「あー、おかえり」
居間で寝転がりながら菓子をほうばる洩矢諏訪子に一瞥をくれ、彰人は凝った肩をほぐしていた。
「ああ、ただいま……」
「おやおや、随分とお疲れだねー」
見た限りでも彰人の顔には疲労の色が浮かんでいる。
肯定を示すように、大きく息を吐き腰を下ろす。
「ええ、子どもたちに引っ張り回されましたよ。加えて畑仕事もありましたからね」
「あははは、子どもは元気さが売りだからね。活発で何よりじゃないか。どれ、そんなアンタに、わたしがお茶でも淹れてあげるよ」
「すみません、お願いします。それと、寝転がって食べるのは行儀が悪いですよ?」
「ん」
言って、立ち上がる諏訪子に――
「……待て」
何を自分は普通にやり取りを交わしているのだろうか。
ようやくして、状況がおかしいことに気づいた彰人は、横を過ぎ去ろうとした幼女の襟首をむんずと掴んでいた。
「あう?」
「ケロ神さま……アンタ、なんでウチに居るんだ……?」
彼が指摘するように、諏訪子がこの家に居ること事態が理解できていない。ここは守矢神社ではないからだ。
そんな相手に諏訪子は片手を開いて言葉を紡ぐ。
「いやねぇ、話すと長くなるんだけれどさぁ」
「手短に」
「家出」
「説明端折り過ぎでしょう?」
「聴いとくれよ。早苗ったら酷いんだよー。神奈子と早苗の分のお菓子を食べたら、鬼のような形相で怒り出したんだよ! だからわたしは家出してやったんだ!」
「…………」
前に守矢神社に伺った際に、諏訪子はおやつとして用意されていた団子とは別に、彰人が土産として持っていった饅頭をひとりで散々食べつくしていた。そのことに関して早苗にこっぴどく叱られていた姿を目撃している。
饅頭については彰人が持ち込んだものであり、そのせいで諏訪子が叱られるということに関しては責任を感じていた。だが、意図的に他人の分を食べて怒られるということであるならば話は違う。
流れを確認しながら彼。
「それは怒られて当然でしょう。聴いた部分の限りでも、完全にアナタに問題がありまくりでしょう? それに、だからと言って家出するって考えに結びつくのも極論過ぎますよ?」
「んー? そうかなぁ?」
掴まれていた襟首から指が離された諏訪子は不思議そうな顔をしつつも、元居た場所に戻ると寝転がっていた。
脚を上下に意味もなくぶらぶらと動かしながら、呑気に菓子をほうばる彼女。
茶を淹れるという話はどこにいったのやらと思いながらも彰人は呆れ混じりに口を開く。
「そもそも、ウチは宿でもなければ駆け込み寺でもないんですよ? 駆け込み寺に御誂え向きの
彰人の提案を――だが、諏訪子には一笑に付されるだけだった。
「あはは、面白い冗談だねぇ。祟り神が寺に助けを請うってのもさ。でも残念、生憎とわたしに向こうは気が乗らないんでね。生臭坊主がいるトコよりは、此処の方が居心地いいんでねぇ。まー、そんなワケで此処に居るんだよ。ところでご飯まだ? お腹すいてさー」
「たかる気満々ですか?」
「じゃあ、お手軽なカップ麺でいいよ」
「なんで渋々妥協された上で、食べること前提なんですか?」
「それよりもさぁー、この漫画の前の巻ない? 敵だったヤツが味方になって話が進んでんだけどさ、その経緯がわかんないから飛ばして次を読んだら展開がいろいろ変わって困る――」
「知りませんての。というか、くつろぎすぎでしょう」
畳に散らばる菓子袋、ジュースのペットボトル。『香霖堂』から商品販売合否選別のために持ってきていた雑誌や漫画本。
今もまた新しいスナック菓子の袋を開け、ぽりぽりと食べながら。
彰人の眼が向けられたのは、畳に散乱するチョコレート菓子の袋である。
好き勝手に散らかす妖精連中にも参りはするが、諏訪子は更に拍車をかけて酷かった。食い散らかしては読み散らかしているのだから。
妖精たちの中には、振る舞いをある程度止める者がいる。「善悪の判断を持ち、相応の常識を理解している」大妖精しかり、「一番理解し易い一般的な性格」のルナチャイルドしかり。
限度を超える素行の悪さに対しては咎める者がいるだけまだマシであろう。とは言え、根本的なところは大妖精やルナチャイルドがどんなに窘めたところでも、他の妖精連中は聴く耳を持たずに勝手のままだが。
結果、片づけをしているのも主に大妖精やルナチャイルドのふたりであったりするのだが。言い方を変えれば気苦労しているだけとも呼べなくもない。
と――
「…………」
無言のまま、徐々に彰人の眉間には深く険しい皺が刻まれていくこととなる。
おかしい――彼の脳裏に、そう疑問がよぎっていた。
有名メーカーであり、見慣れたパッケージデザインの菓子は、明らかに自分が買ってきて貯蔵していた類のものだった。
これら菓子類は寺子屋の子どもたち用のおやつであり、妖精たちに食べられないようにと念には念を入れて隠していたというのにだ。
ひとくちサイズのチョコレートは、ひとつひとつ包装フィルムに入れられている。この菓子は決してこの幻想郷には存在していなければ、売ってもいないハズだった。
包装フィルムを剥がしては、ひとつ、またひとつと諏訪子はパクリパクリと口にしている。
たまたま彼女が同じものを持参して食べているとは考えられなかった。
そのため、彰人は不審の念を抱いていた。
「……ケロ神さま、確認のためにひとつ訊きますけれど……食べてるソレ、一体どこから持ってきたんですか?」
「あ、コレ?」
摘んでいたチョコレートを口に放り込もうとしていた諏訪子はその恰好のまま応えていた。
「納戸底下の酒瓶が置かれた更に下の二重蓋を開いて見つけたよ。アレぐらいで隠したつもりだってんなら、まだまだ甘い――」
得意気に語り出す諏訪子の台詞を皆まで聴かず――
「やっぱりか! 何を勝手に盗み食いしてるんですか、アナタは!」
言って、傍に歩み寄っていた彰人は瞬時に諏訪子の手から菓子をひったくっていた。
「あ、あーうーっ! なにするのさっ! 今、わたしが食べてるところだよっ!?」
慌てて飛び起き、ぴょんぴょんと跳ねては――なんとかして奪い取ろうとする諏訪子に対し、彰人は一喝する。
「阿呆でしょう!? 菓子が食いたければ、自分ンちの巫女さんから貰ってくださいよ!」
「そんなこと言ったって、わたしンちには団子や饅頭の類しかないんだよ!? こんなに美味しいハイカラなお菓子はないんだよ!? チョコレートもビスケットもポテトチップスもないんだよっ!?」
「だからって、限度を弁えずに、ひとンちのモンを勝手にバクバク食べないでください! 久方ぶりに見ましたよっ! ひとりでこんなに暴食する阿呆はっ! 妖精たちだってまだ遠慮を知ってますよ!」
「
ニタリと得意気な顔をする諏訪子に――
「誰も褒めてませんよっ!? なに都合のイイように聴き捉えてるんですかっ!?」
これ以上言っても埒が明かないと悟る彰人は、自分よりも相手をよりよく知る東風谷早苗に頼むしかないと考えていた。
「まったく……これは守矢の巫女さんから叱ってもらうしかないか」
ぼそりと呟きながら彼。脳裏では人里で会った時にでもそれとなく話をしてみるかとして――
不意に服裾を掴まれていた。
「まぁ、待ちなよ人間」
「…………」
服裾を力強く掴んでいるのは諏訪子である。真顔だが――心なしか、カタカタと肩を僅かに震わせていた。
「人間、寛容な心ってもんは大事なことだと思うんだよね?」
「…………」
「いいかい? わたしはね……人間てのはさ、思慮分別は必要だと思うもんなんだよ。ああ、いやいや、言い方が悪かったね。勘違いしないでほしいんだけれど、なにも思慮深くなれとは言わないよ?」
感慨深げにうんうんとひとり頷き諏訪子。だが、小刻みに揺れる身体の震えは未だ収まっていない。
「…………」
「情心を失ってしまっては、人間はただの畜生に成り下がってしまうものさ。そうは思わないかい? 無理を通せば道理が引っ込み――」
饒舌多弁――
イヤに口数が多くなる相手を訝しみ、彰人は顔をしかめつつも問いただす。
「端的にお願いします」
「お願いだから早苗に密告しないで」
「弱っ!?」
あまりの弱腰っぷりに、彰人は思わず声を上げていた。
恥も外聞も捨てたかのように、諏訪子は脚にしがみついてくる。
「早苗は怒るとすっごく恐いんだよ! バレたらなにされるかわからないんだよっ!?」
「……ケロ神さま、確かアナタ……『祟り神』でしたよね?」
呆れ混じりに彰人はそう呟いていた。
祟り神――
天変地異、荒廃する人の心、流行病など、神の荒々しい側面の働きによって引き起こされた現象を人々は恐れ『祟り』と称していた。
畏怖し、忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神ともなると信仰されるている。
信仰次第によっては人々に恩恵を与える一方で、または人々に恐ろしい災厄をも振りまくと伝えられる『神々』である。
一般に総じて伝えられる『祟り神』という概念を思い浮かべた上で、そんな彼女がひとりの少女を恐れるとは本末転倒だろうと彰人は口に出さず考えていた。
だが、その思考は読まれていたのだろう。一際強く、諏訪子はガタガタと震え出していた。
「アンタは早苗の恐ろしさを知らないんだよ! あの子が本気で怒るとハンパないんだよっ!? アンタが守矢神社に来た時なんて、あの後こっぴどく叱られたあげく、お尻叩かれて、さらには、わたしのご飯はしばらく抜きにされたんだよっ!? 元はといえばアンタのせいじゃないかっ! 責任ぐらい取ったらどうだい人間っ!」
とんでもない目に遭ったんだからと豪語する諏訪子ではあるが、ちなみに八坂神奈子も同じような仕打ちを早苗から受けていたりする。彼女の場合は全ての酒類を取り上げられていた。つまりは、東風谷早苗による完全な禁酒令である。
だが、彰人は当然のことながらそんな実状があったことは知りもしない。
「……責任転嫁って言葉をご存知ですか? そもそも、怒られるようなことをしたケロ神さまに過失があるのはしょうがないでしょう? こちらが持参した品に関しては非を認めますけれど……それよりも、これは寺子屋の子どもたちの分なんですよ!」
子ども、という言葉に過敏に反応した諏訪子は反論する。
「わたしだって子どもだよっ! なら、なにも問題ないじゃんか!」
「前に子ども扱いするなって言ってましたよね? 容姿は関係ないってことも、自分の口からそう仰ってましたよね? どうして都合のイイ時だけ切り替えてるんですか?」
「まあまあ、そんな些細なことは、どーでもいいじゃんか」
言って、諏訪子は己の両頬に指を当ててニコリと微笑んでいた。
「こーんな別嬪さんがだよ? お菓子を食べて喜ぶ愛くるしい笑顔が見れるってんだよ? そんな子からお菓子取り上げたり、可哀想な目に会わせるだなんて、それこそ野暮ってモンじゃないか――って、どうして眼を背けるのさ?」
「自分で『別嬪』やら『愛くるしい』やらと平然と口にするのは少しばかり図々しくないでしょうか?」
ひったくり返す諏訪子であるが、彰人もまた負けじと再度菓子袋を奪い取っていた。
手の届かない位置へ掲げられ、諏訪子は非難がましく睨みつけ口を尖らせていた。
「さっきからなにさ、ケチケチして……ちょっとぐらいイイじゃんか」
「……あん?」
刹那――
彰人のスイッチが切り替わり、抑えていた口調が変わることとなる。
「……ちょっと? ちょっとと言ったか? ちょっとだぁ? アンタの眼は腐ってやがんのか?」
聴き咎めた言葉に彰人の視線が戻されていた。そのまま、空いたもう片方の手が伸ばされ
「四袋も平らげやがって、何がちょっとだ!? あげくッ! 二リットル入りのペットボトル飲料を三本も空にしてるのは、頭どうかしてんじゃねぇーのかっ?」
だが――
諏訪子はふうと息をつくと、掴まれる頭のまま首を振っていた。
「いやだねぇ、これだから器量の狭い人間は。神に供物をささげることと同義じゃないか。誇れることだってのに……あー、やだやだ」
「…………」
今一度盛大に深い溜め息を吐き、やれやれと肩を竦める諏訪子に――額に青筋を浮かべた彰人は掴んでいた頭から指を放すと、今度は彼女の顔を掌で覆っていた。
「――あう?」
突然視界が暗くなったことに間の抜けた声を漏らす諏訪子ではあったが、瞬間――
「い、痛っ!? 痛い痛い痛い痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
彼女の口から悲鳴が上がる。
構わずに、そのまま彰人は手に力を篭めて諏訪子の顔を潰すかのように握りつけていた。
彼が下している折檻行為は、通称アイアンクローと呼ばれる、いわば一種のプロレス技である。別名は脳天締め、鉄の爪とも呼ばれており、正式な名称はブレーン・クローと呼ばれる。
掌全体で相手の顔面を掴み捕らえ、指先に握力を篭めて締め上げ、苦痛を与える技である。
「悪びれもせず、ふんぞり返って居直る神さまは、灸を据えなければわからないとみえる」
「ぎゃあああああっ!?」
以前は神奈子に頭を押さえつけられていながらも容易に抜け出していた諏訪子であったが、油断していたのか、またはタイミングを逃したのか――
案の定、諏訪子もまたご多聞に漏れず、ばたばたと暴れ出していた。
「痛い痛い痛い痛い、割れる、割れる割れる割れる――割れるっての!? 卵みたいにパッカリ割れるって! くぱぁって、くぱぁってなるってっ!」
「……無駄口叩くのは、元気が有り余るからだよな?」
更に指先に力を篭める彰人に対し、諏訪子の悲鳴がさらに増す。
「痛いぃぃぃぃぃ!? 爪ッ!? 爪が喰い込んでるっ!? 抉れるっ、抉れるって! 肉が抉られるって!」
激痛にのた打ち回り、仰け反るように拘束を解こうとするのだが、がっしりと掴み留める彰人の指が外れることもなく、むしろ諏訪子が暴れれば暴れるほど、爪はより一層深く喰い込んでいく。
ついで、手首は90度ほど前へ倒れている。つまりは、上から押さえつけている恰好であり、彰人は腕力に加えて体重まで乗せていた。
「……ごめんなさいは?」
「だ、誰が謝るモンか! 神が人間如きに――後で覚えてなよっ、愚劣極まる低俗な人間がッ! わたしは絶対に――うきゃああああああっ!?」
「…………」
ぎりぎりと指先にさり気なく力を篭めながら彰人は訊ねていた。
「あと十数えるうちに謝るなら、まだ許す。十、九、三、二」
「ちょっとぉぉぉっ!? 八は? 七は? 六は? 五は? 計数するの早すぎじゃないかっ!?」
「ツッコミ入れられるってことは、まだまだ余裕があるって証拠か。減らず口叩けるのは見事だな。そういうこと言うのはこの口か? あ?」
「い、痛いって言ってんだよっ! 呪うよ、祟るよ、酷いことするよっ――きゃあああっ!? 痛いぃぃぃぃ」
「…………」
無言のまま握力を増してくる相手に諏訪子は悲鳴を漏らし続ける。
「――っ、痛たた、痛い痛い、痛いっての――い、いたいぃぃぃぃぃぃ」
「……もう一度訊きますが、ごめんなさいは?」
「――ごめん、ごめんて、ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「いまいち誠意が感じられません。本当に悪いと思ってますか?」
「思ってる思ってる思ってるから、心の底から謝るから――だからっっ、あああっ、だから力入れるのやめてええっ!? 許してっ――助けてぇ、助けてっ、さ、早苗っ、早苗っ――助けてぇっ、さーなーえーッッ!」
いい加減に離せとばかりに、げしげしと蹴りを叩きこんでくる相手に――ようやくして彰人は折檻行為をやめていた。
掴んでいた指先の力が緩むのを見逃さず、諏訪子は両手で跳ね除けその場に蹲る。
「うう、疵物にされた……」
涙目となり、痛む己の顔をさすりさすりと触れる諏訪子。特に爪痕が残るこめかみが激痛を訴えてくる。
「まったく……神を敬う気持ちが微塵もないのかねぇ、この人間は……調子に乗るんじゃないってんだよ……わたしが本気を出せば一捻りだってのに」
文句さながらぶつぶつと呟き諏訪子。
「…………」
刹那――
たった今離れたばかりの彰人の指先は、またもや諏訪子の顔をロックし握りつけていた。
「また捕まったっ!?」
「祟り神さまは学習能力が皆無なのか?
「ぎゃーっ!? さ、早苗ーっ、助けてーっ!」
仰向けに倒され、今度はさっきの比ではなく全体重を乗せて諏訪子の頭を畳に押し付けるかのごとく。
盛大に四肢をばたつかせて暴れる彼女は苦悶の悲鳴を上げ続けていた。
と――
「諏訪子さまーッ!」
突如として、鋭い息吹とともにスパーンと耳障りな音を立てて障子が開かれる。室内へと雪崩れ込んでくるのは緑の弾丸、守矢の巫女こと
歓喜を含んだ声音が諏訪子の口から上がっていた。
「早苗ーっ!!」
「ご無事ですか諏訪子さまっ!? いつまで経っても帰ってこないので心配して探してみれば、諏訪子さまの悲鳴を耳に捉えて――」
「……君の耳は『地獄耳』か?」
ぽつりと呟く彰人をさり気に無視したまま早苗は続ける。
「なにやらよからぬ予感がしてみれば――加藤さんっ! これは一体どういうことですかっ!?」
早苗の視界で展開されている光景は、とにかく異様であろう。
敬愛して止まない二柱神のひとりたる洩矢諏訪子が、畳に押し倒されたあげく、顔面を掴まれて悲鳴を漏らしているのだから。
ある意味、婦女暴行――
故に、眼の前で行われている暴力を見過ごす事などできるわけもなかった。
「事と次第……返答如何によっては、容赦はいたしませんよっ!?」
手に握り締める御幣を翳し、ギラリと睨み据える早苗に対して――だが、彰人はじっと相手の足元へ視線を向けると、若干強い口調で咎めの言葉を紡いでいた。
「……守矢の巫女さん」
「はい?」
「悪いが、土足厳禁」
「あっ! わたしとしたことが……これは大変失礼しました」
粗相に慌てて靴を脱いだ早苗は、回れ右して縁側へと走る。行儀よく踵を揃えて地面へ置くと、くるりと振り返っていた。
「では、改めまして」
こほんとひとつ咳を払うと、再度手に持つ御幣を差し向けていた。
「守矢の
「さ、早苗ーっ! 無駄な口上述べてないで、早く助けてーッ!」
「諏訪子さま、もうちょっと待っててください。ここからがメインですし、まだ大事な決めポーズもとっていないのですが?」
空気を読んでほしいとばかりに、早苗は不服そうな声を漏らす。
が――
「そんな悠長なことやってる時間はないんだよ! コイツは正義の味方が口上述べてるのを黙って聴いては手出しもせずに律儀に待ってる悪役じゃないんだよっ! そうこうしてるうちに、コイツ、さり気なく強弱つけて指先の力増してきてるんだよっ! わたしの顔を粉砕するかのごとく――早く、早くしてーッ! わたしとポーズと、一体どっちが大事なのさっ!?」
「……決まっているじゃないですか。もちろん、諏訪子さまですよ?」
「ちょっとぉぉっ!? その若干の『間』は、なんなのさっ!? いいから早くっ、早く、コイツをとっちめてよっ! 早苗っ、この男が――嫌がるわたしを、欲望のままの捌け口にしたんだよっ!?」
誇張も過ぎれば虚偽も過ぎる。
だが、早苗にとっては動くに十分な言葉であった。
「なんて羨ま――ごほんごほん、もとい、なんというおぞましいことをっ――絶対に許せませんっ、絶対に許せませんっ!」
「……大事なことだから二回言ったわけか?」
指先に篭める力は緩めもせずに彰人はぼそりと呟く。比例して、諏訪子の口から漏れる悲鳴は増加していた。
「その他諸々吹っ飛ばし、以下省略とした上で、守矢の
ダッと駆け出す早苗であるが――
突如として、その視界は闇に包まれることとなる。突進してくる彼女の顔もまた、彰人が伸ばしていた手に掴まれていた。
「……え?」
そのまま――
「きゃああああっ!?」
早苗の口からも、諏訪子同様に悲鳴が漏れ出ていた。
「割れる、割れちゃいますよっ!? わたしの頭がっ――というか、顔が!? 物の見事に、ぱっくり割れますうぅぅっ! 開頭ッ、『頭が割れる日』ッッ!? 潰れるっ!? 潰れちゃいますっ! ブシャーって、ブシャーってなりますっっ!? なんだかとっても出ちゃいけないものが、顔からブシャーって出ちゃいそうな雰囲気ですよっ!?」
右手は諏訪子の顔を潰しにかかり、左手は早苗の顔を締め上げていく。
「助けてェー、早苗ェェェ!」
「お助けくださいッ、神奈子さまァァッ!」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「顔が……顔が取れるかと思った……」
「ううう、諏訪子さま……不甲斐ないわたしをお許しください……」
ようやく折檻から解放された諏訪子と早苗は共に畳に倒れ伏し、各々痛む顔を押さえていた。
恨みがましい眼つきで早苗は彰人を見ていたが――不意に、その視線は別のものへと移行していた。
「…………」
じっと見入る先は、彰人の手元。彼は畳に散乱するゴミを拾っている。
食べきった菓子の袋や飲み干したペットボトル、果ては雑誌の類。それらを無言のまま手に取り片付けている姿を見つめていた早苗であったが、彼女の脳裏ではとある仮説が立てられていた。
もしかしたらと疑問が生まれる。
「…………」
仮に、自分が思い考えていたことが正しければ、先の状況も、そういった行為に発展していたとしてもあながち間違ってはいないことになる。
それらを見透かした早苗は懐疑心を拭い捨てることは出来なかった。
「諏訪子さま? つかぬ事をお訊ねしますが、もしかして……加藤さんのお家のものを何か勝手に食べましたか?」
「――――」
問いかける早苗の声音に、諏訪子は面白いほどに身体をびくりと跳ねさせていた。ついで、決して眼を合わせようとはせずにあらぬ方へと視線を向ける。
「……ナ、ナニカッテナニカナ? ワタシハナニモタベテナイヨ? シラナイヨ? サナエハオカシナコトヲキクモンダネェ?」
「なぜ、こちらを見ないんですか?」
「チョットコッチヲミテイタイキブンナンダヨ。フカイイミハナイヨ。ホントダヨ?」
「…………」
ふたりのやり取りを横目で見ながら彰人はひとり囲炉裏の傍に座り茶の用意をしていた。
金属製の台である五徳に乗せていた鉄瓶を取り、沸かした湯を急須へと注ぐ。
片言の話し方をする諏訪子に――早苗はニコリと微笑んでいた。
「そうですか。なるほどなるほど……ああ、ところで諏訪子さま、口の端がチョコレートで汚れていますよ?」
「え? ホント? ちゃんと汚さないように食べたつもりだったんだ、けれ、ど……」
言葉尻を小さく濁し、そこまで口にした諏訪子の顔から血の気が失せる。彼女の口元は一切汚れていない。チョコレートの跡など微塵もない。
だが――
疑念は確信へと変わる。証言は諏訪子自身の口から語られていたのだから。
「まさか、こんな単純な手に引っかかるとは……努々思いもしませんでしたよ」
「は、はわわわわ」
静かに――しかしながらとりわけ低い声音で呟く早苗とは対照に、滝のように止め処なく汗を垂らした諏訪子は眼を泳がせガクガクと震え出していた。
嵐の前の静けさとでも言うべきか。
ゆっくりと、それでいて大きく呼吸する早苗の姿を眼にし、彰人は己の両耳を手でふさぐ。
と――
「諏訪子さまぁッッッ!!」
大声量が早苗の口から発せられていた。
びりびりと空気を振動させ障子に襖、畳や天井が軋む。しっかりと耳を塞いでいた彰人ですら、早苗の声量を完全に防ぐことはできていない。
「いい加減にしてください諏訪子さまっ――どうして人さまに迷惑をかけるんですかっ!? 神さまだから何をしても許されるとは限らないんですよっ!? よりにもよって盗み食いなんて、みっともなくて恥ずかしいにも程がありますよっ!? 信仰が薄れてしまいますよっ!? よくわかっているんですかっ!?」
「ひいいいいいいいっ!?」
情けない声を上げながら諏訪子は転がると、茶を入れた湯呑みに口をつけていた彰人の肩を掴み振り向かせるとその背後に隠れていた。
「待て。俺を巻き込むな」
湯呑み片手の彰人は強制的に般若の形相となった早苗と対峙させられる恰好となる。
「本気で怒りますよっ、諏訪子さまっ!」
「もう怒ってるじゃんかっ! 人間っ、なんとかしとくれよっ!」
ふしゅるるる、と白い息を口から吐き出し立ち上がり迫る早苗に対し、諏訪子はガタガタブルブルと震えて縮こまる。
「…………」
怒りに染まる早苗を眼の前にした彰人はなるほどと胸中で独りごちていた。諏訪子が言うように、これ程の雰囲気では一体どちらが『祟り神』かわからない。
「きちんと謝ってください諏訪子さまっ! またご飯抜きにしますよっ!? おやつもタクアン一切れにされたいんですかっ!? 今度は二週間にしますよっ!?」
「い、イヤだよ早苗っ――おやつがタクアン一切れなんて、わたしは三日も耐えられなかったんだからっ!」
「…………」
タクアンで一体なにがあったのか大変興味を持った彰人ではあるが、耳元でがなり立てられてはかなわない。
早苗に対して落ち着いてくれと告げて彼。
「食べ過ぎてることに関しては、確かに問題ではあるけれど……事前にケロ神さまが欲しいと言ってくれれば、俺もあげなくはないんだ」
だが、早苗は頭を振っていた。そんな甘やかせる必要はありませんと反論する。
「いいえ加藤さんっ! そういう事情が事情であるならば、どうぞ思う存分折檻なさってくださってかまいません。諏訪子さまは我侭すぎます」
この言葉に対して諏訪子は内心穏やかではない。
「早苗っ、裏切るのかいっ!?」
「諏訪子さまは黙っていてくださいっ! どうして人の家に勝手に上がり込んでお菓子を食べてるんですかっ! どうして断りもなく勝手なことをするんですかっ! 威厳を失ってしまっては、信仰をどうこうするのも難しくなるんですよっ! わかっているんですかっ!?」
「そんなこと言ったって、ウチにはチョコレートなんてないじゃんかっ!」
「だからと言って、よそさまのお菓子を勝手に食べていい理由にはなりませんと説明しているのに、どうしてわからないんですかっ!?」
「…………」
教育ママさんのようだと感心しながらも、彰人は手にしていた湯呑みが空になっていたことに気づく。二杯目の茶を注ぎ、口をつけようとして――
先から強く意見しない彼に対して、早苗は諌める。
「加藤さん! 加藤さんも、もっと怒ってくださってもいいんですよ? わたし以上に叱って頂けるなら協力するにやぶさかではありません」
「…………」
そう話を振られた彰人ではあるが、首を動かすと肩越しに諏訪子を一瞥していた。早苗に叱られたこと――もとより、何かしらの
こんな相手にふたり揃って叱りつけるのもどうかと彰人は考えていた。
「……いや、まあそれはそうではあるんだけれど、俺以上に巫女さんが怒り心頭の姿を見てたら逆に冷静になったというか……それに、ケロ神さまも、君に十分搾られて反省してると思うし……もうこれ以上はイイんじゃないかなぁと思うんだけれどね」
早苗は守矢神社での一件以来彰人が好きではない。敬愛する二神を侮辱されたこともあり、彼に好い感情をもってはいなかった。だが、今この時においては、それとこれとは話が違う。
「甘やかすことはいけません。叱るべき時は、きちんと叱るべきだと思います」
「巫女さんの言うことはわかるよ。だが、場合によっては逆効果ということもあると思うんだ」
「まぁまぁ早苗、この人間もうこう言ってるんだから、ここはひとつ寛大な心で水に流してあげるとしてだねぇ」
「諏訪子さま? どうして諏訪子さまがお決めになられるんですか?」
額から頬にかけて青筋を浮かび上がらせながら微笑む早苗を軸に、周囲に轟々と風が吹き荒れる。
「というか、なにを素知らぬ顔をして話に割って入って来ているんですか? 全く反省していないじゃないですかっ!!」
「あ、あわわわわわわ」
「ご飯とおやつ抜き三週間に決定です」
「お、横暴だよーッ!?」
本格的に怒りはじめる早苗を前に、諏訪子は顔を蒼ざめ慌てふためくのみ。
室内に生まれる強い風を彰人はその身に直に受けていながらも、囲炉裏の火に変化はなかった。強風に煽られることもなければ揺らぐこともない。
灰を撒き散らされ火の粉が舞って火事にでもなられてはと危惧していたが、彼の心配をよそにどういう手腕か早苗は諏訪子の相手をしていながらも囲炉裏周りの風の流れは操作している。
「…………」
せっかく話を切り上げようとしたというのに、どうしてこのケロ神さまは余計なことを口走るのだろうかと胸中で呟きながら、彰人は湯呑みに口をつけていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「居るかっ、外来人っ――!?」
「おはようございます、犬走さん。こんなに早くからあなたが来るなんて珍しいですね。どうかしたんですか?」
炊事場で彰人は包丁片手に朝餉の準備に取りかかっていた。
朝も早くから、しかも犬走椛が家に来るなど珍しいにも程がある。なにかあったのかと何の気なしに振り返り――普段見慣れた冷静な振る舞いとは大きく違い、落ち着きを欠いた彼女の姿を捉えていた。
「なにを呑気なことを――いいや、その様子ではなにも知らぬが当然か……ともかく、一刻も早くここから離れろっ! 博麗神社は……遠すぎる、ならば命蓮寺にでも早急に逃げ込めっ!」
「……待ってください。いまいち事態が飲み込めていないんですが」
いきなり押しかけて『逃げろ』とはどういうことやら。
理解が追いつかない彰人に対し、面倒なヤツだといわんばかりに椛は小さな舌打ちを漏らしていた。
刹那――
彰人の顔に叩きつけるかのごとく、力任せに投げつけられたのは一部の新聞だった。
しわくちゃとなる紙面を広げ、特に理由もなく眼を通し――
「正直なところ、お前に義理立てるつもりはないが……なまじっか知り合いとなった以上は、不本意では在るが見過ごすに見過ごせん。見殺しにしたとなっては寝覚めが悪い」
「…………」
説明する椛であるが、彰人は既に聴いてはいなかった。
射命丸文が発行する新聞、『文々。新聞』に号外と称して打たれている本日の日付。
一面を飾る文体と写真――
『守矢の巫女と祟り神に獣欲のごとく襲いかかる外来人』という見出し。
「…………」
適当な言葉の羅列。強調される表現。
事実と大きく異なり、あることないこと書き叩かれている文面。歪曲され、誇張され、捏造される。読み手側にあらぬ誤解を生じさせるには十二分過ぎる内容である。
敢えて明確な言葉の表現を避けている部分も、ある意味余計にタチが悪い。
「…………」
無言。ただただ無言。
無表情のまま一面を見入る彰人とは対照に、椛は口早に告げていた。
「とにかく、読んだ通りであり説明している暇はないっ! 号外として結構な数の新聞がばら撒かれているせいで、守矢の軍神が血相を変えて動き出している」
「……どういうことですか?」
視線だけを動かし彼。だが、椛は口を動かすのも煩わしいとばかりに一喝していた。
「どうもこうもないっ! その新聞に書かれている内容を知った軍神が、お前を始末しようと動き出していると言っているんだっ!」
「始末?」
随分と物騒な言葉を耳に捉えた彰人は、思わず聴き間違いかと自問していた。
だが、椛は至極真面目な顔のまま。むしろ切羽詰った表情を浮かべている。
哨戒天狗である彼女が
並々ならぬ神力の波動――
桁外れな神力の発生場が守矢神社の在る方角であることに気づいた椛は、自身の持つ『千里先まで見通す程度の能力』によって、正体を見抜いていた。
怒髪衝天――
尋常では計り知れない怒気を帯びた形貌の八坂神奈子の姿を。ついで、神が手に握り潰していた『文々。新聞』の存在を。
状況を瞬時に理解したその後の椛は迅速であった。射命丸文には到底及ばぬ速度ではあるが、全力全速を以って彰人のもとへと向っていたのだった。
「詳しい話は後にしろ。もう一度言うが、今は一刻を争う」
言って、椛は彰人の腕を取ると、急いで外へ連れ出そうとしていた。
椛にとってみれば、記事に書かれているような行動に彰人が出るとは思っていなかった。
そうまで信用している、というわけではない。単純に、そんな度胸も持っていなければ、あの『祟り神』と『現人神』のふたりを相手に大胆な行動を起こせるような人間だとは思っておらず、みだりに女性に対して節操無しだとも感じていなかった。
だが、どんなに椛が思おうとも神奈子は違う。一個人の捉え方などそれこそ千差万別であるからだ。
例え内容がデタラメであろうと理解する者もいれば、片や内容を信じ込む者もいたりする。
八坂神奈子は後者であっただけの話であろう。そもそも、鴉天狗の新聞をそのまま鵜呑みにしている軍神もどうかと思うが。
早苗のことともなれば過保護にもなり周りが見えていない。ことさら彰人に対しては前例(守矢神社での一件)があるため些か快くは思っていなかった。そんなところへ乱暴されたなどと書き叩かれた記事に眼を通してどうにかならぬ方がどうかしている。
ちなみに当事者たる早苗は書かれた記事の内容に茫然自失となっていた。
「え? あれ? わたし、もうお嫁にいけないんですか?」
そんなことをポツリと呟き、もうひとりの当事者である諏訪子は、神奈子に睨まれる彰人に対して特に止める気もなければ逆にいい気味だと邪心めいた笑いを漏らしていた。
諏訪子はともかく、早苗は別の意味でショックを受けているのだということにも気づくハズもなく、事実であるために心情が安定していない姿だと解釈した神奈子が彰人に制裁するために動き出している。
つまるところは、どういった事実の流れであるかというハッキリとした確認もせず、勝手な勘違いをした神奈子の独断決行であるだけでしかないのだが。
と――
「――っ、遅かったかっ!?」
微かな空気の変化。大気を揺るがす振動を耳に捉えた椛は瞬時に動いていた。
音速を超えて眼前に迫るのは、大木を切り出して作られた二本の柱。
縁側を抜けようとした椛は咄嗟に彰人の襟首を掴み床板へと引き倒していた。
だが――
御柱が障子を蹴散らし室内へと雪崩れ込むことはなかった。
淡い光に包まれた御柱は空中に浮いたまま停止している。結界が即座に反応し侵攻を防ぎとめていた。
「……はじめてみたが、きちんと仕事をこなすんだな」
害のある類の侵入を防ぐとされる結界の効果に思わず彰人は呟きを漏らしていた。
ぴくりと眉を動かす椛の眼前に――
「力押しは無理か。博麗の符術……さすがに面倒なことだ」
ジャリ、と土を踏み降り立ち現れたのは、やはり守矢神社が祀る二柱神がひとり、八坂神奈子である。
結界に阻まれていた御柱が引き寄せられるかのように神奈子のもとへと返っていく。加えて、同じような御柱が幾本も生まれて滞空していた。
まさしく、威風堂々――
腕を組み、鋭い視線が彰人へと向けられる。
「カトウ、だったな? 朝早くからすまないね。邪魔するよ」
「……これはどうも、八坂の山神さま……」
「…………」
起き上がり一応挨拶をする彰人と、そんな彼を護るように椛は前に立っていた。
武装を展開しているのは軍神が先である以上、こちらとしても分相応に構えをとる必要がある。疾うに抜刀し、盾を構える椛は僅かに身体を沈めていた。
相手の動きに僅かでも変化があれば即座に対処するために。
視覚や聴覚といった特殊感覚と異なる体性感覚すら余すことなく機能させて彼女。
「随分とウチの早苗が世話になったそうだねぇ……いやはやまったく、早苗を泣かせた責任は取ってもらうよ」
そう告げた神奈子の双眸は、そこでようやく刀を握り立ち塞がっている白狼天狗の姿を捉えていた。
「……木端天狗がなに用か?」
「この外来人に義理は無いが、知ってしまった以上は捨て置けぬ」
「クッ――」
淡々と応える椛に対し、神奈子は口角を僅かに上げて一笑に付していた。
「ほう……意気込みは好し。だが、我に立ち塞がるのがどういうことを意味するのか、わからぬワケではあるまいな?」
「…………」
無言を肯定と受け取った神奈子から発せられる、張りつめたかのような空気の変化。
「木端風情が誰に物を申して居るか。身の程を弁えよ!
鬼哭啾啾――
びりびりと身を打つかのような威圧が奔るが、それでも椛は動きはしない。
頬を一筋の汗が伝う。
ここで守矢の神々とトラブルを起こして天狗に良いことなど何もない。むしろマイナス面が多すぎる。統率の取れた天狗社会に椛の独断行動が問題視されることも当然であろう。
規律を重んじる彼女であるからこそ、更に言えば人間とかかわる必要性もない。捨て置くことが一番の状況判断であろう。
神奈子が言うように、己はしがない一木端天狗である。神と互角に渡り合えるとは思ってもいない。
「…………」
しかしながら、敵わぬ相手だと自覚し眼の前にしておきながらも、白狼天狗とて意地がある。
彰人のことなど関係がない。もはや椛個人の意地でしかない。
結果――
「天狗の総意でなければ対応できぬか、守矢の神は? よほど一天狗の感情は恐れると見える」
椛なりの挑発である。しかし、神奈子は表情を歪めその誘いに乗っていた。
「ふふっ、言うではないか。喧嘩を売られるなど、実に久方ぶりだ。いいだろう。邪魔立てするならば容赦はせん。
「…………」
言って、神奈子の指先に生まれていたのは三枚のスペルカードであった。
是非もない。
椛もまた三枚のカードを取り出していた。
スペルカードルールにおける精神的な勝負に関しては、本気である以上手を抜くつもりはない。だが、これほどの神力が人里近い場所で暴れていれば、存在に気づかぬ輩が現れぬハズがない。
時間を稼げば命蓮寺の連中が何事かと動き出す。よしんば博麗の巫女でも動けば状況は更に変わることだとも読んでいた。椛にとってはそれを見越した点でもある。
そんな一触即発となる空気に割り込むのは彰人だった。
「……山神さま? 一応確認しておきたいんですけれど、俺が巫女さんに何をしたと思われているんでしょうか?」
「…………」
厳しい貌面でいた神奈子であるが――
「は、恥ずかしげもなく、よくもぬけぬけと」
何の前触れもなく、『ぼんっ』という擬音が生じるかのように瞬時に顔を――というか耳までもだが――鮮やかな色合いを放つ林檎の如く、紅潮させながら握り締めた拳を上下に激しく揺すぶらせていた。
「さ、さ、さ、早苗がっ、み、魅力的だからといってだなっ! が、我慢ができなかったというのは、わ、わからなくもないっ! わ、わたしから見てもだな、早苗は十分魅力的な娘であるからなっ! だ、だがっ! だがだっ! だからと言って、な、泣き叫び、い、嫌がる早苗をケダモノのように陵辱したなどと許せるハズがなかろうがっ! 嫁入り前の大事な早苗を毒牙にかけた報い、死を以って償うがよかろうっ!」
「……毎っ回思いますけれど、俺って、そんなに女性に対して見境ないヤツだと思われてるんでしょうか……?」
「わ、我らの許可もなくにだなっ! そのっ、き、清く正しい交際を前提とした手順を踏むのが道理であろうっ!? いやっ、必然であるっ!」
「……ちなみに、もうひとつばかりお訊きしますけれど、山神さまが仰る清い交際とはどんなものなんでしょうか?」
危機的状況であることを理解していながらも、彰人は訊かずにはいられなかった。
よもや、互いを知るためにまずは文通からはじめろとでも言うつもりなのかと考えながら。
だが――
「…………」
一呼吸入れた神奈子の顔は、更に二段階ほどよりよく紅く染まっていた。
「は、は、は、破廉恥なっ! お、男の風上にも置けぬ輩だキサマはっ!」
「……待ってください。なにを想像したんですか、アナタは」
「黙れっ! やはりキサマは生かしておけぬっ! もはやキサマと問答するのも汚らわしいっ! 早苗はわたしが護る! キサマは此処で朽ち果てるが筋であろう!」
「……ですから、そちらの巫女さんとは、山神さまが思われているような、そういった関係は全く無いんですが――」
「キサマっ、早苗のことは遊びだということかっ!? 誠心誠意、死を以って己の罪を償うならばまだしも、弄んだと居直る気かっ!? 息の根を止めてやる……」
「……どんどんこちらの評判が暴落していくだけか、コレ」
予想以上に純情すぎる神さまだなと思い知らされた彰人ではあるが、椛に蹴転がされると後方へと下がらされていた。
「お前もそれ以上口にするな。今の軍神は何を言っても聴き入れん。無駄に墓穴を掘るだけだ」
降り注ぐ御柱であるが――結界はものの見事に、ことごとく防ぎ止めていた。
「さて……『弾幕ごっこ』とは言えど、こちらも全力を出さねばならんか。わかっているとは思うがな、外来人……この家からは出ぬ方が身のためだ。死にたくなければジッとしていろ」
「もとより、出られませんけれどね」
結界が張られた家屋が安全である以上、外に出るわけにもいかず。彰人は告げられたまま大人しくしているしかない。
「…………」
軍神と白狼天狗が繰り出す弾幕を見つめながら、生じる誤解をどうするか考えはするのだが――
「ろくな案が思いつかん」
そもそも、こちらの話を全く聴き入らない八坂神奈子と対等な会話が成立するとは思えない。
しかし――
どうにもなりはしないが、どうにかしなければならない。
「どうしたものか」
心底面倒くさいことをしてくれると胸中で鴉天狗に毒づきながら、彰人は今一度深く息を吐き出していた。