ARIAカンパニーのカウンター上に吊るされた風鈴――元は夜光鈴だった――が、風に揺られ、微かに音を鳴らしている。それを、じっと見つめる2匹の猫の姿があった。
「にゅ」
「にゃ」
「ぷいにゅ~……」
「にゃ……」
「ぷいにゅ!」
「にゃっ」
猫たちが風鈴へと飛び掛かった、そのタイミングを見計らったように、風鈴がさっと取り払わられた。調度片付けの最中だったので間に合ったようだ。
「も~、駄目ですよ、アリア社長。また風鈴を壊しちゃいますよ?」
「ぷいにゅ……」
明日から秋季営業の開始ということで、簡単な模様替えを兼ねて掃除中だった灯里がアリアに注意をする。普段叱られ慣れていないアリアは大袈裟に落ち込んでいる様子だが、ご飯を食べればすぐに元気になるだろう。
「あら。そちらの黒猫さんは、アリア社長の新しいお友達かしら?」
「にゃ」
アリシアはもう一匹の、見慣れない黒猫に声を掛けた。真っ黒な黒猫は、明確に返事をした様子だった。地球猫のような外見だが、こういう火星猫なのかもしれない。
「あなたは……前の夜光鈴が壊れちゃった時に、尻尾だけ見えていた猫さん?」
「にゃ」
灯里からの問いに、黒猫はすぐ頷いた。以前、同じ場所に飾っていた夜光鈴が壊されてしまったことがあった。その時、灯里はおろおろするアリアとは別に、そそくさと立ち去る黒い尻尾を見ていたのだ。
「堂々としても、悪戯はだめですよ」
「灯里ちゃん、きっと2人は一緒に遊んでいたのよ。悪戯じゃないわ」
「ぷいにゅ」
「にゃ」
灯里が咎めてもすぐにアリシアが庇ってくれて、アリアも黒猫も胸を張っているぐらいだ。それでも、多少の居た堪れなさを感じたのか、黒猫は一度お辞儀のようなしぐさをして、ARIAカンパニーから去っていった。
「ばいにゅ~」
「にゃぁ」
アリアがお別れの挨拶をすると、黒猫は一度立ち止まって返事をしてから、走り去っていった。
「行っちゃいましたね」
「ええ。また、遊びに来てくれるかしら?」
「にゅ!」
黒猫の見送りを終えて、灯里とアリシアは夏物の片付けを再開し、アリアは応援を始めた。
「もう風鈴は片付けましょうか」
「夏も終わりで、もう秋ですね」
「明日からは、また冬服ね」
「はひ。寒いのは苦手ですけど、衣替え、楽しみです」
▽
また、季節が巡る。
夏の暑さも少しずつ薄らぎ、温度と湿度も下がり、空気が乾き、夜に見える星の数も次第に増えていく。
気温は徐々に涼しくなっていくかと思えば、唐突に暑さが戻ってきて、曰くこの気候のむらっけも、太陽系では火星でしか味わえない名物らしい。
「まぁ」
伝え聞いた話によれば、地球は気象制御の完全掌握と完全自動化に成功しており、天気予報は天気予告となり、降水確率も降水予定になっているらしい。
元より旱魃以外の気候が無い星で過ごしたナイブズには、どちらをとっても馴染の無いことなのだが。
「まぁ」
店ではテレビはおろか新聞すらも取っておらず、世情を知るためには街の図書館まで出向き、無料貸し出しの情報端末を用いる他なかった。
お蔭というわけでもないが、今では図書館の常連の一人となってしまった。司書ともすっかり顔馴染みだ。その司書曰く、21世紀ごろまで日本には『読書の秋』という「秋の夜長は本を読んでゆったりと過ごす」風習があったらしい。
秋でなくとも、退屈な夜は読書に耽っていたナイブズには、ある意味縁遠いものだろう――と思ったが、夜光鈴が寿命を迎えてからは、夜の読書時間が短くなってしまった。
ナイブズにとっては、あの夜光鈴のある季節の方が読書に適していたらしい。
「まぁ」
思考がずれた。
ノーマンズランドには無かった、地球でもほぼ失われたに等しいという、火星での季節の移ろい。4つ目を迎えようとする今、これまでを思い返す。
来たばかりの冬。
餞別だと信じた白紙の切符を手に歩いた街は、昼間でも砂漠の夜を思わせる寒い季節だった。しかしそれが気にならなくなるほど、新鮮な体験の連続だった。
風の音と勘違いした本物の波の音、普遍的に存在する水路、街の全てと繋がる海。聞き惚れ、見惚れるほどの、圧倒的で絶対的な存在感だった。だから、人の声を人間の発する雑音程度に考えていた過去があったから、偶々通りがかったアテナの謳に罵声を浴びせたのだったか。そのお蔭で、もう一度あの歌を聴けたのだから、分からないものだ。
あゆみや秋乃にも出会い、つくづく、この星の人間はお人好しが多いのだなと溜め息を吐く。いや、人間に限らず、お節介焼きは多いか。
次に迎えた春。
季節の移ろいと共に変化する人の営みを目にし、人間の行いが一方的に周囲の環境を改造し破壊するものばかりではないと気付いた。とはいえ、春は花見の後、殆ど外を出歩かなかったから季節としての印象は薄い。
人間との交流の中、人間に対して自らの過去を語ることへの後ろめたさを自覚し、その答えは如何なるか、考え込んだのは何か月だったか。
答えの見つけられぬまま気晴らしの散策に出て、思いもよらぬところから解答への糸口を見出したのは、今でも印象深い。
あの店に住み込み、仕事を始めたのも、この季節からだった。
過ぎ去った夏。
砂漠とは異なる多湿な環境ゆえの蒸し暑さも忘れるほど、色々な出来事や多くの出会いと別れがあった。
忘れ得ぬ出会いの数々、深く刻まれた思い出、見下ろし見上げた二度の花火、いつの間にか広まっていたヴァッシュの話、思わぬ再会を果たしたあの男。
1年以上をネオ・ヴェネツィアで過ごす内に気付かされ、考えさせられたプラント
人とプラントが共に生きる道は、机上の空論でも、夢物語でも無かった。むしろ、
「まぁ」
これから訪れる秋は、どのような季節なのだろうか。どのようなことが起き、どのような出会いがあるのだろうか。
今までのように、思いもよらないことばかりが起こるのだろう。そんな予感だけは、ある。
「……こんにちは、ナイブズさん」
声を掛けられ、手は止めず、顔だけ向けて応える。
「アリスか。こんな所で何をしている」
「まぁ」
「でっかいお世話と言いますか、そっくりそのままお返しします」
呆れたような困惑したような、そんな態度と表情だが、アリスのこの反応も当然だろう。大の男が海沿いの小さな広場で、1人で丸い頭の小動物をお手玉にしているのだから。
手を止め、小動物を地面に放す。小動物は頭をくらくらと数度回した後、コテン、と仰向けに倒れた。目が回ったらしい。
「少し、思索に耽っていた」
「詩作っ!?」
「考えを巡らせていた。こいつは知らん、ここにいた」
小動物は鳴き声一つ漏らさず、起き上がらずにぼーっと上を眺めている。自由気儘な性分らしい。
「……なんで、お手玉を?」
「何故か、こいつが上から俺の頭の上に落ちて来た」
「はぁ」
「どけようと手に取って、なんとなく放り投げてみた。それだけだ」
「はぁ……」
一通り説明したが、納得していない様子だ。当然だろう。先程までのナイブズの様子は、自分自身で振り返っても奇怪そのものだった。
「あ、えっと。ここ、今日、私たちも待ち合わせしてる場所、なんです」
「そうだったか。邪魔をしたな」
調度、こちらの待ち人も来た様子だ。ここに留まる理由は無い。立ち上がり、向き直る。
海沿いの道の端にある、この小さな広場に通じる道はL字になっている。アリスが来たのとは別の方向、ナイブズから見て後ろ側の道から、アリスよりも小柄だが年上の少年、アルバート・ピットがやって来た。
白を基調とし街の風景に溶け込むかのような水先案内人の制服と、サングラスに黒いマントの地重管理人の仕事着は街から浮き上がるようであり、調度対のようになって見える。
「すいません、ナイブズさん。遅れてしまいました」
「問題無い」
「アリスさんも、こんにちは」
「こ、こんにちはっ」
アルは丁寧に居合わせたアリスにも挨拶して、アリスはやや緊張したように返した。
2人が軽く言葉を交わすのを待ってから、ナイブズはアルに先導されて目的地へと進んだ。
▽
「どーしてもーちょっと引き止めなかったのよっ」
「いや、あれは誰でも呆気に取られます。でっかい言いがかりです」
「まぁまぁ、藍華ちゃん。一緒に横になろうよ」
▽
「そういえば、ナイブズさんはどうして
「人が住むには適さない環境を、今も人が住めるように調整していること……だな。火炎之番人の仕事場も見てみたかったが」
「あちらは炉を大火力で燃やし続けていて危険ということで、関係者以外は立ち入り禁止ですからね」
「そうらしいな」
他愛のない話を続けている内に、目的地に着いた。水路を舟で進んだ先にある、人だかりや人混みとは無縁な静かな一角に用意された、一つのドア。それこそが、広大な地下空間への出入り口の一つ。
ドアを開け、少し進んだ先にあるのは郵便局の出張所。買い出しなどの時はここに荷物を預けることで、指定した場所へと運んでくれるのだという。それはつまり、地下空間の広さを暗に示すものでもあった。
更に進んだ先にある扉を開けた向こうにあるのは、開放的な地上とはまるで逆の閉ざされた空間だった――が、息苦しさや閉塞感はまるでない。ナイブズ自身、幼少期をもっと閉鎖的で狭く入り組んだ空間で過ごしていたということもあるが、この地下空間は想像以上に広大だった。
直径100mは悠にあろう、大地に穿たれた巨大な穴の壁面に、貼り付けるように作られた地下街。地重管理人たちの仕事場であり、生活の場でもあるには、十分な広さだった。
恐らく、
その予想をアルに確認すると、大筋で正解という返答だった。曖昧な答えだったが、どうやらアルも『これだけ巨大な穴を採掘した直接的な理由』までは知らないらしい。
十中八九、プラントの搬入の為だろう。この大きさなら、大型プラントの移動にも支障がない。或いは、この縦穴を採掘したのもプラントによるものかもしれない。
人間の都合と不始末の為に、隠されてしまった同胞たちの痕跡。明確に辿ることができず、予測を立てるしかないことが歯痒い。
「それでは、そろそろ行きましょうか。目的地は最下層です」
「ああ」
アルに先導され、地下の奥底へと続く階段を進んでいく――ことはせず、エレベーターを見つけてそちらに乗り込む。光が届かず底が見通せないほどに深く、大型プラントの搬入すら容易な直径の巨大な穴を、螺旋階段で壁面を伝って降りて行ったらどれだけの時間が掛かるか分かったものではない。
不満げな表情のアルにそのことを指摘すると「若い僕らは、常日頃から歩くよう心がけるべきだと思うんですっ」と持論を力説した。「そうか」の一言で片づけて、最下層へ行くためのボタンを押した。
古めかしい外観のエレベーターだったが、性能は高く、さしたる時間を要せずに最下層に到達した。
「ようこそ、こちらが
「これが……」
思わず、声が漏れる。想像していたのとは全く異なる光景が、辺りを覆っていたからだった。
壁は一面剥き出しのパイプが張り巡らされ、その隙間から、淡い光を帯びた色とりどりの小さな球状の物体が精製される様子が見られる箇所もある。
あの球状の物体は、資料で見た覚えがある。重力石だ。小さいながらも途轍もなく大きな質量を持つ特殊な人工石。人類の宇宙進出の黎明期に考案された、低重力惑星――火星の場合は約3分の1Gだ――を1G環境に改変し、それを保つための『ある手法』の要とされたもの。
こんな物が使われている、ということは。
「……遠心重力増幅型。当時の技術で惑星の重力を常に増幅するのなら、確かにこれが最も現実的か。惑星地表の地下にパイプが張り巡らされている……なら、パイプのメンテナンスも含めて、地下に籠り切りにもなるか」
「凄いですね、一目で分かるんですか」
「この手のデータは一通り頭に入れてあるだけだ」
つい、言葉が口をついて出た。それほどに、想像以上のローテクだったのだ。
火星地球環境化の最初期――今から3世紀以上前ともなれば、擬似重力発生装置や重力制御装置の性能も低く、惑星全体をカバーできるようなものは無かったのだろう。そうなれば重力増幅以外に方法は無いわけだが、まさか惑星の地下深くに全体を覆うようにパイプを張り巡らせ重力石を流す、ある種の力業とも言える方法を目の当たりにするとは思わなかった。
惑星全体を覆うように、地下深くに張り巡らされた重力増幅の為のパイプ。その埋設の為に要された労力は、果たしてどれだけのものだったか。
「これだけの大規模工事、どれだけのプラントの力が費やされた……」
「プラント?」
つい零れ落ちた呟きに、アルは不思議そうに首を傾げた。プラントの存在しない日常生活を送り、歴史の授業などでも火星地球環境化におけるプラントの功労を教えられず個人でも調べられないのなら、この場所とプラントとの因果関係が思い当たらないのは自然か。
仕方のないことだと納得できる反面、知られないまま忘れ去られてしまった同胞たちの存在を口惜しく思う。彼女たちは、確かにここにいたはずなのに。グランドマザーは、今もあそこにいるというのに。
「博識なお客人の相手は、半人前にはまだまだ早いようだな、アルよ」
通路の奥から、声が掛けられた。見ると、小柄なアルよりもなお小さい、髪の毛と一体化しているほどたっぷりとひげを蓄えた地重管理人の老爺がおり、狭い歩幅でちょこちょことこちらへ歩いてきていた。
「アパじいさん」
名を呼ばれ、老爺は「うむうっ」と短く返事をする。
見れば見るほど小さい。1mは辛うじてあるだろうが、成長期前の幼児のようだ。ナインライブズの中身を彷彿とさせるほどだ。地下の街で生まれ、育ち、暮らしていく生粋の地重管理人は極端に体が小さい、という話は小耳に挟んでいたが、これが実例ということなのだろうか。
いや、そんなことよりも確認すべきことがある。この老爺はナイブズを指して『博識な客』と言った。直前の発言と照らし合わせるに、その博識の意味するところとは、もしや。
「お前は知っているのか」
「うむうっ、知っとるよ。昔の、火星地球環境化の最初の頃の史料が、こっそり残されとるからな」
思いがけない返答。胸の内に沸き起こる騒めきは、驚きではなく、喜び。全て無かったことにされてしまったのではないという、安堵でもあった。
「初耳です」
「当然じゃ、一人前にならなきゃ見せてやらんよ。本当はその時まで教えんもんじゃ」
「……部外者に聞かれてもいいのか、その話は」
「うむうっ、構わんよ。秘密にはしとるが、別に隠しているわけではないからな。ちょっと前に、地球から来た子にも見せたしの」
老爺の言葉に、過日、この地を訪れていた少女を思い出す。単なる表向きのプログラムの一環だと思っていたが、そういう事情もあったのか。大方、入れ知恵をしたのは店主だろうが。こういうことをあの男が知らぬはずがないという、妙な信頼感があった。
「じゃあ、僕が見ても……」
「いや、半人前は駄目じゃ」
アルは好奇心に目を輝かせて、アパに史料の閲覧をせがんだが、にべもなく断られていた。消し方が雑で抹消の痕跡も明らかとはいえ、火星地球環境化におけるプラントの活動は公式には無かったことにされた事柄だ。軽々に教えることはできないのだろう。
これに残念がる様子も見せず、アルは却ってやる気が出たようで、目に強い光が宿った。
「なら、一日も早く一人前にならないとっ」
「それじゃ、一人前への第一歩じゃ。行って来なさい」
「はい!」
アパに促され、アルは通路の奥へと走っていった。その先にあるのは、壁面のパイプが集まっている――或いは、そこから全てのパイプが始まっている――制御装置らしきものだった。断言できないのは、その装置の外観によるところが大きい。
「あれは、パイプの制御装置のようだが……何故鍵盤が付いている?」
「ちょっとした遊び心じゃ」
どこからか取り出したスナック菓子をパクパクと食しながら、アパは軽く答えた。これに、ナイブズは眉間に皺を寄せた。
遊び心によるという制御装置の外観は、パイプオルガンを模ったようなものなのだ。まさかパイプを制御するからパイプオルガンに似せたとでもいうのかと、人間の発想の突飛さに頭を悩ませている内に、アルが仕事を始めた。パイプの弁の開閉と、重力石の射出。それらを、鍵盤を操って制御しているらしい。
パイプの中を、重力石が高速で射出される。それによって生じる独特な甲高い振動音と弁の開閉音が、一定の法則性と規則性をもって、幾度も鳴り響く。まるで音楽のように。
どうやら、制御装置がパイプオルガンを模しているのは間違いないらしい。
「重要な仕事だろうに、こんな要素を何故態々……」
「言ったろ、遊び心じゃよ」
「そういうもの、なのか……」
人間の遊び心とは、どうにも理解が難しいものらしい。呆れ驚きつつも、その音楽に耳を傾ける。
「音色はどうじゃ?」
「まずまずだな」
音楽として聞けば、悪くはないが、良いものだと賞賛するほどでもない。音界の覇者の異名をとった男の演奏や、天上の謳声とは比べるべくもない。
ただの音として聞けば、新鮮で、中々に面白い。何かひかれるものがある、澄んだ不思議な音色。腕を上げ、もっと音楽性が伴えば、聴きごたえのあるものになるのだろう。果たしてそれが地重管理人の仕事に関係があるのか、役立つものなのかは知らないが。
暫くするとアパは史料を閲覧するか尋ねて来た。どうやら、アイーダがここを訪れた際に、ナイブズの名は告げずに「プラントを知る男が来たら見せてあげてほしい」と頼んでいたらしい。
幼い同胞の気遣いに感謝しつつ、その提案に応じた。そのことを聞いてもアルは不平や不満を一切現さず、笑顔で送り出し、一人仕事場に残った。その場を立ち去っても、壁面に張り巡らされたパイプから、コン、キン、カン、という音が追いかけて来るように響く。
案内された資料室の中、300年以上前からこっそりと隠されていたデータを今に伝える1つの記録媒体。その中に収められていたのは、火星をアクアへと変える一助を担った同胞たちの足跡。
澄んだ音色を聴きながら読み進めている内に、地上では日が沈んでいた。
▽
地上に出ると、日はとっくに沈んで、夜空には星が輝いている。今になって、汽車から降りて見上げた時とは、星の配置が随分と変わっていることに気が付いた。惑星の公転運動により夜の星空は日を追う毎に刻々と変化するのだから、当然だ。
地球に倣って火星でも星座は作られているらしいが、ノーマンズランドではそんなものは無かった。これから作られることもありうるのだろうかと、ぼんやりと考えたが、すぐに切り替える。
「今日は世話になった、礼を言う」
「いえいえ。僕の方こそ、新しい発見がありました。ありがとうございます」
ナイブズが短く例の言葉を述べると、アルは丁寧に深々と頭を下げた。
礼を言ったのに礼で返される。アテナともこんなやり取りをしたが、火星には妙な文化もあったものだと溜め息を吐く。
アルが頭を上げてから、踵を返し、その場を立ち去る。すると、背にアルの声が響いた。
「また来て下さい。美味しいきのこ鍋の店とか、今日は案内できなかった場所もありますから」
「……気が向いたらな」
歩いて行くのを提案したのは、そういう気遣いもあってのことだったか。
少しも思い至らなかったなと自嘲しつつ、ナイブズは家々の合間を縫って、路地裏へと姿を消した。