ネオ・ヴェネツィアの冬の到来は、屡、雪虫の来訪と初雪の観測によって告げられる。昨日は雪虫の到来と初雪の観測が、ほぼ例年通りに行われた。
雪。雨と同じく、気象現象の一つ。空から降り注ぐ、氷の結晶。気温が低くなければ融け消えるばかりだが、気温が氷点下ともなれば降り積もる。
そう、調度今日のように。
彩り鮮やかなネオ・ヴェネツィアの街は、この日ばかりは白く雪化粧が施され、誰の目にも明らかに、冬が訪れていた。
この光景に、ナイブズは暫し見惚れていた。いや、ずっとだ。夜が明けて街に出てからずっと、一夜にして現れた白銀の世界に目を奪われていた。
初めて海を見たあの時。初めての雨の日。久方振りの未体験の現象との遭遇。知識はあっても、認識も理解も追い付かない、この衝撃。
吐息も白い。砂の惑星でも、夜間には放射冷却による急激な温度低下によって防寒具が必要になるほど冷え込み、氷点下になることも珍しくなかった。移民船団でも、冷凍睡眠区画では常に氷点下で、ヴァッシュと一緒に防寒具を着込んで足を運んだものだ。そのいずれの時も吐息が白くなっていたが、砂漠の深夜に冷凍睡眠区画と一定の特殊な状況下であって、今のように、平日の昼間のような環境化ではなかった。
ナイブズがこの星に、この街に訪れたのは、寒さも緩み始めた冬の終わり。本格的な冬の寒さ、冬の景色を体感するのは、今この時が初めてだった。
呆然と景色を見つめている内に、鼻先に止まった雪の感触で我に返り、新雪を踏みしめ、足跡を刻み込みながら歩き出す。
踏みなれた砂とも石畳とも違う雪の感触を確かめながら、一歩一歩、静かに、確かめるように、ゆっくりとした歩調で進んでいく。
街の表通りに出ても、一面の銀世界は変わらず。雨の日とは違い、人々は傘を差さずに厚着をして出歩いて、時折肩や帽子に積もった雪を手で払っている。中には傘を差している人間もいるが、少数派には違いない。
ふと我に返って、自分の肩や頭にも、雪が積もっていることに気付く。手で雪を払う。一瞬、前方から意識が外れた、その隙に、大きな球体が横道から現れた。
反射的に蹴り砕こうとしたのを止めて、後ろへ軽く飛び退く。雪玉を押し出して現れたのは、雪よりなお真白き体毛の狼、アマテラスだった。
「……何をやっているんだ、お前」
ナイブズが話し掛けると、アマテラスは一声鳴いて雪玉を体で押して転がして、少し歩いたところで立ち止まって、ナイブズの方へ振り返った。ナイブズは無言のまま凝視する。アマテラスはまた雪玉を転がして、またナイブズに振り返る。
「………………一緒に来い、と?」
大きく元気な鳴き声一つ。正解らしい。
いったい、こんなことが何になるというのか。そもそも、本当に何をしているのだこの大神は。今日も従者を撒いての散策か。
色々と考えを巡らせていると、アマテラスが出て来た横道から人の気配が近付いてきた。
「おいこらポチ、待たんか。まったく、俺様を置いて行きやがって……ん? ナイブズじゃねーか」
「暁。何をしている」
アマテラスを追ってやって来たのは、ナイブズの見知った人間ではあるが、アマテラスとは接点の無いはずの暁だった。
「散歩ではないぞ、これも
ナイブズはアマテラスを追って来たことについて尋ねたつもりだったが、暁は浮島から降りていることについての説明をして来た。しかし、それはそれで興味を惹かれる内容だったので、話の内容をそちらへ合わせる。
「都市機能が麻痺する自然現象ともなれば、そういうこともするか。そこまで再現する必要があるかは疑問だが」
「まぁな。俺様だって、一々こんなことをするのは面倒さ。寒いし冷たいし。それでも、雪も雨も、地球文化の継承で欠かせないものだから、きっちり管理して降らせてるんだと」
「文化継承に気象が……? 雨は植物の生育にも役立つが、雪にはどのような機能的側面がある?」
一人前の火炎之番人たちからの受け売りという、暁からの思わぬ返答に、ナイブズは思わず喰いついた。気象と文化に密接な関わりがあるという発想が、微塵も無かったのだ。
暁は暫し考え込む様子を見せると、妙案が思い付いたとばかりの表情で手を叩いた。
「よしっ。では、この俺様が、ポチを追いかけがてら、教えてやろうではないか」
「ポチ……アマテラスのことか」
暁の指した先にいる、雪よりも真っ白な毛並みの大神は、雪玉の前でちょこんと座っていた。ナイブズ達の話が終わるのを待っているらしい。
「お前はそう呼んでんのか。
「俺も以前はシラヌイと呼んでいたな。お前はどうしてポチなんだ」
言うと、暁はアマテラスへと歩み寄り、横へ並ぶと頭を、ぽんぽん、と軽く叩いた。
「見ろ、このぽあっとした顔を。どこからどう見てもポチだろう?」
アマテラスはされるがまま、ぽあっとした表情でナイブズを見ている。本当にこれがあの大神なのかと、何度見ても未だに信じられない。
それはそれとして、シロなどと比べると外見からはポチという名前は連想しにくい。或いは、ナイブズの知らない民間的な文化や伝統によるイメージなのかもしれない。
「……それで、お前はどうしてアマテラスを追いかけている?」
暁は先程、火炎之番人の仕事で降りて来たのだと言っていたのに、今はアマテラスを追いかけているのだと言う。話に関連性が見えず、何がどうしたらそうなるというのか。
すると、暁はがっくりと肩を落とし、溜め息混じりに答えた。
「親方が知り合いの家の長男坊に、今日だけは様子を見てくれと頼まれたんだとよ。なんでも、雪で夜中にはしゃいだ兄妹3人と親父が風邪で寝込んでて、ポチの相手までしてられないんだと」
「それで、半人前のお前まで回されて来たと」
「そうなんだよ……。仕事のついでにできるだの、なんか、俺の名前にも縁があるだのなんだの言われてよ……」
合点がいった。所謂、子請け孫請けの構造で、盥回しというやつだ。上司が請け負った厄介ごとを、下っ端の半人前に、仕事のついでにと押し付けられたのだと、それならば話も分かる。仕事との両立も不可能ではあるまいが、兼ねるのが奔放なアマテラスの世話ともなれば、手間や労力は徒に増すことだろう。
それにしても、あの神社の連中だ。話を聞く限り、寝込んだのは秋雨、秋生、秋穂、紅祢の4人のようだが、親子揃って、低温度化で体調を崩すほど何をやっていたのやら。
「というわけだ、ナイブズ。色々教えてやるから、お前も付き合え。……なんだったら、事が済んだら、美味い飯屋にも連れて行ってやろう」
恐らくは、ここに来るまでアマテラスの奔放さに散々翻弄されたのだろう。無駄に強気で勝気なこの男が、ナイブズが何か言うより先に、見返りについて口にして来たのだから。
数秒、アマテラスの思惑に流されることへの抵抗感と、雪に纏わる文化的知識への好奇心を秤にかける。
「まぁ、いいだろう」
ナイブズの答えを聞いて、暁は大仰なぐらいに機嫌よく笑って、アマテラスも一声鳴いた。そして、雪玉を転がすアマテラスを暁と共に時々手伝いながら、ナイブズは雪道を歩き出した。
▽
「それで、文化継承と雪にどんな関わりがある?」
「見ての通り、雪は雨以上に環境を変えちまう。アクア・アルタ程じゃあないが、雪が積もっている間は、観光客も減ってネオ・ヴェネツィアも静かなもんさ」
「商店は開いているが、確かに、人や舟の往来が少ないな」
「水先案内業も、開店休業だからな」
「何故だ?」
「乗り降りの時に、地面が凍ったり雪が半端に溶けたりしてると、滑って危ないんだとよ。この寒い時期に、転んで水に落ちたら大変だぜ」
それを聞いて、ナイブズは調度すぐ脇に水路があったので足を止めて、膝をついて水に手を触れた。
触れている間も、手を抜いて外気に触れている間も、とても冷たく、体温が奪われていくのを感じる。もしもこれが、全身に及んだとしたら。
「……なるほど。下手をすれば、低体温症で死ぬだろうな」
「何でお前はそう物騒な考えがすぐに思いつくんだよっ」
そうは言っても、真っ先に生死のリスクが思い付いたのだから仕方あるまい。
立ち上がり、勝手に先に進んでいるアマテラスを追いかけつつ、話を続ける。
「こんなデメリットだらけの気象を、態々再現しているのは何故だ? それに勝る文化的価値とはなんだ?」
「まず第一に、綺麗だろ?」
「否定はせんが……それだけか?」
「雪景色を題材にした芸術作品が沢山あるんだから、実際の雪景色だって残しとかなきゃならん……ってのが、親方衆の答えだ。実は、俺もよく分からん。綺麗だってのは分かるけどよ」
前半部分はらしくない物言いだと思ったが、何のことは無くただの受け売り。後半部分については、ナイブズもほぼ同様だ。付け加えるとすれば、寒気がするほどの美しさだということか。
「そして第二に、雪があってこその色んな遊びがあるんだよ。ポチがやってる雪玉転がしとか、雪合戦とか。ここらじゃ縁が無いが、山肌でスキーとかスノーボードとかもあるな。そういう雪遊びの他にも、雪像造りとか、かまくらとか、雪と氷で出来た家で有名な街もあるぜ」
すらすらと列挙していくのは、遊びという自身に親しみがあるもの故か。これには、ナイブズも素直に感心する。雪によって環境が大きく変われば、それだけ雪を使った遊びも生まれるものか。
「雪だけで、それだけの文化的側面があるのか……。それならば、多少のデメリットに目を瞑ってでも、再現するのは妥当か」
火星開拓と移民の最大の目的は、喪失されていく地球の人類文化の継承と保全。それを鑑みれば妥当な判断であり、適切な行動であろう。
それに、雪を踏みしめて歩く、この独特の感触も悪くないものだ。喪失させるのを惜しむ気持ちも、分からなくも無い。
「む、どうしたのだ、ポチ」
ナイブズが足元に気を向けた数秒の間に何かあったらしく、暁がアマテラスに声を掛けていた。視線を上げると、アマテラスが狭い路地の曲がり角で立ち往生していたのだが、その奥にある雪玉を見て、ぎょっとした。
「……いつの間にあんなに大きくなったんだ、あれは」
最初はアマテラスの頭と同じぐらいの高さだったはずが、いつの間にか、ナイブズの首元ほどの高さにまでなっていて、明らかに肥大化していた。暁との会話に集中し、前を行くアマテラスにはあまり視線を向けていなかったから、その奥にある雪玉の変化に気付けなかったのだ。
途中で入れ替えたのか、それとも、またアマテラスの神秘の業か。太陽神ではあるが、風や草木、果ては時空間まで操ってみせたのだ。今更、雪を操る程度では驚くにも値しない。
すると、隣から笑い声。暁が、ナイブズの反応に声を上げて笑っていた。
「雪玉ってのは、転がすだけで地面の雪が少しずつくっついて、どんどん大きくなるんだよ」
この解説に、ナイブズは驚き、同時に納得した。
「そうか、だから“遊び”なのか」
雪の玉を転がすだけで、果たして遊びと言えるのか。微かに懐いていた疑問が払拭される。
雪の性質を利用して、そのまま遊びにしてしまうとは。一口に遊びと言っても、中々に奥が深い。文化の代表例として挙げられるのも納得というものだ。
「はひー。おっきな雪玉ですー」
「ぷいにゅー!」
「あらあら、大変ね」
すると、雪玉に遮られた向こうから、聞き覚えのある声が3つ聞こえた。内2つは、聞き慣れたと言ってもいいぐらいだ。気配からして間違いあるまい。
「そのお声は……!? あ、あ、ああ……アアア、ア、アリシアさん?!」
暁が素っ頓狂な声を出すと、その声の主を確かめようと、雪玉の両脇からARIAカンパニーの水先案内人の2人――灯里とアリシアが、ひょっこりと顔を出した。社長は、アマテラスの雪玉に乗っている。長靴に手袋にマフラー、帽子に耳当てと重装備だ。そこまで寒いのに、何故出歩いて、雪玉に乗っているのやら。
「暁さんと、ナイブズさん、それにシロちゃんも。こんにちは」
「今日は一緒にお散歩ですか?」
「そんな所だ」
灯里の挨拶に手振りだけで返し、アリシアからの問いに適当に頷く。散歩の途中で出くわしてこうなったのだから、間違いではない。
「何を言う。無知な貴様に乞われるまま、寛容にして寛大なる俺様が、この火星の雪とは如何なるかを教えてやっていたのではないか」
すると、暁が興奮気味に割って入って来た。先程のアリシアへの反応と、それからボッコロの日にアリシアに薔薇の花を渡そうと躍起になっていたことを思い出した。
どうやら少しでもアリシアにいいところを見せようと、ナイブズをダシにしようという魂胆らしい。健気なことだが、どうにも癇に障る物言いだ。
「一人ではアマテラスの相手をするのは大変だと言って、同行を頼んで来たのはお前だったはずだが?」
ナイブズが言うと、アリシアの前で得意げな表情をしていた暁の表情が崩れ、ぎぎぎ、と首を軋ませ、歯軋りしながら振り向いてきた。そこまでのことか。
「……細かいやつめ、忘れていればいいものをっ」
「お前の都合のいい記憶の改竄能力と忘却能力は、ある意味羨ましいな」
「どういう意味だ、貴様っ」
売り言葉に買い言葉、ナイブズにしては珍しく、相手の程度に合わせた口論を展開する。
揚げ足取りが面白いとか、そういうことではなく。なんとはなしに、自然とそういう言葉が口をついて出て来るのだ。
「あらあら、仲が良いんですね」
「そうか?」
「いや、そんな、滅相もありません! ところで、アリシアさんたちも、こちらまで雪玉を転がして来たんですか?」
アリシアに割って入られて、ナイブズは気の抜けた返事をして、暁は即座にそちらへの反応に全力を費やしたから、すぐに口喧嘩は終わった。喧嘩、というほどのものでもなかったが。
そして暁が言うのでよく見れば、アマテラスの雪玉の向かい側には1回り小さな――それでも十分に大きい――雪玉があった。
「うふふ。ちょっと、灯里ちゃんとお散歩してたら、やりたくなっちゃって」
アリシアは無垢な少女のような微笑みを浮かべて答えた。あの秋乃の直弟子というだけあって、雰囲気や話し方に似通った部分がある。灯里も含め、よく笑うことだ。
それにしても、散歩の最中に何があったら雪玉転がしをやりたくなるというのか。アマテラスに関しては、まず間違いなくただ遊びたかっただけだろう。
ふと、アマテラスの雪玉を見ると、その大きさに興奮しているのか、上に乗ったアリアがジャンプするなどしてはしゃいでいる。それを見守るアマテラスも得意げだ。すると、アリアが飛び跳ねて、着地に失敗して転んだ拍子に、雪玉が転がり出した。
「あ」
降り落とされたアリアはアマテラスが助けて大事には至らなかったが、雪玉は転がっていき、少し離れた所で民家の壁にぶつかった。
「あ~」
アマテラスがせっせと転がして大きくした雪玉は、罅が入り、そのまま割れた。
これを目の当たりにしたアマテラスは、大口を開けて呆然としている。
「ポチよ、気を落とすな」
暁がポンと頭を軽く叩いて、慰めるように声を掛ける。
アマテラスは割れた雪玉の所まで歩いて行って、前足で、ちょんちょん、と触る。そして、その場に座り込み、がっくりと項垂れた。
「そこまで気落ちする程のことか、ポチ!」
更に暁が声を掛けるが、アマテラスはその場で丸くなって不貞寝をしてしまった。
こいつはやっぱり、知能が高いだけのただの犬ではないだろうか。幾度となく超常の力を見せつけられたという事実が信じられなくなる光景だ。
「ぷいにゅ~……」
「アリア社長、ついはしゃいじゃったのね。シロちゃん、ごめんなさいね」」
アリアは涙目になって落ち込み、アマテラスに対して何度も詫びている。その様子を見かねてか、アリシアは身を屈めてアリアの頭を撫でて慰めている。アリシアも謝罪しているが、アマテラスは尻尾を動かすだけで他に反応を示さない。
その様子を、ナイブズは黙って見守り、暁は何やら腕を組んでなにやら思案している様子だ。
「……うむ。もみ子よ、ちょっとこっちに来い」
「えーっ。どうして私だけ……?」
「アリシアさんのお手を煩わせるわけにはいかんし、ナイブズは恐らく使い物にならん」
「ぷい! ぷぷぷい!」
「おっ、手伝ってくれるのか、アリア社長」
暁は何かを決めると、灯里とアリアを連れて砕けた雪玉の所にしゃがみ込んで、なにやら作業を始めた。
「あらあら。何ができるんでしょうね」
「さぁな」
恐らく、雪の塊を流用して何かを作ろうとしているのだろうが、雪に疎いナイブズでは見当もつかない。
「アリア社長、調子はどうですかー?」
「ぷいきゅっ」
「うふふ。頑張ってくださいね」
「ぷーい!」
「暁くんと、灯里ちゃんもね」
「はひっ」
「はいっ、もう少々お待ちくださいっ!」
アリシアは不貞寝するアマテラスの傍に座って、慰めるように毛並みに沿って体毛を撫でながら、アリアにエールを送る。残る2人への気遣いも怠らないが、主たる目的はアリアへの激励であろう。
「……叱って躾けるぐらいは必要ではないのか?」
「いえいえ。アリア社長なら大丈夫です」
そういうものであろうかと、ナイブズは訝しんだ。
教育のための叱責は重要であると、ナイブズは考えている。実際、レムに育てられていた頃は、ナイブズも勝手な行動を起こしては叱られたものだ。
レムに最後に叱られたのは、移民船団のエンジントラブルに際して、自分なりに解決策を探ろうと航行システムを覗き見して、結果としてシステム復旧に数秒のタイムラグを作ってしまった時だったか。もしもこの遅れが致命的な事態を引き起こしていたらどうなっていたことかと、幼いナイブズが泣いて謝るほどに怒られたものだ。
今となっては、こんなことさえも懐かしい。ヴァッシュは、テスラの件の直後、慰められたり、叱られたり、泣かれたりと、色々あったらしいが……――。
少々思考が逸れた。
叱られることによって、自らの行動が誤りであること、何らかの危険性を有していたこと、他に迷惑をかけるなど悪影響を及ぼすことなどを自覚し、自認し、反省する。幼く未熟な存在は、そうやって成長していくものだ。
アリアは、少なくとも幼くはないようだが、今までを鑑みるに拙く未熟な存在だ。叱責の機会は多かっただろうに、この寛容さはどういうことだ。もう諦めた、とは違うようだが。
「アリシアさーん! ナイブズさーん! できましたー、完成です~」
「うむ、我ながら見事な出来栄えだ」
「ぷいぷーい!」
改めて問い質そうかと考えていると、2人と一匹から声が掛けられる。見ると、そこには大小2つの雪玉を積み重ねた、奇妙な物体があった。上の方の小さい雪玉には、目と口を模ったらしきものが埋め込まれている。デフォルメされた、ガチャペンやムッくんのような、何らかのキャラクターであろうか。
「あらあら。とっても立派な雪だるまだわ。凄いわね、灯里ちゃん、アリア社長。暁くんも、ありがとうね」
「いっ、いえ! アリシアさんの御為ならば、なんのこれしき、ですよっ」
「……雪、だるま?」
どうやらナイブズの予想は外れていたらしく、雪像を指すらしい単語を鸚鵡返しに呟く。
雪は分かるが、何故だるまなのか。店主の店で幾つかだるまの実物を見たことがあるが、雪だるまとは似ても似つかない。共通点は、精々、手足が無いことぐらいか。
「なんだ、雪だるまも知らないのか」
「
「単純ゆえの多様性か」
暁が呆れ、灯里が雪だるまについて説明をする。これを聞く限り、赤いダルマは名の由来程度で、直接的な因果関係は無いのだろう。そういうこととして結論付ける。
「お、ポチも元気になったな」
暁の言う通り、アマテラスは雪だるまを見ると機嫌を直して、尻尾を振って一声吠えた。
それからは、なし崩し的にARIAカンパニーの面々と共に、アマテラスに付き合うことになった。
ある広場ではアマテラスが子供と遊んでいる内に、雪合戦という、手の平程度の大きさの雪玉を作って投げてぶつけ合う遊びに参加することになった。雪で作った玉ならば、当たってもすぐに崩れてそちらにエネルギーが分散して、さしたるダメージにはならず、玉の材料も地面に無数にある。実に理に適った遊びだ。
しかし、ナイブズの超人的な身体能力で投げてぶつけたらただでは済まず、力加減も面倒なので避けることにのみ専念していた。そうしたら、いつの間にか誰が最初にナイブズに雪玉を当てられるかで競争、という風に遊びが変わっていた。いや、暁が言い出したのだったか。
30分ほど避け続けていたのだが、アマテラスの仕業か、突如視界を黒い液体のようなもので塞がれ、その直前に少女が投げた雪玉が当たってしまった。
狙ってくる全員が飽きるまで逃げ遂せるつもりが、まさか人間の少女相手に不覚を取ることになり、少女当人も意味の分かっていない「シベリア送りですっ」を言い渡され、ナイブズは言い知れぬ屈辱感を味わい、暁には大笑いされた。むかついたので、手近なところにあった雪玉――ではなく、アリアを放り投げて黙らせた。
以後もそのようにして、道行く人々をも巻き込みながらアマテラスの遊びと気紛れに付き合い、街中を巡った。
気が付いた頃には、既に街を夕焼けが染めていた。
秋の日は釣瓶落とし、という諺があるが、冬の日が沈むのは更に早い。冬至と呼ばれる、一年で最も早く陽が沈み、一年で最も日照時間の短い日も、冬にある――とは、アリシアの解説によるところだ。
ARIAカンパニーへの道程で天道神社の長男坊・丈と出くわし、アマテラスを引き渡すこととなった。
丈は元から頼んでいた火炎之番人である暁の他にも、手伝ってくれたナイブズやARIAカンパニーの面々に深々と頭を下げて感謝の意を示し、アマテラスを連れて去って行った。
「シロちゃ~ん、ばいば~い」
「ポチよ、あまり人様に迷惑をかけるんじゃないぞ」
「ぷいぷ~い」
「御家族の皆さん、早くよくなるといいですね」
「これからは自重しろと伝えておけ」
「面目次第も御座いません。……それでは」
アマテラスたちと別れてからほどなくして、ARIAカンパニーにも無事に到着した。
「すいません、アリシアさん。せっかくの休日をポチの世話なんぞに付き合わせてしまって」
「いいのよ、私も灯里ちゃんも楽しかったから」
「はひっ。とっても楽しかったです」
「ぷい~」
暁たちは穏やかに挨拶を交わし、談笑している。暁の表情が、アリシアと話している間はだらしなく弛緩しているのだが、灯里と話す時だけは元に戻っている。これが見ていてなかなか面白い。
話もある程度落ち着いたのを見計らって、ナイブズはアリシアへと問いかける。
「アリシア、一つ訊きたい」
「はい、なんでしょう?」
「お前は何故、そこの猫を怒りもせず叱りもせず、野放しにしている。こういう手合いは、懲らしめるなりしなければ、懲りずに同じ失敗を繰り返すぞ」
純粋な疑問への答えは、純真な笑みだった。
「私は『駄目ですよ』と叱ったり、『どうしてですか』と怒ったりするよりも、『こうですよ』と教えて、『頑張って』と応援したいんです。そうじゃないと、叱られて怒られてばかりいたら、きっとアリア社長は、怖くなって何も身動きできなくなっちゃうと思うんです。だから、怒ったりとか、叱ったりとか、しないようにしています。アリア社長なら、ちゃんと分かってくれますし」
それはつまり、アリアは一般的に怒られたり叱られたりするようなことを頻繁に仕出かしているという意味ではないだろうか。それならば尚更、怒って叱って躾けることの重要性は高いもののはずだ。なのに、どうしてアリシアはそれに対して否定的なのか。
数秒考えて、ナイブズはアリシアの言葉の後半部分に違和感を覚え、聞き返した。
「……お前、まさか、今までただの一度も怒りを覚えたことや、憤りを感じたことも無いのか?」
この問いは、余程意外だったのだろう、アリシアは呆気に取られて、きょとん、とした表情になった。灯里や暁も同様だ。
「あ……はい。覚えている限りでは、ありませんね。怒っているよりも、笑っている方がいいと思いますし」
「おお、流石はアリシアさん! まるで御仏、慈母、女神の如き寛容さ、寛大さ!」
「そういえば、私も怒られたこと、叱られたことが無いです」
アリシアの言葉を聞いて、暁は感極まったように絶賛し、灯里は自らの体験を以て真実であると言った。
「……そうか」
それならば、怒りがどういうものか分からず、叱ったらどうなるかの実感が伴っていないのも当然か。
砂の惑星ならばいざ知らず、この水の惑星ならば、怒りを覚えるほどに己の大切なものが脅かされ、誇りや信念が侵されるような事態が起こりえない、ということも、あり得るのだろう。
そうやって結論付けたが、釈然とはせず、納得もできない。
どうやらこの女とは、反りが合わない。
▽
陽が沈み、空の色が次第に黒く染まる頃。ARIAカンパニーから離れてやって来たのは、暁の地元の浮島ではなく、ナイブズも一度訪れた地下だった。
曰く、雪の実態調査は数日に亘って行われるもので、普段浮島に籠りがちな火炎之番人の半人前たちにネオ・ヴェネツィアの街で息抜きをさせる側面もあるのだという。尤も、町が静まり返っている時に下ろされても何も面白くない、とは当人の弁だ。
地重管理人の住まう地下街へ、入場手続きを済ませて入る。場所が場所だけに、明白な理由か地重管理人の同行か紹介が無ければ立ち入ることのできない閉鎖的な空間だが、今回は半人前からの紹介を暁が口頭で伝えるだけで許可が下りた。前回もそうだったが、随分と緩いことだ。悪意を持った侵入者が長く現れていないことが、容易に推測できる。
地下街へと至り、今回はエレベーターを使わず、巨大な縦穴の壁面に造られた、長い長い階段を降りていく。
先導する暁が、歩き疲れたと愚痴を言い始めた所で、目的地に着いた。
店の入口に掲げられた垂れ幕のような布――暖簾――には、でかでかと『きのこなべ』と書かれ、右脇に『名物』と小さく書き添えられている。
もしや、と思って暖簾を潜る。まず、店員が「いらっしゃいませ」と来店を歓迎し、暁が何事かを伝えようとしたところへ、横合いから聞き覚えのある声が掛けられた。
「暁くん、こっちだよ」
「ナイブズさんも、いらっしゃいなのだ~」
そちらを見ると、店の一角でアルとウッディが手招きしていた。「おう、そこにいたか」と暁は鷹揚に答えてそちらへ向かい、ナイブズもそれに続く。
座席は和風の作りになっていて、靴を脱いで畳を敷かれた空間へ上がるようになっている。暁はウッディの隣に、ナイブズはアルの隣に座る。
「ここが、あの時言っていた店か?」
「はい。覚えていて下さったんですね」
アルに確認すると、どうやら間違いなかったようで笑顔で答えが返ってきた。アルが案内するはずだったキノコ鍋の店、それに今日来ることになるとは思わなかった。
「なんだ、来たことあったのか?」
「いや。以前ここに来た時、アルは回り道をして途中で立ち寄る予定だったのを、俺が最短経路で進んだから通ることも無かった、という話だ」
暁に訊かれて、秋の始まりの頃に訪れたことを思い出す。
思いがけず、火星開拓史におけるプラントの活躍の一端を知れたのは僥倖だった。そういえば、他にも
「そうか。ならば、俺様に感謝することだな。この店の鍋は、五臓六腑に染み入るほどの絶品だからな」
そう言われてみれば、確かに、今日暁と出くわさなければ、ここに訪れる機会はまずなかっただろう。だが、感謝するという気持ちは全く湧いてこない。まだここのキノコ鍋を食べていないこともあるのだが、ただの偶然の連鎖の結果でしかないのだから、暁の功績とは言い難い。
「こんな寒い雪の日は、鍋を食べて体の芯から温まるのが一番です」
「これで炬燵もあったら、言うことなしなのだ」
「うむ、全くだな」
「こたつ……?」
そんな話をしている内に、鍋が食べごろまで火が通った。鉄製の黒い丸鍋から、取っ手の付いた木の蓋が外される。白い湯気が立ち、熱気が顔まで伝わって来る。
具材は店名の通り豊富な種類のキノコが中心で、他にも鍋に欠かせない野菜や豆腐も――などとナイブズが観察している暇も無く、3人がお玉や箸を使って次々に鍋から具を取っていく。
「ふはははは! 油断大敵だぞ、ナイブズよ!」
「鍋と言えば早い者勝ちだからね。恨みっこ無しなのだ」
「そういうわけです」
鍋の彩を楽しむ余裕は無いようだ。……そういえば、料理を作った時に、ヴァッシュとおかずを取り合って、レムに行儀が悪いと叱られたこともあったか。
微かに過去を想いながら、ナイブズも鍋から適当な具材を、手元の取り皿に取り分ける。
手始めに、屋号にも謳っているキノコから食べる。この黒いのはシイタケという名前だったか。動物や魚の肉とは違う、独特の噛み応えと食感。キノコ自体の味は淡白だが、纏っている出汁の味が利いて中々の美味。一口では満足しないが、幾つ食べても飽きが来ない味だ。
次は白くて細長いキノコを、次はこのキノコをと、無心に食べ進めていく。
「ところで、どうだったナイブズよ。アリシアさんを間近で見た感想は」
暁に問われて、ふと我に返る。スープ代わりに鍋の
飲み干す頃には結論が出て、食器から口を離すと同時に答える。
「……気に食わん女だ、なんとなくな」
「何故だ!?」
「なんとなくと言った」
言って、鍋から次の具材を取る。ナイブズにとっては事のついでに収まる、些細な問題だ。だが、一般的なネオ・ヴェネツィア市民にとっては重大事であるらしく、3人の手は止まっている。
「驚きましたね。あのアリシアさんを気に入らない方がいるなんて」
「けど、誰しも合う合わないというものがあるからね。きっと、ナイブズさんとアリシアさんが、たまたまそうだったのだ」
アルとウッディはそれぞれに感想を言って、驚きを露わにしているが、ナイブズには知ったことではない。
なんとなくとは言ったが、実際には明確に気に入らない理由がある。口にしなかったのは、対面に座っている、今肩をわなわなと震わせている男を必要以上に刺激しないためだ……ったのだが、どうやら十二分な刺激を与えてしまったらしい。
「……よし! ナイブズよ、今日はアリシアさんの一番のファンであるこの俺様が、かのトップ・プリマ!
酒でも入っているのかというほど顔を赤くして、暁は早口で捲し立てて来る。これは面倒な事態になったようだ。
「俺があの女を気に食わんのは水先案内人としてではなく、人間として、一個人としてだが?」
「それを聞いては尚更だ!!」
事実を伝えて宥めようとしたら、迂闊にも火に油を注いでしまったようだ。心の底から面倒くさい。
「うわー……これは、想像以上に反りが合わなかったみたいなのだ」
「暁くん、頑張ってね」
ウッディとアルは暁を応援する姿勢を見せ、同じくアリシアファンの店員や他の客まで寄って来たが、ナイブズは彼らの言い分を適当に聞き流して、曖昧に頷いて、キノコ鍋をもくもくと食べ続けた。五臓六腑に染み入る美味に、偽りは無かった。
ナイブズがアリシア・フローレンスを気に食わない理由は、単純明白。
怒りを覚えたこともない人間風情が、さも全てを知悉したような物言いで、怒りを悪しきものとして断じて、忌避していたからだ。
かつて、その身を、魂さえも怒りの炎で燃やし続けたナイブズには、到底容認できるものではなかった。
怒りに狂うあまり我を忘れて、怒りの矛先を向けた先へと異常な暴力を揮っていたことは、ヴァッシュに指摘された通り、誤りだったのだと今は思う。だが、あの怒りそのものが過ちだったと思うことは決してない。今までも、この時も、これからも。
テスラの姿に、
あの女が怒りを覚えるような出来事は、この水の惑星でこれから起こる筈もあるまい。
だから、ミリオンズ・ナイブズがアリシア・フローレンスを理解し、許容する時は訪れない。アリシア本人は無自覚だろうが、その逆もまた然りだ。
それこそ、都合のいい夢の中か、余程の奇跡でも起きない限りは。