その日――
午前中に寺子屋の仕事を終え、人里で昼食を済ませ、家に帰宅した彰人の脚は停まっていた。
縁側に腰を下ろしている女性。相手もこちらに気づくと立ち上がり、深々と一礼していた。
「…………」
顔を上げた女性――十六夜咲夜、確かそんな名前だったはずだと思い出す。同時に、何故、紅魔館のメイドがここに居るのかがわからなかった。
周囲に彼女以外の人影はない。主たる吸血鬼のレミリアやフランドールの姿も見当たらない。
ここに居て、なおかつ自分の帰りを待っていたということは、間違いなく何かしらの用件が在るのだろうと彰人は理解していた。
昔ながらの日本家屋にメイドとは、どうにも和洋の融合が微妙のように思えてしまう。
無論、口にもせず、表情にも出さぬよう極力努めてではあるが。
「なにか?」
「先日のお礼も兼ねまして、ささやかではありますが、お食事の用意を致しました。僭越ながら、お迎えに上がった次第でございます」
「はあ……」
お礼、というのはフランドールを紅魔館に送り帰した際のことだろう。
封獣ぬえの時とは違い、自分は大して役に立つようなことはしていない。フランドールが素直に謝り、それを姉のレミリアが許しただけのことである。事態を見届け、また遊びに来るよとフランドールに告げて早々に館を後にしただけでしかない。
礼を述べられるわけでもないし、ならびに見返りを求めたわけでもない。
故に、彼は丁重に断っていた。
「いえ、別に……俺が好き勝手にしたことですので、お気遣いなく」
「レミリアお嬢さまのご命令、ならびに、妹さまのたってのご希望でもございまして、夕食のご招待に参りました」
「はぁ、そうですか? でも、せっかくなんですけど、備蓄の食材もありますし、自炊しますので、またの機会にでも……申し訳ありませんが、フランとスカーレットさんにも、そうお伝えください」
すみませんと言葉をかけて横を素通りしようとしたのだが、音もなく、眼前に咲夜が滑り込んでいた。
「妹さまが、夕食に、是非、加藤さまをご招待したいと仰りまして」
「……いえ、あの、話聴いてました? ですから、結構ですと」
相手の機動力に驚きながらも、彰人は遠慮の言葉を口にする。だが、咲夜は聴いてはいなかった。
「妹さまは、加藤さまの御来訪を、大変、お心待ちにされております。ぜひ、夕食をご一緒したい、と。そのために、わたくしがお迎えに参上いたした次第でございます」
「……行きません」
「妹さま、フランドールさまは、加藤さまの御来訪を今か今かと、お心待ちになさっております。ここで加藤さまがいらっしゃらないことを知ってしまわれては、妹さまは、さぞかしお嘆きになることでしょう。わたくしといたしましては、そのような、お曇りになられたお顔を拝見するのは、大変忍びのうございます」
「……さり気に圧迫かましてきますか? それに申し訳ないんですが、この後――」
「失礼ですが」
彰人の台詞を遮り、咲夜は言葉をかけていた。
「わたくしなりに調べさせていただきましたが、本日の午後からのご予定、ならびに明日に関しましては、お勤め先のお仕事のご予定もなにもないと把握しておりますが?」
「…………」
咲夜の指摘するように、香霖堂も寺子屋の仕事もない。言うなれば完全なオフである。当然予定など何もない。
では何故彰人もまた断り続けるのかといえば、やはり純粋に気が引けるだけでしかなかった。決して嫌だという気持ちはない。
問答に疲れながらも、彰人は再三に渡り断りを口にしていた。
「……お気持ちは嬉しいんですが、俺なんかに気を使わないでくれていいですから……埋め合わせは、また今度ということで」
そう声をかけ、咲夜の脇を通り過ぎようとするが……生憎と、その進路を塞ぐように立つ彼女。
「…………」
ちらと見れば、眼を瞑ったまま微動だにせず立っている。
互いは無言。
構わずに、彰人が左へ行けば咲夜は右へと進み、彰人が右へ行けば咲夜は左へと進む。
「…………」
「…………」
やはり、ふたりは無言。
彰人は、左へ進もうと足を運びかけ、即座に、僅かに重心が傾きかける瞬間に右へと駆けていた。
が――
滑り込むように――何事もなかったかのように眼の前には咲夜が立っている。
「…………」
どうあっても先へと進ませない彼女に対し、それならばと彰人は黙考する。
家に入ることができないのならば、どこか他に行くしかないなと思いついた彼は踵を返す。
上白沢慧音のところか、森近霖之助のところにでも行って時間を潰すかと考えるのだが……思考を読み取るかのように、咲夜が立ちふさがっていた。
双方無言。しかし、折れたのは彰人だった。
「……わかりました。ぜひ、ご馳走になります」
「そうですか。快くお受けいただけました、加藤さまの寛容なお心遣いに感謝いたします」
咲夜が口にする言葉の節々に些か棘が含まれていることに気づきながらも、彰人は諦めの吐息を漏らしていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
咲夜の護衛もあり、魔法の森を抜けた彰人は霧の湖の中ほどに建つ館へと向かっていた。
近づくに連れて、異様な洋館がその全貌を露にし出す。それと同時に、人影があることにも気づいていた。
淡い緑色を主体とした中華系民族衣装を身に纏った女性が門前に立っていた。すらりとした容姿に、腰まで伸びた長い髪は赤く映える。
女性もこちらに気がつくと、ぶんぶんと手を振り声をかけてきた。
「お帰りなさい、咲夜さん」
「……美鈴、何か変わったことは?」
「いつも通り、異常無しですよー」
いつも通りと口にする相手に対し、咲夜の眼は氷のように冷たかった。
「……寝てたでしょ」
「寝てませんよー。お久しぶりです、アキヒトさん」
話題を変えようとする美鈴に、冷めた眼差しを向けながら咲夜は頷いていた。
「……お嬢さまと妹さまの大切な客人なのだから、失礼のないように振舞いなさい。みっともない格好は、あなた自身を、さらには、お嬢さまの品位を疑われるわよ」
「あははー、大丈夫ですよ」
あっけらかんと応える美鈴ではあるが、咲夜は、彼女のだらしなさに溜め息をついていた。
彰人もソレに気づいており、言うかどうか迷いはしたが……指摘しておこうと決めると、自分の口元へ親指を当てていた。
「よだれ」
「あや?」
慌てたように美鈴は己の口元を手の甲でごしごしと拭っていた。
陽射しも暖かく、ぽかぽかとした日光を浴びながら、うたた寝でもしていたのだろう。こんな陽気ではうとうととしたくなるのもわかる気がしていた。幸い、程よい木陰もあることだし、一休みするにも最適であろう。
しゃんとなさいと怒ると咲夜は脇を通り、ひとり先へと進んでいく。
メイド長の背に視線を向けていた彰人ではあるが、かけられた美鈴の声に意識を向けていた。
「お見苦しいところをお見せしました。ようこそ、紅魔館へ」
こうして会うのは二度目となる女性、紅美鈴。見た目通りの暢気さを感じさせる相手に彰人もまた軽く挨拶を交わすと、彼は紅魔館を見上げていた。
近くまで寄って見るのも今回で二度目であるが、やはりこの館の『色合い』はどうかと彼は考えていた。
だが、このまま此処で見入っているわけにも行かなかった。案の定、どうぞお通りくださいと手を掲げた美鈴に門をくぐるよう促される。
ひとつ頷き、彼女の横を通り、門をくぐろうとして――
彰人は、打ち込まれていた貫手を、咄嗟に両の腕を交差させるようにして防いでいた。
護身用に装備していた篭手に伝わる軽い衝撃。
「…………」
困惑混じりに相手を見るが、美鈴は真っ直ぐに視線を向けてくる。
「……手加減はしていましたけれど、停められるとは思いませんでした」
失礼、と一言漏らし腕を下げる彼女ではあるが、彰人は警戒を怠らなかった。何よりも、現にこうしていきなり殴りかかられたのだから。
わかっていたからというわけでもなく、咄嗟に身体が動いたから防げただけでしかない。
腕を下ろし、眼を細めながらも、美鈴は彰人へ視線を向ける。以前ひと目見た際に気になったこと。
上から下までじっくりと見入ってから、確信を得たように彼女は呟いていた。
「……重心が傾いてますね。脚を使う武術か何かを心得ているのでしょうか?」
歩き方が気になったので、少しばかり試させていただきましたと応える美鈴に対し、彰人はそういうものかと首を傾げる。
別に意図したものでなければ、自然とした癖であろう。だが、それだけを確認するためだけに拳を見舞われかけるのは勘弁願いたいところであろう。
「いや、武術なんて立派なモンじゃないよ。俺は、ただボク――」
「美鈴、何を遊んでいるの?」
説明しかけた彰人の台詞へ割って入るように飛び込む咲夜の声音。
見れば、怪訝そうな表情を浮かべてはいるが、扉の前で振り返っている彼女は今し方の動きには気がついていないのだろう。
「あはは、すみません。つい話込んでしまいまして」
軽く頭を下げる美鈴ではあるが、彰人の耳に聴こえるようにぼそりと呟く。
「後ほど」
「…………」
彰人は返事をするでも頷くでもなく、美鈴から離れると、咲夜のもとへと歩み寄っていた。
扉の前で待っていた咲夜は怪訝そうな表情のまま訊ねていた。
「……美鈴がなにか失礼を?」
「いえ、特に何も」
「…………」
さらりと応える彰人の返答に、咲夜は無言のまま視線を向けていたが――
「そうですか。それでは、こちらへどうぞ」
それ以上は追求せずに、館の扉を開けて彰人を招き入れていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
言葉もなく、彰人は視線を向けていた。館内に脚を踏み入れるのもこれで二回目である。
内装は高級そうな調度品の類。いかにもお高そうなシャンデリアや彫刻品――
ならびに、内装の色は至るところが『紅』であった。
(よほど紅色が好きなのか? 吸血鬼だからっていうことで、血が好きだからということで『色』に掛けているつもりなのか?)
一度目はそこまで深く周りを見ていなかったのでなんとも思いはしなかったが、こうもじっくりと見入ってしまえば、内装も、紅一色は趣味が悪すぎだろうと思ってもいた。
(外観も内観も『紅』では、どうにかなりそうだ)
そんなことを考えながら、エントランスホールと思しき場所を通された、刹那――
「カトーっ!」
「――っ」
歓喜を含んだ突然の声に驚き、見上げれば――二階へ続く階段の手摺りから、弾丸さながら飛び込んでくるフランドールの姿を発見していた。
宙に身を投げ、物理法則に従い、既に飛行というよりも落下である。フランドールの背の宝石羽根はピクリとも動いていなかった。
「――っ!?」
慌てて目測から落下地点に駆け寄るように、放物線を描きながら飛び込んできたフランドールを、しっかりとキャッチするも――
一直線に驀進するフランドールという名の弾丸に腹を直撃されるが、衝撃まで受け止めることはできなかった。
唖然とする咲夜を無視するかのように、衝撃にはね飛ばされた彰人は、ごろごろと紅い絨毯の上を転がりながら――なんとか彼女を取り落とさぬように庇い抱えながらも――床の上を何度も何度も、もんどり打って倒れるが、壁にがんと当たり、ようやく止まる。
キャッキャと笑うフランドールとは対照に、激痛に苦悶を浮かばせ、彰人はもはや死に体。
「い、妹さまっ――危のうございますよっ!?」
慌てて駆け寄る咲夜ではあったが、だがフランドールは笑うだけ。
「大丈夫よ。カトーがちゃんと受け止めてくれるってわかってたもん」
怪我もなく、けろりと返事をするフランドール。
「ですが……」
この男が受け止めなかったらどうするのか、とは訊けなかった。それほどまでに、この人間を信頼しているのかと察してしまっては、二の句を継げることはできなかった。
咲夜が視ていたのも、手摺りをジャンプ台に跳ぶフランドールを、慌てながらも両手を広げて受け止めようとしていた姿。吸血鬼であるフランドールが二階から跳び降りたとしても、飛ぶこともできるし怪我もない。つい、その光景をなんともなしに眺めていたため、いつもの先入観で見入ってしまっていた過失が咲夜にはあった。己の能力、『時を停める程度の能力』を使うことでもない。
だが、彰人は人間である。その点にだけは、彼女は失念していた。
紅魔館を訪れる者は、一癖も二癖もある連中ばかりである。故に、なんの力も持たない人間がこの屋敷に現れるなど、とんと忘れていたと口にしても仕方のないことである。
ごふ、と息を吐きながら、虚ろな眼でなんとかフランドールを見る彰人ではあるのだが、顔色はどこと無く蒼い。蒼いというか、白い。
「ね、熱烈な歓迎を、ありがとう……フラン……だが、危ないからやめてくれ。怪我をしたら、大変だからな……」
苦しそうに言葉を紡ぎ彼。
ほころばせた表情を浮かべていたフランドールであったが、直ぐにぷくりと頬を膨らませてそっぽを向いていた。
「フラン……?」
「カトーったら、遊びに来てくれるって言ったのに、全然来てくれないんだもの」
「…………」
彼女の言葉に彰人は無言となる。口約束とはいえど、『約束』をしたことに変わりはなかった。現にフランドールは、ずっと約束を信じて、彰人の来訪を待っていたのだろう。
そう考えてしまうと、フランドールに申し訳ないことをしたと、今更ながらに彼は思う。
「……それは、すまない。約束を守らなかった俺が悪かった」
素直に謝る彰人に対して、フランドールもわかっているのか、それほど本気で怒っているわけでもなく、えへへと笑っていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お嬢さま、加藤さまをお連れいたしました」
「ごくろう咲夜。通してちょうだい」
かしこまりましたと一礼し、咲夜は腕を差し向け、どうぞと彰人を促していた。
素直に倣い、幼い当主へと歩み寄っていた。
脚を組み、頬杖をついた格好で椅子に座るレミリア。その彼女の背後には、咲夜が控えるように立っていた。
「……ん?」
たった今まで、彼女は自分の後ろに居たはずなのにと思いながら彰人は振り返っていた。だが、やはりそこには誰もいない。
横に手を握り立つフランドールが「どうかした?」と声をかけてくるのだが、なんでもないと応えるのみ。
確認は一瞬。彰人は再び視線をレミリアへと戻していた。
以前経験したように、咲夜にはなにかしらの不思議な力があるのだろうと結論付ける。そうでなければ、一瞬で居場所がころころと変わるわけがないと判断していた。
レミリアも気にした様子を見せず、淡々と言葉を吐いていた。
「ようこそ、紅魔館へ。改めて、この前のお礼を言わせてもらうわ」
やはりそうかと納得しながら、彰人はぺこりと一礼していた。
「お招きいただきまして、ありがとうございます」
「かしこまらなくていいわ。わたしが呼びたかったから呼んだだけよ。それにしても……」
口元に笑みを湛えてレミリアは相手の姿を見入っていた。
「その格好は、なに?」
「…………」
彼女が指摘する彰人の服装は、僧衣だった。前に、聖白蓮からもらったものである。相応に清められ破邪が施されており、瘴気に満ちた魔法の森を抜けるにはそれなりに重宝する代物であったりする。
咲夜に少し待っていてくれと告げて着替えはしたが、彼女もまたレミリア同様に表情に変化を生じさせていた。
身に纏った理由はふたつから。ひとつは人間である彰人が森の瘴気に長時間耐えられないので祓うため。もうひとつは、招かれた以上は作務衣姿で伺うわけにも行かず、さりとてスーツのような正装となる服を他に持ち合わせていなかったからだった。
腕には護身用の篭手、服装は邪気を祓う僧衣姿の彼を見て、愉快そうにレミリアは口を開く。
「そんな格好をしているものだから、てっきり退治しにでも来たのかと思ったわよ」
無論、冗談であろう。同様のことを咲夜にも告げられはしたが、彼女の場合は眼が本気であったのは余談である。
彰人も苦笑交じりに篭手をはずしながら返答していた。
「生憎と、まともな服を持ち合わせていなかったもので……ああ、言っておきますけれど、他意はないですからね?」
「わかっているわよ」
「ね、ね、カトー、わたしが館の中を案内してあげる」
ぐいぐいと腕を引くフランドールだが、まだレミリアとの話は済んでいない。
ちょっと待ってくれと声をかけるのだが……
「お堅いお話なんて聴きたくないわ。カトーだって、お姉さまなんかとつまんない話をするよりは、わたしと一緒の方が楽しいでしょ?」
「待ちなさいフラン」
「やだ、待たない」
抱っこしてとせがむフランドールに対し、レミリアは、はしたないからやめなさいと注意するのだが……妹は舌を出して聴き入れはしなかった。
ほら早く行こ、カトーと腕を引くフランドールに、姉は威厳を潰され不貞腐れる。
「うー」
悔しそうな表情の幼き当主に、だが、待ったと声をかけたのは彰人だった。
「待ってくれフラン、君が俺を呼ぶのに、お姉さんは招待してくれたんだ。きちんと話をさせてもらえないかな?」
「むー、カトーは、わたしじゃなくて、お姉さまに会いにきたの?」
望む優先順位を変えられることに、今度はフランドールが不貞腐れた表情になるのだが、彰人は苦笑を浮かべていた。
「フランに会いたかったのは本当だ。でも、そのためにお姉さんが従者の方を通じて、俺を招待してくれたんだよ? フランのために、招待してくれたんだ。そのお礼を、俺からお姉さんに伝えたいんだよ」
「むー」
それでもぶすっとする顔のフランドールに、彰人はわざと溜め息をつく。
「……残念だな。そういう礼儀をフランは知っている、とってもイイ子だとばかりに俺は思っていたんだが……わがままさんだったのかな?」
「…………」
ちらと片眼を閉じて見てみれば、ふくれっ面は変わらないが、それ以上は何も言ってこなかった。「イイ子」と口にされたことに、我を通したい、でも我慢しないと、判断に迷うフランドール。
だが――
「……我慢するから、抱っこしてね、カトー」
「…………」
最大限の譲歩としての彼女の答えなのだろう。肯定を示すように、彰人はフランドールの頭を優しく撫でていた。
そんなふたりのやり取りを無言で見つめるのは、幼き当主のレミリア。
(羨ましくなんかないわ。わたしは、レミリア・スカーレットなのだから……ふ、ふん、お子さまのフランとは、わたしは違うんだから。淑女たるもの、気品を持たないと……)
胸中でそう呟きながらも、視線は外れることはない。人目がなければ指をくわえて羨ましそうに眺めてしまう。
「…………」
ただひとり、従者の咲夜だけが主の心情を察したのか、不憫に思い、誰にも気づかれることなく息を吐いていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
レミリアとの話を終え、腕に抱き上げたフランドールに彰人は紅魔館内をあちらこちらと案内された。
真っ先に彼女が案内したのは自分の部屋……いわゆる、495年間閉じ込められていたといわれる地下室だった。
「…………」
フランドールにしてみれば、特に深い意味があるわけでもない。ただたんに、言ってみれば自分の『
ぬいぐるみや本、大きめのベッドがあるが、どこか殺風景であり、フランドールの自室という割には、ただ寝るだけための寂しい場所のように感じ取れた。
四方を壁に囲まれているため、地下故に当然窓など存在しない。唯一の出入り口となる扉も、随分な厚みを持っている。
わきに抱えていた篭手を床へ置き、彰人は無機質な壁に手をそっと触れさせていた。
「…………」
無言のまま見入る彰人の表情は自然と強張っていた。これは軟禁というよりも、ただの牢獄であろう。
こんなところに閉じ込められ、フランドールもそれを受け入れていたのかとなると、えもいわれぬ感情が胸にこみ上げる。
紅魔館の住人とて、最善を尽くした手段であると聴いてはいたが、彰人にとって、ひとりの人間としては、やはりやるせなさがあった。
だからであろう。
「カトー?」
「…………」
無意識ではあるが、彰人は傍に立っていたフランドールの頭を優しく、そっと撫でることしかできなかった。
彼女も頭に触れられた意味がわからずきょとんとしていたが、撫でられたことは嬉しいのだろう。眼を細めて、くしゃくしゃと髪を触れられるままに、にこにことしていた。
フランドールの部屋を出て、廊下を行き交う際に出会う妖精メイドたちに挨拶をしながら、次にふたりが足を運んだ場所は図書館だった。
事前にフランドールから伝えられていた紅魔館の地下に図書館があるとは聴いていたが、その規模は想像していたレベルを超えていた。
地下に降りた割には、眼前に広がる面積が不釣合いすぎる。何層も連なる書架。膨大な数の本の山。どういう原理かは彼にわかるはずもなく。
腕に抱くフランドールの指さす方に足を進めてみれば、やがて人の姿を確認していた。
大き目のソファーに身を預け、本を読んでいるひとりの少女。
長い紫髪に、全体的にゆったりとした薄紫の寝間着のような服を纏っている。フランドールやレミリアと同じようなドアキャップに似た帽子には、三日月の装飾が施されていた。
手近にある机には幾冊もの書物が積まれている。これから読むのか、はたまた既に読み終えたのか――さながら本の虫といったところか、彰人は気楽に考えていた。
「パチュリー」
「…………」
腕から降りたフランドールの声に、本に眼を通していた――パチュリーと呼ばれた少女が視線を上げる。見た目は暗く、人形のような無表情、眼だけで『なに?』と問いかけていた。
「前に言ってたでしょ、カトーよ」
「…………」
言って、彰人を紹介するフランドールだが、パチュリーは然したる反応をみせなかった。興味もなければ、頷くでも何か言うでもなく、一度だけ視線を彰人へと向けはしたが、それだけだった。直ぐに外しては書面へと移っていた。
「…………」
なんとなくではあるが、歓迎されていないというのは雰囲気で感じる。読書の邪魔をしては悪いと察した彼は、フランドールに戻ろうと声をかけようとして――
唐突に、背後から声をかけられていた。
「あ、こちらにいましたか。探しましたよ」
声音に振り返れば、そこには、紅魔館門前に立っていた女性の姿。
「あれ? 美鈴、もう今日はお仕事いいの?」
「ええ、レミリアお嬢さまから、今日は客人も来ているので上がってよいとのお許しが出ましたので。後は自由にして良いとの事です」
「ふーん」
フランドールの問いかけに返答した美鈴ではあるが、彰人は彼女が口にした言葉に眉を寄せていた。探していた、とはどういうことだろうかと首を傾げる。
その疑問に応えるように、美鈴は視線を向けていた。
「食事までに時間がありますよね。それまで、わたしと一手、お付き合い願えませんか?」
「付き合う?」
かけられた言葉に彰人は再度眉を寄せていた。
どういうことかと問いかけてみれば、手合わせ願いたいと告げてくる。
「いやー、日がな一日、門番という仕事も、いつ、如何なる襲撃にも備えるために神経を尖らせてはいるんですけれどね」
えへんと胸を張る美鈴に、呆れるようにフランドールは口を開く。
「いつも怒られてばっかりのクセに。カトー、美鈴たらね、いっつも寝てるのよ。それで咲夜に怒られてるんだから」
「違いますよ、妹さま。寝ているように見えていますが寝ていません。意識を集中しているんです」
指を立てて説明する美鈴ではあるが、彰人は門前で彼女の口元に垂れていた涎を見過ごしてはいない。
苦笑を浮かべる彼に構わず、美鈴は向き直っていた。
「ということで、お付き合いいただけませんか?」
勝負、それも組手稽古を求めている。
「……拒否権は?」
「できれば、無しの方向でお願いしたいですね」
正直に言えば、相手をしたくないというのが本音である。フランドールから聴いていた限りでは、眼の前の女性も妖怪の類だと教えられていた。
恐怖感によるところ、というわけではない。人間と妖怪の違いで挙げられる体力差等によっては勝負にすらなりはしない。
武術の心得がある美鈴にとって、なにかが気に入りはしたのだろうが、彰人にとっては厄介な話である。
「……勝負になりもしないのに?」
「そこは大丈夫ですよ。手加減はしますから」
「……身体も鈍ってるんだが?」
「そちらも見越して、手加減しますよ」
「…………」
どうあっても、手合わせする気満々なのだろう。
「大体どこでやる気だ? 今から外にでも出るのか?」
腕に自信があるわけでもなく、手合わせするなどそれ相応の場所が必要だろう。ただでさえこの図書館は広い。であれば、他にも十分な空間を持つ場所も存在するのではないかと彰人は考える。それこそ舞踏会が開けるホールのようなものも完備されているのではとも捉えていた。
「別に、ここでもいいですよ?」
「
図書館でやろうと彼女は告げる。
広い空間。確かに、動くには適したスペースはある。だが、だからと言って、組手場にするなど筋違いであろう。
なにより、騒ぐもなにも、大前提として、先からこちらに一切興味がないとばかりに黙々と本を読んでいる
と――
彰人の考えが読めたのか、簡単に察しがついたのか、パチュリーの視線が向けられる。無表情ではあるが、視線を向けるのすら煩わしいという感じが窺い知れる。
「別に、わたしは気にしないわ。周囲一体を破壊するわけじゃないし。こちらの邪魔さえしなければ、後は勝手にやって頂戴」
気だるそうにそれだけを口にすると、背を向け、彼女は再度読書に戻っていた。
「…………」
あっさりと使用許可が下りたことに彰人は無言。対照に美鈴の表情は明るかった。
「パチュリーさまも、ああ仰っていますし」
「…………」
無言のままではあるが、どうあっても逃げられないなと諦めると、彼は疲れたように息を吐いていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「何か入用はありますか?」
図書館、ないしパチュリーの身の回りを世話する小悪魔という女性にそう声をかけられた彰人は、それならばと頼んだのは三点。ひとつは、何でもいいので動きやすそうな服を貸してほしい。ふたつめは、いらない布を結構ほしい。みっつめは、喉が渇いていたのでコップ一杯ほどの水をもらいたい、と告げていた。
わかりましたと返事し、席をはずした小悪魔が求めたそれらを持って戻ってはきたのだが――
「確かに、動きやすい服とは言ったけれど」
渡された服に袖まで通しておきながら、彼は呟いていた。
彼が着替えた格好は――執事服。小悪魔なりに考慮して持ってきた服一式がそれだった。
僧衣と比べれば、圧倒的に動きやすい。だが、まさか自分がこんな
キャッキャとはしゃぐフランドールを適当に構いながら水を飲むと、白のシャツに黒のベスト、黒のスラックス姿の彰人は軽い準備運動をはじめていた。
腕時計を外し小悪魔へ預けると、身体をほぐし、とんとんと跳躍を繰り返した彼は床の感触を確かめる。ついで、彼は小悪魔から布を受け取っていた。
四本の指、掌、手の甲、手首――拳全体を幾重にも覆うように布でぐるぐると巻きつけ、簡易グローブを作り上げる。片手と口を使い、布をきつく縛り上げ結ぶ。もう片方の手も同様に布を巻きつけていくが、今度は自分だけでは巧く結べないので小悪魔に手伝ってもらっていた。
思いっきりきつく結んでくれと言われるままに、小悪魔は彰人の拳に巻かれた布を縛り上げる。
「きつくないですか?」
「ああ、大丈夫だ。すまない」
軽く礼を述べ、出来上がった簡易グローブに包まれた両の拳を合わせる。頬に触れさせ、これぐらいの厚みであれば、自分の拳も相手も下手に怪我はしないだろうと判断する。
拳の保護と美鈴への配慮である。
「準備はできましたか?」
「……粗方は」
美鈴の声に頷きながら、彰人は向き直っていた。
「お訊ねしておきたいのですが、あなたの得意な武術はなんでしょうか?」
両の拳を布でがちがちに固めている相手のスタイルが気になり、問いかけた彼女ではあるが、彰人は軽く首を左右に動かし応えていた。
「武術って大そうな括りじゃないよ。俺が得意なのはボクシングでね。といっても、かじった程度だけどな」
「ボクシング?」
聴き慣れない言葉を耳にして首を傾げる美鈴に、彼は告げるように口を開いていた。
「拳で殴りあうスポーツ……というよりも、格闘技かな」
殴りあう、という言葉を耳に捉えたパチュリーは独りごちる。
「低俗で野蛮ね。気品も感じられないわ」
偏見による彼女の呟きは、誰に聴かれるともない。
「なるほど。ボクシングというものがよくはわかりませんが、わたしは太極拳を使います。ご存知ですか?」
太極拳と聴き、ああと頷き彼。
「……中国拳法ってヤツだろ? 名前は聴いたことがあるから知ってるけど、どういったものかまでは詳しくは知らないよ」
拳法に分類されているのは理解しているが、偏見としては、ゆったりと動くイメージしか持ち合わせていない。
「勝負形式は、そちらの規則でいいですよ?」
「…………」
美鈴の言葉に、だが彰人は口を『へ』の字に曲げていた。
ボクシングのルールを軽く説明する。要は拳で殴り合う格闘技であり、攻撃対象となるのは相手の上半身前面と側面のみであること。相手の後頭部を攻撃するのは禁じられていること。
次に、反則とされている部分にも触れていた。
脚を使う一切の蹴り技の禁止――
頭突き、肩や肘での攻撃の禁止――
背部と下腹部への攻撃――
相手の身体を掴んだり、押す引っ張るとした行為――
投げ技の禁止――
打ち倒され、または立ち上がる途中の相手を加撃することの禁止――
他にも反則行為となるものが幾つかあるが、大まかに主となる部分は説明していた。
ひとつひとつ聴き入り、話し終えた相手に美鈴は軽く声を漏らしていた。
「へえ……随分と制限されるんですね」
投げ技ならわかるが、脚まで使ってはならないという規則には些か眉根を下げる。
キックボクシングならまた違うんだけどな、と喉まで出かけた言葉を呑み込み彼。下手に口にして、また説明するのも面倒くさかった。
ボクシングのルールを理解し、美鈴はうんうんと頷いていた。
「わかりました。その上で、やはりそちらの規則で構いませんよ?」
「…………」
ここまで準備、用意をしておきながら、無言ではあるが彰人の表情は浮かない。
相手を殴る。幾ら妖怪とはいえ、女性の身体を殴るということに対して、彼は気が引けていたのだが。
「なあ、やっぱりやめないか?」
「人外相手では恐いですか?」
「いや、そういうことじゃなくてだな」
軽く頭を掻こうとして……その指が布に巻かれていることに気づくと、行き場を失った腕を手持ち無沙汰にぶらぶらとさせて見せていた。
「説明したように、ボクシングってのは、相手を殴るんだ」
「ええ。話を伺った限り、理解はしていますよ。己が拳のみを駆使するとは興味深いです」
気楽に言いのける相手ではあるが、彰人の表情は浮かないまま。
「……そうじゃなくて……殴るってことはだな、その、君の身体に触れるってことだ」
どうにも言いにくそうな感じの相手に美鈴は小首を傾げていた。女性を相手に腹や顔を打つということに敬遠しているのを、彼女もやっと理解する。
「それは、自信からでしょうか?」
「違うっての。たんに、気持ちの問題だよ。こればかりはね」
「変わった人ですねー」
妖怪だから嫌ではなく、女性だから嫌と告げる相手の言い分に、美鈴は思わず苦笑を漏らしていた。
「言っておきますけれど、わたしも妖怪ですよ? 人間ではありませんから」
妖怪だとわかれば、これで気兼ねなく相手をできるでしょうと告げるのだが、彰人は呆れるだけだった。
「妖怪だろうが人間だろうが、女の人を殴るってのが気が進まないんだよ。妖怪だから殴っていいってワケじゃないだろう?」
「むー、お堅いですね。あ、ならこうしましょうか」
気乗りしない相手に、何かを閃いたのか美鈴は足取り軽く歩み寄り――そっと耳打ちする。
ぼそぼそと囁かれた内容に、瞬時に彰人の眉は寄っていくことになる。表情はより一層険しくなっていた。
「……何を言ってんだ、アンタは?」
「え? あ、あれ? お……お気に召しませんか?」
相手の予想外の反応に、美鈴は困惑していた。
「あのな……気に入る気に入らないってことじゃないだろ? そういうことを引き合いに出して、俺がほいほい乗ると思われるってんなら勘弁してほしいもんだ」
「あはは、すいません。男性の御方なら、手っ取り早くやる気を出されるかなーと思いまして。ほかに思いつくことがないもんでして」
「…………」
美鈴が囁いた内容は、『わたしに勝てれば、わたしを好きにしていいですよ』といったものだった。
男性であれば俄然やる気を出すのではと目論んだ美鈴ではあるが、彰人にしてみれば不純な動機でしかない。
冗談はさておき――
武術において、男女の差がなく同一と考えるのは美鈴。彼女はすみませんと頭を下げる。
「わたしのわがままに、どうか付き合ってもらえませんか?」
「…………」
「妖怪だから、という引き合いを出すわけではありませんが、相手は妖怪だという割り切る気持ちも大事ですよ?」
「…………」
「人間と違い、身体は頑丈ですから……あなたの心配事は嬉しいのですが、それでも、どうか一手お願いします」
「……何を過大評価しているのかはわからないけれど、期待に応えられずに、俺が直ぐにぶちのめされて終わるかもしれないんだぞ?」
相手の言葉に納得したわけではないが、彰人はわかったと応え頷いていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
爪先でステップを踏むように……軽快なフットワークで彰人は床を蹴る。
ボクシングの攻撃手段は拳による打撃しかない。要は、いかにして相手を殴り倒すか、である。
彰人が美鈴に勝るものなど実を言えば何ひとつもない。無理にでも挙げるとすればフットワーク程度であろう。常に警戒して動いている分、瞬時に相手に反応できる。だが、それも人外に通じるかが甚だ疑問であるが。
彼とて、己のフットワーク程度が役に立つとは思えていない。それでも使わざるを得ないのだが。
ゆったりと両腕を構える美鈴相手に――床を蹴り、右、左のジャブを繰り出すが簡単に払われる。彰人も当たるとは思っておらず、そこからフットワークを使い、相手の側面へ回りこんでいた。
しかし、美鈴は慌てることもなく、円を描くように腕を動かし左の拳を払い――ついで、繰り出されていた右の拳を掌の側面で受け止めていた。
図書館に乾いた音が響く。
目線が交差するには一瞬。互いに拳を払うと――間合いを取るために、美鈴は僅かに数歩下がり、彰人は横へと動き離れていた。
「面白い動きですね」
「面白い、かな? ボクシングってのは、こういうモンなんでね」
「常に動いているという相手は、はじめてですよ」
「フットワークが命になるんでね。それに、俺はプロでもなんでもない。かじった程度だけどな」
「なるほど」
喋りながら打ち込んでくる拳を、彰人は冷静に見極めていた。
直線的な力というのは、横からの力に弱い。
内側に弾くように相手の打ち込みを無力化する防御方法、パアリングで凌いでいた。
「……っ」
受け流されるとは思っておらず、油断していた相手の腕の引きにあわせて距離を詰めると左フックが美鈴の脇腹へと吸い込まれていた。当たる瞬間に手首のスナップを効かし、ひねりを加え抉るように打ち上げる。
息を漏らし、咄嗟に後方に跳び退き彼女。彰人は追撃することもなく構えをとる。
「……なるほど。迂闊に踏み込めば、噛み付かれるというわけですか」
「…………」
相手の言葉には応えず、彰人は拳を構えたまま。
とんとんと床を蹴り、右へ左へと揺さぶりをかけるようにステップを踏み間合いを詰める。
幾ら人外とはいえ、急所は人間と同じなのだろう。肝臓を叩き込まれれば彼女もまた苦悶の表情を浮かべていた。
ブローを繰り出し、戻る腕の動きを無理やり殺し、刹那にフットワークを駆使して美鈴の右側面へと回りこむ。
そのまま強引に腰を回し、ボディブローを繰り出すが、今度はそう簡単に喰らう彼女ではなかった。
手刀――掌、甲、手首、絡めとるように彰人の拳を受け流し、ほんの僅かな隙を逃さず、鞭のようにしなる拳が相手の頬へと叩き込まれていた。
「ちっ……」
間合いを離しながら頬に触れる。殴られる痛みなど久しく忘れていた彰人ではあるが、本人でも気づかぬうちに、徐々に闘争のスイッチは入りはじめていた。
美鈴の繰り出す拳を、上体を上下させて避ける防御法のダッキング、頭を狙う攻撃には上半身を反らしてかわすスウェーバックで防御する。
とんと床を蹴り、彰人は右に身体を投げて間合いを離す。
美鈴は追撃することもなく、己の掌に視線を落とし……拳を作って身構えていた。
「……本当に拳のみなんですね」
打ち払った甲と拳は熱を持つ。脚のリズムを崩さず、彼は疲れたように返答していた。
「だから言ったろう? これしかないって。やめにしてくれると、すごく助かるんだが?」
どうだろうかと提案してみせるのだが、美鈴は笑って応えていた。
「あはは、ダメですよー。まだはじまったばかりじゃないですか。じゃ、今度はこちらから行きますよ」
「……少しは休ませてくれてもいいんだがな」
「ダメですよ」
言って、美鈴はニコリと笑う。すいと腕を挙げ、そこから前方へと打ち込んでいた。
スウェーバックで避けると、空振りさせた手が戻る前に美鈴の頬を叩きつける。
「……っ」
僅かによろめく相手に深追いはせず、ウェービングにより前後左右へと的を絞らせないように動き続ける。
下半身の力で上半身を左右に移動ながら……場合によっては、フットワークの一種であるステッピングも使い、相手の攻撃が当たる瞬間に左、右、斜め前へと一歩踏み出す防御も混ぜていた。
踏み込まれた拳をかわし、逆に無防備となった腹へ拳を叩き込む。ついで左のフックから、間を置かずに顎へ右のアッパーを繰り出していた。
だが、隙が大きい一撃は当たることもなく、美鈴は、瞬時に間合いを改めるために横へと動いていた。
スリットから覗く、美鈴の見事な脚線美に思わず眼が行きがちになるが、刹那に彰人は自分自身に馬鹿かと言い聴かせて冷静に努めていた。
繰り出される打撃をなんとかパアリング、スウェーバック、バックステップを織り交ぜやり過ごすが、全てを捌ききることはできなかった。
「ちっ――」
攻撃手段がパンチしかないボクサーにとって、万全となる美鈴を相手にするには分が悪いというレベルではない。完全に勝負にすらなりもしない。
投げ技、掴み技がないだけまだマシと言えよう。極端な話、肘でも掴まれてしまえば、たったそれだけで抵抗することすら難しくもなる。
関節技でも極められさえすれば、その瞬間に負けが決まる。ならびに、関節技に対処する術など彰人は持ち合わせていない。
宣言された足技も封印しているからこそ、対等――御世辞も御世辞、大御世辞である――と見れなくもない動きを見せてはいるが、これが蹴り技主体となれば、流れなど美鈴の一方的となり独壇場となるであろう。
美鈴の繰り出していた抜き手を払いそこね、流れるように返す掌に顎を打たれ、ついで手の甲が彰人の頬を張る。掌打へと変化した重い一撃を胸へと叩き込まれていた。
呼吸を詰まらせた彼は思わず膝をつく。
「……っ」
ルール通りに、美鈴は律儀に彰人が起き上がるのを待っていた。
「…………」
小さく舌打ちを漏らし、彰人は立ち上がっていた。
妖怪、女性だからと遠慮していたのは確かだが、こうまでいいように押されるというのは、彰人とて内心面白くはない。
踏み込む彰人ではあるが、逆に動きを読まれ、肩、顎、頬に打撃を喰らい――意識が一瞬で飛びかけるが、本能的に身体は沈んでいた。
真っ直ぐに放たれた抜き手……ボクシングで言えばストレートを掠めるように素早く上体を落としかわし、相手の無防備となるボディーに拳を叩き込む。
相手の腹に拳を突き刺し、持ち上げるかのように打ち抜いていた。
当たった瞬間に手首にひねりを加えていたが、打撃力としてはそれなりにあったのか、息を吐きだし美鈴の身体が止まる。
そこを見逃さず、彰人は更に距離を詰めての左右の打ち分けを加撃していた。
「……っ」
右の拳を叩き込み、追撃となる左のフックが脇腹に刺さる。打撃の苦痛に顔をあげたところへ、美鈴の左頬に右フックが叩き込まれる。
だが、打撃を受けたままの彼女ではない。瞬時に切り返していた手刀が彰人の首筋へと振り下ろされていた。
「へえ、やるじゃない、あの人間」
「レミィ」
いつの間にか横へ現れていたレミリアに、パチュリーは声を漏らし視線を向けていた。
最初は興味など一切なかったパチュリーではあるが、すごいすごいとはしゃぐフランドールと小悪魔の声に顔を挙げ見入っていたところだった。
明らかに手加減をしているであろうとはいえ、美鈴が人間に一撃――厳密に言えばコンビネーションによる数発だが――を入れられるとは思っておらず、レミリアは愉快そうに口角を釣り上げていた。
「食事の準備ができたのに、誰も来ないから探してみれば……随分と面白そうなことをしてるわね」
「…………」
呑気な声音を漏らすレミリアに呆れながらも、パチュリーは面倒くさそうに視線を向けていた。
「カトー、がんばれー」
気楽なフランドールの声援が彰人の耳に入るが、それに応える余裕などはない。
視線は美鈴に向けたまま。相手の些細な動きすら見逃すまいと、彼は眼を離すことができなかった。よそ見をする気力もない。
口元を手の甲で拭う美鈴と、首筋に手を当て軽く頭を振る彰人。
ふたりの挙動は一瞬ではあったが、刹那に、仕切り直すかのように両者は動いていた。
「…………」
美鈴の構えが変わる。左掌を自身の顔に向けるように突き出し、逆の腕を肘から直角に曲げては、左二の腕に重ねるかのような格好。
その構えの名は、詠春拳――
相手に隙があれば瞬時に攻撃に転じることができる構え。接近戦での戦法としては尤も効率の高い中国武術の一種であるが、彰人が理解できたわけでもない。
「…………」
仕掛けたのは彰人。
間合いに潜り込もうと、とんとんと床を蹴り――左の拳を疾らせる。
だが――
打ち込んでいた拳を美鈴の右腕で防がれると、瞬時に左の一撃が彰人の顔に叩き込まれていた。
「……っ」
頬を張られ、彰人の口から思わず罵声が漏れる。相手の拳が届かぬ距離まで下がると、首を振っていた。
口の中に広がる鉄の味。今の一撃で咥内を切ったのだろう。
(めんどくせぇ……)
血の混じった唾を吐き出そうとして……ここが図書館だったことを思い出し、咄嗟に飲み込んでいた。
呼吸を整えながら、彰人は相手を見定める。
構えを変えた相手に無駄な動きがない。
美鈴の構え、眼の動きで突きを放つのかと踏んでいたが、そうではない。触れ合う腕の感覚運動だけで容易に隙をつき、そこから突き込んでくる。
こちらの動きに逆らわずに、必要に応じて有利な体制を作り上げ、さらに相手を翻ろうしていく。
自分の放つ拳のエネルギーを巧みに受け流し、胸、頬に掌打を叩き込まれていく。こちらの拳が打ち込まれようとも、構わずに、美鈴の打撃は止まらない。さながら蛇のように。
彰人とて、全く手が出せていないわけではなかった。
相手の防御を崩す為の手段のフェイント。彼は、肩、腕、脚、眼、それら四種を絡めて美鈴の身体へ叩き込んでいく。
腰を回転させつつ肩を前に出す――
腕の引き――
踏み込む足の角度――
打つ位置への目線――
しかし、どんなに小細工を労したとしても、所詮は人間の浅知恵であり、敏捷性は美鈴が上である。軽快な脚運びによって、彰人との距離を詰め肉薄する。
繰り出す拳を防ぎ、なおも横へ回り込もうとする彼女に合わせるかの如く、彰人もまた撃たれてなるものかと対象者を追うように瞬時に身体をひねり迎え撃つ――が。
そこに美鈴の姿はなかった。
「……っ」
何処だと相手を補足するべく眼が奔りかけるが――
「こっちですよ」
「――っ!?」
かけられた声音は――彰人の左真横。
向き直る暇もなく、彼は横合いから打ち込まれていた一撃に苦悶の表情を浮かべていた。
発勁、と呼ばれる中国武術における力の発し方の技術。
発勁とは発生させた勁を対象に作用させる。勁とは、運動量のことを指す。発生させた勁を接触面まで導き、対象に作用させる事である。
なかでも、今、美鈴が繰り出していたのは、寸勁と呼称される、身体動作を小さくし、わずかな動作で高い威力を出す技法であった。
打ち抜かれた箇所から鈍い痛みが身体を駆け抜ける。
今まで受けたことのないレベルの鈍痛。わき腹を大きな杭のような物ででも打ち抜かれたかのような錯覚。
衝撃に足がもつれよろけそうになるが……彰人は歯を食いしばり、両の脚はしっかりと床を踏みしめ、残った気力を振り絞り、倒れてなるものかと持ちこたえていた。
気絶でもしていれば楽になっていたであろう。だが、今の彰人は早々に諦めはしなかった。
荒い呼吸のまま顔を上げ、下がりかけていたガードも持ち直し、構えをとる。彰人の闘争心は消えておらず、何よりも、彼の眼つきが変わっていた。
彰人の顔を狙うように打たれる拳を――
頭を滑らせるように避ける、ヘッドスリップと呼ばれるテクニックでやり過ごすと、身体を左へひねると――美鈴にとっては右へと回り込んでいた。同時に、腰をひねる動作にあわせて溜めていた右のフックが彼女の頬へ叩き込まれていた。
加撃は続く。
右のフックを叩き込むと間髪をいれずに左のフック。更には溜めていた右のアッパーが美鈴の顎を真下から正確に捉え打ち抜いていた。
三発の打撃音に美鈴は顔を押さえて数歩ほど後ろへと下がっていた。
「……やりますね」
「…………」
相手の声に反応することもなく、睨みつける眼差しで彰人は拳を構えたまま。
無言ではあるが、感情的になり、敵対心は増している。それは少なからず美鈴も同様に。
(相手がいくら人間じゃないとしても、顎に叩き込んで脳に衝撃ぐらいはいってんだろうに……少しは膝にきてくれてもおかしくはないんだが……)
美鈴の脚にはなんら支障がないことに彰人は胸中で毒づいていた。
意識を切り替え――
動かないサンドバックならまだしも、容易に動き避ける美鈴相手に単発の拳など当たるはずもない。
ならば、と彰人が考えるのは、やはり完全にコンビネーションを重点として攻めねばならなかった。パンチとパンチのつなぎで狙うしかないと判断する。
また、カウンターを狙うにしても、リスクが大きすぎる。
大まかに見繕って四種類の方法があるが、どれも無難にとは行かない類ばかりであろう。
ひとつめは、相手が拳を打つ瞬間に打つ方法。
ふたつめは、相手の拳を捌いて打つ方法。
みっつめは、相手の拳を避けながら打つ方法。
よっつめは、防御しながら打つ方法。
「…………」
人間の彰人が放つ拳でも、美鈴に微々たるダメージを与えているのは、力の逃がし方にもよる。
従来であれば、左から打てば右へ力は逃がせられ、また逆に右から打てば力は左に逃げる。
正面から打てば後ろに逃げ、体重を乗せて上から打ったとしても喰らう際に膝のクッションを使えば下に力を逃がすことができる。
だが、ひとつだけ例外があるのは下からの打撃。下から打てば上に力が逃げると思われがちであるが、重力によって下から打つ威力はそのまま相手へと伝わる。
それらを踏まえた上で、いかに相手へ力を逃がせられない打撃を叩き込むかが頭を悩ませるところであろう。彼なりに考えて狙ってはいるのだが……
しかし、それ以前に、ここでひとつの問題が浮上していた。
彰人は口元に拳を構えたまま動かない。否、動けなかった。
「…………」
彼のスタミナは既に限界だった。相手の動きに反応して追いついていくことができなくなっていた。
荒い呼吸を誤魔化すように口元を覆う。自制するように息を吐く。
眩暈と吐き気、動悸が激しい。極度のだるさが身体を襲う。
(……こっちが先にガス欠か……煙草なんてやめていれば、もちっとばかし動けんだろうが……)
ボクシングからとんと離れていたため、久しぶりに身体を動かしてみれば、最初は何とかなるかと思いもしたが、世の中はそんなに甘くなどはない。
現実を直視させられるのは、ブランクがやはり壁となる。ボクシングスタイルは身に染みていようとも、満足な基礎体力作りもされていない身体そのものが悲鳴を上げる。少し動いただけで息切れをするのがその証拠であったりする。
が――
本能による心境の変化は、人外相手に全力でぶつかれるということに彰人自身気づいていない。
故に、彼は己でも知らずのうちに自然とギアを上げていた。
「…………」
相手の構えが変わったことに美鈴は気がついていた。何よりも彰人の眼つきが変わったことに、彼女はぞくりとした昂揚感をその身に覚えていた。
(いい眼をしますね……敵わないのに、諦めないというところでしょうか……)
顎を引いた彰人の顔は正面に立つ相手を捉えたまま。
脇をしめ、背中を丸めると、左手の拳は自身のこめかみ辺りに。右手は顎付近に構えをとる。
足のスタンスを広く取り構える格好。一目見て、彼女は彰人の下半身が安定したことまで察していた。
左右の脚へ体重をかけ、打ちやすいパンチングスタイル。
追い脚に必要な瞬発力――足の指先に体重をかけながら、美鈴のスピードに惑わされぬよう間合いを詰める。
いわゆる、高い突進力とラッシュ力に任せたインファイタースタイル。
仕掛ける美鈴の拳を上下にいなし、逆に彰人は己の両の腕を上下に打ち分け、または左右へと打ち分けていた。
ひゅっと右の拳が疾る。瞬時に絡めとり受け流すが――重さがない。
と――
逆の拳が美鈴の右脇腹へと叩き込まれる。
「――っ」
刹那に腰を引き、美鈴は左の一撃をやり過ごしていた。
危ない危ないと声を漏らす相手に、深追いはせず、彰人はベタ足で間合いを取る。
「…………」
人間にしてはそれなりに楽しめる、と美鈴なりに感じた正直なところであろう。
美鈴による相手の動きへの考察は、まだまだ無駄が多く、時おり雑な運びになることも理解していた。
しかしながら、それらは彼女が手加減をしている上で成り立っている余興であり、本気であれば瞬く間に叩きのめせるレベルである。
この瞬間を楽しむために無粋なマネをするつもりもない。
楽しめるならば、その時間を長く過ごしたい。あっさりと終わってしまってはせっかくの暇つぶしもつまらないものとなってしまう。
あはと笑う美鈴と、険しい顔の彰人。
刹那――
両者が動く。
両腕を前面に構え床を蹴る彰人と、迎え撃つように音もなく駆ける美鈴。
互いの拳が繰り出され――
鈍い音が、図書館に響き渡っていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
晩餐会――
テーブルに着くのは、レミリア、フランドール、パチュリー、美鈴、それと彰人である。
「カトーったらすごいのよ、お姉さま。美鈴相手に一歩も引かなかったんだから」
「はいはい。わたしも途中から見ていたからわかってるわよ。それよりも、フラン……お喋りしながら食事をするものではないわよ。はしたないわ」
口元を汚した妹に呆れながらも、レミリアはナプキンを手に取っていた。
「お嬢さま、わたしが」
主の手間を取らせるまでもない。フランドールの相手を買って出る咲夜ではあったが、レミリアは軽く制しただけだった。
なんだかんだでレミリアにとっては、妹であるフランドールの世話をすることは苦ではない。むしろ、姉だからであるからこそ、気を使っているといえよう。
レミリアに口元を綺麗に拭かれ、されるがままだったフランドールではあるが、直ぐにまた喋りだしていた
「…………」
楽しそうに話をしながら食事をするフランドール。行儀が悪いとたしなめるレミリア。静かに黙々と食べるパチュリー。
彰人も料理を口にする。
幻想郷に来てから、こういった類のものを食べるのは久しぶりだった。なにより、皿にのせられた肉料理は、どのようにして調理をしているのかが疑問である。
電気やガスであれば火力も申し分なく楽であろう。紅魔館にはそれらが兼ね備わっているというのであれば、正直羨ましいと思ってしまう。もしくは、『魔法』という概念による調理法なのだろうか、とそんなことを考えていた。
感情の昂ぶり、気が張っていただけに、組み手が終われば緊張が解けた双方――美鈴はそれほどでもないが――は身体の痛みを訴えていた。
美鈴は僅かに顔をしかめている程度であり、打ち込まれた身体とは言えど、動くことになんら支障はない。
対して、彰人に至っては上半身の至る箇所から熱を持ち、少し動くだけでも激痛と鈍痛がひっきりなしに身体を蝕んでいた。そこへ、フランドールがじゃれるために跳びかかれば、彼は悲鳴を上げてのたうちまわるのだった。
多少顔を腫らしたまま――小悪魔によって既に治療は済んでいる――腕を動かすにも苦労がかかり痛みも伴う。鉛のように、とまでは言いすぎであろう。
無言のまま、フォークでステーキをつついていた彰人に咲夜は声をかけていた。
「お口に合いませんか?」
「ん? ああ、いや、すみません。そういうわけではないんですが」
いつの間にか傍に現れていた彼女に対して、彰人は気にしないでくれという意味を込めて手を振っていたのだが――
咲夜の視線は、客人の盛られた皿へと向けられていた。
「その割には、先からお手が進んでおりませんが?」
相手の指摘の通りに、実を言えば彰人の食事は進んでいなかった。スープや肉料理などは口にはするのだが、それよりも多く摂取しているのは飲み物だった。主に水である。
「…………」
咥内は切り傷だらけによりズタズタだった。何を食べても味がしない。殴られた際に歯を折られていないのは救いである。
恐らく、口にした料理はいずれも見た目通りに美味なのであろう。だが、咀嚼する彼の口の中は、血の味しかしなかった。
それは美鈴も同様に。せっかくの料理なのに、口にしても味はせず、傷口に滲みたりするのだから。
あげくは――
「咲夜さん、わたしのだけ味がしませんよ? イジメですか?」
そんなことを口にした瞬間に、彼女は咲夜に怒られていたのだが。
「絶対おかしいです。わたしのだけ味がしませんよ?」
「そんなわけないじゃないの。何を言っているのよ」
咲夜は呆れるだけ。皆が食している料理の類は一切手など抜いていない。むしろ、フランドールに美味しいものを作ってねと頼まれた以上、今宵は普段よりもさらに手を加え、調理には妥協を許さぬ自信作である。
「きっと、わたしのだけ味がしないんですよ。ええ、きっとそうです。いつも寝てるからと言うあてつけでのイジメですね。わかります」
ぶつぶつと呟きながら、美鈴の首がぐるんと動き、横の席に座る彰人へと向けられた。
彼が食べているのは、自分のとは違い、ちゃんとした下味、調理が施されている料理なのだろうと猜疑を持っていた。
なにより、彰人は客人である。招かれた客人の料理に手を抜いては、紅魔館のメイド長、ならびに主たるレミリアの品位さえ貶めかねない。それらを踏まえて美鈴は企んでいたのだが。
咲夜にとっては、来賓たる彰人の分をもらい食べようとする美鈴の行動は看過できない。それこそ、紅魔館の品位を疑われるだろう。
やめなさいと咎める咲夜の声を……だが、美鈴は聴きはしなかった。
「美味しいですか? アキヒトさん?」
「…………」
横で騒ぐ美鈴に呆れたのか、ナイフとフォークを使い適度の大きさにステーキを切り分け刺すと、彰人は、ほれとフォークを差し出していた。
が――
何の考えもなしに下した行為ではあったが、男の彰人が口をつけたフォークではまずかろうと判断すると、瞬時に腕を引こうとしたのだが、それよりも先に美鈴はぱくりと口にしていた。
「…………」
ぽかんとした表情の彰人――咲夜も呆れた顔をしている――ではあるが、美鈴は気にもしていないのだろう。
もぐもぐと咀嚼して飲み込む彼女は――あれ、と首を傾げていた。
「おかしいです。アキヒトさんのも味がしませんよ?」
「……俺たちふたりの口の中が切れてるってことを忘れてるのか?」
嘆息混じりに呟き、彰人はグラスに注がれていた高そうな赤ワインに口をつける。
と――
「カトー、お風呂入ろ!」
フランドールの突然の言葉に、パチュリーを除いたその場に居た全員が噴き出していた。
厳密に言えば、パチュリーとて反応が何もないわけではなかった。無言ではあるが、手にしていたスプーンを床に落していたりする。
レミリアは優雅にワインの風味を楽しんでいたというのに、口からぼたぼたと零していた。気品も何もなく、咲夜にナプキンで口元を拭われながら。主人の痴態を晒すわけにもいかず――既に見られているが。
周囲の者たちを気にも留めず、フランドールは椅子から飛び降りると、彰人の傍に駆け寄り腕を掴んでいた。
「ほら、早く」
「ちょ、待て……待て待て、フラン」
ぐいぐいと吸血鬼の持つ強い力で腕を引かれる彰人だが、なんとか宥めようと試みていた。
何故ならば、彼自身に向けられているレミリアと咲夜からの鋭い視線に耐えられなかったからなのだが。
特に、咲夜からは塵芥でも見るかのように、このケダモノが、といわんばかりの冷たい双眸。
まさか素直に同意するんじゃないでしょうね、と物語るレミリアの凍てつく紅い瞳。
もはや、ふたりから放たれている視線は、軽蔑へと変わっており心臓に悪い。
唯一、彼を擁護するかのように、美鈴は慌てて声を割り込ませていた。
「い、妹さま――お風呂は、わたしと一緒に入りましょうね? アキヒトさんは、いろいろとお疲れですから」
「イーヤ。わたしは、カトーと入りたいの。ね、カトーもわたしと一緒に入りたいでしょ? 背中洗ってあげるから」
無邪気に笑うフランドールではあるが、対照に彰人は居心地が悪かった。
突き刺さる女性陣からの白い視線――レミリア、咲夜、パチュリーの三人による――は針のむしろとでも表現すべきか。
咲夜にいたっては、顔が能面のまま、何処から取り出したのか、ナイフを手の中で玩ばせている。意味もなく宙へ放っては落下する柄をキャッチしては、延々と同じ動作を繰り返していた。
ただひとりの味方は、やはり美鈴のみである。
「ア、アキヒトさんも……妹さまと一緒に入るのは、恥ずかしいんですよ」
「なんで?」
「……なんで、と申されますと……」
不思議そうに小首を傾げるフランドールに、美鈴はあらぬ方向に眼を泳がせながら、なんとか相手を納得できるように言い聴かせようと試みる。男性なんですから、と説明したとしても簡単に聴き入れはしないだろうと推測していた。
そんな彼女に彰人は心の中で頑張ってくれとしか応援できなかった。
フランドールの指摘がされる。
「お風呂は、裸で入るものでしょ? わたしは恥ずかしくないよ? 美鈴だって、わたしと入る時は恥ずかしくないでしょう?」
美鈴と一緒に入浴した例を挙げるのだが――
「と、とにかく! ダメなものはダメです!」
「むー、なんで美鈴がダメって言うのよ! なんで美鈴に決められなくちゃいけないの? わたしはカトーと入るんだから!」
腕を絡めてぷくと頬を膨らませる妹に、持ち直したレミリアは威厳を取り戻すために口を開いていた。
「フラン、いい加減に――」
「うるさい。お姉さまなんてお呼びじゃないのよ。黙って紅茶でも啜ってればいいんだわ。うっうーっ、ぶれいくー、かりちゅまー、ぶれいくぅー」
「しゃくやーっ!」
以前同様に、ぞんざいな扱いをされた姉は椅子を蹴転がして従者へと抱きついていた。フランがいじめる、わたしは姉なのに、と泣きじゃくるレミリアを愛しそうに撫でる咲夜。
泣き崩れる紅魔館当主を視界に捉えながらも、美鈴の説得は続いていた。
「ア、アキヒトさんも困ってますよ。ね?」
言って、彼女は話を彰人当人へ振っていた。
彰人にしてみれば、ここで俺に話を振って寄こすのかと胸中で声を上げていた。
僅かな間に、彰人と美鈴のアイコンタクトが展開される。
「この場で振るか?」
「すみません。わたしには無理です」
「……オーケー、善処しよう」
そんなやり取りがあったような気がしないでもない。
こほんとわざとらしくひとつ咳払いをすると、彰人による説得が開始されていた。
「あー、フラン……その、なんだ……君は、お嬢さんなんだから、ひとりで入れるだろう?」
お嬢さんだからひとりで入浴できるできないなどとは関係ない。言っている内容が見当違いであるのも、それほどまでに彰人本人はどう口火を切るか迷い追い詰められていた。
とりあえず、思いついて口から出た言葉がソレである。
「カトーは、わたしと一緒じゃイヤなの?」
「イヤとかそういうんじゃなくてだな……フラン、君は大人だろう? 子どもじゃないんだから、ひとりで入れるだろう?」
「むぅー」
この場に限り、敢えて意地の悪い言い方をしてしまったのだが、ぷくりと頬を膨らませるフランドールは、それ以上は言ってこなかった。
これは押し通せるか、と淡い期待を持つ彰人ではあるが――
「じゃあ、美鈴も一緒ならいいでしょう? 裸の付き合いって言うし」
「いいわけあるかっ! もっとダメだろっ!」
フランドールの提案に、つい声を荒げて彰人は否定の言葉を口にしていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
どうしてこうなった――?
眼を覆うように巻かれたタオル。
視界を塞がれ、満足に歩行もままならない彼はフランドールに腕を引かれて浴室へと連れてこられていた。
「カトーと一緒に入るー!」
癇癪を起こし、駄々をこねるフランドールを懸命に宥めた一同であるが、それでも相手は受け入れなかった。
暴れられては敵わんと悟ると、苦渋の判断として、入浴は認めず彰人は眼を塞ぎあくまでもフランドールの背を洗うだけ、補佐兼目付役――裸のフランドールに不埒なマネを働かせないように監視するのが一番の目的ではあるが――として美鈴が同伴することで、なんとかフランドールに同意させるには至ったのだった。
むわっと肌に触れる湿気。当たり前ではあるが、裸になるわけにもいかず、彰人の格好は執事服のまま。湯気と湿気によって肌に張り付く衣服に若干不快感を覚えながらも、彼は袖と裾をまくっていた。
「此処でお待ちください」
美鈴にそう言われ、腕を引かれて段差に座らされるまましばし待つ。
見えているわけではないので判断することはできないが、感覚では大浴場然といったところだろうかと彰人は想像していた。手を引かれるまま歩いた距離、立ち込める風呂場特有の熱気。座る場所を足の指先を頼りに確認すれば、湯に触れていた。
そのまま足を浸し、伝わる温かさに意識を集中させていた。ついで、手の指先も触れさせ、確かな湯の温かさを堪能する。
「…………」
程好い湯加減――
ゆっくりと湯に浸かって、のんびりしたいものだと癒しに憧れを抱くのだが――
フランドールのキャッキャとした声が背後から聴こえてくる。美鈴が服を脱がせているのだろう。
意識を切り替え、現実を受け入れるかと覚悟を決めると、左手にスポンジを持ち、右手には石鹸を持った格好。が、それ以上に困るのは、視界を塞がれているのはいいのだが、ここで別の問題が生じていた。
「い、妹さまっ!? どこを触っているんですかっ!?」
「うわあ、おっきいー」
「や、やめてくださいっ!」
「…………」
聴こえてくる声に思わず無言。
決めた覚悟は数秒と持たずに粉砕されていた。耳を塞ぎたい衝動に駆られるよりも、少しでも早くこの場から逃げ出したかった。
「見て見て、カトー! 美鈴の胸、こんなに大きいのよ」
「誰が見るかっ!」
咄嗟に語尾を荒く言い返すのだが――
「み、見たくないですか……」
しゅんとした美鈴の声音に、彰人はスポンジを持つ手の甲で額を押さえていた。
「なんでそうなる……俺が置かれている、この場のこの状況においての、真っ当な意見を述べただけだぞ……」
まったく、と一言漏らし、手にするスポンジと石鹸を泡立てていた。
湯をかける音を耳にしながら、彰人は手っ取り早く済ませて浴場から退出することを決意する。
と――
いきなり、彼は正面からばしゃりと湯をかけられていた。
突然のことに驚きはしたが、こちらの眼が見えないのをいいことに、フランドールが悪戯をしたのだろう。
案の定、いけませんよ、と美鈴にとがめられていた。
湿気を含んで既に重くなった衣服が、さらに湯を含んだことに、彼は当に諦めていた。
「遊ぶなっての……」
事前に言いはしていたが、改めて確認も含めた上で口にする。
「まったく、背中だけだからな」
「わかってるよ」
「…………」
本当にわかってるのかコイツは、と胸中で呟きながらも、さっさと終わらせるためにも彼は取り落としていたスポンジと石鹸を美鈴から手渡されると、再度こすり合わせて泡立てていた。
「じゃあ、背中をこちらに向けてくれ。俺は眼が塞がれているんだからな、くれぐれも悪戯するんじゃないぞ? 言うこと聴かずに悪戯したら、俺は出るからな」
「はーい」
返事だけは素直な相手に呆れながらも、美鈴のサポートを受けて フランドールの華奢な背にそっと触れ、優しく、それでいて丁寧に洗っていく。
スポンジ越しに触れるフランドールの素肌。身体のラインをなんとなくの感覚で判断しながら、肩や首筋へと移る。
「くすぐったいよ」
「……黙ってろ。動くな」
くすぐったさに身体を動かすフランドールに呆れながら、洗う先は、背の羽根へと触れていた。
「…………」
彰人の手が停まったことにフランドールも気づいていた。肩越しに振り返り問いかける。
「どうかした、カトー?」
「あ? あー、いや、特に意味はないよ。ただ、フランの羽根に触れる機会なんてなかったなと思ってな」
言って、手探りのまま枯れ木のような羽根を洗っていく。ぶら下がる宝石のような結晶にも触れてはそれらも丁寧に扱っていた。
「それに、フランの羽根は綺麗だしな」
「綺麗?」
「ああ、綺麗だ」
「…………」
右の羽根を洗い終え、次に左の羽根へと着手する。
彰人の優しい手つきに身をゆだねていたフランドールではあったが、唐突に彼女は訊ねていた。
「お姉さまの羽根よりも?」
「お姉さん?」
フランドールが口にした内容に顎に手を当て、ふと考える。
レミリアの羽根は、彰人なりの判断で言うならば、『可愛い』に分類される。
『綺麗』という言葉が当てはまるならば、やはりフランドールの方であろう。彰人は頷いていた。
どちらが可愛いと訊ねられればレミリアであり、どちらが綺麗と訊ねられればフランドールであろうか。
双方の羽根も、互いには持ち合わせていない特徴がある。
レミリアとフランドールに対し、どちらが優れ、どちらが劣るかなどと、彰人に決める権利はない。
「……七色に光る羽根なんて見たことがないからな。フランらしくて、個性的だと思うし」
明確な言葉は避けていた。下手なことを口にして、あらぬ問題事に発展されても困るだけでしかない。
後に何かあったとしても、美鈴が聴いている手前、なんらかのサポートをしてもらえるだろうと淡い期待を持ちもする。
そんな彼の思惑を知りもせず、綺麗と褒められたフランドールの顔は満更でもない。
両の羽根を洗い終え、美鈴から受け取った桶の湯をかけ流す。
「ほら、終わったぞ」
「うん。じゃ、次は前ね」
「……アホ。背中だけって言ったろ。後は彼女に洗ってもらえ」
付き合ってられるかと腰を上げて立ち去ろうとする彰人だが、フランドールは相手の腕を掴み引き留めていた。
「じゃあ、腕で我慢する」
「…………」
「腕洗ってくれたら、終わりにする」
「……腕だけで、本当に終わりだからな」
腕であれば、まあ問題はないかと判断すると、わかったと応えて座りなおしていた。
「ほら、腕を出してくれ。さっさと洗って終わらせるから」
そう声をかけるのだが、一向に腕を突き出される気配がない。
と――
「もう少し前」
「?」
右から聴こえるフランドールの声に従い腕を伸ばすが――何も無い。
「もっと前。もっと前だってば、カトー」
今度は左から聴こえる声に釣られ、言われるままに手を伸ばすのだが、先と同様に、指先にはなにも触れはしなかった。
「おい、遊んでないで真面目にやれっての」
呆れたように声を漏らす彰人に対し、フランドールは背後でくすくすと笑っていた。
「はーい。じゃあ、じっとしてるから、そのままぐいっと前に手を伸ばして、カトー」
「こうか?」
声の方向から前に回りこんだのだと理解すると、今度こそ、言われるままに手を伸ばし――
ふにょん、とした感触が手に伝わっていた。
「?」
触れたものが何かと判断するするよりも遥かに早く――衝撃が彰人の身体を走り抜けていた。
「い、いやあああっっ――」
耳を劈くかのような悲鳴とともに、頬に受ける強い打撃。僅かな浮遊感を覚えたまま、勢いのまま彼の身体は盛大な水飛沫を上げて、頭から湯船に叩きこまれていた。
視界不良に加え、何をされたのかを彰人本人は理解していない。何故なら、張り倒された時点で意識を失っているのだから。
頬を張られ、浴槽の縁に頭を強打し、ぶつかった衝撃でぐるんと身体を跳ねさせ湯の中へと落下する。
彰人が触れたのは……美鈴の豊満な胸である。
スペルカード、禁忌「フォーオブアカインド」で四人に分身したフランドールは、ひとりが美鈴の口を塞ぎ、ふたりが身体を押さえ、残るひとりが声をかけて彰人を誘導していた。
幼いながらも吸血鬼たるフランドールの筋力によって、動きを封じられていた美鈴ではあったが、さすがに羞恥による感情の爆発に三人のフランドールを引き剥がすと、その勢いのまま、彰人の顔へ平手を見舞っていたのだった。
だが、当然手加減などしているはずもなく。それほどまでに、恥ずかしさに冷静の欠けた美鈴の一発は強力だったということだろう。
「うう……もう、お嫁にいけません……」
恥辱に身体を覆いうずくまる美鈴ではあるが、対照に、本来のひとりに戻っていたフランドールはけろりと、それでいて不思議そうに口を開いていた。
「ねぇねぇ、美鈴」
「なんですか、妹さま……」
せめて今は言葉をかけないでほしいと思いながらも、美鈴は疲れたような表情で振り返っていた。
だが、フランドールは指を浴槽へと向けていた。
「カトー、死んじゃうよ?」
「…………」
「すっごい鈍い音したし、全然動かないんだけど」
浴室に居ながら冷や汗を垂らして美鈴が視線を向けてみれば、フランドールの指摘通りに、湯の張られた広い浴槽に頭から突き刺さった格好の彰人が映る。その姿は、さながら不出来なオブジェのようだった。
ぼこぼこぼこと――恐らく無意識のまま息を吐き出しているのだろう――激しく泡沫が湯面ではじけていたが、やがてそれも止み、しんと静まる。
ようやくして美鈴は、自分が何をしたのか、気が動転していたとはいえ、ついうっかり本気で張り倒したことを理解していた。
一瞬にして血の気が失せ、顔面蒼白となった美鈴は声にならない悲鳴を漏らすと、慌てたように湯船に飛び込み、すぐさま彰人の脚を掴み引き上げていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
濡れ鼠と化した彰人は、着替え終えたフランドールにタオルで頭をごしごしと拭かれていた。彼の頬には、鮮やかであり、まことみごとな紅葉が浮かび上がっていた。
「すいませんすいませんすいませんすいませんすいません」
「…………」
しきりに頭を下げ続ける美鈴――彼女も当然着替えている――ではあるのだが、彰人は無言だった。無視をしているわけではない。
未だに朦朧とする意識。話を聴けば、自分は美鈴に張り倒され、湯船に叩き込まれて溺死しかけたと説明されていた。
「…………」
死にかけた、と聴き、そういえばとぼんやり考える。
見知らぬ河川敷じみた場所に立っており、きょろきょろと周囲を窺うが人の姿は見当たらなかった。
と――
視線が向けられたのは、川に浮かぶ一隻の船。何気なく近づいて見れば、着物のような服装に腰巻姿。赤髪をツインテールにした女性が船の中でぐうぐうと眠りこけていた。船体に立て掛けてあるのは大きな鎌。
それを不思議そうに眺めていたが、寝てるところを悪いと思いながらも、彰人は女性に声をかけていた。
ここはどこかと訊ねれば、寝ぼけ眼に応えた女性は、死者の魂を彼岸へ運ぶ川だと応えていた。
「言葉を話せる霊魂なんて珍しいね。あんた達を地獄へと案内するのがあたいの仕事なんだが、もう今日は店仕舞いでね。悪いけれど、また明日にしとくれよ」
そんなことを言ってのけると、女性はまたぐうと眠りに落ちていた。今度は声をかけても肩を揺すっても起きはしない。
そうこうしているうちに、気づけば自分の意識もおぼろげなものになっており、ようやくして眼を覚ましてみれば脱衣場に寝かされていたのだった。
もしかしたら、あれがいわゆるところの三途の川というものなのかと今更になって彰人は他人事のように思考にふける。
三途の川を渡り損ねたから死なずに済んだのかと考えていたのだが……
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
先から無言のままの彰人を見て、よほど怒っているのだろうと勘違いした美鈴はひたすら頭を下げ続けていた。
強烈な一撃を喰らって、よく首が千切れていなかったなと安堵しながら彼は言う。
「いえ、いいですから。あなたが謝ることではないし、むしろ、俺があなたに対して取り返しのつかない不埒なマネを働いたわけですから……その、謝っても許されることじゃないですが、本当に、すみません」
「……いえ、アキヒトさんに非はありません。わたしがしっかりしていれば――」
こんなことにはならなかったでしょう、と告げると……
彰人と美鈴は、揃って深い溜め息をついていた。
そんなふたりの空気を汲むでもなく、フランドールは楽しそうに問いかけていた。
「どうだった、カトー? 美鈴の胸、おっきかったでしょ?」
「…………」
彰人は無言のまま、両眼を閉じ、眉間にしわを寄せると、額に手を添えて息を吐いていた。
「あれ? おっきくなかった? カトーにとっては、筋肉でがちがちに固かったのかな?」
「か、かたくないです! やわらかいです! やわらかかったですよね? ね?」
固い、柔らかいと言い合うフランドールと美鈴のふたりに――
「……頼むから、放っておいてくれ」
馬鹿正直に返答する気もなければ、そんなことを聴かないでほしいというのが、彰人の本音であった。
頭痛すら覚えながら、彼は言う。
「元はといえば、お前のせいだぞ、フラン」
「なんで?」
どうして自分のせいなのか、本当にわからないのか、フランドールは小首を傾げる。
彰人と美鈴は――申し合わせたように、再度、深い溜め息を漏らしていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ご本読んで、お話聴かせてとせがまれる度に、彼は嫌な顔ひとつせず、それらをこなしていく。
絵本を読んで聴かせていたが、気づけばこくりこくりと眠そうなのに眠るまいと頑張るフランドールに彰人は苦笑する。
「フラン」
「ん……?」
読んでいた絵本を中断し、眼元をぼんやりとさせる吸血鬼へ優しく声をかけていた。
「眠いなら寝てくれ」
「……やだ。カトー、勝手に帰ったらイヤだもん」
「…………」
自分が寝てしまうと彰人が居なくなると思ったのだろう。だから寝ないと頑張る彼女ではあるが……
落ち着かせるように、彰人はフランドールの髪に触れて、そっと撫でていた。
「勝手になんて帰らないよ。帰る時は、ちゃんとフランに声をかけるさ」
「……本当?」
それでも不安そうに呟くフランドールを安心させるために、彰人は再度頭に手を乗せていた。
「ああ」
「…………」
一度だけこくりと頷くと、程なくしてフランドールは、くうと眠りに落ちていた。
静かな寝息を立てる相手を起こさぬようにそっと抱え上げ、ベッドに運ぶと、ぐっすりと寝入っているのを見届けてから彰人は音を立てぬように扉を閉め、地下室を後にした。
レミリアの計らいにより、泊まるために彰人の寝室として割り振られた部屋が用意されていた。当初は一緒に寝ると駄々をこねるフランドールであったが、それを了承する皆ではない。無論、彰人も反対の言葉を述べている。
むーと不機嫌となるフランドールではあったが、それならば、飽きるまで付き合ってやるからそれで我慢してくれと言い宥めた彰人に渋々ではあるが納得の声を漏らしていた。それぐらいであればとレミリアと咲夜からも了承は得ていた。
用意された部屋には立ち寄らず、その脚のまま、眠気の冴えた彼が向かった先は図書館だった。
自分が歩く音以外なにもなく、しんと静まり返った館の中、うっすらと灯りが点る廊下を進む。
時刻は深夜のはずではあるが、図書館内もまた灯りが点っていた。人の気配を感じて進めば、ここの主たるパチュリーが眼鏡をかけ、黙々と書物を読んでいた。
彰人の存在に気づいた彼女は、顔を上げて一瞥くれるだけ。再び読んでいた書物へ視線を落す。
「…………」
机の上に灯るランプ。同様に積み重ねられた本の数々。彰人は自然と少女へと歩み寄っていた。
近づいてくる気配に対し、パチュリーは今一度、煩わしそうに視線を向けていた。『何か用?』と眼だけで訴える。
「眼が冴えてね……邪魔をするつもりはないので、しばらくここに居させてもらえないかな?」
「…………」
やはり何も応えず、視線を逸らす彼女。
出て行けといわれないだけ、この場に留まることに関しては黙認を許されたのだと理解する――無視という可能性も大いにあるが――と、読書の邪魔をするわけにもいかず彼女から離れていた。
改めて、ぐるりと室内を見渡していた。
眼につくものは全て本。どこを見渡そうとも、本、本、本――
興味本位で手近にあった書架に歩み寄り、適当に眼の停まった書籍を棚から取り出していた。いかにも古く、年代の深そうな書物でありながら、手入れは行き届いている。
他人の所有物であるため、極力丁寧に扱うように心がけ、厚みのある頁を開き試しに眼を通してみる。
だが――
「なるほど。わからん」
幾何学模様や読めない文字の羅列だらけで彰人には理解できぬ内容ばかりであった。丁寧に本を閉じ、棚へ戻したところで声をかけてきたのは小悪魔だった。
「何かお飲みにでもなられますか?」
聴けば、パチュリーへ一息入れるために飲み物を用意するところだったらしく、よければ彰人もどうかと訊ねたところだったという。
せっかくの厚意であれば、ならば受けさせてもらおうと返答する。実を言えば、フランドールと話し、語り疲れていたので何か飲みたかったのも本心であった。
「なら、なにかお願いします。なんでもいいので」
「わかりました」
頷き踵を返そうとする小悪魔を――しかし、彰人はちょっと待ってくれと呼び止めていた。
「彼女は、いつもああなのか?」
彰人の言う『彼女』とはパチュリーのことである。小悪魔も誰のことを示しているのか理解すると、ええと頷いていた。
「パチュリーさまですか? そうですね。日がな一日、本を読まれていますよ。わたしどもは、そのお手伝いです」
「…………」
視線を向けて見れば、二階や三階と思しきフロアに眼の前に立つ彼女と同じような格好――唯一、髪型だけは違ったが――の女性があちらこちらへと飛び回り本を運んでいた。
膨大な量の本の管理も任されているんですと応える小悪魔に、彰人は純粋に感嘆の声を漏らしていた。
「本来、食事も必要とされません。時間があれば、得た知識の応用により、更なる魔法の研究も兼ねて書物を読まれていますから」
「…………」
食べなくてはならなく、栄養を摂取する人間と同様ではない。
そういえば森近霖之助も同じことを言っていたなと思い出していた。彼の場合は、パチュリーと同じように食事による生命維持のために栄養摂取をする必要はなく、愉しむために食事をとっていると聴いていた。
それでは、と一言残して去っていく小悪魔を見送り、彰人はまた適当に本を見繕っては開いていた。
ぱらぱらと頁をめくるが、一向に読める文字は見当たらない。イメージとしても、何に触れて書かれているのかもわからなかった。
紋様や文字で描かれる、いわゆる魔法陣というものも記載されているが、それが何を意味するのかさえ理解できるはずもない。
しばらく、読めもしない書物をいろいろと眼を通していたのだが――
用意ができました、と小悪魔からの声掛けを受けて、彰人は顔を上げていた。書物を棚へと戻し、パチュリーが座る一角へと歩み寄る。
小悪魔から差し出されたカップを、ひとつ礼を述べて受け取っていた。カップに注がれていたのは、ほんのりと湯気が上る白い液体。
一口含んで飲んでみれば――人肌程度に温められたホットミルクに僅かな甘み。
「隠し味に、蜂蜜を入れました」
「…………」
告げる小悪魔に、なるほどと彼は頷いていた。優しい飲み物でありながら身体は温まる。
再度カップに口をつけようとしたのだが、気づけばパチュリーが彰人へ眼鏡越しの視線を向けていた。小悪魔に淹れられた紅茶とケーキにも手をつけず、ただじっと見入るのみ。
「ん?」
「…………」
視線が気になり問いかけるのだが、パチュリーは返答しない。数秒ほど間を置いてから、ようやくして彼女は口を動かしていた。
「……目的は、なに?」
「?」
指摘する意味がわからず、彰人は僅かに首を傾げていた。
「……あの子のこと、聴いているんでしょう?」
あの子、と表現されるのが誰かなど、彰人にとっては消去法で思い当たる相手はひとりしかいなかった。
フランドールのことを示しているのだなと納得し、軽く頷いていた。
「大まか程度にはね」
「怖くはないの?」
「……怖い、怖くない、と言えば、人間とは違って、そういう種族なんだと割り切るものじゃないか? 吸血鬼だろうが、人外だろうが、フランドールはフランドールであって、それ以外の何者でもないだろう?」
カップを手にしたまま、彰人は視線を一度虚空に向けてから、特に意味があるわけでもなく周囲へと移していた。
「そんなにおかしいことかな?」
「大いに、ね……」
気づけば、小悪魔の姿はなかった。気を使って退室したのか、もしくはパチュリーに席をはずすように命じられたのか。
どちらにせよ、居ない相手を気にかけることもなかった。室内を彷徨った視線を眼の前の少女へと向け直す。
「わたしたちが彼女にしていたことも知っているんでしょう?」
パチュリーの問いかけに、彰人は再び頷き応えていた。
「地下のことだろう? でもそれは、たぶん、最良で最善だったんだと思う。最適な策を講じたんだろうと思うよ」
「……皮肉のつもり?」
眼を細めて見据えるパチュリーに、勘弁してくれと声を漏らし彰人は片手を虚空へと開いてみせる。
「先の話だけれど……目的も何も、俺はただ、俺自身にやれることをやってるだけでしかないよ。協力してあげることを、手伝っているだけでしかないさ」
カップの取っ手に指をかけ、掌で持ち直し彼は続ける。
「言うことに従って、ずっと我慢に我慢を重ねていたんだ。そりゃ、それなりにフランの息抜きをさせてあげてたんだとは思うよ。それでも、なんて言うのかな……もっと、フランに構ってあげれば、お互いは変わると思うんだ」
「……どういうこと?」
的を得ない言い方にパチュリーは眉をしかめていた。
彰人も説明が得意なわけでもなく、伝えたい旨を巧く言葉として口にすることができなかった。
「心境の変化なんてモンはさ、ちょっとした些細なことで、良くも悪くもコロコロと簡単に変わるものだよ。現に、フランドールはわがままさんだけれど、素直でイイ子だと思うし、ハナから恐がったり、気味悪がったりしてたら何にも変わらないし、逆にフランは塞ぎこむだけだしな」
「…………」
相手の考えは気楽なものだとパチュリーは感じていた。それ故に、胸中で思っていたことを彼女はつい口にしていた。
「……あなたは、フランドールのことを深く知りもしないからそう言えるのよ。咲夜から聴いているんでしょう?」
恐らく、フランドールが持つ能力や境遇のことを言っているのだろう。その旨に中りをつけると、彰人は頷き応えていた。
「ああ。身の上話も聴いたし、いわゆる能力ってヤツも知ってるよ。なんでもかんでも壊せる力だろう?」
正確には『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』である。
そう指摘しようかと思ったパチュリーではあったが、わざわざ言い直すのもくだらないと捉えていた。
変わりに彼女は別のことを口にしていた。
「だったらなおさらよ。わかっていながら近づくなんて、命知らずもいいところね。それとも、フランドールを利用して、なにか企んでいるのかしら?」
僅かに瞳に灯る『色』を変える相手に、彰人は口元に手を運び顎をさする。
「……まぁ、そういう風に見られるか」
「ええ。そうでもないと、外来人とはいえ、人間のあなたに得がないものね」
「…………」
パチュリーが口にしたその言葉に、彰人は一瞬ぴくりと眉を動かす。
眼の前の少女の名前、パチュリー・ノーレッジはフランドールに教えてもらっていた。相手の名前を胸中で反芻し、間違いがないのを確認すると、ふむと頷き、彼は口を開いていた。
「……ノーレッジ、て言ったかな? 君、友だちはいるのか?」
「……いるけれど、それがなに?」
突然見当違いの話を振られ、パチュリーは怪訝そうな表情を浮かべる。
だが、彰人は気にも留めずに続けていた。
「その友だちっていうのはさ、君に得があるから付き合っているのか? 得があるから、ノーレッジにとっての友だちなのか?」
瞬間――
人間如きに意見されたパチュリーは、感情的になり声を荒げていた。
「違うわよ!」
ばんと机を叩きソファーから立ち上がるパチュリーと、机上の本が爆ぜたのは同時だった。
彼女の突発的な激昂により溢れ出した魔力の奔流は、制御するのが遅れたために一部は行き場を失い、乱雑に置かれていた書物の一角が吹き飛んでいた。
彰人の手近、生み出された風の余波が頬を打つ。吹き飛んだのが自分の居る場所だったらと思わず想像し、彼は背に汗を流していた。
そんな相手に気づきもせず、パチュリーは眼鏡越しに睨みつけたまま言葉を続ける。
「わたしは、レミィをそんな風には捉えていない……純粋に、彼女を友人だと胸を張って言えるわよ!」
「…………」
人形のようだと思っていたのは、己の早計な偏見であったなと彰人は改めていた。大人しそうな外見の彼女でも、こうも感情をあらわにするのだなと理解もしていた。
息も荒く、感情を昂ぶらせるパチュリーに、すまないと一言告げてから彰人は続けていた。
「ノーレッジがそう思うように、俺だって、フランに対してはそう思うんだ。その点に関しては同じだよ。得があるから仲良くしてるつもりなんて毛頭ないよ。君がレミリアに対して友人としての信念を抱くように、俺は、ただ、フランドールに普通に接してるだけでしかないよ」
「…………」
床に散乱した書物を拾い上げた彰人は、邪魔にならぬようにと机に乗せていた。
「それにだ。例え何かを企てて接しようとも、フラン自身が一番わかると思う。なんとなくだけど……あの子は、他人の感情の変化に酷く敏感な気がするしな」
「……あなた自身が口にしたように、些細なことで、ヘタをしたら、殺されるかもしれないのよ? 素直に受け入れるつもり? それでも普通に接するというの?」
死にたくなければ距離を置くべきだ、と告げているのが容易にわかる。
踏まえるべき一線は、彰人とて理解し把握しているつもりであった。
とはいえ――
パチュリーの指摘に対し、一瞬、彰人はどう応えようかと迷いはするが、苦笑を浮かべることしかできなかった。
「殺されるってのは勘弁願いたいけれど……もし、俺が殺されるんなら、その時は、その時だろうな」
他人事のように口にする相手にパチュリーは無言。
「…………」
「別にカッコつけてるわけじゃないし、殺されないっていう自信があるわけでもない。自殺願望があるなんて言うつもりもないけれど」
そこで一旦言葉を区切り、カップに口をつける。ぬるくなったミルクを喉に流し込み彼。
「当然望むわけでもないんだが……もし、万が一の話となるが、その場、その時になったら考えるだけでしかないだろう?」
「…………」
「まあ、どうして俺ごときにあんなに懐いてくれてるのかはわからないけどな」
言って、彰人はカップに口をつけていた。
「…………」
無言のまま、パチュリーは眼の前の人間を、愚かな男だと胸中で酷評していた。
フランドールが懐くなど決まっている。これほどまでに、分け隔てなく優しく接しているのだから。
彼女もまた、フランドールを連れて紅魔館に赴いた経緯を耳にしている。それこそ、人間ごときが何をしているのだと問い詰めたくなるほどに意味もない。自身に何の得にもなりもしないのに、一緒になって頭を下げに来たと聴かされれば言葉も失う。
彰人の考える普通と、パチュリーたちの考える普通の意味する概念自体が大きく齟齬が生じている。
根本的に考え方の違いといえよう。それは、人間たる彼と、人外たる彼女たち。物事の見解や捉え方に相違があるならば、当然『優しさ』においても同じことが言えるのだった。
理解している部分はきちんと理解しているくせに、肝心なところはいまいち把握に乏しい相手に、パチュリーは呆れの色が強かった。
「そもそも、俺を殺すなんて簡単だろうし、何よりもフランだけじゃない。ノーレッジも従者の人も、美鈴て人も、その気になればいつでも殺せるモンだろう?」
「…………」
「でもさ、そんなの関係無しに、俺はフランに接してあげれるならしてあげるだけだよ。俺に出来ることで、あの子が喜ぶなら、それはそれで、いいことだって捉えてもらえれば……図々しいけどな」
「理解できないのよ……わかっていながら、他意もなく接するってのが」
息を吐き、パチュリーはソファーに座りなおしていた。机に腕をつき指を組ませると彼女は顎を触れさせていた。
「……レミィは、最善の策として、あまりにも強力すぎる……それでいて『力』をある程度コントロールできるようになるまでに、フランドールを表に出さないように地下に封印したのよ。そのために、わたしはレミィの友人として……フランドールのために協力を惜しまなかった」
「…………」
「あなたのように……いえ、敢えて言わせてもらうけれど、そんな馬鹿みたいな考えは持たなかったわ」
「いや、当たってると思うさ。冷静に考えれば、ノーレッジたちの下した判断が正しいだろう。俺の考えってのは向こう見ずで馬鹿みたいなモンだろうしな」
「……わたしたちのしていたことを軽蔑する?」
吸血鬼は流れ水を渡れないという。雨を降らせることで館から外に出させなかったと彼女は告げていた。
風呂は大丈夫なのか、とそんな野暮なことは訊くまいとして、彰人はいいやと首を振る。
「言ったろ? 君らにとっては、その方法がもっとも安全と捉えたんだと思う。俺がどうこう言えるわけじゃない。それに、ノーレッジたち自身のためではなくて、おそらく、フランのことを第一に考えて下した結果なんだろう」
「…………」
「ノーレッジたちは、ノーレッジたちなりにフランドールを護ってきたんだ。それは、これからも続くんだと思う。決して、そのやり方が間違ってるとは、俺には思えないさ」
カップを口へと運び、ホットミルクを一口啜る。
「それに、ノーレッジの言うように、俺は君らのことを何にも知らないよ。どれほど苦労して頑張ってきたのかも理解できるほど自惚れてるわけじゃない。でもさ、ほんの僅かにフランと接したけれど……そんな俺でもわかることはあったつもりだ……フランドールはさ、ただ、寂しがり屋なだけだと思うんだ。腫れ物に触れるようなよそよそしさじゃなく、さりとて、除け者にしようとするんじゃなくて……なんて言えばいいのかな、ありのままのフランを見るっていうか、なんて言うか……」
巧く説明できない歯痒さを感じながら、彰人は顎に指を触れさせる。
「話を戻すけれど、別に、これといって何かをしているわけじゃない。ただ、欲を言えば、真正面から向かい合ってやれば、もっとお互いよくなったかもな……て、それは俺が言えることじゃないか」
「…………」
レミリアや美鈴、パチュリーとてフランドールに優しく接していないわけではない。むろん、彰人もそのことについてはわかっているつもりである。
だが、ここで言う彰人の『優しさ』とは、子どもに接する振る舞い。対して、美鈴たちの『優しさ』とは、主たる吸血鬼の妹への接し方。
ひとりの人外ではなく、ひとりの子どもとして。
フランドールを子ども扱いするというのは、ある意味失礼ではあろう。
納得したわけではないが、パチュリーは口を開き、言葉を紡ぎだそうとして――
「カトーっ!」
突如、この場で耳にするはずがない声を聴き捉えたことに、パチュリーは口を噤み、彰人は驚き振り返っていた。
見れば、図書館内を駆けるのはフランドール。その後ろには小悪魔が続いていた。
「フラン?」
声をかけるのだが、駆け寄ったフランドールは彰人の腕に顔をうずめ、ひしと抱きついていた。
カップを机上へ置き、とりあえず相手を落ち着かせるように優しく頭に触れていたが、いまいち状況がつかめない彼の視線は小悪魔へと向けられる。
疑問に応えるように経緯を説明するため、小悪魔は口を開いていた。
不意にフランドールは眼が覚め、周囲を見渡しても彰人の姿はなく、声をかけても返事はない。
もしや黙って帰ってしまったのかと、唐突に不安に駆られたフランドールは、いてもたってもいられず、地下室を後にしていた。
「カトー、どこー?」
呼びかければ、もしかしたら見つけてくれるかもしれない。そんな淡い期待を胸に秘めながら、フランドールはおぼつかない足取りでひとり廊下を歩いていた。
と――
「フランドールさま?」
ぬいぐるみを抱きしめた姿のまま彰人の姿を探し回る、煢然たるフランドールの姿を見つけた小悪魔は慌てて駆け寄り、事情を話して図書館に連れてきたと口にしていた。
「どこにもいないんだもん……わたしに黙って帰っちゃったと思ったんだから」
「悪い。眼が冴えてここに来ていたんだ。それに、帰る時はちゃんとフランに声をかけるって言ったろう?」
「……うん」
納得したのか、腕から離れたフランドールは……そこで机上に在るカップに視線を向けていた。見れば、パチュリーの手元にもケーキと紅茶が在ることに気づく。
ふたりだけでお茶をしていたのね、ずるい、とぷうと頬を膨らませたフランドールは小悪魔へと向き直っていた。
「わたしも飲みたい!」
「わかりました。それでは、妹さまの分も作ってきますので、少々お待ちください」
踵を返し、離れていく小悪魔ではあったのだが――
用意されるまで待っていられないのか、フランドールは、ちょっと頂戴と言って机上に置かれていたカップに手を伸ばしていた。
これに慌てたのは彰人である。
彼は、俺が口をつけたものだぞと言い聴かせるのだが、フランドールは格別気にもしていなかった。
(……俺が変に意識しすぎているだけか?)
胸中で呟きながらも、彼はせめて自分が口をつけたカップの縁を指先で拭ってから渡していた。
もう少し待てば、作り立てが渡されるというのにと呆れながらも、彼もまた小悪魔が戻った際に二杯目をもらおうと考えていた。
「それを飲んだら寝るんだぞ、フラン」
「カトーも一緒にね」
「…………」
聴こえないフリをして、何も応えずに彰人はフランドールから視線を逸らしていた。
ふたりのやり取りを何気なく見入っていたパチュリーは眼鏡をかけ直し、本来訊ねようとした言葉ではなく、呆れながらも別に思ったことを口にしていた。
「そう見ていると、まるであなたたち兄妹みたいね。もしくは親子といった方が合ってるかしら?」
「…………」
やはり返答はせず、彰人は視線を虚空へと向けるのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
翌日――
太陽は西に傾き、外は夕暮れに差し掛かっていた。
当初は午前中に帰るつもりではあったが、時間を延ばしに延ばし、これでも譲歩に譲歩を重ねた結果である。
門前に立つ彰人の格好は、来た時と同じ僧衣に篭手姿。片手には小悪魔から渡された執事服一式が畳まれた包みを持っている。レミリア曰く、せっかくだから持っていきなさいと告げられていた。
日傘をさすふたりの吸血鬼と美鈴に見送られていたのだが、もっと泊まっていって、と駄々をこねるフランドールに対し、彰人はやんわりと告げていた。
こう見えても彰人には香霖堂と寺子屋の仕事がある。フランドールの相手をしてあげたいという気持ちがあるのは嘘ではないが、なんにせよ、一度帰宅する必要はある。
仕事があるからわかってくれと宥めるのだが、ぶーと不貞腐れるフランドールではあったのだが……一転して、表情を輝かせていた。
然も名案を思いついたといわんばかりの顔で彼女は口を開いていた。
「なら、カトーが働き口として此処に住めばいいのよ! 部屋だって無駄にあるんだし。そうすれば、ずっと一緒にいられるわ!」
「い、妹さまっ!? 何を仰られるのですかっ!?」
だが、この提案に真っ先に声を上げて反応したのは咲夜だった。彼女は浴場での騒動も知っており、こんな男を紅魔館に住まわせるなど冗談ではなかった。
「面白そうね。人間の割には、躾け次第では門番程度には使えるかもしれないわね」
しかしながら、意外にもレミリアはフランドールの言葉に賛成だった。
まさか、仕える主人までそのようなことを口にするとは思っておらず、咲夜の表情は困惑に彩られていた。
「お、お待ちください、お嬢さま……お嬢さままで、何を仰っていらっしゃるのですか……? 御冗談にしては……御戯れが過ぎますよ……?」
何を馬鹿な事を言っているのと叱るだろうと思っていただけに、咲夜は内心では狼狽していた。表情には出さぬように努めて冷静に振舞ってはいるつもりなのだが、隠し通せてはいなかった。
主たるレミリアは、そんな従者の胸中を容易く見抜いていた。
「あら、なぁに、咲夜? 不服そうね」
主人の言葉に、ようやくして咲夜は冷静さを取り戻していた。ひとつ頷き、彼女は続ける。
「いえ、わたくしは別に……」
「意見があれば、言ってくれて構わないのよ?」
「……わたくし如きが口にできる意見などございません。お嬢さまがお決めになられたことが、全てでございますので」
「ふうん……なら、咲夜も同意と言うことね?」
確認するように問いかけるレミリアであるが、逡巡とした間すらなく、咲夜は頷き応えていた。
「お応え致しましたように、お嬢さまのお決めが全てでございます。わたくしめは、従うのみでございます」
深々と頭を下げる瀟洒な従者に満足するとレミリアの視線は彰人へと向けられていた。
「咲夜も同意のようよ?」
「…………」
僅かに顔を上げた咲夜から放たれる射抜くような氷の瞳。
レミリアも背後の従者の態度に気がついていないわけではない。わかっていながらも、面白がっているだけでしかなかった。
勘弁してくれ、と彰人は声を漏らしていた。
「せっかくだけれど、今のところ、ここに永久就職する気はないよ」
「えー」
残念そうに声を漏らすフランドールの頭に手を添え、彰人は優しく撫でる。
「必ず、また来るからさ。だから、今は我慢してくれ」
「……絶対?」
「絶対だ」
「約束してくれる?」
「ああ、フランとの約束だ」
「……逆に、わたしがカトーの家に遊びに行ってもいい?」
目線を合わせようとはせず、敢えて逸らし口にするフランドールの頭に乗せた手をぐりぐりと撫でるように動かし、彰人は苦笑を浮かべていた。
「もちろんだ。何もない家だけれど、歓迎するよ」
またそんな安請け合いをしてとレミリアは胸中で呆れていた。
フランドールの性格上、口にしたように、いずれは遊びに行く気なのだろうとも理解させられていた。考えていた内容を変えるようにレミリアは口元に笑みを浮かべていた。
「あら、残念。門番としては幾分さまになるかとは思うのだけれど」
「じゃあ、わたしは、さしずめ師匠ですかね」
得意気に胸を張る美鈴ではあるが、レミリアは呆れたように、それでいて蔑むような眼を向けていた。
「何を言っているの? 彼を雇うとなれば、あなたはお払い箱よ。無駄飯食いを住まわせるほど暇ではないの。そうね……ねぇ、カトウ? 本気で此処に勤める気はない?」
「そ、それは困ります!」
冗談とも取れぬ半ば本気の入ったレミリアに慌てて美鈴はすがりつくように懇願の声を漏らしていた。
門番の声を無視するように、スカーレット家当主の視線は己の従者へと向けられていた。
「咲夜、彼を送っていってやりなさい。いい? くれぐれも、丁重に送り届けるのよ? わたしを失望させないで頂戴ね」
「……かしこまりました」
含みのある言い方に、一瞬身体を強張らせていた咲夜ではあったが恭しく頭を下げていた。
「お世話になりました」
レミリアと美鈴に一礼し、彰人は咲夜に付き添われて紅魔館を後にする。
「カトー、必ずまた来てね!」
ぶんぶんと手を振るフランドールに応えるように、彰人もまた片手を挙げてひらひらと振り返していた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
いろいろとあったが、紅魔館での有意義な時間をすごせたのは事実である。
魔法の森を送るために横を歩く咲夜ではあるが、その表情は素っ気ない。双方会話もなく、黙々と歩くふたりであったが――
気づけば魔法の森を抜け、視界には古道具屋の香霖堂が映っていた。
霖之助に顔でも出していくかなと考えていた彰人ではあるが、唐突に背後の咲夜から声をかけられていた。
「加藤さま」
「ん?」
肩越しに振り返る彰人ではあったのだが、当の咲夜の表情は冷めたものだった。
相手を静かに見据えたまま、彼女の口は動いていた。
「はっきりと申し上げておきますが、わたくしは、あなたさまに嫌悪感を抱いております。どのようにして、妹さまに取り入ったかは存じませんが、紅魔館の安泰を脅かすのであれば、容赦は致しません」
「……それは、忠告かな?」
「御冗談を。これは、警告です」
口元は歪めるが、眼は一切笑っていない咲夜に対し、彰人は、ああと返答することしかできなかった。
「その辺は、俺でもわきまえているつもりですよ」
「…………」
相手の言葉を信用も信頼もしてはいない。
しばし無言で視線を向けていた咲夜だったが――
「それでは」
深々と一礼すると、次の瞬間には、咲夜の姿は何事もなかったかのように掻き消えていた。
「…………」
嫌われたもんだと苦笑を浮かべ頭を掻くと、彰人は香霖堂へ赴くために歩き出していた。