奴隷の取引が未だ堂々と行われ、政府によってそれが認可されているこの腐敗した世界が、とは僕も昨日を境にやすやすとは言えなくなってしまった。アリスと名乗る少女は、昨日から僕の手伝い……いや、生温い言葉でごまかそうとするのはやめよう。正式に奴隷として僕の所有となり、メイドとして働くこととなった。
結局昨日のケーキの一件からは「お風呂に入ります」「上がりました」「おやすみなさい、御主人様」と三言もらった以外で彼女がその口を開いたことは無かった。やっと事務的な会話、挨拶以外で喋ったと思ったのだが、どうやらケーキで釣ってようやく口が開いただけらしい。
カーテンの隙間から朝の陽射しがこちらに向かって伸びてきて朝を感じさせる。枕元においてある時計を見ると時刻は七時二十九分。職についている訳ではないので別にいつ起きようと支障は無いのだが、そういえばアリスに朝食を食べる時間を伝えていなかった気がする。渡した電話に一度掛けてみようか、いやコミュニケーションが取れるかどうか怪しい。部屋に直接行ってはどうだろうか?着替え中だと少し厄介なことになりそうだ、などと思考を巡らせているうちに扉がノックされたことに気付く。
「アリスか、入れ」
この屋敷に同居しているのはアリス以外には用具入れの中にいる蜘蛛の数匹だとか、外に野良猫がいたりだとか、そんなものだ。部屋をノックできるのはアリスくらいだ。そして、期待通りアリスが中に入ってきて「おはようございます、御主人様」と言ってこちらに歩み寄ってきた。
「おはよう、アリス。今日から君のやるべきことを教えよう。」
アリスはやはり今日も頷くだけ。おそらく「喋れ」と言えば喋るようにはなるだろう。だが、それで期待通りの成果が得られるかどうかは怪しい。ある程度の「喋らないようにするための知恵」を持っているからには、素直に喋るとはあまり思えない。
兎にも角にも、まずは朝食からだ。アリスをリビングまで連れて行き、夕食と一緒に作っておいたサンドイッチを冷蔵庫から取り出し、コーヒーを作ろうと思い袋を取り出そうとしたが、アリスがコーヒーが飲めないかもしれないと思い、手が止まる。しかし生憎飲み物に関してはジュースの類をこの家には備えていない。流石にバカにしすぎだろうか、元々お嬢様ということならコーヒーの一杯くらい、いや文化圏の違いで飲んだことがない可能性が……と、ここまで考えてふと、我に返ったのだ。
何故僕は、ここまでアリスに気を遣っている?アリスは僕の奴隷なんだから、別に彼女に対して配慮する必要などそこまでないのでは、と。僕はもう一度冷蔵庫の中を見た。少量だが、カクテルを作ったり料理に使ったりするためにとっておいた牛乳が残っていた。これを使って簡単ではあるがカフェオレを作ってやろう――結局、アリスに対して奴隷だからといって冷酷な姿勢を見せることは僕にはできなかった。
朝食を終えて、時刻は八時を回っていた。僕は朝食を食べた後もダイニングルームに残り、アリスに渡すメモを作っていた。アリスは座っていた椅子から離れず、僕の書くメモ書きを凝視している。
一日の中で特にやることが決められていないのだが、アリスにはある程度それを決めてやる必要がある。屋敷の掃除、服の洗濯、料理は……後々教えることにしよう。最初の方はそれだけでいい。僕の身の回りのこと、例えば来客者の予定管理だとか、逆に僕がどこに出向かうべきかのリストだとか、やることが無くなったら自分で考えろだとか、そういうことをいきなり押し付けることはしない。可哀想だとか、無慈悲だとか、そういった問題の前にキャパシティを超えた仕事を任せても意味がないということを重々と把握しているからだ。
奴隷を何人も雇っている人間に限ってこういった馬鹿げた考えを持ちだそうとしているのをよく見かけるが、一人でできない仕事は二人に任せればいいというのは、あまりにも愚直で浅はかな考えた方だ。どんなに多くの人に仕事を任せたって出来ないものは出来ないのだ。
「アリス、ここにメモを書いておいた。君のやるべきことだ。少ないように見えるが、少しずつ増やしていく。いいね?」
メモを両手で受け取って、それを読む。少し崩した字で書いてしまったからか読むのに時間はかかっていたが、しっかりと頷いてくれた。読み終わった後、メモをどこに置けば良いのか分からず手が固まっていたので「持っておいて」と言ったらワンピースのポケットの中に入れてくれた。手始めに洗濯をするように頼んだら「かしこまりました」と言って足早に洗濯物を取りに駆けて行った。
さて、今までなら自分がやることをアリスに頼んでしまったが故にやることがなくなってしまった。これが嬉しい悲鳴、というものなのだろうか?久しぶりに手の掛かる料理をするのも悪くない。趣味に手を出してみるのもいいかもしれない。今からでも身につくことを学んでおいて、貯蓄を増やせるようにしておくのもいいだろう。人がひとり増えるだけで、ただでさえあった余裕がここまで増えるとは思わなかった。とりあえず、部屋に戻るとしよう。今日だけでなく、明日以降も続けられるものを考えることにしよう。そう思って、部屋に戻ろうとしたその時、聞き慣れない慌ただしい足音が聞こえてきた。アリスだ。
「あ、あの……」
リビングの入口から半分だけ顔を覗かせて、真赤にさせた顔でようやく口を開いた。全速力でこちらまで走ってきて、よほど困ったか何かでこちらに必死の思いで駆け寄ってきたのだろう。「どうした?」と聞いたら、彼女は「あぅ……」とどもる。自分から話しかけてきたので当然ながらジェスチャーではわからないことが大半で、恐らく聞いてくることも分かってはいるのだが話しかけてくるのに慣れて欲しいということもあり、メモには不完全な状態でやることを書いていた。十中八九、それについてのことだろう。
「せ、洗剤……どれを使うのか、わかりません……」
やはりその通りだった。ついでに言うと洗剤の位置も教えていなかったし複数あるので探すことは出来たのだろう。となると僕と喋ることを極力避けているのだろう。口数こそ少ないが喋る言葉自体は滑らかで、ハンディキャップを背負っているような感じでも、それを庇って無口を装っているようでもない。
「粉末の洗剤を一番大きな洗剤入れに、その横にある小さめの洗剤入れのうち、手前側に黄色のパッケージの柔軟剤を。量は機械が表示してくれるはずだから、そのとおりに入れてくれ」
頷いて返事の代わりとし、洗濯場へと走って戻っていく。これからする洗濯だけでなく、掃除に関しても欠けている部分が幾つかあるのだが、彼女はいったい今日のうちにあと何度顔を真っ赤にさせながら僕のところに来て会話を試みようとするのか、少し意地悪ではあるが楽しみになってきた。仕事熱心なのは感じられるから、それだけに聞く機会も多くなりそうなものだが、どうなることやら。
――結局、昼食の十二時になるまでにアリスは僕のところに三回ほど来た。一回目は洗剤の種類。二回目は掃除用具入れの場所(昨日説明し忘れていた)。三回目はどこが一番近くの商店街か。聞きにくるたびに全速力で僕を探し、要件を聞き終わったら全速力で仕事に戻るのだから、近くの文房具屋から帰ってきた時にはすでに疲労困憊で、少々仕事を与えすぎたのかもしれないとは思ったが、仕事の持ち場と僕がいる場所を何度も走って往復していたらそうもなるなとも思い、この苦労が僕とせめて事務的な内容でもいいから積極的に話しかけてくれるように仕向けてくれればいいなと淡い期待を寄せる。
「よく頑張ったな、アリス。昼飯にしよう」
お使いとしてペン数本と印刷機用の白紙をいくつかを買いに行ってもらってたものを受け取り、ぽんぽん、とカチューシャより後ろ側を数回撫でる。いきなり触られたものだからビクつくアリスだったが、逃げようとはしなかった。解放してやって少し離れて顔を見るとアリスは不思議そうな顔をして僕の方を見てくる。元の親にはこんなことをされたことがなかったのだろうか?売人曰く「生まれや親の話は断固としてしなかった」らしいので、その話が今聞けることはないだろうし、聞けても当分先になるだろう。
試しに作ってみた炒飯は案外すんなり作ることが出来て手軽だったが、単品だと少し物足りない感じだ。アリスに料理を少しだけ手伝ってもらったが、今度はスープの作り方でも教えて一からできるようにしてやろう。
もうそろそろアリスと過ごし始めて丸一日が経つが、家事を大量に押し付けている以外は自分の娘を育てているような錯覚に陥る。最初は子供の小間使いなんて役に立つのか、なんて思っていたのだが、役に立つ立たないではなく、とにかく楽しいのだ。今はそれくらいでいい。一人でこのだだ広い屋敷にいると寂しさがこみ上げてくることが時たまにあるが、アリスのおかげでそれが無くなっていると思えば、あの売人に渡した金も浮かばれるに違いない。僕のようないち個人が抱えてずっと持っておくことはなく、世の中に貢献するためにどんどん回ればいいのだ。
「昼からは掃除の残りと、終わったら僕のところに来て少しばかり勉強をしよう。一時から仕事に戻る、いいね」
「……わかりました、御主人様」
アリスが、喋った。業務内容、というよりかは挨拶の延長に近いものだが、頷きで無くなったのは大きな一歩に違いない。何が効果的だったのかは結局よく分からないが、この調子でアリスと会話ができるようになれば文句無しだ。ああだこうだと考えているうちにもアリスは朝にもらったメモを取り出してもう一度見なおしたのち、一時はまだ来てなかったがさっさとダイニングルームを出て自分の仕事に戻っていった。
「……無理はするなよ、アリス」
少しだけ、子供を育てる親の気持ちが分かったかもしれない。
さて、現在は午後の二時を少し過ぎた頃。アリスはいま、この屋敷の無駄に長い廊下を何往復もして掃除機をかけてまわっているのだが、一生懸命に取り組んでいて見てて気持ちがいい。……しかし、少し元気が過ぎるというか、無防備だな、とも思うところはある。奴隷、というかそもそもメイドすら雇ったことがないものだから、この手の問題に対しては認識が薄かった。また彼に電話をかけてみようか。……いや、ここは服屋に行くのもいいな。わざわざこれしきのことで彼の手を煩わせるわけにもいくまい。
しかしこの辺りにある女性向けの服屋を僕は知らない。仕方なく、行きつけの服屋に電話をかけて同業者を聞いてみることにした。すると、意外と自分の近くのことには気付けないのか、僕の家から歩いてしばらくのところに主人の妻がよく行くという服屋があるらしい。品揃えも最低限以上にはあるというので、そこに行くことにしよう。となると、今日教えようと思っていた勉強はまた明日だ。一般教養を教えておかなければ、後々困ることも出てくるだろうから、働きに出ることができる年齢になるまでの勉強は一通り最低でも教えておきたいところだ。アリスがどこまで教育を受けているのかもまだ聞けていないし、やればやるだけ問題が出てくる。
まるで子育てだ。養子でも貰ったのではないかと思うくらいには考えが深くなっている。少なくとも奴隷を買ったという実感はあまりない。これが教育課程の終わった二十を超えた女性や、少しでも顔の崩れたような、または自分の好みから離れた奴隷だったらここまで世話を焼くことはなかっただろう。アリスだから、こうやって一つ一つ物事を教えているのかもしれない。
アリスが手伝いに来たから家事は楽になったが、今度はアリスの世話で忙しくなっているのは本末転倒な気がするが、家事よりも楽しいので別に苦には感じない。生活に彩りが出来たのはかつて家族と生活していた頃以来のような気がする。
「……あの、御主人様」
深々と考え事をしていたらアリスに呼ばれた。ふと現実に戻り、周りを見回すと埃が綺麗に取り除かれ、自分で掃除していた時よりも屋敷に入った頃の綺麗さが取り戻されていた。背が低いせいか脚立を使っても届かない場所が手付かずだったが、仕方のないところではある。
「終わったか。じゃあ掃除道具を仕舞って、出掛けよう。勉強と言っていたが、また今度にしよう」
「……?はい、わかりました……」
午前中に屋敷内の買い物は済ませてしまったから買い物に行くことは本来はなかったのだが、急遽行くことになったものだから、アリスは不思議な顔をしながらも持っている掃除機を片付けに用具入れへと戻っていった。
辺りはすっかり暗くなり人通りもまばらになってきた午後六時半すぎ。僕とアリスは昼ごろにすすめられた服屋に来ていた。店内で商品の陳列を直していた中背の眼鏡をかけた女性の店員は僕たちを見るなり、どうやら連絡が回っていたのか「まあ、お待ちしていたんです!」とすぐに駆け寄ってくれて、要件を聞いてくれた。事情を話すとうまいこと伝わったのかどうかは怪しいが理解はしてくれたようで、合うものを探してくるといって店の奥に言ってしまったので、待っている間に店の中を見ているところだ。
ドレス一つをとってもワインレッドの派手なものや、純白のフリルが多くつけられた可愛らしさを重視したデザインのものなど、色んなタイプのものがあるんだなと感心していたら、席を外していた店員が戻ってきて僕に声をかけてきた。
「ドロワーズをお探しなんですかね?こちらのようなものになるんですか」
そういって店員は僕に白い布を渡してきた。見た目は短いズボンのようだが、ゆったりとした感じでリボンがついていて可愛らしい。今のメイド服にもぴったりで、スカートが翻ってもこれなら問題がなさそうだ。
「……なるほど。この子に合うサイズはあるかい?二つほしい」
「ええ、勿論。すぐ用意致します」
一部始終を見ていたアリスはやはり不思議そうに僕を見つめていた。そういえば彼女のために金を使うところを見せるのはこれが初めてかもしれない。それにさっきの話を聞いていて理解できているならば、きっとアリスは僕のことをとんでもないお人好しに思うだろう。それでも別に構わない。奴隷には違いないが、その扱い方は厳しくしなければいけないとは誰も決めてないのだ。
「随分と可愛がられておられるんですね」
店の名前が入った袋にドロワーズを入れながらこちらに戻ってくる店員。僕にそれを手渡してくるので、それを受け取る。
「昨日から来たんですが、娘を育てているような感覚でね。ついつい甘やかしてしまうんだ」
「まあ。いい御主人様に拾われたものね」
そうアリスのほうを向いて言う店員さん。対してアリスは「……ありがとうございます」と、慣れない作り笑いをして返す。口下手というか、アリスの人見知りも少しずつ治ってきているのだろうか?頑張ってコミュニケーションを円滑にしようとしている素振りが見られる。
「お代はこれで足りるかい?」
僕は財布の中の札を二枚ほど出した。「そこまで高くないですよ」と苦笑いされて、うち一枚を返され、更にお釣りまで貰った。えっ、とつい声に出してしまったが、店員さんはただ微笑むだけだ。よくよく考えると、大人用ではなくて子供用だったことを思い出して納得する。
「アリスさん、でしたっけ。いい子に育つと良いですね」
「ええ、ありがとう。僕もそう願ってるよ」
いい店員に恵まれたと思いながら、僕は服屋を後にした。
「……変なの……」
アリスは、店を出たらぼそっとひとりごとを呟いて、星の見える空を仰ぐのだった。