「旅館の方は楽しんでいただけてますでしょうか?」
夕食のお膳を並べ終えた仲居さんが、にこやかに尋ねてきた。
「はい、もちろん。ね」
と簪が言葉をかけてきたので頷いて同意する。
部屋もいいし、風呂もよかった。そして目の前に並ぶ料理の数々もよさそう。これは美味しいに違いない。
「それはよかったです。では、お料理の説明をさせてもらいますね」
料理の簡単な説明をしてもらい、お膳を下げる時間を告げられた。
ここは最初のうち仲居さんがついて、よそったりしてくれるサービスがあるようでその片手で話に花を咲かす。
「お若いくてご夫婦で旅行だなんて素敵ですね」
合図を打ち、ここに来た経緯を簡単に説明する。
「奥様の提案で当旅館に……それはありがとうございます。素敵な奥様ですね」
「そ、そんな……!」
簪は恐縮と謙遜しているが、仲居さんの言う通りだ。
素敵な奥さん。俺にはもったいないくらい良くできた奥さん。
こうして他の人にも簪が褒められるのは自分のことのように嬉しい。
「あらまあ、お熱い。素敵な旦那様で羨ましいです、奥様」
「は、はいぃ……」
簪は顔を真っ赤にしながら恥ずかしそうに縮こまっていた。
「ふふ、ではそろそろ私はお暇しますね。何かあればお気軽にそちらのお電話からどうぞ。ごゆっくりお過ごし下さいませ」
軽く頭を下げると仲居さんはゆるりと部屋から下がる。
出ていく時まで上品な立ち振る舞い。いい旅館に来ただけのことはある。
よし。二人っきりになったのだから、冷めないうちに食べたい。
「あ……そうだね」
我に返った簪と料理を食べ始めようとする。
流石にもう顔を赤くして恥ずかしがった様子はない。だがしかし。
「えへへ」
だらしなく頬を緩ませる。
凄い笑顔。幸せそのものと言わんばかり。
ご飯が美味しいからというわけではないだろう。
そんなにさっきのが嬉しかったのか。
「当たり前だよ。仲居さんにあなたのこと褒めてもらったのも嬉しかったし、あなたにあんな風に言ってもらえたの凄く嬉しい」
これはまたいい顔しながら言う。
まあ、それだけ喜んでくれたのはこちらとしても嬉しい。
「飲む……? 入れるよ」
簪は空いたグラスにビールを注いでくれた。
今度は俺から簪に……。
「いいよ……酔っちゃったら大変だし、お世話したいから」
酔うほど飲むわけじゃないし、別に簪は弱くないだろ。よく知っている。
それとお世話というのなら、少しぐらいは付き合ってほしい。
お互い飲める年齢になって飲む機会も多くて強い方だが、折角の旅先。一人だけ飲むのは寂しい。
「それもそうだね。じゃあ、改めて遠慮なく……」
遠慮気味に出された簪のグラスに今度こそ俺からビールを注ぐ。
そして、俺達は乾杯をしあった。
「乾杯」
ビールを一口。
「あっ……美味しい。飲みなれた味なのにいつもより美味しく感じる」
簪もか。
旅先だからってのもあるんだろう。
肝心の料理はまた格別。絶品だった。
「んー……美味しい」
簪は嬉しそうに頬を綻ばす。
この旅館がある土地のもの、旬の海産物がふんだんに使われているだけあって美味しいし種類も豊富で食べるだけで楽しい。
これで種類豊富だと中でも気に入るものが見つかり、それを簪に勧める。
「こっちのもこれも美味しいよ」
と簪からもまた新たな逸品を勧められる。
普段とは違う料理を二人で囲みながら食べるのは本当に美味い。
ビールもいい感じに進み、酒が進めば箸も進む。あっという間に皿は空く。
「あ……お代わり入れるね」
差し出された手に皿を渡すといくつか料理を取り皿に盛って渡してくれる。
いつもとは違う旅先でもこういうところは変わらない。
「ごちそうさまでした」
二人分にしては多かったけど無事料理を食べ終えることをできた。
こんなにお腹いっぱい。正直苦しいぐらい食べたのは久しぶりだ。
たくさん食べたし、たくさん飲んだ。
「ね……やっぱり酔っちゃった、ふふっ」
そう言った簪はほんのり赤い。
酔っていい気分なのか向かいに座る簪は終始ニコニコとしている。
酔いを醒ました方がいいか。腹ごなしもしたい。
「ん~……外に涼みに行く? あれだけ見晴台勧められたんだし」
お膳を下げに仲居さんが来た時、また見晴台を勧められた。
夜は夜で夜景が綺麗のようだ。
昼間は見に行けなかったし、折角進めてもらっのだから涼みに行ってみるか。
先に立ち上がり、手を差し伸べ簪の杖となる。
「ありがとう」
貴重品を持ち、外に出るからと羽織を着て部屋を後にした。
「お外に?」
「はい。あの見晴台へ酔い覚ましに行こうかと」
「かしこまりました。足元は暗いのでお気をつけていってらっしゃいませ」
「いってまいります」
フロントで担当の仲居さんに出会い上品に見送られる。
酔ってるのもあってつられて上品に返事する簪が微笑ましい。
外に出てみると旅館の周りにはチラホラと人影はあるが、案内に沿い見晴台へと向かうたびに人影はだんだん減り、二人っきりになった。
夜もいい時間。秋の夜は冷える。羽織を着てはいるけども簪は寒くないだろうか心配だ。
「ん……大丈夫。こうすれば暖かくなるし」
腕を組んでぴったりと寄り添ってくれる簪。確かに暖かくなった。
見晴台へと続く道は少しばかり坂となっており、危なくないよう足元が照らされ、そこにある紅葉が照れされて風情があった。
「素敵だね。私、こういうの結構好き」
静かながらも弾んで言ったその言葉に頷く。
見晴台に行く間までもこうして楽しませてくれる。こういうの好きだ。
そしてようやく見晴台へと着いた。
「綺麗」
見晴台から見える光景を見るなり簪がぽつりとそんな感想をこぼした。
俺達が見ているのは夜の海。暗い中でも青色がはっきりと見て取れ。今夜は雲一つない快晴。満月だ。
海から昇った月が水面を照らし、細長い光の道が海面に現れていた。綺麗。幻想的だ。二人して見晴台から光景に目を奪われる。
「ねぇ……」
しばらく言葉を交わすことなく景色に見とれているとふいに簪が声をかけてきた。
頷いて聞き返す。
「大したことじゃないんだけど……今日はどうだった……? 楽しかった……? ちゃんとリラックスできた……?」
そんなことを簪は不安そうに聞いてきた。
それに対する返事はただ一つ。もちろんだと首を縦に振った。
今日は久しぶりに思う存分リラックスできた。おかげで身体が来た時と比べものにならないぐらい軽い。
感謝に尽きる。当然今日は楽しかった。だが、まだ楽しかったと終わりにしてしまうのには少々早すぎるし、まだもう少し今日を楽しみたい。
「ん……私も」
後は会話を交わすことなく二人ただ静かに夜景を眺める。
手を繋ぎながら。
見晴台、晴天の夜空。その二つが合わさったおかげで月がよく見える。絵に描いたように丸さ。
ふいに簪を見て名前を呼んだ。今夜は一段と月が綺麗だ。
「うん……綺麗、あなたと見る満月。……ああ、今ならこう言うべきかな」
そう言って簪は続けざまに言った。
「私、死んでもいい」
秋を彩る紅葉の落ち葉たちに囲まれた見晴台。
月明かりの中で、うれしそうに笑っていた。
…
今回もまた簪の相手である男性はオリ主です。決して一夏ではありません。
もしかすると、主人公は簪が好きなこれを読んでいる貴方かもしれません
それでは