夢現   作:T・M

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#15.物語り

「あなたは……どうして、あんな酷いことをしたの?」

 アクアに来てから初めて出会った同胞――アイーダに詰問され、ナイブズは自らの“罪”の中で最たるものを2つ、口に出す。

「ノーマンズランドの、大墜落(ビッグ・フォール)と方舟事件か?」

 ――大墜落(ビッグ・フォール)

 外宇宙の居住可能惑星を求めて航行していたPROJECT SEEDSの宇宙移民船団の1つを、航行システムに細工をして船団丸ごと手近な惑星に墜落させた。

 直前で当直オペレーターのレム・セイブレムがプログラムに修正を施したことにより奇跡的に全滅を免れたが、人類史上最大規模の惨事であることには変わらないだろう。

 推定死傷者・行方不明者数合計約8千万人。1000隻の移民船の内802隻が全壊、行方不明が124隻。不時着に成功したのは、僅か74隻。

 150年の時を経て、今やこの事件の首謀者がナイブズであることを第三者が立証することは不可能だが、唯一真実を知るヴァッシュと、ヴァッシュがナイブズとの因縁を打ち明けた隠れ里の人間達を中心とした一握りの人間には事実を知られている。

 ――方舟事件。

 先の大墜落(ビッグ・フォール)を生き延びたノーマンズランドの人類を襲った最悪の災厄。

 方舟と呼称された大型の飛行ユニットに乗り込んだミリオンズ・ナイブズ率いる一団は、砂の惑星において人類の唯一の生命線であるプラントを融合という形で略取。生きる術を失った人類は、あらゆる秩序と理性を失った。砂の惑星に落下した直後の再現のような狂気と暴虐の中、次々に渇き飢えて死んでいった。

 方舟の往く後に広がっていたのは、その星の原初の光景である『誰もいない大地(ノーマンズ・ランド)』。

 ナイブズが特に自らが咎められるだろうと思った2つのことを、自ら口に出す。

 これを聞いて、アイーダは顔を真っ赤にした。

「それだけじゃない! 調べられるだけ調べた、色んな人から聞いた! 数え切れないぐらいの大量失踪と無差別殺人……それに、ドミナ姉さんのこと!」

 怒鳴り散らすようにして、アイーダは矢継ぎ早にナイブズに罪を突き付ける。

 そういえば、そんなこともあったな。

 ナイブズからすれば、人間の大量失踪も無差別殺人も、未だに不快な害虫を駆除した程度の認識でしかない。この星に来てから人間への認識を幾度も改めたが、その当時の感情だけは変わりそうにない。

 だが、告げられたもう一つ。覚えのある名前には、特別な感慨があった。

「ドミナ……。地球からの船団に乗っていた自律種(インディペンデンツ)だったか」

 地球からノーマンズランドへと派遣された船団にいた、2人の自律種の1人。活発で快活な、まだ少女の面影が残るプラントだった。

 彼女から直接名前を聞いたことは無い。だが、彼女と融合したことによって、彼女の記憶は情報としてあの時に必要な分だけナイブズも共有した。

 本来ならあの時、ドミナの名前を知る必要などなかった。だが、初めて邂逅したヴァッシュ以外の、そしてこれから犠牲にしてしまう自律種の同胞の名前すら知らないことを、ナイブズの理性は許さなかった。

 そんな、どこか昔を懐かしむ風に、ナイブズはドミナという名前を口にした。途端、アイーダの褐色の肌が、烈火の如く変色したように錯覚した。

 それほどまでに、アイーダは激怒した。

「私が生まれてから、あの日まで……ずっと一緒にいてくれた!」

「………………そうか」

 アイーダの炎のような怒りに、ナイブズは瞑目して己の心や魂が焼かれるのを受け入れるしかなかった。

 全ては同胞の為にと、始めたことだった。

 他のプラントとの融合も、人間の駆除も、地球からの船団との対決も――彼女の自我が崩壊することを承知の上で、ドミナと融合したことも。

 だが、その結果は、こうだ。

 同胞に畏れられ、怒りを向けられ、その根源となる悲しみを生み出してしまった。アイーダがナイブズへ憎しみを懐いていないことは、僥倖と言う他ない。

 恐らく、ナイブズの行動に感謝の念を懐いている者は、人類は元よりプラントにさえも誰一人としているまい。

 全ては無意味だったのか? 同胞を、生まれながらの隷属から解き放とうとしたことは、全てが間違っていたのか?

 この俺の、怒り、悲しみ、憎しみ……何もかもが、過ちだったというのか?

 揺るぎなかった筈の、過去の自分自身。それが、今、何の力も加えられずに崩れ落ちて――

「私も知りたいわ、ナイブズ。どうして貴方は、そうしたの?」

 穏やかで優しげな声が、ナイブズを内面から現実へと引き戻した。この場にいるのは、ナイブズとアイーダの二者だけではない。

 傍らの超巨大プラント――グランドマザーは柔らかく微笑みながら、ナイブズを見詰めていた。見返して、怪訝に思うよりも先に安心を感じていたことに、ナイブズは気付かず、疑問を懐く。

 アイーダとの話を聞いていたのに、何故、グランドマザーは微笑んでいるのだろう。考えた所で分かるはずもない。或いはもっと共鳴すれば分かるかもしれないが、それは手段として間違っていると、そんな気がする。

 グランドマザーも、そしてアイーダも、ナイブズが話し出すのを待っている。

 ノーマンズランドの歴史の真実とも言える、ミリオンズ・ナイブズの全ての始まりを。

 ナイブズは瞼を閉じ、一つ一つのことを思い出しながら、ゆっくりと語り始めた。

「今から150年ほど前、俺とヴァッシュはPROJECT SEEDSの船団の一つで生まれた。それを当直の乗組員が見つけて、育ててくれた。レム・セイブレム、俺とヴァッシュの名付け親であり、育ての親であり……俺達を初めて愛してくれた、俺達が初めて愛した人間だった」

 人間に対して愛を口にすることに、些かの躊躇いも無い。その相手がレム・セイブレムならば。

「嘘……人間に育てられて、愛されて、愛してたって……」

「これでも君ぐらいの頃は、人間と一緒に生きていく未来を純粋に夢見て、新天地で冷凍睡眠から覚めた人々との生活を楽しみにしていた。弟と、同じように」

 ナイブズが人間への愛を口にしたことに、アイーダは瞠目し狼狽さえしていた。ナイブズの過去を調べていれば、当然の反応だろう。そのことを承知した上で、更に幼少期の自分の想いを付け加えた。これにはいよいよアイーダも絶句してしまい、ぽかん、と口を開けて呆然とした様子だった。

 対照的に、ナイブズは表情どころか顔色を一つも変えていない。努めて冷静であろうとすることで、無表情になっていたのだ。

 それ程、これからナイブズが話そうとしていることは重大だった。しかも、ヴァッシュ以外を相手に話題に出すのも初めてなら、仔細を語って聞かせることさえ初めてなのだ。

 ミリオンズ・ナイブズの人間への憎悪の根源。それは、1人の少女が発端だった。

「………………テスラのことを、知るまでは」

「テスラ?」

 ナイブズがテスラの名を口にすると、アイーダが不思議そうに首を傾げた。グランドマザーは何も言わず、ただ静かに見守っている。

「俺たち兄弟よりも先に生まれていた自律種(インディペンデンツ)だ。もしも会えていたら、俺達にとって姉のような存在になっていたのかもしれない……。アイーダ、君にとってのドミナのように」

 アイーダがドミナのことを『ドミナ姉さん』と呼んでいたことを指して、テスラについて簡単に教える。

 正直な所、ナイブズがテスラ自身について知っていることはこの程度だ。もしかしたら、非常に強い感応能力を持っていたのではないかと思うこともあるのだが、もう確かめようの無いことだ。

「その人が、どうしたの?」

 テスラがどうなったのか。聞き返されて、ナイブズはすぐに答えようと思った。テスラの“あの姿”を忘れる事などあり得ない。そこに至る過程も含めて。だが、どうしたことか。うまく、言葉が見つからない。

 事細かに伝えることは簡単だ。テスラの研究レポートの内容を暗誦し、最後にテスラのあの姿を補足する、それだけのことだ。

 しかし、言えなかった。

 テスラの最期をアイーダに教えることが、どうしてもできない。

「………………………………君に言えるような、最期ではなかった」

 漸く絞り出せたのは、何かが伝わるとは到底思えない、陳腐な誤魔化しだった。

 きっと、一言でも口に出したら止まらなくなる。

 あの時の感情が――人間への果てしない憎悪と憤怒、テスラへの悲しみ、そしてナイブズの狂気が、一息に溢れだす。

 そんなものを、未だ幼い同胞が受け止めることができるとは思えない。なにより、人間の狂気と外道を知らない同胞に、敢えてそのことを伝えるのも憚られた。

 アイーダはどういうことなのと言いたげな表情で首を傾げている。それを分かっていても、ナイブズにはこれ以上は何も言えそうになかった。

「……人間に殺されてしまったの?」

 澄んだ声が、頭上から響く。

 ナイブズはただ、無言で首肯した。

 アイーダの表情が、呆然から愕然へと変わるのに時間を要したのは、それだけ、彼女にとっては思いもよらないことだったのだろう。しかし、人間によって意図的にプラントの命が絶たれることは、決して珍しいことではない。その事実を知ったのは、ナイブズもごく最近のことだ。

 ラスト・ラン。生産能力の限界に近付いた末期のプラントを意図的に暴走させ、最期の大生産を行わせる。それが終われば、プラントは一気に肉体が崩壊し、死に至る。これほど残虐な行いを、自分達の生存のためであれば日常的に行える人間達が、ひとたび狂気に奔ればどうなるか。

 言うまでも無く、テスラの死は酸鼻を極めた。

 人間と変わらない姿のはずなのに、テスラは生まれた直後から実験動物として扱われた。

 檻のような狭い部屋に押し込められ、観察され、解析され、接続され、投与され、切開され、切除され、殺された。

「それが、貴方が人間を憎んだ理由なのね」

 グランドマザーの声には、憐みとは違う、深い悲しみが宿っていた。それがテスラへと向けられたものならば、彼女も少しは救われるだろうか。

 テスラの姿を――解剖され、実験標本のホルマリン漬けにされた亡骸を思い出す。

 あの悲劇こそが、全ての始まりだった。

「そうだ。あの日から、俺は……俺達は狂った」

 ――あの日から俺達は狂った……!!――

 ヴァッシュと対面し、テスラのことを口に出した時の、ヴァッシュの言葉が蘇る。

 今更ながら、本当に今更になって、正しく、あの時のヴァッシュの言葉は真理だったのだと痛感し、理解した。

 暴力の連鎖の無意味さ、虚しさ。

 人間と共に生きる中で理不尽な暴力に晒され続けて尚、ヴァッシュがあの言葉を紡いだことの意味に、何故気付けなかった。

 容易に暴力を撥ね退ける力を持ちながら、弱者(にんげん)を庇い守る為に暴力に耐え続けて来たあいつの心を、どうして察してやれなかった。

 今ならば分かる。本当の意味でテスラの悲劇を終わらせることのできる唯一の道は、ヴァッシュが選び、信じ続けた道だったのだと。

 アイーダはナイブズに何かを言おうとしているが、言葉が見つからないのか金魚のように口をパクパクとさせるだけだ。顔色も、怒り以外の様々な感情が綯い交ぜになってしまって、困惑と戸惑いばかりが見える。

 ナイブズは口を一文字結び、動かそうとしない。これ以上、自分に何かを語る資格があるとは思えなかった。

 このまま沈黙が続くかと思ったが、グランドマザーは違った。

「今度は、私にも話をさせてくれるかしら?」

「お婆様? 急にどうしたの?」

「アイーダこそ、どうしたの? ここに来た時の元気が無いようだけど」

 グランドマザーは変わらぬ態度のまま、アイーダに質問を返して答えに窮させた。ある程度はナイブズもアイーダの内心を察せているつもりだが、それをナイブズが言語化して明文化することは許されないような気がした。

 アイーダは何事かを言おうとしていたが、ナイブズの方をチラチラと見て口ごもり、ナイブズが視線を向けると顔を背けてしまった。

 随分と嫌われたものだが、これも自業自得か。

「それでしたら、我らが“火星の慈母(グランドマザー)”の物語を、(わたくし)に語らせて頂けないでしょうか?」

 出入り口から聞き覚えのある声が聞こえて振り返る。

 ナイブズさえも気付かない内に、店主がいた。それだけではない、その後ろにはシラヌイと、“車掌”と同じ制服を着こんだ二本足で立つ巨大な黒猫――この気配はカサノヴァだ――までいて、それぞれ人を連れていたのだ。

「灯里さん! アイちゃんまで!?」

 アイーダが驚き、その2人の名を呼ぶ。灯里の腕の中で「にゅっ!」と抗議するような声が聞こえたが、今はどうでもいい。灯里は当然として、アイーダとアイが知り合いだったことに驚く。一体どのような接点があったというのだ。

 当の灯里とアイは、アイーダに名を呼ばれても呆然とした様子で、グランドマザーを見ている。

「久し振りね、アマテラス、猫妖精(ケット・シー)。また会えただけでも嬉しいのに、こんなに可愛らしいお客さんまで連れて来てくれるなんて」

 シラヌイとカサノヴァを見て、グランドマザーはそれぞれを別の名で呼んだ。

 ケット・シーは分かる。猫の国の王とも呼ばれる、ネオ・ヴェネツィアの守り神とされている猫の妖精のことだ。ケット・シーの昔話を聞いて以来、カサノヴァの正体の有力候補として記憶に留めていたが、どうやらその推理は正鵠を射ていたようだ。

 一方、アマテラスとはなんだろうか。海女人屋の老婆がアマ公と呼んでいたということは、それがシラヌイの本名ということなのか。

 少なくとも2人とも、グランドマザーとは旧知であるようだ。名を呼ばれると、ケット・シーは恭しくお辞儀して、アマテラスはアイを背に乗せたまま大きく吠えた。

 色々と考えていると、店主がナイブズ達の近くまで来て、グランドマザーに対して深々と頭を下げた。

「火星の慈母におかれましては、ご機嫌麗しく」

「あなたも、久し振りね。お父さんは元気?」

「父は既に逝きました。代わって私が跡を継ぐべく、精進しております」

 やはり知り合いだったかと思うと同時、店主が亡父から何を継ごうとしているのかと首を傾げる。ナイブズが知る限り、店主は情報端末に文字や画像の記録をしてばかりで、特に何かをしているようには思えなかったのだ。

「にゅっ」

「ええ、こんばんは」

 何時の間にか灯里の腕から降りて来たアリアが一声鳴くと、グランドマザーは挨拶を返した。火星猫には人並みの知能と感情があるらしいから、鳴き声が言語である可能性もあるのか、などと取りとめもない考えが浮かぶ。

 そんなことを考えている内に、まだ呆然としている2人にアイーダが近付いて話し掛けた。

「灯里さん、アイちゃん、どうしてここに?」

「私たち、アリア社長のお誘いで、銀河鉄道に乗せてもらったの……」

「そうしたら、龍宮城に来ちゃったの……」

 灯里とアイは夢心地といった様子で、返事の調子までぼんやりしている。

 その後も問答は続いたが、2人の調子は変わらず。アイーダは心配してしまって、オロオロし始めた。

 見かねて、ナイブズは黙って2人に近寄った。

「ぴかりちゃんは、龍神様に呼ばれて……」

「しゃんとしろ」

 言うと同時、2人の目の前で手を叩き、破裂音で聴覚を刺激した。

「はひっ!?」

「び、びっくりしたぁ……」

 まるで眠りから目覚めたように、漸く2人の意識は明確に覚醒した。そうしたら2人揃って今更周囲の状況を正確に認識して騒ぎ始めたが、こっちの方がらしいだろうと納得する。

 それを見計らって、静粛を求めて小さく咳払いをしてから、普段とは異なる仰々しい語り口で、店主が昔語りを始めた。

「さて皆様方、これよりお話し致しますは、こちらにおわす我らが『火星の慈母』と呼び称せし御方の物語に御座います。宜しければ、ご静聴を願います」

 請われるまでも無く、ナイブズはグランドマザーの物語を傾聴する。

 遥か彼方の水の星で出会えた、先達と呼ぶべき同胞の半生が、今語られる。

 

 

 むかしむかし、今からずっと昔。

 水の惑星アクアは、今よりずっと寒く、空気も無く、水さえも一滴も無い、生き物はコケぐらいの、火星と呼ばれるとてもとても寂しい赤い惑星でした。

 ある時、英知の結晶を携えた人類が降り立ち、火星の極点の氷を融解させて沢山の水を作ったり、星を温めたりして、少しずつ、少しずつ、火星をたくさんの生き物が生きられる地球のような星にしようとしました。

 しかし、空気を作った後の段階で大きな壁にぶつかりました。

 どうしても、どうやっても、火星の大地に生命が根付かない、息づかない。

 火星の大地に植えた植物は実を結べず、花も咲かさず枯れてしまう。大地を耕すミミズ達も月が巡るよりも早く死んでしまいます。

 何故? どうして? なんで?

 世界中の学識者達が色んな場所で毎日議論を重ねても答えは導き出されず、火星を第二の地球にするという彼らの夢は、儚く潰えるものと思われました。

 そんなある時、1人の科学者があることを提言しました。

 最初は荒唐無稽な机上の空論と誰もが鼻で笑いましたが、彼の熱意に次第に多くの人が心を動かされ、それが実行に移されました。

 その結果が、命溢れる水の惑星、アクアなのです。

 では、アクアの礎となった、科学者たちのしたこととは何か?

 それこそが、火星の慈母と呼ばれる“彼女”の物語なのです。

 

 

「さて、ここで一つ質問しましょう。灯里さん、彼女がどういう存在かは御存知ですか?」

「はひ!?」

 店主は昔語りを中断すると、唐突にグランドマザーを指して灯里へと質問した。灯里は暫しの黙考を挟んでから、躊躇いがちに口を開いた。

「えっと……プラント、ですよね? こんなに大きいプラントを見たのは、生まれて初めて……」

 答えながらグランドマザーを見て、その大きさと姿に圧倒されたのか、言葉が途絶えた。

 店主は頷いて、今度はアイに質問をする。

「では、アイさん。そのプラントの持つ能力はご存知ですか?」

「えっと……ごはんとか、着る物とか、電気とか、色んな物を作ってくれてます」

「両者正解です」

 2人の答えを聞いた店主は大げさなぐらい満足げに頷いて、「しかし」と翻す。

「それ以外の能力を有する、特別なプラントも存在します」

「ジオ・プラント」

「ご明察。流石はミリオンズ・ナイブズ」

 謎掛けにもならない愚問を、問われる前に即答する。

 店主は不快そうな表情など寸毫も見せず、むしろ嬉しげにナイブズの答えを歓迎していた。相変わらずの調子だが、それがどうにも気に食わない。

 苛立ちや嫌悪とは違う苦手意識というものを、ナイブズはこの時になって漸く実感した。

「ジオ・プラント?」

 すると、ナイブズの答えを聞いてアイが不思議そうに首を傾げて、同じ言葉を繰り返した。

 ジオ・プラントは一般的なプラントとは一線を画す特殊な存在だ。一般市民の少女が知らなくとも不思議ではない。隣の灯里は、聞き覚えはあるが説明できるほど詳しく知らない、といった様子だ。

「アイーダさん、説明できますか?」

 店主に振られて、アイーダは一瞬、ビクリと体を震わせた。すっかり聞き手に回っていて、自分に説明役が回って来るとは思っていなかったのだろう。

 アイーダは目を閉じて数度深呼吸をしてから、アイと灯里にジオ・プラントについて簡単な説明を始めた。

「ジオ・プラントは、土地に生命力を与える特殊なプラントなの。例えば、砂漠のような不毛の土地にも、草木が生い茂ることが出来るようにするの」

「ほへ~……プラントって凄いんだぁ」

「アイーダちゃんって、物知りなんだ」

「ううん。今のは、お姉ちゃんに教えてもらったことだから」

 言い終えて、感心しきりの灯里とアイとは対照的に、アイーダの表情が僅かに曇り、ナイブズはかける言葉が見つからず、ただ目を伏せるしかできない。

 自分が彼女にとってどれだけ酷いことをしたのか、悔やんでも悔やみきれない。

 そんなナイブズとアイーダの内心を知ってか知らずか――十中八九、気付いているだろうが――店主は先程までと変わらぬ調子で、昔語りを再開した。

「さぁ、お分かりいただけましたか? 火星の慈母が何者なのか」

「……火星を、生き物が住めるようにしてくれた人?」

 灯里の返事に、店主のみならず、アマテラスとケット・シーも然りとばかりに頷く。いずれも、まるで昔を懐かしむような表情だった。

「その通り。火星の慈母の御力によって、火星の海と大地に生命の力が宿り、火星は今日のアクアとなったのです。とはいえ、火星の慈母の他にもジオ・プラントは多数配置されましたが」

 そう言われて、ふと思い付き、膝を着いて地面に触れる。そして、何故ここに彼女が配置されたかを理解した。

 ここは、火星のほぼ全域に影響を波及させる龍脈の起点の一つなのだ。

 ジオ・プラントといっても万能ではなく、限られた閉鎖空間ならともかく、広大な土地、それも惑星全体に力を注ぐとなれば、どこに配置してもいいというものではない。力の流れを伝えるのに最適のポイントを吟味する必要がある。それがここだったのだ。

 龍脈に沿えば、ジオ・プラントの“持って来た”生命エネルギーを最小限のロスで長距離に及んで発散させることができる。それがこれほど大規模なものであれば、たとえ不便な海の底であろうと超大型ジオ・プラントを配置したことも頷ける。

「誰も、おばあさんを迎えに来なかったんですか?」

 唐突に、アイが核心となることを、とても不思議そうな顔をして無邪気に訊ねた。

 グランドマザーは、少し寂しそうに首肯した。誰も来なかったよ、と。

 何故、どうして迎えに来なかったのだと言い掛けて、ナイブズはあることに気付いた。自分が彼女と直に対面するまで、その気配も力も感じられなかったという事実に。

「そのことと、火星開拓史からプラントに関する記述が一部抹消されていることは関係があるのか?」

 今、彼女は力を使っていないし、火星には他にプラントが存在していない。まるで不要になったプラントを切り捨てたようにも思えるが、それは違うだろうという思いもあった。

 プラントの存在が完全に記録から抹消されている訳ではないし、何より、ナイブズにはグランドマザーが置き去りにされてしまった理由に僅かながら心当たりがあったのだ。

 ナイブズからの問いを受けて、店主は大きく頷いた。

「ご存知の通り、火星には2つの世界が御座います。人々の暮らす表側と、摩訶不思議なものたちが暮らす裏側と。彼女は、その裏側の世界の、最初の住人になってしまったのです」

「きっと、みんなから見たら、私が急にいなくなったみたいに見えたでしょうね」

 アイーダや灯里とアイが驚いているのとは対照的に、ナイブズはその答えに納得した。

 表側と裏側では、プラントの感応能力さえも断絶してしまう。そのことはつい先日、ナイブズ自身が体験している。

 身動きのできないグランドマザーが、何故、どうして、裏側の世界に迷い込んでしまったのかは分からないが、それは今重要なことではない。

「超大型プラントの原因不明の消失事件。これに大きく混乱した火星開拓団は、火星環境が既に安定の兆候を見せていたことから、連続発生を恐れ、逐次プラントを回収し引き揚げてしまいました。また、これだけの不祥事を世間に公表することもできず、苦肉の策としてその辺りのデータを紛失したことにして、事実から目を背けることにしたのでした。世の人々も火星開拓の黎明期、そういう混乱や不手際もあるだろうと渋々ながらも納得しました」

 プラントに関する開拓期のデータが隠蔽されている理由も明かされたが、なんともはや、急に俗っぽい現実らしい話になったものだ。彼女が裏側の世界の住人になったことについて、あれこれと空想めいた思考を繰り広げていた自分が、馬鹿馬鹿しく思えた。

 それだけ、自分でも気付かない内にこの星らしい考え方が染みついていたのだろうと、店主の解説を聞いてがっかりしたような表情を浮かべている灯里を見て思った。

「けど、私たち……地球のプラントの間では、お婆様のお話が、今でも語り継がれてる」

「海の慈母がこちらにいらしてから暫くは、同胞の方々によって捜索されていたからでしょうな」

 アイーダがぽつりと呟いた疑問に、別の誰かが答えた。

 ナイブズ達が入って来た所とは別の入り口から、人間の少女を連れた男が入って来ていた。いかにも偉そうな出で立ちの、高貴な雰囲気を纏った男だ。頭から髪と一緒に魚の背鰭のようなものが生えているから、海の國の住人であることは間違いあるまい。

「龍王様。お懐かしゅう御座います」

 そう言って、店主は恭しく頭を下げた。続いて、ケット・シーが親しく礼をして、アマテラスが一声吠えると、今度は龍王の方が畏まった。

「おお、我らが天と海の慈母よ、親愛なる猫の國の王よ。御許らが揃うこの日この場所に共に居られること、光栄に存じます」

 龍王は最上の敬意を、言葉と動作で表した。この城の主であろう男でさえも、平身低頭で以って接するだけの大物たちということなのだろう。

「おじさん、だぁれ?」

 物怖じせず、アイが龍王に尋ねた。相手が王ともなれば一般庶民はそれだけで畏まりそうなものだが、子供には通用しない理屈らしい。

「申し遅れました。私はこの龍宮城の主、龍王のスミノエと申します。そしてこちらは、私の旧友の孫娘です」

 龍王スミノエは懇切丁寧に、自分だけでなく連れている少女についても紹介した。紹介されて、ナイブズは漸く少女に見覚えがあることに気付いた。海女人屋にいた、ぴかりと呼ばれていた少女だ。

 少女はグランドマザーの姿を見上げて、ぽかん、と口を開けている。驚きのあまり、言葉も何も出て来ないとばかりだ。

 すると、スミノエからの紹介を聞いて、グランドマザーは少女に話し掛けた。

「あなた、きのちゃんのお孫さんなの?」

「はひっ!? 私は、ばーちゃんの孫です!」

 話し掛けられて余ほど驚いているのか、少女は素っ頓狂な声で返事をして、少し変な言い方で答えてしまった。言ってすぐに気恥しそうにしている辺り、灯里と違って自覚もあるしそういうことへの羞恥心もあるようだ。

 そんなことを考えている内に、ナイブズは少女“ぴかり”の祖母“きのちゃん”が、グランドマザーと知己の間柄であると語っていたことを思い出した。老婆が海の中で出会った龍神というのも、スミノエのことだったのだろう。

 到底信じられないと思っていた昔話の中に自分が放り込まれていると、今の今まで気付かなかった。

 ナイブズが衝撃を受けている間に少女が落ち着き、店主は昔話の続きをまた語り始めた。

「行方不明となり、資料が紛失され、時の経過と共に彼女のことを忘れたものが多かったのも事実です。しかし、彼女のことを忘れず、感謝の念を懐く者も少なからずいました。何故かと言えば、それこそ我が父の仕業で御座います」

「貴様の父だと?」

 唐突に現れた新たな登場人物に、つい聞き返してしまう。

 そういうことならば、店主が色々と詳しいことにも、境に住んでいることにも納得がいく。だが、どう考えても年代がおかしい。

 マーズ・テラ・フォーミングが完了し火星がアクアとなったのは、いまから350年以上も昔の話だ。祖先ならともかく、店主の父がそんな時代にいるはずがない。

 しかし店主は、さも当然のように首肯する。

「私の父は、彼女の存在を決して忘れさせまいと、彼女の物語を作ったのです。不毛の大地に最初に降り立った、新たな世界を拓いてくれた、一番大きな人造の天使(プラント)の物語を、御伽噺のように仕立てて」

「その御方は火星中を練り歩きながら、百年以上の間、火星の慈母の物語を火星の人々に伝えて歩いたと言います」

「うちの一族の大師、先の天道太子様も旅路を共にしていたらしいです」

 店主が言葉を切ってすぐ、その続きが付け加えられた。スミノエの後からやって来た紅祢と丈だ。

 付け加えられた内容のある一言に、ナイブズは自分の耳を疑った。

「……あれ? お爺さんのお父さんは、百年も生きてたんですか?」

 同様の疑問を持った灯里が、屈託なく店主へと問う。

「うん。長生きの秘密は、内緒だ」

「え~」

 店主はあっさりと肯定したが、詳細は伏せた。質問には遠回りでも全て答えていたこの男にしては珍しい。少女達は不満げな声を漏らしていたが、ナイブズはそれどころではなく、衝撃に打ちのめされていた。

 ただの人間としか思っていなかった、人間としか思えなかったこの男も、百年を超えて生きる人に似た何者かだったというのか? 砂の星で聞き慣れた金属音が一度も聞こえなかったのだから、サイボーグということもあるまい。いや、或いはミカエルの眼の改造手術のように、細胞レベルに至る生体手術での延命が可能になったということも――?

 ナイブズは珍しく混乱し纏まらない思考を繰り返したが、そんなことはお構いなしに、店主は話を続ける。

「その物語によって、人々は人間以外の“なにものか”へと感謝する、ということを思い出しました。火星が地球の文化の保存の為に、古き良き時代を模そうとしていたことも幸いしたのでしょう」

「そのお陰で、地球で滅びようとしていた我々も、今こうして火星で暮らせております。海の慈母への感謝の念は、絶えることはありません」

 店主の言に、スミノエがそのような言葉を付け加え、ケット・シーも、こくり、と頷いた。

 どういう事情があるのかは分からないが、どうやらスミノエ達はグランドマザーのお陰で火星に移り住み、滅亡を回避できたらしい。

「……だからか。お前達が、俺を賓客扱いしていたのは」

 答えの分からない難問よりも、答えの見えた予てからの疑問に思考を優先して、ナイブズはスミノエとケット・シーを問い質した。2人は何も言わず、ただ小さく頷いた。

 質問の意図が分からない少女達は顔に疑問符を浮かべている。アイーダもナイブズがここに来た当初のことを知らなければ、この質問の意図するところは読み取れないだろう。

 これで漸く合点が行ったと、ナイブズは大きく溜息を吐いた。

 着の身着のままの得体の知れない風来坊を、猫の國と海の國が賓客として迎え入れた理由。それは、ナイブズがグランドマザーの眷属だったからに他ならない。

 まさか自分が、同胞の威光に守られていたとはと一瞬考えたが、ふと、懐にある切符のことを思い出した。

 自分は最初から、同胞達に守られていたのかもしれない。

 そのことに今まで思い至ることが出来なかったのは、己のみが超越者であるという自覚……否、驕りゆえか。

「とはいえ、先の天道太子と我が父が逝去してからは、彼女の物語を知る者は次第に減って行きました」

「おじいさんは継げなかったんですか?」

「これは手厳しい。しかし、私だけでは無理だったのです」

「天道太子の筆業……“筆しらべ”なくして、物語を伝えることはできなかったのです。先代の絵が悉く行方不明となってしまった上に、天道太子の後継者も途絶えてしまっていましたから」

 ナイブズが物思いに耽っている間も、灯里を中心に少女達が店主や天道兄妹に色々と問い掛けている。

 子供の好奇心には底が無く、留まる所さえ知らず、矢継ぎ早に質問を投げかけ。それが一度収まれば、目をキラキラと輝かせながら店主とグランドマザー自身が語る物語に耳を傾けている。そして、また新たな質問を投げかけてを繰り返していく。

 そんな様子を、アマテラスとケット・シーとスミノエは、慈しみ愛おしむように見守っている。

 ナイブズよりも長く、ひっそりと人に寄り添い、共に生きて来た人外のもの達。彼らはその歳月で何を想い、何を見て来たのだろう。そんなことを考えている内に、あることを閃いた。

 もしかしたら、彼らなら分かるのではないだろうか。

 人と人ではないものが、共に生きることの意味を。

「えっと……いいですか?」

 ナイブズがケット・シーたちの方へと移動を始めた、調度その時に、ぴかりという少女がおずおずと手を挙げた。グランドマザーの物語も一通り語り終わって、質疑応答を始めたようだ。

「いいわよ」

「どうぞ」

 グランドマザーと店主に促され、少女は緊張しているのか数度の深呼吸をしてから、グランドマザーへと問い掛けた。

「あなたが、ばーちゃんの言ってたグランマさんですか?」

「ええ、そうよ。きののお孫さん、あなたのお名前は?」

「小日向光です! みんなからは、ぴかりって呼ばれています!」

「私は水無灯里! ネオ・ヴェネツィアのARIAカンパニーで水先案内人をしています!」

「ぷいにゅ!」

「アイです! 地球から遊びに来ました!」

 ぴかりと呼ばれていた少女――光の自己紹介に、何故か灯里とアイまで便乗した。アリアも一声鳴いていたが、些細なことだろう。

「どうしてお前達まで名乗った?」

「えっと、私達も自己紹介がまだだったな~って」

「にゅ」

 何とはなしに灯里に尋ねたが、深い意味は無かったようだ。そして一緒に返事をしたことから察するに、どうやらアリアが先程鳴いたのは、自己紹介のつもりだったらしい。

 一方、グランドマザーは灯里の自己紹介を聴いて、何か気になる所があるようだ。

「ARIAカンパニーって、もしかして秋乃の会社の子かしら?」

「ええ!? グランマを知ってるんですか?!」

「灯里さん、この人、ぴかりさんにもグランマって呼ばれてたよ」

 そういえば、海女人屋の老婆――小日向きのという名なのだろう――は、秋乃とは幼馴染だと言っていたし、グランドマザーについても知己の間柄であることを伺わせることを言っていた。

 そのことを思い出すと同時、あの場で灯里が天地秋乃の名を覚えておいたのは都合が良かったな、などと考える。

「あなたは、秋乃とはどういう関係なの?」

「グランマ……秋乃さんの教え子の、アリシアさんの弟子です」

「じゃあ、秋乃の孫弟子ということね」

 灯里からの返事を聞いて、グランドマザーは一度言葉を切り、光と灯里を交互に見比べた。

 光はともかく、灯里に在りし日の秋乃の面影などあるはずもない。それでも、想い起させるには充分なのだろう。

「懐かしいわぁ。あの子達とは、こっちとあっちの繋がりが途切れてしまう少し前に会ったの。私ってば、こんな所にいるから世間知らずでね。きのと秋乃には、色んな事をいっぱい教えてもらったわ」

「ふわぁー……!」

 異口同音とは、まさにこの事。

 灯里と光は、言葉にならない感嘆の声を、全く同時に、全く同じ声色で、全く同じ長さで口から漏らしたのだ。眼に宿る輝きも、いずれ劣らず遜色無しだ。

 どうやらこの2人、名前だけでなく感性など色々と似通っているらしい。

 そんな2人の様子を見て、当人達とナイブズ以外の全員が微笑みを浮かべて、それに気付いて本人達は顔を真っ赤にして恥ずかしがった。今度の仕草は違ったが、やはりタイミングだけは一緒で、皆は更に笑顔になった。人とは顔の作りが違うケット・シーとアマテラスも同様で、仏頂面をしているのはナイブズぐらいのものだ。

「お婆様、とっても楽しそう」

 アイーダの言葉を、ナイブズも無言で力強く首肯する。今日一番、グランドマザーが楽しんでいるということが、プラントの感応力に頼らずとも良く分かった。

「うん、楽しいわ。こうしてお喋りするの、とっても久し振りだから。……ああ、そうだわ」

 すると、何かを思い出したのか、グランドマザーは右手を開いて差し出して来た。

 グランドマザーの巨躯だから、手の大きさは人間が容易に乗れるほどだ。そんな大きな掌の上に、小さな赤い花が、ぽつん、と置かれていた。

「ナイブズ。この薔薇、覚えている?」

 その花は、赤い薔薇だった。別段小さな花ではないのだが、掌との対比で実際よりも遥かに小さく見えてしまっていた。それはそれとして、問われてナイブズは首を傾げた。自分に花との接点などあっただろうかと。

 すると、別の所から声が上がった。

「もしかして、ボッコロの日の薔薇ですか!?」

 灯里に言われて、ナイブズはその日のことを思い出した。そして、驚愕に目を瞠った。

 あの時の薔薇が、何故、どうしてここに。

 今までの話を聞く限り、彼女の下にあの薔薇が届くことなどあり得ないはずなのに。

「あなたのプラントの力……ううん。あなたの想いが宿っていたからかしら? ネオ・ヴェネツィアのボッコロの日の夜、ここに流れ着いて来たの」

「……そんな、大したものじゃない。ただ、気紛れで捨てたも同然だ」

 グランドマザーに言われて、ナイブズは何故か委縮するような気持ちで答えていた。そんな大層な気持ちなど、込めていたとはとても思えない。

「本当に?」

「えー……ナイブズさん、捨てちゃったんですか?」

「綺麗なお花なのに……」

 捨てたという言い方が拙かったのか、グランドマザーに強めの口調で問い詰められ、灯里とアイにも抗議の声を上げられた。

 何故だかとても気まずくて、ナイブズはあの時のことを克明に思い出し、適当な言葉を繕おうと、非常にゆっくりとした調子で口を動かす。

「………………誰かに届くか、誰にも拾われず朽ち果てるか、どうなるかとは思っていた」

「なぁんだ。それじゃあ、誰かに届くといいなあって思ってたってことじゃないですか」

 言うや否や、思わぬ所から意外な解釈が飛び出て来た。

 その声の主は、小日向光。

 思いがけない言葉に、つい聞き返してしまう。

「そう、なのか?」

「そうですよっ。ほら、こうやって、誰かに届いたんですから」

 光の意見に賛同した灯里が、現在の状況で以って光の理論を後押しした。

 あの時、俺は心のどこかで、誰かに花を届けたいと、誰かと繋がりたいと、そんなことを思っていたというのか?

 あの時は、自分が人に共感していたという事実だけが頭の中を占めていて、それ以外の些細な感情の機微など覚えていない。だが、今こうして、ボッコロの日の薔薇がグランドマザーの元に届いている。そして少女達もグランドマザーから薔薇を受け取って、手に取ってそれを見ている。

 そのことを拒む感情は、今の自分にはない。

「……そうか」

 ならばきっと、そういうことだったのだろう。仮に違ったとしても、それでいい。

 過去があやふやなら、今決めつけてしまえばいい。

 少なくとも今は、これでいいのだ。

「アイーダ。今のナイブズをどう思う?」

 薔薇を繁々と眺めていたアイーダに、グランドマザーが静かに呼び掛ける。アイーダは薔薇とナイブズを何度も見比べて、何かを考えているのか、うんうん、と頻りに頷いて、遂に答えを出した。

「…………やっぱり、全然違う。私が聞いて、調べた、ミリオンズ・ナイブズと、全然違う!」

 あまりにも予想外の言葉に、ナイブズは今まで誰も見たことが無いような、素っ頓狂な顔になっていた。それだけ、アイーダに拒絶されなかったことが意外だったのだ。

「ほへ? どういうことですか?」

 ナイブズとアイーダの因縁や事情を一切知らない灯里が、気の抜ける声と表情とで訊ねて来たので、ナイブズも釣られて脱力した。これからアイーダと話して、詳細を確かめればいい。

 それに、今の自分が昔と違う理由については、分かり切っていることだ。

「昔と比べて、俺は随分と変わったらしい。お人好しで大馬鹿の、弟のお陰で」

「ナイブズさん、弟がいたんだ」

「ちなみに、今、水先案内人の間で流行している『平和主義者のガンマン』のお話の主人公が、その弟さんですよ」

 ナイブズの答えが余程意外だったのか、大袈裟なぐらい驚いたような反応を見せたアイに、店主がさらりと付け加えた。

 店主にも弟がいることはおろか、ヴァッシュのことを話したことは無い。だというのに、この男は然も当たり前のようにヴァッシュのことを言ってみせた。

 いつ、どこで、どうやってヴァッシュのことを知りえたというのか。幾つか予測はつくが、正直それ程興味は無い。寧ろ、知っていてもおかしくは無いだろうと思えた。

 それよりも、今気になったのはある単語だ。

「…………流行だと?」

 ナイブズがあの話をしたのは、あゆみとその友人の杏とアトラの3人だけだ。流行と呼ばれるほど、あの話を吹聴して回った覚えは無い。何をどうしたらあの話が流行するというのだ。

「女三人姦しく、女性は噂好きで、少年少女はこの手の伝説や物語に惹かれるものだよ」

 言われて、すぐに納得した。発信源はナイブズ以外にいたのだ。

 思い返してみれば、あゆみは迷宮で再会した日の時点で既に杏とアトラに話していた。ならば、彼女達が他の水先案内人に話して、話を聞いた水先案内人がまた別の水先案内人へと話して、そういうことを繰り返して広まっていったことは、容易に想像できる。

 あいつは、こんな所でも、話の中だけでさえも。気付かない内に、いつの間にか人々の輪の中に溶け込んでいく。ヴァッシュ・ザ・スタンピードらしいと、それでこそヴァッシュ・ザ・スタンピードだと、妙に納得してしまう。

 ふと、自分に向けられる好奇の視線に気付いた。視線の主は、4人の少女達。

「……何だ、その目は」

「聞かせて下さい!」

 何を、とは、言うまでも、聞くまでもない。どうやら、灯里達の好奇心の琴線に触れてしまったらしい。

 しかし今は、ナイブズの方がこの場にいるものたちに訊きたいことが山のようにある。さて、どうやってやり過ごそうかと思案する。

「話が長くなりそうですな。では、食事などを準備させましょう」

「紅祢、お前はこれから語られる物語を絵にしてみなさい」

「ええ!? わ、私はその人の名も顔も知らないのですが……」

「これも修行と思いなさい」

 思案する暇さえ与えられず、ナイブズが平和主義者のガンマンの話をする方向で、事が進んでしまっている。

「俺の方こそ、聞きたいことは山ほどあると言うのに……」

 有無を言わさぬ状況につい毒づくが、不思議と、文面そのままのような不快感は無かった。

 これを文字通りに受け取ったのか、灯里と光は苦笑いを浮かべている。アイは気にした様子など微塵も見せずアマテラスと戯れている。アイーダは、ナイブズに歩み寄って、他の誰にも聞こえないような小さな声で囁いた。

「聞かせてくれますか? ヴァッシュ・ザ・スタンピードの……人間台風(ヒューマノイド・タイフーン)と呼ばれている、あの人の話を」

 アイーダからのお願いを聞いて、アイーダはナイブズのことだけでなくノーマンズランドのことを知りたがっているのだと気付いた。ナイブズに対する態度の変化も、それに関係があるのかもしれない。

 こうなっては、ナイブズには断るという選択肢は無い。溜息を一つ吐いて、周りを見渡す。

 店主はこうなることを予期していたような、そんな含みを窺わせる顔をしていた。店主の狙い通りに、少女達に振り回されているのだ。

 目的は分からないし、この状況もそれほど不快ではないが、いつも以上の見透かしたような態度に少しの腹立たしさも無いわけではない。

「終わったら、今度は俺の方から根掘り葉掘り問い詰めさせてもらうぞ」

 承諾すると同時に、代わりとしてグランドマザー達との話の続きを約束させる。少女達は大喜びしているのだ、店主もナイブズの要請を断ることは出来ない。

 店主は意外そうな表情を見せたが、すぐにケット・シーやグランドマザーと同じく何事かを喜んでいるような表情へと変わった。

 悠久の歳月を過ごしたつもりでいたが、この星では、まだまだ自分も若輩者なのだと痛感した。

 そんな感傷も、すぐに消え去る。

 今胸中を占めるのは、赤いコートを身に纏って『誰もいない大地(ノーマンズランド)』の荒野に立つ、ラブ&ピースを唱え続けた稀代の大馬鹿の姿のみ。

 ヴァッシュ・ザ・スタンピードの物語を、ミリオンズ・ナイブズは水の惑星の住人達に三度語る。


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