幻想郷見聞録噺   作:ボイス

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10 半人半霊の庭師と外来人

 冥界―― 

 閻魔により転生または成仏を命じられた幽霊が駐留する場所である。

 広大な敷地を有する冥界には、そこかしこに成仏を待つ幽霊が溢れかえっている。

 幽霊の中には、虫の霊なども存在するのだが鳴くことはない。また、冥界に茂る生きた植物に混じって植物の霊も植えられている。

 静寂、無音を主とするこの冥界の管理を任されているというのが、ひとりの女性――『華胥の亡霊』と呼ばれる西行寺幽々子であった。

 

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 今日も一日疲れたものだと愚痴を零し、夕涼みのために彰人は縁側に腰を下ろしていた。

 日中の暑さも和いだ夕暮れ時、すごしやすい風を身に受けながら、彼は手にしていた缶ビールに口をつけていた。

 夕餉の前のちょっと一杯。

 汗をかき、体力を使い、疲れがたまった身体に冷えたビールを飲んで一息をつく。

 つまみに用意したものは、特に手を加えたわけでもない。冷えたトマトと雑に切っただけのきゅうりに味噌を添えた程度。

 電気冷蔵庫など存在しないこの家にとって、缶ビールやトマトが程よく冷えている点に関してはちょっとしたワケがある。

 木枠で組み立てた三段式の箱の中、冷却に用いているのは『氷』である。いわば簡易木製冷蔵庫といったところであろう。

 氷を使って食材の保存を思いついたのも、何気ない氷精チルノの悪戯からだった。彼女の創り出す氷が照りつける陽光に当てられていながらも融けることがなかったのに気づいたからだった。

 チルノが生み出す氷は普通のものとは大きく違う。妖精の力か、密度が関係しているのか、いずれにせよ外気に触れ、常温に晒されていながらも変化がない点に彼は着目していた。

 結果、程よい大きさの氷を彼女に創ってもらい、氷の冷気を用いて食材品を保管するようになった経緯となる。加えて、水に浸して冷やしていた方法と比べてしまえば、その差は歴然であるのは言うまでもない。

 チルノ自身は己の生み出す氷の特性をよく理解はしていなかったのだが、彰人に褒められたことにその表情は満更でもない笑みを浮かべていた。

「スゴイ? あたいはスゴイのか、カト?」

「ああ、すごいさ。お前の創る氷が融けないってのはスゴイことだ。お前にしかできないことかもしれない」

「ふふん、あたいは最強だからなっ!」

 氷の駄賃代わりとしてあげた三本の炭酸飲料の一本に口をつけ、チルノはぐびぐびと飲んでいた。

 一緒にいた大妖精も同様に彰人からペットボトルの炭酸飲料を貰い口をつけてはいたのだが、彼女は「スゴイ」と言われて氷精がまた何かしら調子に乗るのではないかとに内心気が気でならなかった。悪戯に拍車をかけられても、一緒に居る自分が余計なとばっちりを受けても困ってしまうだけでしかない。

 ごくごくと飲む妖精ふたりに、最初はおっかなびっくりだったのになと彰人は胸中で声を漏らしていた。

「カト、これはなんだ? 真っ黒い液体だぞ?」

「チルノちゃん、『カト』じゃなくて、『加藤さん』だよ?」

 何度注意してもチルノが彰人に対する『呼び名』は変わらなかった。

 彰人もまた呼ばれ方に然したる抵抗があるわけでもない。さん付けであろうが呼び捨てであろうが、苗字であろうが名前であろうが、特に気にした素振りは見せていない。

 呼びたいように呼ばれているだけであり、自身にとってこだわりなど持ち合わせてはいなかった。故に、チルノの『呼び名』を咎める必要もなければ、咎める気が起こるワケでもないのだから。

 見るのもはじめとなる飲み物に当初は不思議そうに首を傾げていたチルノではあったが、冷やして飲んでみろと手渡され、言われるままに冷気を用いて口をつけ……口の中に広がる甘味と炭酸ガスの刺激に彼女は眼を丸くしていた。

「シュワシュワするぞ、カト!」

 透明な容器に入った黒い液体を泥水か何かかと思いこんでいた大妖精ではあったのだが、氷精の反応と、飲んでも大丈夫だよと彰人に告げられ、恐る恐るではあるが口にしていた。

「……甘いです」

 今まで口にしたことのない独特の風味、刺激のある飲み物に、大妖精も驚いたように声を漏らしていたのだった。

 冷蔵の過程はさておき、缶ビールを片手に、彰人が縁側で涼んでいると――

「……お暇?」

「…………」

 何の前触れもなく、唐突にかけられた声音に――だが、彰人は振り返ることもなく淡々と応えていた。

「……つい今の今まで暇でしたけれど、すみませんが、()()()()()()()()

「あら残念。では、その急用というのは見合わせということになるわね」

「……俺の方がキャンセル扱いですか?」

 観念したように、ようやくして彰人は振り返っていた。

 案の定、そこに現れていたのは、見知った相手。

 リボンの巻かれた帽子に金の長い髪。八卦の萃と太極図を描いた中華風の服に身を包んだのは、『妖怪の賢者』たる異名を持つ八雲紫。

 幻想郷最古参の妖怪のひとりであり、最強の妖怪のひとりであり、賢者と称えられる妖怪のひとりである。

 中でも、この幻想郷を創ったひとりと言われる女性。

 超人的頭脳を持ち、加えて長寿、知識や経験も豊富――

 だが、彼女を知る者たちが皆こぞって『八雲紫』に対して抱き口にする言葉は「胡散臭い相手」である。

(胡散臭い、という点だけで言うならば、守矢のケロ神さま(洩矢諏訪子)とどっこいどっこいだろうか)

 裏が全く読めない性格のために信用されず、危険で禍々しい能力のおかげで神出鬼没にも程がある輩。浮かべる笑顔は不吉で気味が悪いと称される。

「…………」

 それらを差し置き、彰人は紫に対し、相変わらず綺麗な人だと俗なことを考えていたのだが。

 彼女が持つ『境界を操る程度の能力』により、何もない空間の境界を弄り裂け目から上半身だけを現している相手。

 どこか愉快そうな表情を湛え、口元を扇子で覆う紫に対し、彰人は一気に警戒心を増していた。

 経験上、この状態、雰囲気、表情の彼女は、必ずや善からぬ事を考えているからだ。

「……暇といえば暇となりますかね。なにか……?」

「そんなに警戒しなくてもよろしいですわよ。ただ、少々お付き合いいただけないかしらと思ってのものですので」

「今からですか? まぁ、それは別に構いませんが……もしかしたら買出しですか? そうでしたなら、時間も遅いですけれど……」

 八雲紫の使いとして、彰人は食料品の調達に外の世界の買出しを任されている。

 頻繁に自由に出向くことができるわけでもなく、彰人の事情で出かけられるわけでもない。あくまでも、都合は紫の一存で決まる。

 いわば数ヶ月に一度、外の世界に出かけられる時間を有効に使い、彰人自身にとっての嗜好品の類も調達する。

 幻想郷では扱っていない品々。主に酒や煙草、保存の効く食品――缶詰や即席麺類、菓子など。菓子に関しては、主に彰人自身が口にするわけではない。

 寺子屋で教師紛いの仕事をしている際に、気まぐれで買ってきた菓子やジュースを子どもたちのおやつとして提供したのだが、これが以外にも好評だった。

 チルノや大妖精、古明地こいしのように、はじめて口にした菓子やジュースは衝撃的であった。

 チョコレートやクッキー、ビスケットなど、主に洋菓子といった系統は、同じ甘みものに分類される団子や饅頭といった和菓子とはまた違う風味がある。

 そのため、以降、彼が外に出る度にそれら菓子類の補充もかねているのだったが、此処最近はその減りが極端に早くなってしまっていた。

 予想以上の減りが早い原因は、妖精妖怪連中――主にチルノだが――による仕業であり、勝手に食べていたりするせいである。寺子屋の子どもたちの分は手の届かない場所に隠しているため、被害としては、大目に見てまだ何とか酷くはないが、それでも減りは増している。

 チョコレートなどがなくなれば、団子などを与えればよいのかもしれないが、せっかくならば普段食べることができない外の菓子を食べさせてあげたくなるのが彰人なりの心情である。

 授業が終わり、眼を輝かせておやつの時間を楽しみにする子どもたちの期待を裏切れないということもあるのだが。

 子どもたちのために用意してくれることに感謝する上白沢慧音が代金は払うぞと言ってはくれるが、あくまでも彼女が払える通貨は幻想郷内で使用できる貨幣である。外の世界では使えない。

 最初は頑なに遠慮していた彰人ではあるが、それでも気持ちとして貰ってくれと告げられては受け取らざるをえなかった。

 子どもたちが読み書きするための文房具系の類も最近は必要だなと考えていた。鉛筆や消しゴム、ノートといった筆記用具類は在るに越したことはない。

 こちらの時間軸と外の時間軸が同一かどうかは微妙なところであるが、今から行けというならば従うしかない。

 だが、紫は、いいえと静かに首を振っていた。

「買出しではなく、あなたをご招待したいところがあるのよ」

「……俺を?」

 彼女の台詞を聴き、はてそんな場所があるのだろうかと彰人は小首を傾げていたのだが、せっかくの誘いであれば無下に断る理由もない。

 動きやすい恰好に着替えなさいなと告げる紫に対して、ふたつ返事で応える彰人は――

「ところで、八雲さん」

 不意にかけられた声に、紫は振り返っていた。

 じっと見つめるように視線を向けていた彼は、とあることを確かめるべく訊ねていた。

「橙は、元気ですか?」

「ええ、変わらないわ。むしろ、有り余るほどに元気よ」

 にこりと純粋な微笑を浮かべる紫に対し、それはよかった、と彰人は声を漏らしていた。

 

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 そうして紫の隙間にいざなわれ、連れて来られた場所というのが『冥界』である。

 風が吹くでもなく、ひんやりとした空気が肌に触れる。

 薄暗く、それでいていたるところに淡い優しい光が浮かんでいる空間。

「…………」

 彰人の眼の前を、一頭のアゲハチョウがひらひらと舞い過ぎ去っていく。薄い紫色の光を纏う黒蝶を見るともなしに視線で追いながら――そのまま彼の双眸は石段へと停まっていた。

 自然と石段を見上げるべく顔を動かし彼。

 長く、延々と続く石造りの階段。

 石段の両端に淡い紫色の明かり囲う石灯篭。その数は視界に映る頭上の遥か奥の階段まで途切れることなく続いていた。

 随分と長い石段だなと胸中で独りごちる彰人に対し――

「じゃあ、先に行っているわね」

「…………」

 手を振り、紫は空間の境界を操り割れ目の中に姿を消していた。

 何事もなかったかのように元に戻っている空間を眺めながら――

「……当たり前のように置いていかれたが、できれば、俺も連れて行ってくれてもよかったんじゃないのか?」

 今からこの長い石段を登って行くのか……?

 光の漏れる石灯篭に照らされ、ジグザグに続く勾配。

 遥か頭上へ続く石段を見つめながら、げんなりとした表情を彼は浮かべていたのだった。

「…………」

 時間にしてはどれほどだろうか。

 気力を絞り、息を切らし、意地だけで石段を登り終えた彰人は疲れていた。

「…………」

「あら、思ったよりも早かったわね」

 呑気な紫の声音に、彰人は顔を上げる力も湧きはしなかった。

「……わざわざ階下で降ろしていかなくてもいいんじゃないでしょうか?」

 呼吸を整えながら、ぼそりとそう告げるのだが紫は聴いてはいなかった。

 と――

 荒い呼吸のまま、彰人は紫以外に人影があることに気がついていた。

 視線を向けた先には、ふたり。

 ひとりは三角頭巾を模した天冠をかぶり、着物姿。扇を手に持ち、立ち居振る舞いからどこか優雅さを感じる女性。

 もうひとりはセミロングの銀色の長髪に黒いリボン。白いシャツに青緑色のベストとスカート姿。

 背と腰にそれぞれ長さの違う二振りの刀を携えた恰好。更には少女の横に浮かぶ、白く、それでいてうっすらと透明度のある物体。クラゲのようにふわりふわりと漂う異形。

 両者とも面識が無くはじめてみる相手である。

「お初にお目にかかります。わたしは、この『白玉楼』の庭師を務めている魂魄妖夢と申します」

 以後お見知りおきを、と丁寧にぺこりと一礼する刀を持つ少女に、彰人も身体を起こし立ち上がり頭を下げていた。

 ついで、この屋敷『白玉楼』の主であり西行寺幽々子と名乗る女性も扇で口元を覆い訊ねていた。

「紫からいろいろと聴いてるわよ。それに、お強いんですってね」

「…………」

 強いという言葉にピクリと反応するのは妖夢。そんな少女に気づきもせず、彰人は紫に対してなにを余計なことを言っているんだと非難がましい眼を向けていた。

「何を聴かれているのかは存じませんが、それは誤りですよ」

「あらそうなの? 話を聴いている限りでは、徒手空拳の使い手と耳にするし……そうね。なら、せっかくだから、実際に手合わせしてもらえばいいじゃない。妖夢にとってもいい経験になるかもしれないし。ねぇ、妖夢?」

「ええ、噂はかねがね。相当の実力の持ち主と拝聴しております。是非、わたしとお手合わせを願いたいのですが」

「…………」

 あらぬ噂の独り歩きであろう。唐突過ぎる申し出に頭が痛い。

 一体誰が、徒手空拳の使い手だというのか……?

 身に覚えのない過大評価のされすぎでもある。

 だが、妖夢にしてみれば是非もない。彰人という存在は、彼女が口にしたように話には聴いており知ってはいた程度である。主に、八雲紫から……であるが。

 百聞は一見に如かず、実際に眼にしてみればわかるもの。しかし、彰人にとってみれば寝耳に水であろう。

「…………」

 少女が口にした内容を理解したわけではない。いや、理解することを脳が拒否したというべきか。

 無言のまま、彰人の視線は妖夢と名乗る少女から八雲紫へと移行していた。

 妖怪の賢者は口元を扇子で隠し、ひらひらと手を振るだけ。

「…………」

 おかしな話の流れ、雰囲気、此処につれてきた理由はこれか――

 そう判断すると、彰人は視線を少女へと戻していた。

「……何を聴いているのかはわからないが、勘違いをしているよ。俺は大した力も持ってない。悪いが、手合わせなんては御免こうむるよ」

「……それは、わたしが歯牙にかける相手でもないということだからでしょうか?」

「待ってくれ。どうしてそんな解釈になるんだ?」

 少々ムスッとした表情になる相手に彰人は頭が痛い。

「……謙遜ですか?」

「そうじゃない。君のような子を相手にできるわけがないだろう?」

 紅美鈴の時と同様であるが、女性――特に見た目からして少女たる妖夢を殴ることに完全に気が引ける。

 だが、今この時、告げた『言葉』は失言でしかない。

 些か配慮に欠けた彰人は、口にする『言葉』をもっと慎重に選ぶべきであった。結果、妖夢にとっては、侮辱されたとしか捉えていなかった。

 元来、持ち前の生真面目な性格が災いする。

「女だから相手にする価値もないというんですか?」

「いや、だから聴いてくれないか? 俺は、女の子の君を――」

「子どもだからなんだというんですかっ! 馬鹿にしないでもらえますか!」

 見た目とは裏腹に随分と気性が荒い子だなと感じながらも、落ち着いてくれと手で制す。

「頼むから待ってくれ。俺は、決して君を馬鹿にしているわけではなくてだな――」

 懸命に言葉を紡ぎ出そうとする彰人ではあるが、それを横から割って入る者がいた。幽々子である。

「あら、相手を見かけだけで判断するようじゃ、妖夢もまだまだね」

「……幽々子さま、それはどういう意味ですか?」

 仕える主ではあるが、妖夢は些か表情をムッとさせていた。

 油断しているととられたことに対してである。

 事実、相手――彰人からはこれといったと特別な『力』、いわゆる霊力、妖力、神力の類は一切感じはしなかった。

「彼、紅魔館の門番さんと互角に渡り合ったらしいし、なによりも、あの『四季のフラワーマスター』にちょっかいを出して、何事もなく生き延びてるようよ?」

「…………」

 幽々子の説明に、妖夢の顔つきが変わる。

 妖夢が聴いている彰人の事に関しては『猛者』『強者』『手練れ』といった言葉のみ。誰を相手にしたかまでは把握していなかった。

 しかしながら、この発言に関して気が気でないのは、話題に上げられた彰人本人だった。

 誇張しすぎである。

 紅美鈴を相手に引き分けたわけでもなければ、風見幽香を相手に生き延びたとは言い方においてもデタラメもいいところであろう。生き延びたという言い方をされてしまうと、然も善戦したような捉え方をされてしまう。実際は敢えて見逃されたという表現が相応しいのだから。

 経緯も省かれれば、主語も抜かされていた。

「…………」

 妖夢から見た彰人の第一印象としては、とても強そうには見えなかった。彼女の見解は概ね間違っていない。

 だが――

 見た目だけで判断してはいけないという幽々子の言葉に妖夢は素直に従っていた。

(相応の実力を持たれている御方なのでしょうか……)

 能ある鷹は爪を隠す、という言葉が妖夢の脳裏に浮かぶ。

 なにより、風見幽香を相手にしておきながら無事であるという点に関して、彼女は彰人に対する評価を改めていた。

 ある意味、悪い方向に話が進んでいる。

「……ならば、なおさらです。是非、お手合わせをお願いいたします。子ども扱いなされたことを、身を以って後悔させてあげましょう」

「そういう意味ではなくてだな」

「一度口にした言葉を取り消すのですか? 言い訳など聴きたくありません」

「……聴けよ」

 話を聴かず、少女は怒り心頭のまま。そこへ幽々子はパンと手を打ち合わせ声をかけていた。

「話はまとまったようね。それと、普通にやってもつまらないでしょう? 負けたほうが勝ったほうの言うことに従う。これなら張り合いも出るでしょう?」

「わたしは一向に構いません」

 男になど遅れを取らぬといわんばかりの双眸で睨みつける妖夢。

 彰人にとっても、俄然やる気が――起こるハズもない。

 とんとん拍子に勝手に話を進められ、彰人の口からは一切の言葉も紡がれはしなかった。

 フンと鼻を鳴らして妖夢は彰人に背を向けて歩き出していた。

 どうしたものかと困惑する彼の横では、扇を口元に当てた幽々子が気楽そうに呟いていた。

「あらら、妖夢が怒ったわ」

「……俺のせいではないハズなのに……」

「わたしはきっかけを与えただけで、結果となったのはアナタの発言よ」

「……理不尽だ」

 ぼそりと呟かれた声音は、誰の耳にも届きはしなかった。

 

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 動きやすい服装にしろと口にした紫の意味も今ならばわかる。この状況を見越してのことなのだろう。そう胸中で愚痴を漏らしながら、上はシャツ姿となる彰人へ――

 放り投げられるのはバンテージ。次いでボクシンググローブが同様に彰人めがけて放物線を描き届けられていた。

「あなたにとっては必要なものでしょう?」

「…………」

 何故、こんなものを彼女が持っているのかと不思議そうに相手を見るが、紫は愉快そうに口元を扇子で覆ったままだった。

 今この場で考えてもどうにもならないと割りきった彼は意識を切り替えていた。

(どうしてこうなる……)

 広大な日本屋敷然とした『白玉楼』の中庭――彰人の視界には、見事な枯山水がその姿をあらわにしていた。

 白砂や小石などにより山水の風景を表現する庭園様式。

 橋が架かかるその下は、石の表面の紋様で水の流れを表現されている。

 抽象的な表現の庭――

 だが、彼はそれら『日本庭園』をじっくりと見入ることはできなかった。本来であれば、枯山水を眺めていたかったのだが、それよりも彰人の意識が否応なしに、強制的に向けられる先は、木刀を片手に携え、こちらに憤怒の形相で睨みつけている少女、魂魄妖夢へと。

 何故こんな勝負形式になっているのか――?

 今一度、胸中で自問自答しながらも、自身が納得できる『答え』が返ってくるわけもない。

 紫曰く、剣術指南役兼庭師であり、幽々子の警護役も務めている半人半霊。

 人間と幽霊の間にできた子供ではなく、半人半霊体質の種族であるとの説明を受けていた。

 半分生きていて半分死んでおり、半分実在していて半分幻という半人前――

 彰人にとってはよくはわからない話でしかないが、要は純粋な人間ではないのだろうと端的に割り切っていた。

「庭師ってことは、彼女の本職は植木職人かなにかですか?」

 鋏という仕事道具の刃物から、趣味が興じて刀を手に取るようになったのかとひとり馬鹿な思考に耽る。

 植木鋏を得物に振り回されても、それは別の意味で恐いのだが。

「…………」

 一方の妖夢といえば、彰人の話を全く聴かず、馬鹿にされたというその一念のみ。

 彼女が愛用する本来の二振りの刀、楼観剣と白楼剣の代わりに手にしているのは何の変哲もないただの木刀である。

 彰人が得意とする拳のみを使う戦闘スタイルを聴いた妖夢は、ならばこちらもと考慮して真剣を使用するのをやめていた。

 とはいえ、手にする得物が真剣であろうが木刀であろうが、殺傷力に違いはあれど、武器としての脅威には変わりはない。

(ゲームや漫画じゃないんだぞ……武器持った相手に、素手でどうしろってんだ……)

 彰人は胸中で愚痴りはするが、もはやどうにもならなかった。相対する少女の眼は怒りのまま。

 さすがに不憫に思ったのか、紫は彰人に耳打ちする。

「あなたの眼と身体なら大丈夫よ。気にせず、存分に相手なさい」

「…………」

 何を言っているのかはわからなかったが、覚悟を決めろということだけは理解できた。

 バンテージを両方の拳にしっかりと巻き固めると、紫から渡されたグローブを手に取っていた。

 幻想郷に来てまでボクシンググローブを着けることになるとは思っていなかっただけに、装着するグローブの感触も久しい。

「…………」

 感覚を確かめるように、拳を握り数度軽く空を振る。

 装着感に問題はなく、確認も済んだ彼は……グローブの紐をどうやって結ぼうかと悩んでいたが、察したかのように紫の指先が伸びていた。

「それと、言っておくけれど……やる以上は本気になりなさい。手加減しようなどとは思わないことよ。それに、わざと負けるような振る舞いはお勧めしないわよ?」

「…………」

 グローブの紐をきつく結んでゆく紫の指摘に彰人は思わず無言となる。頃合を見計らい早々に参ったと口にしようと考えていただけに。

 考えていたことが表情にも出ていたのだろう。紫は愉快そうに口元に笑みを浮かべる。

「あの子、手を抜かれるということには過敏に反応するから。それこそわざと負けるようなら、子ども扱いしてるとみなされるわよ」

「……面倒くさいことですね」

「まあ、頑張りなさいな」

 脱げないように注意しながら両のグローブの紐を結び終えると、彼女は隙間に引っ込んでいた。

「…………」

 追いかけた視線の先は、縁側に腰を下ろす幽々子の隣に何事もなく現れる紫。妖夢の半身とも呼べる半霊もまた主人の傍で漂っている。

 ふうと息を吐き出すと、諦めたように彰人は向き直っていた。

 どうにも落ち着かず。安定感の無い足場。

 一歩を踏み込み、玉砂利が軋む音を耳に捉えながら――彰人は意識を集中させていた。

 

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 血気盛ん――否、頭に血が上っているのだろう。

 一振りの木刀を構えた妖夢の息は荒い。

 じゃり……と足元の石砂を鳴らし、彰人は構えをとる。

「…………」

 無言――

 ボクシングスタイルで長物を持つ輩の相手をしたことなど一度もない。少女が握る木刀とはいえ、純粋なリーチは彰人を上回る。

 ならびに、観察力に長けるわけでもないが、眼の前の少女は剣術においては相当の実力を持った相手だというのがなんとなくであるがそう感じていた。

 相対することで身に受けるプレッシャー。それこそ、ごっこ遊び程度で剣を握っているわけではないのが彰人でも理解できている。

 精神的威圧――

 構える相手の挙動を読む。こちらから動くべきか、動くのを待つべきか。

 だが、いずれにせよ自身が不利な立場であることには変わりはない。間合いを詰めるにしてもいまひとつ。相手を警戒してしまっているため判断が鈍る。

 と――

「……来ないのならば、こちらから参ります」

 鋭い眼差し。木刀を腰溜めに構える妖夢の身体が不意に霞む。

 瞬間――

 ぞくりと悪寒を感じ、本能的に顎を引いたその眼前を唐突に木刀の切っ先が過ぎ去っていた。

 視認できたのは、彰人から向かって左側面――一呼吸に間合いを詰め、斜め下に木刀の切っ先を向けて詰める妖夢。

「っ――」

 姿を現した少女に対し、咄嗟に身体が後退する。

 対応するのが一瞬遅れたため、動くのは彼女の方が先だった。刹那の斬り返し、木刀の二撃目を突き込んでくるが――

 しかし、素直に喰らう彰人ではない。恥も外聞も無く、無様で滑稽であろうとも、彰人は転がるように剣戟をかわしやり過ごしていた。

「――このっ、冗談じゃないぞ」

 咄嗟に起き上がり、身構える彰人ではあったが妖夢はその場から動いてはいなかった。

 こちらが完全に立ち上がり構えをとるのを確認したところで――玉砂利を踏み、彼女は駆けていた。

 振り抜かれる一閃を、彰人はフットワークを使いかわし避ける。

 反転し――だが、斬り返しを警戒し、踏み込むことはできなかった。

 事実、妖夢は瞬時に手首を使い相手が踏み込んでいれば問答無用に次撃を叩き込む用意があった。

「…………」

 誘いに乗ってこないことを悟ると、彼女は再び中段に木刀を構えなおしていた。

 無駄に間合いを詰めずとも、一定の距離を保つだけ。

 常に相手との間合いを離し、射程範囲内に迂闊に近寄れば迎撃するだけでいいのだから。

 だが、彰人は真逆である。

 如何にして相手の間合いへ踏み込むか。なんとしても懐に潜り込み、打撃を叩き込まねばならない。

 とはいえ、無造作に前へ出れば瞬く間に木刀で制されてしまう。素手となる己とは違い、長柄を持つ妖夢の攻撃範囲内は倍であり、踏み込むのは難しすぎる。

 左腕を前面に、右腕を顎付近に構えた彰人は、少しずつ、にじり寄るように間合いを詰め――その脚が止まる。

「…………」

 僅かに、木刀に手をかけた妖夢の身体が沈む。それ以上踏み込めば『斬る』という雰囲気を否応なしに身に浴びる。

 此処が相手の間合い限界ギリギリのラインかと悟る彰人も表情を一変させていた。

「はっ――」

 息吹とともに地を蹴りつけ妖夢。

 迎え撃つために彰人は腰を落とし身構える。

 横殴りに迫る凶器を身を捻りかわし、眉間――急所を狙うように繰り出された一撃を拳で弾き彰人。

「…………」

 本能的に腕をあげ、首筋を庇うようにグローブで防御の体勢をとる。顎を引き、鼻先を掠める剣閃。

 グローブに伝わる衝撃。ついで、空を切る軌跡が変わる。

 両の拳で首元を護りながら彰人は迫る打撃を防ぎ、かわし、避け続ける。

 耳障りな音を奏で、打ちつけてくる木刀。

 点から線、線から点――

 首、腹、脚へと揺さぶりをかけるように狙う一撃を必死に避け続け彼。

 しかし――

 彰人とて、避け続けるだけが目的ではない。木刀を振るう戻りの隙を目測で捉え、真下から相手の顎を狙うように拳を放つ。

 かわすことや身を守ることが『防御』ではない。手を出すこともまた『防御』となりえる。

 だが、妖夢とてそれを捕捉している。刹那に彼女は掌で持ち替えていた木刀が迫る拳を難なく弾いていた。

「――っ」

 だんと地を蹴り、妖夢の身体が宙に舞う。

 空中で身を捻り、疾風を伴い大きく振りかぶった木刀が打ち下ろされる。

 一閃――

 グローブで防ぎ木刀を受け留めると、空中の相手めがけて逆の拳を振り上げる、

 だが、妖夢は慌てることもなく咄嗟に身体をぐるんと回転させると迫る拳を右の膝頭で受け止めていた。

 そのまま空中で体勢を立て直した彼女はグローブを蹴りつけ地に降り立っていた。

 まるで演舞のような一瞬の出来事に彰人は呆気に取られるだけ。

「……よくもまぁそこまで動けるモンだ……軽業師のようだ」

「…………」

 相手の声に応じることもなく、間髪入れずに薙ぎ払われる少女の木刀。

 顔をしかめながらも彰人は脇をしめガードを固めたグローブで受け止める。加えて、衝撃を殺すために咄嗟に後方に跳び退いていた。

 しっかりと踏みしめるように着地した彰人は構えを崩さぬまま。

 と――

 連続して踏み込み打ち込んでくる妖夢に対し――さすがに全てをかわしきる事などできず――彰人は後退するのみ。

 両者の距離は一メートルほど。その間合いの差は一向に縮まることはない。

「…………」

 彼は、どうしても一歩先へ踏み込むことができなかった。

 いや――

 単純計算で言うならば、純粋な腕力であれば彰人は妖夢に勝っている。

 一撃だけを受けることを前提に踏み込みさえすれば、相手へ拳を見舞い動きを封じることができる。

「…………」

 息を吐きながらも、下がりかけたガードを持ち直す。

 呼吸を整えながら距離を保ち――だが、やはり踏み込めぬ。 

 例え木刀とは言えど、受ける箇所によっては一撃必殺と成り果てる。

 己に牽制などはない。そんなものが相手に効くかどうかもわかりはしない。

 技量は少女が圧倒し、前進することは許されない。

 相手の間合いで戦うには分が悪すぎる。

 なんとしても少女の間合いを殺し、一撃必殺の覚悟を以って打撃を叩き込むしかない。

 しかし――

 成功確率は極めて低い。ならびに、実戦がイメージ通りに事が運ぶなど彰人も考えてはいなかった。

 理屈では在るが、相手が持つのは木刀である。繰り出される攻撃は一本の線であり、かわすためにはその範囲にいなければいいだけとなる。

「ちっ――」

 舌打ちを漏らし、彰人は後方に身を躍らせて間合いを離すしかできなかった。これ以上あの場に留まっていても、己に有利な状況にはなり得ないと判断しての行動だった。

 相手との間合いの距離、仕掛けるべきタイミングがいまいちつかめない。

 そんな彰人を尻目に、妖夢は果敢に攻め込むだけ。

「…………」

 瞬く間に踏み込み、二撃を叩き込んでくるが、彰人はグローブで打ち弾いていた。

 が――

 木刀の身を打ち叩く――のだが、その衝撃を利用した妖夢はその場で瞬時に反転していた。

 眼前に迫るのは水平に振り抜かれた刀身。

「やっべ――」

 反応が遅れ、かわしきれない。

 当たるとわかっていながらもどうすることもできず――彼は、左側頭部を一撃されていた。

 が――

 衝撃に蹈鞴を踏むがそれだけである。

 結構な勢いのまま木刀に殴打されたというのに、頭を克ち割られてもいなければ、出血があるわけでもない。

 意識を失うこともない。

「…………」

 何よりも、彰人自身が一番驚いたことは、痛みがないことだった。

 呆けたように動きが停まった相手とは対照に、妖夢はその隙を見逃してはいなかった。

 その場で身を捻り、脳天を狙う一閃。

「――っ」

 意識を戻した彰人は咄嗟に腕を交差させ、振り下ろされた木刀の衝撃に備えるが――

 腕に伝わる衝撃は確かに受けるが、やはり痛覚は感じなかった。

 最初は驚きもしたが、二撃目を直に受けても痛みがない。

「?」

 今度は呆けている間もなく、跳び退くように後ろに下がり――妖夢の間合いから十分離れたところで再度己の腕に視線を落す。

 結構な勢いで振り落とされたにもかかわらず、痛みはない。腕が痺れるわけでもなく、さりとて折れてもいなかった。

 腕はいつも通り、意思のまま違和感なく動いていた。

「…………」

 それともう一点――

(妙な事はもうひとつ……どうして俺は、彼女の姿と木刀が見えているんだ?)

 霞のように疾る彼女の身体、ならびに、そこから繰り出される剣戟。

 当たり前のように追うことができ、当たり前のように防ぐことが可能であることに、彰人は今更ながらにそのおかしさに気がついていた。

 意図せずに防ぎ、かわしていたが、それがそもそもの見誤りであろう。

 手に取るように少女の姿を捕捉し、繰り出される木刀の軌道もはっきりと見える。

 彰人が妖夢の剣戟を補足し、対応できているには裏がある。

 いくら未熟とはいえ、妖夢の剣術が彰人に完全に見切られているということは決してない。

 ならばどういうことなのか――?

 それは紫の能力、境界操作による恩恵でしかない。

 通常の身体構造を弄られ、皮膚や骨格強度を極限まで高められている。故に、妖夢の振られる剣戟を生身で受けても問題がないのはそのためである。

 無論のこと、本来であれば並の成人男性の腕であろうとも、妖夢の繰り出す木刀の一撃は容易くへし折ることができる程の威力を持つ。

 木刀の軌道を追えるのも、身体強化と同様に視力を弄られているからに他ならない。

 八雲紫によるバックアップのおかげであり、彰人本来の持ち得るポテンシャルによる対処ではない。

「は……」

 口を開き、乾いた声音が漏れる。

 幾度となく踏み込まれる剣戟。それらをことごとく彰人は拳で防ぎ打ち払う。

(どういう手品かはわからないが、八雲さんが何かをしたんだろう……対応できるのは助かりはするが)

 ようやくして、彰人の視線は紫へと向けられていた。

 先の彼女が口にした言葉を思い出す――

『あなたの眼と身体なら大丈夫よ。気にせず、存分に相手なさい』

 何をされたのかはわからないが、八雲紫が自分の身体に何かをしたのは確かなのだろう。でなければ、木刀の一撃をまともに受けて無事なはずがない。

 彰人自身は紫の能力をよく理解してはいない。境界を操るということはわかっているが、それが生物自体にも影響を与えるとは捉えていなかった。

 不可思議な状態に戸惑いの表情を浮かべる彰人の視線に応じるかのように、紫は口元を扇子で覆うだけ。

「…………」

 少なからず、まともに相手をできる状況ではあるのだろう。己の身体がどうなっているのかは未だ理解していないが。

 

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

「ねぇ、紫」

「…………」

 声をかけてくる幽々子に紫は目線だけを向けていた。その眼差しが「なにかしら?」と物語る。

 茶菓子の羊羹を一切れ口にし幽々子は続ける。

「あの人間を連れてきた、本当の意味は?」

「…………」

 口元を扇子で覆い、だが紫の眼は愉悦に歪んでいた。幽々子もまたこんな表情を浮かべる相手はまたよからぬことを考えているに他ならないというのを理解している。

「そうねぇ……強いて挙げるならば、面白そうだからよ」

「面白い?」

「ええ、現に、()()()()()()()()()()()()()()()?」

「……呆れた……」

 はたして、本当にそれだけのためにつれてきたものやら……十中八九、嘘であるというのはわかっているが。

 真意を知りえない幽々子ではあるが、それ以上追及しても相手はのらりくらりと言葉をかわすだろうと判断すると、視線を己が堅物の従者へと向けていた。

 

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

「…………」 

 無言のまま、彰人は半身ずらして構えをとっていた。

 一方の妖夢にとっては、現状は拍子抜けでしかない。相手がかわし避けるだけが主であり、攻撃らしい攻撃をしてこないことに対して物足りなさを感じていた。

 こちらの姿を認識はしているようだが、所詮はそれだけである。有効打となる攻撃は何ひとつ受けていない。

 当初は子どもだからということで手を抜いているのかと思いもしたが、確実に打ってこない姿を見る限り、実力もそれほど目立つものもない。

 紅魔館の門番やフラワーマスターを相手に善戦したという話も信憑性のない眉唾ものであろうとこの時点で妖夢は判断していた。

 彼女の剣術はまだまだ未熟であり、日々の鍛練は事欠かせない。だが、そんな妖夢とて、実際に手合わせしてみた相手の実力は理解し把握できる。

「聴いた話と比べれば、全然大したことがない」

 ただ、打ち込んでも一向に倒れぬ身体が異常なほどに頑丈だという一点のみが脅威であると妖夢は結論付けていた。

 慧眼の士、とは言い過ぎであろうか?

 しかし、彼女の観察力、ないし洞察力は間違っていない。

「逃げてばかりですかっ! 何処までわたしを馬鹿にしているんですかっ!」

「木刀片手の輩を相手に対等となるわけが無いだろう」

 後退するばかりの相手に、業を煮やした妖夢の木刀を振るう腕が若干荒くなる。

「ちょろちょろとっ! 男子ならば正々堂々と勝負をしたらどうですかっ!」

「同じ土俵でもないのに無理を言わないでくれよ」

 軽口を叩きながら……やはり避けることに専念する彰人は防衛のみ。

 玉砂利を鳴らし、間合いを離し息を吐く。

 妖夢が彰人を見極めるように、彰人もまた妖夢に対してあることに気がついていた。

(この子……)

 確かめるべく彰人は行動に移す。

 と――

「…………」

 予想通りの反応を相手が示したことに、彼は確信する。

 彰人が着目したものは相手の反応である。

 妖夢はこちらの動きへの対応が正直すぎるのだ。警戒した上での過剰反応と捉えられてしまえばそれまでであるが。

 武術に長けた紅美鈴と違い、こちらのフェイントに引っかかりやすい。

 わざとフェイントに引っかかった振りをしているのかと思っていたが、そうではない。事実、目線と足の爪先、肩の突き出しを絡めてみれば、相手はやはり反応していた。

「…………」

 馬鹿正直に反応する身体は一種のクセとも成り果てる。そのことに妖夢自身は気づいていないのか。

 ならば――

 その点を逆手に取り、攻めに絡める方法とするしかない。しかし、それだけでは決め手に欠ける。

 それに、相手が告げるように逃げてばかりではいつかは捕らえられるだろう。

「……さて……」

 ぼそりと呟き、彰人は腕を伸ばし構えをとっていた。

 

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 妖夢にとっても相手が大した実力がないことには気づいていた。

 自身は彼に負ける気がしない。

 彼は自身に勝てる道理がない。

 これ以上の続行は無意味である。

 身体をひねり、振りかぶられた拳は虚しく空を切る。

 当たればそれなりに威力は在るのだろうが、妖夢は当たるつもりはない。どんなに威力の在る攻撃であろうとも、当たらなければ意味がない。

 妖夢は容赦せず、肩、手首、二の腕、わき腹、脚――に狙いを定め打ち込んでいく。

 彰人の身体に創られていく打撃の雨は、ただの暴力と成り果てる。

 さすがに一方的となる攻撃を叩き込んでいくのには気が引けていたのだろう。間合いを離す相手に詰め寄ることもなく、妖夢は木刀の切っ先を向けていた。

「降参していただければ、これ以上の痛手は受けなくて済みますよ?」

「…………」

「こちらとしても、これ以上怪我をさせるには気が引けます」

 妖夢の言葉に――

 しかし彰人は口元を吊り上げただけだった。それは、美鈴を相手にした時と同様に、闘争本能による影響であろう。

「せっかくのお言葉だけれど、悪いがこちとらも、これでも存外と意地があるんでね。とりあえず、やられっぱなしってのは面白くないモンがあるんだよ」

「……まだ続ける、というのであれば、申し訳ありませんが、これ以上の加減は出来かねます」

「随分とお優しいことだな、お嬢ちゃん? 気を使ってくれてるのか、お嬢ちゃん? だがな、油断してると足元を掬われるぞ、小さな小さな、お・じ・ょ・う・ち・ゃ・ん?」

「…………」

 子ども扱いする発言に――妖夢の顔つきが変わる。

「……前言を撤回します。此処で終わらせます」

「ハッ――」

 動きを直情的にさせる手段――

 一箇所に留まるのは危険とみなし、彰人は前後右左、と動き剣戟をやり過ごす。

 右から左へ薙ぎ払われる木刀を掻い潜り、斬り返し上から下へ振り抜かれる木刀を――

 得物を持つ少女の左の二の腕を真下から打ちつけ軌道を逸らす。

 撥ね上がる妖夢の腕――

 瞬時に彰人は相手の右側面へと滑り込み、拳を叩き込んでいた。

「っ――」

 咄嗟に肘で受け止める妖夢ではあるが、重さを乗せたパンチの衝撃に押されバランスを崩す。

 更に踏み込もうとする彰人に対し――刹那の間に、接近を許さぬ彼女の蹴りが繰り出されていた。

 腹を打たれ、体勢を立て直し構える彰人と、反動を利用した妖夢は音も無く地に降り立ち木刀を正眼に構えていた。

 

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 真っ先に彰人の雰囲気が変わったことに気づいたのは、相対する妖夢。

 臆することなく、迷いも失せた彰人は腰を落とし身構える。

 離れた場所に座る幽々子と紫のふたりも彰人の変化に声を漏らしていた。

「あら……」

「覚悟を決めたようね」

 特に紫は、彰人が何か思惑があるのだろうとも踏んでいた。

(何かを思いついたといったところかしら? さて……そう上手くいくかしら?)

 妖夢もまた顔つきを変えると、木刀を握る腕、身体を僅かに屈めて構えをとる。

 刹那――

 じゃりと足元から音を鳴らし、彼女は疾る。

 一足の元に踏み込み、彰人の首を刎ねるかのごとく繰り出した剣戟は――しかし当たることはなかった。

 ヘッドスリップで巧みにかわして見せる彰人が其処に居る。

「…………」

 かわされたと見るや否や、妖夢の次の挙動は迅速だった。

 相手の腕が微かに挙がるのを見逃してはいなかった。間髪入れずに打ち込まれた拳を身を捻りかわし、逆から打ち込まれていた拳を木刀の身で受け止めていた。

「…………」

「…………」

 両者の拮抗は一瞬。

 木刀を払う妖夢――

 スウェーバックで避け、コンビネーションによる拳を見舞う彰人――

「――っ、当たるわけには」

 接近戦は分が悪いと判断する妖夢は後方に跳び退る。間合いを詰められてしまっては、得物たる木刀を存分に振るうことはできない。

 しかし――

 この距離を逃がしてなるものかと彰人は懸命に喰らいつく。

 避けることができないと悟った彼女は徒手格闘による拳を放つ。だが、純粋な殴りあいに置いては彰人の方が上手。

 彰人の頬を打ち抜く、という寸前に――ぶんと空を切る妖夢の拳。

「――っ!?」

 身体全体を使いかわした彰人は半円を描くように側面へ回り込んでいた。そのまま、隔てるものが何もないがらんどうとなった彼女のわき腹へ拳を叩き込む。

 が――

 舌打ちする妖夢は木刀で防ぎ止めていた。

 防戦一方であった相手が唐突に攻勢に回る。フットワークを駆使し、妖夢へと肉薄するが――

 間合いを詰められてなるものかと彼女は木刀で受け流し、逆に切り返し線と点による剣戟を見舞うのだが、刹那に彰人はグローブで弾くだけ。

 とんとんと地を蹴り、リズムをとりながらも、彰人の踏み込みは続く。

「どういう気変わりでしょうか……」

 訝しげに眉根を寄せ、手にする木刀でいなしながらも彼女はその疑問を口にしていた。

 先まで防戦に回り、自分から進んで撃ってこなかった相手が此処に来て積極的に前へと出てくる。

 この行動の変化に疑心を持たぬ妖夢ではない。

 肩を狙うように振り下ろされる剣戟を――パンと音を立ててグローブが打ち弾いていた。

 相手に応えるように、彰人は鼻を鳴らし口を開く。

「俺が攻めに転じた姿がそんなにおかしいか? 別に、もういい加減飽きてきたからな」

「飽きた……?」

「ああ、防御に回る必要もなくなったし、なによりも飽きたからな。君の腕も大したことがないってのがわかったしな」

「――っ」

 ぴくり、と妖夢の眉が撥ね上がる。

 耳に捉えた聴き逃せぬ言葉。

「大したことが、ない……?」

「ああ」

「…………」

 薙ぎ払われる一閃を、僅かに身体をのけ反らせてかわし彼。

 木刀を構えたままの妖夢は鋭い視線を向けるのみ。相手の動きを警戒しながら、油断なくゆっくりと腰を落とし身構える。

 挑発である、とはわかっていながらも彼女は懸命に感情を抑えながら口を開いていた。

「……何を企んでいるのでしょうか? わたしの動きを満足に捕らえられてもいない今の貴方が、わたしの剣を避けられるとでも?」

 その言葉に――

 彰人は声を上げて笑っていた。

 くつくつと笑う相手に……妖夢は一瞬呆けたような顔をしていたのだが、すぐさま激昂していた。まさか、笑われるとは思っていなかったからだ。

 構えも忘れ、感情のままに彼女は叫ぶ。

「何がおかしいんですかっ!」

「いや、すまない。君が予想以上に……あまりにも子ども過ぎてね。つい笑ってしまった。くくっ、すまない、謝るよ」

 素直に謝罪する相手に……妖夢の顔は見る見るうちに紅くなっていた。

 もう一押しだと胸中で感じ取りながら彼。

「避けるまでもないさ。あんなしょぼいモン、避ける必要もないだろう?」

「…………」

 ぎしり、と歯を軋らせる妖夢の双眸は怒りの色に染まる。悪鬼羅刹の表情――

「しょぼい……わたしの剣がしょぼいと言うんですかっ!?」

「ああ、しょぼいな。しょぼすぎだろう? ただ、君のスピードが速いだけが唯一の取り柄であって、中身は伴ってない。打ち込む力はてんで大したことがない。女の子の腕なんだ仕方ないさ。君は子どもで非力だろう? 見掛け倒しの剣だし、現に俺を仕留められもしない腕では、さしずめ期待はずれで冴えなく白けるもんだろう?」

「……一切の手加減はいたしませんよ……?」

 肩を震わせながらも、努めて冷静に言葉を吐く妖夢ではあるが、彰人は笑い返すだけだった。

「いまさらいらないよ、お嬢ちゃん。ああ、お嬢ちゃんの方が手加減してほしいかい? 女の子に手を挙げるってのは正直気が引けるし、本気で殴ったら、君、痛くて泣いちゃうだろう? 痛いよぅ、痛いよぅ、てね」

「――ッッ」

 歯軋りを再度奏で、妖夢は憎悪を滾らせ睨みつける。

 視線を真っ向から受け止めながら、彰人の挑発は続く。

「お遊戯じみた、お飾りの『剣』なんてやめたらどうだ? 怪我をしたら大変だろう? 鞠つきでもして遊んでいたらどうだ? もしくは、華道でもしていたらどうだい? お花を相手にしていたほうが様になるよ、()()()()()?」

 瞬間――

 妖夢から醸し出される雰囲気が変わる。

「……いいでしょう。ならば、全身全霊、全力を以ってお相手いたします……我が剣伎、その身を以って知りなさいっ!!」

 言って、彼女は地を蹴ると後方へ大きく跳び退いていた。

 妖夢が後退する意味。

 彰人は瞬時に悟る。彼女が繰り出す『剣技』に十分な助走を保つための距離である、と。

 女、子どもと馬鹿にされ――

 腕が大したことがないと軽んじる――

 あげくは鞠つきでもして遊んでいろと軽視され――

 更には己の剣を遊戯と揶揄された――

 これほどまでに侮辱されたのは妖夢にとっては初めてであろう。

「…………」

 悪役に徹し、挑発できる限りの言葉を並べた彰人の全身は冷や汗に包まれていた。

 完全に妖夢の怒りは頂点に達している。

 お膳立ては整った。

 後はタイミングを狙うのみ。

 今の爆発した妖夢の感情は憤怒一色。直情的となる動きは制限される。

 無駄な力が入り、感情の乱れは正常な思考能力を奪う。

 頭に血を上らせることは簡単であった。実際に妖夢は彰人の思惑通りに激昂している。

 後は如何にして相手を捕らえるか。相手が停まってさえいれば、いくら彰人でも打撃を当てることができる。

 そう。停まってさえいれば、である。

 だが――

(止めるにしても、どうやって止める? 瞬発力は相手が遥かに上と来る。相打ち覚悟で、打ち込まれると同時にカウンターを叩き込んで捕まえるか……)

 イメージするが、直ぐに頭を振る。

 狙い通りに事が運ぶとは全く思っていない。避けられるのがオチであろう。それでも、彼女――妖夢を仕留めるには、なんとしても捕らえなければならない。

 ならばどうするか?

 他に何かいい手はないものかと迫る僅かな時間で懸命に考えあぐね――

 思考しながら、彰人はじゃりと足元の玉砂利を踏みしめ――そこで視線はふと下がる。

 じっと見入る先は足元に広がる玉砂利。

「…………」

 視線を落したのはほんの数秒。直ぐに彼は顔を上げ妖夢へと向き直っていた。

 

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

「…………」

 上手くいくかどうかはわからないが、決めるためには仕掛けるしかない。

 例え上手くいかなかったとしても、幾ら挑発のためとはいえ、心にもない罵倒の言葉を浴びせたことに罪悪感が無いわけではない。すべてが終わった後で彰人は妖夢に対して誠心誠意、平身低頭して謝罪する覚悟はある。それこそ這い蹲って額を地にこすり付けるほどに。

 と――

 妖夢の身体が沈み、地を蹴りつけ驀進する。

「桜花ッ、閃々ッ――」

 一瞬にして、彼女の姿は掻き消える。

「速い」

 注視していなければわからぬほどに、霞んで見える輪郭。このままでいれば、数秒も経たぬうちに剣戟を叩き込まれるであろう。

 刹那の瞬発力に関してのみならば、彼女は幻想郷一最速を誇る射命丸文をも超える。しかし、いくら肉眼で捕らえることができないのならば、別の方法で捕らえるしかない。

「…………」

 相手は木刀を構えてこちらに向かってくる。であれば、そこを逆手に取るだけだった。

 タイミングを見計らい彰人が動く。しかし、動いたのは腕ではない。足の爪先を砂利に深く埋め――そこから円を描くように力任せに足を振り上げ身体を捻る。

「――っ」

 姿は見えぬが、枯山水が広がる庭に響いた声音は間違いなく妖夢のもの。

 何処から来るかわからないのなら、何処から来てもわかるように対処するだけ。

 人体では視認できぬほどの加速を伴って移動するというのならば、無理に捕らえることもない。

 ちょっとした小細工を用いれば、後は勝手に自滅してくれると踏んだのが彰人の策。

 高速移動する眼前に無数の障害物を放り込めばどうなるか?

 現実世界においては、スピードを出しすぎた自動車が例えブレーキを踏んだとしても、その場で完全停止することなどは不可能である。

 案の定、目論見通りに妖夢の足は止まらざるを得なかった。自分から礫のように舞う石砂利にあたりに行ってしまっていたために。

 性格が災いする。咄嗟に顔を覆うように、彼女はその場で足を止めていたのだから。

 瞬間――

 逆に動いていたのは、絶好の機会を虎視眈々と狙っていた彰人である。

 相手の姿が視界に現れたその瞬間を彼は逃しはしなかった。

 踏み込む相手に妖夢が気がついた時には既に遅かった。

 疾駆―― 

 手を伸ばせば届く範囲内。そこに、地面を滑り込み、勢いのまま身を翻す彰人の姿。

「――っ」

 跳び退く、木刀を振り抜く、と判断するよりも遥かに早く、身体を反転させて露にした彰人の「貌」を捉えたことに妖夢は思わず息を呑む。

 獣のような眼光、吊り上った口元――

 スローモーションのように、己の身体に突き刺さろうとする拳を視界に捉えていた妖夢は、避けることができぬと判断すると、腹に力を入れ、歯を食いしばり衝撃に備えるだけだった。

 一撃を受けるとともに、木刀を叩き込む……それが彼女の算段である。

 何よりも、妖夢は彰人の腕を振るモーションが小さいことを見逃していなかった。喰らったところで大したことがないと高を括る。

 しかし――

 それが大きな誤りであることを、彼女は身を以って知るのだった。

 打ち据えられる鈍い音とともに、ごふと口蓋から息を吐き出し彼女。

 身体に奔る、予想以上の衝撃。

「っ――あ、あ――」

 わき腹を激しく揺さぶられる衝撃に、反撃に転じることもできない妖夢は眼を白黒とさせる。

 ただ打ち込まれただけだと思っていたがそうではない。熱を帯びる箇所からの猛烈な痛みが身体を駆ける。

 パンチを打つ際にポイントとなるのは二点。 

 ひとつは距離。相手と離れてしまえばパンチは届かない。逆に、近すぎては腰が回らず体重も乗せることができずに腕の筋肉だけで放つパンチ(手打ち)になってしまう。

 もうひとつは、力を入れるタイミング。最初から腕や肩に力を込めてしまっては動作が大きくなってしまう。

 彰人が力を加えた瞬間も、パンチを打つ体勢に入ってからであり、打ち込んだパンチの威力が増しているのは腰を入れていたためである。

 体重と身体の回転力を乗せた拳――

 腕と肩を使いパンチを打ち出す瞬間に彰人は腰の回転を加えていた。

 腰から肩に、肩から腕にパンチを乗せる感じで繰り出された一撃は、満足な防御も取らぬ妖夢の腹を容赦なく貫く結果となる。

 想定外の重い拳を喰らい――よろめきながらも彼女は崩れ落ちることもなく踏みとどまっていた。

 しかし、妖夢は離れられるのであれば、その場から後退するべきであった。

 未だ標的(妖夢)は、彰人の射程距離内。

「レバー、もらうぞ」

 ぼそりと呟き彼。

 身体をひねり、遠心力を伴った彼の繰り出していた左の拳は正確に、それでいて無情。

 服の上からであろうとも、目測により狙い打つ箇所はただひとつ。

 人体の右半身、鳩尾から握り拳ひとつ分離れた箇所、肋骨と腹との境目にある――

 体重を十分乗せた左のアッパーは、人体の急所のひとつである妖夢の肝臓を情け容赦なく、ずどんという鈍い炸裂音を奏で打ち抜いていた。

「――っ、づっ――!?」

 筋肉で保護されていない部分を襲う渾身の一撃――

 先に喰らった打撃よりも更に重い。

 腹の奥に響く激痛。

 一瞬で呼吸を詰まらせられるが――苦痛に喘ぎながらも、気力を振り絞った妖夢は木刀を薙ぎ払っていた。

 だが、狙いも雑な軌道は容易く見切られる。首を僅かに動かし、髪を掠める剣閃。

 木刀を握る腕が伸びきり、再度肝臓が開かれる。

 そのまま――

 腕という『砲身』に装填されていた次弾、放たれていた二撃目の左アッパーが狙い違わず妖夢の肝臓を再度殴り捉えていた。

 華奢な少女の身体が衝撃に『く』の字に曲がる。成人男性に、思いきり腹を打ち据えられたことなど経験のない。

「っ――」

 悲鳴も漏れず、息を吸っているのか吐いているのか、自制の区別もつかず、さながら水の中にでも身を叩き込まれたかのように、無駄にパクパクと口を動かすだけで呼吸をふさがれる。

 そんな相手に――しかし、彰人は遠慮もない。

 四撃、五撃と連続して妖夢の左右のわき腹をグローブが激しく打ち据える。

 どんなに早く動く相手であろうとも、完全に脚が停まった彼女は、もはやただの的である。動かない的を打ち外すほど、彰人は耄碌してはいなかった。

 妖夢は美鈴のように身体が頑丈なわけでもない。剣術に長けている腕を持っているとはいえ、身体構造は歳相応の少女となんら変わりはなかった。

 衝撃に揺さぶられる内臓。下から突き上げるように拳に捻りを加え、抉り叩き込まれる打撃に彼女は苦悶に眼を見開くだけ。

 これ以上の加撃を受けるわけにも行かず、妖夢は脚に力を込めると後方へと跳び退いていた。

 が――

「あ……れ……?」

 実際には、よろよろと僅かに後ろに数歩ほど下がっただけだった。視界がぼやけ、力が入らず、倒れようとする身体を懸命に支えようと足が後ろへと流れるのみ。

 思考に身体が追いついていない。

 ふらふらと後退する彼女へ――

 少女の身体は見た目通りに軽かった。六撃目の打ち込みとともに力任せに振り抜いた腕。勢いのまま、妖夢の身体は地面へと叩き伏せられていた。

 断続的にわき腹に奔る鈍痛に加え、背に生まれる衝撃。木刀を取り落とし、それでも酸素を求めて苦しみ悶えながらも懸命に起き上がった彼女に――七撃目となる拳を叩き込もうとして――

「はい、そこまで」

 彰人の耳朶に響いたのは紫の静かな声音。

 見れば、真横に立ち紫の白い掌が彰人のグローブを事も無げに受け止めていた。

「――っ」

 彰人は寸前で拳を停めたわけではない。振り抜き打ち込んでいたグローブ越しに伝わる感触は不可思議なものだった。まるで、羽毛の布団でも殴りつけたかのような感触。

 何よりも、結構な力を込めて打ち抜くパンチを止めたというのに、音のひとつも上がりはしなかったのだから。

 唖然とする彰人に、しかし紫は怪しい笑みを浮かべるとグローブから手を離していた。

「一矢報いて十分でしょう? これ以上は御仕舞いよ。大の男が少女に暴行する姿は、見ていて気持ちのイイものではないわ」

「……俺、散々その少女に暴行受けてましたけれど?」

「逆はいいのよ」

「……理解できないんですけれど?」

 冷静さを取り戻した彰人は息をひとつ吐くと腕を下ろしていた。

「確かに、これ以上は大人気ないですね」

 これ以上続ける気はないと態度を示すと、その場から一歩下がり離れていた。

 対して、状況が呑みこめずに、突然割り込まれたことによって緊張の糸が切れたのか、妖夢はぺたんと尻餅をついていたのだが――

 何がなにやらわからないといった表情を浮かべ、脂汗を額に滲ませ、痛みが未だ引かず呼吸も激しく乱れたまま。ようやくして、事態の整理がついた彼女は先の石礫に怒りが込み上げ非難していた。

「ひ、卑怯ですっ!」

「まぁ、小狡い手だな。正攻法で停められなかったから、脚を使っただけだし。勝てば官軍という気はないけれどな」

 卑怯であることは認めるが、格別悪びれた様子は無い。いけしゃあしゃあと応える相手に妖夢の怒りは更に増す。

 自分は正々堂々と勝負をしたのだ。ならば、相手も応じるべきではないのか?

 だが、あくまでもそれは勝負においての彼女の考えである。相手が応じるかどうかはまた別の話となるのだが。

「――っ」

 怒りの溜飲が下がらない妖夢だったが、制したのは幽々子である。パンパンと手を打ち、声をかけていた。

「はいはい、そこまでよ。でも、妖夢、あなたも彼を侮っていたところはあるでしょう? 相手をよくよく理解していない。ただの人間だからと甘く見ていたのは確かでしょう? 結果、相手がどんな手段を使うかは予想ができていたかしら?」

「ですが――」

 真剣勝負において、姑息な手段を投じたことに対し妖夢は納得することができなかった。

 未熟な従者に、幽々子は呆れたように――しかし、それでいてどこか嬉しそうに諭すように告げていた。

「妖夢、これが命を賭けた実戦だとしたらどう? 世の中は綺麗事だけではまかり通らないものよ?」

「…………」

「今のように、例えズルくて卑怯で小汚い手段だとしても」

「散々な言われようですね」

 まぁ実際そうなんですが、と認める彰人の声を無視しながら幽々子は続けていた。

「命を奪われても同じことが言えるかしら? 極端な言い方をすれば、命を奪うのに何も問題は無いんじゃないかしら?」

「し、しかし……」

「それに、卑怯というなら妖夢、あなた、彼が先の勝負の中で拳のみを使っていることに気がついた?」

「? ええ、それがなにか」

 言われるまでもない。つい数瞬前まで相手にしていたのだから。何故そんなことを訊ねるのだろうかと妖夢は不思議そうな顔をする。

「肘や脚を打撃として使わなかったのは何故だと思う?」

「何故……?」

 言われてみれば――

 幾らでも脚や肘を使う機会はあったはずだった。現に己は攻防に絡め多様している。

「紫から聴いたんだけれど、彼、肘や脚を使えないんじゃなくて、使わないらしいのよ」

「……どういうことでしょうか?」 

「ボクシング、ていう武術らしいんだけれど、使うのは拳……手に包まれている部分のみで叩くのが規則らしいの。脚や肘を使うのは認められていないんですって」

「……まさか、それだけのために脚を使わなかったというんですか?」

「彼は自身の得意とする様式のみを忠実に守っただけなの。そんな相手に肘や脚を絡めた妖夢は卑怯にならないかしら?」

「で、ですがっ、それはっ――」

 慌てて抗議しようとする従者に主は頷く。

「ええ、別に咎めているわけではないのよ。なにも相手の規則に従うわけでもないし、知らなかった、と言ってしまえばそれまでよ。でも、言い分を述べるには、相手の状況もよく確認しないとね。でないと、このように相手の策にまんまと乗せられちゃって、ものの見事に掌で踊らされちゃうわよ?」

「……相手の、策?」

 ポツリと呟く妖夢に幽々子はええと頷いていた。

「妖夢の感情を呷る先の発言、行動制御、それらはぜーんぶ彼の策よ」

「……俺も、こうまで巧く行くとは思ってませんでしたけれど、合い打ちできればいいかぐらいの考えでしたし……」

 妖夢にとっての一番の敗因……それは、やはり『油断』であろう。

 取るに足らぬ相手と見くびり、警戒を緩めていた感は如何様にも否めない。

「――っ」

「まあ、真っ直ぐなところ……そこが妖夢のいいところではあるのだけれどね」

 いい子いい子と幽々子は妖夢の頭を優しく撫でていた。

 顔を赤らめた従者は主人の手を振り払うこともできずに反論するのみ。

「こ、子ども扱いしないでください、幽々子さまっ」

「うふふ、妖夢は負けず嫌いですものね。ただ、女の子を本気で殴り倒すのはどうかと思うけれど?」

 言って、じろりと彰人を睨む彼女は――

 男の眼の前だというのに、何の躊躇いもなく妖夢の上着を捲り上げていた。

 白い肌が露になり――突然の出来事にギョッとなる彰人と、口をパクパクとさせる妖夢に構わず幽々子はやっぱりねと声を漏らしていた。

「あらら、やっぱり腫れて赤くなってるわ。酷いわねぇ、妖夢は女の子なのに」

「あら、痣が残ったら責任を取ってもらえばいいじゃない」

 紫の何気ない一言に、妖夢は首を傾げ、彰人は不安そうに眉を寄せていた。

 ふたりの反応に――主に彰人だが――満足そうな面持ちのまま彼女は続ける。

「お嫁に貰ってもらえばいいのよ」

「いい案ね」

 紫の提案に幽々子も然も名案だとばかりに賛同する。だが、これに異を唱えるのは無論彰人。

「何を言ってんだ、アナタは」

「あら? わたしの可愛い妖夢を欲望のままに襲って『疵物』にしておきながら居直るのかしら?」

「誤解を招くような言い方はよしてくれ! それに、変な冗談はやめてください」

「冗談? 妖夢じゃ御不満ということなのかしら?」

「……すごいですね。どうすればそういう風に解釈できるのか逆に教えてほしいんですけれど? 逆ですよ。俺ごときの人間なんかに、彼女がつりあうわけがないでしょう?」

「あらそう? わたしから見ても妖夢は美人で気立てもいいし、剣の腕も決して疎かではないし……一体何が不服なのかしら?」

「……ですから、不服だとか一言も口にしていないでしょう? 会って間もない俺がどうこう言うのがおかしいじゃないですか。そもそも、まあ、確かに……可愛いとは思いますよ」

 容姿は美人の部類に入る。物騒な刀など持たず、普通にしていれば十分な魅力はあるだろう。

 特に意識したわけでもなく、何気に口を開き呟いたのだが――彼は直ぐに失言だと気づく。

 案の定、にんまりとした表情を浮かべる幽々子は嬉々として妖夢に耳打ちしていた。

「可愛いですって。よかったわねぇ、妖夢。彼、そう思うってことは、満更でもないみたいよ?」

 だから変な言い方はヤメロと告げる彰人に便乗するように、多少ばかり顔を赤らめた妖夢自身もまた意見を述べていた。

「幽々子さま、この程度の打身ぐらいは――」

「何を言っているの、妖夢! 女の子の肌に傷をつけていいわけがないじゃないの」

「煽ったのはアンタだろうが……まぁ、女の子の身体に痣や傷が残るのはマズイとは思うよ。責任云々は、俺のできる範囲であればさせてもらう。やっておきながら申し訳ないことをした。すまない。それと、先の暴言に関しても、本当にすまない。改めて後日に、きちんと謝罪させてほしい」

「…………」

 素直に頭を下げる彰人の姿に――妖夢はなんと応えていいかわからず困惑していたのだが、紫と幽々子は別であった。ふたりは顔を見合わせると、つまらなそうに一音一句揃えて告げる。

『面白くない』

「……アンタらは、一体全体、どういった面白味を求めてるんだ?」

「決まってるじゃない。もっと無様に慌てふためく姿が見たいのに……そんな簡単に素直に謝るなんて興醒めだわ」

 はあやれやれと肩を竦めた紫は頭を振り、わざとらしいにも程がある溜め息を漏らしていた。

「おちょくってるってのが、よーくわかりましたよ」

 ジト眼で睨む彰人へ――

 ようやくして呼吸を整えた妖夢は真っ直ぐに視線を向けていた。

「次はこのような遅れをとりません。本来のわたしの姿でお相手いたします」

「……お手柔らかに頼むよ」

 再戦を望む意図が含まれる物言いに、彰人は苦笑を浮かべることしかできなかった――のだが、彼は聴き捕らえた言葉に「ん?」と首を傾げていた。

「本来の、姿……?」

「ええ。妖怪が鍛えた楼観剣、迷いを断ち斬る白楼剣……次こそは、その御身、必ずや刀の錆にしてさしあげますっ!」

 決意をあらたに、高らかにそう宣言する彼女だが――

「斬り殺す気満々てことかっ!? 澄ました顔しときながら、内心滅茶苦茶ムカついてるじゃないかっ!?」

 彰人の指摘に、我慢していた妖夢も感情を爆発させていた。

「当然でしょう!? 納得しますが、納得しませんっ!」

「矛盾してるだろっ!」

「幽々子さまに納得はしますが、あなたには納得しませんっ!」

 『がーっ』という擬音が相応しいほどに吼える妖夢を宥めるように、幽々子は「はいはい」と手を打っていた。

「まあ、冗談はその辺にして……あなたの勝ちは勝ちよ。それで? 勝者は何を望むのかしら?」

「……は?」

 そういえばそんな条件だったんだなと思い出す。だが、何かを望むということも思いつきはしなければ考えてもいない。そもそも、そんなことは頭にないというのが正直なところである。

「別に、これといって特になにもないし」

 然して求めるものは何もないと応える彰人ではあるが、これに異を唱えるのは妖夢である。

 勝負という括りにおいて、そういったところは生真面目な彼女は納得していない。

「勝負は勝負です。魂魄の名にかけて、如何なる辱めも甘んじて受けましょう」

「人聞きの悪いことを言うなっ!」

「例え、この身が汚されようとも、心までも汚せるとは思わないことです」

「いかがわしいことを前提として話を押し進めるのはやめろ」

 どうしてこう、どいつもこいつも人の話を聴かないんだと頭を痛ませながら彼。

「……なら、そうだな。君もお酒が呑める口なんだろう? 今度、機会があった時にでも酒でも一緒に呑もうってことで。それでいいかな?」

「はぁ、そんな程度でよろしいんでしょうか?」

 提示された内容は些か拍子抜けであったのは否めない。

 別に深い意味もない。不意に思いついたことを口にしただけである。

 だが、この発言を耳にして、在らぬ深読みをし過ぎる者がひとり。幽々子である。

「まぁ! 酔い潰して妖夢を襲うつもりね。男の人は恐いわねぇ……ねぇ、妖夢?」

「おぉぉいっ! 何を勝手なことを口走ってんだっ!?」

 恐いわと口元を扇で覆おう幽々子は妖夢に同意を求めていた。

 もう勝手にしてくれと漏らすと彰人は疲れたような表情で紫へ向き直っていた。

「で? 俺って、結局何のために此処に連れてこられたんですか?」

 木刀で打ちのめされるために来たのでは割に合うはずもない。

 口元を覆っていた扇子を閉じ、紫もまた彰人へ視線を向け――

「暇つぶし」

「事実でも、もっと言葉は選びましょうよ」

 真顔のまま、けろりと応える紫に彰人はグローブに包まれている手をわななかせていた。

 

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

「露天風呂があるから、のんびりとお湯に浸かって汗を流してらっしゃいな。肉体も然ることながら、精神的にも疲れたでしょう? 痛めた身体を癒すにも最適よ。妖夢、案内してあげて」

 幽々子の計らいにより、彰人は断る理由も無く浴場へ案内されていた。

 紅魔館とはまた違う広い浴場。向こうが西洋風であるならば、こちらは純粋な和風たる雰囲気。

「でかくて広い屋敷に加えて、風呂場も相応の面積か……」

 開放的過ぎる脱衣所に、隔てる竹垣と植栽の色合いが調和された和の空間。

 呟きを漏らしながら、せっかくの厚意に甘んじるべく、湯に浸かるために彰人はシャツを脱いでいた。

 身体中に浮かぶ紅い痣。中には内出血により紫に変色している箇所も少なくない。

「余程強く打ち込まれていたということか……なんでこんなところに来てまで、わざわざ痣なんかつくらにゃならないんだ」

 見るともなしに痣に視線を落とし彼。改めて己の身体をある程度確認し、腕が折れていなくて本当に良かったと安堵する。

 不意に、彼の視線が向けられたのは庭と思しき方向。

 視界に捉えたのは――

 大きさも然ることながら、花も咲かず、葉も茂らぬ異様な巨樹。

 遠目からであるためいまいちはっきりとしないのだが、枯れているのかと思いながら彰人は無言のまま見入っていた。

 と――

「……あの、よろしいですか?」

 背後の戸口越しに、遠慮がちに声をかけてきたのは妖夢。

 視線と意識が巨木から外れた彰人は――上を脱いだ恰好とはいえ、みっともない姿を見せるのはどうしたものかと判断に迷いはしたのだが、「どうぞ」と声を返していた。

「失礼します……」

 先と同じようにどこか遠慮を含んだ声音とともに、がらりと音を立て引き戸が開かれる。

 何の気もなく、ちらと背後を一瞥し、彰人の表情はそのまま固まっていた。

「――――」

 視線の先、戸口には、顔を赤らめ、裸体の妖夢がそこにいる。いや、正確には女性にとって大事な部分はバスタオルのような織物一枚を身に纏っている恰好ではあるが。

 とはいえ、少女の白い肌は否応なしに晒され露になっている。男性の前で肌を見せることに抵抗がないわけではない。羞恥により、妖夢は耳までリンゴのように赤くなっていた。

 おずおずと、決して視線を合わせようとはせずに彼女。とは言えど、視界に映る彰人の上半身から眼を逸らすことはできなかった。

 シャツに隠れていたため見ることはできていなかったが、腕や肩、腹、背といった眼につく箇所に無数に存在する打撲の痕が酷く痛々しい。自分のせいで傷つけたということを今更ながらに理解する。

 しかし、それよりも状況が理解できないのは彰人の方であろう。

「お、お背中を、流させていただきます」

「…………」

 掠れた声でぼそぼそと漏らす妖夢の言葉も聴いていなければ、姿も見ていない。彼の視線は妖夢から既に外れており、引き戸へと向けられていた。そこには、ひょこりと覗き込むように立つふたりの顔。ひとりは幽々子、もうひとりは紫である。

「教授したように一気に畳み掛けるのよ、妖夢っ! 言った通りに、相手は見とれているわっ!」

「……いや、見とれるもなにも、困惑してるんですけれど……? ああ、そうですね。ある意味では困惑を狙ってるんでしょうけれど……ええ。あなたの読み通りに、間違いなく、今現在俺はこの上なく、途方もなく困惑してますよ? タオル一枚身に纏った彼女が、どうしてここにいるのかが皆目見当がつかなければ、理解の範疇を遥かに超えていますから」

 異常な状況は、逆に彰人を至極冷静にさせていた。

 何故、彼女が三助紛いなことをする必要があるのだろうか。

 ちなみに『三助』とは、日本の銭湯における被用者の役職のひとつである。湯をわかしたり、利用者たる客の身体を洗ったりする男の称である。。

 江戸時代、下男や小者(こもの)などの奉公人を『三助』と通称したが、のちに『三助』とは概ね銭湯で客の背のながしに従う男をさす言葉となった。

 『三助』の語源は、銭湯で「釜焚き」「湯加減の調整」「番台業務」の三種の役を助けた(兼務した)ことからこう呼ばれたという説がある。

「わたしのせいで御身体を傷つけてしまいましたし……なによりも、御身体を洗うにも打撲でうまく動かせないのではと思いまして……あの……その、失礼をしてしまい申し訳ありません。せめて、何かお詫びをと考えたのですが、幽々子さまが殿方はこのようなことを望まれるものだと教えていただいたものでして」

「…………」

 考慮してくれるのは純粋に嬉しいが、受けるつもりも了承する気もない。何よりも、最後の言葉は余計な進言としか思えてならない。

「それに、羞恥に打ち勝ってこそ一流の剣士でもあると――」

「……一応訊きますけれど、誰が言いましたか? それ……」

「幽々子さまですが……何か?」

「…………」

 彰人は自然と額を押さえていた。

 彼女――妖夢は、度が過ぎるほどに生真面目すぎる性格だなと痛感する。それが悪いとは言えないことではあるが……だからといって、言われるまま、または教えられたままに話を鵜呑みにするのは如何なものか。

(この子は、嘘八百を並べられているとは疑わないのだろうか……?)

 そもそも、羞恥心はないのかとさえ思いたくもなるが……顔から火が出るとはこのことだろうか。妖夢にとっては、やはり余程恥ずかしいのだろうが、仕える主人の要求に応じるのが従者の勤めであろう。

 しかし……しかし、である。

 妖夢も覚悟を決めたのか、羞恥にまみれた紅い顔を上げていた。

 その表情には、もはや迷いはなかった。

「というわけですので、お背中を流させていただきます。不束者では在りますがですが、よろしくお願いいたします」

「言葉だけを聴いていると、なんだか嫁ぐような物言いね」

 ぼそりと呟いた紫の声音は彰人の耳には届いていなかった。

「なにが『というわけ』だっ! いろいろと間違っているだろうっ!?」

「いいえ! 原因がわたしに在る以上、必ずや成し遂げてみせましょう。わたしとしても、意地がありますっ!」

「どうしてそうなるっ!? なんでそこで頑固になるんだ!? 意固地になる部分はひとつも無いだろうっ!?」

「今よ妖夢っ、相手は怯んでいるわっ! 攻めて攻めて、攻めまくるのよっ!」

「アンタは黙ってろっ!」

 呑気に横槍を入れる幽々子を一喝し、彰人は睨みつけていた。 

「ああ怯むさ。こんな阿呆な展開に振り回されることになるとは思いもしないしなっ! ついでに言えば、アンタはただたんに面白がってるだけだろうがっ! 冗談じゃない――付き合ってられるか!」

「あ」

 言って、彰人は脱いだシャツを引っ掴むと脱衣所から外へと走ると――露天風呂の垣根を跳び越え、一目散に逃げ出していた。

 だが、幽々子は冷静であった。たった一言を彼女は告げる

「妖夢、逃がしちゃダメよ。逃げられたら白玉楼としての名折れだわ。客人の持て成しも満足にできないのかと思われるのは耐えられないの」

「はい、幽々子さま。身命を賭して、必ずや」

 言って、妖夢は立てかけていた刀を手に取り音もなく駆け出していた。

 織物一枚を身にまとい、半霊を伴い二振りの刀を持って追ってくる姿は異様であろう。

 主の命に従い疾駆する少女は、さながら獲物を狙う肉食獣のように。

「話の方向性がおかしくなっているだろう」

 背後から、抜刀した半裸の少女に追いかけられる――

 完全に逃げ切れる余裕もなければ自信もなく、己の身ひとつでこの冥界から抜け出すことなどできるはずもない。だがしかし、脚を止めるわけにもいかず、彰人は枯山水の広がる中庭を全力を以って駆け抜けていた。

 

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 妖夢が彰人を捕らえるよりも、もっと手っ取り早い方法がある。

 パチンと紫が指を鳴らすと同時に、眼に視えずとも変化は確実に起こる。彼女は、弄った彰人の身体の境界をすべて解く。

 瞬間――

 今の今まで痛みを誤魔化していた身体は、本来の在るべき元の姿へ戻る事となる。それは、身体に蓄積された衝撃、負担すらも一気に解放されることを意味していた。

 つまりはどういうことか?

 麻酔のおかげで痛みを感じない手術中に、その麻酔が切れればどうなるか?

 同様の結果を彰人は身を以って味わうことになる。

 刹那に――

 遠くの方で男と思しき叫びが聴こえたような気がしたが、特に意識した素振りも見せず、紫は愉快そうに口元を扇子で覆うだけだった。

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