雪風は敗走していた。真っ暗やみの中、星と月の灯りだけを頼りに、敵性艦隊から一刻でも早く離れようと、最早秩序が取れていない逃避行を続けていた。
彼女は誉れある連合艦隊の、最精鋭が集められる第二艦隊の、誇りある駆逐艦であった。ほんの数時間前、敵の大軍をその目で見るまでは。
「…どうも敵の動きは止まらないようですね」
彼女の直属の上官である軽巡洋艦神通は後ろを振り返っていた。
敗走しているのは足が速い水雷戦隊。戦艦や重巡洋艦などの主力艦は戦場に残り最後の抵抗を続けている。彼女たちができるだけ足止めをして、帝都防衛のための時間を稼ぐのだ。彼女たちの生存確率が絶望的なまでに低くても、彼女たちは決して恐れることなく敵に立ち向かっていた。
「何で!金剛さんたちはあんなに勇ましく、果敢に立ち向かっていたのに…!」
絞り出すような声で呟くのは僚艦の駆逐艦、朝潮である。彼女は悔しそうに顔をゆがませ歯を食いしばり、それでも敗走の屈辱に耐えていた。
「…数が多すぎるのでしょう」
神通は必死の航行を続けながらも、何やら考え事をしているようだった。
「…第二艦隊の内、転進した戦力の中では私が最先任です。よって私が命令を出す立場にあります」
絞り出すような神通の声は、無線に乗って敗走中の艦艇に届いた。
「過酷な命令を出しますが、命令の拒否は認めません」
雪風は覚悟した。反転して敵性艦隊を迎撃する、特攻を行うのだと理解した。戦うだけ戦って沈む。それが彼女たち艦娘に課せられた運命であることを、彼女は理解していた。
「全軽巡洋艦は反転、敵を迎撃し食い止めます。今ならばまだ敵も水雷戦隊が突出している状況です。十分に善戦可能です。その他全駆逐艦は帝都湾への退却と連合艦隊司令部の指示を仰いでください。指揮権は駆逐艦雪風に委譲します」
「待ってください!」
雪風は反射的に叫んだ。
「私たちも戦わせてください!最後に一戦して華々しく散る以外にもう道はないんです!どうか神通さんたちと一緒に死なせて下さい!敬愛する軽巡のお姉さまたちと一緒に…!」
「ダメです。命令違反は認めません。あなたたちは速力があり小回りが利く。帝都湾の中で必要な戦力です。あくまでもここで行うのは時間稼ぎであって、ここで必要以上に犠牲を出すわけにはいかないのです」
神通は厳しい表情だった。その理知的な言葉に、雪風は反駁できない。
「それにね」
神通は頬を緩ませる。
「私たちの誇り、可愛い駆逐艦。あなたがたにはできるだけ生きててほしいの。一分でも、一秒でも、できるだけ長く。できればこの戦闘を生き延びてほしい。そして、この戦闘の先にある未来を守ってほしい」
神通の、泣き笑いのような表情と、その慈母のような優しい瞳に、雪風は何か反対意見を言うことはできなかった。
「私の可愛い
雪風は首から下げている双眼鏡を両手でぎゅっと握りしめた。
「…第二艦隊全残存駆逐艦へ!針路北西、帝都湾内に帰還する!最大戦速!」
無線に対して怒鳴るように雪風は言うと、続けて神通に対して敬礼する。
「神通さんたちの抵抗を無駄にはしません。それでは…ご武運を」
「ええ。あなたたちもね」
永劫の別れを告げて、神通は反転し、雪風は速度を上げる。
このとき、第二艦隊の残存戦力は軽巡三、駆逐五であった。
「第二艦隊に引き続き第一艦隊も突破されかけているようです」
不知火は無線で聞き取った内容を、彼女の嚮導艦である陽炎に報告する。本来、戦闘状態にある艦娘たちは暗号化される秘匿回線を用いて連絡を取り合うのが通例であるが、今回はそれだけの余裕がなく、また、帝都湾に駐留する全ての艦娘が状況を把握できるようにするために、通常の無線の回線を利用していた。
「絶望的ね。不知火、黒潮、艤装の調子はどう?大丈夫?」
横須賀の根拠地で睡眠をとっていたものを叩き起こされて、帝都湾内の哨戒部隊として急行を命令された彼女たちは、この戦闘が艦娘として初めての戦闘であった。
「不知火は大丈夫です。いつでも戦えます」
「うちもや」
「よし。それなら大丈夫ね」
陽炎は努めて明るく振る舞った。それが彼女の役目だと思った。陽炎型の長姉として、妹たちを絶望させてはいけない。
沈むその瞬間まで、希望を失いたくない。
「しかし、第一艦隊も第二艦隊もかなわない敵にどうしろと連合艦隊は言うつもりなのでしょうかね」
「ここで死ね、海軍に殉じろってことやろなぁ、ははは、傑作や」
「ま、死ぬのも仕事ですからね。沈むのも初めてじゃありませんし」
不知火も黒潮も、話さなければ不安と絶望で心が支配されてしまうのだろう。だから、積極的に話すのだ。
「不吉なこと言わないの。これが終わったら絶対おいしいもの食べにいきましょ。回らない寿司とか食べてみたのよね」
陽炎は手をぱんぱんと叩きながら、おそらく訪れない未来の話をする。
「それはいいですね。陽炎、奢ってください」
「陽炎ちゃんはお姉ちゃんやから、当然奢ってくれるんやろ?」
不知火も黒潮も、少女らしい笑顔を浮かべながら、陽炎の言葉に応えてくれる。その未来は訪れない未来であることは彼女たち二人も痛切に分かっている。
「いいわよ、奢ってやるわ、どーんと来なさい。なんなら雪風だって呼んでみんなで食べましょ」
今戦力として投入されている陽炎型駆逐艦は四隻だった。
「おー、さすがお姉ちゃんや、太っ腹や」
「今から楽しみですね」
奢りでもなんでもするから沈むな、という言葉を、陽炎はのど元まで出てきて、そして仕舞った。それはできない相談だろう。それを今彼女たちに言うのは残酷だ。
さっと不知火の表情が翳った。
「…電探に感あり。識別信号…敵艦隊です!」
楽しい時間は終わり。これから始まるのは地獄であればまだいい方だ。単なる自分たちの墓穴掘りかもしれない。
「司令部に連絡して。あと、黒潮」
「なんや」
「あんたは近くの戦力を糾合してここに連れてきなさい」
思いのほか冷静に、陽炎は言葉を紡げた。
「何でや!司令部が連れてきてくれるやろ!」
当然黒潮は反駁した。当たり前だ、実質的に戦闘に参加するなと言っているようなものだ。しかも、この状況では、それは生き延びることを意味しない。ただ単に、生きる時間が少しだけ長くなるだけだ。
「うちはどうせ死ぬなら陽炎ちゃんや不知火ちゃんと一緒に死にたい!だから…」
「いいから」
「でも…」
「行きなさい」
陽炎の、有無を言わさぬ口調に、黒潮は唇を噛んだ。
「…分かった!陽炎ちゃんの言うことに従う。絶対援軍を呼んでくるから、それまでに死んだら許さへんで」
「任せなさい。あなたの姉二人を信頼するのよ」
黒潮は最後の未練に不知火に視線を投げかける。不知火は頷くと、目線でこの場を離れるよう促す。
「絶対絶対絶対連れてくるから!それまで…」
黒潮は海面を蹴り上げると、闇夜に消えていった。
「…黒潮には生きていて欲しいですね」
「ごめんね、不知火」
「いいえ。陽炎と離れて生きるくらいであれば私は死にます」
「…そっか、そうね。水底に沈んでも」
「ええ。こればかりは黒潮といえども邪魔をさせません。陽炎と共に眠りにつくのは私の、不知火だけの、特権です」
たった駆逐艦二隻で、絶望的な戦闘に身を投じようとしていた。
雪風は見た光景をにわかに信じられなかった。海面に流れ出る重油、天を突くかと思われるほどの炎、浮かびあるいは沈む鉄屑、敵の残骸、地獄というものがあれば、おそらくこのような光景を見せてくれるのだろう。
「…ここに残ったのは陽炎さんと不知火さんだけなのですよね?」
雪風は先導した黒潮に問う。
黒潮はぼうっとした面持ちで、それでも頷いた。
まさしく信じられない光景だった。残骸を見れば敵の駆逐艦のみならず、軽巡、重巡、果てには戦艦空母まで、一様に殺され沈められているのが分かる。
駆逐艦二隻の戦果ではない。
「…陽炎ちゃんと不知火ちゃんを捜すで」
黒潮の言葉に、雪風は頷いた。
黒潮が連れてきた戦力は駆逐艦十隻、内五隻が第二艦隊の生き残りである。彼女たちは手分けをして炎と残骸の中、陽炎と不知火を探すことにした。
特攻だと思って雪風は駆けつけた。ここで最後の戦をすることで、帝都にわずかでも時間を与えようと思った。だが、実際に来てみればそのポイントより先に侵攻した形跡はなく、敵の大量な骸が浮かびあるいは沈んでいる。
自分たち第二艦隊がついに敗北し壊滅した物量が、やすやすと殲滅されている。雪風はほっと安心した反面悔しさを感じた。
炎の中で、蠢く影を見つけ、雪風はとっさに砲門を向ける。そして、目を見張った。
「陽炎さん…」
炎に照らされた橙色の影は、確かに雪風の長姉、陽炎のものだった。その存在感は、彼女の記憶にあるそれよりは随分と上回っている。
「雪風ちゃん、どないした…」
立ち止った雪風に声をかけたところで、黒潮は陽炎に気づいたようだった。
「陽炎ちゃん…!」
黒潮の呼び声に、やっと陽炎は二人に気づいたらしい。ぐるりと振り返った彼女を見て、雪風はぞくりとしたものを感じた。
大破し息も絶え絶えの不知火を抱きすくめるように抱えた彼女は、しかしその行為から想像できるような聖母のような表情とはかけ離れていた。ぎらぎらと貪欲に輝く瞳は圧倒的な狩りをする狼のようで、鉄屑と炎に囲まれる姿はまるで悪魔のようで、その圧倒的なまでの存在感はまるで帝王のようだった。全ての砲門を二人に向け、いびつにゆがんだ唇は淫靡に笑っているようだった。
「…黒潮と雪風か」
砲門が火を吹く前に、陽炎は彼女の目の前に立つのが妹たちであることに気付いたようだった。
「良かったぁ、二人とも生きてたぁ」
陽炎はへなへなと、腰から力が抜けていくかのように座り込む。
「不知火ちゃんは預かるで。はよドックに連れてかんと。陽炎ちゃんは大丈夫か?歩けるか?」
雪風が呆気に取られている間に、黒潮はてきぱきと事を進める。
「うん、ありがと。多分不知火も命は大丈夫なはず。私たち、生き残ったのよ」
陽炎は、雪風の知っている人懐こい笑顔で、笑った。
雪風は、その笑顔で、恐怖を感じた。