幻想郷見聞録噺   作:ボイス

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04 哨戒天狗と外来人

 照りつける陽光に、じっとりと汗が滲む。

 澄みきった青い空に強い陽射し。風のひとつでも吹いてくれれば、額や首筋、腕に絡みつくような不快な汗もどうにかなるのだが。

 眼の前にあった果実をもぎとり、彰人は肩に下げたカゴへと放る。

 腕を伸ばし、またひとつ、またひとつと手にとっては、痛まぬようにと放り続ける。

「…………」

 無心のまま、視線を向けて――視界に捉えたのは、樹々に実る別の果物。彰人は鉄に覆われた腕を伸ばしていた。

 丈夫な皮地に縫いつけられた鉄板は、腕から手の甲までを覆っている篭手。

 山に果実を採りに行くと話をした際に、香霖堂で安値で譲ってもらった代物ではあるが、価格に見合わず防具としては十分過ぎる『品』であることを保障するよ、と霖之助は述べていた。

 身体を動かすたびに、護身用として腰に下げた短刀がその存在を示すかのようにガチャリと音を鳴らす。こちらはサービスでもらった物であるが。

 多くの古参妖怪や神々が住むとされる『妖怪の山』に入るつもりではなかったのだが――

 『山』に入る以上は軽装はお勧めしない。用心に越したことは無いが、護身用の一式は準備しておいた方がいいよ、と言うのは霖之助の弁。

「妖怪の山は、独自の文化や社会を築いているからね。触発しないように程々にしておくんだよ。それに、一番肝心なことだけれど、陽のあるうちに下山した方がいいよ。夜になってしまうと、妖怪の動きが活発になるからね」

 真っ昼間から出くわすこともないが、山には人を喰らう類も徘徊しているので気をつけるんだ、とも告げていた。

 危険性があるのも彰人は十分わかってはいたが、山で採れる果実は人里で売っている類とは味が違い、相応に旨味があった。

 食べるにも売るにも、危険に見合った『価値』が存在する。

 霖之助も、その点に関してはわからなくもなかった。

「『虎穴に入らずんば虎児を得ず』て言うでしょう?」

「まあ、脅すつもりはないんだけれど……時間があれば、一緒に行ってあげてもいいのだけれどもね」

 滅多に人が来ることのない香霖堂とは言え、彰人の都合で店を閉めるわけにもいかない。

 気持ちだけで十分ですよと会話を交わし――

 朝のうちから山に入り、太陽は頂点を過ぎたところだった。

「…………」

 ある程度採取し尽くすと――彰人は太枝から飛び降りていた。地面には、結構な量の果実が詰められている一個のカゴがある。そこへ肩に担ぐカゴの果実を移していた。

 何個か口にしたが、果実の甘みも十分あり、これなら意外といい値で買い取ってもらえるのではと期待を込めながら。

 あまり採り過ぎても持って帰るのに不便なだけ。だが、今現在のカゴの重さは、まだ持てない程でもない。

 もう少しばかり採っていくかと決めると、額の汗を拭い、次の樹々へと歩を進める。

 ――と。

「止まれ」

 静かに、それでいて語気を強めた声音は頭上から。

 彰人の三メートルほど手前に白く映える影が落ちていた。土を踏んで降り立っていたのは、紅葉が描かれた盾を持ち、頭襟に高下駄、山伏装束。哨戒を生業とする白狼天狗のひとり、犬走椛。

 先へと続く山道を塞ぐように現れた哨戒天狗に、彰人は軽く頭を下げていた。

「どうも、犬走さん。お仕事ご苦労さまです」

 彰人の言葉にひとつ頷き、ついで周囲に視線を向けながら相手は口を開いていた。

「ここから先は、我々『妖怪の山』の領域だ。看過はできん。無断で立ち入れば容赦はしない」

「ええ、重々」

 ぶっきらぼうな物言いに対し、彰人は素直に返答していたのだが、椛は既に抜刀している。

 日光の照り返しを受け、煌びやかな輝きを放つ刀身――

 彰人は刀に精通しているわけでもない。慧眼も持ち合わせていない。業物なのか、なまくらなのかも知りはしない。

 ただ、見ただけの鋼の刀身は曇りもなく。手入れを怠らず、余程丹念に磨きぬかれた愛刀なのだろうというのがうかがい知れた。

 それすらも、なんとなく程度の認識でしかないのだが。

 極端に言ってしまえば、「利刀」だろうが「鈍刀」だろうが関係なかった。要は「斬れる刀」か「斬れない刀」か、ぐらいにしか思えていない。

 姿は見えないが、頭上の樹々から向けられてくる視線。それも、ひとりやふたりではない。椛以外の白狼天狗のものだろう。ただし、こちらは彼女とはほど違い、友好な気配は微塵も感じられなかった。隠し包むこともなく、明確な敵意を込めて向けられている。

 突き刺さるような視線。

 小隊長たる椛がいなければ、警告無く斬り捨てられていたかもしれない。

 山を住処とする天狗たちにとって、妖怪人間関係なく他者に対しては酷く排他的であり、『妖怪の山』に害をなす輩であれば、実力行使の排除も辞さない集団でもある。

 哨戒天狗(犬走椛)でこの対応であり、これが鴉天狗であればどうなっていたかはわからない。ある意味助けられたことに安堵しながら、彰人は礼を述べていた。

 『白狼天狗』は、数ある天狗の種族の中でも地位こそ低いが、個々の戦闘能力では他種族を圧倒する者も中には存在する。

 種族は格下であろうとも、個人の能力が比例するわけでもない。犬走椛も、そのひとりだと言える。

 正規の登山道から入ったとはいえ、領域を侵犯していらぬ波風を立てぬように注意は払っていたつもりだった。

 足場の悪いただの獣道もいくつかあったが、そこを通る気にはならなかった。変にこそこそするよりは、隠れることなく堂々としていた方が、同じ警戒をされるならばまだマシと言えよう。

 上空をちらほらと幾人かの白狼天狗が走り、遠巻きではあるがこちらを監視している姿があるのもわかっていた。もうそろそろ山の守備に奔走する天狗の警戒網にかかるかどうかと思ってはいたが、どうやら予想よりも早かったようだと改める。

 それほどまでに採取に夢中になって奥に入りすぎていたということだろう。

「…………」

 椛の双眸は周囲の森へと向けられている。つい先まで在った気配――妖怪の、それも害をなす類の輩は忽然と消えていた。

 白狼天狗の放つ殺気に当てられ、此処に留まっては命が無いと本能が察し逃げ出したのだろう。

 数種の気配を察知していた椛ではあるが、管理する領域から完全に消えたのを見計らい、彰人へと向き直っていた。

「未の中刻とは言え、ひとりで山には入るな。でなければ、今のように襲われかけるぞ?」

「ええ、すみません。助かりました」

 礼を述べながらも、彰人は、自分を狙う妖怪の類が現れていたのもわかっていた。

 はっきりと漂う獣くさい匂いと、明らかな視線を感じながら、どうしようかと困っていたのは事実。

 餌である人間を襲うべく、虎視眈々と機会を狙う姿の見えぬ妖怪。

 だが、彰人が気づいた以上、視覚、嗅覚共に優れ、警戒に敏感な椛たち――特に『千里先まで見通す程度の能力』を持つ彼女にとっては尚更に――白狼天狗が気づかぬはずが無い。

 結果、妖怪も白狼天狗を相手にはできぬと判断すると、餌を諦めていたというわけだった。

 わかっているならばいいと椛は一言告げるが、本懐は領域侵犯の警告をするのではなく、『千里眼』で見ていた先の妖怪の追い払いを主としていたのだが。

 フン、と鼻息ひとつ残すと、彼女は刀を鞘へと戻していた。

「人間と馴れ合う気はない。麓まで送っていってやりたいが、そうもいかんのでな」

「いえ、十分ですよ。なにかあればなんとかしようかと腹は括ってるつもりですから」

 篭手と腰に差した護身用の短刀を見せて彼。もっとも、護身用はあくまでも護身用でしかない。妖怪相手に退治まがいの技量など持ち合わせてはいない。椛もまた、そんなものが役に立つかと胸中で笑っていた。

 危険を承知で山に入ったとは言え、未遂だが妖怪に襲われかけるにしても、陽が昇っているこの時間帯にまさか遭遇するとは思いもよらなかったのだが。

 カゴに入れた果実を見ながら、彰人は口を開いていた。

「つい奥まで入りすぎましたし……帰るとします。要らぬ怪我を負いたくもないですからね」

 妖怪、天狗連中、双方に対しての意味だったのだが、椛もわかりきった上で頷いて見せていた。

「……そうしろ。なるべく陽の当たる開けたところを帰れ。陽がまだ昇っているとはいえ、先のように狙っている妖怪もいる。陰る道でも襲われぬとは思うが、用心に越したことはない。場所によっては、陽が一切当たらぬ闇夜のような箇所もある。無駄に死にたくなければ、決して近寄るな」

 ついで、持っていけと放られたのは、椛が身につけていた……左右にふたつ梵天()が付いた結袈裟だった。

「白狼天狗の匂いで襲われることもないだろう。厄よけ、とはいかないが……少なからず役には立つやもしれん。野犬の類も払えるだろうが……ではな」

 言って踵を返す椛だったが、彰人は慌てて呼び止めていた。

 なんだ、と露骨に顔をしかめ、面倒くさそうに振り返る相手に――

「貰ってなんですが、代わりにこれをどうぞ」

 がさごそとあさり、取り出した際の匂いに椛は鼻をピクリと動かし、耳はピンと立っていた。

 刹那に、気だるそうな椛の眼も一転し、キラキラと輝く瞳へと変わっていた。彼女の視線が釘付けとなる先は――ビーフジャーキーだった。

 

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 天狗の世界は縦社会と聴かされていた。

 白狼天狗――木っ端天狗とも呼ばれる彼女、犬走椛と知り合ったのも大層な理由ではない。

 何処から聴きつけたのか、外来人ということで、取材という名目で押しかけた射命丸文に無理やり付き合わされた彼女と顔を合わせたのが最初であった。

 とある夜、縁側でもらった酒を口にしていた時のことである。

 ひとり静かに、ふわりとした夜風を受けながらでいると、その静寂は唐突に打ち破られていた。

 上空から何やら話声が聴こえたかと思えば、ふたつの影が降り立っていた。灯りに照らされたのは、黒と白。対称、とでも言うべきか。

 つまみへ伸ばした手も止まり、かじっていた口もまた止まり彼。視線は見るともなしに、現れた人影へと向けられていた。

 ひとりは黒いフリルの付いたミニスカートに白い半袖シャツ。赤い靴の底に伸びるのは一本歯の下駄のように。その背に黒一色の翼を携えながら。

 もうひとりは、比較的シンプルな服装の黒の少女とはまた違った恰好をしていた。

 白髪に、山伏が身に纏う鈴懸のような出で立ち。腰の帯刀、片腕には盾を持っている。何よりも眼が向く先は、犬のような耳に尻尾。

 ほうけたような表情の彰人に構わず、黒の少女は話しかけてきた。

「わたしは鴉天狗の射命丸文と申します。こっちは、白狼天狗の犬走椛です」

 『こっち』と呼ばれた椛という白髪の少女は無表情だったが、視線を一度だけ文へ向けてから、何事もなかったかのように彰人に対し一礼していた。

「テング……?」

 言葉を呟き、今一度視線を向ける。

 天狗というには、鼻も長くないし、赤ら顔でもない。自分の知っている『天狗』とは随分違うのだなと考える。黒と白の天狗ふたりに共通しているのも、頭襟に高下駄だけだった。

 ならびに、『ハクロウ』――恐らく、『白い狼』と書いて呼ぶのだろうと判断していた。そうであれば、彰人もなるほどと胸中で呟いていた。あの耳と尻尾も犬よりは狼ということかと納得していた。

 ついふたりを不躾な視線で眺めながら。

 鴉天狗と名乗る黒の少女は気にもせず。が、白狼天狗と名乗る少女は些かムッとした顔で。物珍しく見られるのが気に障りでもしたのだろう。

 後ろの椛を振り返るでもなく、文は気配の変化で察したのか、肩の辺りまで腕を上げて軽く振っていた。

「ああ、お気になさらずに。彼女は見た目通りの無愛想な顔に加えて、頭の方も堅物でしてね」

 あっけらかんとした口調に性格。再び椛の視線が鴉天狗へと向けられていたが、文は、やはり気にもしていない。

「…………」

 どうやら、鴉天狗という方が、話的、立場的にも上だというのがなんとなくでわかる。本人も肯定するような物言いだった。

 が――

 雰囲気から感じ取った限り、ふたりは決して仲が良いようには見えなかった。

 文という少女は、立場を利用して椛という少女をいいように振り回して楽しんでいる。

 一方の椛は、嫌々ながらも白狼天狗の上位に当たる鴉天狗に従っているという態度がありありと見て取れていた。

 片はとにかくぺらぺらと多弁、片は口を開かないわけではないが寡黙。

 正反対の関係――

 思わずふたりを観察していたが、文と名乗った黒髪の少女は人差し指をピッと立てていた。

「――というわけでして、外から来て、幻想郷にいついた外来人とは、あなたのことでしょうか?」

 会話の途中に出た、博麗の巫女や上白沢慧音の名前が挙げられ、世話になった経緯に触れられていたので彼は素直に頷いていた。

「はあ……まぁそうなりますね。そんなに外来人てのは珍しいですかね?」

「そうですね。生きた外来人……しかも、幻想郷に居つくとなれば珍しいですよ。それで、取材をさせていただければと思いましてね」

 ブン屋(新聞記者)を営んでいると告げる彼女は、立てた指をくるりと動かし、宙に円を描いていた。

「天狗というのは、好奇心旺盛なんですよ」

「…………」

 得意気にそう語る文ではあるのだが、彼女の後ろに立つ椛は眼を瞑り、どこか疲れたように息を吐いていた。

 一連の流れを見ていた彰人は無言のまま。

「お近づきの印に、よろしければどうぞ」

 言って、彼女――文が渡してきたのは一部の新聞だった。『文々。新聞』と名が打たれた――恐らく、彼女が発行しているという新聞なのだろう。

 素直に受け取り、物は試しとばかりに広げて眼を通しては見るが……

「…………」

「ご覧になればわかると思いますが、わたしの書く新聞は――」

 真実のみ追求し、嘘偽りなく記事にしていると文は語り出していた。

 情報というものには、いわば鮮度があると熱弁を耳にしながら読み進めてはみるものの、彰人にしてみれば、天狗の作る新聞というのを他に見たことがないので比べようがないのだが。

 記事の内容も、どれも憶測と推測でのみしか書かれていない文体。読者の考察することが前提としてまとめられたような新聞に、返答に困りながらも彰人の視線は文へと向けられる。

「その一環として、対象が『俺』と?」

「ええ、理解が早くて助かります。いやー、最近わたしの新聞の売り上げも日に日に右肩下がりでしてね。そこに『外来人』という面白い話を耳にしては、せっかくのネタをみすみす逃す手もないわけでしてね」

「…………」

 つまりは、彼女の新聞の購買数向上の足しになればなんでもいいということなのだろう。いまいち動機が不純のような気がしないでもない。売れない理由は他にもっとあるだろうにと思いながらも。

 もらった『文々。新聞』を脇に置くと、先の『取材』という言葉に、自然と彰人の眉は寄っていた。

「取材って……俺なんかを取り上げても、面白くもなんともないですよ?」

 大した特徴もない輩など、新聞に取り上げたとしても面白味に欠ける。丁重に断りを入れるのだが、文はまったく気にもしていなかった。むしろ、わかっていませんねと言われるほどに。

「いえいえ、あなたがこちら(幻想郷)に来て思うように、わたしたちから見て、あなたの存在というのは思うところがあるのですよ。幻想郷に『外来人』が居るというだけで十分話のネタになります。良い意味でも悪い意味でもね」

「…………」

「どうでしょうか? よろしければ、取材をさせていただきたいのですが」

「…………」

 言葉を包むことなくハッキリと告げる相手に、そういうものかと割り切りながら彼。

 文は手帖のようなものを取り出していた。後に『文花帖』と名があると教えられていたのだが。

 『ようなもの』という表現は、彰人から見て、そう思えたからでしかない。

 赤い無地の表紙に、ただ紙の束を紐で通しただけのあっさりとした作り。良く言えばシンプル。悪く言えば雑と呼べる。どちらかといえば、メモ帳と言った方が合っているのかもしれないが。

 まだ受けるとも応えていないのだが、本人は既に取材許可が下りている気満々でいた。

 どうしようかと手にしていたつまみを口へと運び――

「あやややや、それはなんですか?」

 目敏く見つけた文は、彰人が口にしていたものを興味深げに訊ねていた。

 視界に入っていなかったわけでもなく、さりとて香辛料に気づかぬ文ではない。

 要は質問する皮切りはなんでも良かった。たまたま先から眼につき、気になっていた『物』で口火を切っただけでしかないのだが。

「……牛の乾燥肉」

 そう言ってかじっていたのだが……興味深げに視線を向けてくるふたり。

 主に椛の方は、香辛料が嗅覚をくすぐりでもしたのだろう。これでもかというぐらいに直視している。

 文はへえと呟き、椛は無言。

「…………」

 ふたりの視線に晒されながら、ジャーキーをかじっていた彰人だが、咀嚼する口は止まっていた。

『…………』

 「じいっ」という擬音さえ聴こえてきそうなほどに見入られては……さすがに耐えられなかった。

 試しに食べてみるかと差し出してみれば……

「いいんですか? 催促したようで申し訳ありませんね」

「…………」

 そう応えながらも、遠慮することなく摘まみ、口にするふたり。まるで、その言葉を待っていたといわんばかりに。

 ぱくりと口にし、「ん?」と表情に疑問符を浮かべる。

「これは……なかなか興味深い味ですね。これは外の世界の食べ物ですか?」

 もぐもぐと噛みしめるように口を動かし文。幻想郷では食べたことのない類の干し肉ではあるが、味は嫌いではない。

「ああ。でも、そんなに違うものかな?」

 干し肉なら幻想郷にでもあるのではないかと思う彰人ではあるが、その疑問に応えるように文はまたひとつと手にとっていた。

「こんな個性的な味付けのものは、はじめてです。なかなかクセになる味ですね」

「…………」

 椛は先から無言ではあるが、その口はもぐもぐと動いている。見れば、尻尾もぱたぱたと振っている。余程気に入ったのだろう。

 文の言葉に、彰人はなるほどと頷いていた。逆に考えてみれば、こちら(幻想郷)の干し肉など食べたことがない。当然のようにビーフジャーキーと同じものだと想像していた。

 

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 知り合って以降、山に入った際には文や、一線を引いてはあるものの椛にも、それなりに良くしてもらっていた。

 だが、人間が山――特に『妖怪の山』に立ち入ることは快く思われない。相応に山の秩序を乱さぬ行動を大前提として、ではあるが。

 なし崩しに取材されたことを、彰人は何気に思い出していた。確かあの時は、もらった酒まで文に呑まれたんだったなと思い返す。

 対して、椛も彰人と出会った時のことを思い出していたのだろう。だが、こちらは些か視点がズレているが。

 食感、味は、従来口にする干し肉とは違っていた。塩や香辛料、調味料などで適度に程よく味付けされた肉。以前口にした時は、それはそれは美味かった。酒と一緒に食べても美味かった。

 あの時の味を思い起こしたのか、はからずもよだれが垂れそうになり――ハッとした椛は慌ててかぶりを振っていた。

 人間の手前、何より部下たちの前でだらしない顔――醜態を晒すなど、白狼天狗としての威厳も誇りも示しもつかない。

 自分を戒めるためにも表情には厳しさを戻していた。

 だが――

 戻しはするのだが、悲しいかな、表情はきりりと澄まして見せても、尾っぽは素直であった。それはそれは、千切れて何処かへと飛んでいってしまうのではないかと思えるほどに、右へ左へとぶんぶんと激しく振られていた。

 既に、椛の意識はビーフジャーキーへと向けられている。

 部下から見れば、あの任務に忠実、生真面目な犬走椛が尻尾を振るなど想像出来ぬ姿であろう。椛自身もそのことに気がついていないのが、残念な結果である。

「…………」

 袋ごと椛へと渡そうとして……ようやくして彰人も、一心不乱に見入る彼女に気づくこととなる。

 物欲しそうな眼をした相手に――

 そこで彼は、ちょっとした悪ふざけを思いついていた。

 小袋から一切れ取り出してみると、椛の尾っぽは、さらに左右へと激しく振れる。

 手にしたビーフジャーキーを椛の眼前近くまで持っていき、右へ左へ動かせてみれば、それに釣られて彼女の視線も右へ左へと動いていた。

 ぐるりと円を描いてみれば、首を使って追うほどに。

「…………」

 そのまま椛の口元へ動かし、条件反射で口を開く彼女の口蓋に放り込む――とみせかけ、彰人は自分の口へと運び、もぐもぐと食べて見せていた。

 瞬間――

 これでもかというほどに、がっかりしたように耳も尻尾もぺたんと垂れ下がる。双眸すら哀しそうにしゅんとしていた。

「…………」

 これほどまでとは思いもよらず彰人。

 つい、もふもふした耳と頭を撫でたくなる衝動に駆られるが、プライドの高い椛を相手にそのような暴挙に出れば、次には己の身がどうなっているかなど想像するのも馬鹿らしい。それこそ刀の錆になるなど御免である。

 うっかり笑いが漏れそうになるが、これ以上のからかいが過ぎれば怒られるだろうと早々に察すると、袋を椛へと渡していた。その際に、相手の耳は再度しゃきんと立っていたのだが。

「良かったらどうぞ」

「し、仕方がないな。お前がそうまで言う以上は、受け取ってやらんでもない。ふ、不本意ではあるがな」

「ええ、是非お願いします」

「ふ、ふん、仕方がないな」

 吐き捨てるように口にし、半ばひったくるかのように受け取るが、椛の尻尾はいまだ激しくばさりばさりと揺れている。

 が――

「こんなにいいのか?」

 視線を向けた袋の量に思わず眉を寄せ、申し訳なさそうな顔を彼女はしていた。

 表情の変化が激しいなと感じながらも彰人は頷くだけ。

 椛が口にする量としてはそれほど多くはない。従来の小袋に入ったままを渡している。だが、見解の違いなのだろう。

「構わないですよ。昼食代わりに持ってきてただけですし、逆にすみませんが、それしかないんで」

 昼食がビーフジャーキーだけというのも問題があろう。どれほど手抜きをしているものやら。

 ちらと頭上に視線を向けて――

 白狼というだけに、他の天狗たちも匂いを敏感に嗅ぎ取りでもしたのか、雰囲気が先の殺伐としたものとは変わっていた。

 椛の手に渡された品が興味深いといったところか。

「仕事終わりにでも、他の天狗の方たちと酒の肴にでもどうぞ」

「う、うむ。馳走になる」

 仕事でなければ、直ぐにでもかじりたいところだが、そこはさすが哨戒を生業とする白狼天狗であり、生真面目な椛。緩みそうになる口元を懸命につくろいながらも、こなすところはしっかりとこなしていた。

 大事そうに懐にしまい椛。

「では、重ねて言うが気をつけて帰れよ。何かあれば叫べ。耳に捕れば駆けつける」

「ええ。わかりました」

 最初に口にした内容と違っていることに椛本人は気づいているのか、彰人は敢えて指摘もせずに頷いていた。

 尻尾がばさりばさりと揺れる中、口を動かした椛は地を蹴り空へと上がる。彼女に続くように、周囲の白狼天狗もその場から消えていた。

「……すまない、か」

 去り際にぼそりと呟かれた言葉。

 そんなに大したことではないのだが、と胸中で反芻すると彰人は結袈裟を首にかけていた。

 果実は霖之助や慧音に譲る分を見越し差し引いたとしても、まだ量は残る。

「さてと……」

 登ってきた山路を下るとなると気が滅入るなと感じながら、カゴを担ぎ直し――

 要らぬ妖怪に襲われるのもつまらない。

 空を自由自在に飛び去る白狼天狗たちを羨ましく思いながら、彼もまた下山するためにその場から動き出していた。

 ちなみに……

 彰人が無事に麓まで降りるのを椛が見届けていたりしたのは、完全な余談である。

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