夢現   作:T・M

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#3.違う謳声、同じ歌

 猫の国の王から手渡されたマスクと套を身に付けて、ナイブズは王とその従者と思しきもの達と共に、猫の集会所から出発した。

 人語を解する人形のような猫曰く、『今の彼は“カサノヴァ”です』ということだった。

『今日から始まるカーニヴァルは、カサノヴァと共に歩くだけで存分に楽しめます。無論、人間達と共に』

 その言葉を取り敢えずの当てとして、ナイブズはカサノヴァの後に付いて歩いていた。途中、仮面を外してそれを見る。偶然か、その仮面はナイブズが一時期付けていた仮面と似たデザインだった。あの仮面を被っていたのは、ジュネオラ・ロック・クライシスからの約2年間――ヴァッシュが失踪していた頃だったか。

 あの頃のナイブズは、ヴァッシュに人間を見限らせる為に、人間を使ってヴァッシュに最高の苦しみを与えようとしていた。何者よりも人間らしく、誰よりも人間を愛しているヴァッシュにとって、人間に命を脅かされること、人間の醜悪さを見せつけられることは、どれ程の苦痛だったのだろうか。人間を害虫同然に思っていたナイブズには、全く分からなかった。だからこそ、知らなければならない。

 自分と同じ絶望を味わった弟が、気が遠くなるほど――人間によって幾度となく傷付けられ、踏み躙られ、騙され、裏切られて、その印を全身に刻み込まれて、それでも、人間を愛せた理由を。すぐには全部を知れずとも、今日この先から、少しずつでも。

 ある路地を曲がると、辺りの空気が一変した。先日までとは比べ物にならないほど騒がしく、賑やかな人間達の気配を感じる。もうそろそろか。

 仮面を被り、カサノヴァの後に付いて歩き続ける。そして表通りに出た途端、今まで聞いたことの無いような大きな歓声がナイブズ達に向けられた。

 

「カサノヴァだ!」

「すっげぇ、本物だー!」

「でっけぇー!」

「お、今年は大きいのが1人混ざってるな」

「小人の楽団もいるぞー!」

 

 人間達から向けられる歓声に呆然として、思わず立ち止まってしまった。

 今まで、大勢の人間達から歓声で迎えられたことなど一度も無かった。寧ろ、人間から向けられる感情で馴染みがあるのは怒りや憎しみ、恐怖や畏れの類で、こんなにも明るい感情を向けられたことは無かった。稀に、畏敬や崇敬の念を向けて来る者もいたが、あれらは好意ではなく狂信。今聞こえてくる歓声と同じに出来るものではない。

 実際は、歓声の大半はナイブズの前に立つカサノヴァに向けてのもので、残りはその従者たちへのもの。ナイブズに向けられているのは物珍しそうな視線ぐらいのものだ。どうやらカサノヴァは、この街の猫達だけでなく、人間達にも知られた存在らしい。

 従者たちが楽器を鳴らし始めると、カサノヴァはナイブズに振り返り、付いて来るようにと身振りで促して、悠々と歩き出した。その後に、ナイブズも続く。

 人間達はカサノヴァを見ては親しげに声を掛けたり、物珍しそうに眺めていたり、写真を撮ったり、様々だ。この様子を見るだけで、カサノヴァがこのカーニヴァルの中で特別な立場であるということが分かる。しかし、厳密にどんな立場なのかまでは、流石に分からない。

「カサノヴァは18世紀の地球のヴェネツィアに実在した人物なの。時に脱獄者であり、稀代の女ったらしであり、文学者でもあり、冒険家でもあった。とにかく、スキャンダラスで有名な人物だったんですって。今では、カーニヴァルの時だけ復活する伝説のアイドルね」

「ほへー」

 また都合よく解説が聞けたものだ。

 後ろから聞こえてきたカサノヴァを解説する声は、昨日、カーニヴァルの解説をしていた人間と同じものだ。2度も続けて、都合よく解説を聴けるとは。偶然か、ある種の奇縁か。

 それにしても、と、ナイブズは目の前を歩くカサノヴァを見る。特別な存在だろうと思ってはいたが、まさかカーニヴァルの主役だったとは。人間ではないものが、人間の祭りの主役の位置にいる。このことを、この街の人間達は知っているのだろうか。

「ちなみに、カサノヴァ役は毎年一人にしか許されていなくて、演じるのは大変名誉なことなんだけど……それについては、すんごい噂があるのよっ」

 すると、後ろからまたもカサノヴァについて話す声が聞こえてきた。凄い噂というものが気になり、歩を休めずに耳だけを澄ます。

「なんでも、あのカサノヴァはこの街のカーニヴァルが始まって以来――何百年も、ずっと同じ人がやってるんだって」

 仮面の下で、思わず目を瞠った。一瞬、足を止めてしまったが、誰かに気取られるよりも先に再び前へと動かす。

「ええー、嘘ぉっ? 何百年も?」

「中身は不老不死の妖精だって話よ」

 次第に周囲の喧騒が大きくなり、少女達の噂話は聞こえなくなってしまった。一度、首だけを動かして後ろを見遣る。既に話していた当人達らしき姿は見当たらない。見つけたからとて、どうしようというわけでもなかったが。

 視線を前へと戻し、目の前を歩くカサノヴァ――猫の国の王を見る。

 何百年もの間、人間の傍に寄り添い続けているという、人知を超越した存在。その中で、猫の国の王は何を見て、何を感じ、何を想っているのだろうか。少なくとも、こうして人間達の祭りの主役となっているのだから、かつてのナイブズのように人間を憎悪しているということはないだろう。

「…………お前は」

 話し掛けようと声をかけて、やめた。今は猫の国の王のことよりも、このカーニヴァルを、そして人間達を見ることを優先しよう。別に、この後に何かをしなければならないわけでも、したいわけでもない。時間はいくらでもあるのだから、何時でも、次に気が向いた時にでも話をすればいいだろう。

 ナイブズは歩く速度を上げて、カサノヴァの隣に並んだ。カサノヴァはナイブズの行動を咎めることもなく、寧ろ気にした風も見せず、堂々とした足取りを乱さない。カサノヴァの従者たちもナイブズの行動を歓迎しているのか、先程よりも明るく派手に楽器を奏でている。しかし、それらには目もくれず、ナイブズが見ているのは、この街の人々のみ。

 

 

 

「カサノヴァの隣を歩いている人、誰だろうね?」

「そういえば、去年まではいませんでしたね、あんな人」

「そんなことはどーでもいいー!!」

「晃ちゃん、急に大声を出さないで。周りの人とかアリスちゃんがビックリしちゃってるよ」

「お前の為だろうが! さっさとお前の歌を貶した大バカ野郎を見つけ出すぞっ」

「でも……カーニヴァルの人混みの中で人探しをするなんて、でっかい無理です」

「無理を押し通して、そのまま道理を押し出してしまえ!」

「晃ちゃん、アリスちゃん、あそこのバウータの屋台に行ってみましょう」

「ア~テ~ナ~!!」

「……でっかい不安です。ついでに、ちょっと怖いです」

 

 

 

「今日からは俺一人でいい」

 カーニヴァルが始まって1週間。カーニヴァルの日程の半分以上が過ぎた所で、ナイブズはカサノヴァ達にそのように告げた。

 カサノヴァ達と共に行動するのが不快になったとか、そういうわけではない。もっと違った視点で、カーニヴァルの中の人間達を見てみたいと思ったのだ。華やかな主役側の視点から見られるものも多かったが、一参加者としてもカーニヴァルに加わらなければ、まだまだ見えないものがある。そう考えたのだ。

 カサノヴァは黙って頷くと、従者たちを連れて、今日もカーニヴァルの中心へと踏み出していった。

 仮面と套を返そうとしたが、その必要は無いと手振りで伝えられた。だが、今日からはカサノヴァの連れとしてではなく、ナイブズ個人としてカーニヴァルに参加するのだから、そのままの格好では締まらない。套は脱いで畳んで適当な長さにしてから腰に巻きつけ、仮面は折角だからそのまま被ることにした。

 この1週間はカサノヴァと共に歩き回っていたため、街を歩いている時は常に周りに大勢の人間がいたが、こうして1人で歩けば、人通りがまばらな所にも行き当たるようになった。

 1人1人、人間の様子を窺う。ある者は恋人と共に、ある者は友人と共に、ある者は家族と共に、ある者は1人で、皆がそれぞれカーニヴァルで楽しんでいるようだ。そう、誰もが楽しんでいるのだ。それ以外の感情を有しているように見える者は、ナイブズ自身を除いて誰一人としていなかった。

 十人十色という言葉があるように、人間は1人1人がそれぞれに別個の人生を歩み、その中で独自の感性や個性ができていく。これだけ多くの人間が集まれば、それぞれの違いは数え切れないぐらいあるだろう。なのに、こんなにも多くの人間が、同じ感情を共有している。それが殺意や敵意ならば珍しくも無いが、喜びや楽しさなのだ。カーニヴァルという特別な行事の最中とはいえ、ナイブズには驚くべき事実だった。

 人通りの極端に少ない場所に出ても、表の空気に馴染まないゴロツキを見かけることもない。見る人間、誰もが笑顔だった。仮面を被っていても、口元が見えていればそれだけで分かった。まるで、この中にヴァッシュが混じっているような、そんな錯覚さえも覚えてしまう。いるはずが無いと、分かっているのに。少しだけ感傷に浸って、再び歩き出す。

 やがて少し大きな通りに出ると、街の地図が書かれた看板を見つけた。この街の地理に明るくないらしい人間達も、地図の前に集まっている。それだけならばどうということも無かったが、ナイブズはその中に、奇妙なものを2人見つけた。

 1人は、狐の面を被った少年の姿をした、人ならぬ気配を漂わせるもの。もう1人は、困ったような表情で地図を見ている水先案内人の女性だ。

 狐の面の少年はともかくとして、何故、この街の地理に詳しいはずの水先案内人が地図を見ているのだろうか。そんなことを考えて女性に視線を向けていた内に、狐の面の少年の姿は消えていた。どうやら人間や猫以外にも、この祭りを楽しんでいるものがいるようだ。

「あの……」

 すると、水先案内人の女性がナイブズに話しかけてきた。この街に来てから、人間に話しかけられるのも、人間と話すのも初めてだ。

「なんだ?」

 仮面を付けたまま、ナイブズは振り返った。

「どこかで、会ったことがありますか?」

「この街の人間に知り合いはいない」

 褐色の肌の水先案内人からの問いに、ナイブズは即座に返した。

 知り合いがいないどころか、この星で人間と言葉を交わす事自体が初めてなのだ。よもや、人間の方から話しかけてくるとは思わなかった。

「そうですか……」

 水先案内人の女性は少し首を傾げたが、ナイブズからの返事に頷いた。

 それを見て、ナイブズは女性から視線を外した。既に地図の内容は暗記した。取り敢えずの目的地へと向かおうとして、また、先程の女性に話しかけられた。

「あの、もう1つ、いいでしょうか?」

「なんだ」

「晃ちゃんとアリスちゃん……あ、私の友達と後輩なんですけど、2人とはぐれてしまったんです。どこかで見ませんでしたか?」

「さっきも言ったが、この街の人間に知り合いはいない。仮に見ていたとしても、分かるはずが無いだろう」

「ああ、そうでしたね。失礼しました」

 再び、この星に知己のいないナイブズに分かるはずの無い質問をされ、簡明に答えた。女性は、今度は大して落胆もせず、寧ろ自分のミスに気付いてかやや慌てているようだ。

 踵を返そうとした所で、女性のある行動が気になり、ナイブズは足を止めて女性の様子を覗った。

「おい。どうして地図を見ている」

 彼女は、この星で初めて言葉を交わした相手。それ故か、普段ならば無視するところを、ナイブズは自分から声を掛けていた。

「晃ちゃんとアリスちゃんがどこにいるか、探しているんです」

 女性は、極めて真剣な顔でそのように答えた。

 答えの内容に、ナイブズは暫し呆然とし、やがて、女性が何をしていたかを理解した。

「……地図にそんなことが書いてあるはずが無いだろう」

「………………ああっ」

 ナイブズからの指摘に、女性は自身の行いが無意味だったことに気付いたらしく、はっ、としたように声を出した。

 大丈夫か、この女。うっかりしている、間が抜けているにしても限度があるだろう。

 そんなことを考えて、ナイブズは、彼女が水先案内人の服を着ていることを思い出した。そこであることを思い付き、ナイブズはそのまま女性へと声を掛けた。

「特徴は?」

「はい?」

「お前が探している2人の特徴を教えろ」

 ナイブズが言うと、少しの間を挟んでから女性は聞き返した。

「一緒に探してくれるんですか?」

 頷いて、ナイブズは更に言葉を続けた。

「その代わり、それが終わったらお前は俺にこの街を案内しろ」

 仮にも水先案内人ならば、この街の地理や歴史、そしてカーニヴァルにも詳しいはず。そうすれば、これから人間を知るのもより容易くなるはず。そのように考えて、ナイブズは女性に対してそのように申し出た。

 女性は、微笑みながら頷いた。

「いいですよ。こう見えても私、水先案内人(ウンディーネ)ですから」

「その服装を見れば分かる」

 またもナイブズが即座に返すと、女性は自分の服を見て、そして頭の上の帽子を触った。

「そうでした。制服でした」

 本当に大丈夫か、この女。

 そのようなことを思いながら、ナイブズは女性から連れの2人の特徴を教えられた。

 アキラは長い黒髪で、声が大きい。アリスは緑色の長髪で、声が小さい。最大の特徴はその2人も水先案内人の制服を着ていること。しかし、水先案内人の制服を着てカーニヴァルに興じている者達の姿はチラホラと見える。すぐに見つけるのは難しいだろう。

 歩きながら、ナイブズは女性の連れの2人を探しつつ、人間達の様子も見ていた。やはり、見る人間の殆どが楽しそうだ。そうは見えない者は、恐らく遊び疲れているからだろう。

 だが、相変わらず。楽しんでいる、ということは推測出来ても。何が楽しいのか、分からない。

「あの……」

「なんだ」

 女性に声を掛けられ、視線は向けずに声だけで聞き返す。

「貴方は、どうしてこの街に来たんですか?」

 その言葉に、ナイブズは足を止め、女性の顔を覗き込む。女性は、とても不思議そうな顔をしていた。

 今、この街で仮面を被って練り歩いている者がこの街にいる理由は、普通であれば一つだ。この女性は抜けているところがあるとはいえ、水先案内人。それが分からないはずが無いだろう。なのに、こんなことを訊いて来たということは、ナイブズの感情をこの僅かの間に読み取ったということか。

 驚きつつも、ナイブズは思考を巡らす。この事を、他者に教える義理は無い。自分だけの真実として、胸に仕舞っておくという選択もある。だが、問い掛けてきた相手はこの星で初めて出会い、言葉を交わし、奇しくも共に行動している人間。ならば、大まかに教えてもいいかもしれない。

「……切符を、弟達から餞別に貰った。それで、気が向いたからこの星で降りた。それだけだ」

 懐に、大切に仕舞っている白紙の切符に手を当てながら答える。

「やっぱり、カーニヴァルを観に来たわけではないんですね」

 すると、女性は納得したように頷いた。それに、ナイブズも頷き返す。

「ああ。事のついで、だな」

 辺りを見回しながら、答える。

 それにしても、と、ナイブズは女性に視線を戻す。やはり、女性はナイブズの感情の機微を読み取っていた。そのことを認めて、ナイブズは女性の評価を改めた。

「それじゃあ、私がカーニヴァルを案内しますから、一緒に楽しみましょう」

 すると、女性はナイブズにそのようなことを提案して来た。

「お前の連れを探さないのか」

 唐突な提案に、ナイブズは思わず聞き返していた。

 それは確かに先んじて提案はしていたが、彼女の探している2人を見つけてからのはずだ。まさか、目的を忘れたわけではあるまい。

「晃ちゃんとアリスちゃんなら、きっと大丈夫ですから」

 言って、女性は微笑んだ。大丈夫か心配されているのはお前ではないか、と思いつつも、ナイブズはその提案を受け入れることにした。

「そうか。なら……頼む」

「はい。では、まずは近くの大運河に行きましょう」

 ナイブズからの返事を聞くと、女性は歩き出した。その姿は、先程までのどこかボケた様子からは想像もできないほど凛としていた。伊達に水先案内人ではないということか。

 そうして、ナイブズは女性に案内されながら、改めて、カーニヴァルを見て回った。驚いたことに、全てが違って見えた。漠然と、ただ見て歩いているのと、そこがどういう場所で、今何をやっているのか、隣で解説されながら見るのとでは、まるで別の風景を見ているようだった。

 ナイブズは女性の観光案内に耳を傾け、カーニヴァルの様子に目を凝らしながら、ネオ・ヴェネツィアの街を見て回った。

 1人でいた時よりも彩鮮やかに見えるのは、気のせいではあるまい。

 

 

 ノーマンズランドとは違い1つだけの小さな太陽が沈み始め、街並みが夕焼けに染まり始めた頃。マルコ・ポーロ国際宇宙港の前に来た所で、水先案内人の2人組を見つけた。

「いたぞ」

「え?」

「あの2人だろう」

 言って指し示すが、常人の視力では判別が付かないか。先に立って歩き、付いて来るように促す。やがて、距離が100mを切ったぐらいのところで、黒髪の女性がナイブズの方に顔を向け、その後ろの女性の姿を認識して、顔色を変えた。

「アテナ!」

「アテナ先輩」

 黒髪の女性が叫ぶと、少しの間を挟んで緑色の髪の少女もそれに続いた。

「晃ちゃん、アリスちゃん」

 女性も2人の名を呼び、彼女達に駆け寄った。

「まったく、心配させやがって」

「会えて良かったです。アテナ先輩だけじゃ、会社の寮に帰れるかも心配でしたから」

「ごめんね、心配かけちゃって」

 3人が再会を喜び合っているのを見届けて、ナイブズは踵を返した。既に見返りは貰っている。なら、約束を果たした時点で別れるのが当然だ。

「あ、待って下さい」

 呼び止められ、ナイブズは足を止めた。もう、彼女と自分を繋ぐものは何もない。無視してしまっても良かったはずだが、何故か出来なかった。

「今日は、ありがとうございました」

 背を向けたままのナイブズに、彼女――アテナは感謝の言葉を送って来た。

 仮面の下で目を瞑り、回想する。

 人間に、感謝の言葉を送られたのは、これが初めてでは……無かったか。俺に初めて感謝の言葉を送ったあの男は、俺が気まぐれで助け、そして気まぐれで名を与えたら、泣きじゃくって喜び、感謝の言葉を口にしていた。

 あの時は、鬱陶しくて汚らしいと、嫌悪の感情しか湧かなかった。だが、今は。不思議と、心地よく感じる。

 ヴァッシュ。ほんの少しだが、俺は変わったようだ。あの頃のように、お前が願っていたように。これまでの150年に比べれば足取りは遅すぎるかもしれないが、俺は、お前や同胞達が見ていた方向に進めているか?

「おい、返事ぐらいしたらどうだ」

 感慨に耽っていたところに、後ろから苛立ちを含んだ声が聞こえてきた。確か、アキラという女だったか。肩越しにアキラを一瞥してから、アテナと目を合わせる。

「世話になった」

 一言だけ、ぶっきらぼうに礼の言葉を言って、再び歩き出した。

「明日も、ご案内しましょうか?」

 不意に告げられた意外な言葉に、再び、足が止まる。

 ヴァッシュやレムのような、とまでは言わない。だが、どうやらあの女も随分とお人好しらしい。

「…………ああ」

 小さく頷いて、ナイブズは人混みの中へと進んで行った。

 その仮面の下の表情は、誰にも、ナイブズ自身にも見えなかった。

 

 

 

 

 カーニヴァルの最後の2日間を、ナイブズはアテナに案内されながら見て回った。

 待ち合わせ場所の指定をしていなかったが、最初に出会った場所に行ったらアテナはまた地図看板を見ていた。その姿に再び呆れたが、案内を始めれば、彼女はすぐにその姿が嘘のように凛々しい表情へと切り替わる。伊達に観光案内のプロではないということか、とナイブズも感心する。

 途中でカサノヴァ達と鉢合わせる機会があり、その折に、ナイブズはアテナからカサノヴァについての噂を改めて聞いた。

 いつの頃からか、まことしやかに流れている噂。毎年変わらぬ姿を見せるカサノヴァの正体は、不老不死の妖精である。

 どうやらこの噂は地元民の間では知らぬ者が殆どいないほど有名な話らしい。実際に正体を確かめられた者はいないらしいが。

 そんな話をしていると、カサノヴァがナイブズ達の方へと顔を向けた。見つめること暫し、カサノヴァは何かを言うでもなく、従者たちを連れて再び歩き出した。ナイブズの目には、何かに納得して、或いは何かを確認してから立ち去ったように見えたが、真偽のほどは定かではない。ただ、見送るその姿が、それを取り巻く人々の様子が、先日までとは違って見えた。

 そして、カーニヴァル最終日の夜。人気の無い水路の脇で、ナイブズはアテナと共に歩いていた。やがて、道が途切れて、海に出た。夜空の闇色と溶け合い、一体となっている海を眺めながら、ナイブズは口を開いた。

「お前のお陰で有意義に過ごせた。礼を言う」

 背を向けたまま、すぐ後ろにいるアテナへ、ぎこちないながらも礼を言う。

「これくらい、お安いご用です」

 アテナはナイブズの高圧的な言葉を聞いても、柔和な態度を崩さず、微笑みを浮かべて小さく頷いた。

 

 ズンタカ ズンタカ ポコポン

 

 すると、後ろから聞き覚えのある音楽が聞こえてきた。ナイブズとアテナは振り返り、そちらの方向を見る。カサノヴァの一行が近くの路地を通っていたが、1人、水先案内人の少女が加わっていた。何かの気紛れか、それともナイブズと同様にカサノヴァが自ら招き入れたのか。

 カサノヴァの一行を最後尾の少女が見えなくなるまで見送ってから、ナイブズは音楽からあることを連想し、なんとなく呟いた。

「水先案内人は、歌も唄うらしいな」

 このネオ・ヴェネツィアを象徴する水先案内人の仕事内容は3つに大別できる。舟の操舵、観光案内、そして舟謳。実際に自分で見聞きして得た知識ではないので、確認がてら、水先案内人の本人に聞いてみただけだった。だが、どうしたことか。アテナはナイブズの言葉を聞いた途端、小さく震えて俯いた。

「……はい」

 声も小さく消え入りそうなもので、明らかに普通ではなかった。

「どうした」

「え?」

「急に暗い顔をしたのはどうしてだ」

 声を掛けたことに自分自身でも驚きながら、ナイブズはアテナの返事を待った。

 やがて、アテナは少しずつ、事情を話し始めた。

「私、歌うのが大好きで、ちょっとは自信もあったんです。会社のみんなや、お客様も、私の歌を聴いて喜んでくれていました」

 そう言うアテナの顔は、とても楽しそうだった。自己陶酔の類ではなく、その自分の歌に纏わる楽しい思い出によるものだろう。だが、その表情はすぐに、再び翳った。

「けど、少し前に……会社への帰り道に歌っていたら、水路の脇に立っていた人に……煩いから黙れって……とても冷たい顔で、言われたんです」

 それを聞いて、ナイブズは波の音を聴いている時に、近くを通った水先案内人にそう言ったのを思い出した。しかし、今すぐにこのことを口に出すべきではないと考え、何も言わず、アテナの話が終わるのを待つ。

「それが……凄く、苦しくて……歌え、ないんです」

 震えながら、アテナはそこで言葉を切った。

 それが、ただの人間による罵倒だったならば、アテナがここまで傷つき、落ち込むようなことは無かっただろう。だが、それを言った時、ナイブズの肉体は以前までの習慣から、彼が以前、人間に相対した時に使っていた表情と声色になっていたのだ。

 人間を害虫同然に思い、悪意を以って見下していた絶対零度の眼光と、嫌悪だけが込められた声。かつて、想像を絶するほどの憎悪を内包していたそれらを向けられて、そのような感情に耐性や馴染みが全く無いアテナは、その残滓だけでここまで苦しんでしまっているのだ。

 そのことを理解し、自分のしたことを承知の上で、ナイブズは考えた。自分はどうすべきか、どうしたいか。

 思考の奥底に浮かび上がって来た、昔日の言葉。

 

 ――少しくらいの違いは、なんとかなるよ。沢山話して、理解し合う。僕達のこころと、ヒトのこころに、差なんてないんだから。そうだろう?――

 

「それは、俺だ」

 言いながら、ナイブズはカーニヴァルの間、アテナと出会ってからずっと被っていた仮面を取った。ナイブズの素顔を見た瞬間、アテナの表情が凍った。やはり、勘違いではなかった。

 一度、アテナから視線を外し、ナイブズは視線を海へと向けた。

「俺は、この星に来て、初めて海を見た」

「そう、なんですか?」

 不安が6割、驚きが4割という具合の声で、アテナは聞き返して来た。ナイブズは頷き、言葉を続ける。

「波の音を聴くのも初めてで……俺は、夢中だった。それ以外の音は邪魔だった。だからあの時、お前の歌をまともに聴かずに、ああ言った」

 そこで一度言葉を切り、アテナの様子を覗う。その顔には怒りは見えず、代わりに見えるのは戸惑いだった。ナイブズがあのように言った理由がこのようなことだったとは、思っていなかったのだろう。歌が雑音にしか聞こえないほど、波の音に聞き入るということは、どうやらこの星では珍しいことのようだ。しかしナイブズにとって、波の音は未だに新鮮で、いくら聞いても飽きないと思えるものなのだ。

 暫く待つが、アテナは考えあぐねているらしく、ナイブズを直視せず視線を彷徨わせて、何かを言おうとする気配は無い。

 ならば、このまま立ち去ってしまおうか――とは、思わなかった。

「……頼みがある」

 ナイブズが声を掛けると、アテナは怯え戸惑いながらも俯けていた顔を上げた。

 目を合わせたまま、言葉を伝える。

「唄ってくれないか?」

 傲慢、無神経、厚かましい等々と思われ、相手の反感を買ってしまうかもしれないことを、ナイブズは平然と言った。しかしその表情は、以前のような無表情や、無表情を装った憎悪を隠す仮面ではなく、真摯なものだった。

 言われたアテナは余程意外だったのか、暫く呆然としていた。やがて、数度深呼吸をして、何かを決めたような仕草を見せてから、口を開いた。

「……舟謳(カンツォーネ)ではなくて、私が好きな歌でもいいですか?」

「ああ」

 ナイブズが頷くと、アテナは一拍の間を置いて、唄い始めた。その歌を聴いてすぐ、ナイブズは驚愕に目を瞠った。

 曲調はアテナによってアレンジされているようだが、この歌を、ナイブズが聞き間違えるはずがない。しかし敢えて何も言わず、ナイブズは目を閉じ、耳を澄ました。

 波の音は、殆ど耳に入らなかった。

 耳に、心に響いてくるのは、謳声だけ。

 

 その歌を初めて聞いたのは、子守唄としてだった。

 まだ赤ん坊だった頃、ナイブズとヴァッシュが眠る時に、彼らの親代わりだったレム・セイブレムはいつもその歌を唄ってくれた。

 ヴァッシュは、その歌が大好きだった。ナイブズも、その歌は嫌いではなかった。

 そして、今聞こえている歌と、その謳声も。

 不思議と、心がほぐれて、安らいでいく。

 

「…………いい、歌だな」

 歌が終わって、ナイブズは少しの間を置いてからそう言った。それを聞いたアテナは先程までの暗い表情が嘘のように、嬉しそうに微笑んだ。

「お婆ちゃんから教わった、大好きな歌なんです」

「そうか」

 まさか150年振りに、あの歌を聴くことになるとは、思ってもみなかった。

 アテナとレムの謳声は全く別物で、曲調も違っていた。時も場所も人も、全てが違う。だが、紛れもなく同じ歌だ。

 しかし、と、ナイブズは回想する。

 最後にレムの歌を聴いたのは、テスラのことをレムから聞かされた日の就寝時間前だった。あの時、言動こそ冷静を装っていたが、ナイブズの心は荒れ狂っていた。久し振りに唄ってくれたレムの歌が、少しも響かないほど。だが、今聞いたアテナの歌は、歌が終わった今でも、心に響いている。

 同じものでも、こうも感じ方が変わるものなのか。俺の心は、こんなにも変わっていたのか。

「ありがとう」

 気が付けば、自然とそんな言葉が口から出ていた。誰にも言うことは無いと思っていた、感謝の言葉が。

「はい。私こそ、ありがとうございます」

 アテナからも感謝の言葉が返って来る。感謝したのは自分なのに、それをまた感謝で返されるとはどういうことかと思ったが、なんとなく、そういうものなのだろうと思えた。

 ヴァッシュとも長らく、お前が間違っている、考え直せと言い合って来た。それと、本質的には似たようなものだろう。

「俺は、ナイブズだ」

「私はアテナ・グローリィです」

 別れ際、ナイブズはこの星で初めて誰かに自分の名を伝え、誰かの名を聴いた。

 ほんの少しだが、前に進めた気がした。ヴァッシュがどれだけ傷ついても諦めなかった――かつて、自分自身も望んでいた道を。

 

 

 

「少しくらいの違いは、なんとかなるよ。沢山話して、理解し合う。僕達のこころと、ヒトのこころに、差なんてないんだから。そうだろう? ヴァッシュ」

 


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