深紅の外套を翻し、砂塵の荒野のみが広がる大地を、彼は駆け続けた。
彼は、血と怨嗟が渦巻き、硝煙が燻ぶる、人の心すらも乾いた暴力の世界で、ラブ&ピースを唱え続けた。
彼は、暴力を振るう誰をも凌駕する力を持ちながら、その力を決して是とせず、己を強者と定義する世界の理に抗い続けた。
彼は、どれだけ己の肉体に傷跡が刻まれ血を流そうとも、誰かの涙を止めることだけを只管に願い、実行し続けた。
そんな彼の正体は、ただ一心に人を信じることのできる、底抜けにお人好しで呆れるぐらいに心優しい、稀代の大馬鹿者。
彼の名は、ヴァッシュ・ザ・スタンピード。
▽
「眠ってしまったね」
店主が口にした通り、ナイブズが語り終わると同時に、少女達はまるで糸が切れたように眠りに落ちた。
余程話がつまらなくて退屈だったのかと思ったが、先程までの昂揚した表情を思い返すに、そういうことではなさそうだ。
「物語を聞き終わって緊張の糸が切れて、眠くなっちゃったのかな」
ナイブズの疑問を見透かしたように、丈は少女達の寝顔を指してそう言った。そして言い終えるや、寝ている紅祢を起こさないように、そっと彼女が持っていた紙を手の内から引き抜き、ナイブズに差し出した。
「どうぞ、ナイブズさん。妹の筆使い、御覧下さい」
そういえば、話を始める前に『話を聞いてヴァッシュを書いてみろ』と無茶な課題を出していた。果たしてどんな人物が描き出されているのやらと、一切の期待を持たずに紙に目を落として、思わず言葉が漏れ出た。
「本当に、お前の妹はあいつを知らなかったのか?」
「そんなに似ていますか?」
「細かい所は違うが、似ている」
深紅のコートに箒のようなトンガリ頭。単純な単語の羅列から、よくもここまで似せたものだと感心する。拳銃の形状、義手や泣き黒子の有無、ピースサインが指を交差させていないなどの誤謬は、ナイブズが語りから省いた部分なので仕方あるまい。
なによりも一見すると能天気そうな満面の笑顔が、何とも言えずヴァッシュらしかった。顔貌が多少違っても、これだけでヴァッシュだと分かるほどに。
「ありがとうございます。妹の励みになります」
言って、丈は眠っている紅祢の髪を優しく撫でた。それに倣うように、アマテラスも紅祢の頬を舐めて、布団に寝かし付けるように背に乗せた。
丈に絵を返し、ぐるり、と自分を囲んだもの達を見渡す。
アマテラスは紅祢を背に乗せ、ケット・シーは灯里とアイを包み込むように抱き、スミノエは光に肩を貸し、各々が眠る少女達に寄り添っている。当たり前のように人と共に在る彼らの姿に、不自然さや不気味さの類は微塵も感じられない。寧ろ、調和していると表現すべきだろう。
アイーダがグランドマザーに見守られて店主の膝を枕に寝息を立てているのを見てから、ナイブズは自分を囲う者達に問いを投げ掛ける。
「今度は俺が聞かせてもらおう。我が弟の先達と呼ぶべき、悠久の歳月を人に寄り添い生きて来た人外の者たちよ」
そこで一度言葉を切り、各々と顔を突き合わせる。誰も何も言わず、ただ、どんな問いも受けようという意気だけは無言の内に伝わった。
しんと張りつめた空気を、ナイブズの鋭い声が切り裂く。
「お前達は、何故、人間と共に生きている? 何故、人間ではないのに、人間に似ている?」
ナイブズの質問、特に後半の内容が余程意外だったのか、全員が揃って鳩が豆鉄砲を喰らったような、特にアマテラスはぽあっとした表情になっている。
驚愕ではなく、呆気。皆一様に、何故そんなことを聞いて来るのかと、問いの答えよりも問いの内容に気を取られている。
「ナイブズ。あなたは、どうしてそんな疑問を持ったの?」
グランドマザーが、戸惑いながらナイブズの質問に疑問を投げかける。年長者として悠然としていた彼らが、初めてナイブズに見せた感情の揺らぎ。恐らく、ここまで全ては予定通り、想定の範囲内の事柄だったのだろう。
だが、ナイブズが彼らの内面を図りかねていたように、彼らもまたナイブズのうちに堆積し巨大な一つとなったものを看破できていなかったのだ。
それも必然。ナイブズ自身とて、それを明確な言語として形を認めたのが、たった今なのだから。
「プラントは……人と共に生きることに、意味や価値があるのか?」
現代文明の価値観を揺るがす爆弾発言。なにより、ナイブズの過去を知悉している店主とグランドマザーは、正しく瞠目していた。
もしもこの場にノーマンズランドの住人がいて、今のナイブズの言葉を聞いていたら、まず自分の正気を疑い、次に耳の不調を疑い、次に聴覚の狂いを疑い、次に脳の言語野の異常を疑い、次々と溢れ出る疑いの連鎖で気が狂ってしまうだろう。
「俺は、人間はプラントに依存しきった寄生虫にも等しい生物だと思っていた。だが、そうではないのだと、プラントの無いあの街で過ごして思い知らされた」
自分が口に出した言葉を自分で聞いて、一瞬、ナイブズは自分が狂ったのだと思ったが、すぐにそうではないと思い直す。
テスラを知ったあの日――150年前のあの日から、既にナイブズはどうしようもないほどに狂っているのだ。今更、狂いようが無いほどに。
「所詮、プラントも元を糺せば人の手によって作られた道具の一種だ。道具が一つ欠けたくらいで、人間社会の生活が不便になろうと、人間という種族の生存は脅かされない。俺が特別な存在だと思っていたプラントは、所詮その程度の存在でしかなかった」
自らの狂気を支えていた土台、ナイブズ独自の信仰とも呼ぶべき『プラントは優れた存在であり、人間はそれに依存し寄生している害獣』という思想。プラント崇拝派と呼ばれるそれを肯定する人間も少なからず存在した。ナイブズもそれに間違いは無いと信じていた。この星に来て、あの街で過ごすまでは。
ナイブズは自らの狂気の唯一の拠り所を、自らの思考で破却した。
ネオ・ヴェネツィアの街に、プラントは必要不可欠の存在ではなかった。ただ、よそにはこういう便利なものもあると、知識に留まる程度の存在なのだ。
では、その便利なプラントが存在しないことで、ネオ・ヴェネツィアは社会システムや人間の生存に著しい欠陥を抱えているか?
答えはノーだ。ネオ・ヴェネツィアの街は極めて穏やかで緩やかな時が流れ、文化的な生活が営まれている。
プラントが無くても社会は成立し人間は生存できる。ネオ・ヴェネツィアの歴史と存在はその何よりの証左だ。
ノーマンズランドでプラントが必要不可欠だったのは、単にあの星の環境が生物の生存にとって苛烈であったから。プラントに頼り縋らねば、原住生物の砂蟲以外のあらゆる生物の生存が不可能なほどに。
あの星への不時着が意図的ではなかったにせよ、ナイブズが導いた環境、ナイブズが強いた状況でプラントに縋って生き足掻く人間の姿に、ナイブズはこれこそ己の思想の正しさの証明と酔い痴れていたのだ。
それ見たことか、人間はプラントに群がり貪る醜悪な種族なのだ。自らの思想は正しかったのだと、誰よりもナイブズこそが陶酔していた。だからこそ俺は大墜落を実行したのだ、だからこそ俺は人を滅ぼすのだと、同胞にではなく自分にだけ誇っていた。
顧みれば自己陶酔と呼ぶことすらおこがましい、自己中心思想による陳腐な思い込みと思考の停止。過去の自分の根幹を成していたアイデンティティをそのように切って捨ててでも、今のナイブズは尚深く思い悩んでいた。
プラントは人間に作られた道具存在。だったら、どうして――
「どうして俺達は生まれた? どうして
ミリオンズ・ナイブズのアイデンティティではなく、プラント自律種 そのものの存在理由、或いは存在価値。
移民船団にいた頃は、思い悩むどころかそんな事を考えつくことすら無かった。
ノーマンズランドにいた頃は、この力を揮って人間を鏖殺し同胞を解き放つことこそが、自らの信仰にも見合った自律種の存在意義と信じて疑わなかった。
だが今は、全く分からない。何の見当もつかない。
プラントの機能や性質や用途など、様々な要素を突き合わせても、自律種が誕生する――或いは生産される――理由が何も見出せない。寧ろ人間はおろかプラントにとっても自律種の存在は不必要であり、生み出す必然性など無かったはずなのだ。
しかし現実には、ナイブズの他にもヴァッシュやテスラなど、何人もの自律種が生まれている。地球連邦全体では何百、もしかしたら何千何万と存在しているのかもしれない。
あれだけ確かだった自分の存在が、まるで不定形のアメーバにでもなってしまったよう。
それでも知りたかった、確かめたかった。自分達が生まれた意味を。その有無を。
ヴァッシュよりも長き時を人に寄り添い生き続けて来た、自律種とは異なる人外の者達。彼らならばこの疑問に答えをくれるのではないかと、ナイブズは期待した。
本当は誰かに打ち明けるつもりなどなかった。遠回しな質問をして自分自身でいつかケリを付ければいいと思っていた。だが、自我を持つ同胞と未だ幼き同胞。彼女達との出会いが、ナイブズを揺るがした。
プラントとして非常に稀有な存在――同胞にして先達たるグランドマザー。彼女とその理解者たちならば、答えをくれる可能性は大きいという期待。愚かな己を、昔とは違っていると受け入れてくれた幼き同胞の未来の為になればという淡い希望。それらの感情が、ナイブズを突き動かした。
問われたグランドマザー達は暫く思案気だったが、ふと何かに気付いたようだ。
「あなたはどう思う? アイーダ」
グランドマザーが呼びかけると、何時の間にか寝たふりをしていたアイーダがむくりと起き上った。
「起きていたのか」
「うん。プラントが人と一緒にいる意味は~ってところから」
悪戯っぽく笑いながら、悪びれた様子は一切無い。しかし、困惑も戸惑いも見られない。ナイブズの問いを聞き、理解した上で、この少女の瞳は迷いを映さない。
「私は、プラントが人間と仲良くなりたかったんだと思う。だって、人間と同じ姿なら人間と一緒にいやすいし、普通のプラントのみんなより、もっと仲良くなれると思うの」
揺らぎも迷いもない、真っ直ぐな声が、目が、言葉が、ナイブズを貫いた。
生態系や環境の連鎖が必然的に導く共生とは違う。理性と知性によって導き出される協調とも違う。
仲良くなりたい。一見単純なようで、理性や野生を超越した、両者の間の積み重ねがあって初めて誕生する、好意という感情の発露、その発展。
理屈でばかり考えて、プラントの感情を一切考慮していなかったナイブズは、アイーダの言葉に唖然とした。同時に、そうなのかもしれないと納得した。
プラントが自らの意志で自律種を生み出した。そこに合理性は無かったが、プラントが人間と仲良くなりたいという一心で生み出したのなら、なるほど、説明がつく。
理や利を一切伴わない行動の根源は感情にある。自分達兄弟を愛し育ててくれたレム。ラブ・アンド・ピースを唱え続けるヴァッシュの生き様。コンラッドが受け入れてくれた時に涙を流した幼き日のナイブズ。
ナイブズの脳裏をかすめる彼らの姿が、アイーダの考えを肯定する。
「私もそう思うよ。でなければ……いや、だからこそ、アイーダという特別な存在は生まれたのだから」
店主がアイーダの言葉を肯定すると同時に、そのようなことを言った。遠回しな表現で話し相手の興味を惹き、話に引き込む常套手段。
「どういうことだ?」
この場にいるのは自我を持ったプラント、プラント自律種、ケット・シー、海の國の王、天の慈母とも呼ばれる摩訶不思議な狼。誰も彼もが特殊で特異な存在だというのに、その中で尚、アイーダの何が特に別だというのか。
問いを返されて店主はいつものように何も言わずに頷いてから、アイーダに答えるよう促した。
アイーダも自覚している、彼女の特別さとは何なのか。
「私のお母さんは
ホワイトアウト。頭の中が真っ白になり、視界まで白く染まったような錯覚に陥る。
それほどの驚愕、それほどの衝撃。
アイーダがさらりと口に出した言葉は、ナイブズにとって予想も予測も予期も及ばないものだった。
「人間とプラントの、ハーフだと……!?」
「うん」
あっさりとした肯定。ナイブズの驚きようが余程おかしいのか、アイーダは笑みを浮かべている。それとも、自分の出自がそれ程誇らしいのか。
「人類とプラントの種族を超えた愛の結晶、相互理解の掛け橋、未来への希望。まだ公にはされていないが、知る人が皆そんな風に言うぐらい、アイーダは特別な子だ」
店主の澱みない補足。列挙される言葉からも推し測れる、人々とプラント達の期待、幼き同胞に託された未来への希望。数多の願いと祈り。
「………………………………そうか」
人とプラントの共存。人がプラントに依存する、プラントが人に酷使される、そんな光景ばかりを見て来たナイブズにとって、それは途方もない夢物語だと思っていた。だが、そうではなかった。人とプラントが本当の意味で共に生きていく未来への道筋は既に存在していたのだ。今、目の前に、夢と希望は確かに息づいているのだ。
「ありがとう」
唐突に、アイーダがナイブズにお礼を言って来た。なんら心当たりの無いナイブズは、ただ戸惑うばかり。
「なにがだ?」
あまりにも分からないものだから、眉を潜めて聞き返す。一体何に対して礼を言ったというのか。
「笑ってたから。私の事を喜んでくれたってことでしょ?」
微笑みを浮かべて告げられた言葉に、ナイブズはとっさに自分の口角に手を当てた。今更確かめても、驚いた拍子に下がっているのに決まっている。
笑っていた。その事自体は別段驚くことではない。ナイブズだって笑うことぐらいはある。但し、この150年、狂気以外の感情を発端に笑った覚えがない。
先程のナイブズの裡に有った感情は、狂気ではない。
「礼を言われるような事ではない。ただ……」
未来への希望。ヴァッシュが今も、かつては自分自身も願った夢の実在が――
「嬉しくて……笑っただけだ」