僕は彼女の歌が嫌いだった。
なんというか、歌に敬意がなかった。歌をまるで道具のように使っていた、そんな感じがして、僕は嫌いだった。
まぁ、そんなことを言うとまるで僕が歌について何か特別な感情を抱いているだとか、歌と縁の深い人間だとか、そんなことを思われるのだろうけど、残念ながら大外れた。歌に興味はないし、歌とは那由他の距離くらいには縁遠い。ちなみに那由他って十の六十乗、もしくは七十二乗のことらしいね。
ただただ、僕は彼女の歌が嫌いだったのだ。
特別な力を持つ彼女の歌が、どうしても許せなかったのだ。
だけどどうだろう、最近の彼女は変わった。彼女が変わったから、彼女の歌も変わった。
毎日聞いて、それを録音して、そうして聞いている僕が言うのだから絶対に変わった。
なんというのだろうか、彼女が歌を知ったかのような、そんな感じだ。それに何より、歌を歌うことが楽しいと思っている風だった。
何かあったのだろうか。彼女に何か変わったことがあったのだろうか、例えば誰かに何かを言われたとか、そんな彼女を変える何かがあったのだろうか。
それにもう一つ、彼女は最近、歌に言葉を紡ぎ始めた。それまではハミングばかりだったのを、歌詞のある歌へと変えていった。
作曲や作詞も、彼女は教えこまれていたらしく、それに難航をすることはなかった。
ただただみんな、綺麗な声と歌に耳を澄まし、感動していた。
僕だって彼女の歌に感動した。嫌いなはずの彼女の歌に感動し、涙した。
「あ、あの、歌姫さん」
だから僕は思わず声を掛けたのだ。最近になってそう呼ばれるようになった彼女に。流れた涙を拭うことも忘れて、僕は声を掛けたのだ。
「……? なんでしょうか?」
「え、えっと、いつも歌を聞かせてもらっています」
「ああ、確かいつも一番前で聞いてくださっている方ですよね。いつもありがとうございます」
「あ、はい、えっと、その、どういたしまして……? ――って、そうじゃなくて、あの、最近、歌というか歌い方というか、そういうの変わりましたよね……?」
「あははっ、はい、そうですね」
「えっと、それって何か、あったんですか? 心境の変化とか、そういう、何かが」
「まぁ、そんな感じですかね。少し前にとある人から言われたんですよ、あなたが大嫌いです、って」
あははっ、と綺麗に笑う歌姫に僕は、思わず思考を止めてしまう。
「そ、そんなことを言われたのですか?」
「ええ、でもその時、凄く嬉しかったんですよね」
「嬉しかった……? どうして?」
「だって、その人は、私の歌が嫌い、って言わなかったんですよ。私の歌の力じゃなくて、私が嫌いだって言ってくれたんです。歌だけではなく、私のことをちゃんと見てくれたんです。それがとても嬉しかったんです」
「……っ、そう、なんですか」
思わず声が詰まる。そうだ、僕は彼女のことをちゃんと見ていなかった。歌だけをあれこれ言って、僕は彼女を見ていなかった。
「ええ、えっと、話はそれだけでしょうか?」
「あ……、え、っと、はい。それだけで、すね。呼び止めてしまってごめんなさい」
「いえ、また聞きに来てくださいね」
「……はい。また聞かせて下さい」
そう言って、彼女は綺麗に笑って去っていった。
去っていくのを、僕はただ見送ることしか出来なかった。彼女も時も、過ぎ去っていく。
「そっか、僕はあの人のことが好きなんだ」
今更になって気付く。
僕は彼女のことが好きなのだ。だから、歌を歌おうとしなかった彼女が嫌だった。彼女の魅力でもある歌を歌わない彼女が嫌いだった。
だから僕は、彼女の歌を聞いて涙した。本当の彼女の魅力が、ようやく見れたから。他の人々にも分かるように、見せていたから。多分僕は、そんな彼女に魅せられたのだろう。
考えてみればそうだ。毎日彼女の歌を聞いて、それを録音して家でも聞いている。そんなある種気持ち悪いとも思えるようなことをしているのは、彼女が好きだからなのだろう。少し屈折した恋愛感情を僕は持っているのだろう。
彼女の歌は嫌いだ。嫌いだった。
彼女は彼女の魅力に気付いていなかった。それを誰かが気付かせてくれた。一体誰なのだろうか。多分、少し厄介な性格の人間なのだと思う。
別にその人に感謝をしようとか、お礼を言いたいとか、そんなことはない。そんなつもりはない。どうせ彼女には恐らく、他の誰かが言ってくれていただろうから。
僕ではない誰かが彼女にそう言って、そして彼女は変わっていったのだろうか。
僕は何も言わない。僕はただただ彼女の歌を聞くだけだ。
僕は告白も何もしない。好きだという気持ちを抑えこんだまま、ずっと、ずっと、僕は彼女の歌を聞き続ける。
「あっ、お前、さっき歌姫と何話してたんだよ~! いつも無口なくせにやる時はやるじゃねぇか! なになに? お前もしかして歌姫のことが好きなの? だったらどんだけ高望みしてんだよ。彼女は歌姫だぜ? 国をもってないとはいえ、姫様だぜ。お前みたいな庶民と付き合う訳ねぇじゃん。さっさと現実みろよ~。大体さ、いつもお前黙ってばっかで協調性がないんだよな。なんでお前いつもそんな感じなの? 暗いっていうかさ、こう、人と関わろうとしていないみたいな感じでさ。正直言って接し辛いんだけどさ、一体どうやって会話すれば正解なんだよお前はさ――」
ああ、うるさいやつに見つかってしまっていたものだな。まぁ、いいや、彼は話していればそのうち静かになる。話すことがなくなるからではなく、喉が枯れるから。
ずっと、ずっと、彼は話し続ける。
たまにはそういう雑音を聞くのも悪くない。――勿論、彼女の声でちゃんと耳の浄化はするけれどね。
聴くにせよ聞くにせよ訊くにせよ、とりあえずは黙ってるだけよりはマシですよね。