夢現   作:T・M

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#23.過去が繋いだ未来

 光の回廊の中、気付けば自分1人になっていた。2人の少女と火星猫の姿は、いつの間にか消えていた。恐らく、先に通常空間へと復帰したのだろう。

 それにしても、過去へと頭突きと風で押し込まれた時は一瞬だったのに、何故、今はこうも時間をかけているのか。そもそも、シラヌイはどうして、ナイブズを過去のあの瞬間へと導いたのか。

 ナイブズがいなくとも、あの虫のような出で立ちの小人――コロポックルと名乗っていたか――は、猫又の棟梁と共に無事にあの神社に辿り着いていただろう。にも拘らず、アマテラスはナイブズをコロポックルの旅絵師と出会わせ、あまつさえ水無灯里と大木双葉の2人まで導いていた。

 何のために、そのようなことをしたのか。ナイブズの問いへの答えが、これだとでも言うつもりか。

 考えながら歩いている間、ちらちらと目の端に入る光景の意味は、容易に推し測れた。

 

 大神は人造の天使(プラント)によって託された人々の祈りを力と化し、火星全土を駆け巡った。

 自らの“力”――筆しらべで以て時に災いを鎮め、時に窮地の人々を救い、時に人間たちと力を合わせて困難に立ち向かった。

 その姿を、付き纏う神仰伝道師が絵に収め、もう一人の付き従う男が文字に書き留めていた。最後の瞬間が訪れた、その時までも。

 やがて、昔話の通り、力を使い果たした大神は命を落とした。

 昔話は終わったが、人々の歩みは止まらない。歩みを止めず、前を向いて歩いて行く。

 そうやって日々を積み重ね、繋いでいく。ナイブズにとっての現在、彼らにとっての未来へと。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………神社、だが……違う神社か?」

 光の回廊を抜けた先は、最初に入った場所とも、先程入った場所とも違っていた。ただ、通常の空間とは違う異質な空気から、ここも境だということは分かった。

 周囲を見回すが、誰の気配も無い。背後にあるのは、何かの社――神殿の一種だろうか、それがあった。

 暫く神殿と、安置されている狐の像、絵や願い事などが書いてある五角形の木の板などを見て回った後、幾つもの鳥居が連なった赤い回廊のような参道へと足を踏み出した。

 参道を取り囲むように立つ鳥居の隙間からは、紅い木の葉が見られた。

 血の赤とも、炎の赤とも、リンゴの赤とも違う、真っ赤な木の葉。さながら、紅い雲海ともいうべき壮観であった。数ある中の濃いと薄いの違いは、海面の揺らめきにも似ている。

 同時に、秋の紅葉と千本鳥居の情報から、ここがネオ・アドリア海に存在するもう一つの神社だと断定した。初めて見たはずなのにデジャビュを覚えたが、すぐに見覚えの正体を思い出した。シラヌイが跳んだ時に舞い散っていた、紅い木の葉とそっくりだったのだ。

 不意に風が吹き、枝葉が揺れて、木の葉が擦れる。波とは異なる風の音が、辺りに響く。暫し足を止め、余分な考えも捨て、それに聞き入る。

 ふと、傍らを見ると、いつのまにか狐の面を被った少年がいた。少年も視線に気付いたらしく、ナイブズを見上げる。こうして顔を合わせるのは、春の花見の時以来か。

「……美しい景色だな」

 火よりも穏やかに、血よりも鮮やかに生い茂る紅を見て、自然と口から言葉が零れた。ノーワンズランドと呼ばれていた時代を見て来たからこそ、より一層、そう感じられた。

 少年は何も言わず、一つだけ頷いて、共に紅葉に見入った。

 そうしている内に、どれだけの時間が過ぎただろうか。下から歌が聞こえて来た。歌とは言っても鼻歌のようなもので、2人の女性が「ズンタカポコテン、ズンタカポ~ン」と、気の抜けるような歌を口ずさんで、参道を上って来ている。

 2人の声には、それぞれ聞き覚えがあった。

「ん? なんだ、ナイブズじゃないか」

「ナイブズさん、こんにちは」

 参道の先から現れたのは、晃とアテナだった。

「お前達か」

 水先案内人の制服を着ているが、客を連れている様子は無い。休日の散歩のようなものなのだろう。

「なんだ、お前も紅葉狩りに来てたのか?」

「モミジガリ……?」

「紅葉を見ながら、お散歩することですよ」

 どうやら本当に散歩だったようだ。

 詳しく訊くと、モミジとは紅葉の別名であり、狩りは狩猟のそれと同じ字を当てているようだが、その理由と由来は喪失されて久しく、『紅葉狩り』という言葉だけが残っているのだという。ともあれ、この時期の行楽の定番として、昔から人気があるらしい。

 ナイブズがここにいる理由については、仔細を話したところで余計な混乱を呼ぶ以前に理解を得られないことが明白なので、適当に相槌を打っておく。時間を見て来ようとは思っていたのだから、まるきし嘘でもない。

「そっちの子は?」

「ここで、偶々顔を合わせた」

 晃が指したのは、ナイブズの背に隠れる形となっている狐面の少年だ。

何故か、ナイブズの背面から出ようとせず、さりとて完全に隠れようとも、身を隠そうともしない。

「どうしたの?」

 アテナが声を掛けると、途端におどおどし始めた。これはどういう反応か、判断がつかない。

 すると、晃が狐面の少年に歩み寄り、屈んで目線の高さを合わせた。

「君、アテナの歌を聴きたいの?」

 幼い相手に対する、ごく自然な優しさと気遣い。平素の毅然とした態度と落差があるように思うが、藍華やアテナへの心配ようから考えれば、普段は隠れがちなものが出て来たというところだろうか。

 晃の態度について考えを巡らしつつ、狐面の少年を見遣る。少年は晃の問いかけに小さく、こくり、と頷いた。

 どうやら、照れて、恥ずかしがっていたらしい。ほんの数年前までそういう感情を有する生物と殆ど接触していなかったので、すっかり忘れていた。

 少年は頷くと、黙ってアテナを見上げ、見詰めた。

 アテナと晃は、その仮面の下の表情を、眼差しを読み取って、穏やかに微笑んだ。

「それじゃあ――」

 ちらり、と、アテナはナイブズを一瞥してから、瞼を閉じ、息を吸って、唄い始めた。

 あの時と同じ歌。

 150年前、双子のプラントが最初に愛した、母と呼ぶべき女性が唄ってくれた子守歌。

 この星に来て間もない頃、アテナが聞かせてくれた、あの歌だ。

 聞きながら、あの頃から今までの時間に、思いを馳せる。

 俺の戦いは、砂の惑星で疾うに終わった。敗北という決定的な形で。

 だが、日々は終わっていない。この水の惑星で、俺はまだ歩き続けている。

「良い歌だな」

 歌が終わり、自然と、言葉が口から零れた。

「それだけか?」

「他に言葉が出ない」

 晃に指摘されたが、我ながら、芸術を賞賛し感動を表現する自らの語彙力の乏しさに呆れてしまう。ホーンフリークの殺人音楽を褒め称えた時は次々に言葉が出て来たが、あれは『殺し方』の“滑稽さと痛快さ”を言い表しただけで、やはりそういうものとは違う。

「そうか。それじゃあ、しょうがないな」

 ナイブズの答えが気に入ったのか、晃は朗らかに笑って言った。

 一方、狐面の少年は目一杯の拍手をして、天上の謳声を言葉に依らず賞賛した。

「良かったぁ。紅葉を見るのに邪魔だ、って言われるんじゃないかって、ちょっと心配だったんです」

 まさか、このタイミングで、アテナから意趣返しをされるとは思いもよらず。狐面の少年に倣って動かそうとしていた手が止まり、体が固まる。

 だが、アテナの表情からはそういった意地悪さのようなものが見られない。どうやら、皮肉も何もなく、本心からそう思い、本気で言ったらしい。

 つい、溜め息が出る。ある意味、ヴァッシュ以上のお人好しだ、こいつは。

「安心しろ。もう二度と、そういうことは言わん」

「当り前だ! 無駄に偉そうにしおって!」

 ナイブズの返事に、晃が今度は噛みついて来る。

 その剣幕はものともせず、ただ、その内容に思うところがあり、晃の顔を見遣る。

「鏡を見ろ、とはこういうことか……」

「どういう意味だ?」

「お前も、随分と偉ぶっているな」

「よくもはっきり言ってくれたな!」

 すわっ、と晃は威嚇するが、ナイブズは気にも留めない。アテナは喧嘩が始まってしまうのではとおろおろしていたが、その心配は無用だった。

 狐面の少年が空を見上げると、空から、ぽつり、ぽつり、と水滴が降って来た。

「あ、雨」

「天気雨か。参ったなぁ」

 アテナと晃は何でもない様子で状況を受け入れていたが、ナイブズは酷く困惑した。

「雲が無いのに、雨が……?」

 陽射しが遮られていないことを怪訝に思って空を見上げると、どこにも雲が、雨雲はおろか白い雲さえもないのだ。

 これは火星でもごく稀に起こる非常に珍しい気象現象で、天気雨と呼ばれているとは、晃の解説によるところだ。

 もう少し行った先に神社の建物があるから、そこで雨宿りしようと決めて、晃とアテナは早足で参道を進んだ。ナイブズも話の流れで何故か同行することになり、来た道を逆戻りすることになった。

 狐面の少年は、千本鳥居の隙間から脇道に出て行った。アテナと晃が呼び止めたのだが、手を振った後、どこかへと去って行った。

 それからの道中、シャン、シャン、という鈴の音が響き、人魂のような動く火のような光が見えた。それらを目撃して間もなく、晃はアテナの手を引いて、雨に濡れて風邪をひいてはいけないし、アテナがドジして転ばないか心配だからと、大きな声で誰にともなく言い聞かせて、一目散に走って行った。十中八九、途中で一度は転ぶことだろう。

 ナイブズは歩を早めることはせず、寧ろ天気雨を満喫するためにゆったりとした歩調を保った。

 不気味で堪らないという旨を小声で言っていたから、どうやらあの2人には、隣に現れた別の参道を通っている、狐面の一団の姿が見えなかったらしい。

 古来より、日本所縁の地では、狐に化かされたような天気の日には狐たちが祝い事をしているのだと、今も細々と伝えられている。

 天気雨に『狐の嫁入り』という別名があるとナイブズが知るのは、晃とアテナに追いついてからだった。

 

 

 

 

 神社の麓の出店で買った稲荷寿司を、店先の長椅子に腰掛けて黙々と頬張る。甘く味付けされた油揚げに包まれた、程よく酸味の効いた酢飯の塩梅が調度良く、混ぜられた胡麻の触感と風味も舌を飽きさせない。

 何故か他2人の分まで買うことになったが、持ち合わせの金銭には余裕があったので、あまり気にしないことにした。

「舟には乗れるか?」

 稲荷寿司を食べ終えて、アテナと晃に問う。2人はまだ食べている途中で、それぞれ、今食べている分を飲み込んでから返事をした。

「真っ直ぐ帰らずに寄り道するんですけど、それでもいいですか?」

「寄り道?」

「何とか神社っていう……あれだ、春に藍華がお前を乗せて行った場所だ」

 渡りに船とは、正しくこの事。偶然にしては出来過ぎだし、お膳立てとしてもやりすぎなぐらいだ。

「俺も、そこに用がある」

「そうなんですか。それじゃあ、一緒に行きましょう」

「ああ。頼む」

 了承を取り付け船着き場へと向かうと、係留されている舟に晃が真っ先に乗り込んで行く。

「よし、アテナ。今度は私が漕いで行こう」

「晃ちゃん?」

 不思議そうに首を傾げるアテナに、晃は朗らかな笑みを返す。ナイブズの方へ振り向いた時にはそれは消え、毅然とした凛々しい微笑みを浮かべていた。

「あの時は、私の腕前を見せられなかったからな」

 藍華の舟に乗った時、ナイブズは同乗していた水の三大妖精たる晃の水先案内を受けられないことを口惜しがるどころか、真紅の薔薇(クリムゾンローズ)の異名を知りながらにして、一切の興味と関心を向けていなかった。そのことを、意外なほど深く根に持たれていたらしい。

「好きにしろ」

 静かに漲る気迫に気圧されることなく、ナイブズは舟に乗り込もうとして、ごく自然に差し出された手によって制止されてしまった。

「さぁ、お客様。どうぞこちらへ」

 強引ではない、きつくもない、寧ろ穏やかさすら感じる声色でありながら、決してこちらが押し切れない強さがある。なにより、タイミングが絶妙で無視することさえできない。

 これが本職(プロ)の、その最上位に君臨する者の(わざ)か。水の上、舟の上では一目置かねばなるまい。

 などと感心し評価を改める一方で、この星で初めて体験した雨の日に出会った老婆――天地秋乃を思い出した。高名な水先案内人ともなると、話術も巧みとなり人を誘導することに自然と長けるらしい。

 そんなことに思考を巡らせつつ、晃の手を取り、ナイブズは舟に乗り込んだ。

 この島から目的地となる天道神社のある島までは近いこともあり、さしたる時間を掛けずに到着した。その僅かの間の舟の乗り心地は、今までで一番良かった。その評価を直接伝えると、晃は「当然だ」と胸を張ることもせず、さらりと受け流した。

 船着き場の黒い舟を見て、晃は良からぬことを思い浮かべているような、あからさまな笑い方をした。

「よぉし、灯里ちゃんの舟もあるな」

「晃ちゃん、お仕事の邪魔はしちゃだめだよ?」

「何を言うかっ。私の指導する後輩の様子を、休日を使ってまで見に来ているのだ。誰に咎められることも無い。うむっ、何の問題も無い!」

「ええーっ」

 アテナが先んじて注意すると、晃は予め覚えていたセリフを読み上げるようにすらすらと答えた。恐らく、実際には問題があるからこそ、そういう名目や題目を事前に決める必要があったのだろう。

 後ろめたさを微塵も感じさせないのは、些末な問題だからか、完全に開き直っているのか、それとも後先を考えずに勢いでやっているのか。少なくとも、3つ目の可能性はまずあるまい。

「行くぞ」

 2人のやり取りに割って入ることはせず、最低限のことだけを告げてナイブズは歩き出した。

 神社の正面、鳥居の手前まで来て、ふと、気配に気づき、鳥居の上を見る。

 鳥居の、調度窓のようになっている部分に、見覚えのある猫たちの姿があった。

「あの時の黒猫に、ジッキンゲン卿……ケット・シーもか」

 汽車で乗り合わせた黒猫、お節介焼の猫人形、そして小さな猫の姿に変わっている――胸元のリボンと気配は変わっていないが――猫妖精。他にも、シラヌイと似た化粧の白猫など、普通でない猫が集まっている。

 あの面子が一つ所に集まって、ただの物見遊山ということはあるまい。

 全体を代表してか、猫人形が会釈して、ある方向を指した。喋らないのは、後から来る2人に気取られないようにするためか。

 指された方向に何があるかは分かる。春に一度訪れた場所だ。少し気を向ければ、そこに人が集まっていて、その中にシラヌイがいることも分かった。

 追いついてきた晃とアテナに、顔を向けず声だけ掛けて、桜の広場へと向かう。

 広場の前まで来て、足が止まる。驚きのあまり、声も出ず、ただ口が開いてしまう。少し遅れてやって来た晃とアテナも同様だ。

 目の前にある光景に、ただただ驚くしかない。

「サクラは、秋にも咲くのか?」

「いや、桜が咲くのは春だけだ……」

「春の少し前、冬の終わりに咲く桜もあるらしいですけど……」

 先日訪れた時にも、咲いていなかった。しかし今は、満開の桜が咲き誇っている。目の前で、現実に。風に流されて来た一片(ひとひら)の桜の花弁も、間違いなく本物だ。

「天気雨といい、変な鈴の音に狐火といい……なんだか、狐に化かされてるみたいだな」

 中世の頃の東洋では、狐狸の類は人を化かすと信じられていた。晃が口にしたのはそれに由来する慣用句なのだが、それを知らないナイブズは、言葉をそのまま受け取って頷いた。

「これは狐ではなく、狼だろうがな」

「オオカミ?」

 ナイブズが提示した仮説に、アテナは首を傾げる。あの大神のことを知らねば無理からぬことだが、ナイブズも、直前に見たあの光景が強く印象に残っているからこそ、即座に結び付けただけで、明確な根拠は無かった。

「おい、さらっと狐部分を肯定するなよ。……おいっ」

 明確な根拠は無いので、晃が何やら不安がっているのか声を掛けて来ても迂闊に答えることはせず、広場を見回し、人集りを見つける。

「ほっ、ほっ……本当に、紅い化粧が見えるようになったー!?」

「でっかい怪奇現象です……」

「裸の王様みたいだねっ」

「うん、どっちかって言うと逆だから」

 素っ頓狂な藍華の驚愕の叫び、アリスの惚けたような呟き。光は目の前の光景を見て何かに例えたが、すぐに双葉にツッコミを入れられた。

 藍華の叫びが聞こえた時点で晃とアテナは何事かと駆け寄っていった。それと入れ違う形で、ナイブズの隣に一人の老人がやって来た。

「まさか、こんな何でもない日に大神降ろしが成されるとはね……長生きするものだよ」

「貴様、来ていたのか」

 ナイブズの隣に立ったのは店主だった。この男には珍しく慌てている様子が見られ、眼前の事態にも驚きを露わにしていた。

「幽門が開かれて、君に続いて2人も過去に迷い込んだのだから、慌てて現場を見にも来るさ。そうしたら、大神降ろしが成されていて、桜花爛漫だものなぁ……」

 説明もそこそこに、季節外れに咲き乱れ咲き誇る桜花を見て、店主は嬉しそうに、懐かしそうに呟いた。

 簡単に事情を聞くと、シラヌイは植物を操る力を持ち合わせており、それを筆しらべの桜花と呼ぶのだという。水面に蓮の葉を浮かべる、枯れ木に花を咲かせる以外にも、枯れた土地に生命力を与えて賦活させる、短時間木や花を生やすなど、ジオ・プラントの能力に極めて近似したものだ。

 シラヌイの走る後に黄金の草花が咲き、宙を舞えば紅葉が散るのもその力かと思い問い質したが、全く違うものらしい。計り知れないと云うべきか、考えるだけ無駄だと思い知らされると云うべきか。

 次いで、今度は逆にナイブズが店主から問い質された。どうして過去に行くような目に遭ったのか、その原因を。

 シラヌイの仕業ということは、店主も承知のことだった。驚くことに、それすらも筆しらべの一つだというのだ。時空間を操る幽神の筆しらべ、その極限である幽門と言うらしい。

 分かっていたつもりだったが、はっきりと第三者から明言されると、その衝撃は大きなものだった。

 ナイブズがかつて融合体の同胞たちと共に行った短距離の精密な空間跳躍は、ほんの一瞬の間で膨大な仕事量と精緻な演算を必要とし、莫大なエネルギーを消費した。同胞たちと一体とならねば挑めないほどの難行だった。

 それを遥かに上回る行いを、あのシラヌイはささっと紙に筆を走らせるような気軽さで行っていたのだから、呆れるしかない。

「それで、何を言ったら天の慈母が幽門を開いたんだい?」

 珍しく、店主が急かしてくる。それだけの異常事態だったということだろう。いや、3人も時間移動したのだから当たり前なのだが。

 シラヌイの思考はナイブズの頭脳を以てしても全く読めないが、直接の原因と思われるものは一つしかなかった。

「俺の変化に、何を見て、何を願っているのだと、そう問いかけた。……半分以上は独り言だったのだがな」

 シラヌイだけでなく、グランドマザーや猫妖精にも向けて投げ掛けた問。ナイブズの正体を知りながら、それでもなお――だからこそ――受け入れ、賓客として遇した、人に寄り添う神々へと向けた問い掛け。

 あの時、シラヌイに付き従って御神木の中の神空間まで同行していた紅祢は、グランドマザーに捧げられている感謝が今も、この星に息付いていると言った。だからこそ、ナイブズがここにいるのは――この星の人間たちに受け入れられている証拠だと、そう言おうとしたのを、ナイブズは止めた。

 そんなことはあり得ない、あってはならないと――ヴァッシュが阻んでくれた、ナイブズを狙った同胞の一撃が脳裏を掠めたから。

 会ったことも顔を合わせたことも無いが、名も顔も、凡その人柄も知っている。ドミナの同僚であり、親友のプラント自律種、クロニカ。無二の親友を奪われた怒りと悲しみがどれほどのものか、共感はできても、きっと理解には程遠い。

 いや、彼女だけではない。ナイブズの存在を許さないものなど、数え切れないぐらいいる。ノーマンズランドの生存者の9割9分9厘がそうだと断言して間違いあるまい。あの教会の親子は、ナイブズの脅威を奇跡的に免れていたからこその、特例的な存在だろう。

 変化し、人の心を慮るようになり、自らの行動を省み、人の視点に置き換えた思考ができるようになったからこそ、分かることができた。

 ミリオンズ・ナイブズが、今更仕切り直せるはずがない。だからこそ、問わずにはいられなかった。人間の守護者たるお前たちは、どうして、人類を根絶やしにしようとした俺に何もしないでいられるのだと。

 これを聞いた店主は、ふふ、と何やら小さく笑った。何が可笑しいというのか。

 店主は何か理解した素振りを見せ、いつも通りに勿体ぶる。ナイブズは先を急かしたのだが、調度そこへ、遠くから呼び声が届いた。

「あっ! ナイブズさーん!」

「よかった……。ちゃんと、戻ってたんだ」

「ナイブズさんて、やっぱりあの人か!」

 灯里と双葉、それに光が、ナイブズに気付いたのだ。恐らく、アテナか晃から聞いたのだろう。

「私も呼ばれているようだし、失礼するよ」

 短く告げて、店主は少女たちと入れ替わるように立ち去っていた。

 ナイブズの許まで来たのは先程の3人だけで、他はシラヌイを中心にまだ騒いでいる。

 この3人の共通項は、既にシラヌイと出会っていたということ。そして、神域での出来事の目撃者だったということか。

「灯里と、双葉だったな。お前たちは直接こっちに戻っていたか」

「はひ。気付いたらナイブズさんがいなくて、ビックリしちゃいました」

「一本道だと思いましたけど、どうして前を歩いていたナイブズさんだけはぐれちゃったんでしょう……?」

「あの狼の考えは、俺には読めん。そっちの、光は久し振りだな」

「はいっ。龍宮城以来、お久し振りですっ。ナイブズさんって名前だったんですね」

「そういえば、お前には名乗っていなかったな」

 挨拶代わりに軽く言葉を交わす。4人を結ぶシラヌイは、御神木の前で賑わいの中心にいる。なんとなく得意げに見えるのは気のせいではあるまい。

 その後ろでは、よく見たら天道の兄妹が末妹以外3人とも、羞恥心で悶絶している。椿神楽がどうのと言っているのが微かに聞こえるが、何があったのだろうか。

「シロちゃんは、どうして私たちを昔の火星に行かせたんでしょうか……」

 シラヌイたちを見ながら、双葉は誰に問うとでもなく呟いた。

 同じ方へ視線をやると、店主と、そして見覚えのある狐面の少年までもが、いつの間にか賑わいの中に交じっていた。もしや、ナイブズ達に付いて来たのだろうか。

「えーと、ナイブズさんも火星の人じゃないんですよね?」

 ふと、何かを思い付いたらしく、光がそんなことを訊いてきた。光にそのことを教えていないが、恐らく灯里たちから聞かされたのだろう。

「ああ、別の惑星から来たが……そうか、お前たち2人も地球の出身だったな」

「そこに、ヒントがあるのかも?」

 答えてすぐ、光の言わんとしたことを察した。あの時、あの場所に集まったこの時代の者は皆、他の星の出身者ばかりだったのだ。唯一の例外である火星猫のアリアは、猫妖精かシラヌイの使わせた案内役か、お目付け役と言ったところか。

 気付いた光自身はその先に思い至らなかったようだが、考察の起点とするには十分なヒントだった。

 他に共通点があるとすれば、全員が最初からシラヌイの化粧が見えていたことだ。あの化粧は何らかの特別な素養の持ち主にしか見えないことは確認済み。そのこととも関わりがあるのではないだろうか。

「忘れられてしまった、大事な出来事、みんなの祈りを……あの頃の火星にいた人たちと同じ、地球から来た私たちに、見せたかったのかな……?」

 理屈を辿り理論立てて考察をしているナイブズをよそに、灯里は自分の心の思うままを素直に形にして、一気に核心へと迫った。

 見せたかったものがあるから、あの時あの場所へと送り出した。

 地球から来た2人に託したことがそれならば、砂の惑星から来たナイブズに……否、プラント自律種のナイブズに見せたかったものとは――。

「俺に、あの羽根を見せる為に……?」

 ナイブズがノーマンズランドの人類へと決戦を挑み、地球連邦軍の最新鋭戦闘艦隊を返り討ちにした、王手も間近の局面。その少し前。人間たちの有線ケーブルを介した語りかけに反応して、プラントの一部がざわめき、震え、羽根を散らした。純白の、小さな羽根を。

 その事実と意味、そして羽根の特性にナイブズが気付いたのは、ヴァッシュが150年分の想いを直接ぶつけて来た、その直後。分解しかかった融合体を繋ぎ止めた時だった。

 プラントの記憶を、直接人間の脳髄に伝える。人間の思考や記憶や感情を、他の人間やプラントにも伝える。言うなれば、心と心を繋げる接続器(ケーブル)だ。

「ナイブズさん、あの羽根のこと、何か知ってるんですか?」

 灯里に問われて、すぐには答えず、回想を深める。

 ナイブズにも、また伝わっていた。

 全てのプラントの記憶は当然として、それを知った人間たちの反応――怯え、悲しみ、苦しみ、痛み、懺悔、後悔、絶望。知ろうともせずに強いていた犠牲の意味と実在という、自らの原罪への嫌悪。

 両者の間に横たわる、越えることのできない深い溝。

 それを超えて、プラントと人類の心を繋げ、ほんの一瞬でも一つにしたものがあった。それは、150年を懸けて、プラントと人類の間を駆け続けた、ヴァッシュ・ザ・スタンピードの唱え続けた、あの言葉。

 それと同じ祈りが、あの時のグランドマザーの羽根には宿っていた。

 

――地には平和を、そして慈しみを(ラブ・アンド・ピース)――

 

「あれは……切符だ」

「切符?」

 ナイブズの答えがよほど予想外だったのか、3人は一緒になって首を傾げて、全く同時に聞き返してきた。龍宮城でも、過去の火星でも思ったが、よくよく似ているものだ。

 一つ間を置いて、胸に手を当てる。大事に仕舞っている切符の感触を確かめながら、足りない言葉を付け加える。

「行き先の書かれていない……未来への、白紙の切符だ」

 全てを白紙には戻せない。あの頃には戻れない。

 それでも、なにも描かれてない未来へは行ける。

 あの時、ノーマンズランドの全てのプラントと人間が、それを選んだように。

「何も書かれてない、何も決まってない……けど、たくさんの祈りが目一杯に籠められた、真っ白な切符」

 灯里は、白紙の切符に自分なりの解釈を加えていた。

 一から十まで全てを決めて差し出すばかりが、優しさや思い遣りのすべてではないと。

「私、真っ白って、いつか消えてなくなっちゃうんじゃないかと思ってました。けど……違ったんですね。星に、心に、すぅっと溶け込んで、一緒にいてくれてたんだ……」

 双葉は、目の前で爆ぜた羽根を思い出してか、ナイブズのように胸に手を当て、愛おしげに囁いた。

 目に見えるもの、形あるものばかりが、存在の全てではないと。

「その羽根のことはよく分からないですけどっ、いいですね、真っ白な切符! 何も書かれていないなら、何も決まってない、何をしたっていい、その気になればどこにだって、どこまでだって行けそうで」

 光は、本当に何も知らないだろうに、思うままを口にして、見事にナイブズの解釈を言い当てた。それがあまりに意外なことで、ナイブズは光の言葉に続いた。

「そして、一度使おうとその手に残る限り、何時でも、何処でも、何度でも、その切符は使える」

「おおっ、なんということでしょう! それってつまり、どんな未来へも自由に行ける、どうにだって、何にだってなることができるってことですよっ!」

 更に飛躍されるとは、思いもよらず。ナイブズは、暫く言葉を失った。

 やがて、胸の奥底から滲み出た言葉が、勝手に口から漏れ出る。

「……そう上手くいくものか。過去の積み重ねによって今の自分は成り立っている。未来図もその延長だ。過去に業を積み重ね、手を汚し、恨み憎しみ怒りを集めたものの行く末は、分かり切っている。決まっているも同然だ」

 突然の暴露に、光と双葉は、ぎょっ、となって、ナイブズの顔を覗き込んですぐ、顔が青褪めた。

 ナイブズは気付いていない。自分が何を口走ったのかも、これから更に何を言おうとしているのかも、今の自分の表情がアテナを恐怖させたものに近づいていることも。

「いえっ。きっと、そんなことはありませんっ」

 そこへ、果敢に割って入ったのは、咲き誇る桜と同じ色の髪の水先案内人。

 地球から火星へと渡って来た少女は、ナイブズに異なる行き先を指し示す。

「何時でも何処でも何度でも、チャレンジしたいと思った時が……変わりたいと思ったその瞬間が、真っ白なスタートラインです。自分で自分をおしまいにしない限り、きっと、本当に遅いことなんてないんですっ」

 言葉はおろか、声すら出ない。呼吸すら忘れてしまったかのよう。

 瞠目し、少女を直視する。灯里は、少し強張った表情で、それでも、ぎこちないながらも笑みを湛えたまま、ナイブズを見つめ返していた。

 目の前の少女は、ヴァッシュに似ているとは思っていた。人と人との関わりの中で果たす役割と、その占める位置が。

 それが、まさか、こうも似ていたとは。ここまで似ているとは。

「く……くくく……はははは……あっ――はははははははは!!」

 可笑しくて、可笑しくて、自然と笑いがこみあげて来た。あまりに愉快で、痛快で、笑いたくて堪らない。

「まさかっ、ヴァッシュ以外に……俺にっ、そんなことを言うやつがいるとはな!」

「え? え?」

 ヴァッシュがナイブズへと伝えた、人間への祈り。

 それが今、全く思いもよらぬ形で、人間の少女からナイブズへの祈りとして伝えられた。

 これこそが、あの大神のはかりごとだったのだ。シラヌイの――大神アマテラスの思惑通りに事が運んだのだ。

 あの店主も相当なものだと思っていたが、上には上がいるものだ。神ともなると、遠回しなやり方もスケールが桁外れだ。

 一頻り笑い終わると、少女たちから奇異の目で見られていた。シラヌイの周囲にいる面々も同様だ。得体の知れない風来坊が――いや、普段は寡黙な印象のあるナイブズが、唐突に大笑いをしたのだから、そういう目で見たくもなるだろう。

 すると、アテナが唄い始めた。舟謳ではなく、あの時の歌でもなく、初めて聞く歌だった。

 

 昨日までの自分との決別、未来への祈り、大切な願い、様々な想いが込められた歌。

 ミリオンズ・ナイブズの犯した罪はResetすることはできない。だが、過去を振り返り迷ってばかりではなく、もっと今に目を向け、先へと進もう。

 過去を忘れず背負ったまま、今に目を向け、その先にある、なにも描かれてない未来へと進む。それが、ナイブズなりの仕切り直しだ。

 そこに、きっとあるはずだ。

 探していた答えが、きっと。

 

 アテナの歌を聴いている内に、様々な思いが去来した。

 歌に聞き入っていてすぐに気付かなかったが、いつの間にか、アテナを囲むように3匹の白い猿が現れて楽器を演奏していた。シンバルがうるさいが、それさえ忘れてしまうほど、桜花の捧げる花香に乗り、万里の波濤をも越えて、枯れたる苦界を潤すかのように、天上の謳声が舞い散る桜花と共に鮮烈に響き渡る。

 歌が終わると、ナイブズを含めた全員が惜しみない、万雷の拍手を贈った。

 最後にシラヌイが遠吠えを上げると、強烈な風が吹き始めた。これは、神空間でナイブズを吹き飛ばしたものと同じだ。何人かが倒れそうになったが、何処からか伸びた蔦が支えて守っていた。

 風は地表のものを巻き上げはしなかったが、咲いていた桜花を全て散らせて、元の枯葉に戻してしまった。季節外れの桜花はすべて、花の一片も残さず消えてしまった。三匹の猿も、同様に姿を消していた。

「夢か幻みたいでしたね」

 風で乱れた髪を整えることも忘れて、灯里が、ぽつり、と呟いた。

 確かに、現実に起きたこととは到底思えないような出来事の連続だった。

 しかしそれらは、間違いなく、現実に起きたことだった。今この時に、そして過去のあの時にも。

「それが現実に起きた場合を、奇跡と呼ぶのだろうな」

「……はいっ。素敵な奇跡でした」

「きっと、この火星(ほし)も、素敵な奇跡で出来てるんですね」

 ナイブズの答えに、双葉と灯里は頷いて、それぞれに奇跡へ想いを馳せた。

 そこに調度、藍華とアリスが来ていたのだから、この後の展開が目に見えるようだった。

「恥ずかしい台詞、禁止ぃっ!!」

「ナイブズさんまででっかい恥ずかしいです……」

「いやっいやっいや~んっ!」

「ええーっ」

 ナイブズも巻き込まれた以外は、完全に思った通りだった。

 このやり取りもナイブズの中で定番となりつつあるが、ふと、灯里の口にした星という言葉が気に掛かった。

 今まで、ナイブズは人の輪の外で、人の在り様を観察しているつもりだった。時に外縁部と接する程度で、輪の中に加わっているとは思っていなかった。

 だが、そうでは無かった。いくつもの輪が重なり合った球の中に、その上に、自分もいたのだ。

 違う時に違う場所で過ごしていても、同じ星の上で、同じ空の下で、同じ海の傍で生きていたのだ。

 大地を踏みしめ、微かに聞こえる波のさざめきに耳を澄ませ、遠く深い空を見上げる。

 生まれ直し、死に直す。

 ブルーサマーズの最期の言葉が、脳裏を掠めた。

 


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