夢現   作:T・M

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皆様方のお目がもし お気に召さずばただ夢を 見たと思ってお許しを


#28.夢幻

 星暦0174年6月13日 ゴラン峡谷

 峡谷の深奥に、210年前の大墜落(ビッグ・フォール)によってノーマンズランドの地表に落下した移民船の残骸の一つが、墓標のようにひっそりと突き立てられている。

 普段は誰も訪れることはおろか近づくことの無いその場所に、眠っていた人造の天使(プラント)。その前に訪れたのは、彼女が呼び寄せた2人の男女の“VTS”。招いたのは本来男の方だけなのだが、彼女は惑星上の全VTSへ無作為に呼び声を届けてしまったため、本人以外のVTSが声に誘われて旅立ち、失踪し、峡谷近くまで大挙して現れる事態になっている。

 女のVTS――ヴェロニカ(Veronica)(TubaSa)は、ただ息を呑んで、男の名を呼び、状況を見守るしかできない。

 大墜落の影響からか、自我を有し人語を話すプラントから告げられた、プラントの“力”に纏わる理論・推論、それによって導き出された“子”の受胎のメカニズム、そして壮大なスケールの宇宙存亡の危機。何一つとして、翼の理解の及ぶものではない。

 男のVTSは、銃を構え、プラントへと銃口を向けて沈黙している。

 目の前の彼女が懇切丁寧に説明してくれた、この星の、この宇宙の消滅の危機。その理論づけとなるプラントの“力”に関する推論も、彼が感覚していたものの解説として極めて適確なものであり、否定できる要素が無かった。

 鈍色の光を帯びる銃――傷だらけの銃身、揺るがぬ銃口。その向く先にあるものは、2つの生命。プラントと、彼女が身に宿した子供。

 我が子を「産まれる前に殺して」と哀願する母と、生まれればそのまま宇宙を消してしまうという“まだ生まれてもいない”生命。

 引き金に掛けた人差し指は、構える腕は、支える足は、凝視する眼は、苦悩に満ちた表情は、いずれも、彫像のように動かない。

「新しい宇宙が生まれるのなら……どうだろうかと、考えたこともあります。新しい宇宙なら、より良いかもと……苦しみだけが溢れてる、この世界より……」

 プラントは静かに語り、言い終えることなく、ただ、最後に涙を流した。

 その想いは、言葉にならずとも、VTSには痛いほど伝わってきた。だからこそ、彼は思考を止めない。諦めない。目の前の命を、一つたりとも。

「さぁVTS、早く撃って。子供がもうすぐ産まれる……その前に、早く!」

 引き金は引かない。言葉も発さず、ただ凝視する。その瞬間を決して見逃さぬためにも。

 プラントとその子供、この星、この宇宙、新しい世界。

 全ての運命が、彼の銃に、装填された6発の弾丸に委ねられている。

 それでも、彼は、VTSは揺らがない。

 翼が彼の名を叫ぶ。直後、遂にその瞬間が訪れる。

「だめ! 産まれる! 世界が終わる!!」

 プラントの悲鳴のような叫び声。

 世界の終末を嘆くような。我が子の誕生を祝福できぬ、母親としての絶望が音になったような、悲痛な――文字通りに“悲しく”“痛ましい”――叫び声。

 それが合図となって、VTSは引き金を引いた。

 6発の弾丸が、プラントの胎へ。今まさに、この世に生を受けた子供へと放たれた。

 そして、“力”が爆ぜた――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと気付くと、ナイブズは汽車の座席に乗っていた。

 眠りから覚めるような感覚。窓の外の暗黒。デジャビュ、見覚えがある光景、身に覚えのある体験。

 ネバーランドへの確実な行き方は汽車に乗っていくこと。汽車に乗るにはまず寝ること。

 店主から説明を受けた時は半信半疑だったが、まさか本当にこうなるとは。どういう理屈なのか、さっぱり分からない。この世の事象は須く理解しうるという考えは烏滸がましいのではないかと、そんな気さえしてくる。

 客席から立ち上がり、車内をぐるりと見回す。他の席にも、網棚の上にも、人の姿はおろか、猫の姿すらない。ここにいるのはナイブズ独り。

 先頭方向の客車の扉が開き、車掌が現れた。城ヶ崎村を訪れる際に乗って以来となる対面。

 

――切符を拝見します――

 

 懐から白紙の切符を取り出し、差し出す。車掌は受け取ると、一つ頷いてすぐにナイブズに返した。

 

――どうか、お気を付けて――

 

 会釈と同時、車掌の思念がナイブズに届く。そして、汽車が駅に着いた。

 車掌を一瞥し、降り口へと向かう。

 駅にも人の気配は無く、ナイブズの他に降りる客もいない。駅は中央を線路に寸断されて2分されている。こちら側には町が見えるが、反対側は真っ暗で何も見えない。

 無人駅の無人改札を通り、外へ出る。出た途端、足下で水が跳ねた。

 水浸しの町――アクア・アルタ、では、ない。目の前の景色はネオ・ヴェネツィアではない……いや、一部の建造物がネオ・ヴェネツィアのものだ。

「なんだ、この町は……?」

 奇妙な光景だった。ネオ・ヴェネツィア、城ヶ崎村、コンクリート造りの古い街並み、神々が写真で見せた極北の國――様々な街、町、村、集落が渾然一体となっている。共通点があるとすれば、それらが火星上のもの――或いは本来地球に在ったであろうもの――だということぐらいか。

 ミニチュアを継ぎ接ぎにしたような、奇怪な世界。振り返り、駅舎に掲げられている看板を見る。

 

 WELCOME TO NEVERLAND

――ネバーランドへようこそ――

 

 まるで子供の落書きのような字体で、そう書かれている。

 行く当てがないとはいえ、こんな所で立ち止まっているわけにもいかず、水浸しの町へと向かう。

 歩きながら、今回の仕事について情報を整理する。

 今回の目的は、ピーターパンの身柄の確保、行方不明のティンカーベルの捜索と保護。ネバーランドを閉ざす上で、この2人の存在は必要不可欠らしい。

 その為に必要な人手。ピーターパンと深い縁で結ばれている2人の少女と、ティンカーベルが慕っている少女、合計3人がナイブズに先んじてネバーランドを訪れているという。

 ナイブズが何をすべきか、為すべきかは、具体的な指示は何もされていない。ただ、ナイブズがそこへ行き、少女たちと出会い、彼女達から事情を聞いて、力を貸せばいいのだと。そして、ピーターパンを目覚めさせ、ティンカーベルを眠らせればよいのだと。

 いつものこととはいえ、この遠回しなやり口はやはり苛立つ。堪らず舌を打つ。小さな音のはずが、しん、と静まり返った都市空間においては、反響も相俟ってやけに大きく聞こえた。他に聞こえるのは水を踏みつける、ざぶざぶ、という音だけ。

 鳥獣や虫の存在はおろか、其処彼処に見える草木からも生命の気配が感じられない。試しに手近な街路樹を触ってみれば、その触感は明らかに異質であり異常。木を触ったことの無い者が、木の形だけ真似て作ったオブジェクト――そのように直感する。

 謂わばこの世界そのものが、夏に見た怪異“黒衣の君”と同じもの。

 上辺だけを真似た、空っぽな虚像。

「……あれが言っていたのは、そういうことか」

 夏のあの日に、黒衣の君はナイブズを指して『私たちは同じもの』だと言っていた。

 外見だけは整っている、中身が抜け落ちている、空虚とした存在。

 それを言い当てられ、図星を指されて、それで怒り心頭となったわけか。

 あの時は、直後にブルーサマーズが出て来たことで黒衣の君のことを失念してしまい、そのことを顧みることが無かった。

 虚構の町を、ナイブズは独り歩く。

 さて、3人の少女とピーターパンとティンカーベル。最初に遇うのは誰になるか。

 

 

 

 

 気が付くと、VTSは見覚えの無い街にいた。

 空気は埃っぽくないどころか綺麗なもので、足下は一面に水が張られている。

「って、ええ!? なにこれぇ!?」

 驚くまま素っ頓狂な声を上げると、近くを通りがかっていた2人の少女が顔を出してきた。

「あら、今日は迷い人の多い日ね」

「え? 僕、迷子確定なの? 迷子だけど」

 開口一番迷子を宣告されるも、この状況では抗弁のしようも無く受け入れるしかない。

 あまりにも、直前の状況と違い過ぎる。峡谷の底で朽ちた移民船から露出した、唯一の生き残りのプラントと対面して、銃を握っていたはずなのに。

 銃はホルスターに収められ、周囲にはプラントの気配すらない。それどころか、通常の空間とは異質な雰囲気だ。大気中の水分濃度が高くて空気の感触が違うとか、そういうことではない。

 一体、ここは何処なのだろうか。まさか失敗して、異世界か天国にでも迷い込んでしまったのだろうか。

 途方に暮れて、天を仰いでため息を漏らす。なんだか、空すら違って見える。というか、空も大分違う。奥行きが無くて平面的で、空っぽい天井って感じだ。本当にどこなんだここは。

「えっと、私も同じ迷い人ってやつみたいで、真斗ちゃんが詳しい事情を知ってるみたいなんですよ」

 見るからに困った様子の彼を心配してか、赤毛の髪を左右で結わっている、淡いピンクの衣装を身に纏った少女が、そんな風に声を掛けてくれた。同じ境遇の人間が他にもいて、この事態に詳しい人もいるから大丈夫だよと、見ず知らずの風来坊に。

 そのさりげない心遣いが、自然な優しさが、この状況では殊更に嬉しくて、彼の表情にも笑顔が戻った。

「ありがとう、気が楽なったよ。それで、マトちゃんって君の名前かい?」

 ピンクの少女にお礼を言ってから、彼女が指した黒髪の少女へと声を掛ける。

 腰のあたりまで伸びたさらさらの長髪にも目が行くが、強い意志を宿した、凛とした目と表情も印象的だ。彼女の肩に乗っている、首にブローチ付きのリボンを付けている黒猫の存在に、この時漸く気付いた。

「そうよ。その子とは初対面のはずなんだけど……そういえば、あなたの名前は?」

「えっ!? ええ、っとぉ~……愛、です」

 マトは彼の問いに頷いて、そのままの流れで赤毛の少女に名を問うた。赤毛の少女は親しげに違和感なくマトの名前を呼んでいたから、てっきり知り合いなのだと思ったが、違うようだ。

 赤毛の少女――アイは、マトに名を問われると何故かひどく動揺したが、数秒逡巡し、躊躇いがちに名乗った。何か、名前を知られたくない、教えたくない事情でもあったのだろうかと、経験者は思う。

 それは些細なこととして、大事なのは見知らぬ世界で2人の知り合いができたことだ。

「マトと、アイだね。僕は……ジョン・スミス。よろしくね」

 彼――VTSは、過去に名乗っていた偽名を使った。VTSではあまりに不自然だし、本名では万一という可能性もある。この偽名は長く愛用した愛着のあるものでもあるし、この場で名乗るにはぴったりだ。

「それじゃ、駅に行きましょう。待ち合わせもしているし、詳しい話はそこでしましょう」

 マトに促されて、ジョン達はひとまずこの街の駅へと向かうことになった。

 水没した都市の水面は、風も凪ぎ、3人以外に動くものも無いため、鏡のように澄んでいた。

 空の蒼を映した街に、真紅の外套が翻る。

 度々翻っているのは、ジョンには珍しいものばかりで、あれこれと目移りして近くで見て確かめたい衝動を抑えられないからだ。

 あれはなんだ、これはなんだ、と10度繰り返した結果、背中にアイのドロップキックが綺麗に直撃した。

 ジョンは虫の潰れたような呻き声を捻りだしてうつ伏せに倒れ、アイは蹴りの反動を利用して綺麗に着地、実に手慣れた――実際に蹴り慣れている――鮮やかな手際だった。

「ジョン! 子供じゃないんだから、勝手に動かないの!」

「あ……アイ、サー……アイ」

「何やってるんだか……」

 アイに怒られ、マトには呆れられてしまったが、このお蔭もあって少女2人と打ち解けることができた。正に怪我の功名というやつだ。

 水の中へ突っ伏したのに体も服も濡れてないことを怪訝に思っていると、ふと、黒猫と目が合った。

 黒猫はじっと、ジョンを見ていた。警戒しているのではなく、何かを確かめるように、真っ直ぐと。

 取り敢えず頭を撫でて顎を擽って、彼とも打ち解けることに成功した。ついでに、マトからケット・シーという名前だということも教えてもらった。

 濡れぬ水、ハリボテの空、生気の無い草木。

 はてさて、ここは夢か現か幻か。それとも霧の向こうの異界(ビヨンド)か。或いは古い世界を喰らって生まれた新世界か。

 知らぬものに囲まれて、分からないことばかりでも、蒼の世界を颯爽と、真紅の男は歩み往く。

 

 

 

 

 帆船――人類の宇宙進出が成された近現代においてはもはや実用されておらず、大半が歴史史料として保管され、美術品として展示されている。火星においても流石に帆船の実用化は成されず、何らかのイベントでごく短距離を航行する程度で留まっている。

 夢幻の世界(ネバーランド)にもただ一隻のみ存在する帆船。如何なる知識の齟齬が生じたかは不明だが、この帆船は本来の用途とはかけ離れた形で動いている。その甲板の上に、2人の少年の姿があった。

 1人は、上下ともに真っ黒な学生服――学ランと俗称される――を着込んだ、黒髪で細目の少年。この世界の最初の住人の1人であり、ある迷い人の少女から名付けられた名前はピーターパン、愛称はピーター。その傍らに、ティンカーベルの姿は無い。

 1人は、ボロの外套を纏った、金髪を総髪に纏めている少年。嘘か誠か、決して短くは無い夢幻の世界の歴史において初となる、太陽系外惑星からの迷い人だった。名前はトラン。

 奇しくも、産みの母の手から離れた経緯のある2人は、互いにそれを知らずとも意気投合し、トランはピーターによる夢幻の世界の解説について半信半疑ではあったが、喜んで自分の知る限りの、外の世界の――遠い外宇宙の砂の惑星の話をした。

 200年以上前に墜落した移民船団。その僅かな生き残りの末裔たち、彼らの苦難と試練の歴史――数多の失敗と挫折、死の上に成り立つ人の歴史。

 見渡す限りの砂漠、砂礫の荒野。2つの恒星が燦々と輝き、呼吸を繰り返すだけで喉が渇き、口内が焼けるような大旱の世界。

 自らが作り出した天使に縋りつき、搾取し、生命も力も搾り取る以外に生き残る術の無い、哀れな人間たち。凡そ地球種の生命体が著しく生存するに適さない環境下でも、知恵を絞り、手を取り合い、時には奪い合いながらも、逞しく生きる人間たち。

 そんな苛烈な世界に在って、生存競争に勝ち残り、砂の惑星における唯一の原生生物として、先住種族として人間たちを静かに観察し続けている砂虫(ワムズ)。実は、砂の惑星の大気の組成を、地球種の生物に適したものに調整しているのは砂虫である――という仮説を立てている研究者もいる。

 その双方とも異なる第三者として、人に寄り添い生きて行くことを選んだ、人造の天使たち。その力は砂虫たちにとっても羨望の的であり、60年前の大戦の折、その力を我がものにせんと暗躍していたそうだ。決して怒らせてはいけない相手を怒らせて、先代の砂虫の長は砂に呑まれて地に還ったらしい。

 トランは人、砂虫、プラントの三者全てを詳しく知る稀有な存在であった。

 今まで聞いたことも無いような、それこそ別世界の物語のような話を聞かされて、ピーターは久し振りに興奮気味だった。その勢いと流れのまま、ピーターも自身の生い立ち、この世界の成り立ち、そして母体となる水の惑星について、自分が知り得る全てを――夢幻の世界に訪れた全ての人々から聞かされた話を、自分の口で、自分の言葉で、トランに伝えた。

 トランにとって、それは荒唐無稽な御伽噺のようでもあったが、それが逆に新鮮で、面白く、熱心にピーターパンの話に耳を傾けていた。寧ろ、御伽噺など聴くのは初めてなのだ。

 誰かに夢幻の世界のことだけでなく、水の惑星について話すことはピーターにとって初めての体験であり、新鮮で、楽しくて――その中に自分自身の経験が何一つないことが、どうしようもなく口惜しかった。

「どうしたんだ? 急に黙っちゃって」

「…………会ったばかりの君に、話すようなことじゃないだけど……」

 ピーターは、自分でも気付かぬ内に、辛さ苦しさに耐えかねて、この世界が直面している問題についてトランに打ち明けた。

 

 

 

 

 歩いている内に、風景はネオ・ヴェネツィアとなった。

 裏側が無く、所々に歯抜けがあり、細かい配置の狂った紛い物の街並み。特に、サン・ミケーレ島が地続きになっているのは傑作だ。

 それも無理からぬか、この街に、或いは世界に海が無い。これでは、街に溢れる浸水現象をアクア・アルタの亜種と片付けることもできまい。

 地続きのサン・ミケーレへと向かうが、黒衣の君やそれに類する気配は無かった。代わりに、本来は墓所のある筈の花畑で、1人の少女と出会った。

「おじさん、こんにちは」

 その少女は、ナイブズを見つけて自分から声を掛けて来た。

 白地に青のライン――ARIAカンパニーの制服を着た、片手袋の水先案内人。しかし髪は金、腰より先まで伸びた長髪は2つに分けて編み束ねられている。

 ナイブズの知る人物と幾らかの差異が目立つし、何より灯里よりも幼いように見えるが、まず間違いなく。

「お前は……アリシア・フローレンス……?」

「あら? どこかで、お会いしたことがありましたか?」

 返って来た答えは肯定。どういうことかと一瞬混乱するが、店主が何気なく言っていた言葉を思い出す。

 曰く、夢幻の世界では時間が曖昧で、軸が混ざると。

 詳しくは行けば分かると言っていたが、こういうことだったか。

 恐らく、この世界は通常の時間運航から切り離されている。あらゆる時代から干渉可能な、切り離された異世界。時間静止に等しいほど極端に実時間経過の遅い神空間と同じだ。

 いや、寧ろ、この世界は神空間の亜種なのではないか。世界の根本の作りは神空間と同じで、世界を形作るのを人の意志に委ねているのではないか。

 そうなると、またしても神の掌にいることになり、もう何度目かと頭を痛めたくなるが、今は情報収集が先決か。

「…………大妖精、天地秋乃の弟子ということで、顔と名前だけは知っていた」

 過去への干渉による影響が未知数な以上、適当な言葉を繕って会話を続ける。半人前の時分では、さしもの未来の水の三大妖精も無名だったようだ。

「まぁ、そうなんですか。ありがとうございます。おじさんのお名前は?」

「………………ジョン・ドゥだ」

 ジョン・ドゥ。ありきたりで、ありふれた名前。そこから転じて、あからさまな偽名の意。同じ意味を有する名前としてジョン・スミスがある。スミスの方は一時期ヴァッシュが使用していた名前なので、選択肢から外す。加えて、ジョン・ドゥには身元不明の死体の意もあるので、ナイブズが名乗るにはよりふさわしいと思えた。

 それを知ってから知らずか、アリシアは「ジョンさん、ですね。よろしくお願いします」と朗らかな笑みを浮かべて頷いた。

「お前は、ここで何をしている?」

「人を探してるんです。ジョンさん、ピーターくんとベルちゃん、御存知ありませんか?」

「俺もその2人を探している」

「まぁ、そうなんですか。それじゃあ、一緒に探しませんか?」

「…………いいだろう」

 情報を聞き出す前に、話の流れで同行することになってしまった。協力する必要があるとはいえ、もう暫くは単独行動をするつもりだったのだが。

「ありがとうございます。大人の方と一緒なら、とっても心強いです」

 穏やかで、朗らかな、それでも有無を言わさぬ力を感じる笑みと言葉。

 雨の日に出会った秋乃といい、師弟揃ってよく似たものだ。

 不快には思わず、状況を受け入れる。この方が事態を解決するには効率はいいはずだ。

「他にもお前ぐらいの歳頃の少女が2人いるらしいが、心当たりはあるか?」

「真斗ちゃんと……誰かしら? 私と真斗ちゃんの他にも、ここに自分で来る子がいたのかしら?」

 店主は3人の少女を並べて語っていたが、どうやら1人はまた違うらしい。或いはアテナと晃かとも思っていたが、そんなことは無かったようだ。

 マトの名前には聞き覚えが無い。ナイブズにも分からない以上、やはり同行するのが上策か。

「取り敢えず、そのマトと合流する方がいいようだな」

「そうですね。それじゃあ、夢ヶ丘の方へ行きましょう」

 夢ヶ丘、初めて聴く街の名前。ナイブズも見たコンクリート造りの町の名前で、この世界の中心に位置するらしい。本来はそこにピーターパンとティンカーベルは普段からいて、マトも現実のその町の住人だという。

 明らかに事態の中心地、行くほかあるまい――と、ナイブズも決めた、丁度その時、一匹の猫が現れた。

「にゃ」

「お前は、あの時の」

 いつ以来か。ナイブズと共にこの星へ降り立った黒猫だ。普通でないこの世界にまで、何故現れたのだ。

「あらあら、珍しいわね。ネバーランドにあの子以外の猫さんが来るなんて」

 アリシアの発言からも、この世界に猫が現れるのは普通ではないと分かる。言葉からするに、今までの例外は一つだけだったのだろう。

 ナイブズがあれこれと思考を巡らせていると、黒猫はナイブズとアリシアの顔を順に覗き込んだ。

「付いて来るにゃ。アマテラスの分神、壁神がティンカーベルと一緒に待っているにゃ」

 黒猫が、喋った。

「あらあら、まあまあ! 猫さん、お喋りができるの!?」

「夢の中ならそういうこともあるにゃ。そう思っておけにゃ」

「そうなの。とっても不思議で、素敵ね」

「……そういうものなのか」

 今まで様々な不可思議な超常現象に直面してきたが、猫が人語を話すというのはあまりにも受け入れ難いことだった。

 しかしよくよく考えてみれば、砂虫とて人語を学習して話すようになったのだから、夢のような世界で猫が話すぐらいはあり得るか……?

猫妖精(ケット・シー)の頼みで、お前らをティンカーベルの所まで案内してやるにゃ」

「まぁ、あの子が。あの子もお話しできるのかしら?」

「あいつは恥ずかしがり屋だからにゃ、多分話せても話さんにゃ」

「そうなの、残念ね」

 やや混乱していたが、ケット・シーの名前が出たことで、自然と思考が切り替わる。アリシアの様子を見るに、先程言っていた『あの子』=ケット・シーで間違いない。黒猫も否定せず、言外に肯定している。

 普段、人と極力関わりを持たないようにしているケット・シーが人間と行動を共にしているという、その事実が気に掛かった。それほどまでに重篤で切迫した事態とも思えず、何らかの事情があるのではないかと推測する。

 アマテラスの分身については、もうその程度では驚かない。猫妖精とは対照的に、あの大神は人や俗世に関わりすぎなぐらいだ。

 ともかくとして、探し人の片割れの当てが付いた以上、優先すべきは合流よりもこちらだ。

「俺は行くが、お前はどうする?」

「私も行きます。ベルちゃん……もう、ずっと会えてなくて、心配なんです。真斗ちゃんはしっかりしてますから、きっと大丈夫ですし」

「それじゃ、行くにゃ」

 ナイブズとアリシアの返事を聞くと、黒猫はすたすたと歩き出した。行く先は、アリシアが案内しようとしていた夢ヶ丘とは別方向。アリシアとマトも未だ足を踏み入れたことの無いという、極北の國。

 道中、ナイブズはアリシアからネバーランド、そしてピーターパンとティンカーベルについて話を聴くことにした。黒猫は沈黙を貫き、真っ直ぐに歩き続ける。

 

 

 

 

 当面の目的地であった夢ヶ丘駅に着いて、真斗のこの世界での知り合いであり友人であるアリシアという少女を探したが、他に人の気配はない。予定ではここで落ち合うはずで、真斗は寧ろ遅れて来たぐらいだと云う。曰く、アリシアは真面目でしっかりしてはいるが、暢気でおっとりしている所もあるので、もう暫くここで待ってみよう、ということになった。

 ジョンは鉄道駅など生まれて初めて見るものだから、あっちへふらふら、こっちへふらふら。見かねた愛から「落ち着きなさいっ」と打ち込まれた蹴りを受けて、勢い余ってホームから線路へと落下する。真斗と愛が心配して駆け寄ると「ばあっ!」と脅かしてから、軽々とホームへ飛び上がった。

 真斗は少し後ずさりした程度だが、愛は驚いた拍子に尻餅をついてしまって、恥ずかしさから赤面してしまった。

「ごめんね、大丈夫?」

「……うん。私こそ、ごめんね」

 お互いにやり過ぎを謝って、ジョンが屈んで手を差し出して、愛が手を取って立ち上がろうとした、丁度その時。

「2人とも、気を付けて」

 言った真斗の視線の先は、2人ではなく駅の反対側。2人揃って何事かとそちらを見ると、波飛沫を上げて、巨大な帆船が現れた。

 呆気に取られて、呆然として、声すら出ない。

 帆船は水を掻き分け波を起こして、水飛沫を飛び散らせながら空へと昇る。

 真斗はホームの奥にいたから無事だったが、ジョンと愛は全身に水を被った。その衝撃で我に返った愛は、慌てて全身を確認して、不可解な事実に気付く。

「あ、あれ? 頭から水被ったのに、どこも濡れてない……?」

「水浸しの中を歩いてたのに、足も靴も濡れてないよね」

 言って、ジョンは右足を上げてぶらぶらと動かす。ブーツには濡れた痕跡すらないし、防水性と撥水性に優れたコートには水滴の一つも見当たらない。

 常識ではありえない現象に、ジョンも愛も困惑しながらも、取り敢えず立ち上がる。立ち上がっても、どこからも水が零れ落ちることは無い。

「ピーターは、水を見たことも触ったことも無い、又聞きの知識だけ。水に触れたらどうなるか、水を浴びたらどうなるか分からない……だから、水に濡れることが無いの」

 真斗が静かに解説するが、よく意味が分からない。そも、ジョンはピーターなる人物について知らないのだ。尤も、ピーターを知っているらしい愛も分かっていない様子だが。

 そういえば、先程の船はどうなったのだろうかと、空を見上げてみれば、巨大な帆船が悠々と空を走り回っていた。

「うわー。帆船って海を走るだけじゃなくて、空も飛べるんだなー。ビックリだなー」

 ショックのあまり、見たままの状況を棒読みで読み上げる。

 おかしいな、ああいう帆船は水上航行専用のもので、あんな風に航空力学に真っ向から喧嘩を売るようなものじゃないと思ったんだけどな。

「うぅ……荒唐無稽すぎてついていけない……! 一体何なのよ、ここ!」

 ジョンと同様に、愛も頭を抱えている。どうやら彼女の常識でも帆船は空を飛ばないようで、共通認識の存在になんだか安堵する。

 慌てふためく2人をよそに、真斗は冷静そのもの。駅のホームに置いてある金属の箱のボタンを押して、下に開いている穴から缶を取り出し、ジョンと愛にそれぞれ差し出して来た。取り敢えず、缶を受け取るが、なんだろうかこれは。

 真斗も自分の分を取り出して、上面にあるプルタブを上げて缶に穴を開けて、口を付けた。どうやら飲み物らしいが、ひょっとしてあれは飲料の自動販売機? ともかく、ジョンも見様見真似で缶の蓋を開ける。

「ここは、夢の中よ。冬の寒空の下……一人置き去りにされた赤子を哀れんだ猫妖精が見せている、泡沫の夢」

 口を付ける直前に、予想だにしない言葉を聞いて、動きが止まって、体が固まる。ジョンの隣で缶を持ったまま俯いていた愛も、顔を上げて、目を見開いて真斗を見る。ぎょっとする、とは正しくこの事だ。

 冗談なら性質が悪いし笑えないが、真斗は声も表情も真剣そのもの。とても笑えるものじゃない。

「とんだ御伽噺だけど……続きを聴きたい?」

  ジョンと愛はどちらともなく首だけ動かしてお互いを見て、何も言わずに頷き合う。

「はいっ」

「聴かせてくれるかい?」

 2人の返事を聴いて、真斗が語り出す――その前に、ちょっと気になったことを質問する。

「ところで、これ、夢の中で飲み食いして意味あるの?」

「気分よ、気分」

 

 

 事の始まりは、一人の女性が夜な夜な、ある神社に生後間もない赤子を置き去りして行ったことだった。

 女性が何故、そんなことをしたのかは分からない。ただ、事実として、雪の降る寒い寒い夜に、何もできない赤子が独りで取り残されていた。

 自らの置かれた境遇の分からない赤子は泣く事もせず、ぼーっとして、空を見上げていた。すると、どこからか黒猫が現れて、赤子に寄り添うように、赤子を懐くように丸まって、尻尾であやして眠りへと誘った。

 赤子が夢へと落ちると、そこには別世界が待っていた。同じ神社ではあるのだが、そこは現実と似て非なる夢幻の世界。

 その世界には先客がいて、1人の少女が赤子を発見した。赤子は当然何もできないし、少女は、おどおど、おろおろ、戸惑うばかりで何もできない。不意に赤子が泣き出すと、少女はいよいよ泣きそうなぐらいに困惑してしまったが、そこへ2人の老夫婦が現れて、少女に赤ん坊との接し方、世話の仕方を丁寧に教え始めた。

 少女が赤子と1人だけで接することができるようになったころ、老夫婦はどこかへ消えてしまい、少女と赤子の2人での奇妙な共同生活が始まった。ぎこちなく、手探りながらも、少女と赤子は少しずつ距離を縮め、分かり合っていった。

 そうして赤子が夢の中で少女と共に生き続けている内に、奇妙な現象が起こり始めた。現実で夢を見ている人たちが、その夢を通じてこちら側へと迷い込むようになったのだ。これを後々、同じく迷い込んだ1人である真斗が『迷い人』と命名することになる。恐らく、最初の老夫婦もそうだったのだろう。

 夢幻の世界と現実の世界――赤子と夢見る人々との時間はリンクしておらず、迷い人の年齢や性別はおろか、現実世界での時代さえバラバラだったのだ。

 やがて、赤子は迷い人にある共通点が存在することに気付いた。彼らは皆、何らかの想いや悩みを抱えていて、このまま時間を止めてしまいたい、ずっと今のままでいたい、今に留まりたい――そんな願いを懐いていたのだ。

 お気付きかもしれないが、迷い人と接している内に赤子にはある重大な変化が起きていた。

 赤子は迷い人から伝えられた情報や記憶、経験を見聞することで、自らの姿形や思考を成長させていった。

 それだけに留まらず、赤子が聴き得た知識を基にして、最初は赤子が捨てられていた神社だけだった夢幻の世界は、どんどん広がって行った。喋れるようになった本人曰く、自分の意志で広く大きくしたのだと。

 他方、赤子とずっと一緒にいる少女には、何故かそのような変化は見られなかった。

 

 

「じゃあ、この水も……ピーターだっけ? その子が出してるってこと?」

「いや……ピーターの話によれば、この世界が始まった時から空に浮いているあの船から、ずっと水が流れ続けてるらしいんだ」

 御伽噺が一段落したところで、ジョンは地面をたゆとう水面を指して素朴な疑問をぶつけたが、返って来たのは更なる謎。

「船なのに、水の上を行くんじゃなくて水を出すって……どうなってんのよ?」

「うーん……船も知らない赤ん坊の夢の中に、どうして船が最初からあったんだろうね? もう1人のベルって子と関係あるのかな?」

 愛はあまりの常識外れの状況に呆れ返って怒り気味だが、ジョンは冷静に更なる謎について問い掛けた。ここに来る直前まで宇宙消滅の危機に直面していてやや感覚がマヒしているのもあるが、この世界はジョンにとって知らないものばかりであまりにも現実感が無く、現実と切り離して冷静に客観視しやすいのだ。

「それも分からない。分かっているのは、あの水のせいで、今まさにこの世界が危機を迎えているってこと」

「……え?」

 重ねての問いに返ってきたのは、今度は世界存亡の危機。ついさっきまで直面していたやつだ。なにこの偶然とハプニングの連鎖、悲しいぐらいいつものことだ。

 平和に慣れている愛が聞き慣れない不穏な言葉に声を漏らしてしまったのとは対照的に、ジョンは何も言わずに天を仰ぐ。

 神様、一体僕はどういう星の下に生まれついたのでしょうか? 異世界っぽいところでぐらい勘弁してください。

 そんなジョンの内心は露知らず、真斗は水が齎す危機について語り始めた。

「この世界に私が来てから暫くして、船から流れ落ちる水の量が増え始めたらしい。水没が進むにつれて、迷い人の数も減っていって、このままじゃ誰もこの世界に来なくなってしまう……どうにかしないとって、ピーターは焦ってた」

 そこで真斗は一度、言葉を切った。肩に乗っているケット・シーも心配して顔を覗き込むほど、緊張して、強張っている。なにか、その先によくない思い出があるのだろうか。

「はい、真斗ちゃん質問」

 すると、愛が手をまっすぐ上げて質問を挟んだ。律儀な子だ。真斗が先程からずっと話して教えてくれていることも相俟って、2人はまるで教師と生徒のように見えた。

「なに? 愛」

「ここに人が来られなくなることの、何がそんなに困るの?」

 愛からの素朴な疑問に、真斗は答えに窮した。

 ただ、元に戻るだけ。言った方だけでなく、言われた方も、それを分かっている。だから、答えられない。客観的に見れば、第三者の視点で見れば、それですべてが収まって万事解決。それでも、と駄々を捏ねるのは我が儘でしかないから。

 子供なんだから、もっと駄々を捏ねていいのに。

「だって、誰にも会えなくなるなんて……寂しいじゃんか」

 代わりに、ジョンが答えた。とても簡単な真実を。

 仮に、ピーターが誰にも出会わずにもう1人の少女とだけ過ごしていたら、それでよかっただろう。だが、彼は出会ってしまった、触れ合ってしまった。真斗と愛に、そして多くの人々に。

 夢の中で幾つもの出会いを重ねて大きくなれた現実の赤子にとって、新たな出会いが絶たれること、そして再会すらもできなくなることは、存在否定にも等しいのではないだろうか。

 真斗は呆気に取られて、数秒してから吐息を一つ。

「……うん。きっと、ピーターもそうだと思う。ベルは、よく分からないけど」

「そっか……そう、だよね」

 愛も納得してくれた。それどころか、申し訳なさそうな表情で、ちょっと落ち込んでいる。

 2人とも、いい子なのだなと思う。こんないい子たちに大事に想われているピーターも。

「じゃあ、僕からも質問。ピーターとベルって言うのは、誰が名付けたの?」

 気分転換にと、ジョンも質問をする。なにしろジョンはピーターにもベルにも会ったことが無いのだ。寧ろ、御伽噺に出て来たもう一人の少女がベルという名前なのかも定かではない。

 真斗は、今度は微笑みを浮かべて答えてくれた。

「私だ。名前が無いのは不便だろうって、私が大好きな物語から拝借したんだ。ピーターパンとティンカーベル……あの2人にはぴったりだと思ったから」

「そっか……。2人とも、とっても嬉しかっただろうね」

「ああ。とても気に入ってくれたようだったよ。この世界にもネバーランドって名付けさせてくれた。それから少し経ってからだな、アリシアも来るようになったのは」

 その時のことを思い出してか、真斗はとても楽しそうだった。真斗にとっても、この世界は大事なのだ。だからこそ、この危機を何とかしたいと、そう思っているのだろう。

 ただ、それだけではないという予感がある。それを、確かめなければいけない。彼女たちの力になって、彼らを助けるためにも。

「それじゃあ、最後の質問。真斗は、どうしてピーターに会いたいんだい?」

「私も聴きたいっ。教えて、真斗ちゃん」

 ジョンが問うと、愛もそれに続く。ケット・シーも真斗の顔を見つめて、無言で回答を求めている。

 大きく息を吸って、深呼吸をしてから、真斗は静かに語り始めた。

「……ピーターが、流れ落ちる水の解決策として、受け皿であるこの世界を広げることを選んだんだ。問題はその方法で、いつ閉ざされるかもわからない夢の世界に、現実の人間を連れ込むことだったんだ」

「……あの時、私を連れて行こうとしたのも」

「そう、あなたも……。とにかく、関係の無い人を自分から巻き込むのは駄目だって言ったら……ピーターは、『関係の無い君はもう二度と、ここには来ないでくれ』って言って……その直後に私は目が覚めてしまって、その後も、何度も夢を通じてここに来ても……ピーターは、ベルは、私達の前に姿を現さなくなってしまったんだ。もう、2年も……」

 まず話してくれたのは、ピーターと会えなくなった事情だった。

 真斗は無神経な言葉で彼を傷つけてしまったと後悔している様子だったが、ジョンの見解は少々異なるものだった。

「あー、そっか。必死に頑張って考えた解決方法を伝えたら、褒められるどころか怒られて叱られちゃったもんだから、臍曲げてすねちゃったのか」

 考えを口に出すと、真斗と愛は、がくっ、と肩を落とした。そんなに驚くべき発言だっただろうか。

「そ、そうなの?」

「そうでしょ。だってピーターってさ、見た目はどんなに大きくなってても、赤ちゃんでしょ? それぐらい子供っぽくてもおかしくないと思うよ、僕は」

 愛に聞き返されて、素直に理由を伝える。2人の親しげな言動から察するに、今のピーターの姿は2人と同年代程度なのだろう。でも、彼が本当は赤ん坊だという事実に変わりはない。幼い部分が思春期の2人よりもあるはずだ。

 でなければ、危険な解決策を友達に伝えて、危険性を指摘されたらいなくなっちゃうなんてことはしないと思う。普通なら、一緒により良い方法を考えるなり、口喧嘩なりするはずだ。

 ジョンの考えに、愛は納得できていない様子だ。一方、真斗は――

「ぷっ……ふふっ、そうか。ヘソ曲げて、すねただけか……っ」

 ――お腹を押さえて、可笑しそうに笑っていた。彼のことを、ではなく、重く考えすぎていた自分自身を。

「ありがとう、ジョン。なんだか気が楽になったよ」

「いやいや。それで、肝心の君の答えは?」

 一頻り笑い終えて、真斗の顔色や声色からも陰が消えていた。

「ピーターに、あの時伝えられなかった……伝えなきゃいけない言葉があるんだ。それを伝えるまで、もう一度あいつに会うまで、私は絶対に諦めない!」

 凛とした表情で、力強い声で、真斗は断言した。聞き届けたジョンと愛も、大きく頷く。

 こういうことを伝えるなら、早ければ早い方がいい。なら、ここで待ってる理由は無い。

「よし! じゃあ、行こうか。ピーターの所へ!」

 それっぽいポーズをとって、空を指す。人差し指の示す先にあるのは、空飛ぶ降水船。

 ジョンの勢いに付いて行けないのか、2人は乗って来てはくれなかった。ちょっと寂しい。

「どうやって? 確かに、ピーターはあの船にいると思うけど……空を飛んでるのよ?」

「けどさ~、ここって夢の中でしょ? 海を走る船が空を飛べるんでしょ? だったら、僕だって、君たちだって、飛べてもおかしくないよ」

 真斗が苦言を呈したが、ジョンはこの世界が夢の中という点を強調する。

 そう、ここは夢の中だ。なら、人が空を飛べてもおかしくは無い。ジョン・スミスが空を飛んでも、おかしくは無いのだ。

 いざ、覚悟を決めて羽撃こうとした、その時。

「ああーっ! そうだ、思い出したっ!」

「ど、どうしたの?」

 愛が急に大声を出して、真斗が驚きも露わに聞き返す。

 それと同時。

 空飛ぶ船から、何かが飛来する。

「真斗ちゃん、ジョン。箒とかモップとかデッキブラシとか、そういうもの探して――」

「2人とも、下がって!」

 愛の言葉を遮り、ジョンは2人を庇うように前に出る。直後、飛来した何かは線路上に落下。巨大な水柱を作り、全方位に派手な水飛沫を上げて、線路と地面を粉々に砕き、小さなクレーターを作った。

 飛来した、それの外観は――

「は、羽根……の、塊?」

「でっかい、拳骨……?」

 真斗と愛の言った通り。巨大な、天使の羽根でできた拳だった。

 ジョンは瞠目し、声も出せない。まさか、そんな、と、心の中で困惑の言葉を幾つも呟く。

 一方、巨大な拳は一瞬で消えて、それに隠れていた少年の姿が露わになった。

「やあ、こんにちは。君たちが、ピーターの友達のマトとアイかな?」

 金髪を総髪に纏めている少年は、まるで散歩中の挨拶のような気軽さで声を掛け、近づいて来る。階段を一段上るような軽やかさで、線路からホームへと飛び上がる。

 少年が正面に来たことで、ジョンは強引に思考を切り替える。今は混乱している場合じゃない。

「彼女たちに何か用かい? 気になる女の子へのスキンシップかアプローチのつもりだったんなら、とんだハリキリボーイのお出ましだ」

「そんなんじゃないよ。ぼくはトラン、君たちと同じ迷い人。ピーターに頼まれたんだ。君たちをちょっと脅かして、帰してやってくれって」

「ピーターが!?」

 ジョンの詰問も軽く受け流して、少年――トランはピーターの名を出した。真斗と愛は声を揃えてピーターの名を叫んだ。こんな刺客を送り込んでまで、自分たちを拒絶しているのか――などと、この子たちには思わせない。そんな時間は作らない。

「嫌だと言ったら?」

「帰りたくなる程度には、怖がってもらうかな」

 言って、トランは再び右腕を変化させる。天使を思わせる羽根で構成された、腕。見間違えようも無い、天使の腕を変質させた、唯一無二の天使の武装――エンジェル・アーム。

 まさか、こんな所で会えるなんて。本来なら出会いを喜びたいところだけど、今はそれどころじゃない。

 トランと対峙したまま、肩越しに背後の2人を見遣る。直前に見せられた威力を連想させられて、息を呑み、恐怖で固まっている。

 極力、平静を装って、ジョンは2人に声を掛ける。

「愛、君は船まで行けるんだね? 真斗も一緒に行ける?」

「う、うん、多分……けど、今はそんなこと言ってる場合じゃっ」

「彼は、僕が引き受けた。君達は、ピーターの所に行ってあげて」

「……大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。これでも、こういう場面を切り抜けるのには慣れてるから」

 トランに敢えて背を見せて、真斗と愛には笑顔とピースサインを見せる。人差し指と中指を交差させる、独特のピースサイン。

「行きましょう」

「無理しないでよ、ジョン!」

 2人はジョンを信じて、先に行ってくれた。2人を帰しに来たと言ったトランは動かない。何故なら、2人の動線上にはジョンがいたから。そのジョンに、背を向けられたまま、威圧され、威嚇され、圧倒的なプレッシャーによってその場に縫い止められていたから。

 トランが少しでも追う素振りを見せたら、ジョンは振り向かぬまま、彼の両足を撃ち抜くつもりでいる。それはトランの如何なる行動よりも早く、如何なる行動をも許さない。

 この場に彼がいる限り、何者もあの2人の少女を追うことも、阻むこともできない。

 2人の見送りを終えて、ジョンが振り返る。それだけで、トランが揺らぐ。トランには力があっても、戦いの経験は無いのだと見抜く。そして、それは事実であった。

 対峙したまま、2人は動かない。睨み合ったのは数分か、それとも数十分か。主観時間すらあやふやになる緊張下で、先に変化を見せたのはトランだった。

「……ん? もしかして、あなたは――」

 何かに気付いたのか、トランの気が逸れて、戦意を霧散させた。

 何に気付いたのか。言うまでも無い。ジョン・スミスの正体だ。

 ちょうどその時、空を2つの影が飛んで行った。同時に聞こえるのは、素っ頓狂な、悲鳴のような叫び声。

 空を見上げて、その正体を確かめる。

「驚いたなぁ、箒で空を飛んでるよ……。御伽噺の魔女みたいだ……」

「まさか、あんな方法で……」

 ジョンもトランも、目の前の光景に唖然呆然。空飛ぶ箒に跨る2人の少女が、空飛ぶ船に乗り込むのを黙って見守るしかなかった。万一、落ちてしまった時に、助ける必要もあったから。

「どうする? 追いかけるなら止めるけど」

 2人が無事に船に辿り着いたのを見届けてから、ジョンからトランに声を掛ける。トランはとっくにエンジェル・アームを解除している。

「いえ。最初から、ぼくの目的は彼女たちの意志を確かめること。もう一回拳骨を落として、それでも行くなら、最初から止める気はありませんでした」

 微笑みまで浮かべて、トランはそう言った。

 あれで、あんなことして、エンジェル・アームまで使って、本当にただ脅かしに来ただけって。

「……いい性格してるね、君」

「この方が、あいつの為になりそうだったし」

 ジョンが呆れて皮肉を言っても、トランは笑顔だ。あんまりいい笑顔で、いい答えだったもんだから、ジョンも自然と笑顔になる。

 本当は、ここでトランと話していたい。気が済むまで、三日三晩でも十日十晩でも語り明かしたい。

 けど、今はそれよりも大事なことがある。

「それじゃ、僕らも飛ぼうか」

「はい」

 ジョンの言葉に、トランは即座に答える。どうやら、考えることは一緒らしい。

 2人の背に天使と見紛う翼が現れ、空へと羽撃いた

 

 

 

 

 道中で、凡その事情は把握できた。

 事態の中心人物はピーターパン、それを追うのは火鳥真斗。最初は前者と共にいながら、現在は後者に肩入れしている猫妖精。

 事態の陰に隠れてしまったティンカーベル、それを探すのはアリシア・フローレンス。前者の失踪理由は依然として不明だが、現在後者はナイブズと共に黒猫に導かれている。

 事態の実態はネバーランドの閉塞。世界の水嵩が増すごとに現実との繋がりが弱まっているらしく、いずれは完全に断絶するのではないかという。

 そうなる前に、火鳥真斗はピーターパンと、アリシアはティンカーベルとの再会を目指している。再会してどうするかは、敢えて聞いていない。本人たちの問題だ。

 気になるのは、閉塞していくネバーランドの方だ。閉ざすのが目的ならば、放っておけばいいだけのはず。ならば今回の仕事の真の目的は『ピーターパンを起こし、ティンカーベルを眠らせる』ことになる。少女たちと力を合わせる、という部分とも合致する。しかし、店主は『ネバーランドを閉ざすために』『ピーターパンを起こし、ティンカーベルを眠らせる』と言っていた。店主の性格からして嘘や方便とも思えない。或いは、水没が進むと現実と断絶されるだけで、ネバーランド自体は存続するのだろうか。

 考えている内に、地面の感触が変化した。土から雪へ。城ヶ崎村ののどかな田園風景から、雪景色へ。

「ここは、極北の國……オキクルミや、ポイニャウンペの故郷か」

 写真で見せられた景色と、幾らか一致する。雪国の民族文化を継承するために保存されている、極冠の酷寒地帯。ネオ・ヴェネツィアの雪化粧とは異なる、厚く積もった雪に覆われた銀世界。

 雪を砂に、寒さを暑さに変えれば、ノーマンズランドと大差ない。それほどに、厳しい土地だったと聴いている。

「火星にも、こんな場所があるんですね」

「雪の上に水が張っている場所は、流石に無いだろうがな」

 足元の水は、相変わらず存在している。普通なら雪に沁み込み溶かすか、寒さによって凍り付くかのはずだが、まるで水と油のように交わらずにいる。通常の物理法則から乖離した現象も、ここが夢の中の世界だということを思い出させる。

「あそこの森の奥にゃ」

 途中で水が深くなっている所があって溺れそうになってから、黒猫はアリシアの肩に乗って指示を出して道案内をしている。

 黒猫が指したのは、右前方に見える、見るからに怪しげな森だった。

 森に入ると、鬱蒼とした木々の中にも道や空間が確保されていて、道なき道を掻き分け進むことにはならなかった。

 似たような景色の連続や曲がりくねった高低差の激しい道で方向感覚が狂わされたが、道に迷うことは無かった。森の奥から聞こえてくる猫の鳴き声が、ナイブズとアリシアを導いていた。

 途中、中央に朽ちた切り株がある枯れ草の広場を通り抜けて、森の深奥へ。

 辿り着いた先は行き止まり。小さな空間の中央に、壁にはめ込まれてない謎の扉が鎮座し、その前に、1人の少女と紅い化粧を施した1匹の白猫が座っていた。

「ベルちゃん! こんな所にいたのねっ」

 アリシアは少女の名を呼び駆け寄って、抱きしめた。黒猫と白猫は2人から離れて、扉の上に移ってナイブズの様子を窺っている。

 少女の姿を見た瞬間、ナイブズの思考は停止していた。

 その姿に、顔貌に、見覚えがあったから。決して忘れ得ぬ彼女、見間違いようもない。だが、ありえない。彼女がナイブズの目の前に現れることなど、あるはずがない。

 目を閉じ、アリシアと抱きしめあっていた少女の目が開き、ナイブズと目が合った。途端、手をばたばたと動かして、アリシアに離れるよう求めていた。

 アリシア曰く、ティンカーベルは何があっても決して言葉を発さない――喋れないらしい。驚いても、笑っても、怒っても。調度今のように。

「どうしたの? ベルちゃん。あのおじさんが、どうかしたの?」

 アリシアは急に少女が暴れ出したので驚いている。後ろのナイブズに反応したということには気付いているようだが、理由までは分かっていない。

 ナイブズが一歩前へ出て、少女も一歩前へ。やがて、ナイブズの手が届く距離まで近づいて、2人は同時に立ち止まる。

 ナイブズは少女の口元の黒子を見て、少女はナイブズの泣き黒子を見て、目の前の相手が誰かを確信する。

「……テスラ。君、なのか」

 テスラ。

 西暦2405年05月03日02時06分に誕生した、ナイブズの知る限り最初のプラント自律種。

 229日間を掛けて人間たちの狂気によって嬲り殺しにされてしまった、出会うことさえできなかった同胞。

 少女は、首肯した。ティンカーベルではなく、テスラの名を。

「ジョンさん、ベルちゃんとお知り合いなんですか?」

「いや……俺が、一方的に知っているだけだ」

 驚きのあまり意識が途絶えるところだったが、アリシアに問い掛けられて返事をすることに意識を切り替え、何とか持ち堪える。

 ナイブズとテスラの間に面識は無い。彼女の死後、ナイブズがヴァッシュと共に医療ブロックで発見した研究レポートで、彼女の存在を知り、内部に保存されていた実験標本を目にしただけ。

 それだけの関係性のはずなのに、テスラは首を横に振った。自分も、ナイブズを知っているのだと。

 フラッシュバック。

 ビル・コンラッドと対面した後、幼き日のナイブズはヴァッシュと共に人工冬眠施設にいた。人口の莢で眠り続ける人々の顔を見て、彼らと共に過ごす日々に思いを馳せることが、兄弟の趣味であり、日課でもあったから。

 あの日、ナイブズはそこで見たのだ。少女の――テスラの幻影を。

 そして、テスラの幻影に導かれるように、ナイブズはテスラの眠るあの場所へと至ったのだ。

 考えられる可能性は、1つ。

「まさか、あの時見た君は……なら、君は、あの時、まだ……生きて……? 俺が、君に、最後の、トドメを……?!」

 テスラは標本の状態で、人間たちでは計り知れない領域で生存していたのではないか。そして類稀な感応力によって外部に存在する自律種の存在を知覚して、自分のヴィジョンを見せることによって誘導したのではないか。

 だとしたら、なんということだ。

 テスラを殺したのは、人間どもではなく、この、俺……!?

「ジョンさん!」

 突如として響く怒声。ナイブズの意識が引き戻される。黒猫と白猫も目を剥いて驚いている。テスラもだ。

 気付くと、ナイブズは自分の顔を自分の手で掴んでいた。いや、握り潰そうとしていた。ここは夢の中の精神世界だというのに、発作的に自傷行為を行っていたらしい。生身の肉体なら頭蓋に罅が入り、顔の肉と眼球を抉っていただろう。

「ベルちゃんが怖がってますっ。落ち着いて下さい!」

 声の主はアリシアだ。アリシアが怒っているという事実を理解して、急速に頭が冷えて行った。

「……お前も、怒れるんだな」

「――あっ。やだ、私ったら……すみませんっ、年上の方に失礼を……」

「構わん。お蔭で落ち着けた」

 ナイブズの言に、アリシアは顔を赤くして慌てた様子だ。咄嗟に、頭で考えるよりも先に言葉が出ていたのだろう。

 ナイブズの知る所の現代のアリシアは怒らないことを信条とし、怒ったことも無いと言っていた。だが、いざ大切なものが脅かされれば、正常に感情は機能する。怒りの沸点が、常人に比べて遥かに高いだけだったのだ。本人も、夢の中の出来事で忘れていたか、或いはこれが時間軸の分岐点となる事態かは知らないが。

 そんなことよりも、テスラの為に人間の少女が怒りを露わにした――狂乱状態へと陥ろうとしたナイブズを引き留め、怯えるテスラを助けてくれたことが、無性に嬉しかった。

 それは、テスラと人間の間に、実験者と被験者、加害者と被害者ではない、友達という対等の関係が結ばれているということなのだから。

「すまない、テスラ。怖がらせてしまったな。許してくれ」

 テスラの前に跪き、目線を合わせた上で詫びる。顔を俯け、許しを乞うた。10秒ほどは無反応で、大袈裟にやり過ぎたかと思ったが、やがて、頭に小さな感触。

 テスラの幼い手が、ナイブズの髪を梳くように、頭を撫でた。テスラは喋れないから、どのように行動すればナイブズを許したと伝えられるのか、考えてくれていたのだ。

 それは推測ではなく、確信。触れる手から伝わる、テスラの想い。

 直接触れ合って、漸く、同胞として存在を知覚できた。同胞としての力が及んだ。

「……そうか。だから、俺をここまで呼んだのか、黒猫よ」

「そうにゃ」

 テスラは喋れない。それでは、テスラの意思は他者にしっかりと伝わらない。代弁者が必要なのだ。テスラの、この世界の開闢からすでに存在していたティンカーベルの意思を伝える存在が。

 それができるのは、火星では唯一無二、ナイブズ以外にはありえない。

 顔を上げ、テスラへと手を差し出す。

「テスラ、俺に共鳴してくれ。肉体ではない、意識体だが……できるはずだ」

 ナイブズの言葉の意味が分からないのか、最初、テスラは戸惑っていた。無理も無い、テスラは229日間しか生存できず、ずっと外から断絶された被検体扱いを受けていたのだ。自分の“力”についてなど、知る由もあるまい。

 それでも、テスラはナイブズに応えてくれた。差し出した手に、小さく細い手が重なる。優しく包むように握って、テスラを誘導する。目の前まで来たところで手を放し、両手をテスラの頭に添えて、互いの額をくっつける。

 プラントも人間と同じく、あらゆる情報処理の中枢は頭の脳に当たる部分にある。融合せずとも接触、ないしは容器越しにでも近づけるだけで、極めて高い共鳴状態になる。

 下手をすれば意識が融け合い混ざり合う危険性もあるが、ナイブズはかつて数万のプラントを融合し統合した経験がある。その心配は皆無だった。

 テスラの情報を共有し、自分からは情報がいかないように調整する。テスラは幼い。与えられる情報量の大きさに混乱しオーバーロードを引き起こしてしまう危険があるからだ。

「ジョンさん? ベルちゃん?」

「大丈夫にゃ」

 事の成り行きを見守っているアリシアは、何が行われているのか不安げで、心配そうに2人の名を呼んだ。それを黒猫が言葉で励まし、白猫が彼女の肩に飛び移り、頬を舐めて慰める。

 数分後には、情報共有は完了した。

 突き付けられた事実の数々にナイブズは強い衝撃を受けていた。しかし、今はそれで立ち止まっているわけにはいかない。テスラの願いを叶えるためにも。

 そしてまずは、言うべきことがある。

「アリシア、礼を言うぞ。テスラが、随分と世話になったらしいな」

 テスラは長らく、この世界でも人に怯えて過ごしていた。あのような体験を経て、人間に恐怖しない方がおかしいのだ。例外は、赤子の頃から一緒にいたピーターと、赤子の育て方、赤子との接し方を教えた老夫婦だけだった。

 それを、アリシアが変えてくれたのだ。テスラが身を隠すのを“かくれんぼ”と誤認してのことだったが、結果的に、テスラの人間への恐怖を遊びに変えて、解きほぐしてくれたのだ。

 一方、アリシアはナイブズから突然お礼を言われて戸惑っている。

「ジョンさん、おでこを合わせただけで、ベルちゃんが何を言いたいか分かったんですか?」

「ああ。同胞だからな」

「それに、夢だからにゃ。不思議なことなんて幾らでも起こるにゃ」

 アリシアの素朴な疑問に、ナイブズは素っ気なく簡略に答え、黒猫が誤魔化すように被せる。アリシアも取り敢えず納得したようだから、それでいいとしよう。

 振り返り、扉を見る。どこにも繋がっていない、不自然な扉。だがこれは、ある場所へと繋がる秘密の扉。

 時空の狭間、はじまりの場所へと続く門。

「この門の向こうが、目的地だ。ピーターパンの居場所に通じているらしい」

 ナイブズが言い、テスラが頷く。テスラの主観時間に於いて、20ヶ月近い時間を費やして見つけた場所。ピーターパンがそこへ辿り着いたのも、ごく最近のことだ。

「私も行っていい? ベルちゃん。……あ、テスラちゃん、だっけ」

 アリシアがティンカーベルの名を呼んで、すぐにテスラと言い直した。

 すると、テスラはなんだか残念がっているような表情を浮かべて、アリシアが不思議そうな顔をしている。情報共有の恩恵もあり、ナイブズは即座に理解できた。

「ベルと呼んでやってくれ。テスラは、その愛称がとても好きらしい」

 火鳥真斗は赤子にピーターパンと名付け、テスラにティンカーベルと名付けた。そしてアリシアが、ベルという愛称で呼び始め、それで定着した。

 個体を識別する記号としての名称ではなく、個人への親愛が込められた呼称、愛称。それを人から与えられたことが、彼女にとってどれだけの救いであり、祝福であったことか。

「じゃあ、ベルちゃん。私も行くね」

 アリシアに改めてベルの名で呼ばれて、テスラは、ぱぁっ、と笑顔になり、頻りに頷いた。

 夢のような光景――実際に夢ではあるらしいが――を目の当たりにして、自分の中の何かが削げ落ちて行くような、そんな感覚を覚えた。満たされるのではなく、何かが落ちていく。心に、魂にこびりついていた、何かが。

 不快感は無い。寧ろ、軽くなった爽快感がある。

「行こう、テスラ。行くぞ、アリシア」

「はいっ」

 2人に声を掛け、テスラの手を引く役はアリシアに任せて、ナイブズは扉を開けた。

 扉の中にあるのは、見覚えのある光の回廊。白猫と黒猫が一声鳴いて先に入り、先導する。それに従って、ナイブズ達も光の回廊を進んだ。

 今度は途中ではぐれることが無ければいいのだが。前回はどうとでもなったが、今回ばかりはしゃれにならん。

 

 

 

 

 ジョン・スミスとトランが空飛ぶ船の甲板上に降り立った時、既にピーターたちの姿は無かった。舟の内部にいるのではないかというトランの発案により、2人は手始めにと船室に続いているであろう扉を開けた。

 扉を開けると、そこは薄暗い不可思議な空間だった。

 一度扉を閉める。ジョンとトランは顔を見合わせ、今度はそっと、扉を開けた。

「ここは、赤子の俺が、現実で捨てられて、眠っている場所を模して造られているらしい」

 不可思議な空間の奥から聞こえてくる、少年の声。トランがピーターの声だと断言して、ジョンも覚悟を決めて不可思議な空間へと突入する。

 太陽の沈んだ夜とも違う、光を遮断した暗所とも違う、不可思議な薄暗い空間。すぐ後ろには門のような赤い構造物があって、扉は風景に溶けるように消えていく。

「ここは時の流れから切り離された、時間の狭間。夢と現の境を越えた、夢と幻の狭間」

 普通じゃない場所、夢の中だとは聞いていたけど、ここまで不思議な場所だったのかと、ジョンもトランも面食らっている。しかし、聞こえてくるピーターの声に導かれるように歩き出す。

 声の主は、意外に近くにいた。真斗と愛もすぐ傍にいる。

 彼らが居るのは、神殿を思わせる木造の建築物。確か、日本の宗教建築の一種、神社というものだったはずだと、古い知識を引っ張り出して、状況の理解に努める。

「ここが、ネバーランドの全ての始まりの場所だよ」

 ピーターは神社の本殿の階段に立ち、本殿の屋根よりも上に見えるもの、神社の背後に佇むものを見た。それは、離れた場所にいるジョンとトランにも見えた。

 猫を模った、巨大な彫像。うっすらと開かれた目は画像や映像資料で見た仏像にも似ていて、見るだけで慈愛や慈悲を感じさせる。

 ここは、あの猫神を祀る社なのだろうか、などと考えている間にも、ピーターは話を続ける。

「俺も、ここを見つけたのはつい最近なんだ。正直、驚いたよ……世界の始まりから降り注ぐ水の発生源が、まさかもう一つの神社の、猫妖精(ケット・シー)の像だったなんてね」

 ケット・シー。真斗が連れていた猫と同じ名前だ。その猫も、今は真斗から離れてピーターの下にいる。

 真斗はピーターをまっすぐに見詰めて、微動だにしない。一方、愛はケット・シーの像を見て、何か気になったのか、ピーターの隣をするりと通り抜けて、像へと向かった。目指す先は、像の見つめる視線の先――何かを大事に包み込んでいるような、優しく添えられた両手の中。ピーターが言った、水の発生源だ。

 話すのに夢中なのか、それとも話すだけで精一杯なのか、ピーターが愛の行動に、そしてジョンとトランの存在に気付いている様子は無い。

「色んな方法を、必死に、何度も試してみたけど……この水を止めることができなかった。真斗ちゃんと別れた後、何度も現実世界に赴いて、見聞を広めて、この世界を広げていったけど……そんな俺の努力を嘲笑うように、世界に降り注ぐ水量もまた、さらに増えて行ったんだ。どれだけ世界を広げ続けても、それ以上の水が世界に降り注いでくる。ネバーランドの水没は止められない。結局、真斗ちゃんが正しくて、きっと姉さんも、それが分かっていたんだ。だから……どこかに隠れてしまったんだろうな」

 そこで言葉を切って、ピーターは寂しげに、自嘲気味に笑った。姉さんとは、きっと行方不明のティンカーベルのことなのだろう。

 真斗とトランは、黙ってピーターの様子を窺っている。ジョンは、愛が掌の中に何かを見つけて、悲しみと優しさが入り交じった表情を見せていることに気付いた。

「なあ、ピーター。君は、どうして水が溢れているか、考えたことがあるかい?」

 静寂を破り、赤い衣が薄暗い世界の中心へと一歩を踏み出す。

「ああ、確かに。今の話だと、ピーターは水への対策をしているだけで、原因を調べてないように聞こえたけど」

 ジョンの行動に応じて、トランも続いてくれた。

 少年少女たちは漸く、新たな乱入者の存在に気付いた。

「トラン。結局、全員連れて来ちゃったのか」

「君が本当に一人になりたがってたら、もっと本気でやったけど」

 溜め息混じりのピーターの言葉に、トランは微笑みを浮かべて答える。

トランは今日までずっと、人の在り方を見極める旅を続けて来たのだ。ピーターと出会って話した時間は決して長くはないが、トランが彼の内心を、隠していた本心を見極めるには十分な時間だったのだ。

 そしてそれは、ジョンも同じ。長い時間を人間に寄り添って生き続けた彼は、ほんの僅かな時間の付き合いだが、愛という少女を少なからず理解できているつもりだ。

 ジョンは、彼女に賭けたのだ。

「……考えたことも無かったよ。どうして世界に水が溢れてるのか、この水がどこから来ているのかなんて……」

 ピーターにとって、世界は最初からこうだった。水は最初からそうだった。だから、それらの在り方や理由が気にならなかったのだろう。砂の惑星で生まれ育った人々が、荒野だらけの砂塗れの大地に、双子の太陽に、砂虫の存在に、何の疑問も懐かないように。

 それは恐らく、真斗も同様。ここに何度も通う内に、ピーターやベルというこの世界の住人と交流するうちに、当たり前になって行ったのだろう

 けど、新参者はそうはいかない。僕らのような来たばかりの新入りには、色んな出来事への疑問が沸々と湧いて来てしまう。答えを得ようと悩んで、もがいてしまう。

「本当に分からないの? ピーター。ここはあなたの夢の中……あなたの心なんだよっ」

 だからこそ、答えに辿り着ける。この世界に来たばかりでも、以前からピーターを知っていた、覚えていた、愛ならば。

 ピーターは愛の言葉を聴いて、漸く彼女が猫妖精の像の許にいることに気付いた。振り返り、呆気に取られて目を瞬かせ、無言で聞き返している様子だ。

 今の愛の言葉の意味を理解できているものは、残念ながらこの場には誰もいない。或いは、あの像と同じ名前を持っているケット・シーならば何か知っているのかもしれないが、話せないのでは確かめようも無い。

 けど、理解しようとすることは、今からでもできる。この場にいる誰にでも。

「見て、ピーター。この像の、掌を」

 愛に誘われ、導かれ、ピーターは、真斗は、トランとジョンも、猫妖精の像の許へと集まる。ケット・シーもピーターの肩に乗って、静かに見守っている。

 猫妖精の像が両掌を合わせて、優しく抱いている、すくい上げているものがある。その両目から、水が溢れ出て、泡となって宙に漂い、いつしか弾けて滴となって降り注ぐ。

 泡沫(うたかた)の滴は、零れた涙。泣いているのは、赤子の像。

「これは……赤ん坊の、俺?」

 零れ落ちた、ピーターの言葉。赤子の像が返事をするはずも無く、涙を流し続けるだけ。しかし、答えてくれる人がいる。

「この水は、涙なんだよ。一人ぼっちにされて、置き去りにされて……声も上げられなくて、理由も分からなくて……静かに、静かに、あなたの心が泣いて流した、涙なんだよ」

 優しく諭すように、愛は自分の感じたままを言葉にして、ピーターに伝える。この解釈にジョンは異論を挟むつもりは無いし、他のみんなも同様だった。

「このままでは、お前の心は遠からず、悲しみに沈んで、死んでしまう。それを言葉も分からない赤ん坊のお前が、必死に伝えていた……と、そういうことらしい」

 新たに現れた、第三者の声。聞き覚えのある、聞き間違いようのない声。言葉の内容よりも、その声に驚き、思考が一瞬止まる。一瞬後、脳が正常な判断を下せるようになってすぐ、そちらへと振り返る。

「なっ……!?」

 そこにいたのは、1人の男と、1人の少女と、1人の幼女、そして白と黒の2匹の猫。

 少女にのみ、見覚えは無い。白猫は紅い化粧が珍しく、黒猫はなんだかどこかで見たようなことがある気もするが、些細なことだ。問題は残る2人だ。

 もう60年も前に行方を晦ませてしまった、この世でたった一人の兄弟。

 そして、もう1人の姿を見て――幽霊に出会ったのだと、ジョンは直感した。

 

 

 

 

「姉さん、とアリシア……貴方は?」

 黒服に身を包んだ少年が、テスラを姉と呼び、アリシアの名を唱え、ナイブズに誰何する。恐らくはこの少年がピーター。原本と配役がやや異なるが、この世界でずっと共にいるテスラを、ピーターが姉として慕っていることは、アリシアから確認済みだ。

「ジョン・ドゥとでも呼べ」

 アリシアの時と同様に偽名を告げて、猫妖精の像の許に集っている顔触れを確認する。

 長い黒髪の少女――アリシアの話していた火鳥真斗。

 赤毛で髪を2つに結わっている少女――店主の言っていた3人目。

 猫妖精の分身と思しき黒猫――こちらに同行していた黒猫と白猫と挨拶を交わして、今は少し離れた所で何やら話している様子。

 金髪を総髪で纏めている少年――情報に無い存在。確証は持てない。

 そして――

「ジョンが、2人」

 赤毛の少女が、ジョン・ドゥを名乗ったナイブズと、箒のようなトンガリ頭の、黒髪の、紅いコートを纏った男とを見比べる。

「ハロー。僕はスミスです」

 ジョン・スミス。あいつが一時期愛用していた、偽名の定番。

 それにこの声、喋り方、気の抜ける間抜けな笑顔。

 見間違えるはずが、分からないはずが無かった。

「………………こんなところで何やってるんだ、お前」

「それはこっちの台詞だよ。……久し振り」

「ああ、久し振りだな」

 あの決戦以来の、久しぶりの対面だというのに、お互い、酷い第一声が出てしまったものだ。

 それでも、こうして、また出会えたことが、ただ嬉しい。言葉が出ないほど、言葉に出来ないほど、嬉しい出来事だった。

 袂を別ってしまった、たった1人の兄弟と、こうして穏やかに言葉を交わせる日が来ることなど、夢にも思わなかった。

 ジョン・ドゥとジョン・スミス――ミリオンズ・ナイブズとヴァッシュ・ザ・スタンピードの再会が、遠い水の惑星で、夢幻の世界でなされるなどと、一体誰に思えたことか。

「その子は……テスラ、なのか?」

「……そうだ。テスラだ」

 ヴァッシュは、ナイブズの後ろでアリシアに手を引かれる少女を指して、テスラの名を出した。ナイブズはすぐに肯定し、身振りでアリシアとテスラを促し、先にピーター達の元へと向かわせた。入れ違う形で、ヴァッシュと金髪の少年がナイブズの下へ集まる。ナイブズも神社の階段を上り、猫妖精の像を正面に見据える。

 ピーターを中心に、少年少女たちは思い思いの言葉を交わす。ナイブズの仲介が無くとも、喋れないテスラの意図を、アリシアとピーターはよく汲み取ってくれた。

 アイという少女がアリシアに見覚えがあると言っているが、恐らくアリシアが水の三大妖精と呼ばれるようになって以後の時間軸から来ているのだろう。もしかしたら、ナイブズと同じ時期という可能性もある。

 少年少女たちがお互いに何処をどう探していたか、などを話している間に、ナイブズたちも少々言葉を交わす。

「ところでヴァッシュ、そいつは?」

「トラン。僕らと同じだよ」

「はじめまして、ナイブズさん。母さんから、あなたの話はよく聴かされていました」

 トランと握手を交わし、同胞であることを確かめる。母について、何か含みのある言い方をしたので確かめようとしたのだが、それより先に、少年少女たちから声が掛けられた。

「ジョンさん。そちらの、もう1人のジョンさんとはどういう御関係なんですか?」

 どうやら話題は2人のジョンに移っていたようで、その興味がそのままこちらへ向けられた。偽名の代名詞的な名前を名乗る2人が知り合い同士なのだから、変に勘繰られるのも当然か。

「俺達は双子の兄弟で、ジョン・ドゥもジョン・スミスも偽名だ」

「本名がバレちゃうと、ちょっとややこしくなっちゃうかもだから、秘密にさせてね」

「……うん。確かに、秘密にしておいた方がいいと思う」

 余計な誤解を生まぬよう、あっさりと事実を伝える。本名については、ナイブズもヴァッシュも、名の知れ方がアリシアとは別ベクトルの有名人だ。最悪、知人というだけで連邦当局に拘束される恐れもあるので、伏せておいた方がいいと判断した。

 トランが苦笑しながら賛同してくれたお蔭で、本名についての追及は無かった。代わりに、意外なところから追及が来た。

「あ~、そうなんだ。それでなんだか親近感があったのね。ジョンの方が弟でしょ」

「えっ、何で分かったの!?」

「私も双子なの。私の弟とジョンって、なんとなーく雰囲気が似てるから」

 なんという奇縁か。まさか双子の片割れがここにいて、ヴァッシュと行動を共にしていたとは。

「そっか……苦労してるんだね、弟くん」

「どういう意味よ!?」

 ヴァッシュがアイの弟への同情を口にした途端、綺麗な飛び蹴りが炸裂。この少しの間で何故、肉弾言語のコミュニケーションが行えるほどに打ち解けているのか。やはり、ヴァッシュの順応力は自分の比ではないと、何故か安心してしまう。

 相変わらずのこの調子なのだ。ナイブズと別れたあの日からも、今まで通りに過ごしていたことだろう。

 最低限の情報が全員に行き渡ったことを確認し、ヴァッシュが起き上がったのを合図に、話を本題へと戻す。

 3匹の猫たちは、いつの間にか猫妖精の像の頭の上に集まり、様子を見守っている。

「ピーター、お前はここを見つけた時のことを覚えているか?」

 ナイブズの問いに、場の空気が、しん、と張り詰め、静まり返る。

 ピーターパンは考え、思い出すようなしぐさを見せながら、少しずつ言葉を紡いでいく。

「……ケット・シーが、姉さんを見つけたと教えてくれて、姉さんを見つけて、追いかけていたら、見失って、その時にここに来て…………まさか、姉さんが案内してくれたの?」

 ピーターの推論を、ナイブズとテスラが首肯する。

「テスラはお前と違って、現実世界に干渉することができない。だから、お前が外に行っている間、この世界を隈なく探し回っていたんだ。この世界を水に沈める原因をな」

 テスラとの情報共有によって得た知識を、ナイブズの口から告げる。ピーターは数度頷いて納得し、テスラの前に膝をついて、目線の高さを合わせて、彼女に詫びた。

「……ごめん、姉さん。心配かけちゃって」

 テスラは首を横に振り、ピーターパンを優しく抱きしめた。

 この様子を見て、ヴァッシュもテスラが喋れないことに気付き、ナイブズが小声で答える。

 度重なる生体実験の中、如何なる言葉も人間へと届かなかった恐怖が、悲哀が、絶望が、彼女から言葉(こえ)を奪ったのだと。テスラの墓標に残されていたレポート――ナイブズもヴァッシュも一字一句正確に暗記している――から『発声』『発語』の記述が途中から消えていたこと、テスラの生体機能の解明にのみ終始して精神面を顧みなかった人間たちの姿勢が、それを裏付けるには十分な証拠であった。

 ナイブズとヴァッシュの内緒話が終わるのとほぼ同時に、ピーターは自らテスラの手を離して立ち上がった。

「つまり……ネバーランドはもうお終いってことだよね。他ならぬ、僕自身が原因で……」

 振り返り、ピーターは猫妖精の像を、その掌に在る赤子の像を、そこから溢れる泡沫を見遣る。

「夢は覚めるものだ。いい夢だろうと、悪夢だろうと」

 自然と、ナイブズの口が動いた。自身もまた、夢のような世界で、居心地の良すぎる世界で生きて来たのだという想いがあればこそ。

 それを聴いて、ピーターは寂しげな笑みを浮かべて頷いた。

「もう、誰かを呼び寄せたり、連れて来たりすることはしないよ。僕が現実の世界に行くことも。……もう、お終いにしよう……そういうことだよね、姉さん」

 テスラは静かに頷き、ピーターの手を取った。ピーターの笑みが、寂しさと共に深まる。テスラは、静かに頷くのみ。

「これから、僕と姉さんで君達を送り返す。一刻も早く、ここを立ち去るんだ。……いつ、悲しみで溢れて、満たされてしまうか、もう分からないから」

 唐突に告げられた退避と送還の通告に、この場にいる殆どの者が驚きを露わにする中で、ナイブズに先んじて一人の少女が即座に動いた。

「嫌だっ」

 ピーターの言に毅然と否を突き付けたのは、真斗。今この場にいる現世の者の中で、最もピーターと深い縁で結ばれている少女。これにはピーターも驚き、彼女の顔を見つめ返す。

「私は帰らないし……帰されたとしても、これから先、何度だって来てやる!」

 力強く言い切って、ずい、と詰め寄る。烈火の如き真斗の迫力にも、しかし、ピーターも譲らない。

「……君には、帰る場所があるんだよ? この世界に取り残されるかもしれないし……一緒に沈んでしまうかもしれないんだぞ!?」

「分かっている! だからずっと、私だけは……お前の傍にいてやるっ!」

 尚も言い募る、最後には語尾を荒げたピーターを押しのけて、真斗は自分の心をそのまま体ごとぶつけて、彼を抱きしめた。

 言葉と行動の意味するところを察したアリシアとテスラは共に驚きと喜びの入り交じった表情となる。アイは茫然、そして目を伏せ、静かに涙を流し、ヴァッシュが何も言わずとも、優しく励ました。トランは何が起きているのかよく分から無いようで、どういうことかと混乱している。

「……やっと、伝えられた」

 万感を込めた、少女の言葉が耳に届いて、ナイブズもまた動いた。

 テスラの前に跪き、彼女の手を取る。

「……俺もだ、テスラ。俺が、君と共に逝こう」

「ジョンさん?」

 ナイブズの言葉に、まず真っ先に反応したのは隣にいたアリシア。他の面々は何事かと顔を向ける程度。猫たちはぎょろりと目を剥いている。

「……何を言ってるんだよ? ナイブズ」

 ただ1人、ナイブズの言葉の意味を理解したヴァッシュだけが、問い質して来た。本名で呼ばれたが、構わない。どうせ今更だ。

「ヴァッシュ。俺は、お前に敗れて、死ぬはずだった。だが、お前に救われて……俺は、生まれ直せた。そして……あの、水の惑星(ほし)で……俺は生き直すことすらできた」

 ナイブズもまたヴァッシュの名を呼び、静かに言葉を紡ぐ。

 水の惑星で過ごした日々が、走馬灯のように脳裏を駆ける。過ごした日々が、矢の如く通り過ぎる。

 あの日々が、俺を変えてくれた。あの日々があるからこそ、今の俺はある。

 テスラの真実を知った今、人間への憤怒を滾らせ憎悪を募らせることなく、ただテスラを想って悲しむことができている。それ故に、導き出せた答えがある。

「分かったんだ、やっと……テスラに会えて。俺の命は、このために。この時の為に。こうして、死に直すために」

 あの日々の到達点は、此処だ。探していた答えは、これだったのだ。

 生まれ直し、死に直す。お前も、こんな気持ちだったのか? レガート。

「死……って、どういうことです?」

 火星での日常には似つかわしくない不穏な言葉に、アリシアが敏感に反応する。黎明の火星で、死に場所を求めていたと吐露した神主を見た時の灯里によく似ている。

 あの時、神主は生きる気力を取り戻していた。今、ナイブズは生き続けた実感があるからこそ、死を選んだ。

「……ピーターパンは成長している。なのに、ティンカーベルが成長しなかったのはなぜだ?」

 手に取ったテスラの小さな手を握り、そのような問いを返した。

 テスラの手は、何も変わらない。標本に残されていた手の大きさと、何も変わっていないのだ。

「妖精さん、だから?」

「ピーターの、夢の中の住人だから?」

「ネバーランドの中枢じゃないから?」

 アリシア、アイ、トランがそれぞれ三者三様に回答する。ピーターとマト、そしてヴァッシュは、状況を見守っているのか、答える気配はない。

 視線もくれず、ナイブズは解答を告げる。

「もう、変わり得ないから……死んでいるからだ」

 絶句。ヴァッシュ以外の、トランを含めた少年少女たちの驚愕が、目で見ずとも伝わってくる。それも、これが夢の中、意識と意識が直接対面している状況ゆえか。

 そんなことを思いつつ、昔日を――ナイブズとヴァッシュの運命を別ったあの日を回想し、告げる。テスラと出会った彼らにも、知る権利はある。

「テスラの死後に、俺達は生まれた。幼い日に、俺はテスラの幻影を見て、それに誘われて……彼女の墓標を見つけた」

 あそこは医療設備ではなく墓、保存されたままの標本は資料ではなく戒め。

 今なら、レムが伝えてくれた言葉の数々を、素直に受け入れられる。

 すまなかった、レム。あんたは、あんなにもテスラのことを想って……悔いて、悲しんでくれていたのに、狂った俺には、それすら受け止めることができなかった。……いや、それらの感情でさえも、憎悪と憤怒と怨嗟の炎を燃やす火種に変えてしまっていた。

 150年の時を経て、ナイブズはレムに懺悔する。テスラの悲劇を知ればこそ、ナイブズとヴァッシュを守り、育ててくれた、母代わりの恩人へと。恩に報いることはおろか、裏切ってしまったことへの後悔が、強く胸を締め付ける。

「まさか、あの時、テスラの霊魂か残留思念を知覚してたのか……!? だからお前は、あの時、知らなかったあの場所に……!」

 あの時、共にいたヴァッシュは、驚愕し、動揺している。

 思い返せば、ヴァッシュはテスラの幻影に気付いた素振りが無かったし、あの後も見えていなかった。双子だから、ついヴァッシュもそうだったと思い込み、多少記憶を改竄していたらしい。

「恐らくな。双子でも、そういう霊感のようなものには差があるんだろう。……それとも、俺とテスラの何かが近かったのか、呼び合ったのか……」

 真実は分からない。少なくとも、霊魂の実在と、霊感を有していることは火星に来てから確認済みだ。

 その切っ掛けとなった黒衣の君の件で、テスラを偲んだあの時は、こんな状況は考えてすらいなかったというのに。霊魂の実在自体、実物と対面するまで半信半疑だったというのに。変われば変わるものだ。

 変われたからこその、今。それを噛み締める。

「俺はテスラとここに残る。そして、共に――」

 改めて居合わせた者達へ、テスラへ、自らの死を告げようとして、言い終えるより先にテスラから引き剥がされ、乱暴に胸倉を捕まれる。

 およそ形容し難い形相で、ヴァッシュはナイブズを至近距離で睨みつけて来た。

 怒っているのか、悲しんでいるのか、苦しんでいるのか、それともその全部なのか、分からないほどに、ぐちゃぐちゃの表情で。

 やめてくれ、ヴァッシュ。俺が死ぬのを惜しまないでくれ。俺まで、惜しくなってしまう。

 ヴァッシュの手を、強引に振り払う――

「そんなのダメぇー!!」

 ――手が、止まる。

 制止の怒声の主は、少女。

 真斗ではない。寧ろナイブズと同様に向けられた側だ。声を聴いただけなのに、不思議とそんなことまで伝わっていた。

 アイではない。彼女も目を丸くして驚いている。

 無論、テスラであるはずも無く。

 残っているのは、1人。

「アリシア……?」

「アリシア・フローレンス」

 声の主の名を、真斗と共に呟く。

 ナイブズがアリシアから怒りの感情を向けられるのは二度目。先程の、テスラの前で取り乱した時は、叱咤。相手を正すためのものであり、怒りというよりも苛立ちであった。

 だが、今向けられたものは、叱責。相手の間違いを咎め、引き止めるもの。自分の中の正しさを信じればこその、純粋な怒り。

 2人に名を呼ばれたアリシアは、滂沱の涙を流していた。

「真斗ちゃんもっ……ジョンさんもっ……生きてるのに、帰るところがあるのに……そんなこと言っちゃ、ダメ……! ピーター君も、ベルちゃんも、そんなことっ、してほしくないよ……っ! 大切な人に、自分のせいで全部を捨てて欲しくなんて、無いよ……!」

 ヴァッシュの表情が、アリシアの言葉が重なって、ナイブズの心を貫いた。

 絶句した。ナイブズは、テスラのことを想うあまり、他者の心を、テスラ自身の想いすらも慮っていなかったのだ。

 ナイブズの様子を見て、ヴァッシュは手を放した。ナイブズはすぐ後ろを振り返り、テスラを見た。テスラは泣きじゃくるアリシアを心配しながらも、どこか嬉しそうだった。そして、ナイブズと目が合い――静かに、頷いた。

 自己満足と、自己陶酔。己を省み、あれほど自戒せんと誓ったはずが、この醜態か。

 ……だが、ならば、この感情はどうすればいい? どうすれば、俺は……――

 

 

 

 

 ナイブズは形容し難い表情で、わなわなと震えている。後悔、困惑、苦悩、苛立ち……悲しみを基にして、色々な感情がごちゃ混ぜになっている。どれを強く表せばいいのか、分からずに。

 少しずつでも言葉を交わして、そして人間の少女の言葉でこれほど動揺する姿を見て、本当に、ナイブズは変わったのだと実感する。

 ヴァッシュの意識が回復しないまま、リンゴの木を残して姿を消してからの60年の間に、ナイブズは変わっていたのだ。それも、ヴァッシュにとっていい方に。

 ただ、今のナイブズはあまりにも危うい。ヴァッシュの知るナイブズは、決して安易に死を選ぶような男ではなかった。それが、たとえテスラの為だったとしても。もしかしたら、ナイブズはヴァッシュも知らない、テスラに纏わる更なる真実を知ったのかもしれないが、今は確かめようも無い。

 今は、他にもできることがある、助けてあげたい子がいる。だから今は、ナイブズはそっとしておこう。

 未だに泣いているアリシアを心配そうに見て、その視線に僅かな敬意や羨望が混じっているのを確認してから、愛に声を掛ける。

「愛。君も、ピーターに言いたいことがあるだろ?」

「え? で、でも……」

 声を掛けられて、それも図星を突かれて、愛は動揺を見せている。

 真斗がピーターに想いを告げて、抱きしめたあの時の愛の表情は、涙は、そういうことなのだろう。その上で、こんなことを言うのは酷かも知れないし、世話を焼き過ぎ、お節介にも限度があるかもしれない。

 それでも、信じている。大事なのは、想いを伝えること、想いが伝わることだと。

「言っちゃいなよ。そういうのは、早ければ早いほどいいし……言えなくて悔やむより、言ってから恥ずかしがる方がいいって!」

「そう、かな……」

 出来る限りの明るい声と笑顔で、優しく、愛の背を押す。愛は恥じらい、まだ一歩を踏み出せないようだ。

「じゃ、ぼくが先に言うから、考えを纏めておいて」

 突然のトランの乱入。

 今の話の流れからすると……えっ、ピーターと親しげだったのは、そういうことだったの!? と、馬鹿馬鹿しい反応を愛と一緒にしてしまうが、当のトランからそんなこと無いよと否定され、一安心。ただの時間稼ぎという意味で言ってくれたようだ。

「ピーター。君のことを聴いてからぼくも色々考えてたんだけど、やっぱり、君の境遇には同情とか共感はできても、君が生きるのを諦めるのだけは理解できないかな。ぼくだって同じようなもんだったし」

「……え?」

 トランの告白に、ピーターは糸のように細い目をぱっちりと見開いて、素っ頓狂な声で聞き返した。そんな反応にも、トランは笑顔で応じた。

「ぼくを生んでくれたひとは、ぼくを産んだ後にすぐ死んでしまったんだ。普通ならぼくも死ぬところだったんだけど、ぼくは母さんに拾われて、育てられて、今こうしてここにいる」

 トランは母との死別という暗い過去を、何の後ろ暗さも無く語り、寧ろ『母さん』に拾われて育てられたことを明るく語ってみせた。

 予想外のトランの告白に、ヴァッシュは彼に釣られて笑顔になった。

 ああ、そうだ。僕らも生まれた後に、違う人に、レムに育ててもらったんだ。

「捨てられたぐらいで悲観することなんかないよ。君のお母さんがいなくても、きっと他の誰かが、君を拾って育ててくれるよ」

 どんな逆境も跳ね除ける、逞しく明るい笑顔。そんな表情で告げられては、誰も言い返すことはできない。僕らだってそうだったんだと、ヴァッシュは心の中で力強く肯定する。

 母との離別という悲劇すら、新しい母さんとの出会いという奇跡へと繋がるものだった。トランは現在の絶望を跳び越えて、未来にある希望を信じていた。

「……ここで、色んな人に会ったけど、みんなが色んな悩みや苦しみを抱えていた。僕もいずれそうなるって分かってるのに、生きていることに意味なんかあるのかな……?」

 ピーターの心は揺れている。生きることを選ぼうとしている。それでも、彼の原体験が、この世界での経験が、未来へ行くことを躊躇わせている。

 自然と、口が動いた。

「そんなことないよ。確かに、生きていれば苦しいこと、悲しいこと、辛いことは何処にでも、たくさん待ち受けてる。けど、それと同じぐらい楽しいこと、嬉しいことが待ってくれてる。生きていれば、きっと、何かいいことがあるからさ。生きられるなら、生きなきゃ損だよ」

 辛いことが沢山あった。レムを失い、友を失い、誰かを助けられず、誰かを守れず、誰かに裏切られ、誰かに騙され、誰かに奪われ、150年も兄弟と分かり合えず傷つけ合った。

 それでも、いいことだってたくさんあった。レムに出会えて、友達ができて、色んな人に助けられて、守られて、支えられて、笑い合って、一緒に酒を飲んで……最後の最後に、ナイブズとも分かり合うことができた。

 出会ったみんなとの思い出があるから、いつでも思い出せるから、きっと俺は、今でも、いつでも、笑えるんだ。

 生きることはいいことだよと、本当は赤子の少年へと手を差し伸べる。

 その手が、脇から飛び出た言葉で弾き飛ばされた。

「そうだとしても、テスラはどうなる! テスラは……テスラは! 生きること、死ぬことの意味すらも分からない内に死んだんだぞ!! 自分が死んだこと、生きていたということすら……っ、分かって、いなかったんだぞ!? そんなテスラに、何が残されている!?」

 理不尽への怒りと、悲しみ。ナイブズはテスラの真実を吐き出すと共に、感情をぶちまけた。その言葉が、ヴァッシュの胸に突き刺さる。

 テスラの誕生後の扱いは、徹頭徹尾、被検体だった。実験動物ですらなかった。

 知能と生体反応を有する器物として、扱われ、調べられ、検査され、繋がれ、投与され、切開され……およそ、生きているとは到底言えないものだった。

 言語を解しても、誰も双方向のコミュニケーションを行わず、実験として言語反応を見るだけで、誰も、何も、教えていなかった。

 テスラが、生と死を理解しないまま、生の実感を伴わないまま、死ぬことも分からないまま、命を終えてしまったと言われても、反論の余地は無く、受け入れる以外に無かった。

 ナイブズが共に逝こうとした気持ちも、今なら分かる。せめて今度は、寂しくないように、こんな場所にまた迷い込まないように、一緒にいてあげたい。

 けど、それでも。死が、全ての終わりということは、決して無い。

「僕らがいる」

「あなたたちがいます」

 ほぼ同時、ナイブズの嘆きに答えたのは、ヴァッシュとアリシアだった。

 ナイブズは返ってきた答えに呆然としている。意味がよく分かっていないのだろう。無理も無い、ナイブズにとって死とは、無残な終末というイメージが強すぎるのだ。彼自身が、それを数多く齎してしまったから。

 アリシアは、泣き止んだばかりで目尻が貼れているし、目も赤い。それでも、ナイブズに向かって穏やかな笑みを浮かべて、テスラへと歩み寄り、静かに抱きしめた。

「ベルちゃん、素敵な弟さんたちが生まれて、大きくなって……こんなに大切に想ってくれて……良かったね……」

 透き通る涙が、静かに頬を伝い落ちる。泣いているのは、アリシアとテスラだ。

 悲しみではなく、喜びの涙だ。テスラに何も残されてないなんて、そんなことは無いんだと確信させてくれる。

「僕とお前が、テスラがいたことの証だ。テスラがいたから、僕らは今、ここにいる。テスラが先に生まれてくれたから……僕らは、生きてっ、こんなに生きられたんじゃないか!」

 アリシアの言葉を借りて、ヴァッシュも自らの想いを言葉へ変えて、ナイブズへと伝える。当たり前すぎて、ナイブズが気付けていないことを。

「俺が……お前が、テスラの、証……? テスラが、遺してくれた……」

 鸚鵡返しに唱えられた言葉を、すぐに首肯する。

 もし、テスラが生まれていなかったら。ヴァッシュとナイブズが、あの船団内における最初のプラント自律種の誕生例だったとしたら。

 まず間違いなく、レムやコンラッドにも出会えず、どちらかが犠牲になっていた。いや、順番に2人とも犠牲になっていただろう。

 そんなことにならなかったのは、テスラが先に生まれてくれていたから。テスラの命が、後に生まれた2つの生命を救い、今日まで繋いでくれた。

 多くの人と出会い、多くの人と別れた。それらを数多く経験し、幾つもの生と死を垣間見たヴァッシュだからこそ、辿り着けた答え。

 死は、終わりではない、無に帰するのではない。残された者が受け入れて、受け止める、受け継いでいくべき命のバトン。

 全てを伝えずとも、ナイブズなら同じ答えに辿り着いてくれると信じている。

 150年もいがみ合って喧嘩別れもしたけれど、ちゃんと仲直りのできた、この世でたった1人の兄弟なら。

 ナイブズの表情から、次第に驚愕が抜け落ち、冷静さを取り戻していく。

「……そうか。…………そう、だな」

 そう言うナイブズの目からは、とめどなく涙が溢れていた。まるで、心を堰き止めていたものが取り払われ、洗い流されていくように。

 ヴァッシュもまた、泣いていた。貰い泣きなのか、今更悲しくなったのか、自分でもよくわからない。

 ただ、今は泣いていたい。

 泣きたいだけ泣いて、この後にまた、笑顔になるために。

 

 

 

 

「ピーター! 私は真斗ちゃんやそっちのおじさんみたいに、一緒にいるなんて、優しいことは言わないわよっ! 私は一味違うんだからっ」

 気付けば、この場に集まった者の半分以上が泣いていて、湿っぽくなってしまった空気を、目一杯の元気を込めた声が一新させた。

 声の主は、二宮愛。ヴァッシュに背中を押されて、トランに時間を稼いでもらって、心の準備は十分、覚悟も完了したのだが、間の悪いことにナイブズが割って入って、それ以前に話の内容があまりに真剣で深刻で、すっかり話を切り出すタイミングを見失ってしまったのだ。

 実際、トランは時間を作る保証をしただけで自分の言いたいことを言っただけで、ヴァッシュも感じるままを口にしていた。要するに2人とも深く考えず、最初から愛のことを念頭に置いていなかったのだ。なんという無責任。

 そんなこととは露知らず、愛は素直に他のみんなが話している内に考えをまとめたものの、その間になんだか結局自分だけ置いてけぼりにされたようで、ちょっとイライラし始めて、落ち着いたタイミングで爆発した。

 名指しされたピーターや真斗、そっちのおじさんことナイブズだけでなく全員が呆気に取られて、愛を注視している。

 ついさっきまで蚊帳の外だったのに、急にスポットライトを当てられたようで、一瞬、気恥ずかしさから気後れする。だが、すぐに知ったことかと思い切り、舞台の中心へ――ピーターの許へと向かう。寄り添っていた真斗は、何かを察して、ベルの方へと離れていく。

「一緒に目を醒まそうよ、ピーター! 一緒に起きて、現実の世界で逢おうよ!」

 ベルの話を聞いた後に、言っていいものかという迷いもあった。けど、どうしても言いたかった、伝えたかった。この想いを、この人に。

 ピーターは嬉しげに微笑んだが、それも一瞬、空ろな瞳が、虚しさを物語る。

「……俺の生まれた時代と君の生きている時代は、どれだけズレているかも分からないよ?」

 起きたところで、また会える保証はどこにもない。様々な時代に繋がる時空の狭間での出会いは、本来起こりえない奇跡の巡り合わせなのだ。そこへ更なる奇跡を望むなど、烏滸がましいというものだ。

 だが、愛は引かない。押し進み、突き進む。彼の心に届くまで。

「迷い込んできた人に、原始人はいた?  みんな火星の人ばかりだったんでしょ?」

「…………火星を、ノーワンズランドと呼んでいる奴はいたか?」

 正確な名も知らぬ少女の勢いに乗せられ、熱に中てられたか、ナイブズはちょっとした気紛れから、愛に続く形でピーターへと問いかけた。

「いや……みんな、アクアって呼んでたけど……?」

「火星開拓の頃には、あまりに過酷な火星環境を愚痴って、そう呼ぶ者もいたらしい」

 ネバーランドが子供たちの楽園ではなく、苦しみを抱えた者が迷い込む世界ならば、火星開拓の時代の者たちが最有力候補に挙がる。にも拘らず現れていないとなれば、少なくとも火星環境が完全に安定した時代以降としか繋がっていないことになる。

 その意図を受け取って、愛は更に押しを強くする。

「ほら、もう確定でしょ! 私たちの時代は、きっとそんなに離れてないよ! 私と真斗ちゃんだってそうなんだからっ! だから……絶対に逢えるっ。ううん、たとえ逢えなくも、私がピーターを探し出す! たとえ、お婆ちゃんになっても!」

 思わぬ援軍を得て、愛は早口でまくしたてる。

 仮にほぼ同じ時代の住人だとしても、再会するまでの時間は未知数だ。 10年かかるかもしれないし、60年かかるかもしれない。

 それでも、可能性がほんの僅かでもあるなら、諦めたくない。この想いを、この人を。

「愛……どうして君は、そこまで言ってくれるの?」

「どうしてですって!? んなのっ、あんたが好きだからに決まってるでしょ!!」

 ピーターが、半ば困惑し、半ば呆れて聞き返して来たものだから、愛はこれ以上ないぐらい、分かり易く答えてみせた。

 予想外の答えに、ピーターと猫たちは目を見開いて驚いて、何も言わずに愛を見つめる。

 他方、残った面々からは小さな歓声が上がり、それを聴いて、愛は我に返って色々と気付いて、爆ぜるように赤くなった。

 わたわたと、慌ててピーターに色々取り繕ったことを言っている。そんな青春の1ページを微笑ましく見守りながら、ヴァッシュは真斗に声を掛ける。

「どうするの? 真斗」

「どっ、どうするって!?」

「あらあら。真斗ちゃん、もっと、ちゃんと、はっきり言わないと、伝わっていないかもしれないわよ?」

「ぼくも、よく分かってないしなあ。ピーターも分かってないかもなあ」

「テスラも気になってる。言うことがあるなら早く言え」

 真斗がしらを切ろうとした途端、アリシア、トラン、テスラとナイブズによる流れるような連係プレー。いや、ナイブズはテスラの代弁をしているだけか。

 ともかく、5人から急かされて、背を押され。一度、二度、三度と深呼吸をして、真斗は再びピーターの許へと向かった。

「わっ、私も! お前が好きだ、ピーター! 一緒にいるうちに、少しずつ……一緒にいられなくなってから想いが強くなって、それで……そうでなきゃ、2年もずっと、お前を探しに来るものか!」

 まさか、2人の少女から同時に好意を寄せられ、同時に告白されるとは思ってもみなかったピーターは、混乱して、猫妖精の像の足元に座り込んでしまった。

 顔を伏せ、手を当て、沈黙すること暫し。顔を伏せたまま、肩を震わせ、ピーターは2人の想いに答える。

「……僕も、逢いたい。現実の世界で、ちゃんと大きくなって……自分の足で立って、両手を広げて……本物の空を見て、本物の海を見て……本当の自分で、本当の君に逢いたい……っ」

 本当の君。告げられたのは、2人ではなく1人。

 1人の足は止まり、1人はピーターの前まで歩いて行って、手を差し出した。

「私も。本当のお前に、ちゃんと逢いたい」

 優しい、穏やかな笑顔で、声で、言葉で、そう伝えたのは、真斗。

 ピーターは顔を上げ、彼女の手を取り立ち上がって、互いに相手を抱きしめた。

 伝えられた/伝わったこの想いがあれば、きっと大丈夫。

 胸に宿る温もりがある限り、また逢えるその日までの寂しさにも、もどかしさにも、苦しさにも、きっと耐えられる。どんな苦難も困難も超えられる。

 この人が、同じ星の上に、空の下に、海の傍にいてくれるから。

「……この水って、真斗ちゃんとピーターが出会った頃から、増え始めたんだよね……」

 2人を見ながら、2人に聞こえないように、愛が誰にともなく問いかける。それを拾ったのは、ヴァッシュ。

「きっと、いつか来る別れが惜しくなって、その寂しさも増えたんだろうね」

「水は増えたまま……想い、続けたまま……」

 ヴァッシュの推測に、愛も納得できて。言う前から分かっていたつもりだったけど、ずっと前から結果は出ていた、2人の心は決まっていた。そう思ってしまうと、お祝いしたいはずなのに、胸が痛くて、どうしてもできない。

 そんな愛の心を察して、ヴァッシュは彼女の肩にそっと手を添えた。

「今は泣いていいよ、愛。けど、さよならの時は、微笑んで。次にいつ会えるかわからないんだから、最後は笑顔を覚えてもらおうよ」

「……うんっ」

 ヴァッシュの言葉に甘えて、愛は泣いた。声は出さずとも、顔を真っ赤にしてボロボロ泣いた。

 その隣で、トランはピーターと真斗と愛の様子を、興味深げに観察し、真剣に見つめていた。

 人間同士で争うさま、支え合う様子は見て来たけど、こうして、絆が深く固く結ばれる場面を見るのは初めてで、叶わずとも報われずとも、誰を恨むわけでもなくただ悲しむ人を見るのも初めてだったから。

 星を巡り人間を見極める旅の中で、自分の出すべき答えが、決まっていた答えが、より明確になっていくのを感じる。

 やっぱり、人と仲良くなるというのは、いいことだと思う。種族丸ごとは無理でも、せめて、個人的にぐらいなら……。

 トランは、彼方の砂の星で待つ――というか寝てる――異種族の母と、人間の研究者へと思いを馳せる。

「よかったね、ベルちゃん」

 アリシアは、感極まって嬉し涙を流しているテスラの目元をハンカチで拭いながら、そのように声を掛けた。テスラは頻りに、何度も頷いた。

 それを見て、漸くナイブズにも分かった。テスラが今日まで、この世界に留まり続けた理由を。テスラが、何を待ち望んでいたのかを。

「……そうか。テスラ、君が待っていたのは、この時だったんだな」

 大切な弟の、旅立ちと幸せ。それを見届けること、たったそれだけが、彼女が最期に望んだことだったのだ。

 ナイブズもまた、猫たちと同様に、静かに、2人を見守った。

 

 

 

 

「じゃあ、みんなで起きようか。……また逢えるのが、いつになるのか、分からないけどね」

「そんなことを言うな。きっと、また逢えるさ」

「そうね。たとえ夢の中だったとしても、私達がこうして出会えたことは、幻なんかじゃないもの」

「夢だけど、幻じゃない……。うん、そうだよ。きっとじゃなくて、必ず逢えるよ」

 ピーターが、真斗が、アリシアが、愛が、再会を信じて、約束の言葉を交わす。誰も「さよなら」とは言わず、微笑みを浮かべていた。

 他方、プラント自律種の4人はそこに加わろうとしなかった。

 ヴァッシュとトランは、彼ら水の惑星の住人達とはもう会えない、という確信にも似た予感があったから。

 テスラは、言わずもがな。

 唯一水の惑星に居るナイブズは、テスラとの別れだけで頭がいっぱいだった。未だに、二宮愛が着ている服が、秋に会った時に小日向光と大木双葉が着ていた制服と同じであることにも気付いていない。

「今までありがとう、ケット・シー。……もう、大丈夫だよ」

 少女たちと再会の約束を交わして、ピーターは今までずっと傍で見守ってくれていたケット・シーに、別れを告げた。

 ケット・シーは満面の笑みで応えた。両隣の白猫と黒猫も満足げだ。

 ピーターが虚空へと手を翳す。すると、全員の体が、ふわりと宙に浮いた。同時に、水嵩が見る間に増して、世界を呑み込んでいく。ケット・シーが抑えてくれていたのか、それとも、心をふさいでいたものが取り払われたからかは、ピーター本人にも分からない。

「へぇ、不思議な力が使えるんだ」

「恐らく、ケット・シーとアマテラスの分神も力を貸しているんだろう」

「……やけに慣れてるな、ナイブズ」

「慣れもする」

 ピーターの力に感心するトランへ、ナイブズが冷静に補足する。その補足にも聞き慣れない不可思議な単語が混ざっているのだから、会わない間にナイブズがどんな環境で生きて来たのか、とても気になる。だが、それを問い質す暇も、もう無いようだ。

「……ベルちゃんは、どうなるんですか?」

 一人だけ、宙に浮かず、いつの間にか水面に現れた蓮の葉に乗っているテスラを見て、アリシアがナイブズへと問うた。色々詳しい様子のナイブズなら分かるのではないかと思ってのことで、それは正しかった。

 いや、アリシアも本当は分かっている。先程、他ならぬナイブズ自身が言っていたのだ。テスラ――ベルはもう、死んでいると。

「……この世界で、生きることを知って……死を理解して…………テスラは、やっと……眠れるんだ」

 敢えて直接的な表現を避けて、ナイブズは奥から絞り出すように答えを口にした。

 テスラは、共に行けない。共に逝くことを、テスラは望んでいない。

 だから、テスラだけは、本当にここでお別れなのだ。もう二度と、会うことは無い。

 それを本当は分かっているから、理解できてしまうから、アリシアは今また泣きそうで――だが、愛が、それを止めてくれた。

「さよならの時ぐらい、微笑んであげようよ。本当の、本当に……最期なんだから。ベルちゃんが、あなたたちのお姉ちゃんが、迷わないように……っ」

 アリシアだけでなく、テスラの弟分に当たる3人へも、先程自分が貰った言葉を送る。この言葉は、今この人たちにこそ必要だと、そう思ったから。

 いざ別れに直面して、惜別の念に強く囚われていたピーターとアリシアとは対照的に、ナイブズとヴァッシュはすでに心を決めていた。ヴァッシュに関しては、自分で言ったことが自分に返って来て、気恥ずかしいぐらいの余裕があった。

「心配するな。先に逝くだけだ。少しだけ……いつか、俺達の誰もが行き着く場所へ。それに……俺達に、テスラの存在は刻まれている。悲しむな」

 ピーターとアリシアへ、ナイブズが言う。この別れは誰もがいつかは経験し、直面するものなのだと。

 もう会えない。だからこそ、この別れを受け止めて、繋いでいかなければならない。それこそが、自分たちが受け継げる、彼女の存在の証なのだから。

 言葉足らずにもほどがある不器用具合だが、夢の中だからだろうか。不思議と、ナイブズの真意はアリシアとピーターに余すことなく伝えられた。

 真斗と愛、トランと猫たちが見守る中で、4人はテスラへ別れを告げる。

「ありがとう、姉さん。あなたがいてくれたから、僕はいつも、孤独(ひとり)じゃなかった」

「ありがとう、ベルちゃん。あなたと会えて、とても楽しかった……嬉しかった……っ」

 目に涙を湛えながら、それでも、ピーターとアリシアは微笑んで、別れの言葉ではなく、出会えた喜びと感謝を伝えた。

 それは、奇しくもヴァッシュとナイブズの想いと同じ。

「テスラ、ありがとう。君がいてくれたから、僕は210年、生きられました」

「テスラ、ありがとう。君のお蔭で、俺の150年はあった」

 それらの言葉を贈られて、テスラは、目一杯の笑顔を浮かべて――少しだけ先に、世界に差し込んだ光に溶け込むように消えて逝った。

 そして、4人の少年少女たちは、3人のプラント自律種たちは、それぞれの時へと還った。

 誰しもの涙を受け止める世界は、満たされ、役目を終え。閉じて、消えた。

 夢は醒め、幻は消える。

 そして彼らは、現へと還る。

 

 

 

 

 水の惑星の、各々の時代で、少女たちは目覚めていた。

 火鳥真斗とアリシア・フローレンスはもう夢を見ることも無くなったせいか、成長し、大人になり、社会に出て、忙しさが増す日々の中で、記憶は次第に薄れ思い出すことも殆ど無くなっていった。稀に思い出したとしても、色褪せた記憶に確信は薄れ、積み重なった常識の重みからあの出来事は、ただの夢だったのではないかと疑うようになってしまっていた。

 ただ、真斗は大好きなピーターパンの物語を読むたびに、アリシアは夢に肖ってネバーランドと名付けた秘密の島に来る度に、変わらず残り続ける、不思議な懐かしさと温かさを思い出していた。

 唯一、二宮愛だけは。目覚めた直後に成長し、教師となっていた真斗と再会を果たし、部活の後輩たちに夢のことを話した直後、猫妖精の分身に導かれ、真斗と共にあの神社のオリジナルへと来るのだが、これはまた、別のお話。

 付け加えるのなら、一つだけ。

 彼らの約束は、間違いなく果たされるということだけ。

 

 

 

 

 気付くと、彼らは乗り物の座席に座っていた。

 まるで、つい先程までその場で眠りこけていたように。

「……あれ? ここは……なんだろう?」

「まだ、夢の中……?」

「この汽車は……」

 三者三様の反応を示すと上の網棚から1匹の黒猫が降りて来た。

「お前たちに、せめてもの礼だにゃ。気が済むまで、ゆっくりしていくといいにゃ」

 それだけ告げて、黒猫は車両間の通路を通って、出て行った。

「猫が、喋った……」

「まぁ、夢の中だしな」

「ああ、そういえばこれって夢だっけ」

 またも三者三様の反応を示すが、ナイブズだけはこういう事態に慣れきってしまった自分自身に呆れ返っていて、ある種の諦めの境地に立っていた。

 そこへ、黒猫と入れ替わる形で車掌が入ってきた。ナイブズは懐から切符を取り出そうとしたのだが、車掌は手をかざして、それを制止した。

 

――どうぞ、ごゆるりと――

 

 恭しく礼をして、車掌はゆったりとした動作で立ち去った。

「えーっと……つまり……?」

「積もる話があるなら、ここで幾らでも話して行け、ということだろう」

「なるほど」

 黒猫と車掌の意図が読み切れない、というよりもこの状況に混乱しているヴァッシュに、ナイブズが分かり易く説明する。トランはすぐに納得して、ヴァッシュもそれに倣う形で納得した。

 2人とも、納得はしたが理解は放棄した様子だ。それで正しい、自分もそうだったと、妙なところで感慨に耽ってしまう。

誰ともなく、3人で溜め息。なんだか、どっと疲れが出た。

「それにしても、ナイブズ。お前、変わったなぁ」

「お前はちっとも変わらないな、ヴァッシュ。……いや、少し老けたか?」

「僕も色々あったからね。……なんだか、安心したよ」

「こっちこそ、安心するよ」

 ふと始めた会話は、この上なく穏やかで、すぐに終わってしまったが、言いようのない充足感があった。

 こうして2人で、また、他愛の無い話をすることができるようになるなど、2人とも思っていなかったから。

「ぼくも、話に混ぜてもらえますか? あなたたちに訊きたいこと、聴いてもらいたいことがあるんです。ヴァッシュ・ザ・スタンピード、ミリオンズ・ナイブズ」

「うん、話そうよ。僕らのこと、テスラのこと、あの子たちのこと……色んなことを」

「俺も、話したいことが山ほどある」

 そして、3人は話し続け、語り合った。

 まずナイブズは2人との60年の誤差に驚いて、次いでヴァッシュが2年足らずでのナイブズの変わりようと太陽系にいるという事実に驚いて、トランは半ば伝説と化している2人の巷間伝わるイメージとの落差に驚いた。

 その後は、それぞれが語り、それぞれが聴き、それぞれが話し、それぞれが耳を傾けた。そうやって、彼らの主観時間でどれだけの時が過ぎたのかもわからなくなっていた頃。

 車内に、次の停車駅を報せるアナウンスが流れた。

 

――次はー、AQUA。水の惑星、AQUAで御座います――

 

 

 

 

 24月17日 早朝 境の店

「おはよう」

 起きてすぐ居間へ向かうと、店主が茶を飲んで待っていた。朝の挨拶にも耳を貸さず、一つだけ問い質す。

「どこまで知っていて、俺に行かせた」

「ティンカーベルがプラント自律種の意識体ということまでは、火星の慈母から伺っていた。今回の仕事も、彼女から依頼されたものだったんだ」

 返ってきた答えは、予想通りのものだった。猫妖精と大神が関わっていたのだ、彼女も関わっていないはずがない。

 途中から、テスラと会った瞬間から完全に忘れていたが、結果として、ナイブズは仕事を果たした。ピーターパンを起こして、ティンカーベルを眠らせて。

 どうやら今回ばかりは、店主も全てを知ってはいない様子。これ以上の追及は無駄か。

 調度よく、当面の目標と目的ができた。今はそう思っておこう。

 一つ深呼吸して、心を落ち着かせる。肝心なのは、こちらの質問だ。

「……火星には、裏命日もあるのか?」

 この問いに、店主は予想だにしていなかったのか、寝耳に水を挿されたような表情になって、返答が遅れた。

「うん? あ、ああ……。確かに、そういう風習もあるが……どうかしたのかい?」

「今日は喪に服す。詳しいことは明日話す」

 裏命日の有無を確認できれば、それで十分。ナイブズは座ったままの店主の脇を通り抜け、外へ続く戸を開ける。

 祈る場所は、あそこしかない。ナイブズにとっての、新しい始まりの地へ。

 今日は5月3日から数えて229日目に12ヶ月を足した日。テスラの裏命日にあたる日なのだ。

「ああ、そうだ。今回の報酬だけど、アテナ・グローリィの観光案内でいいかな? 24月24日に予約を入れてもらったのだけど、この調子じゃ到底間に合いそうもないからね。君が代わりに行ってくれると助かる」

「いいだろう」

 一瞥し、適当に頷いて、足早に外へ出る。猫たちだけが暮らす街の裏側を、ナイブズは飛ぶように駆ける。

 目指し、辿り着いた場所は、ナイブズが初めてこの星に降り立った場所。火星開拓時代に使われていたと思しき、鉄道駅の跡地。ナイブズが生き直すための、最初の一歩を踏み出した場所。

 ナイブズは駅のホームに座り込み、この日一日を、すべてテスラへの哀悼のため、冥福を祈るために費やした。

 ネバーランドでの体験を共有した兄弟と同胞は60年先の未来にいて、火星の住人達は、アリシアの例を考えるに同一の時間軸に存在しない可能性や、忘れてしまっている可能性もある。

 だから、せめて自分だけは、記憶に留めていたい。テスラのことを、ネバーランドでの出来事を、思い返し、深く、深く、記憶に刻む。

 テスラを知る、テスラを覚えている、テスラが生かしてくれた命が、この世に存在し、生き続けていくことが、彼女の生きていた証になり、弔いになるのだと、そう信じて。

 また、涙が溢れる。魂の焦げ付きが、憎悪と憤怒と怨恨の炎で焼き焦げた跡が、気付かぬ内に癒されていて、瘡蓋が剥がされるように洗い落とされていく。

 そんな実感を懐きながら、少しだけ、テスラのことから思考を逸らし、いつの間にか星が瞬く空へと目を向ける。

 はるか時の彼方にいるお前たちは、覚えてくれているか? ヴァッシュ、トラン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 星暦0174年6月14日 早朝 某所の野営地

 目が覚めて、一緒に寝ている2人を起こさないようにテントから出る。今の時間帯はまだ、双子の太陽は片方しか顔を出していない。もう一つの太陽が昇る頃には、2人も目覚めるだろう。そして、朝食を終えて一息ついた後にでも、結論を出す。

 とうとう、今日だ。今日、この星の命運を決めることになる。母さんは、今日、結論を出すのだと言っていた。

 つい昨日、この星の片隅で宇宙消滅の危機が起きていたのも知らないで。

「……ぷふっ」

 急に可笑しくなって、笑いが吹き出す。

 ああ、本当に、可笑しくって堪らない。

 自分たちはこの星の運命を握っている、この星の行く末を決めようとしている、などと思っていた癖に、同じ星の上で宇宙消滅の危機が起きていたことに気付きもしなかったのだから、笑うしかない。

 そんな重大事件の直後だと、なんだか自分たちのやろうとしていることが急に小さなことに思えてきた。星とか種族とか、よく分からないぐらい大きなことだと思っていたのに。

 母さんは、きっと人間を滅ぼそうと言うだろう。やっぱりこの星は、人間が生きて行くには辛すぎる。水の惑星を垣間見て、そして話に聴いた今では、殊更そう思える。

 レイメル先生は、それにどう答えるのだろう。トランに分かるのは、彼が真面目で、誠実で、そして砂虫を嫌悪せずに好意的に接してくれるということだけ。

 トランは、どうするのか。夢幻の世界に迷い込み、水の惑星の話を聴いて、人々の出会いと別れと絆を垣間見て、そしてヴァッシュとナイブズとたっぷり話して。

 疾うに出していた答えは、変わったのか? 揺らいだのか?

「うん。やっぱり、ぼくはぼくのやりたいようにやろう。母さんとレイメル先生と、三人で一緒にいられれば……それでいい」

 ただ、それだけでいい。それだけで、ぼくは充分なんだ。

 ヴァッシュとナイブズと話せて、背中を押されたお蔭もあって、迷いは微塵も無い。後は、その時を待つだけだ。

 思ったよりも早く結論が出て、まだまだ時間には余裕があった。もう少し、思索に耽ることにした。

 夢の中でヴァッシュとナイブズと出会い、言葉を交わしたが、彼らよりも先に出会った少年――ピーターパン。

 赤ん坊として、元のその時に還った彼がどうなったのか。不思議と、心配はしていない。確信にも似た、希望があるから。

「こんな時の彼方の遠い星で、君を知っている奴がいるんだ。きっと君も、大丈夫だよ、ピーター」

 太陽の光に覆われて、星の見えなくなった空へと呟く。この方向に地球があるのかも知らないけど、それは些細なことだ。大事なことは、心の繋がりだから。

 さぁ、そろそろ2人を起こそう。朝食を済ませて、身支度を整えて、それから決めることになるだろう。ぼくらの生きて行く明日を。

 どうなるかは分からないけど、きっと悪いようにはならない。そう、信じている。信じられる。ねぇ、ナイブズさん、ヴァッシュさん。

 

 

 

 

 星暦0174年6月13日 ゴラン峡谷

 意識が還る。夢幻の世界から、現実のその時へと。

 それはあまりにも一瞬のことだった。即座に、瞬時に、世界が切り替わった。

 古びた汽車の客席から、朽ちた移民船の前へ。

 手には握り慣れた銃。背後にはヴェロニカ・翼。目の前には涙を流すプラント。今いるこの場所は、惑星ノーマンズランド。

 時空の狭間でも、来世でも、別世界でもなく、現実の今まで生きて来た世界。

 後ろから、翼の声が聞こえる。それに答えるプラントの声が聞こえる。

 どうやら、宇宙が消えて無くなってしまったわけではないらしい。そうなると、懸念はあと一つ。

「……その男は、私の計算と少し違えて撃ちました。そのお蔭で、子供は消滅しませんでした。自らの力によって亜空間に吸い込まれました」

 プラントの言葉が耳に届いて、漸くヴァッシュは銃を収めた。

「あの子は、新しい宇宙になったのです。彼は、私の子供を生かしたのです。この男は、何一つ諦めなかったのです」

 極限の緊張のせいか、強張った表情が中々元に戻らない。手の動きもぎこちなくて、銃に指が張り付いてしまったようで、剥がすようにゆっくりと手を動かす。もしかしたら、意識が体に戻ったばかりで、まだ馴染んでいないせいかもしれない。それとも、自分のことよりも、あの子が生きていたことが嬉しいからか。

 プラントの子に考えが及んで、ヴァッシュの中で全てが繋がった。

 ああ、そうか。君だったんだね。君が僕に、あんな夢みたいな時間をくれたんだね。

 仮にそうじゃなかったとしても、誰にも真実は分からない。だから、きっとそうだったと、僕は信じたい。

 ありがとう、名前のまだ無い、顔も見られなかった……ここではないどこかへと旅立った、人の形ではなく宇宙になったという同胞よ。

「銃を構えてから撃つ、僅かの間に、私以上の計算をするなんて……。200年間、考え続けた私より……!」

 そんな風に言われて、漸く体の感覚が戻って来た。

 銃をホルスターに収めて、表情を緩める。

 自然と浮かぶのは、ヴァッシュ・ザ・スタンピードの象徴。

「失礼だけど、ミセス・プラント。永劫の時間は、僕にもありました。僕も結構、長生きしたから」

 いつだって考えて来た。いつだって挑んで来た。いつだって立ち上がって来た。

 誰かを守りたくて。誰かを助けたくて。誰かを救いたくて。

 そんな今までの積み重ねが、この時に、いい結果として実ってくれた。ただ、それだけ。

 ヴァッシュ・ザ・スタンピードは今まで通り、何時もの通り、柔和な笑みを浮かべる。

 優しく、頼もしく、逞しい、そんな笑みを。

「あっ、そうだ」

 立ち去ろうとしたその瞬間に、ヴァッシュに妙案が閃いた。

「どうしたの? ヴァッシュ」

 プラントに聞き返されて、ヴァッシュは満面の笑みで応えた。

「あの子の名前、『ネバーランド』なんてどうかな?」

 この提案に、プラントは益々怪訝な表情となった。

 人名らしからぬ名称が気に入らなかったのだろうか? 宇宙に、世界になったらしいから、ある意味ぴったりだと思ったのだが。

「どうして、あの子に名前を? あの子はもうこの宇宙にいない。それどころか、別な、新しい宇宙になったんですよ?」

 確かに、プラントの言う通りだ。あの子はもうここにいない。この世界に存在していない。観測することも出来ない。

 そんな存在に、態々、後から、今更名前を付けるなど、奇妙なことだと思われたのだろう。

「でもさ。思い出した時にも名前を呼べないなんて、寂しいよ」

 それでも、あの子は確かにいたんだ。ついほんの一瞬でも、僕らと同じ世界に。その証拠ぐらい、残してあげたい。この世界からいなくなっても、僕らの記憶に、心に、残り続けてくれる限り。

 そうだよね、テスラ。

「ありがとう……VTS、ヴァッシュ(Vash)(The)スタンピード(Stampede)。あなたは何もかも、私の想像を、計算を、超えていくのですね」

 プラントは、また涙を流していた。

 先程の悲痛な涙とは違う、歓喜の涙を。

 それを見たヴァッシュの笑みが、気恥ずかしさと照れ臭さから苦笑いに変わる。

「そんなんじゃないよ。ネバーランドに、いい夢を見せてもらったお礼さ。ミセス・ウェンディ」

 一緒にプラントにも名前を贈って、後事を後ろで事態の推移を見守ってくれていた翼に半ば押し付ける形で託して、ヴァッシュはゴラン峡谷から立ち去った。

 真紅の外套を翻し、永遠の時間を歩く旅人は、旅を続ける。

 次の行く先は決まっている。ゴラン峡谷に来るまでの旅路で小耳に挟んでいた、砂虫を引き連れた奇妙な三人組の許へ。

 会いに行くよ、トラン。君と、君の家族に。僕の家族(きょうだい)は一緒に行けないけど、あいつの分も、会えないみんなの分も、たくさん話をしよう。

 ナイブズ。僕たちは僕たちで、この星で生きて行く。お前も、生きてくれ。それこそが、僕らを生かしてくれた、生きさせてくれている“すべて”の証になるんだから。

 お前が変わることができた、お前が生まれ直して、生き直すことのできる……まだ見ぬ(その)遠き場所(水の惑星)で。


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