秘密というのは誰しも持っているものであり、家族や親友といえる存在に明かせない事実や計画の一つや二つなんていうのは往々にして存在する。それは僕にもあるし、今まで僕が関わってきた友人たちにもあるだろうし、勿論アリスにもあるだろう。
だが、意図的に秘密にしてるものとは別に、知らず知らずのうちに秘密にしてること、結果的に秘密になってしまったこともあるはずだ。共に働いてきた仲なのに正確な生年月日だとか、家族構成だとかを知らなかったり、特に聞く必要も無かったからあやふやなままその人と共に時間を過ごしていることは、意識こそ無いもののきっとその例があるはずだ。例えば……アリスを売ってくれたあの売人だ。僕は彼の名前くらいは知ってるが、その他の情報をそういえば手に入れた覚えがない。昔ながらの仲にしては、あまりにも知らなさすぎた。たぶん彼も僕のことはよく知らないはずだろう。放送局に向かって言った出任せを信じていなければの話だが。
そして、会って間もないということもあり、当然ではあるがアリスのことも分からない。アリスという名前は分かるが苗字は聞いた覚えがない。歳は……確か今年で13、だったか。それは聞いたが誕生日が分からない。それなら血液型は?血を流して倒れてしまった時に救急車を呼んで「血液型が分かりません」では面倒だ。それに宗教は?異郷の地から来たと言っていたし、もしかしたら僕に隠れて僕の知らない神様を拝んでいたりするのかもしれない。アリスがこうなる前に好きだったことや、趣味は何だろう?ある程度ならそれに応じてやれるかもしれない。
夕食を取り終わり、アリスを部屋に帰してからひとりリビングで考え事をしていた。僕は、あまりにもアリスのことに関して無知だったことに気付いた。会って一日そこらで無知を恥じる必要もないのでは、とも思ったが、いつ奴隷が主人の下に来たかなんていうのは他人にはあまり関係のないことで、たとえ明日パーティーに誘われてアリスを連れて行ったとしても、あらゆる質問に答えられるべきだと感じたのだ。昨日の服屋の店員は無難なことしか聞いてこなかったが、ある程度僕を知っている仲だとそうもいかない。「この子はどこ生まれなの?」試しにシミュレーションしたが、この時点で詰まってしまった。あんまりな話だ。
部屋に戻って、売人から貰った資料に改めて目を通してみる。『商品』についての事細かな詳細が記載されていたが、やはり名前の部分は『コードネーム:アリス』としか書かれていない。名前については僕にだけでなく、誰にも喋らなかったらしい。年齢は覚えていたとおり13歳、身長は少し低めで150cmを下回る。大人しく、品行方正。三ヶ月前、謀略により没落、親に借金の形として売り飛ばされ現在に至る。職歴は当然ながら無し。没落前は女子校に行っていて男性は親族と本で知った人くらいしか知らない、と。典型的な箱入り娘のようだが、今日の働きを見るに洗濯と掃除くらいはできるらしい。家事の一切を第三者に任せるようなことはしていなかったのだろうか。
謀略による没落なんてありふれた話で、そんな話がわざわざニュースに取り上げられるほどマスコミも暇ではないだろう。駄目元で検索をかけてみたが引っかかるわけもなく、彼女のことを知ることは出来なかった。
ならば、アリスから直接聞くしかない。それが一番早く確実で、アリスに口を開かせるチャンスだ。彼女とこの先、この屋敷で過ごすのであれば話を円滑に出来るくらいにはしておかなければならない。それがいつになるかは全く分からないが、とりあえずゆっくりでもいいから、距離を縮める必要はある。今まで人との関わりを絶ってきた僕に、それが出来るのだろうか。
不安になりながらも、ベッドに向かう。昔――学生時代の頃は、どうやって友人と親しくなっていただろうか?……もう二十年も前の些細なワンシーンを思い出せと言われても中々無茶なものだ。立ち込める暗雲に苛まれながらも、僕は目を瞑った。
僕が次に目を覚ましたのは午前八時前の電話着信だ。出てみると僕とはあまり関係のなさそうな苗字が告げられた。間違い電話のようだったが、通話が終わった後に時間を見て驚いた。いつも朝食を食べる時間よりも起きた時間がかなり遅い。しかも今日は寝坊したからといって自分の行動が遅くなるだけでなく、アリスまで待たせてしまうことになる。僕の部屋には鍵をかけているし、ノックだけでは到底ベッドまでは響かない。だからといって僕の電話を朝から鳴らして起こすのもアリスからしてみれば考えはするができない行動だろう。
急いで寝間着を脱いで支度を済ませる。思えば朝からこんなにドタバタするのも仕事を辞めて以来なかったことだ。屋敷の中に人がひとり増えるだけでこんなにも生活が変わるとは思いもしなかった。更に言えば、僕は今アリスと一緒に住んでいるというよりも、アリスを養っているといったほうが言葉としては適切なのかもしれないと考えると、僕にとっては初めての経験だ。今までにない感覚を覚えていたのはこれが原因なのかもしれない。
携帯を開いて今日の予定を確認するが、来客もないし書類の締め切りもない。カレンダーは今日が金曜日だと教えてくれる。メールは?ジャンクメールがいち、に、……7件。全部ゴミ箱だ。昔を思い出すようだが、昔とは違って動きまわることに不快感を感じない。
「アリス、今起きたんだ。すぐに朝食を作るから、リビングで待っててくれ」
短縮番号に登録しておいたアリスの携帯電話に掛けてからそう伝え、返事を聞く前に切ってしまう。……さて、今日はトーストに目玉焼きだな。少しばかり手抜きだが仕方あるまい。そうと決まればあとはリビングに走るだけだ。僕はほんの少しでも早くアリスに朝食を食べさせたい一心で自分の部屋の扉を開け、普段は走らない廊下を走りだした。
そして、リビングに着くとアリスが昨日と同じ位置に、何もない机を目の前にしてワンピース姿で座っていた。眠そうで、お腹も空いているせいか、不機嫌そうな顔をしているのが見て取れる。
「……あっ、おはようございます、御主人様」
おはようございますという言葉が若干皮肉のように聞こえてしまったのは僕の後ろめたい気持ちから来ているのか、それともアリスがそのようにわざと言ったのかは不明だが、どちらにせよ朝食を一刻も早く作る必要があるのは確かなことだった。
「ああ、おはよう。朝食は十分で作ろう」
返しつつ、早速調理に取り掛かる。トーストは簡単だ、買っていた食パンを二つトースターに入れて焼くだけ……なのだが、目玉焼きが人によって作り方や加減が違ったりするので気をつけなければならない。僕は半熟でも食べれるし、量が欲しいので卵二個は食べる。味付けは塩がいいが、こんなシンプルな食品に対して三つも差異が出ると考えたら、案外料理も難しいものだと関心する。
「アリス、半熟の目玉焼きは食べれるかい?」
「えっと……はい、食べれます」
少し曖昧な返事ではあったが、本人が問題ないというならば恐らく問題ないのだろう。昼食に使うつもりだったベーコンだったが、遅起きしてしまったからには仕方ない。いつも通り、目玉焼きを作るだけだ。いやいつもより、卵ひとつ分は多いか。
手早く出来る料理とは言っても、アリスのぶんを用意するまでに十分も掛けてしまった。これでも早い方なので許して欲しいと思いながらアリスの前に目玉焼きとトースト、そして昨日も作ったカフェオレを置いた。
「自分のぶんを作るから、先に食べておいてくれ」
外では小鳥が悠長にさえずっているが、僕はそうもいかない。卵を二個とベーコンも二枚。蒸している間にトーストにバターを塗りたくり食器を用意し、その隙にトースターを片付けてしまいあとは出来上がるのを待つだけ。待っているだけの時間がとてもじれったく感じ、せわしなくなる。ふとアリスのほうを見ると料理には手をつけずずっと何かを待っている。
「食べないのか?」と聞いたら「待ってます」と短く返されたので余計に急がなければならない気がしてきた。もういっそのこと半生状態でもこのフライパンの蓋を開けて皿に乗っけたほうが良いのではないかと思うくらいだ。奴隷に急かされているという何とも滑稽な図になってしまったが、こればかりは僕のせいだ。
待つこと数分、フライパンの上に乗っていた卵二個は固まり、横のベーコンがいい匂いを香らせる。皿に乗っけて片手に持ち、もう一方の手にコーヒーを持ってアリスの向かい側に座る。
「いただきます」
「いただきます」
一時はどうなることかと思ったが、なんとか二人揃って食べることができたようだ。彼女が僕のことを待ってくれたのは予想外だったが、アリスにも何か思うところがあったのだろうか?嬉しいのだが、少し怖くもある。
余裕が持てはじめたおかげか、さっきまでシャットアウトされていた小鳥のさえずりが再び聞こえるようになってきた。無我夢中になって見えていなかった周囲の風景も見え始めて、ようやく朝の陽射しや少し肌寒い風が吹き込んでいるのに気が向き始めた。
アリスは表情のひとつも変えずに黙々と食パンに齧りつく。食パンだから味がどうこうというのはないはずだが、あまりにも反応がないものだからつい戸惑ってしまう。そうも思っていると自分の手が止まっていることに気付いたので慌てて食事の手を進める。
「御主人様」
僕が食パンにかじりついた後、アリスに不意に呼ばれた。彼女から声をかけてくるのは稀なことだったので少し驚いたが、顔を上げて塞がった口での返事の代わりとする。
「これ……この飲み物、なんて言うんですか?」
噛みきって、いつもより少し早めに咀嚼して飲み込む。アリスのいた国ではコーヒーの類がはやっていなかったのだろうか。「カフェオレだよ」と教えてあげると、不思議そうな顔でカフェオレの入ったカップの中を覗きこんだ。濃い肌色の液体をまじまじと見つめた後、僕の方を見る。
「おいしい、です……御主人様のものとは違うから、私のために作ってくれたんですか?」
「え、あぁ……そうだ。普通のコーヒーは苦いからな」
そう言ったらもう一度、アリスは僕の方を見つめてきた。今までにない、感心した表情で、だ。しかしその表情も一瞬で元の真顔に戻ってしまう。その数秒後に「……ありがとうございます」と、アリスはぼそっと呟くように言った。
牛乳と砂糖を入れるだけの簡易的なものなので本格的なカフェオレとは程遠いものではあるが、彼女に喜んでもらえたならそれは成功だ。そろそろ飲み物も尽きてきたことだし、今日の買い物でオレンジジュースと予備の牛乳を買っておこう。
ともかく。これを会話と言って良いのかは怪しいところではあるが、昨日のぎこちない態度からはかなり進歩したのではないのだろうか。何よりもアリスからコンタクトを取ろうとしてきたのはまた一つの大きな進歩だ。
「ごちそうさまでした。……今日は、何をすればいいですか?」
「昨日と同じく、洗濯と掃除だ。一通りが終わったら、買い物に出掛けよう」
「わかりました」
相槌を打ったら食器を台所に持って行き、そこでぴたりと止まる。「洗っておくからいいよ」と声をかけてやったら、台所を後にして自分のエプロンなどを取りに駆けていった。仕事に向かうときや戻る時の元気の良さは見てて気持ちがいい。仕事熱心なのを見ていると、自分も何かやらなければと思ってしまう。
「……さて、やるか」僕はアリスを見送った後、二人分の食器を洗うために台所に立った。
部屋に戻ると、急に眠気が再び戻ってきた。目覚めが悪かったのか、いつもより寝足りない感じだ。頭を二、三度横に振って眠気を払ってみるが、気分だけ起きた気になっているようで、身体がついてこない。ふと耳を外の方に向けてみると、アリスが廊下を走る音が響き、扉越しに微かに聞こえる。まだ小鳥の鳴く音も聞こえる。コンピュータの無機質なファンの音も。ここまで環境音が聞こえるのも、それほどにゆっくりできたのもアリスのお陰だ。昨日も今日も同じことを考える辺り、アリスへの感謝は言葉にしきれないものがある。
スリープ状態のコンピュータを再び立ち上げると、メールが一通来ていた。どうやらあの売人が、アリス自身と、アリスと僕の仲の事を心配してくれたようだ。やはり大量の金が手に入った後の彼は優しいし、アフターケアもこういう時に限ってしっかりしている。悪いとは言わないが、商売人だなと思ってしまう一面だ。とりあえず特に問題なくやれている、という旨の内容のものを書いて、返信した。
次いでインターネットのニュースを確認。ニュースもいつも通りで、殺人、汚職、窃盗……明るいニュースは数少なく、僕の応援している野球チームが完封勝ちしたとか、近所の動物園のサルが誕生日を迎えて長寿記録を更新したとか、なんとも小さなことばかりだ。幸せなことはちっぽけに見えるが、そうでないことはやたら大きく見える。そう考えてみると、こうやって今ゆっくりとニュースを見たり友人にメールを返したりすることができるのも、小さな幸せなのかもしれない。
軽く自分の部屋を片付けた後、手持ち無沙汰になっていたので昨日は忙しくて出来なかったチェスをインターネット上でやってみた。前々から友人に勧められていたのだが、今日までそんな場合でもなく、アリスに任せっきりにしている掃除や洗濯も自分でしなければならなかったので、趣味に時間をかけるような場合ではなかったのだがようやくそれが叶った。もう久しく対人戦をやっていなかったので自分のミスをいいように拾われ続け、その結果当然のことながら負けてしまったが、何故か対戦後は充実感に溢れていた。
一旦コンピュータから離れて、ふと掛け時計を見てみる。時計は十時半を示している。やることが無くなったのに、昼食を作るまでにはまだ時間が早い。買い物はアリスと午後に行くから今はいいし、掃除と洗濯は今アリスがやっている。困り果てて辺りを見回してみると、本棚の存在に気付いた。もう何年も触った記憶がないため、埃をかぶっている。中にしまってある本も一度読んだきりでもう内容も殆ど覚えていないため、今日はここに手をつけてみよう。
早速掃除に取り掛かるが、いつも部屋を掃除しているのに何故ここだけ手付かずのままなのだろうか。ふと疑問に思いいままでの掃除を思い返してみるが、この本棚を掃除しようとしたり、そもそも思ったことが無いことから、もしかしたら普段は見えていなかったのだろう。存在を忘れてしまうと、なかなか視界に入っても風景に同化してしまい見逃しがちなものだ。ハンディモップでさっと埃を取り除いただけだが、なんとなしに部屋の雰囲気も前より小綺麗になった気がしなくもない。勿論部屋の一部を掃除したくらいで全体が綺麗に見えるなんて有り得ないことだが、本棚が持っていた薄汚い印象をモップで除去できたお陰なのかもしれない。
一日はまだまだ長い。気を配れることも、まだ気がついていないことも、たくさんある。人の秘密よりも、まずは自分の部屋や、この屋敷の隠された魅力を見つけようと、そう思ったのであった。