ネオ・ヴェネツィアのどこか。ナイブズは仮の住まいの自室で目を瞑り、ずっと1つのことを考え続けていた。昨日、一昨日、一昨昨日、先週、先々週、先月――それよりも前から、ずっと。
どうして自分は、今になって人間に対して後ろめたさを覚えたのか。それはつまり、形の変わった自分の過去の所業に対する悔いではないのか、と。
目を瞑って擬似的に生じた暗闇の中に、己が心の裡が見えて来るものではないことは疾うに承知している。それでも、ナイブズは目を伏せて考えずにはいられなかったのだ。しかし、考えても、考えても、結論は出ない。思考を重ねるほどそれはぐるぐると螺旋を描き、生じた渦に呑まれてもがくこともできずに溺れてしまう。
不意に、ドアの開く音が聞こえた。古びたドアノブと蝶番の鳴くような軋む音に目を開けると、調度、ナイブズの仮の住まいの家主が部屋に入って来たところだった。
「近頃、ずっと難しい顔をしているね」
「……ああ」
家主の言葉に、ぶっきらぼうに応じる。それを聞くと、家主は何かに納得したように小さく頷いた。
「そろそろ、1人で考えるのは限界ではないかな?」
「どういう意味だ?」
確かに、最近になってナイブズは心のどこかで自分だけでの思考に限界を感じていた。一瞬、内心を透かして見られたかのような錯覚を感じ、そのまま家主へと聞き返す。
「君のような聡明な男が、一月以上も思い悩んで出せない難問だ。これ以上1人で考え続けても、きっと答えは出せないだろう。それに、君は感情的でありながら、直感ではなく論理的に結論を出すタイプだ。ある日突然に答えが閃くことも無いだろう」
一分の隙も無い極めて合理的且つ的を射た言葉に、ナイブズに反論の余地は無かった。恐らくは今のナイブズのような状態を指して、下手の考え休むに似たりと言うのだろう。
ナイブズは頷くでもなく、ただ無言で家主を見返す。すると、家主は口元に笑みを浮かべて、ナイブズに話し続ける。
「如何でしょう? 気分転換に、久し振りに外に出てみるのは。もうじきアクア・アルタです。熱砂の惑星から参られた客人には、さぞや珍しい風景が見られることでしょう」
芝居がかったような仰々しい仕草と恭しい言葉遣いで、家主はそのようなことを提案して来た。
「アクア・アルタ? なんだ、それは」
「百聞は一見に如かず。実際に見てのお楽しみ、だよ」
未知の単語の意味を聞き返すが、定型句ではぐらかされる。見ることを強調した言い方と風景という言葉から察するに、何らかの現象か催しだろうか。
それはさておき、確かに家主の言うとおり、今のままでは到底答えを導き出せそうにない。ならば、外部からの刺激を求めるのも一興か。思い悩むのは一度中断して、ナイブズは数日後のアクア・アルタを待つことにした。
▽
街へと出たナイブズは、すぐに昼間にもかかわらず人の気配が以前よりもずっと少ないことに気付いた。しかし、全く人の気配が無いわけではない。いつもの賑わった穏やかさに対して、今は静かなのんびりとした空気とでも例えるべきだろうか。
どうしたことかと考えていると、耳に入る音の中に聞き慣れないものが混ざっていることに気付いた。耳を澄まし、その音に意識を向ける。ざぶざぶ、じゃぶじゃぶ、と人が液体を踏んで進む音が聞こえる。だが水溜まりのような少量の液体ではなく、もっと深い液体の中を歩いているようだ。しかも、それは1人や2人ではない。
ナイブズは取り敢えず、その音が聞こえてくる方に足を向けた。やがて、大きな通りに出た所でナイブズの疑問は氷解した。
「……これが、アクア・アルタか」
アクアとはこの星の名を冠したものではなく、単語として『水』を指したものだったのかと納得する。ナイブズの目の前には、水没した街と、そこをいつもと変わらぬ表情で歩いている街の人々の姿があった。微かに香る潮の匂いから、ナイブズはアクア・アルタの正体をおぼろげながら察した。
「どうやら、自然現象のようだな」
海には元々潮位の変動がある。恐らくはこのアクア・アルタもその延長線上の自然現象なのだろう。そうであれば、街の水没というナイブズから見れば異常事態でしかない状況でも、平素と何ら変わらない様子で過ごしている市民の姿にも納得できる。
行き交う人々を暫し観察してから、ナイブズも靴を脱いで水に浸かった道に足を踏み入れる。匂いだけでなく肌の感触からも、やはりこれは海水なのだと実感する。海に手や足を入れたことは何度かあったが、こうして海の中に入ったまま歩くのは初めてだ。水の底の石畳の道を踏み締め、自分自身も音を立てながら当て所なく道を歩く。
そういえば、なんとなく歩き出してしまったが、行く当ても目的も何も無い。どうしたものかと歩きながら考える。
「にゅっ!」
「ん?」
長靴広場の近くの小道で、聞き覚えのある生物の鳴き声が聞こえた。そちらを振り向くと、灯里が連れていた、あの汽車で乗り合わせた白い生物がいた。黒い小舟に乗っているが、ここまで地力で漕いで来たのだろうか。
「ぷいにゅっ! にゅっ!」
ナイブズが顔を向けると、白い生物は頻りに鳴き始めた。威嚇しているのではなく、何かを呼び掛けているようだった。しかしナイブズは興味が無いので無視しようかと思ったが、調度、ばしゃばしゃと大きな音を立てて走って来る足音が聞こえてきた。
「アリア社長、こんな所にいたんですか。やっと見つけましたよ~」
現れたのは灯里だった。白い生物の名を呼んで安堵の溜息を吐き、いそいそと手に持っていたロープを白い生物の乗っている小舟の舳先に結ぶ。それが終わるのを見届けてから、声をかける
「灯里か」
ナイブズが名前を呼ぶと、灯里は驚いたように体を震わせ、慌ててナイブズの方へと振り返った。どうやらナイブズがいること以前に、この場に白い生物以外のものがいることに気が付いていなかったようだ。
「あ、ナイブズさん。お久し振りです。今日はどうされたんですか? 私はアリア社長とお出掛けです」
灯里からの問いにナイブズは小さく頷くのみで、明白には答えない。強いて言えば気分転換だが、果たしてそれが出来ているのかも疑わしいのだ。そこで、ふと、灯里が連れている白い生物の事が気になり、そのことを訊ねてみることにした。
「……そういえば、それは何の生き物だ? 犬か?」
何とはなしに言うと、白い生物は酷くショックを受けていた。人語を解し人間的な感情表現をするとは珍妙な動物だ。どうやら少なくとも犬ではないようだが、一体何の生き物なのか、よりいっそう興味が増す。
「いやだなぁ~、アリア社長はれっきとした猫、火星猫ですよ。ほら、肉球も」
灯里はあっけらかんと笑いながら、そのように答えた。白い生物――アリアを両手で抱えて、右前脚を掲げてナイブズに肉球を見せる。犬にも肉球はあるとは敢えて言うまい。それよりも気になったのは、“火星”猫という名前だ。
「火星猫……火星に特有の猫、か?」
「はい。私も
何でも無いように――彼女にとっては本当に何でもないことなのだろう――言って、灯里はアリアを抱え直して子供をあやすように高く持ち上げる。涙目になっていたアリアも、それですぐに無邪気に笑い始めた。
此処が何処なのか、思わぬ所で確証が得られたものだ。今まで得た情報からもしやとは思っていたが、まさか、本当にここが太陽系第四惑星――火星だったとは。随分と遠くに来てしまったものだと思うのと同時、皮肉なものだと笑う。
人類を生きるに適さない惑星へと落とした自分が、人類の英知によって生きるに適した惑星となった、最も地球に近い惑星へと迷い込んだ。とんだ運命の皮肉があったものだと、つくづく思う。
「にゅ~、にゅ~」
すると、灯里にあやされてご満悦だったアリアが、急にナイブズに向かって鳴き始めた。先程と同じく、ナイブズに呼び掛けているようだ。
「それは、どうして俺に反応している?」
「さぁ? ナイブズさんが好きなんでしょうか」
思えばアリアと遭遇する度に纏わりつかれていたことを思い出し、そのことを飼い主らしき灯里に訊ねるが心当たりは無いようだ。ならば、何を理由にアリアはナイブズに呼び掛けているのか。ナイブズは一度情報を整理し、すぐに一つの推論を導き出した。
「……カサノヴァか?」
「へ?」
「にゅっ!」
ナイブズが口にした名前に灯里は素っ頓狂な声を漏らし、アリアはその通りとばかりに頷いた。
この星に来る前、ナイブズは汽車の中で2匹の猫と相乗りした。そして、その片割れの黒猫に導かれたナイブズはカサノヴァ――猫の国の王に出会った。ならば、こちらの白い方も同じような使命を帯びているのではないかと思ったのだが、その通りだったようだ。
「奴になら、会う気は無い」
「にゅっ!?」
「奴が俺に会いたいのなら、貴様の方から出向いて来いと伝えろ。俺は“境の店”にいる」
ナイブズは自らの意志を明白かつ簡潔に伝える。アリアは最初戸惑っていたようだが、やがて思案する様子を見せてから「ぷいにゅ」と頷き、ナイブズの意志を了承した。
すると、ナイブズとアリアのやり取りを呆然と傍観していた灯里が、はっとしたような様子でナイブズに歩み寄って来た。
「ナイブズさん、カサノヴァとお知り合いなんですか!?」
カサノヴァと知り合いということで、灯里は大層驚いているようだ。それにしても驚き過ぎではないかと思った所で、ナイブズはカーニヴァルの最後の夜を思い出した。あの時に見かけたカサノヴァの一行には、灯里の姿もあったのだ。
「一度、会ったことがある。……そういえば、カーニヴァルでお前もカサノヴァの一行に加わっていたな」
「はひっ、そうです。見てたんですか」
「遠目にな」
この場にいないカサノヴァの話題はこれぐらいにしておいて、ナイブズは灯里にアクア・アルタについて訊ねることにした。
「ところで、アクア・アルタだったか、これは自然現象なのか? それに、街が水没している割に誰も随分とのんびりしているが」
「はい。アクア・アルタはネオ・ヴェネツィアに特有の自然現象で、毎年この時期になると起きるんですよ。一種の風物詩みたいなものです」
灯里も調度何かを言おうとしていたようだが、その言葉を飲み込んでナイブズからの問いに答えた。ナイブズは敢えて問い直すこともせず灯里の説明に納得して頷き、改めて足元を――海に浸かった街の路面を見る。
毎年この時期に必ず起こるものだから、それに慣れている住人は驚くことも無く、既に身に付けたアクア・アルタの過ごし方を実践するだけでいい。いつもと変わらぬ穏やかさと、いつも以上の静けさに納得する。大筋で自分の予想通りだったのは、少々拍子抜けではあったが。
「……あの、ナイブズさん。もし宜しければ、これからご一緒しませんか?」
「なに?」
「実は、暁さんに呼び出されていまして、1人ではなんとなく不安なんです」
「誰だ、そのアカツキとは」
灯里からの返事に当然のように含まれていた知らない人間の名前について、すぐに聞き返す。灯里はうっかりしていたと謝ってから、アカツキについて説明した。
「暁さんは
灯里の明るい表情が、アカツキについて説明すると、僅かだが徐々に影が差していった。苦手な相手ということなのだろうが、そこはナイブズにとって重要なことではない。暫し思案し、特に断る理由や気持ちは思い浮かばない。
「……いいだろう」
「ありがとうございます!」
ナイブズの返事を聞いて灯里は嬉しそうに笑うと、アリアを小舟に下ろして、ナイブズの先に立って歩き出した。行き先は目と鼻の先、長靴広場だ。
▽
「おう、よく来たなもみ子……と、そっちの野郎はどこのどいつだ?」
広場に着くと早速、黒い長髪を後ろで1つに纏めて結わっている男が現れた。一瞥して、薔薇が山ほど入った籠を背負っている以外は灯里から聞いた特徴と一致していることを確認して、簡潔に自己紹介をする。
「ナイブズだ」
ナイブズが名乗ると、アカツキは籠を下ろしてアリアの乗っている小舟に乗せながら、じろじろと頭から爪先まで値踏みするように睨んで来た。
「まさか、貴様もアリシアさんのファンではあるまいな?」
「特定の水先案内人に入れ込む趣味も、水の3大妖精に対する特別な興味も全く無い」
アカツキの疑念をばっさりと切って捨てる。特に水の3大妖精の中でもアリシア・フローレンスとは面識は元より顔すらも知らないのだ、それで好くのは無理がある。
ナイブズのきっぱりとした言いに、アカツキは少々気圧されながらも頷く。
「む、そうか? それはそれで稀有なやつ。それでもみ子よ、どうしてこいつを連れて来たんだ?」
「ここに来る途中でたまたま会って、そこで一緒に来ませんかとお誘いしたんです」
灯里からの返事を聞いて、すぐにアカツキは「そうか」と頷く。竹を割ったような性格なのか、それとも単に大雑把なだけなのか。
「まぁいい、旅は道連れ世は情け、袖すり合うも多生の縁だ。ナイブズ、あんたにもオレの用事に付き合って貰うぜ」
「何の用事だ」
勝手に1人で納得していることはこの際置いておいて、勝手に話を進められる前に肝心の部分を訊ねる。すると、アカツキは妙に誇らしげに頷いて答えた。
「薔薇だ。薔薇を買いに行くのだ!」
「1人で行け」
「そうですよねぇ。暁さんも浮島の人ですけど、流石に買い物ぐらいは1人で出来ますよね?」
あまりにも下らない用事に、ナイブズは即座に突き放し、灯里も邪険にあしらっているわけではないがナイブズに同調する。
この男は、子供のお使い程度の事すらも1人では出来ないというのだろうか。
「違う! とにかく付いて来い!」
顔を真っ赤にして否定して、アカツキは水に浸かった街をアリアが乗った小舟を曳きながらずんずんと突き進んでいく。何がどう違うのかさっぱり分からないが、灯里がアリアの名を呼んで慌てて付いて行ったので、ナイブズも取り敢えず付いて行くことにした。
道すがら、灯里がアカツキに薔薇を買う理由を訊ねるが、臍を曲げたのかアカツキは答えずに灯里の右頬の側の髪を引っ張った。
「もみあげがスキだらけだぞ、もみ子よ」
「髪ひっぱるのも、もみ子と呼ぶのも禁止ですっ」
2人のやり取りを、ナイブズとアリアは黙って見守っている。いや、アリアはアカツキの薔薇を一つ拝借して自分の耳元に差している。そして、なにか言って欲しそうなそわそわとした様子でナイブズを見ていたが、ナイブズは完全に無視して灯里とアカツキの2人だけを見ていた。
アカツキは灯里に対して鬱陶しそうな、灯里はアカツキに対して迷惑そうな態度を互いに取っているが、しかしそれが本心からのものとは思えず、また嘘や偽りや芝居のようにも思えない。本当に鬱陶しく、迷惑に思っているのならさっさとこの場で別れてしまえばいい。同行しなければならない必要性など何もないのだ。なのに、2人ともそんな素振りは少しも見せず、一緒に進んでいく。
この2人は分かり合えていない。それなのに、通じ合っているとでも言うのだろうか。ありえない。人間にはプラントの精神感応能力などの言語以外の意思疎通の手段は無い。人間は中途半端なコミュニケーション能力のせいで騙し、間違え、誤解し、疑い、争いの種を自ら撒き散らすことが多々あることは歴史が証明している。ならば、この2人はどうして……。
思考がぐるぐると回りだし、螺旋を描きだす。しかし体は、ガボガボ、ザブザブ、という音に引かれるように、ジャブジャブと歩を進める。
別の広場に着き、アカツキは薔薇が山ほど入った籠を幾つも水面に浮かべて青空市を開いている花屋へと行き、すぐには買わず店主と値切り交渉を始めた。ナイブズは特に興味や関心を抱くことも無く、店主の後ろの噴水の方をぼんやりと見ていた。
「こんなに買って、どうするんでしょうね?」
すると、灯里が急にそんなことを言い出した。アカツキはまた薔薇を籠ごと買おうとしている。既に籠一杯にあるにも拘わらずだ。確かに、理解し難い状況だ。その答えはナイブズにも分からないが、思い当たることはある。
「分からんが、今日は街の女が随分と薔薇を身に付けている。それと関係があるのだろう」
ここに来るまでの道中、胸に薔薇を飾った女を何人も見た。加えて、アカツキは初対面の際にナイブズに対して女性絡みの事で因縁を付けて来た。そこに因果関係が無いということはないだろう。
灯里が、ほへー、と感心したような声を漏らした直後、思わぬ所から声が掛けられた。
「おやおや、あんた達、理由も知らずに買い物に付き合ってたのかい?」
花屋の店主とよく似た背恰好の、褐色の肌の太り気味の女性だ。目を閉じているようにしか見えない細目まで同じだ。夫婦は似るということをどこかで聞いたことがあるが、ここまで似るものなのだろうか。
「流れでな。それで、お前はその理由が分かるのか?」
「分かるよ。今日が何の日か知ってるからね」
「どういう日なんですか?」
女性の言葉を聞いて、灯里が好奇心で瞳を輝かせながら聞き返した。水先案内人がそういうことを知らないのはどうなのかと思うが、敢えて言うまい。
「今日はボッコロの日。ボッコロは花の蕾って意味で、その名の通り、花にまつわる伝承に由来する日なのさ。もっと詳しく聞きたいかい?」
「はいっ」
灯里の返事に楽しげな表情で頷いて、女性は灯里を手招きして共に獅子の彫像に座ってボッコロの日について話し始めた。
「ボッコロの日はサン・マルコの祝日に行われる、この街の市民の行事でね。この日の男連中は老いも若きも愛する女性に一輪の紅い薔薇を贈るのが慣わしになっているんだよ」
「成る程。薔薇を飾っている女が目立っていたのは、そういうことか」
「どうして、そんな慣わしができたんですか?」
『ボッコロの日』の由来は中世にまで遡る。
地球はおろか、欧州の平定・統一さえも夢物語の戦乱の時代、とある高貴な娘と下級貴族の青年が恋に落ちた。しかし当時は身分差別の激しい時代、同じ貴族といえども娘と青年の間に隔たる身分の差は大きく、到底叶わぬ恋だった。
だが幸か不幸か、当時は戦乱の時代。武功を上げれば王族諸侯からの覚えもめでたく、立身出世も夢ではない。青年は娘に相応しい身分を得る為、そして彼女の父親に自分の愛の誠意を示そうと、自ら望んで戦争に参加した。
結果、青年は戦いで傷つき、呆気なく倒れてしまった。そこは偶然にも純白の薔薇の茂みだった。青年は最後の力を振り絞って一輪の薔薇を手折り、戦友に託した。あの人に届けてくれと。
貴族の娘は青年の戦友から、彼の血で紅く染まった薔薇の花を受け取り、愛する者の死を知った。
「悲しいお話だけど、ちょいとロマンチックでしょ? これがボッコロの日の由来だよ」
「何故、その死んでくたばった男の話が今のボッコロの日に繋がる?」
話を聞き終わったが、ナイブズにはさっぱり理解できなかった。ナイブズにとって人間の死、そして殺し合いは酷く身近なものだが、それに対して特別な感慨を懐いたことは1度としてない。同胞たるプラントが人間に酷使され、無残に黒く染められて死に追いやられた時には激しい怒りと悲しみを覚えたが、それをロマンチックなどと錯覚することは絶対にあり得ない。
そんなナイブズに人間の命の儚さ、悲恋に終わった純愛、残された娘の悲しみ――それらから人間が感じる感動と、その不謹慎とも取れる感情への背徳感から来る悲劇的なロマンティズムを理解するのは難しいのかもしれない。
「分からないのかい? 顔が良くても、ロマンの分からない男はモテないよ」
花屋の女性はそう言うが、ナイブズは自分にロマンとやらが理解できるとは思えなかった。ついでに、人間の女にモテたいとは寸毫も思わなかった。
「死に瀕しても尚、一途に女への愛を貫いた男の姿に感動して、世の男どもはそれにあやかろうと思ったんだろうさ。哀れなもんだがな」
何時の間にか灯里の側にいたアカツキがそのように言った。言葉や文章の意味は分かるが、そこに込められた感情までは理解できない。自分の感情すら理解できていない男が、他人の感情の機微を理解しようということが間違っているのだろう。ナイブズは自分自身で、そう結論付けた。
「値切り交渉はもう終わりかい?」
「おうよ、オレ様の大勝利だ」
アカツキがなにやら言っているが、もうどうでもいい。
アクア・アルタの街を歩くのは新鮮な刺激だったが、そこから得られるものは無かった。これ以上ここにいても無意味だと、ナイブズが立ち去ろうとした時、灯里がポツリと言葉を零した。
「なんだか、とっても摩訶不思議。何百年も前のずーっと昔のことなのに、その彼の想いだけは紅い薔薇となって、こうして今でも残っているんですね」
そんなものはただの幻想だ。例え発端が史実だったとしても、先程の話には元々は無かった脚色や虚構も織り交ぜられているはず。ならばそれはもはや、その男の想いだとは到底言えまい。
冷え切ったナイブズの内心を露とも知らず、灯里は自分自身の言葉を反芻し、自分で頷きながら、自分自身にも言って聞かせるように言葉を紡ぐ。
「想いは触れると移るから、それが長い時間をかけてゆっくり広がって、みんなの心の像に映って残っているんですね」
その言葉を聞いた瞬間、脳裏に紅い影が過った。150年、多くのものに触れ、多くのものと出会い、ナイブズとは全く違う観点で人間について語りかけて来た男の姿が。
最終決戦の折、プラント結晶体から零れ落ちた羽根。それに触れた人間達やプラント達、そしてナイブズがあの時に見たものは人の記憶、プラントの記憶、そして――多くの者の中に刻まれていた、赤い衣を纏った稀代の大馬鹿者の姿。
その瞬間、ナイブズは灯里やアカツキ、花屋の女性が言っていたことが、ほんの少しだが分かったような気がした。
直接は伝わらずとも、人から人へ、長い時を経ても尚色褪せず語り継がれていく物語。その時に自分が見る物語の人物達の姿は、語り継がれて来たものに当て嵌めた己の心が映し出された像。それと同じなのだ。己の心を移す鏡とは、それまでに出会った、今こうして共にいる人々。その中にこそ、人は己を見出せる。
思いがけず得られた答えへの足掛かりに、ナイブズは半ば呆然とした。まさか、こんな些細なことにも思い至れなかったとは。気持ちの整理はつかぬまま、しかし、この状況で言いたい言葉を紡ぎ出す。
「もみ子よ、恥ずかしいセリフ禁止っ!」
「とんだロマンチストだな」
「ええーっ!? ナイブズさんまでっ」
「ほっほっほっ」
アカツキとほぼ同時となった駄目出しに、灯里は抗議の声を上げ、花屋の女性は愉快そうに笑った。
その後、アカツキの準備は整ったということで、そこで別れることにした。最後は1人で最終的な結論を導き出そうと思ったのだ。
「ご苦労だったな、ナイブズ」
「俺にも思いの外収穫があった。気にするな」
「そうか? だが、タダで帰したんじゃオレの男が廃る。というわけだ、ほれ」
労いの言葉に軽く返すと、アカツキは籠から薔薇を1つ取ってナイブズに投げ渡して来た。それを受け取り、一瞥してからアカツキに視線を向ける。
「俺は女ではないぞ」
「違ぇよ! お前も世話になってる女の1人ぐらいはいるだろ? そういうやつに薔薇の1つでも贈ってやれっ!」
冗談で言ったのだが、通じなかったのかアカツキは激しい剣幕で薔薇を渡した理由を言って来た。別段、身近にそういう女性は誰もいないのだが、折角なので持って行くことにした。
「それじゃあ、私もこれで……」
「いいや、お前はまだだ、もみ子よ! お前にはこれから、アリシアさんに薔薇を渡す予行演習に付き合ってもらう!」
「えーっ」
賑やかなやり取りを背に、ナイブズはどこへともなく歩き出した。
▽
人気の無い小さな水路の側を歩き、薔薇を見つめながら、ナイブズは自問自答する。自分が感じた、後悔に似た感情へのケリを付ける為に。
「俺の心に映ったお前と……人間達。それが、俺にあの感情を……?」
俄かには信じ難いが、そうとしか思えない。ヴァッシュや同胞以外の存在――人間に影響されて、ナイブズはあの感情を懐いたのだ。
だが、何故だ。あの瞬間まで、俺は過去を悔いる気など無かった。それは今でも変わらないはずだ。なのに、何故、あの時はああ思ったのだ?
あの時と、今の違い。それは、ナイブズの目の前にも周りにも人間がいないということだ。あの時は人間と言葉を交わし、意識を向けていた。そして、すっかり忘れていたがその少し前に晃に共感めいたものを感じていたことを思い出した。
“アテナを心配する晃の姿に、出来の悪い弟の心配をする
……そうだ。あの時にナイブズは、なんということだろう、人間の中に自分自身を見ていたではないか!
あれほど憎悪し、憤怒し、見下し、毛嫌い、理解しようとしていなかった人間の裡に、ミリオンズ・ナイブズを見ていたのだ! 悩むまでも無く、既に他者の中に己を見ていたではないか!
「まさか、この俺が……人間に共感しただけでなく、人間に自分を見ていたとは、な! くく……ははははははっ!!」
初歩的で単純な思い込みによる見落としと勘違い。しかしそれが示すことの意味を理解し、ナイブズは声を上げて笑った。
人間に共感したことで、人間が過去のナイブズの所業を知ればどう思うかが分かっていたから、あの時、咄嗟に言葉を濁したのだ。
こんな風に思う日が来たとあっては、笑うしかない。しかも、同時にそれは『人間に嫌われたくない』と思っていたということでさえもあるのだ。ヴァッシュが人を好いていられた理由が未だ分からずとも、自分でも気付かぬ内にそれが通じていたから、彼女らに嫌われたくないと思ったのだ。
その意味するところは理屈では分かっているが、今はまだはっきりとした言葉にはできない。だが、いつかきっと、何か些細な切っ掛けで自然と零れ落ちて来るのだろう。
過去の自分が今の自分を見たら、滑稽では済まずに無様と見下し不快感を露わにするだろう。だが、ナイブズは今の自分を滑稽とは思うが、無様とも不快とも思わない。未来の自分が見たら、さて、何と言われるのか想像も出来ない。それがまた滑稽で、ナイブズは更に笑い続けた。
ずっと昔――人と共に生きることを夢見ていた頃の自分は、笑って喜んでいる。
一頻り笑い続けた後、ナイブズは暫し薔薇を見つめて思案し、水路に流すことにした。
「誰かが拾うか……それとも、誰にも拾われずに朽ち果てるか。どちらかな」
薔薇が視界から消えるのを見届けて、ナイブズは踵を返して一歩を踏み出した。