簪とのありふれた日常とその周辺   作:シート

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悩む簪の傍に

 鍵を開け、家の扉を開き、ただいまの一言。

 家に帰って来た。

 

「……ただいま……」

 

 隣の簪も同じく言う。

 しかし、声は小さく、覇気はなかった。

 

 靴を脱いで家の中へと上がる。

 向かうはリビング。

 着くと荷物を一旦置いて手洗いうがい。その後は一旦置いた荷物をもって、お互いに着替えに行く。

 着替えに終えるとリビングに戻って、お茶の用意をしつつ、夕食の用意を始める。

 いつもより早く帰ってこれたけども、時間的にはそろそろ夕食時。ゆっくりと準備していれば、丁度いい時間になるだろう。

 

 そう思って夕食を作っていくと、遅れて簪が出て来た。

 静かにテーブルに着いた簪に用意していたお茶を出す。

 これで少しは気持ちが落ち着くだろう。

 

「ん……」

 

 受け取ったのを確認すると、台所に戻って再び調理を始める。

 簪は渡した飲み物を一口飲んだだけで、こちらを見つめている。

 うちのリビングは台所と対面式な為、遮るものなく視線が直に刺さる。

 もっとも視線がこっちに向いてるだけで、簪にしたら見てるつもりはないんだろう。考え事してる顔になってる。

 もしかしなくても、今日のことだろう。

 

 今、簪は連続出場数回目になる世界大会モンド・グロッソに向けて特訓の日々を送っている。

 忙しく、厳しい訓練だがそれ自体には慣れたもの。しかし、今回はこれまでとは違うものがあった。

 今、簪はスランプに陥ってる。

 

「はぁ……」

 

 深い溜息。

 スランプだというのを如実に物語ってる。

 こうやって早く帰ってこれたのもコーチである織斑先生、もとい織斑コーチに帰されたからに他ならない。

 国家代表である簪は前回の世界大会モンド・グロッソに優勝した。一度優勝したことで更なる期待がかけられている。前回も優勝したからきっと勝てる。今回もまた凄い試合を見せてくれる。そんな期待の数々。

 言葉にするとよくあるものことにも思える。だが言われて、期待をかけられる簪本人にしてみれば、感じる責任感やプレッシャーは計り知れないだろう。

 だからこそ、今まで以上に頑張ろうとするがその頑張りがから回っている。簪もそれを自覚してないわけじゃないが、簪は気負うと自分を追い込む嫌いがある。

 心身に無理がない程度までは見守っていたが、流石に追い込みが過ぎて織斑コーチからストップがかかり今へと至る。

 

 そうこうしているとひとまず夜ご飯が出来た。

 早い時間にはなるが、簪は食べれるだろうか。もう少し後のほうが。

 

「ん……大丈夫。今、食べる」

 

 それを聞いて、夕食を並べていく。

 今夜はたまご雑炊ときんぴらごぼう、それから漬物。

 並べ終えると簪の前の先へと座る。

 

「いただきます」

 

 手を合わせて二人一緒にそう言うと食べ始めた。

 疲れてるはいるだろうが、ガッツリしたのは食べれなさそうだったから軽めのものにした。

 

「ありがとう……助かる。ん……美味しい」

 

 ゆっくりながらもしっかり食べてくれている。

 よかった。

 軽めのものだったから、すぐ食べ終えた。ちなみに簪はまだ食べている。

 

「そうだ、洗い物そのままにしてといて……洗い物は私がしておく。今は何かしてたい」

 

 なら簪に任せよう。

 その間、風呂の用意でもしていればいい。

 

 

 食後、洗い物した簪には先、風呂に入ってもらっていた。

 のだが……今日の簪はいつもより長風呂だ。

 おまけに物音もしない。寝落ちでもしてないかと心配になって外から扉越しに声をかけた。

 

「……大丈夫、起きてる……考え事してた」

 

 長風呂するぐらいの考え事。

 訓練ができないからこそ、考えずにはいられないといった感じなんだろう。

 気分転換してほしいところではあるが、こっちらから無理やり気分転換させるようなものでもない。

 訓練ができないのなら、せめて考え続けることぐらいはしておきたいというのは俺もよくするから分かる。

 とことん考え抜けばいい。のぼせない程度に。

 

「んー……分かってる。ありがとう……もう少ししたら出るつもりだから」

 

 その言葉通り、簪は風呂から上がって来た。

 しかし、今度入った俺が風呂から上がるとリビングでも簪は考え事をしている感じだった。

 今回は長引きそうだな。飲み物を片手にソファで寝転びながらタブレットとにらみ合いをする簪の隣に腰を降ろす。

 

「んしょ……」

 

 器用に簪がよじ登ってた。

 簪は俺の膝の上に頭を乗せ、膝枕する形に。

 

「ほっ……」

 

 安心した様子の簪。

 男の膝枕なんていいものではないだろうに。

 

「これがいいの……落ち着く」

 

 簪がそう言うのならそうなんだろう。多分。

 そっと簪の髪を撫でた。

 

「ん……」

 

 時は過ぎていく。

 夕食時からゴールデンタイム、日付が変わる前へと。

 

 立ち上がったり、別のところに行ったりはしたものの戻る度に簪に膝枕をし続けていた。安心してくれていたが、それでスランプが解決するようなものでもない。

 

「うーん……」

 

 タブレットに映る練習光景の映像やデータと睨み合いを続ける簪は、今だスランプの真っ只中。

 のようだが、ふいに画面から目を離し、タブレットを置いた。そして、一言。

 

「ねぇ……どこか遠くに行きたい……」

 

 どこか遠く……特にこれといって行きたい場所があるわけではなさそうだ。

 単純に場所を変えて、気分転換したいといった感じなんだろう。

 だったら、行くか。

 

「いいの……? 遠くだよ……? しかも、夜も遅いのに……」

 

 大丈夫と力強く頷いてみせる。

 確かに夜は遅いが咎められるような年齢ではないし、それで簪の気分転換になるのならお安い御用だ。

 

「ありがとう」

 

 簪は嬉しそうに小さく笑みを見せてくれた。

 

 

「わぁ……暗いっ、広いっ」

 

 目の前に広がる夜の海を見て簪が感動する子供みたいな感想を上げている。

 やってきたのは家から車で大体一時間ほど走ったところにある海岸。

 夜、遠くに行くとなれば定番ではあるが海がいいだろうと連れてきた。

 

「ちょっと肌寒い……」

 

 昼間は汗が出るぐらい暑かったりするが夜は昼間の暑さが嘘みたいに寒い日があったりする。今夜も冷える日で海のすぐ近くにいるから少し肌寒い。

 少し厚着してきたし、水筒に熱いほうじ茶を入れて持ってきている。

 コップに入れて簪に渡すと、砂浜へと続く階段に二人並んで腰を降ろした。

 

「はぁ……」

 

 お茶を一口飲んで簪が安の息をこぼす。

 人の影は当然ない。夜の海は静かで、さざ波だけが小さく聞こえてくる。

 

「落ち着く……吸い込まれそう」

 

 隣に座る俺へと身体を預けながら海を眺める簪は、何だか吹っ切れた顔をしていた。

 

「ありがとう……海、連れてきてくれて」

 

 ぽつりと一言。

 何もしてないから礼を言われるほどではないのに今日はよく感謝される。

 

「そっとしてくれて本当にありがたかった。変に元気づけられたり、気分転換に何かされてたら余計落ち込んでたかも。理解されてるなぁってしみじみ」

 

 一緒になってから随分経つからな。

 そこらへんはよく理解してるつもりだ。

 後は更識簪専属のマネージャーだから仕事のうちってのもあるが、それ以上に立ち直してくれてよかった。

 

「昔からこうなると目の前のことばっかりになっちゃって周り見えなくなるの成長できてないな……これは織斑コーチに視野が狭いっていつも叱られるわけだよね」

 

 昨日までの自分を笑い飛ばす様に簪は苦笑いする。

 視野が狭いとは織斑コーチが簪を叱り飛ばす時によく言うお決まりの台詞だ。

 そこにいろいろな意味が込められていて、今回のことにも言えること。

 

「次のモンド・グロッソは優勝しなきゃいけないし、優勝する気だからプレッシャーに何か負けてられない。あなたっていう一緒に戦ってくれるヒーロー仲間もいるからね」

 

 笑顔を見せてくれた簪は迷いを断ち切っていた。

 と同時に。

 

「あ……あぅ……」

 

 簪のお腹が小さく鳴った。

 食べてから大分時間は経ち、今夜は軽めだったからな。

 腹が減ってもおかしくはないだろう。にしては定番的ではあるが。

 

「わ、笑わないでよっ……もう、せっかくかっこつけてみたのに締まらない」

 

 ちょっぴりガックリしている簪が微笑ましい。

 簪の腹の音を聞いたからかこちらまで腹が減ってきた。

 何か食べて帰りたい気分。例えば。

 

「ラーメン?」

 

 思いついたことを簪が先に代弁した。

 

「あなたならそう言うと思って。私もガッツリ食べたい。あ……でも、何だかんだまだ訓練期間だからダメかな……?」

 

 訓練期間。しかも、夜中。

 気になるところではあるが、日頃の食事サポートはバッチリだ。

 多少の贅沢は効くようにしてあるし、明日も変わらない食事をすれば問題ない。

 

「やったっ……行こ行こっ」

 

 簪は俺の腕を掴むと二人で駐車場へと続く砂浜の階段を上がっていく。

 夜はまだ明けそうにない。

 


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