冬が過ぎ去り、春が訪れると、水先案内業界は怒濤の事態の連続であった。
アリス・キャロルのミドルスクール卒業を待った昇格試験で、その類稀なる才能を見込まれて
姫屋の新支店開設の決定と、一人前への昇格を果たした姫屋の姫こと藍華・S・グランチェスタの新支店長就任の同時発表。
水無灯里の一人前昇格と、それを見届けたアリシア・フローレンスの年内での現役引退の発表。
アリスの独り立ちを見届けたアテナ・グローリィのオペラ歌手としてのデビュー決定。
そして4年に一度開催されるネオ・ヴェネツィア最大の行事である『海との結婚』がこの年に重なったのは、もはや運命的であり必然と言えよう。
この年の『海との結婚』は水の3大妖精が集う最後の舞台となり、同時に、3妖精の後継者たちのお披露目の舞台ともなり、隠居の身である大妖精の登場も相俟って、今までに無い盛り上がりを見せることになった。
式典の終了後、アリシアは引退理由の半分が寿引退であることを明かし、アテナは歌手活動を一度きりで終わらせず継続していくため、現役を退くことは無いが水先案内業を休みがちになることが伝えられ、この記事が掲載された月間ウンディーネを購読した彼女たちのファンは大いに落ち込むこととなった。
しかし、晃・E・フェラーリは健在であり、3大妖精の薫陶を直々に授かった3人――黄昏の姫君、薔薇の女王、遥かなる蒼――もまた、いずれ劣らぬ新星たち。水先案内業界から活気が失われることは無く、寧ろ新たな時代の幕開けを予感させていた。
そんな慌ただしい火星の一年間を過ごす中で、少女たちはふとした時、同じことを考えていた。
あの男が帰って来ないか、見物に来ないか、また立ち寄ってくれないか……と。
夏が来て、秋に成り、冬が再び訪れ――アテナが初めてオペラの舞台に立っても、アリシアの引退式が執り行われても、そんな兆しは無く。
新時代の幕開けを告げるかのような激動の一年を終え、そのまま新年を迎えたのを境にして、少女たちが彼を思い出すことも次第に少なくなり、いつしか話題に上ることも殆ど無くなっていった。
▽
緩やかに、しかし確実に時は流れ。
ネオ・ヴェネツィアでは、新しい物語が始まっていた。
▽
今年のアクア・アルタも無事終わり、水先案内業の小休止も終了。
半人前が稼げる唯一の仕事場である大運河の渡し舟――トラゲットも例外ではなく、今日も朝早くから大勢の
ここ数年で先達が次々と抜けていき、気付けば現トラゲットの最古参。トラゲット専属を明るく謳い胸を張って誇る、片手袋でありながら姫屋支店の実質的No.2でもある特殊な存在。トラゲットに参加する片手袋たちから会社の別なく「先輩」「姐さん」「お姉さま」等々、色々に呼ばれ慕われている。
「
本日のトラゲットを行う水先案内人たちが集まって簡単な朝礼を行い、片手袋たちは4人1組に別れてそれぞれの持ち場に散っていく。
彼女の下には、今日は3人の水先案内人がやって来た。会社はバラバラ――姫屋、オレンジぷらねっと、ARIAカンパニー。しかしその組み合わせは彼女にとって馴染があるものであって、3人を見るなりつい笑みが零れた。
「あゆみさん、おはようございます!」
「おはよう、あずさ。アーニャは久し振りだね」
「はい。お久し振りです、あゆみ先輩」
あゆみ・K・ジャスミンは同じ姫屋支店の後輩であるあずさ・B・マクラーレンと、その友人であるオレンジぷらねっとのアーニャ・ドストエフスカヤに声を掛ける。あずさとは彼女の入社以来の、アーニャとはあずさと合同練習をしている所へばったり出くわしてからの付き合いとなる。
2人が片手袋になってすぐ、トラゲットに誘ったのはあゆみで、トラゲットで2人の面倒を見ているのもあゆみだった。
所属会社が異なることもあって、2人が一緒に来ることは極めて稀で、そこへ更にもう1人加わることになるのは初めてのことだった。
ARIAカンパニーの制服に身を包んだ少女は、あゆみを見て、緊張しているだけではない、何か遠慮しているような、躊躇っているような様子を見せた。それを見抜いた上で、あゆみは少女と目を合わせて、にぃ、と笑った。
「アイちゃんは、もっと久し振りだね」
誰何するまでも無く、少女の名を言い当てる。
アイは驚きを露わにして聞き返して来た。
「お、覚えてて、くれたんですか……?」
「っかー! あったりまえじゃん! ウチら、友達だろ?」
あゆみとアイの付き合いは、決して長くなければ多くもない。アイが灯里を探している時に少しだけ一緒になってシロと遊んだことと、あの時の年越しを一緒に過ごしたぐらいで、それももう何年も前のことだ。だが、仮にも友達になった相手のことを思い出せなくなってしまう程、時が過ぎたわけではない。
それに、アイのことは灯里と会う度に色々と聴かされていて、忘れられるはずが無かった。
「……はいっ」
あゆみの言葉に、アイは満面の笑みと元気な声で応えた。
あずさとアーニャは、アイがあゆみと知り合いだったとは知らなかったようで、意外そうな顔をしていたが「流石は圧倒的素敵パワー……」「侮りがたし……」などと言葉を交わして、何やら当人たちで納得している様子だった。
「ARIAカンパニーの愛野アイですっ。今日はよろしくお願いします、あゆみさん」
改めてアイは自己紹介をして、丁寧に頭を下げる。
最後に会った子供の時とは明らかに違う礼儀正しい態度を目の当たりにして、少しだけ感傷に浸る。
「そっか、あのアイちゃんがARIAカンパニーの
アイの入社の話は、あゆみも藍華から聞かされていた。その内、会えることもあるだろうと思っている間に時は流れて、アイは既に両手袋から片手袋になっていた。自分では、そんなに時間が経ったとは思っていなかったのに。
「あゆみさん、そんなしみじみするような歳でもないでしょ」
「それとこれとはまた違うよ。同じ所にずーっといると、尚更、周りの変化がよく見えるんだ」
あずさに冗談交じりにからかわれたが、あゆみはつい真剣に答えてしまった。
トラゲットは、片手袋の水先案内人だけが集まる場所。あゆみを始めとして望んでこの場に留まる者もいるが、それはごく少数。発展途上の彼女たちの向かう先は様々だ。成功か挫折か、理由の違いはあれど、多くの人が去って行き、また新しい人がやって来る。
目まぐるしく変わり続ける日々と人々の中で、変わらずにいようと決めたあゆみは、時々、自分だけが取り残されているような錯覚を感じることがあった。
「ほほぅ……」
「へぇ~……」
アーニャとアイは、あゆみの言葉に感心して頻りに頷いている――ように見せかけて、よく分かっていない様子だった。
らしくないことを言ってしまったと苦笑しつつも、仕切り直して手を叩く。他の水先案内人たちは既に移動していて、この場に残っているのはあゆみ達4人だけだ。
「はい、話はお終い。ぼちぼちウチらも持ち場に就こうか。今日は初心者のアイちゃんを、ウチら経験者3人でフォローしていく感じでいくよ」
「はいっ」
「よ、よろしくお願いしますっ」
あずさとアーニャの即答に一拍遅れて、アイは肩肘を張って返答する。
あまりにも分かり易い緊張しているこの様子。見覚えがあると思ったら、初めて会った時の灯里だ。初めてのトラゲットの時は、灯里もガチガチに緊張していたのだ。果たして、この後も灯里の時と同じになるかどうか。
「うん、3人ともいい返事。それじゃあ最初は、あずさとアーニャの2人で行って、その間はウチがアイちゃんにレクチャーするよ。ローテーションで3人順番に教えていって、ウチが2回目のレクチャーをしたら、その次からウチとアイちゃんのコンビで漕ぐ、って流れでいこうか」
「了解です」
「異存はありません」
あずさとアーニャはすぐに返事をしたが、アイは少し遅れて、俯き加減だ。
「お手数かけてすみません……」
不慣れな自分が混ざったことで迷惑をかけてしまっている、とすっかり委縮してしまっている。あずさとアーニャは少々狼狽えているが、数多のトラゲット初心者を迎えて来たあゆみには見慣れたもので、どうすべきかもよく分かっている。
「大丈夫だよ、アイちゃん。ウチらでばっちりフォローするから!」
快活に笑いながら、明るい元気な声でアイの不安をかき消して吹き飛ばす。そのままあゆみは3人の少女たちを引き連れて、今日の仕事場へと向かう。
そういえば、あゆみがアイと初めて会ったのも、トラゲットの乗り場だった。その時一緒にいたのは大きな犬――じゃなくて、狼のシロ、だけではなかった。もう1人、あゆみの知り合いの男がいた。
彼から聞かされた、砂の惑星を駆ける赤いコートのガンマンの冒険譚は、今でもネオ・ヴェネツィアの人々の間で語り継がれている。最初は水先案内人だけだったが、火炎之番人、地重管理人、風追配達人にも少しずつ広まって行き、今ではこの街の住人の4割ぐらいは知っているのではないかという程だ。
アイは勿論、あずさも知っている。アーニャもきっと知っているだろう。けど、どういう風に知っているのか、どういう風に考えているのかまでは分からないし、休憩中か仕事の後にでもそのことで話してみるのもいいかもしれない。
そんなことを考えていると、どんどん楽しくなってくる。それを実行するためにも、まずは仕事だ。
さあ、今日も一日を始めましょう。
▽
姫屋とオレンジぷらねっとの水先案内人が漕ぎ手を担っていたトラゲットを利用して、大運河を渡る。去り際、2人の少女の会話から聞き覚えのある名前が出たが、立ち止まって聞き耳を立てるようなことはせず、聞き流して歩みを進める。
舟から降り、道を歩き、小路に入り、路地の裏へ、奥深くへ。
月日が経ち、人々の様相にも少なからぬ変化は見受けられたが、文化保全されているだけあってこの街は変わっていない。久方振りに訪れたが、全く迷わずに歩を進められた。
街並みに大きな変化が無いのは、火星であればどこの文化保全都市であっても変わらない。しかし、それを実感できるのはこの街だけであり、今回が初めてでもある。この星に来る前を含めてだ。
同じ場所、同じ街を訪れるのは、人生で初めての経験だった。
覚えのある、見慣れてさえいる景色が、何故だか懐かしくも新鮮に見えるのだから、不思議なものだ。
▽
ARIAカンパニーのカウンターで、灯里は1人座って事務仕事をこなしていた。昔は端末で文字を入力するのはメールマガジンだけだったのに、今ではすっかり仕事の方が多くなっていた。
今日は、アイは休みで姫屋のあずさやオレンジぷらねっとのアーニャと一緒に出掛けている。きっとまた、素敵な
一通りの入力を終えて、小さく伸びをする。
お昼前に、予定通りに事務仕事は完了。幸か不幸か、午後に入っていた一件の予約もキャンセルとなり、時間が空いている。
「お昼ご飯を食べに行くついでに、アイちゃんたちを探しに行ってみましょうか? アリア社長」
「ぷいきゅー!」
アリア社長の快諾を得て、灯里は街へと歩き出した。アリア社長がアイに付き添うようになって久しく、アリア社長と一緒に散歩をするのも久し振りだ。
かつて灯里にそうしてくれたように、アリア社長は今、アイを見守ってくれている。もしかしたらアリシアが一人前になる前も、同じようにしていたのかもしれない。
そんなことを考えながら、ゆっくりと、ネオ・ヴェネツィアの街を歩く。気紛れに小路に入って道を曲がって、幾度か繰り返している内に井戸のある小さな広場に出て、そこで本格的にお腹が空いてしまったので、近くの料理店へと入る。
パスタを注文して、アリア社長はとても楽しみそうに待っている。そんな様子を見て笑みを浮かべて、ふと、アリア社長の後ろ、壁際に、古くて大きな置時計があることに気付いた。
『小さな広場で待っている、古びたのっぽの大時計』
思い出した一節が指し示すものは、正しくあの時計。宝の地図が収められた、宝探しの宝箱の隠し場所の一つ。かつて、灯里がアリア社長だけでなく、藍華やアリスと一緒に訪れた場所だ。
あれ以来、全く訪れることが無かったのに、こんな偶然があるのだろうか。
藍華とアリスがいないことに寂しさを感じつつ、お店の人に一言断ってから、時計を調べてみようと思い立った。
「あの、すみません。あの時計、ちょっと見させてもらっていいですか?」
「ええ、いいですよ。ただ、うっかり壊さないでくださいね」
宝探しをしたあの日、ゴールに辿り着いたその後に、灯里達は道順を逆にたどって、手に入れた地図を全て宝箱へと返していた。
この時計の宝箱は、振り子のスペースの端っこだ。時計の扉を開けて、中を検めると……空っぽだった。宝箱は、いくつかの置かれた跡だけを残して、消えてしまっていた。
「ほへ?」
「さっきね、
灯里が首を傾げるとすぐ、後ろから声が掛かった。店長兼料理人の男性が、注文した料理を持って来てくれたのだ。
「はひ、そうでしたか」
まさか、丁度この日に先客がいるとは思わず、ちょっと残念に思う。
店長はまずアリア社長の前にパスタの皿を置いて、次に対面の席にもう1つの皿を置いて、そして灯里に振り返った。
「まさか、また同じような3人組が来るとは思いませんでしたよ、ARIAカンパニーの水無灯里さん」
「私のこと、御存知なんですか?」
「そりゃあね。今じゃ有名人だし、もみあげで分かり易いし。あの時は、3人とも水の3大妖精の弟子だったとは思わなかったよ」
店長は気さくに灯里の名を呼び、あの日の、何年も前の出来事についても軽く触れた。
アリア社長以外にも、あの日のことを分かち合える相手が目の前にいる。素敵な偶然の巡り合わせに嬉しくなって、灯里の表情は自然と笑顔になっていた。
「覚えていてくれたんですね」
「覚えてたって言うか、思い出したんだよ。さっきの3人組が同じ会社の組み合わせだったからね」
「そうですか、アイちゃんたちが来てたんですね」
あの日の灯里達と同じ組み合わせの3人組となると、アイとあずさとアーニャの3人以外にありえない。ARIAカンパニーの水先案内人は、現在、水無灯里と愛野アイしかいないから。
自分たちがかつて訪れた場所に、アイたちもまた来ていた。それだけでも奇跡的なのに、それを同じ日に知って、こうして共有できるなんて。
アイたちは素敵な
宝箱の跡を愛おしげにさすり、灯里は優しげに微笑んだ。
「さておき、冷めない内にどうぞお召し上がりください、お客様」
「はひっ、そうでした。いただきますっ」
店長に促されるまで料理が来たことをすっかり忘れていた。アリア社長も待ちぼうけを喰らって、涎をだらだらと零しながら、灯里が席に着くのを待ち侘びている。
慌てて席に着き、冷めない内にアリア社長と一緒にパスタを食べる。何年も前の味なんて覚えているはずが無いのに、懐かしく思えてしまうのは何故だろう。
食後は、ソースで口の周りどころか顔中汚れてしまったアリア社長を綺麗に拭いて、サービスで提供されたお茶で一休みしてから席を立ち、支払いを済ませ、外へ出る。
「ごちそうさまでした」
「ぷいにゅっ」
「ありがとうございます。また、お越しください。
あの時は、食べ終わったら3人一緒に外へ出て――食事は要らないと、井戸の傍で待っていた4人目もいたことを思い出した。
2つ目の宝箱を手に持っていて、灯里がお願いしたら渡してくれて、灯里が誘ったら一緒に来てくれた、険しい顔をした男性。その後、何度も会うことになった、不思議な人。
忘れていたわけじゃない。けれど、彼のことを思い出すのはとても久し振りのことだった。
年が明けると同時に、みんなに囁き声だけ残して去ってしまったあの人は、今、どこで何をしているのだろう。
思い出す毎に懐かしい気持ちが増していって、灯里の足は自然と動いていた。向かう先は、最後の宝の地図が指し示す“GOAL”。途中の順序はこの次の場所さえ、あの時と同じ場所にいても思い出せないほど忘れてしまったが、あのゴールのことだけは、鮮明に覚えていた。
「ちょっとズルイですけど……今から、あのゴールに行きましょうか、アリア社長」
「ぷいにゅっ」
▽
壁の落書きを横目に見て、野外の階段に腰掛けて、ネオ・ヴェネツィアの街を眺める。
階段の近くを通り掛かって、この場所のことを思い出し、階段を上ってこの落書きを見つけてから、振り返って街を見た。本来ならこの場所へは階段を下って来るべきなのだが、そのルートのことは、同行者も含めてはっきりと覚えている。今更、同じ道をなぞる必要も無い。
彩り鮮やかな風景に、昔日の記憶が蘇り、僅かばかり感慨に耽る。
この街は変わらない。だが、人々は変わる。旅先でニュースなどを確認して分かっていたつもりだが、実際に目の当たりにすると違って思える。
十年一昔という言葉はあるが、まだ十年も経っていないのに、かつていた頃と比べて随分と様変わりしていた。
自分の時の流れは人間よりも緩やかだと、分かっているつもりだった。だが、人間の時の流れがこんなにも早いものだとは、気付かなかった。
10年も経たずにこれだ。60年も80年も経てば、きっと、置き去りにされてしまうのだろう。
あいつは、どうやって時の流れの違いに折り合いをつけていたのだろうか。出会いも別れも、自分とは比べ物にならないほど、それこそ数え切れぬほど味わっていただろうに。
より深くへと至ろうとした思考を、強制的に中断する。背後から、微かな人の声と猫の声。完全には聞き取れないが、この場所を目指しているらしいことは分かった。
先客がいては無粋の極みであろうと、腰を上げて、階段を下る。そのまま街へ入り、陰に消える。
入れ替わるように、小路から光の指す場所へ女性と猫が現れて、同じ場所に腰掛けた。
それから更に暫く後、青、赤、黄のラインがあしらわれた制服を着た3人組の少女たちが、その場所へと現れた。
▽
快晴の空、果てしない蒼穹。何の変哲もない水路の果て、海へと注ぐ場所。そこに立つ、歌姫1人。
風に靡くようなウェーブした長い銀の髪に、褐色の肌――アテナ・グローリィ。
半ば水先案内人を引退している現在でも『
今彼女がいるこの場所は、一見しただけでは、彼女が立つには似つかわしくない。
ネオ・アドリア海を臨む以外にこれといった特徴も無い、平凡で地味な場所。しかしここは、彼女にとって思い出のある特別な場所。
自分の歌に冷罵を浴びせられ、怒りと侮蔑の込められた絶対零度の眼光に震えあがり、怯えて、怖くて、歌えなくなってしまった場所。
同じ人に頼まれて歌って、歌えて、褒められた場所。
歌うことの意味を考えさせてくれた、気付かせてくれた、特別な場所。
アテナの歌声はその通り名の示すように、天賦のもの。うっかりと大ボケの頻度が異様に高い未熟だった頃も、指導担当の先輩から「歌声だけなら史上最高」と皮肉抜きに称賛され、彼女が歌えば誰もが耳を澄まし、惜しみない賞賛の拍手を贈った。それが彼女の日常で、歌えば歌を聴いてもらえるのは当たり前のことだった。
しかし、あの日、あの時、この場所ですれ違ったあの男だけは違った。偶然に通り掛かったアテナの歌声を聴いた彼は、憤怒の表情に嫌悪の声で「五月蠅いぞ、黙っていろ」と一刀両断し、氷のように冷たい視線でアテナの存在そのものさえも拒絶した。
自分の歌で、どうしてあの人はあんなに怖い顔をしていたのか、どうしてあの人をあんなに怒らせてしまったのか。歌えば褒められてばかりだったアテナには分からず、恐怖と疑問が入り交じった混乱に恐慌、混沌とした感情の渦に呑まれ、遂には歌えなくなった。
元凶の一つである歌を自ら封じてしまえば、少なくとも、もう怒られることも無い、拒絶されることも無い、恐怖することも無い――そんな思考が心の奥底にあったのだと、今振り返って気付く。
後々、偶然に再会した男は、その理由を教えてくれた。
波の音を聴くのに邪魔だったからだ、と。
聞いた時は、驚き戸惑った。そんなことがあるのかと。
その後すぐに「歌ってくれないか」と頼まれた時は、呆然としてしまった。本当にこの人は、あの時のあの人と一緒の人なのだろうか、と。
歌を雑音と切って捨てたあの人と、歌を聴かせてくれと言ってくれるこの人。
その違いが知りたくて、その理由が知りたくて、アテナは恐怖を振り払って歌った。
歌ってみれば、いい歌だと褒められて、ありがとうと感謝された。呆気ないほど簡単に。とてもとても、優しい声で。
その時、気付いた。歌とは、歌うだけでは成り立たない。誰かに聴いてもらえて、初めて歌になるのだと。歌は、聴いてくれる人がいるから、歌なのだと。
今までは、歌えば聴いてもらえるのが当たり前だった。けれど、あの日、一度男に歌を拒絶されて、カーニヴァルの最後の夜に同じ男に歌を求められて――同じ人に真逆のことを言われて、初めてそう想った。同時に、歌えば誰もが耳を澄ませて聴いてくれていた自分は、なんて幸せ者だったのだろうと気付けた。
だからあの時、アテナもまた、彼にありがとうの言葉を贈った。
以来、アテナの中で『お客様や親しい友人や大切な後輩など、聴かせたい人、聴いてもらいたい人の為に歌う』のではなく、『自分の歌を聴きたい人に歌を届けたい、自分の歌を好きな人達の期待に応えたい』というように、歌への姿勢が少しずつ変化していった。
その変化はアテナ自身も気付けないほど緩やかに進行して、自覚できたのは、オペラの舞台に歌手として誘われた時だった。
水先案内人の業務の一環としてではなく、歌そのものを本業としてみる気はないか。
オペラの公演後、舞台裏や控室で、共演した俳優たち、舞台を支えたスタッフ、フェニーチェ劇場のオーナー、高名な劇団の団長など、大勢の人達からそう誘われた。その時は、水先案内人の仕事を辞めることが考えられずに、やんわりと断った。
だが、それから後、日毎にうっかりとドジが増していく様子から、その誘いに心惹かれていることをアリスにあっさりと見抜かれてしまい、彼女に背を押してもらう形で、水先案内人の世界から歌手の世界へと踏み出して――アテナ・グローリィは今、ここにいる。
ここは、アテナにとっての分岐点。新しい礎。音楽祭を間近に控えた現在のように、大きな舞台、大事な仕事の前には、人目を盗んで、なるべくここを訪れるようにしている。
あの時の想いを、歌い手としての新しい始まりを、思い出すために。
そして、来る度に考えてしまう。
あの人は今、どこで何をしているのだろうか、と――
「まさか、こんな所に先客がいるとはな」
後ろから聞こえた声。男性のもの。聞き覚えがある。
驚いて、体が固まってしまう。どうしたらいいのか分からない。どうすればいいのか考えられない。
アテナが混乱している間にも、男は静かに歩みを進め、アテナの隣で立ち止まった。
逆立った黒髪、泣き黒子、見上げた横顔は、紛れもなく。
「ナイブズさん……」
「久し振りだな、アテナ」
自然と零れ落ちた彼の名に、彼は――ナイブズはアテナの名を返すことで是とし、肯定した。
困惑するアテナとは対照的に、ナイブズは自然体で、再開の挨拶も一言だけ。アテナはオペラ歌手という仕事の兼ね合いもあって髪を腰よりも長く伸ばしているが、ナイブズはアテナの記憶に残る姿のまま。
何も変わっていないナイブズの姿を見て、自然と懐かしさが湧いた。そして、聴きたいこと、確かめたいことも内から湧いて、口が動いた。
「どうして、ここに?」
▽
どうして此処にいるのか。
問われて、ナイブズは回想する。
何の当てもないからと、風の音――波の音に導かれるまま歩き続けて、この場所に来た。取り立てて見るべきものの無い、何の変哲もない場所だが、ここはナイブズにとって特別な場所だった。
「ここは、俺にとって始まりの場所だ。ここで初めて海を見て、人間とまた向き合おうと決めて、歩き出した。ここから、俺の火星での日々が始まり……人生がまた始まった。だから、また来たくなった」
生まれて初めて見た、海の色、海面の煌き、波の形、潮の匂い――あの感動は、決して忘れることは無いだろう。その感動の醒めぬ内に人間を見かけられたことも、ナイブズの意識に好影響を与えたことは疑いようも無い。
そう、この場所でナイブズは、人間と再び向き合おうと決意した――が、その前に、ここの近くを1人の水先案内人が通り掛かっていた。
あの時のナイブズは波の音に聞き入っていたものだから、鼻唄程度の歌声すらも耳障りでしょうがなかった。相手からすれば見ず知らずの男に自慢の歌を罵倒されるという最悪の初対面で、忌まわしい記憶であろうことに疑いの余地は無い。
あの後、まさかその当人と街中で遭遇し、人探しを手伝い、街を案内され、この場所で正体を明かし、あの歌を聴くことになろうとは。最初の時は、思いもしなかった。
「それから、お前と出会って、お前の歌を聴かせてもらった場所でもあるな」
それもまた、ナイブズにとっての始まりの一つ。この星で得た、かけがえのない記憶。
あの歌を、別天地でまた聞けたことにも大きな意味はあった。幼き日、人との共存と相互理解を夢見ていたことを思い出せた。自分の心の変化を理解し、受け入れる切っ掛けになった。だが、それ以上に。
アテナ・グローリィに出会えた。彼女との出会いが縁となって、多くの人々と出会えた。多くの体験ができた。多くのものが得られた。得難い日々を過ごせた。
ネオ・ヴェネツィアから離れ、火星中を旅して回ったことで、ナイブズは自分が如何に人に恵まれていたかを思い知ることになった。その体験が、より一層、ネオ・ヴェネツィアで過ごした日々の記憶に価値を持たせ、意味を深めさせた。
「また、会えましたね。ナイブズさん」
「また会えたな、アテナ・グローリィ」
また会えて良かった。
心から、そう想う。
2人が再会の言葉を交わした、直後、猫の鳴き声が聞こえた。
「にゃー」
「ぷいにゅ~!」
振り返ると、後ろから帽子を咥えた黒猫が走って来た。黒猫はアテナへと帽子を投げて、自身は素早くナイブズの体を駆け上り、肩でちょこんと座った。
「黒猫」
「にゃっ」
呼びかけると、短くも明確な返事。特徴的な横に伸びた楕円形の顔、見間違えようも無い。ナイブズと共にこの星へ降り立った、そして夢の中でナイブズをテスラの許へと誘った、謎多き黒猫。猫妖精と知己の間柄であることを窺わせる言動を夢の中でしていたが、果たして今はどのような意図の下に動いているのか。
「あら? この帽子、アリア社長の……?」
アテナが何かに気付いたらしく、ナイブズも視線をアテナが手に持つ帽子へと移す。
白地に青いライン、そして『ARIA』の文字。ARIAカンパニーの制帽だ。そういえば、先程黒猫の他に、もう1匹の声が聞こえていた。
「ぷ、ぷいにゅ~……」
ちょうどその時、疲れ果ててくたくたの様子のアリアが現れ、ナイブズの足元でばたりと倒れた。首根っこを掴んで持ち上げるも、息を乱して目を回している。
どうやら、黒猫に帽子を奪われて、取り戻そうと追いかけて来たものの、力尽きたらしい。敗因は運動不足と肥満だろう。
取り敢えず、アテナから受け取った帽子を被せたが、この後はどうしたものか。
アリアは基本的にARIAカンパニーの社員と行動を共にしている印象だが、近くにそれらしい人影が――やって来た。
「アリア社長~! どこですかー?」
アリアの名を呼ぶARIAカンパニーの水先案内人の少女。手に嵌めている手袋は片方だけだが、水無灯里ではない。彼女が既に一人前になっていることは、ナイブズも月間ウンディーネを不定期に購読して知っている。
アリシアが引退してゴンドラ協会の職員になった後、新入社員が入ったようだ。不思議なことに、その新入社員の声にも姿にも見覚えがあった。
「アイちゃん、こっちだよ」
アテナが少女の名を呼んだことで、ナイブズもその正体に気付いた。
あれは愛野アイだ。3度出会い、少なからず言葉を交わし行動を共にした少女だ。地球で暮らしているというから、もう二度と会うことも無いと思っていたが、どうやら灯里と同じく、水先案内人になるべく地球から火星へとやって来たらしい。
アテナに名を呼ばれると、アイはこちらを向いて、ぱぁ、と笑顔になって走って来た。アリアを見つけられたことがよほど嬉しいらしい。
近くまで来たところでアイにアリアを手渡すと、ぐったりしているアリアにアイは色々と文句を言い始めた。どうやらアリアが黒猫と遊んでいる内に走り出してしまったので、慌てて追いかけたが途中で見失ってしまって大変だったらしい。
「もう。途中で占い師さんに会わなきゃ、ここまで来られなかったんですよ?」
「ぷ~い~……」
アリアはまだぐったりしている。占い師については聴かなかったことにしよう。アリアを見かけずとも行き先を言い当ててそこにアテナもいると断言していたとか、本業は雑貨屋の店主と名乗っていたとか、聴こうとせずとも次から次に情報が聴覚を刺激してくる。
黒猫が来た時点でもしやと思ったが、やはりあの男の手引きか。
「あのお節介焼きめ」
溜め息混じりに、愚痴るように、懐かしむように呟くと、それが聞こえたのか、アイと目が合った。どうやら今までアリアに集中していて、ナイブズをはっきりと認識していなかったようだ。
数度、目を瞬かせ、目をこすり、アリアの腹肉をつまむ。くすぐったかったのか、アリアの目も覚めて、アイと一緒になってナイブズの顔を見る。
「あれ……? もしかして、ナイブズさんですか!?」
「ぷいにゅ!?」
「久しいな、愛野アイ。水先案内人になっていたのか」
「はい! 灯里さんみたいな、素敵な人になりたくてっ、もっと
アリアの相手は黒猫とアテナに任せて、アイの言葉に耳を傾ける。最後に会った時よりも随分と背が伸びたが、内面の変化の方がより大きい。以前はこれ程の積極性や明るさは無かったはずだが、なりたいものの為に地球から火星までやって来たことで、何か吹っ切れたのだろうか。
そんなことを考えていると、アイに続いて2人、片手袋の水先案内人がやって来た。姫屋とオレンジぷらねっとの半人前の水先案内人。奇しくも灯里たちやアリシアたちと同じ組み合わせなのは、偶然か、それとも縁というやつか。
「アイアイ~、待ってよ~」
「素敵に無敵に大元気……恐る、べし……」
アイアイとは、まず間違いなく愛野アイの愛称であろう。やって来た2人は先程のアリア程ではないが、所作と声色からも『疲労困憊だ』と訴えかけている。だが、興奮気味のアイがそれに気付く様子は無い。
「あずさちゃん、アーニャちゃん、すごいよっ、
「あー、分かった。分かったから、落ち着いて、アイアイ……」
「休ませて……」
「あ、ごめん」
ここで漸く小休止。2人の少女の息が整うのを十分に待ってから、アイが2人にナイブズを紹介した。
赤毛の少女は「おお、この人が!」となにやら好奇の目で見ている。一方、銀髪の少女は「ほほぅ、この方が」と神妙な面持ちだ。刺さるような視線からは微弱ながらも敵意に近いものを感じる。
いずれにせよ、ナイブズのことは未だに話が伝わっているらしい。話に残るのは、ヴァッシュだけで十分なのだが。
そのまま2人の自己紹介となり、まず口を開いたのは赤毛の少女。
「はじめまして、ナイブズさん。あずさ・B・マクラーレンです。支店長……藍華さんと、それからあゆみさんから、お話は色々と聞いてます」
はきはきとした、お手本のような自己紹介だ。優等生という第一印象と同時に、声色からは活発さを、初対面の強面の男に対して物怖じしない堂々とした態度と立ち姿からは自信や芯の強さを窺わせる。
藍華とあゆみの名が出たので詳しく聴くと、どうやら藍華の指導を受けている後輩で、あゆみとは同じ片手袋同士で色々と世話を焼いてもらっているらしい。灯里の後輩と藍華の後輩と来たなら、残るはアリスの後輩か。
「私も、貴方のことはご指導いただいているアリス先輩や、あとアトラ先輩と杏先輩からも色々聞いています」
ああ、やはりそうだったか、と妙なところに納得する。合縁奇縁、縁は異なもの味なもの、などと云うらしいが、ここまで来ると運命や因果律といった言葉の方が適確なのではないかと思えて来る。
他方、アイとあずさはその少女の平素に非ざる様子に、「どうしたの?」と慌てて声を掛けているが、少女の耳には届いていない。アテナも黒猫もアリアも、首を傾げて不思議そうな顔で少女を見ている。
「一時なりとも、アテナ先輩から歌声を奪った極悪人……! シベリア送りですっ!!」
「極冠地方になら、つい先日までいたが?」
「…………はい?」
思いがけない内容での即答に、銀髪の少女はなけなしの怒気も霧散させて首を傾げた。一方ナイブズは意味不明な宣告の内容を可能な限り汲み取って返答したつもりだったので、素っ頓狂に聞き返されたのは肩透かしを食らった気分だ。
もしや、肝心の単語に対して認識の齟齬があるのではないかと思い、前提となる部分を確認する。
「シベリアとは、地球の旧ロシア領にある、死ぬほどの酷寒で有名な土地のことだろう?」
「そうなんですか。すいません、よく知らずに言っていたもので」
ナイブズから確認されると、少女は感心した様子でそんなことを言った。
どうやら、少女は意味を知らないまま、単語から受ける印象だけで言っていたらしい。一体どこでシベリアという単語を知ったのか、その経緯が少々気になる。そういえば、『シベリア送り』という文言、どこかで聞いた覚えがあるような気がするが、いつ、どこでのことだっただろうか。少なくとも熟語や故事成語ではない。
「ええっと、つまり……?」
アテナはナイブズと少女のやり取りに困惑している。確かに、要領を得ない、よく分からない受け答えになってしまった。多少強引にでも纏めるか。
「既に俺の自業自得で、寒さで死ぬほどの目には遇っているから、態々シベリアに送って懲らしめる必要も無い……ということだ」
そういうことでしたか、と少女は手を組んで、顎に右手を添えて、一つ、二つと、頷いている。どうやら納得したようだ。他の3人と2匹は「ナイブズが死にかけた」という言葉にまた別の動揺が生まれていたが、当の2人の耳には入っていない。
「……成る程。既にお天道様の裁きがあったのなら、それでよしということにいたしましょう。改めまして、アーニャ・ドストエフスカヤです。今後とも第三者としてのお付き合いをお願いします。それから、アテナ先輩とは常にもっと離れて下さいますと私の心が安らぎます」
銀髪の少女――アーニャはナイブズの言い分にひとまず納得したようで、必要以上に丁寧な口調で、所々の単語の選択が口語らしからぬ独特の調子で、抑揚の少ない声と慇懃な態度で自己紹介を終えた。
ここまで警戒心と敵対心を露わにされるのは、晃以来か。最初の宣告の時の勢いは、同じ3大妖精のアリシアのファンたちに詰め寄られた時に感じた熱量を思わせる。おそらく、熱心なアテナのファンなのだろう。
要求通りにナイブズが動こうとすると、アテナがナイブズの隣まで、アーニャの前まで歩いて来て、優しく微笑みかけた。
「心配してくれてありがとう、アーニャちゃん。でも、大丈夫だよ。ナイブズさんは不器用なだけで、とってもいい人だから」
何を言ってるんだこいつは。
不器用である点は否定しないが、ナイブズのどこを取って『いい人』などと言っているのか、理解に苦しむ。困ったことに、ナイブズを以前から知っているアイもその通りだと言わんばかりの表情で、あずさも釣られて納得してしまっている。
しかし、アーニャはアテナの言葉に目を丸くして、ナイブズとアテナを数度、交互に見た。更に首を傾げて沈思黙考。表情の変化は小さいが、挙動に感情がよく表れている。驚きと困惑が手に取るように分かった。
やがて、アーニャは首をまっすぐにして、アテナに、そしてナイブズへと問いかけた。
「……御2人は、お互いをどう思ってるんですか?」
どういう関係であるか、ではなく、どう思っているか。
考えるまでも無く、自然と言葉が口を突いて出た。
「恩人だ」
「恩人よ」
一拍の間を挟んで、アテナの方を見る。アテナも同じタイミングでナイブズの方を向いて、互いに相手の顔を見る。
全く違う立場の相手が、自分に対して同じことを思っていたのが不思議だった。そしてナイブズは、あの時にも似たようなことがあったのを思い出した。
ありがとうを言ったら、ありがとうで返された。
あの時は、ただ何となくそういうものなのだろうと思うことにして、深く考えることもせず、そのまま流して理解を深めようともしなかった。
だが、今ならば分かる。こういうことを、どのように言い表すのか。
「お互い様、ということか?」
「はい。きっと、繋がっている、誰も、みんなが……お互い様です」
果たして、本当にそうなのだろうか、という疑問もある。
アテナがそう言うのなら、そうなのだろうと、信じたい気持ちがある。
優先すべきがどちらであるかは、考えるまでも無い。
自分自身でも気付かぬ内に、ナイブズは微笑んでいた。しかし、それが保たれたのもほんの一瞬。
「そうだ!」
元気のいい大きな声に、猫を含めた全員が声の主であるアイへと視線を集中させる。
頬を紅潮させた得意げな表情。どうやら、余程の名案を閃いたようだ。
「ナイブズさんに、みんなと会ってもらおうよ! レデントーレで!」
「それ、あり! 大あり! だってだって、ナイブズさんって藍華さんたちとあゆみさんたちだけじゃなくて、晃さんもアリシアさんも知り合いなんでしょ!?」
「サプライズの出し物としては申し分ありませんねっ」
「暁さんと、アルさんと、ウッディさんと、それから……」
「そうだよ、あゆみさんもレデントーレなら協力してくれるって言ってたし!」
「乗るしかない大波到来の予感……!」
あれよあれよと話は進み、3人は大いに盛り上がっている。
火星の奇跡がナイブズを連れて来てくれた、寧ろナイブズが奇跡を運んで来た――などと意味不明な言葉まで飛び出しているが、落ち着くまで放っておくことにしよう。
アリアと黒猫は、待ちくたびれたのか折り重なって寝ている。アリアにのしかかられている黒猫の寝顔が苦しそうに見えたが、見るだけで何もしない。本当に苦しいなら起きて自分で這い出るだろう。
「レデントーレ……そういえば私、アリスちゃんたちの時には行けなかったなぁ……」
不意に、アテナはそんなことを呟いた。頭の中で思ったことが、つい口に出たようだ。
そういえば、似たようなことを本人の口から聞いた覚えがある。
「たしかネバーランドのことでも、同じことを言っていたな」
「そうなんです。私、そういう時いつもタイミングが悪くて……この前も、お茶会に行けなくて……」
珍しく溜め息まで吐いて、感情をありありと顔に出して悔しがっている。
3度が多いのか少ないのかは分からないが、少なくとも、それを寂しがっていることぐらいは察せられた。
「今はマネージャーなり、お前のスケジュール管理をしている人間もいるんだろう? そういうやつらを上手く使って、今度は間に合うよう、今からでも調整をさせたらどうだ」
「……そっか。そうですね、今度はそうしてみます。今回こそ、私もっ」
ナイブズの提案を聴いて、それは名案だと言わんばかりにアテナは手を叩いて目を輝かせた。水先案内人は基本的に全部を自己管理らしいので、その習慣が抜けていなかったのだろう。使える人間は使えるだけ使うのが当たり前だったナイブズには当然の発想だったが、今回はそれが上手く噛み合ったらしい。
調度、アイ、あずさ、アーニャの話し合いも終わり、猫たちも起きた。
黒猫は一声小さく鳴いて、そそくさと立ち去った。ナイブズは視界の隅で認識するだけで、アリアだけが「ばいにゅ~」とその後ろ姿を見送っていた。
「それじゃあ、当日はよろしくお願いしますね! ナイブズさん!」
唐突に告げられた言葉に、分かっていたはずだが、つい苦笑が漏れた。
「俺の参加は大前提なのか。……まぁ、別に構わんが」
少女たちの勢いに乗せられて、ナイブズはレデントーレへの参加と協力を約束した。アーニャからはそれまでの期間、サプライズの為にも街を極力出歩くなと言われたが、現在逗留しているのはネオ・アドリア海の島にある神社で、ネオ・ヴェネツィアに来ても歩くのは裏側が主だ。これから暫くは島めぐりをする予定でもあったし、恐らく問題あるまい。
アテナは今度こそみんなと一緒に参加しようと張り切っている。そのやる気に中てられ触発されたか、少女3人とアリアは「えい、えい、おー!(ぷい、ぷい、にゅー)」と気合を入れている。
空はすっかり茜色。黄昏過ぎれば逢魔ヶ時。暗くならない内に帰るよう少女たちに告げて、ナイブズはいつもと変わらぬ足取りで、その場を後にした。
「ナイブズさん。また、会いましょうね」
「……ああ。また会おう」
背に届いた声に一度歩を止めて、振り返らないまま再会の約束を交わして、また歩き出す。歩を止めず、進み続ける。
また、新しい出会いから物語が始まる。
旅は終わらず、日々は続く。
彼の往く先に道は無くとも、歩いて行く限り、未来は在り、広がり続ける。