夢現   作:T・M

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#27.裏誕生日

 23月24日。

 今日もナイブズは街を歩く。しかし今日はいつものような散策ではなく、店主から依頼された仕事へ赴くためだ。

 先日、天道(てんとう)神社の一家を風邪で寝込ませた原因――アマテラスを夜な夜なはしゃがせた要因たる、冬の来訪者。極北の地に住まう神々(カムイたち)。彼らを猫妖精の許まで案内する役目が、今回のナイブズの仕事だ。

 引き受けた時も、そして向かっている今も、ファンタジックな説明にいよいよ一切の疑問を懐かなくなった自分に、つい苦笑してしまう。

 店主にはナイブズを彼らに面通しさせようという思惑もあるようだが、忙殺されているあの様子を見るに、今年中に片付けなければならないという仕事とやらがよほど逼迫しているらしい。それがナイブズ自身に纏わる何事かであることだと分からないほど、ナイブズも愚かではない。ヴォガ・ロンガの日を境に、次第に慌ただしくなって行ったのだから、嫌でも分かる。

 ヴォガ・ロンガの後日、いつものように街を散策していると普段に無い事態が連続した。街の住人から好奇の目を向けられ関心を示され、時にはアテナのファンから挨拶され、声を掛けられ、礼を言われた。中には嫉妬もあったか。

 冬を迎えてからは、時を経て街の住人たちの興味も薄れたのか、今ではナイブズへの反応もすっかり落ち着いた。だが、ナイブズが『街中の人々の注目を浴びていた』という点が問題なのだ。

 確認したら、案の定、ヴォガ・ロンガで水の三大妖精の“天上の謳声”アテナ・グローリィを助けた顛末が新聞やテレビやラジオ、その他ネットワーク上の様々な形式の情報配信などによって、報道され、広く知れ渡っていた。ナイブズの名前は伏せられていたが、顔だけは広く出回った。。

 ミリオンズ・ナイブズの顔をした男が、火星のネオ・ヴェネツィアにいるのだと、少なくとも、太陽系の全域に知れ渡ったのだ。

 完全に進行した黒髪化によって人相は多少変わっているが、ヴァッシュ諸共にナイブズを狙った砲撃の張本人――クロニカによって、ナイブズの黒髪化は報告されているはず。その点で別人と言い張るのも難しいだろう。そもそも、髪は染められるものでもある。

 地球連邦政府の中でも少なからず存在するであろう、人類史上最悪の虐殺者=ミリオンズ・ナイブズの名と顔を知る者達。彼らにナイブズの存在が認知され、捕捉された。現時点ではただの推測だが、間違いなく事実であろうという確信が強くあった。

 このような事態は予測していなかったわけではない。ただ、深くは考えていなかった。あまり、気にも留めていなかった。些末な事柄であるし、いざとなればどのように対処するかを決めてもいる。

 ただ、この街が、あまりに静かで、穏やかで、居心地が良かったのだ。だから、あまり考えたくなかった――。

 目的地へと歩を進めながら、思考する。去来するものは、焦燥や困惑ではなく、ある種の諦観。そして、弟への懺悔。

 ヴァッシュ。お前はこんなことを幾度も繰り返しながら、あの言葉を紡いだのだな。無知のまま引く引き鉄の傲慢、正しくその通りだったよ。

 自嘲気味に笑みを浮かべ、歩を早める。急ぐ必要など無いことだが、今は手早く片付けてしまいたい気分だ。

 裏側から出て、表側へと出る。暫く歩いていると、ふと、聞き覚えのある声が聞こえた。

「裏誕生日おめでとう、アトラちゃん」

「裏誕生日おめでとうございます、アトラさん」

「ありがとう。杏、アリスちゃん」

「まぁ!」

「はい。まぁ社長も、ありがとうございます」

 最早聞き慣れた3人と1匹の声、対照的に聞き覚えの無い単語。この奇妙な取り合わせに、一瞬、思考が若干の混線を来たす。

「……裏、誕生日?」

 言うつもりの無かった単語が、気付けば口から零れていた。

 声のした先に目をやらずとも、視線がこちらへ向くのは容易に分かった。

「あ、ナイブズさん」

「こんにちは」

「まぁ」

 名を呼ばれ、挨拶もされ、一声鳴かれて、ナイブズはそちらを振り返った。

 ネオ・ヴェネツィアの街に幾つか点在する舟乗り場の一つに、オレンジぷらねっとの一人前未満の3人、半人前のアトラと杏、見習いのアリス――まぁ社長を大事そうに抱えている――が集まっていた。状況を見るに、杏とアリスをアトラが迎えに来たところなのだろう。

 ふと、アトラを見ると、アリスがまぁ社長を抱いているように、小奇麗な包装を施された小物を2つ抱えていた。そのナイブズの視線に気付いて、アトラは慌てて小物を舟に置いてある鞄に仕舞った。

「お騒がせしちゃいましたか?」

 どうやら、ナイブズからの視線を無言の叱責や批難の類と勘違いしたようだ。無論、ただの通りすがりでそんなことを思うことなど無い。

「いや、構わん」訂正してすぐ、どうせだから確認もしてみるかと思い至る。「……裏の、誕生日とは何だ?」

 誕生日自体は知っている。生物が誕生した日付を『誕生日』という特別な日として定め、1年毎に同じ日付で誕生と成長を祝う、地球でも古くから伝わる風習だ。ナイブズとヴァッシュも一度だけ、レムによって祝われたことがある。しかし、その“裏”と銘打つものとは何なのか、ナイブズでは想像もつかないことだった。レムも、誕生日に裏があるとは言っていなかった。

 一方、アトラと杏はナイブズの問いが余程意外だったのか、ぽかん、とした表情でナイブズを見ている。どうやら、火星及び地球圏では常識の範疇の知識らしい。

 すると、アリスが一つ咳払いをした。

「それでは、ご説明しましょう。……今日の主役のアトラさんが」

「わ、私っ!?」

 アリスから振られたアトラは大いに慌てていたが、これも観光案内の練習の一環、ある種のプレゼントだと言い包められて、戸惑いながらも、ナイブズへ説明を始めた。

「え、えーとですね……地球(マンホーム)の暦は1年が12ヶ月で……あっ! ナイブズさんは、地球(マンホーム)とも違う星からいらしてたんでしたっけ……!?」

「あの星でも、地球の暦をそのまま流用して1年を12ヶ月で運用していた。問題無い」

「そうでしたか……」安堵の溜め息を混じらせながら呟き、一つ咳払い。気を改めて、アトラは解説を続ける。「地球(マンホーム)暦の1年は12ヶ月ですが、火星(アクア)暦では1年が倍の24ヶ月もあるんです。つまり、火星(アクア)暦の1年は、地球(マンホーム)暦で2年分にもなるんです。ですから、地球(マンホーム)暦の1年に合わせて、火星(アクア)暦での12ヶ月後の日にもう一度、誕生日を祝う風習がずっと昔から、ネオ・ヴェネツィアだけじゃなくて、火星(アクア)全土であるんです。その日を、私達は裏誕生日と呼んでいるんです」

「なるほど、裏とは言い得て妙だな」

 言われてみれば、解説されれば、実に単純明快、すぐに納得できるものだった。

 誕生日の調度裏側、もう一つの誕生日。だから、裏誕生日。簡単な言葉遊びだ。

「それで、11月24日生まれのアトラさんは、本日23月24日が裏誕生日になるんです」

「ナイブズさんは、お誕生日はいつなんですか?」

 アリスが最後に付け足して、杏が言葉を翻す。

 誕生日、この世に生を受けた日。月日を経て年を一周した証――

 ――2405年5月3日02時06分  発見 保護

 ――229日目  投薬中に突如痙攣  14時間後『機能停止』

 ――テスラは、1年はおろか、その年を越すことすら、出来ていなかった……

 突然のフラッシュバック、一歳を迎えたばかりの頃に閲覧したデータの羅列が、イメージとなって脳裏を過る。自身の誕生日への頓着が極端に薄いからか、何故か、テスラのことを思い出してしまった。

 性質の悪い考えを断ち切るため、知識に則って最小限度の返答を奥から絞り出す。

「……もう過ぎたな」

 少女たちは、残念だとか、年末だししょうがないとか、色々に言っている。その間に、ナイブズは思考を整える。テスラのことは、裏誕生日ならぬ、裏命日にでもゆっくり考えることとする。

「ナイブズさんは、どんな風に誕生日をお祝いされたことがあるんですか?」

 すると、アリスがそんなことを尋ねて来た。予想外の質問に、つい聞き返す。

「……なんでそんなことを訊く?」

「でっかい興味がありますっ」

 何故そんなにも興味があるのか知らないが、問われて自然と思い出す。

 移民船団の中でヴァッシュと共に迎えた、レムが祝ってくれた、1歳の誕生日。最初で最後の誕生日の祝い。その日、その時のことを。

 プラント自律種の成長は著しく早く、ヴァッシュもナイブズも、3ヶ月程度で言語を解し、1歳になる頃には人間における10歳児程度の体格まで成長していた。知能や記憶力は相応以上で、その時のことは今でも具に思い出せる。

「祝いの言葉、それとほぼ同時にクラッカーを鳴らしていた。平時よりも豪華……いや、ケーキなど、特別な食事。そして――」

 移民船内部、当直船員1名を除いた全員が冷凍睡眠中、等々、極めて制約の多い限定的な状況下。レムは1人で、ナイブズとヴァッシュのために、誕生日の準備をしてくれた。

 

「こういう時は、とことん楽しむものよ。宇宙生活では、特にね!!」

 

 そう言って、はにかんで、微笑んだ、彼女の顔にあったもの。

 あれは確か……そう、わざわざ作ったという――

「――鼻眼鏡」

「ぶっ」

 ナイブズがあれの名称を口にした途端、3人が同時に吹き出した。何か、おかしなことを言っただろうか。まぁ社長も首を傾げている。

 すると、3人は口元を手で隠し、或いはお腹を押さえて、小刻みに震え出した。呼吸も乱れている。恐怖とは違うようだが、どうしたことか。

「も、申し訳っ、ありません……っ。まさかっ、ナイブズさんの口から、は、はな……鼻っメガネっ! なんて単語がっ、出るとはっ、思って……いませんでしたっ、のでっ」

 ああ、笑いを堪えていたのか。

 アリスは笑うまいと必死に堪えていたが、自分で『鼻眼鏡』を言うのと同時に吹き出していた。何がそんなに可笑しいのかはよく分からないが、彼女らにとっては余程可笑しいことらしい。

 ナイブズは一つ溜め息を吐いて、許しを出すことにした。

「構わん、笑いたいだけ笑え」

 ナイブズ本人からの許しが出るや、3人は声を上げて大笑いした。自分が笑われている構図になるのだが、然して不快感は無い。嘲笑とは違う、無邪気で無垢で純粋な笑いだからだろう。

 多分、レムもあの時は、こういう反応を期待していたのだろう。それに気付いて、当時の自分とヴァッシュの淡白な反応が、途端に申し訳なくなった。少しでも賑やかにして、楽しくしようと、レムも精一杯気を遣ってくれていたのだろうに。

 それでも、やはりあれは、あの鼻眼鏡はどうかと思う。少なくとも、ナイブズの感性では笑いが込み上げて来ないのだ。

「邪魔をしたな」

 3人の笑いが治まったのを見届けて、ナイブズはその場を立ち去ることにした。

「……あの、ナイブズさんっ。もう少しだけ、お時間宜しいでしょうか?」

「杏さん?」

「杏?」

 背に届いた声の主は夢野杏。アリスもアトラも、ナイブズを引き留めることに怪訝そうだ。

 ナイブズは振り返り、杏の目を見た。思い付きなどではなく、何らかの明白な意思があるようだ。

 数瞬の思案。

「………………昼までなら」

 急ぎの仕事ではないということだし、遅れたら神社の連中が大変になるだけらしいし、その程度なら付き合ってもよかろう。

 ナイブズの返事を聞いて、杏は、ぱぁっ、と笑顔になってアトラへ振り返った。

「アトラちゃん、ナイブズさんとお話したいって、言ってたよね?」

「そのために……? ありがとう、杏」

 アトラにナイブズと話す機会を作るために引き留めたようだが、何故アトラがナイブズと話す機会を求めていたのか、それが分からない。実際に話せば分かることだろうが。

 そんなことを考えている内に、アリスと杏はまぁ社長を連れてそそくさと立ち去ろうとしていた。

「……えっと、2人きりは変に緊張しちゃうから、みんなも一緒にいてくれる?」

 アトラに呼び戻されて、2人はすぐに踵を返した。下手に気を遣おうとしただけで、離れたくて離れたわけでは無いようだ。

 2人が戻ってくると、アトラはナイブズの隣に立ち、乗って来た黒い舟を眼鏡越しに見つめながら、静かに語り始めた。

「実は、私……一人前(プリマ)になるのを、諦めようかと思っていたんです」アトラは一度、半年ほど前に、一人前への昇格試験に落ちたのだという。「たった一度の失敗でしたけど……今まで積み重ねてきた努力も、私という人間自体も、私の全部を否定されたような、そんな絶望感があって……」

 挫折の直後、絶望感でおかしくなるのは、誰しも同じか。

 アトラの言葉を聞いて、ナイブズは、昔日の自分自身を思い出した。

 ブルーサマーズの報告により、GUNG-HO-GUNSを差し向ける直前のヴァッシュは、ナイブズへの殺意を明白に口にしていたことは知っている。だからこそ、ジェネオラ・ロックでブルーサマーズは独断専行でヴァッシュを殺そうとしたらしいが、そこは些細なことだ。

 ヴァッシュと別れてからの80年、ナイブズは“力”の研鑽も兼ねて人間を殺して回った。村ごと、町ごと、都市ごと、人間を間断なく駆除し続けていた。

 レムが決死の覚悟で――文字通りに命を懸けて救った人々を、その末裔を殺し続けるナイブズへの怒りが、対峙できないまま過ぎ去る日々の中で業と煮え滾り、いつしか殺意にまでなっていたのだろう。ブルーサマーズが差し向けた一人目は、あのヴァッシュがあわや殺すところだったというのだから、驚くべきことだ。結局あいつは、引き鉄を引かなかったが。

 それでも、ナイブズはそのことを知っていたのだ。ヴァッシュの心の奥底には、確かにナイブズへの怒りが、憎悪が、怨恨が、それらが渾然一体となった殺意が秘められているのだと、そう確信していた。

 だから、あの時。人類との決戦に敗れ、全ての同胞からも見放されて、対極に独り立ち尽くした時に、ナイブズは願ったのだ。自らの死を、ヴァッシュに殺されることを。

 まったく、やはりあの時の俺はどうかしていたから、あんなバカげたことを考えたのだ。ヴァッシュに人殺しの業を背負わせようなどと。既にヴァッシュがその業を背負い、それでも立ち上がって来たのだとも知らずに。

 或いは、その業があればこそ、人を殺してしまったからこそ、ヴァッシュはナイブズを殺さなかったのかもしれない。自ら選んで、レガート・ブルーサマーズを殺してしまっていたからこそ。命を奪うことの重みを、辛さを、苦しさを、知ってしまったからこそ。

 ナイブズが思考をまとめた頃には、口籠っていたアトラも、大きく深呼吸をして、続く言葉を紡ぎ出す準備を終えていた。きっと彼女も、ナイブズのように、その時の自分のことを思い出していたのだろう。

「灯里ちゃんと一緒にトラゲットをした日に、杏やあゆみにも同じようなことを言っちゃったんです。一人前(プリマ)になれないのはしょうがないから、半人前(シングル)のままトラゲットを続けていこうかなって。そしたら、あゆみがナイブズさんの言葉を教えてくれたんです。そんなことで、過去と未来の自分に誇れるのかって」

 一瞬、いつそんなことを言っただろうかと考えて、思い出した。初めてあゆみと会い、舟に乗せてもらったあの日、去り際に告げた、かつて自分で口にした言葉からの流用だ。

 敗北を認めた自分が、ヴァッシュに対して発した偽らざる本心であり、敵意を誘う挑発であり、精一杯の強がりでもあった。そんな言葉を、精一杯に強がっている少女を見て、つい口に出していたのだ。

「……よく覚えていたな」

 あれから話題に上るのはヴァッシュの話ばかりで、言われた本人もついでの言葉として忘れているか、聞き流して覚えていなかったのだろうと、ナイブズもいつしか意識から外していたのだが。

「ナイブズさんにとっては何気ない言葉だったかもしれないですけど、あゆみちゃん、一番勇気を貰えた言葉だって言ってましたよ」

 杏が補足して、その通りですとアリスも頷く。そして、アトラは続ける。

「私も、あゆみと同じです。それで、目が覚めたような気がして……みんなにも励まされて、今もこうして、一人前(プリマ)を目指せてます」

 敗北を認めた狂人のただの強がりが、夢を追う無垢な少女たちに勇気を与える激励になるとは、分からないものだ。

 この時、つい、ナイブズの口の端が緩んだ。自分でも気付かぬ内に。

 これを見たアトラは、笑顔を浮かべて、ナイブズに最も伝えたい言葉を贈る。

「ありがとうございます、ナイブズさん。あなたの言葉のお蔭です」

「お前が立ち直れたのは、俺ではなく、お前の友人たちのお蔭だろう」

「みんなにはもう、お礼を言いました。だから、後はナイブズさんに言うだけだったんです」

「そういうものか」

「はい、そういうものです」

 ただ、言葉が人伝に伝わっただけで、笑顔を向けられ、礼を言われる。やはり、何時まで経っても、こういうところはよく分からない。慣れはしたが、理解には遠い。

「よかったね、アトラちゃん」

「みんなのおかげよ。もう、ネバーランドを夢に見ることもきっと無いわ」

「ピーターパンやティンカーベルに会えないのは、寂しいんじゃないですか?」

「正直、もうそんな歳でもないしね」

 ピーターパンの御伽噺を引き合いに出して、少女たちは盛り上がっている。

 子供が成長しない不可思議な世界での冒険譚、だっただろうか。文学方面には疎いので、ピーターパンほどの高名な作品でなければ、題名と粗筋さえ分からない。

 ネバーランド。いつまでも子供が子供のままでいられる、大人にならない、ある種の理想郷。

 少女たちは、そんなネバーランドを否定し、変わらぬまま今に停滞することを良しとせず、未来へと変わりいく現実こそを是としている。

 安息の地、安住の地を見つけても、それでも旅を続けた、あいつのように。未確定の、如何様にも変わり得る未来にこそ、夢も希望もあるのだと信じて。

「変わりたいと思うのは、人も同じか……」

 呟きにも満たない囁き。しかしそれを、アリス・キャロルは耳聡く聴きつけた。

「ナイブズさんも、自分を変えたいと思っているというのは本当でしょうか?」

「誰から聞いた?」

「灯里先輩が、そうなんじゃないかと」

「まぁ」

 思いもよらぬ問いかけに訊き返せば、出て来た名前は水無灯里。アテナや晃のような洞察力ではなく、直感でそこまで言い当てられるものかと、驚きを通り越してやや呆れてから、過去の火星から帰還した後に、口を滑らせていたことを思い出した。あの時の内容から推察すれば、そういう結論も導き出せるか。

 そこまで考えて、「自分を変えたい」という一言への否定が全く浮かばないことに気付く。

 最初はただ、人間を見つめ直し、向き合おうと思っていた。それだけでも十二分な変化だと思っていた。だが、それで終わりではなかったのだ。

 そこから更に、緩やかに、季節が移ろうよりも遅々として、それでも、確かにナイブズは自分でも気付かぬ内に、少しずつ変わっていたのだ。

 知らぬ間に、願っていたのだ。変わりたい、変わっていこうと。今、この時も。

「……もう、随分と変わった。あまり意固地になっていたから、変わるまでに、途方もない時間が過ぎてしまったが……」

 150年、かかってしまった。

 ただ一心に、人類を全宇宙から滅ぼし、同胞を人類への隷属から解放せんがためにと。全ては罪無くして、搾取され続ける同胞の為にと。その為に、150年を費やした。

 しかしその野望も、他ならぬ同胞たちに拒絶され、否定された。全てが無駄になり、自分に残されたものは無く――ただ、空虚だった。あの瞬間には、そう思っていた。

「無駄じゃないですよ、きっと。その過ごした時間でナイブズさんの心が感じた全部が、今のナイブズさんに繋がっているんじゃないかな……って、あたしが、その、思いまして……」

 途切れたナイブズの言葉に返事をしたのは、杏だった。最初は滑らかだった語りが、後になるにつれて詰まって、どもって歯切れが悪くなる。緊張か、或いはつい口出ししてしまったが、目上に対して口にすることではないと恐縮したのか。

 どちらにせよ、ナイブズにとって興味深い言葉だったことに変わりは無い。

「お前の持論からの推論か?」

 問いかけることでナイブズが続きを促すと、杏は、ぱぁ、と喜びの表情を浮かべて元気に返事して、話を続けた。

「はいっ。あたしに他人を変えることはできなくても、自分で自分を変えることはできる。そのために、あたしはやわっこく、やわっこくなろうって思ってるんです」

「やわっこく……柔らかく?」

「はい。やわらかければ、どんな形にだってなることができる、どんなものだって吸収することができる、色々足りないものをいっぱい足すこともできるって、そう思うんです」

「なら、がちがちに硬かったら、どうなる?」

「委縮して、硬くなっちゃったら……自分の形を変えられなくて、何も吸収することも、足すこともできなくなっちゃう」

「だから……やわっこく、か」

「はいっ。やわっこく、ですっ。もし最初は硬くっても、毎日の中で、色んな人と出会って、色んなことをして、やわっこくなるんです。そうしたら、きっと、なんにだってなれる。憧れの一人前(プリマ)にだって……」

 最後に杏は、自らの夢へと思いを馳せていた。知らぬ内に、自分自身にも語り掛けていたのだろう。

 夢を見て、夢を追い、夢を叶えようとする少女の言葉は、ナイブズにも響いた。

 150年かけて、ヴァッシュは、ガッチガチに凝り固まった分からず屋の頭を、柔らかくしてくれたということか。そうやって柔らかくなれたからこそ、この星で、この街で、ナイブズは多くの体験を経て変わることができた。

 なるほど、分かり易いし、納得もできる。他人を変えることができるやつもいる、という一点だけは食い違っているが、些細なことだ。

 灯里と言い、光と言い、双葉と言い、そして今の杏と言い、ナイブズが複雑難解な長考をするところを、直感的で素直な言葉で一足飛びに形にしてしまう。

 まったく、不思議なやつらだ。猫妖精や大神たちなどよりも、よほど。

「そろそろいいか?」

 猫妖精と大神を連想して、仕事へ向かう途中だったことを思い出した。

 アトラとの話も終わり、杏からの話も終わった。留まる理由も無くなったのだからもういいだろうと、短く告げて立ち去ろうとしたが、アリスに呼び止められた。

「ナイブズさん、一つ忘れてます」

「なに?」

「誕生日にすること、さっき御自分で仰いましたよ」

「まぁ」

 誕生日にすること=裏誕生日にすることであろうから、ナイブズの発言した中に、今すべきことがあるということだろう。

「……鼻眼鏡の持ち合わせは無いぞ」

「そっ、それではありませんっ」

 一番反応があったことを取り敢えず言ってみたが、どうやら違うらしい。そうであっても困るが。

 他は、クラッカーは手元に無いし、ケーキなど以ての外だ。

 そうなると、今すぐにできることは一つだけ。

「……誕生日、おめでとう(ハッピー、バースデイ)

「ありがとうございます、ナイブズさん」

 ナイブズの祝いの言葉に、アトラは照れ臭そうに笑った。

 正解だったようで、アリスはなぜだか得意げにしている。これで先に進めるかと思ったが、またもアリスに呼び止められる。

「それでは、いつも教えて貰っているナイブズさんへのお礼に、私からも一つ、お教えします」

「なんだ?」

「今からちょうど一ヶ月後、アテナ先輩の裏誕生日なんです」

「まぁ」

「それが?」

「それだけです」

「そうか」

 それだけを聞いて、ナイブズは今度こそ仕事へと向かった。

 去り際に、ふとこの取り合わせにあゆみがいないことが気になって尋ねると、藍華共々後輩たちの指導を任されていて、今日会えるのは夕方なのだとか。

 最後にそれだけ聞いて、ナイブズは足早に立ち去った。目指す先は雀の宿屋。天道神社の一同は、とうに着いていることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 24月24日。

 この日は火星におけるクリスマス・イブであり、ネオ・ヴェネツィアでも1月6日のエピファニアを迎えるまでのクリスマスの祝祭の始まりの日であり、街は祭り(フェスタ)で盛り上がり、活気付いている。

 そして、水先案内業界ではもう一つ、この日には特別な意味がある。それは、水の三大妖精の一人、“天上の謳声(セイレーン)”アテナ・グローリィの裏誕生日であることだ。

 毎年この日は業界の関係者や知人、熱心なファン、そして親しい友人や後輩たちから、12月の誕生日よりも多くの祝福のメッセージとプレゼントが贈られてくる。クリスマスのお祝いも兼ねてという名目で、贈り物もしやすいのだろう。

 一方、今日は祝祭の日と裏誕生日が重なっていることもあり、アテナにとっては特に忙しい日でもある。クリスマス・イブに通り名そのものの天上の謳声を、家族や恋人と一緒に聴きたいという旅行客の他、熱心なファンが直接裏誕生日のお祝いの言葉を述べたいと、こぞって予約してくるのだ。

 そして今年のこの日は特に別で、オレンジぷらねっとの会長の知人が最終便に予約を入れているのだ。とても大事な客人であるらしく、アテナはこの日の出勤前、会長直々に「くれぐれもよろしく」と頼まれていた。「くれぐれもうっかりしないように」とも心配された。

 最終便前の小休止にと、温かいコーヒーを飲みながら、アテナはこれから会うお客様はどんな人だろう、とぼんやりのんびり考えていた。

 かなり高齢の男性らしいが、こわい人でなければいいな、自分よりしっかりしている人だといいな、優しい人だろうか、気難しい人だろうか……等々、色々考えている内に、アテナの前に一人の男が現れた。予約の10分前、約束を守る真面目な人物であるらしい。

 いや、よく見るまでもなく、その人物は老人でないし、それどころか、顔見知りの男性だ。

「ナイブズさん」

 驚くあまり、紙コップを落としてしまった。幸いほとんど飲み終えていたから、中身がこぼれて制服を汚すことは無かった。

 紙コップを拾ってゴミ入れに、あ、いや、それより先に挨拶を、その前に本当にお客様なのか確認を――などと勝手にあわあわして、うっかり壁にぶつかってしまう。

 ぶつけてしまって痛むおでこと鼻の頭を抑えて蹲ること1分。アテナがひとまず落ち着いたのを見計らってか、ナイブズは溜め息交じりに口を開いた。

「予約していた知り合いから譲られた」

「あ、そうなんですか」

 実に単純な答えだった。そういえば、ヴォガ・ロンガでゴールした後、ナイブズが使っていた舟を取りに来た老人がいた。灯里は店主さんと呼び、アリスたちは占い師のおじいさんと呼んでいた。当人は前者で呼んでほしいと言っていた。

 きっと、あの店主なる占い師の老人こそが、本来予約を入れていた会長の知り合いなのだと思った。ナイブズとも接点があると話していたけれど、アテナが深く話しを訊く間も無く、店主はぶらりと舟を漕いで去ってしまったから、詳しいところは分からずじまいだった。

 ともかく、気を取り直して、ナイブズを伴って舟乗り場まで移動する。移動しながら、他愛の無い話をする。年末は仕事で忙しい人も多いが、ナイブズもその例に漏れず、つい先週に大きな仕事を終えたものの、その疲れなど色々なものが抜けきっていないらしい。本来ここへ来るはずだった店主と言う人も、年内に片付けないといけない大仕事の仕上げに追われ、今日は来られなくなったのだとか。

 そんな話をしている内に、アテナの舟の前まで着いた。片足だけを舟に乗せ、ナイブズへ振り返り、右手を差し出す。

「お客様、どうぞこちらへ」

 ナイブズは手を取り、舟へと乗り込む。客席に座ったところで、はたと、ナイブズは何かに気付いた様子だ。

「そういえば、何度か水先案内人の舟には乗ったが、一人前の舟に乗って、観光案内を受けるのは初めてだな……」

 普通ならちょっとありえないことだが、ナイブズならそうであってもなにもおかしくないから、アテナはつい笑みを浮かべた。

「ナイブズさん、水先案内人のお友達が多いですもんね。晃ちゃんとか、灯里ちゃんとか、あゆみちゃんとか」

「友達……なのか?」

「私はそう思いますけど」

 友達と言う単語に、ナイブズは心底意外そうに聞き返してきた。アテナが(うべな)っても、中々納得できない様子だった。

 ナイブズでもこんな些細なことで悩むのかと少々驚き意外に思いつつも、オールを手に取り、気持ちを切り替える。さっきまでは友達同士でも、今からは水先案内人とお客様なのだから。

「コースはどうしますか? 予約していたお客様から、コース指定がありましたけど……」

「予定通りに」

 ナイブズも切り替えたのか、返事を即座に返す。いつもの調子が出て来たようだ。

 それを聴くのとほぼ同時に、舟を漕ぎ出す。

「かしこまりました。それでは、本日は私、アテナ・グローリィがご案内させていただきます。冬の街を、そして火星(アクア)では24ヶ月に一度のクリスマスに彩られたネオ・ヴェネツィアを、どうぞお楽しみください」

 アテナの操るオールに応えて、舟は水路を往く。

 事前に指定されたコースは奇妙なもので、観光名所は殆ど通らず、街中の水路を通るものばかり。まるで、見習いや半人前の自主練習や実践練習のようなコースで、アテナにはそれが懐かしくさえ感じられた。

 通りがかるのは、どこも平凡な街角に代わり映えの無い街並み。普通の水先案内人ならば何を話したらよいものか、分からぬままに世間話で茶を濁して、時を稼いでそのまま終わらせてしまうのが精々であろう。しかし、ここにいるのは水先案内人の頂点の一角、三大妖精のアテナ・グローリィ。観光案内や接客対応が――素がうっかり故に――白き妖精や真紅の薔薇に一歩劣ろうとも、そのセンスはやはり非凡。

 今日がクリマス・イブであるということも取り合わせて、(ささ)やかな街角の景色から、ネオ・ヴェネツィアの全容をなぞるように、端の端まで丁寧に、ナイブズに街の姿を見せていく。

 民家の飾りつけ、育てている花、すれ違う舟、行き交う人々、街の歴史、建物の謂れ、装飾や紋様の伝統、クリスマス・イルミネーションの解説、等々、色々に、様々に。

 クリスマスということでキリスト教の話題に触れると、意外なことに、ナイブズはその知識がとても豊富だということが明らかになった。アテナの説明で足りないところを僅かに捕捉されて、そのことを尋ねると、すらすらと聞き取れないほどの量の専門用語の数々が、ナイブズの口から次々に飛び出て来たのだ。

 つい、元はその方面の博士だったのかとアテナが問うと、キリスト教を源流とする宗教結社と長く付き合いがあったので、その兼ね合いで自然と覚えていったのだという。

 ナイブズの知識に感心して、気が緩んだのか、つい、そのまま世間話を始めてしまった。

「お客様……ナイブズさんがこちらにいらして、もうどれぐらいになりますか?」

「……20ヶ月ほどになるか」

「それなら、いつも街を歩いて回ってるナイブズさんなら、見慣れて、見飽きた景色ばかりだったんじゃないですか?」

「そうでもない。同じ場所でも、日々、刻々と変わり続けている。今日のように、季節や行事に合わせて装いを変えることも多い。初見の新鮮さが失われても、見飽きたと感じることは無い」

「そうなんですか。なんだか、素敵ですね」

「それに、お前の観光案内が上手いからな、楽しいものだ」

「ありがとうございます」

 受け答えをしつつ、アテナは今のナイブズの様子に微かな違和感を覚えた。そう何度も会っているわけではないが、いつになく多弁で、言葉や存在感に大きさや圧力が無い。

 まるで、憑き物が落ちて、一緒に気力も抜け落ちたような。肩の力が抜け過ぎて、体や心まで脱力しているような。もしかしたら、こっちが素のナイブズなのだろうか。それとも、大仕事を終えたばかりで、疲れているだけなのだろうか。

 そんな疑問は胸に仕舞って、世間話もお終いにして、仕事に戻る。ちょうどその時、扉が開かれた水路の前を通り過ぎた。舟を止めて、後ろを振り返る。

「あ、今の水路……」

 指定にあった『普段は扉が閉じている水路』ではないか。

「どうした」

「えっと……事前のコースのリクエストで、もしもあの水路の扉が開いていたら、入ってほしいってなってて……」

 曖昧なコース指定で、乗っているのは要望を出した当人ではない。どうしたものかと判断に迷う。

 他方、ナイブズは溜め息を漏らしていた。なんだか、呆れているような、観念したような。不快にさせてしまっただろうかと、アテナがおろおろするより先に、ナイブズが口を動かした。

「入ってやれ」

「いいんですか?」

「思惑は読めた。問題無い」

「はい……かしこまりました。それでは、戻りますね」

 ナイブズの指示に従って、その思惑というものが自分では分からないまま、門を潜って水路を進む。

 水路の先にあったのは、半ば朽ちた、火星開拓時代の遺構・廃墟だった。

 クリスマスで華やいでいる街の喧騒さえ届かない、静かで、寂しげな場所。まるで、世界から切り離され、忘れ去られてしまったような場所。

 静かすぎて、落ち着けない。心を揺らがす、こわい静けさ。

 一方、ナイブズはなんら気にした様子も無く、悠然として前を見ている。それを見て勇気づけられて、恐怖を呑み込んでアテナは舟を漕ぎ続ける。漕ぎ続けて、ふと気付いた。ここは、さっきも通った場所だ。

「あれ? あれ? なんだか、さっきも同じ場所を通っているような……」

「そこの、左前方の脇道に入って、行き止まりで一旦停止だ」

「え……? あ、はい」

 ナイブズからの指示を聞いた途端、先程までそこにあると気付かなかった分岐を見つけることができた。単に、いつもの自分のうっかりで見落としていただけかと納得して、舵を切る。

 曲がった先は、確かに行き止まりが奥に見えた。

「ナイブズさん、ここのこと、御存知なんですか?」

「何度か来たことがある」

「こんな所にまでお散歩に来てるんですね」

 アテナは素直に感心して、その様子を見たナイブズは呆れたような――それでいて可笑しそうな――溜め息を一つ。

 指示通り、行き止まりの場所で舟を止める。上陸するわけでは無いようで、その場で待機する。

 ナイブズはぐるりと周囲を見回して、一つ頷く。

「舟謳を頼む」

「ここで、ですか?」

「どうやらお前の歌のファンは、人間に限らないらしい。――さっさと出て来い」

 ナイブズが呼びかけると、暗闇から、物陰から、猫たちが次々に現れた。

「わぁ……猫が、こんなにたくさん」

 地球猫、火星猫問わず、多種多様な猫たちが興味津々の様子で、アテナを見つめている。暗闇に光る数多の双眸は不気味さもあったが、それ以上に、瞳に満ちる輝きがそれを消し去って余りあった。

 見回す内に、ふと、燕尾服を着込んだ紳士的な出で立ちの猫の人形と目が合って、会釈をされて、お辞儀を返した。

「……あれ?」

 奇妙に思って顔を上げると、そこに猫人形はいなくて、豚のように丸く太っている猫と、円形クッションのようにまん丸な球形の猫がいるだけだった。何かの見間違いだったのだろうか。

 疑問はさておき、深呼吸。

 眼差しに籠められた期待に、ちゃんと応えなくちゃ。天上の謳声(セイレーン)の名に恥じないように。

「それでは……」

 謳声が、狭い水路に響き渡る。

 歌が、空間に、小さな世界に満ちるように。

 誰しもが耳を傾け、心を酔わせ、ただ聞き入った。

 猫も、猫妖精も、猫人形も、大神とその分神たちも、そしてナイブズも。

 天上の謳声が、心に澄み渡る。

 舟謳が終わると、猫たちは拍手の代わりにか、歓声を上げるように一斉に鳴き始め、猫妖精と猫人形は見えない場所から惜しみない拍手を贈り、大神は幾度も吠えて素早く尻尾を振っている。

 彼らとは対照的に、ナイブズは静かに話しかけて来た。

「あの時の謳、だな」

「はい。覚えていてくれたんですね」

 あの時とは、ナイブズとアテナが初めて遭遇した、あの時。

 波の音に聞き入っていたナイブズが、通りがかったアテナの謳声を騒音と切って捨て、短くも強烈な痛罵を浴びせた、あの時に他ならない。

「覚えていたというより、思い出した。この謳より波に聞き入っていたとは、あの時の俺はどうかしていたな」

 ナイブズは自嘲しながらも、アテナへ惜しみない賞賛を贈った。しかしアテナには、ナイブズの自嘲の方が気になってしまった。

「仕方ないですよ。きっと、私も……初めて見聞きする素敵な何かが目の前にあったら、誰の声よりも姿よりも、見入って、聞き入っちゃうと思いますから」

「この星で生まれ育ったなら、そういうものには慣れていそうだがな」

「分かりませんよ。私も砂漠を見たら、ナイブズさんみたいに感動しちゃうかも」

「……あれがそんなにいいものとは思えんがな」

「ええーっ」

 フォローしたつもりがバッサリと切って捨てられて、取り付く島もない。けど、あの時のように怖くないし、恐ろしくもない。寧ろ、ちょっと楽しいくらい。

 その後、3度のアンコールを受けて、ちょっとしたコンサートは終幕。一休みしてから出発となった。

「そろそろ行くか」

「かしこまりました」

 ナイブズの指示に従い、不可思議な水路を抜ける。出た後に「下手をすると出られなくなる場所だから、今後は立ち入るな」と言われて、同じ場所を回っていると気付いた時のことを思い出して、ぞっとする。

 アリスも話していた――自分だけ行ったことが無かったと悔しがっていた――ネオ・ヴェネツィアの七不思議の一つ、無限回廊の水路だったのだと気付くのに、然して時間は掛からなかった。

 そんな場所を案内できるナイブズは、一体何者なのだろうか。

 訊こうか、訊くまいか。悩むのは、仕事を終えた後にしよう。

 思いがけない舞台は終わったけど、予定のコースはまだ続きがあるのだから。

 

 夕焼けが沈み、茜の空に夜闇が混じり始める頃、舟は終着点へと着いた。

 場所はサン・マルコ広場近く。夏も終わりの頃、レデントーレの日に、黒衣の君から助けられた場所の近くだ。本人は知り合いと会っただけだと言っていたけれど、サン・ミケーレ島にいたのだから、きっと助けてくれたに違いないと、アテナは信じて疑わなかった。

「今日は充実した時間を過ごせた。礼を言う」

「ありがとうございます。宜しければまた次も、ご案内させてください」

 舟を停めると、ナイブズが立ち上がり、アテナもナイブズの動線に先んじて動き、ナイブズが舟から桟橋へと移る手伝いにと、行きと同じく手を差し出す。

 ナイブズはその手を取ると同時、アテナの目をまっすぐに見詰めて、言葉を紡いだ。

「それから――裏誕生日おめでとう、アテナ・グローリィ。……いい後輩たちを持ったな」

 桟橋に上がると同時に、ナイブズは斜め後ろを振り返る。アテナもそちらへ視線を向けると、そこには見慣れた一艘の黒い舟と、親しい3人の水先案内人の姿があった。

「あ。アリスちゃん、アトラちゃん、杏ちゃん。いつの間に……」

「最初からいたぞ」

 アテナは全く気付いていなかったのに、ナイブズは最初から気付いていたと言い切る。本人たちもバレているとは思ってもいなかったようで、ナイブズの言葉に動揺してる。

「大方、俺が何をしでかすか見張っていたのだろう」

「えっと……私たちは、練習中に偶然通りがかっただけで」

「アリスちゃんが、アテナさんがナイブズさんと2人きりは心配だから、どうしてもって」

「あ、アトラさんも杏さんも、ナイブズさんがいつ鼻眼鏡を取り出すか、でっかい気になっていたじゃないですかっ」

「まぁ!」

「はなめがね?」

「誰が取り出すかそんなもの」

 溜め息交じりにナイブズは強く否定したが、何がどうしたらナイブズとはなめがねが繋がるのか分からず、アテナは混乱している。

 そんなアテナをよそに、ナイブズはあるものを取り出して、アテナに差し出した。

「アテナ」

 名を呼ばれて、ナイブズを見る。右手に、何かを持って差し出している。

 その手にあるのは、赤い花。

「薔薇の、花……」

 まさか、ナイブズからプレゼントを貰うとは思ってもいなくて、はなめがねのことで混乱していることもあり、アテナは思考が纏まらずに固まってしまい、ただ花の名を口にして、花を見るしかできなかった。

「世話になった女には、花の一つも贈るものだと聞いたが……不適か?」

 アテナの様子から、自分に何かしらの落ち度や不手際があるのかと疑ったようで、ナイブズは薔薇を引っ込めるような仕種を見せた。

 そんなことはないと、頭で考えるよりも心で感じて、自然と手が動く。そっと、赤い薔薇の花を受け取った。

「ありがとうございます、ナイブズさん。とっても、嬉しいです」

 アテナの返事を聞いて、ナイブズは微笑みを浮かべていた。照れくさそうな、嬉しそうな、どこか子供のような――あの時と同じ、アテナを、わけもわからぬ恐怖から解き放ってくれた、ありがとうの言葉と一緒に見せてくれた、あの微笑みだ。

「………………では、さらばだ」

 短くそう告げて、アリスたちがやって来るのも待たず、ナイブズはアテナの前から去って行った。

 アリスたちが来ると、今度は晃と藍華とあゆみ、そしてアリシアと灯里も、アテナの裏誕生日を祝うためにやって来てくれた。どうやら、謎の占い師からこの時間にここに行くと良い、というメールがあったらしく、それでみんなが一度に集まれたようだった。

 ナイブズがアテナに薔薇を贈った話題で暫く持ちきりだったが、その間も、アテナは心此処に在らずという様子だった。

 自分が覚えている限り、ナイブズに別れの言葉を告げられたのは、初めてのはずだから。

 それが気になってしまって、しょうがなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 23月25日。

 出掛けた翌日の夕方になって、漸くナイブズは店へと戻ってきた。

 極北の地から来た神々(カムイたち)の内、武闘派の3人と何故か“遊び”として軽く手合わせすることになったり、少し話をするだけのつもりが宴会に引き摺り込まれたり、アマテラスとニャンコロカムイが一緒になってやんちゃをしたり、酔い潰れた神々が全員起きるまで待っていたら昼が過ぎていたりと、色々とあって、猫妖精の所へ連れて行くのが遅れに遅れたのだ。

 色々と貴重な体験をできたが、本当にあの神々(カムイたち)は神と呼ばれる存在だったのだろうかと、率直な感想がそれだった。仮にも太陽神の化身であるという大神アマテラスからしてああなのだから、当然と言えば当然ではあるのだが。何か釈然としない。

 店に入ると、奥のカウンターで店主が端末に向かって黙々と作業をしていた。今日も来店客はいなかったようで、店の棚に変化は見られない。

「やあ、ナイブズ。すまなかったね、初対面で彼らの相手は大変だったろう」

「些事だ。それで、お前の仕事は片付いたのか?」

 作業の手を止めて、店主は苦笑いを浮かべて首を横に振った。

「片方は見通しが立ったんだが、もう片方が、随分と厄介でね……やはり、君に頼る以外に無いようだ」

 2つの案件を抱えていたとは気づかなかったが、難題を理由に仕事を言い渡されるのは想定内だ。しかし、店主の様子はこれまでのものと違っていて、酷く深刻な面持ちで、真剣な表情だった。

「寝坊助のピーターパンの目を醒ますため、夢遊病のティンカーベルを静かに眠らすため、夢幻の世界(ネバーランド)を閉ざす。そのために、どうか、君の力を貸してほしい」

 何の因果か、偶然か、それとも仕組まれた意図の上か。つい昨日、少女たちが話していた童話と登場人物の名が、店主の口から語られた。

 ナイブズが夢現の境を越え、夢幻の世界へ行く日は、諸々の都合もあって24月17日の未明と決まった。

 これが、ナイブズが今年行う最後の仕事となり、火星で担う最後の仕事となる。

 


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