カーニヴァルが終わってから数日、ナイブズは昼夜を問わずネオ・ヴェネツィアを歩き回っていた。
アテナに観光名所などは案内されたが、入り組んだ街の構造の細部は大まかな説明をされただけでまだ網羅していなかった。当面のやることが特に定まっていなかったナイブズは、取り敢えずこの街を隅々まで見て回ろうと決めた。
そうして数日間、街を歩き回ったナイブズは、朝焼けとその光が照り返す海を眺めながらあることを悩んでいた。
人と話し、多くの言葉を交わして、互いを理解する。アテナのお陰で思い出せた、幼い頃、ヴァッシュに語ったナイブズ自身の言葉だ。しかし、今ナイブズはその前の段階、どうやって人に話し掛けるかで悩んでいた。
広場や公園、市場など多数の人間がいる場所に行き着くこともあったのだが、そこでどのようにして人間に話し掛ければいいのか、さっぱり分からなかった。市場ならば店の商品を買うついでに、何か言葉を交わすということも容易くできそうだったが、今のナイブズは一文無しだ。他にも色々と考えたのだが、人に話しかける切っ掛けというものが、どうしても思いつかず、分からなかった。150年以上も人間とまともなコミュニケーションをしていなかったのだから、当然と言えば当然のことなのだが。
ナイブズがここ10年程でそれなりの付き合いのあった人間はたったの3人。コンラッド、エレンディラ、レガートだけだ。その3人に対しても常に威圧的且つ高圧的に接し、それ以外の人間は、配下のGUNG-HO-GUNSやミカエルの眼の者達は使い捨ての道具として扱い、人類全般は憎悪の対象として抹殺することしか考えていなかった。そんな男が、思い立ったからといってすぐに人と親しく話そうなどと、無理な話だ。
事実を再認識して、ナイブズはちょっと途方に暮れた。同時に、150年もの間、何時でも何処でも人の輪の中で生き続けて来たヴァッシュの順応力や適応力の高さに感心する。
そこまで考えて、ふと、ナイブズはあることに気付いた。そうだ、見習うべき、手本とすべき最も身近な例があったではないか。ヴァッシュを参考にすれば、少しは今の状況を改善できるかもしれない。尤も、全てを真似られるとは思えない。特にあの笑顔と底無しのお人好しさは、ナイブズがどれだけ変わろうと、決して真似できないだろう。
そんなことを思いながらも、ナイブズは海を眺め、波の音に耳を傾けながら、ヴァッシュの事を思い出していった。
▽
「もしもーし、そこの人」
ヴァッシュのどの辺りを見習うべきか悩んでいると、不意に水路の方から声を掛けられた。声色から察するに、10代半ばの少女と言ったところか。声のした方に顔を向けると、そこには黒い舟に乗った水先案内人の少女がいた。
あの制服のデザインはアテナの会社とは違うものだが、見覚えはある。確か、アテナの友人のアキラが着ていた物と同じだったか。
「水先案内人が、俺に何の用だ?」
ナイブズの傍に舟を寄せて停めると、水先案内人の少女は物怖じせずにナイブズに話し掛けて来た。
「つかぬことを聞きますけど、もしかして、貴方が『
唐突な質問にもナイブズは動じず、何の事を訊かれているかをすぐに察した。しかし、聞いた事の無い単語が気に掛かり、それを聞き返す。
「心当たりはあるが、そのセイレーンとはなんだ?」
誰かを歌えなくした覚えならあるが、セイレーンが何を指すのか分からなかった。地球の古い伝承や伝説の類で聞いたことがあるような気がするが、ナイブズもそれほどそういった方面に造詣が深いわけではない。聖書関連の事柄なら、かつて膝下に集った人間の大半が武闘派聖職者の結社だったこともあり、それなり以上に詳しいのだが。
すると、少女は意外そうな顔をして、ナイブズの顔を見返した。
「本当に知らないんですか?」
「ああ。知らん」
どうやら、セイレーンとは少女からすれば知っていて当然とも言うべき単語のようだ。しかし、ナイブズはそれが何を意味するのか知らないし、思い当らない。
「『
少女は単純明瞭に、セイレーンの意味を教えてくれた。だが、ナイブズはそのこと以上にある事実を知って驚いた。
「……水の3大妖精だったのか」
水の3大妖精とは、ネオ・ヴェネツィアの観光の中心を担う水先案内業のトップに立つ3人の女性への愛称であり、敬称であり、尊称であるらしい。水先案内業の歴史の中でも史上稀に見る存在であると同時に、この街、この星を代表するアイドル的な存在でもあるという。
その1人が、観光案内と歌の最中を除いて平素はボケまくっているアテナだとは、ナイブズの目を以ってしても見抜けなかった。しかし改めて考えてみれば、短時間で仮面越しにナイブズの感情の機微を読み取った慧眼にも納得がいく。水先案内人のトップとしての名は、伊達でも飾りでもなかったというわけだ。
「それまで知らなかったんですか?」
少女はセイレーンを知らないと言った時以上に、驚き、呆れを混じらせた声でそう言った。これにナイブズは、当然だろうと頷いた。
「この星には、気が向いたから立ち寄っただけだからな」
「へぇ、観光で来たんじゃないんですか」
ナイブズの言葉に少女は興味を引かれたようで、無邪気な表情で聞き返して来た。何がそれまで気に掛かるのか分からないが、そのことは置いておいて、先程の質問に答える。
「さっきの質問の答えだが、その通りだ。あの時、俺は碌に歌を聞かずに罵声を浴びせてしまった」
アテナの歌声は素晴らしいものだった。
過去にナイブズが聞き惚れ、絶賛した音楽と言えば、GUNG-HO-GUNSの中でも『音界の覇者』の異名を取ったミッドバレイ・ザ・ホーンフリークが奏でた殺人音楽だ。共鳴と固有振動、演奏と人間の断末魔が組み合わさったハーモニーに、当時のナイブズは柄にも無く昂ったものだ。
だが、アテナの歌はそれとは全く異なるものだった。
歌声は優しく、穏やかで、聴いているだけで安らぎ、落ち着いて行くのに、心の震えは止まらない。それが、音楽という芸術に対する純粋な感動だと気付いたのは翌日の事だった。
あんなにも素晴らしい歌声を痛罵したことは、ナイブズ自身も悔いていた。
「本当に『天上の謳声』に難癖をつけたんだ……」
少女は驚き呆れつつ、ある種の感心を懐いたような声でそう言った。確かに、彼女の歌声を聴いて難癖を付けた人間など、あの時のナイブズの他にはいるまい。しかし、今更この事を聞かれるのはどうしたことかと気になり、今度はナイブズから少女に質問をする。
「だが、今ではあいつも歌えているはずだが?」
「ええ、それも聞いていますよ。どうやって謝ったんです?」
どうやら、単なる好奇心のようだ。水の三大妖精を一時的にでも歌えなくした男となれば、他の会社とはいえ、同じ水先案内人が興味や関心を持つのは、ごく自然なことなのだろう。
「謝ったわけではない。あいつも、謝罪や詫びの言葉が欲しかったわけでもなかったようだしな」
「それじゃあ、どうやって?」
ここまで話して、ナイブズは暫時の思考を挟み、少女にある提案をした。
「……そうだな。ここからは交換条件だ」
「交換条件?」
「お前の質問には何でも答えるし、どんな話にも付き合ってやる。その代わり、俺を舟に乗せろ」
厚かましい提案だが、実は、ナイブズは舟に対して興味津々で、機会があれば一度乗ってみたいと思っていたのだ。
少女の方もアテナの話にかなりの興味があるようなので、ナイブズはこんな交換条件を提示したのだが、少女は途端に難しい表情になった。
「えーっと……
「いや、知らんな」
少女からの唐突な質問に、ナイブズはきっぱりと返す。それを聞いて、少女は右手にだけ嵌めている手袋と黒い舟について、簡単な説明を始めた。
「黒い
少女は申し訳なさそうに、遠回しではあるがナイブズを舟には乗せられないと言った。しかし、それは言い訳などの類ではなく状況説明であって、ナイブズを乗せる事自体を嫌がっているわけではないようだ。表情と口調から読み取った、ただの憶測だが。
そこでナイブズはある妙案を思い付き、重ねて少女に提案した。
「……そうか。なら、俺がその練習に付き合ってやる」
「はい?」
ナイブズの言葉に、少女は素っ頓狂な声を上げた。それにも構わず、ナイブズは続ける。
「客ではなく、俺を練習台として乗せろ。そうすれば問題なかろう」
半人前は客として人を乗せることができないのなら、練習台として合意の上で人を乗せてしまえばいい。ちょっとした屁理屈だが、ルール違反にはなるまい。
少女は暫く呆気にとられていたが、やがて、小さく体を震わせて、大声を上げた。
「っかー! その発想は無かった!」
今までの何処か取り繕った言葉遣いとは違う、さっぱりとした快活な口調。思わず口を突いて出た、少女の普段の口調なのだろう。
「どうだ?」
相手の意志を問うのではなく、確認の意味で問い掛ける。少女は、明朗な笑みを浮かべて答えた。
「練習台ですから、帰りには適当な所で捨てて行きますよ?」
「構わん」
「それじゃあ、交渉成立です。どうぞ、噂の人」
言って、少女は舟を岸に寄せて、ナイブズをエスコートすべく手を差し伸べて来た。
他人、しかも人間から手を差し伸べられるなど、150年振りか。感慨に耽りつつ、その手を取り、舟へと乗る。
舟の上は、水の上に浮いているだけあって地面よりもずっと不安定だ。だが、少女の倍以上の体重のナイブズが乗っても、沈むような気配が無いことに感心する。確か、水などの液体に物が浮く力、浮力だったか。計算式などは知っていたが、実際に体験するのは初めてだ。
少女に促されてナイブズが座ると、舟は路地を離れて水路を進み出した。
「俺はナイブズだ。お前の名前は?」
「ウチは姫屋のあゆみです。今日は練習台、宜しくお願いします、ナイブズさん」
▽
「へぇー。海も川も無い星から来たんですか」
「ああ。ここに来て半月近く経つが、未だに大量の水が普遍的にある、というのは慣れんな」
「それなら『天上の謳声』が耳に入らなかったのも仕方なかった……の、かな?」
「そういうことだ」
水路を進む舟の上で、ナイブズはアテナの歌声に文句を付けた事の顛末をあゆみに教えた。波の音に聞き入っていて『天上の謳声』が耳に入らなかった、と言った時には嘘や冗談と疑われたが、ナイブズが事情と理由を説明すると一先ずあゆみも納得した。半信半疑という感じではあるが、半分は信じられている様子だから良しとしよう。
やはり、星間旅行が盛んなこの星でも水が無い星の存在は珍しいようだ。当然か。生物が生きる上で必要な大前提の1つが存在しない星に、好んで入植しようという物好きなどいないだろう。
ちなみに、『姫屋』のあゆみがライバル企業の『オレンジぷらねっと』の内部事情、しかもトッププリマの急なスランプという極秘情報を知っていたのは、オレンジぷらねっとの友人から聞いたからだという。その話を聞くに、どうやらアテナが復調するまでナイブズはオレンジぷらねっとから指名手配犯のような扱いを受けていたらしい。まさかお尋ね者にされていたとは思ってもみなかったので、つい苦笑した。
こんな星でもお尋ね者になっていたとはな。懸賞金は、600
あゆみが聞きたがっていた話を終えると、ナイブズは
舟の構造自体の工夫もあるだろうが、操舵手の腕もいいのだろう。幾度か他の舟とすれ違うこともあったが、その度にあゆみは上手くかわしていた。
時折、あゆみは観光名所の近くを通るとそれについてざっくばらんに説明をした。本に書いてあることをただ読むような案内ではなく、地元の人間であるが故の親しみを込めたものだった。しかし、アテナとは口調が随分と違う。そのことを問うと、あゆみは苦笑しながら、観光案内の口上は得意ではない、と答えた。観光案内業の人間がそれでいいのかとも思ったが、問題があれば本職である本人や周囲の人間が是正するだろうから、素人以前に観光について無知同然のナイブズが口を挟むことではあるまい。
それにしても、と、ナイブズは周囲の街並みを見回した。この辺りは昨日通ったばかりの場所だが、水路から、舟の上から見るのとでは全く違う景色に見える。視点が変われば視界も変わるのは当然だと理解をしているが、それでも、ナイブズにとって新鮮な体験だった。
「俺からも聞きたい」
街の中の狭い水路を抜けて、広い水路に出た所で、ナイブズはあゆみに声を掛けた。
「いいですよ。なんです?」
「この街は宇宙港を除いて随分と古めかしい造りだが、何故だ?」
この街を見て回ってから、ずっと気に掛かっていたことだ。
この星には浮島やエアバイク、惑星間を往来する宇宙船など、数々の高度技術が存在している。それにも拘らず、ネオ・ヴェネツィアの街並みや住民の暮らしは、ノーマンズランドの町々のそれよりも古めかしいものに映った。
この奇妙とも言える街の構造はどういうことかと、ナイブズは問う。それに対して、あゆみはさらりと答えた。
「それはですね、このネオ・ヴェネツィアを始め、アクアの各都市が『
「
「はい。と言っても、ウチも詳しいことは良く分からないんで、殆ど受け売りですけど」
「構わん。続けろ」
地球という意外な単語を聞いて、そのことへの探求心と好奇心から、ついナイブズの口調と語気がきつくなる。あゆみは少し気圧された様子を見せたが、すぐに説明を続けた。
「一番大きいのは、人類の宇宙進出直前の時代、地球環境の激変によるものだったらしいです」
それを聞いて、ナイブズは凡その事情を察した。
「海水面の上昇と各種異常気象、加えて各地で頻発した火山活動や地殻変動。それらで失われた、若しくは崩壊の危機に瀕した文化を移植した、ということか?」
プロジェクト・シーズ――地球人類という種を外宇宙にまで拡散させる大規模な移民計画の始まりには、幾つかの逼迫した事情があった。地球人口の増加と、人類の産業活動や戦争などによる急速な地球環境の悪化だ。ナイブズが移民船で閲覧した人類史にも、そのことに付記される形で、急速に人類の伝統や文化が失われていったことが記されていた。
この街が作られた経緯に『地球環境の激変』が関わるのならば、これで間違いあるまい。
「その通りです。そういった事情で、アクアには地球で色々な事情で失われつつあった文化を再現した都市が幾つもあるんです。その一つが、このネオ・ヴェネツィアというわけです」
やはりそうだったか、と頷く。しかしそうなると、この星はプロジェクト・シーズでもかなり早期の移民惑星ということになる。或いは最初期――太陽系の惑星か?
ありえない、ということもあるまい。こうしてナイブズが人間と穏やかに語らっているという状況こそ、ありえなかったはずの状況なのだから。
そこまで考えて、また新たに疑問が浮かんだ。
「しかし、態々文明の利器を排してまで、その“古き良き時代”とやらを再現する必要性はあったのか?」
この街には先程挙げた要素を除けば高度技術を有する文明の面影は殆ど見えず、その上プラントまでも無いのだ。ナイブズが気配を察せていないのだから、浮島やエアバイクなどの動力源さえもプラントとは別物だろう。
プラントが人間に酷使されていないということは、ナイブズにとって僥倖だ。しかし、同時に人類がどれ程プラントに依存しているかを知っているだけに、そのことを疑問に思ったのだ。
再度のナイブズからの問いに、あゆみは首を傾げて唸る。
「うーん、どうでしょうね。確かに、地球とかに比べたら不便かもしれませんけど、ウチは生まれ育ったこの街が大好きですから、それでいいんです」
朗らかで、どこか誇らしげな笑みを浮かべて、あゆみはそう言った。
「……そうか」
そんなふうに笑われてしまっては、ナイブズも納得するしかない。
問答を終えた、調度その時、前方に白い舟が現れた。漕いでいるのは、両手共に手袋を嵌めていない水先案内人だ。同乗しているのは、普通に考えて客だろう。白い舟が通り過ぎて行くのを、ナイブズとあゆみは見送った。
舟に乗る前に、あゆみは黒い舟に片手袋の水先案内人は半人前だと言っていた。ならば、あの白い舟を操り手袋を嵌めていない水先案内人が一人前なのだろうか。
「ナイブズさん、夢ってありますか?」
唐突に、あゆみがそんなことを訊ねて来た。いや、唐突ではない。先程の白い舟を見たからだ。
「夢、か……。夢と言う程ではないが、目標ならある」
ナイブズは安易にはぐらかしたりせず、偽らざる本心を伝えた。
今も昔も、ナイブズには夢と呼べるような高潔なものは持っていなかった。
人類殲滅の志は、野望や復讐の類だ。決して夢と呼べるようなものではない。ならば、今懐いている、目指しているものを夢と呼べるかと言えば、分からない。人間と向き合い、理解しようということは、夢と呼ぶには何かが決定的に違うように思えた。
「そうですか……」
ナイブズからの返事を聞いて、あゆみは小さく溜息を吐いた。
「悩んでいるのか?」
見るからに悩みを抱えている態度を見せるのは、見知らぬ誰かにでも――或いは、見知らぬ誰かにこそ、悩みを聞いて欲しいのではないか。そう考えてナイブズが問い掛けると、あゆみはすぐに頷いた。
「ええ、まぁ。ウチ、
また聞き慣れない言葉が出て来たが、ふと、ナイブズはあることを思い出した。この星に来たその日、大運河で黒猫を見た時のことだ。あの時、この舟よりも大きな黒い舟を操舵していた水先案内人は2人。その1人があゆみだったのだ。今まで思い出そうとしなかったからさっぱり気付かなかったが、それは置いておこう。
「トラゲットとは、2人1組で大勢の人間を乗せて大運河を渡っていた、アレか?」
「はい。……って、あれ? ナイブズさん、ウチらの舟に乗った事あるんですか?」
「いや。一度、お前達が大運河で舟を漕いでいるのを見かけたことを思い出しただけだ」
「へぇ、そうだったんですか。けど、一度遠目に見ただけでよく思い出せましたね」
「それで、そのトラゲットの何が問題なんだ」
ナイブズが重ねて問うと、あゆみは僅かに表情を翳らせて語り始めた。
「ウチは元々この街の出身で、昔から地元密着型の仕事のトラゲットに憧れてたんですよ。けど……トラゲットをやっている
「落ち零れの吹きだまり、ということか」
すぐにあゆみの言葉の裏を理解し、口に出す。トラゲットを貶すような言い方に、あゆみは首を横に振って、しかし怒りなどは見せず、先程と変わらない表情のままで話し続ける。
「勿論、ウチみたいに最初からトラゲットをやりたくてやっている
言い終えて、あゆみは大きく溜息を吐いた。
話を聞いて、ナイブズはあゆみの心中を凡そ察しがついた。
彼女の心中を占めるのは、幼少の頃から変わらない夢と憧れ、実際にその夢に近付いたが為に生じた迷いと躊躇い、といったところだろう。それはナイブズからすればそれ程大それた悩みには思えなかった。何かの切っ掛けがあれば、迷いを振り払うにせよ、夢を諦めるにせよ、すぐに心は決まるだろう。
そこで、ナイブズは少し思考を切り替える。こんな時、ヴァッシュならどうするだろうか。こういう時こそ、ヴァッシュに倣って行動してみる場面ではないだろうか。
そう考えて、更に考えようとして、ナイブズは自らの愚考の滑稽さに気付いて、つい笑いそうになった。
こういう時、ヴァッシュは誰かを真似て、誰かを模倣して行動したか? それは違う。ヴァッシュと別れるまでの70年間でもそんなことはなかったし、それからもそんなことは無かったはずだ。
あるとすれば、レムへの想いと、レムからの教え。それらを胸に、ヴァッシュは常に自分の心の感ずるままに動いていた。ならば、今ナイブズが何かをするのならば、ヴァッシュならばどうするかではなく、自分はどうしたいか――そうあるべきだ。
誰かを模倣するだけで、肝心の自分の心が空っぽでは、何も意味が無い。それで、一体何が得られるというのだ。自らの愚考を恥じると同時、ナイブズはそれに気付く切っ掛けをくれる形になったあゆみに、何らかの形で報いようかと考えた。
彼女は今、夢への道の半ばで迷いそうになっている。夢への一本道に急に分岐が現れ、そちらへ誘導する人間の声を聞いて、どちらを行くべきか考えあぐねて、足元が定まらずにふらふらしている。
それならば、話してみよう。何よりも困難な道を、最後まで走り抜けたあいつのことを。
「話をしよう。途方もない夢を追い続けた、馬鹿な男の話だ」
あゆみからの返事を待たず、ナイブズは静かに語り始めた。
一滴の水も存在しない乾いた砂塵の荒野で、其処彼処から血と硝煙の臭いが燻ぶる世界で、ラブ&ピースという夢を掲げて駆け抜けた馬鹿で頑固な大馬鹿者がいた。
この話のさわりの部分だけを聞けば、きっと誰もが綺麗事の予定調和の三文芝居と決めて掛かるだろう。しかし、実際は違う。その男が夢を叶えようとした場所は、人の心すらも渇いた暴力の世界だったのだ。
男は貴く気高い理想を持ったが故に、常に立ちはだかるのは難題と難敵ばかりだ。
男は暴力の世界で暴力を否定した。故に、誰よりも大きな力を持ちながらも、それを決して振り翳さず、振り上げることすらなく、自らを強者と定義する世界の摂理に挑み続けた。
どれ程の苦杯を舐めただろう。
どれ程の辛酸を味わっただろう。
どれだけの血と涙を流しただろう。
男は幾度、この世を地獄と思ったことだろう。
しかし男は、一時は歩みを止めてしまうこともあったが、決して膝を折らず――
「――最後まで諦めず、何度打ちのめされても、その度に立ち上がって前へと進み続けて、遂には不可能と思えた夢を叶えた。……いや、違うか。あいつの夢は、まだ終わっていない」
そこで、ナイブズは言葉を切った。つい、自分を変容させ、人類とプラントの関係に大いなる第一歩を踏みこませたことでヴァッシュの夢が叶ったと勘違いしてしまったが、そうではない。
きっと、ヴァッシュ・ザ・スタンピードの夢は終わらない。終わらずに続いて行く。彼が愛した、タフで優しい人々と共に生きる限り。
「っかー! ありがとうございます、ナイブズさん。ウチもその人みたいに、夢に向かって突っ走ります!」
話に聞き入っていたあゆみも、話が終わるや何かを吹き飛ばすように大声を出して、ナイブズに感謝と決意の言葉を述べた。それを聞いて、ナイブズは静かに頷いた。
「そうか。……過去と未来の自分自身に誇れるならば、誰に何を言われようと最後まで貫き通せ」
「はい!」
あゆみの返事に迷いは無く、表情にも翳りは見えなくなっていた。今日出会ったばかりのナイブズも、その表情が最も彼女らしいと感じた。
▽
「今日一日、有意義に過ごせた。礼を言う」
日が傾き始めた頃に、ナイブズは適当な場所で舟から降りて、不器用ながらもあゆみへ感謝の言葉を告げると、足早に歩き出した。行く先も目的地もない。ただ、気の向くまま、足の向く方へと進むだけだ。
「ナイブズさん! 今度会ったら、さっきの人の話、もっと聞かせて下さいね~!」
後ろから聞こえて来た意外な言葉に、足が止まる。どう返すべきかと思い、少し考える――までもない。断る理由など、無い。
「ああ。次に会った時に、な」
振り返って告げて、すぐに踵を返して歩き出した。
遠回しな言い回しだし、はっきりと口に出してそう言ったわけでもない。それでも、ナイブズが誰かと再会の約束をしたのは、初めてのことだった。
ほんの少し感慨に耽りながら、ナイブズは昨日までに通ったことの無い小道へ足を踏み出した。