「……おや、珍しいな」
木製の机の上に乗せた情報端末のキーボードを叩く手を止めて、この店の店主は急に何事かを呟いた。普段は情報端末に記録を入力している時には、それを終えるまで決して言葉を発さない程それに没頭しているのだが、どうやら気を割くほどの何かが起きたようだ。
「どうした?」
確認の為、ナイブズは店の商品棚の整理の手を止めて店主に声を掛ける。場合によっては、それがナイブズの仕事ということになりえるからだ。
店主はナイブズへと振り返り、いつもと変わらぬ調子で話し出した。
「水先案内人の少女達が……3人、迷い込んで来てしまったようだ。場所は無限回廊の水路。君ならすぐだろう」
「これも仕事の内か?」
「そうだよ。それに、私が行くよりも君が行ったほうがずっといいだろう」
妙に含みのある、しかし穏やかな口調で店主は告げる。遠回しな物言いを好む男だということを理解しているナイブズは、特に追及はせず仕事を請け負う。
「いいだろう」
「頼んだよ。くれぐれも、君まで迷ってしまわないように」
目的地は無限回廊の水路。ナイブズも一度散歩がてら、その迷宮に踏み込んだことがあるが、別段迷うことも無く通り抜けられた。ただ、人間が抜け出すには決して容易な場所ではないということは漠然と感じていた。
出発する前に、一つ、気になったことを問い質す。
「何が珍しい? この“境”とかいう空間に人間が迷い込むことは、然程珍しいことではないと言ったのはお前だぞ」
店主が“境”と呼ぶこの一帯は、人と人ならぬ者達がそれぞれ暮らす世界の境界。普通は道も閉ざされ入れないのだが、たまに道が開いて人が迷い込んで帰れなくなってしまうことがあるらしい。ナイブズ自身がその事例に直面したのは今回が初めてだが、以前店主は過去にも何度もそういうことがあり、決して珍しいことではないのだと言っていた。ならば、今回は何が珍しいというのだろうか。
「少し前に、2人の
「そうか」
店主からの返事に納得し、踵を返して出入り口へと向かい、古びた木の扉を開けて店の外に出る。目的地までは、最短距離を行けば3分も掛からないか。急ぎの用事ではないが手早く済ませることに決めて、ナイブズは人気のない街を跳んだ。
▽
どこまでも続く一本道の水路。どこかに通じているわけでもなく、普段は入り口も閉ざされ誰も気に止めない無人の空間。そこに今だけは、3人の少女の姿があった。
3人は1艘の舟に乗り、2人は不安な表情できょろきょろと忙しなく辺りを見回し、残る1人も強張った表情で非常にゆっくりとした速度で舟を漕いでいた。
「ねぇ、やっぱり……ここ、変だよ」
オレンジぷらねっとの制服を着た水先案内人の少女、杏は不安と恐怖で声を震わせていた。普段は快活で一本芯の通った意志の強さを持っているのだが、今は気弱な一面ばかりが出てしまっていた。
「確かに……同じような景色が続いてるんじゃなくて、同じ場所をぐるぐると回っている……。そうとしか思えないわ」
杏の言葉に、同じくオレンジぷらねっとのアトラは努めて平静を装って頷いた。本当は杏と同様にアトラも今の状況に不安と恐怖を感じていたが、これ以上杏を怖がらせてはいけないと、気丈に振る舞っていた。
「こ、怖いこと言うなよ。杏、アトラ」
舟を漕いでいる姫屋の水先案内人のあゆみは苦笑を浮かべながらも、できるだけ明るく軽い調子で答えた。だが、どれだけ明るく振る舞っても、行く先には一筋の光明も見出せそうになかった。
「け、けど……あゆみちゃんは、さっきからずっと、
「うん。途中で曲がったりしてないし、円を描くような動きでもないはずだよ」
「なのに、同じ場所をぐるぐると回ってしまっている……」
3人は顔を突き合わせて、押し黙る。そこから先を言ってしまったら、きっともっと駄目になってしまうと思ったからだ。
アクア・アルタも収まり舟の運航許可が出て早速、いつもの合同練習を始めた。だが、今日に限って、何故か普段は門扉によって閉ざされていた水路の入り口が開いているのが目に入ってしまい、ちょっとした好奇心からその水路を通ってみようと思った。事の始まりは、たったそれだけのことだったのだ。
「……あ、もしかして」
「どうしたの? あゆみ」
アトラの声に頷き、あゆみはたった今思い出した、この場所についての話を2人に聞かせることにした。
「多分……ここ、藍華お嬢が前に迷い込んだっていう、無限回廊の水路だ」
「無限回廊の水路って、あの七不思議の?」
ネオ・ヴェネツィアの七不思議。何時の頃から囁かれているのかは定かではなく、そもそも七つあるのかさえも判然としない、一種の都市伝説。その中の一つに覚えがあった杏がそのまま聞き返すと、あゆみも頷き返した。
「そう。藍華お嬢も他の会社の子と合同練習中に、アリア・カンパニーの社長を追い掛けて迷い込んじゃったんだって」
姫屋の跡取り娘が他の会社の水先案内人と合同練習をしているという事実は本来ならばそれだけで驚くようなことなのだが、今はそれ以上に気掛かりなことがある為、杏もアトラも聞き流した。
「けど、藍華さんは無事に帰れたんでしょ? だったら……」
「その帰り道はさ、追い掛けてたアリア・カンパニーの社長に教えてもらったんだって。気が付いたら、何時の間にか新しい水路が脇にあって、そこから帰れたって言ってたんだけど……」
アトラは藍華の体験談に現状打破の術があるのではないかと期待したが、その答えはあまりにも漠然としていた。
「……じゃあ、あたし達は?」
杏の言葉に、3人は一度顔を見合わせてから周囲をぐるりと見回した。
残念ながらアリア社長の姿は見えないし、地球猫や火星猫の姿も気配もない。3人の少女達を除いて何者の気配も無く、水の流れる音と舟が水を切って進む音が微かに聞こえるだけ。空気はしんと静まり返り、もうじき夏だというのに寒気すら覚えてしまう。
「どう見ても一本道、だよなぁ」
改めて、具に前を見ても後ろを見ても、水路はずっと一本道。どこかに脇道があるようには見えない。あゆみは途方に暮れて、つい溜息を吐いてしまった。
「なんだ、迷い込んだのはお前だったのか」
「ひゃっ!?」
急に、頭上から人の声が降って来た。3人はビックリして素っ頓狂な声を出してしまったが、すぐに声が聞こえた上を見る。いよいよ幻聴までも聞こえ始めたのかという不安も僅かにあったが、実際に先程までは無かった人影を見つけて、誰ともなく安堵の息を吐く。
あゆみは声の主の正体にすぐ気付いた。
「あ、ナイブズさん!」
「久し振りだな」
ナイブズは廃墟となった構造物の上に立っていた。物音も立てずに、何時の間にそんな所にいたのだろうかと思わないでもないが、それ以上に自分達以外の人間に出会えたのが嬉しかった。
世界から忘れ去られてこのまま消え去ってしまうのではないか、という不安は、一瞬で掻き消えて行った。
▽
「あゆみちゃんの、知り合いの人?」
「そう。ほら、あの話を教えてくれた人だよ」
「ああ、あのナイブズさん」
つい先程までは怯えた様子だったというのに、すっかり緊張のほぐれた様子で少女達はナイブズについて何やら話している。あゆみと他の2人は制服が違う、つまり別の会社の水先案内人のようだが、こうしてこの場に一緒にいることと、以前ナイブズがあゆみに話したことを共有していることから、どうやら親しい間柄のようだ。
「こんな所に迷い込むとは、器用な奴らだ」
3人が話しているのを黙って見ながら、何とは無しに呟く。すると、3人は急に話をやめてナイブズに視線を集めた。
「器用、ですか?」
眼鏡を掛けた少女が、そのように問い掛けて来る。成る程、確かにこの空間について何も知らなければ器用と言われてもどういう事かは理解できまい。
「普通ならここには入れない。ただの水路を通って行き止まりに出るだけらしい」
「ここのこと、知ってるんですか?」
ナイブズが必要最低限の返事をすると、矢継ぎ早にあゆみが問いを重ねて来る。先程までの様子といい、女三人姦しいとは言ったものだ。
「寝泊まりしている店の店主に聞いた程度だ。それで、帰るのか?」
これ以上話が必要以上に長引くのは面倒だと思い、また短く答えて本題を切りだす。
「は、はい! 勿論ですっ」
「なら、もう少し進め。今なら帰り道が見えるはずだ」
言って、舟の先が向いている方を示す。薄暗く、その奥に何があるのかは判然としない。だが、先程までとは違う景色になっているのは確かだ。
「今なら、見える?」
心底不思議そうな表情で黒髪の少女が鸚鵡返しに呟く。それを聞いて、ナイブズも少しだけ自分の知識を口に出す。
「俺も理屈は分からんが、此処はそういう場所だ。此処では人間の常識の半分近くが通用しない」
それが、お節介な猫人形に案内されたあの店で寝泊まりし、そして仕事をこなすようになって得た実感だ。ネオ・ヴェネツィアの街もナイブズにとっては未知の世界であることは間違いない。だが、此処は“未知”の指す意味がまるで違うのだ。
とにかく、これで外への案内の仕事は終了だ。態々外まで付き添う必要もあるまいとナイブズが立ち去ろうとした時、あゆみから声を掛けられた。
「あ、そうだ。ナイブズさん、一緒に乗って行きません?」
「なに?」
「道すがら、あの話の続き、聞かせて下さいよ」
何を突然言い出すのかと思ったが、すぐに思い出した。そういえば、そんな約束をしていた。次に会った時に話の続きをすると。
「あんな大馬鹿の話を気に入るとは、物好きだな」
「そうですか? あたしも好きですよ、あのお話」
黒髪の少女はそう言って、眼鏡の少女と共に首肯し、さりげなく舟の中を移動して大人の男1人分のスペースを作った。そのスペースを一瞥して、ナイブズも頷いた。
「……いいだろう。続きというよりは、話さなかった間の部分になるが」
ナイブズからの返事を聞いて、少女達は、わぁ、と嬉しそうに笑った。その表情を、ナイブズは彼女達に気取られないようにしつつ、繁々と見つめた。
人間に明るい笑顔で迎え入れられるなど初めてのことのはずだ。しかし、ナイブズはどこか今の状況にデジャヴュのようなものを感じていた。この星に来るよりもずっと前に、こんな笑顔を見たことがあるような気がした。
「あ、その前に一つ」
「なんだ?」
考え事をしていたことはおくびにも出さず、ナイブズはすぐに眼鏡の少女からの呼び掛けに応じた。
「ここのことに詳しいっていう、その店主さんって、何者なんですか?」
この問いに、ナイブズは暫し考え込む。正直なところ、ナイブズもあの店主については知らないことの方が多いのだ。具体的にこういう男だ、と言い表せる決定的なものをナイブズはまるで知らなかった。知ろうとも思わないが。
ふと、店主が以前言っていたあることを思い出し、それを質問への返答として伝える。
「ネオ・ヴェネツィアの路地裏を探してみるといい。たまにどこかで、その男が占い師の真似事をしている」
「へぇ……。あ、自己紹介がまだでしたね。あたしはオレンジぷらねっとの杏です」
「同じくオレンジぷらねっと所属のアトラです。宜しくお願いします」
「ナイブズだ」
2人の少女達の自己紹介に頷き、自分も簡単に名乗ってから、ナイブズは約束通り、話の続きを語り始めた。夢見る聖者の物語を。
話の間に、舟は無限回廊の水路に忽然と現れた脇道へ入り、程なくして外のネオ・ヴェネツィアへと帰還した。
3人が安堵の溜息を吐いている横で、ナイブズは上を、一面の青空を見つめていた。
レガート・ブルーサマーズ。ふと、この名前を思い出した。
今にして思えば、あの男こそが、ミリオンズ・ナイブズに対して心を開き、笑顔を見せた最初の人間だったのかもしれない。
もうじき、あの男が自らに名付けた――あの男と初めて出会った景色が、このアクアにも現れる。
瑞々しき水の惑星に、命が溢れ躍動する夏が訪れる。