蒼天を焦がすほどに紅い、叛逆の旗を掲げよ   作:NoRAheart

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皆が忘れたころに投稿していくスタイル


臥薪嘗胆

光陰矢の如しとは、よく言ったもの。

私が神を名乗るおじいさんによって、波才という名の少女に憑依させられて。

更には人さらいに捕らえられた日より、既に季節は三度も巡ってしまいました。

月日が経つのは、早いもの。

私は呼吸をまた違う異国の空の下で、今も繰り返します。

 

三年。

囚われの年月。

それは私が理不尽にこの世に落とされて、ただ子供の様に泣き叫ぶだけだった混乱状態から立ち直って、そして波才としてこの世界を生きてゆく決心をするには十分な時間で。

自身の置かれている状況を理解することもまた同様。

些細な話にも耳を立て、または自ら聞き、有力な情報を得ようとする努力。

これを一日たりとも忘れたことはありません。

情報社会で生きてきた以上、情報の大切さは、人並みには私も理解しているのです。

 

さて現在、私がいるこの地は漢の冀州は中山国。

そのいずこかの山中の、捨てられた古い砦であるようです。

漢と言われて、真っ先に思い浮かぶのが中国史における漢ですが、現在の皇帝は河間王一族の劉志(桓帝)

つまり後漢、三国志の始まりである黄巾の乱より少し前の時期になるのでしょう。

 

三国志。

中国史の中でもダントツと言っても過言ではない人気を誇る時代は、自身もまた触れた事があります。

触れた事がある。

それは無知よりはましな程度と言うべきでしょうか。

せいぜい三国志の知識は、一般常識よりも少し踏み込んだくらいでしかありません。

歴史の流れは、前半はともかく、後半の方はほとんどおぼろげで。

人物も有名どころ、華やかに活躍した武将や軍師ぐらいしか記憶しておらず、文官になるとさっぱり。

桓帝を知っていたのだってたまたまで、『梁冀跋扈』の四字熟語を知っていただけでしかありません。

そんな曖昧な知識は、武器として使うにはあまりにお粗末です。

霧中の道先をつつく杖の代わりくらいには使えるかもしれませんが、ひび割れているソレを武器として振り回すにはあまりに恐ろしく、寧ろソレは、我が身を滅ぼしかねない危険物になりかねません。

 

更に、ここが私の知る歴史上の後漢末期と断定するには、この世界は元の世界と幾つかの齟齬があるのです。

例えば、後漢以前の時代を代表する偉人の悉く、劉邦、韓非子、孔子などの性別の逆転であったり。

例えば、字を書くには漢文を扱うも、話し言葉は明らかな日本語であったり。

例えば、姓名字の他に、諱にあたる真名の存在であったりと。

三国志についてはさておき、中国史となるとお手上げになってしまう私ですが、いくら何でもこれらは、元の世界のモノとは決定的に異なると断言できる事。

つまり、この世界は私の知る後漢末期ではなく似て異なる世界である可能性が高いのです。

 

世界が異なる。

ならば世界の歴史の流れもまた、元の世界と差異ある時点で必ず定かであるとは言えず。

つまり、波才である私が本来担うべきであろう役割もまた定かでないとも言えます。

『運命づけられ、繰り返される世界』

神を騙ったおじいさんはこの世界のことをそう言いましたが、ですが私がそれを受け入れるわけにはいかないのです。

『閉じた淫猥な世界』なんて言葉はもってのほか。

黄巾巻いて、反乱起こして、凌辱されて、殺される。

そんな結末は絶対、ぜったいにお断りなのです。

 

この世界の事とおじいさんの話はさておき、私の目下の問題は己を攫った賊です。

攫った賊の正体は、黒山賊と呼ばれる常山・中山を中心として勢力を張る盗賊集団で、規模は全体でおおよそ十万弱と、とても大きな組織です。

黒山賊と呼ばれる彼らは、しかしながらこの名は一つの組織を指して呼ばれているモノではなく、幾つかの集団をまとめてその様に呼ぶようで。

黒山賊の実態もまた、官軍などの外力に抗う為や互いの衝突を避けるための糾合、集団同士の合併吸収―――現代風に言えばM&Aのようなものだろうか―――によって、勢力を拡大していった組織のようです。

そんな組織の成り立ちだからでしょう。

元が大規模な賊の頭であった者はやがて頭目と呼ばれる様になり、黒山賊の方針はこの頭目複数人の合議の下で決定される合議制の形を取っていたようで、賊にしては意外と民主的な組織だったようです。

そう、過去形。

どうやら頭目らによる合議制がとられたのは結成当初だけで、今となっては形骸化。

現在は頭目の上に大頭目が置かれ、その大頭目が組織の方針を決定。

頭目らが合議でその方針を支持する形となっていると聴きます。

 

一見すると、大頭目の独裁体制。

ですが組織は、合議制が布かれていた時よりも上手くいっているように見えます。

黒山賊に集まった賊は世間一般の賊と同様―――賊への堕ち方はどうあれ―――気の赴くままに物取り殺人その他諸々を好き勝手にやっていた方々です。

そんな彼らの個々の主張はやはり自分勝手なモノが多く、合議の場は纏まりの「ま」の字も存在しなかったのは当然の結果。

賊内部での権力と、利の争い。

糾合吸収の結果、雑多し、巨大化した彼らの醜い欲望主張は一時期、組織の自壊の危機を孕むまでになったようですが、そんな時期に絶大なカリスマと権謀で見事まとめ上げた人物が現在の大頭目、張牛角だそうです。

『多き船頭よりも一人の船頭』とはよく言いますが、黒山賊の現在のまとまりは、合議制の様な複雑な支配体制よりも、彼らが賊だから。

もっと言うならば、本能的だからこそ。

絶対的な、一人の力ある指導者の方が分かりやすく、纏まりやすかったのかもしれません。

 

 

張牛角―――新雪に喩えて称える程に見事な長髪、対照的に婀娜な体躯をより強調するかの様な、煽情的な漆黒のドレスを身に纏う女。

 

 

些か浮世離れした容姿に、時代錯誤な衣服。

いろいろとツッコミどころの多い彼女の独裁体制である黒山賊の中、私の置かれている立場は奴隷。

その一言で済めば良かったのですが、私はどうやらそんな単純な立場ではなさそうです。

 

波才の父であった左髭丈八こと波純は、賊にいた当時、ただの構成員ではなく黒山賊頭目の一人だったようで、そんな彼が黒山賊を抜け出したのはおおよそ十年以上前。

その時期は、ちょうど張牛角の台頭が始まった頃と重なります。

当時、波純と張牛角が争っていたのであれば、賊から抜け出すのは時期的に何もおかしなところはありませんが、話によると波純は張牛角派の人間で、それも黒山賊結成前からの張牛角の懐刀として知られていたようです。

武に優れ、性格は実直。

かつては役人を勤めていた事もあるそうですので頭が悪かったわけではなかったようですが、腹芸ができる人ではなく。

波純を知る誰もが、彼と張牛角と争ったとは思えないと口を揃えます。

張牛角は波純によく信を置き、波純は張牛角をよく支えていた、と。

勿論未だ誰も、波純が賊を抜け出した理由は分かっていないにも関わらずそれでも、彼を知る誰もが断言するのです。

 

はて?おかしなこと。

波純と張牛角の間で表向き、不和があった訳ではなかった。

賊の内部でも、特に風当たりが強かった訳ではなかった。

黒山賊の幹部であり、張牛角にも信頼されていた。

それでも、賊を抜け出すほどの、訳?

それはきっと、ただ事ではありません。

 

知りたいと思うのは、山々。

しかし十年たった今でさえ賊の内部で誰も真実を知る者がいない以上、今の私が真実を知る事は困難でしょう。

ですが逃走中だったと思われるあの時、波純は私の為だと言いながら殺そうとし。

そして張牛角は部下に波純の殺害を命じながら、私は生かし連れてくるように命じた。

裏切者の家族であるなら、連座して殺せばいい。

生かしておいても、恨みを買うだけでしかない。

それがこの世の常識で、それでも生かしておくのは波純が賊を抜け出した理由に、波純だけでなく張牛角と私の間にも何かしらの関係があるからでしょうか?

その可能性が高いと私は考えていますが、あくまで可能性。

生かされているのは、戯れでしかないのかもしれません。

しかしその不明な関係があるのだとすれば、張牛角に対する数少ない、私の手札となります。

 

張牛角の奴隷、波才である私。

彼女のモノである限り、生殺与奪の権利は彼女のもの。

このまま囚われ続けていては、彼女の奴隷のままで一生を終える可能性もあるでしょう。

無論、私はこんな所で終わるつもりはありません。

絶対に、ここから脱出する。

それは牢に囚われたままの事では到底叶う事ではない事もまた、言うまでもありません。

ですから張牛角に、そして黒山賊に、適度に自身が有用な人間であることを示して殺されないように努める。

信用だけでなく、信頼を勝ち取って自由に動ける立場を得る。

賊の手助けをするのは気が引けますが、自由を勝ち取るためには、この際手段は選んでいられません。

幸いにも張牛角にとって私は、不明な関係の事もありますが、はじめて張牛角に会った時に彼女を罵った事もあって、多くの奴隷の一人ではなく波才として名前を憶えられています。

 

張牛角を、罵った。

 

どのように罵ったか。

それは記憶がおぼろげで思い出せないのですが、しかしそんな事をしてよく生きているものだと、今でも不思議に思えてなりません。

しかしその当時は神を騙ったおじいさんに理不尽にこの世界に落とされ、父の波純を意図的ではないとしても殺し、更には人さらいに攫われて。

躰はもとより、心はボロボロ。

そして涙もポロポロ、そんあ状態で張牛角の前に引き立てられたものですから、窮鼠猫を噛む。

それも仕方なかったと言えば、それまででしょう。

ともかく張牛角を罵ったことは確かに失態であれど、しかし無関心であるよりも、マイナスでも印象に残って、そして今も生きているのですから結果オーライと言えました。

寧ろ印象がマイナスからプラスに振れて、会うたびに猫可愛がりされる現状が不思議でなりません。

 

………ともかく。

私の当面の目標は、この黒山賊の中で地位を得る事。

その為の努力と勤労を、私は惜しむつもりはありません。

ですが、ですが………

 

 

「うぇ………」

 

 

思わず、情けない声が出てしまいました。

竹簡を放り投げ、筆を放棄、身も机に投げ出します。

自分、ちょっと疲れておりまして、はい。

 

 

「………」

 

 

向かい側で同じく筆を進めていた男と、目が合いました。

向けられた彼の視線は、痛い子を見る眼半分、同情半分と言ったところでしょう。

 

『HELP』

『だが断る』

 

視線だけで求めた助けは無慈悲にも断られ、彼はまた視線をもとに戻してしまいます。

しかし、それも仕方のない事。

室内は、日中だというのに、暗けれど。

彼の目の下には、その暗い室内でもくっきりと分かるほどの濃い、隈。

 

ここは食料管理処。

常山一帯の構成員らの食料管理をするそこで、私は現在、張牛角に命じられて勤めています。

 

この時代、どの組織においても、食料の管理が重要なことは言うまでもありません。

人が生きるために、食は、絶対条件で。

しかし考えもなしに食料を食い漁っていては、備蓄はすぐになくなってしまう。

黒山賊は常山一帯だけでも五万を超える構成員を抱える大組織です。

消費量は、一日だけでも相当な量が必要となってきます。

ですが管理処が食料の供給を渋れば、全体からは不満が出て。

不満と言えば大事ではなさそうですが、相手は賊。

下手に量を減らし過ぎて彼らの不満を買いすぎれば、担当者が次の日に遺体で見つかることも珍しくはない。

そんな素敵な職場なのです。

 

それでも賊の仕事をさせられたり、肉体労働をさせられるよりはましなのでしょう。

それに食料を管理は、極端に言えば数字との勝負ですし、二千年もの未来の高等教育課程を修めている私にとって、加減乗積を扱う事は大した苦ではありません。

しかし量が量で、責任問題もまた無くなっている訳でもないので、辛いものは辛いのです。

 

 

「………うぇ」

 

 

責任問題と言えば、つい先日、私の目の前で同僚の方が張牛角に頭を握りつぶされた事を思い出してしまいました。

思い出したことで込み上げる吐き気と、きりきりと胃が痛むのを感じながら、私は投げ捨てた木簡を拾い上げ、その木簡を脇に置いて新たな木簡を手繰り寄せようと手を伸ばします。

 

 

「………?」

 

 

が、伸ばした手は、空を彷徨うばかり。

見れば、仕事分だった木簡の山は、既になく。

反対側には、その分だけの木簡の山。

 

 

「やっ――――」

「相変わらずですね波才様、仕事が早くて羨ましい」

 

 

与えられた仕事が終わったぞいと喜ぼうとした矢先、私は不意に声をかけられました。

 

 

「これは馬元義さん」

 

 

私に声をかけたのは、栗毛色の緩やかなウェーブの掛かった長髪と優し気なたれ目が特徴的なの女性、馬元義殿でした。

妙に聞き覚えのある名である事がとても気になる方ですが、会話の乏しいこの場では、私と会話が唯一成立する貴重な方です。

そんな彼女もまた奴隷。

奴隷で、私と同様学を持つ故に此処にいます。

未だ若く、しかし上品な立ち振る舞いに物言い、そして数字に強いところを見るに元は裕福な商人の娘あたりだったのでしょう。

 

 

「どうでしょう波才様?これから私のお部屋で、これから一緒にお話でもしませんか?」

 

 

学を持つ者の価値を、張牛角は正しく理解しています。

だから奴隷である私達ですが、叛逆行為や逃亡行為に及ばない限り、ある程度の自由行動は許されています。

しかしそれは、一定の基準を、仕事をこなした者だけで。

その基準は、あまりに厳しいです。

 

 

「ごめんなさい馬元義さん。今日こそは、部屋に戻らないと」

「あら」

 

 

清純派モデルでも顔負けだと断言できる程に素敵な彼女に微笑まれ、誘われることは女の身になった今の私でも、ドキリとさせられまし、光栄です。

ですが、断らせていただきました。

彼女の眼元にも、濃い隈。

私はそれを見逃しません。

 

 

「あらら、振られちゃいました」

 

 

こんな精神的にも余裕が持てない環境に置かれても、折角の誘いを断られたにも関わらず、馬元義さんはとても穏やかです。

それは元来の性格と言う事もあるのでしょうが、彼女自身の器が大きいともとれます。

 

 

「………これが終われば暫くはお役目もないでしょうから、明日また会いましょう?お話は、その時にでも」

「本当に?」

「ええ、本当ですよ。約束します」

 

 

彼女の誘いを断った理由は、疲労を思って、それだけではありませんが。

疲労していても、私を誘ってくれた。

それほどに、私との会話を楽しみにしてくれているかと思うと、嬉しく思います。

ならば、機会はまた明日につくるのも私としては吝かではありません。

 

 

「まあそれは、とても楽しみです。それでしたら今日のところは諦めて、私もお部屋に戻って、おとなしくお休みすることにします」

「ええ、お休みなさい。馬元義さん」

「お休みなさいませ、波才様」

 

 

去る馬元義さんに手を振って、見送って。

 

 

「さて」

 

 

私も、立ち上がります。

終わらせた竹簡を抱えて、報告に向かうのです。

張牛角のところへ、億劫だけれども。

さっさと終わらせて、私もまた、あの子のところへはやく帰るとしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お、終わったぁ………」

 

 

私をやたら猫可愛がりしようとしてくる張牛角からやっと解放されて、疲労をさらに抱えて、己の部屋へと私は帰る。

そんな私が手に持つのは、お盆。

その上に載るのは、二人分の食事。

 

奴隷でも、私は張牛角のモノだからか。

ありがたいことに、食材の使用と調理の自由もまた、条件付きでありますが、許されています。

けれどもこんな環境ではロクな調理設備は無く、それ以前にロクな食材も在りはせず。

頑張って工夫を凝らしたけれど、やはり目を落とし見える食事は、はっきり言って粗末です。

 

歩みを進め、砦のとあるフロアに上がる。

そこは黒山賊が捕まえてきた中でも、価値ある者らが捕らえられているフロアです。

豪族の子息に、馬元義さんのような豪商の娘も、数知れず。

中にはかの『劉』の姓を持つ者さえいるという噂も聴きます。

 

さてさて、はたして。

張牛角は有力な方々の子息を攫って、一体何を考えているのでしょう?

 

………なんて、疑問はさておき。

フロア、その一角の部屋の扉の前で、私は立ち止まります。

扉はおんぼろ、まあこの砦の何処もそうなのですが。

これが私と、あの子の部屋です。

部屋の前にはいつもの様に、看守の男が見張っていました。

大男で、無口。

正直、私は彼の事を怖いと思っています。

しかし私は怯えを抑えて、彼にいつもの様に微笑んで、会釈します。

これはいつか、万が一の時の為の、印象工作。

 

 

「入りますよ?」

 

 

ノックを数度、声を掛け。

しかし返事は無し。

眠っているのかと思い、返事を待つことなく入った、数日ぶりに帰ってきた私たちの部屋は、仕事部屋よりもより薄暗い。

それもその筈。

本来光を取り入れ、外を望むべき枠は逃走防止の為か板が打ち付けられて、板の隙間から僅かに陽が漏れているそれだけが、光源。

 

 

「辟?」

 

 

薄暗い部屋で。

私はポツリと椅子に座る、彼女を呼びます。

 

 

「辟」

 

 

もう一度。

今度は彼女の顔を、前髪から覗き込んで、その名を呼びます。

しかし反応はありません。

当然でした。

目を閉じて、規則正しい呼吸を繰り返す彼女はどうやら、眠っているようです。

 

 

「………」

 

 

………蒼髪の下の、穏やかな寝顔。

此処に攫われてきた当初とはとても違った寝顔は、微笑ましく、そしてほっとします。

 

(へき)

 

本名かどうかは分かりませんが私にそう名乗ってくれた彼女は、私が賊と出会ってしまったあの時、賊が担いで攫っていた少女です。

そして理不尽にもこの世界に落とされて、攫われて、それでも正気に戻れたのはこの少女がいてくれた事も大きいと言えるでしょう。

少女が泣いているのです。

今は私も少女の身ではありますが、大人であった私がいつまでも情けない姿を見せるわけにはいきません。

更に言えば、相手が明らかな美少女ならば、猶更です。

 

 

「ん………はさい、さん?」

「はい。ただいまです、辟」

 

 

私の顔を、ぼんやりと。

眠そうな、髪の色と同じく蒼い眼で私を認める辟は、なんとも可愛らしい。

 

 

「波才さん」

「はい」

「帰って来るのが遅いです」

 

 

不満を表現する為に、頬を膨らませる辟。

私は怒られているのだろう。

私は反省するべきなのだろう。

でも。

 

 

「どうして笑うのですか。私は怒っているんですよ」

 

 

ぽかぽかと叩かれる、けれど。

頬を膨らませた彼女が微笑ましくて、反省なんてとてもできたものではない。

 

謝罪は勿論する。

ここしばらく、彼女を一人にしていたのだ。

それはとても申し訳なく思っているのは当然の事。

その気持ちは素直に伝える。

 

すると辟は、私を叩く手を止めてしまう。

 

 

「どうしましたか?」

 

 

辟は私の問いに、答えることなく。

しかし手は、空を泳いで、私へ。

私の袖へ。

 

 

「波才さん」

「はい」

「……寂しかったです」

「ごめんなさい」

 

 

ぎゅっと握って、袖を放さない。

握りしめる強さ。

それは彼女が、きっとそれだけの寂しい思いをしてきた事の証左。

 

 

「ですから、遊んでください」

「勿論です。時を忘れるくらいの楽しい事を、二人でしましょう」

 

「一緒に食事もしましょう」

「勿論です。拙い私のものでも美味しそうに食べくれるのですから、私も作り甲斐があります」

 

「夜にはお話を聴かせてください」

「勿論です。この前の物語の続きを、私は語りましょう」

 

「お勉強を教えてくれますか」

「勿論です。辟は真面目で優秀ですから、私も教えたいことは沢山あります」

 

「波才さん」

「なんですか?」

 

 

先の見えないこの暗闇の中でも。

私は花が咲く事を知る。

 

 

「―――――おかえりなさい」

 

 

こんなに綺麗な、蒼い花。

 

………私は彼女がいなければ、私はこの世界で絶望したままだったかもしれない。

今は違う。

私はそれをはっきりと言える、断言できるのです。

 

だから、だからこそ。

私はこんな所で終わりたくない、ここから脱出したい。

それは、ただ自分が生きたい為じゃなくて。

それは、もはや神を騙ったおじいさんに負けない為でもない。

それは、馬元義さんの様な囚われた人達を助ける為に何ができるかを考える為。

そして何よりも、辟を、また陽のある世界に連れ出したいが為。

 

………贅沢だ。

でも、それが叶うのならば。

私は、私にできるあらゆる手段を講じる事も、辞さないと思う。

そう、たとえ。

 

 

 

 

 

―――――たとえそれが、再びこの手を朱色に染める事になるとしても

 




訂正:波才の捕らわれている地を常山国から中山国に変更
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