てる通信端末でしかないようだ。

 便利な地図を持っていながらどうして迷子になっていたのか聞くと、一度曲がる路地を間違えたら、あっという間に自分がどこにいるのか、自分がいる場所が地図上のどこに当たるのか分からなくなってしまったのだという。子供の空間認識能力と構造把握能力は未発達な部分も多い。そういうこともあるのだろう。

 狼はアイの指示――正確にはアイが伝える地図アプリのナビゲート――に従って、正確に道順を辿って行く。程なくして、目的地のホテルに到着した。

「ナイブズさん、今日はありがとうございました」

 狼から降りると、アイはナイブズに対して深々と頭を下げた。ナイブズはいつもと変わらぬ仏頂面で、肯定も否定もしなかった。

「礼なら、こっちの狼に言え」

 ナイブズが言うと、アイはすぐに狼へと歩み寄って体いっぱいに抱きしめた。

「ありがとう、シロちゃん。とっても楽しかったよ!」

 満面の笑みを浮かべているアイの頬を、返事代わりとばかりに狼は尾を振りながら舐めた。

 別れの挨拶を済ませると、一度だけ振り返って手を振って、アイは足早にホテルに入って行った。

 

 

 

 

 アイを見送ると、ナイブズと狼はどちらからともなく歩き出した。やがてネオ・アドリア海を望む場所へと至り、共に暫く佇んだ。

 ナイブズと狼は互いに何も言わず、相手も見ず、海を眺めていた。しかしナイブズは考えていた。この不思議な白い狼は何者なのか、今日出会ったのは単なる偶然だったのだろうかと。

 そのまま時が過ぎ、太陽が水平線に触れた。ナイブズが問いかけようとしたその瞬間、狼は海へと飛び出した。急にどうしたのかと狼の動きを視線で追い、瞠目した。

 狼が着水する直前、水面に大きな蓮の葉が現れたのだ。狼はその上に降りると、すぐに跳躍し、再び蓮の葉が着水の直前に現れる。

 同じことを二度三度と繰り返しながら、狼の姿は次第にネオ・アドリア海の島の中へと消えて行った。

 神秘という言葉が、自然と頭の中に浮かび上がって来た。

 

 

 

 

「お帰りなさい。遅かったね」

「遅かった? 俺が何に遅れた」

 店に戻るや否や、店主はそのように出迎えた。得難い体験を出来たとはいえ、結局彼女を見つけられなかったナイブズは、やや不機嫌に聞き返す。

「君は調度、遠縁の娘さんと入れ違いになってしまった……と言えば、分かるかな?」

 店主からの信じ難い言葉を聞いて、ナイブズは理解に数秒を費やし、理解するや店主を押し出さんばかりの勢いで詰め寄る。

「彼女がここに来ていたのか!?」

「うん。どうやら、彼女がこちら側に来ると同時に道が全て閉じてしまったようでね。境の一部が表に露出するなど、ちょっとした事件になって大変だったよ。天の慈母ともお目通りが叶わず、彼女も非常に残念がっていた」

 あの時、唐突に彼女の気配が消えたのは、表側から裏側へ行き、表と裏とが完全に遮断されていたからだったのか。

 予想はおろか想像さえしていなかった理由に、頭が痛くなる。訳も無く怒りさえ込み上げて来る。だが、今はそんなことはどうでもいい。この程度の激情など瑣末なものと、早々に割り切る。

「彼女は今、何処にいる」

「彼女に会うのなら、後日、街の外がいい」

「街の外?」

 ナイブズが逸る気持ちを抑えきれずに詰問するように問い掛け続けても、店主はいつもと変わらぬ穏やかさで頷き、答えを返す。

「彼女は明日、グランドマザーに会う為に城ヶ崎村へ行く。そこで会うことをお奨めするよ」

 今日、ナイブズに重なり続けた幾つかの不幸。それは、これから始まる出会いへの、些細な代償。ささやかな御膳立てであったことを、ナイブズは明日、知ることになる。

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