魔(メイジ)☆おぜうさん   作:琥珀堂

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シェイクスピアを夢見て

 ハルケギニアにおいて、物語と言えるものは少ない。

 始祖の御技や魔法について研究した書物は数あれど、娯楽小説と呼ばれるものは、六千年の間に全くと言っていいほど発達しなかった。タバサの好む『イーヴァルディの勇者』などは、数少ない例外である。

 そして、そんな物語供給の乏しい世界から、地球にやってきた本好きの少女は、今――。

「…………………………」

 眉ひとつ動かすことなく、古本屋さんの本棚の間を、たゆたうように歩き続けていた。

 あっちへふらふら。こっちへふらふら。

 知らない人が見れば、退屈して手持ち無沙汰になっているように思うかもしれない。

 しかし、付き添いで一緒に来ていたキュルケにはわかっていた。親友の心の中が。

(ああ、タバサったら、あんなに浮き足立っちゃって……)

 そう、タバサは興奮していた。ワクワクという言葉が、瞳の中で踊っている。

 タバサは始祖に祈るように、天を見上げた。天井の蛍光灯が眩しいが、それすらも彼女には神々しく思える。

 何度来ても、この場所に感じる印象は同じだ。

「こここそが、私の聖地」

 厳かにタバサは呟く――この古本屋は全国にチェーン展開しているので、タバサにとっての聖地は、日本中に数百ヵ所以上あるのだった。

 

 

 第三話 シェイクスピアを夢見て

 

 

 キュルケとタバサは、毎月の生活費の中から、決まった額をおこづかいとして手に入れていた。

 この小さな金額を、タバサは意外なことに、全く貯めることなくパァーッと使ってしまう。宵越しの金を持たない江戸っ子を気取っているわけではない。単純に、欲しいものがたくさんあるのだ。

「読んでも、読んでも、未知の本が尽きることがない……地球、なんと素晴らしい情報産業世界」

 岡本綺堂の捕物帳を、どさどさとカゴに詰め込みながら、タバサはその近くの野村胡堂にも視線を流す。

 彼女は月初めにもらうおこづかいから、インターネット料金を引いた残りの全てを、古本の購入に費やすのだった。イーヴァルディはもちろん心の書だが、こちらに来て触れたミステリーは麻薬であり、SFは酒であり、時代劇ははしばみ草だった。タバサ用に部屋の隅に置いてあるカラーボックス(ホームセンターで九百八十円で購入)には、今や地球産の古本が溢れんばかりにおさまっている。

 普通の書店には、まだ行ったことがない――なぜなら、新本より古本の方が安いからである。ことによると八百円以上する本を百円で買えることもあるので、金欠に喘ぐ彼女たちにとって、『猟場』は選ぶ余地がなかった。

「素晴らしい。この古本屋、F市では見つけられなかった『半七捕物帳』の三巻以降が置いてある。この際だから、七巻まで手に入れておきたい……噂に名高い『銭形平次捕物控』も……これは巻数が多い……でも、どうせなら買えるだけ……!」

「ストップストップ、タバサ! もうちょっと考えながら買いなさい。慌てても何もいいことないわよ?」

「それは違う。自分が買わなければ、誰かが買うかもしれない。誰かが買って在庫が切れたら、次に誰かが売るまで、仕入れられることはない……それが古本屋のシステム。油断はできない」

 キュルケの制止に反論するタバサの表情は、ガリア北花壇騎士として、命の危険すらある任務に挑んでいた時よりも真剣であったという。

 キュルケはそんな親友の様子に肩をすくめたが、タバサの買い方はタバサなりの厳選に厳選を重ねた買い方なので、それ以上深く注意することはなかった。本棚に並んでいる本を、一列一列丁寧にチェックしていくタバサを横目に、自分も面白い本はないかと、適当に売り場を物色し始める。

 キュルケも、読書する趣味が全くないというわけではない。暇な時にタバサの買ってきた本を読んでみたところ、思いのほか面白かったので、夜寝る前の穏やかな時間は、ナイト・ランプのオレンジ色の光の下で、小説のページを静かにめくる知的なレディとなる。ただ、タバサが自身のおこづかいで買ったものを、自分がただで読むのは少々気が咎めたので、タバサの買い物に一緒に付き合い、自分も本を買って、かわりばんこに読もう、と決めたのだった。

「前にタバサがオススメしてくれた、『銀河英雄伝説』ってのは面白かったわねぇ。登場人物の名前もゲルマニア風なのが多くて、わかりやすかったし。

 次は何を読もうかしら。ああいう物語って、SFっていうのよね? だったら、同じジャンルを選べば大丈夫よね……SF、SFはと……あら。『月は無慈悲な夜の女王』ですって。タイトルからしてセクシーじゃない? 私、これ買っちゃおうっと」

「それはもう家にある。ダブらせてはだめ」

 時代物コーナーの隅にいたタバサが急に振り向いて、目ざとく指摘する。

「その作品はハインラインの名作。帰ったら、ぜひ読むといい。

 でも、もしあなたが何か本を買おうと思うなら、買う前に私に言って。買っているものかそうでないか、確かめるから」

「あら、それは気をつけなきゃね。じゃあ別のを探さなきゃ……ねえ、このSFコーナーで、あなたが買ってないものって、たとえばどれ?」

「未購入で、かつ私が気になっているのは、ルーディ・ラッカーの『セックス・スフィア』。キュルケのお財布で買ってくれるのなら、よろしく頼みたい。私が買うよりは、店員さんに変な目で見られなくて済む気がする」

「……いや、私もそれはちょっとためらうわ。何そのダイレクトすぎるタイトル」

 マッドでダイレクトだけど、本格的なSFですよ、と、どこかの誰かが思った。

「それに、SFは科学と呼ばれる非常に底の深い学問を、かなりの深度で扱ったものも多い。ものによっては、科学的造詣の浅い人間には理解できない作品もある……その辺に気をつけなければ、大変なことになる」

「ああ、確かに、『銀河英雄伝説』でも、光年とかワープとか理解するのに、ちょっと時間がかかったわねぇ。あれは人間ドラマと国家間の攻防が前面に押し出されてたから、苦労もちょっとで済んだけど。

 となると、もっとシンプルに理解できる、人間ドラマ系が私向きってことね。ミステリー小説とか、愛と欲望の絡み合う人間ドラマの坩堝だって、前にタバサ言ってたから、そっちのジャンルで探してみましょう。ねえ、ミステリーで買ってほしい作品はある?」

「太田忠司の、『狩野俊介』シリーズがあるかどうか、見てきて欲しい。『月光亭事件』から『玄武塔事件』までは読んだから、それ以降があれば買っておきたい。

 このシリーズはきっと、キュルケも気に入ってくれると思う。何しろ主人公が、けなげで賢く可愛らしい少年と、さえないけれど思いやりのある中年男性の二人組。ふたりのやり取りが魅力的で、想像の翼がとても広がる」

「……人物描写に優れているということよね? キャラクターが生き生きしてるという意味よね、タバサ?」

 少なくともボーイズラブ要素はありません、と、またしてもどこかの誰かが思った。

「あと、アガサ・クリスティーもかなり良い。ハヤカワのクリスティー文庫を二、三十冊読んでみたけど、はずれがなかった。『アクロイド殺し』、『オリエント急行の殺人』、『ABC殺人事件』、『邪悪の家』や『ナイルに死す』などのポアロものもいいし、キュルケならばトミー&タペンスの冒険モノを好みそう。ノン・シリーズの『チムニーズ館の秘密』、『そして誰もいなくなった』、『シタフォードの秘密』などは人を選ばない。ぜひ読むべき。

 まだ持っていない作品で、狙っているのは『ねじれた家』、『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』、『謎のクィン氏』、『火曜クラブ』。海外作品の棚に、それらのタイトルがあるか知りたい。あったならば、ぜひ確保を。

 ……待って、海外作品の方を見るなら、ジョン・ディクスン・カー(あるいはカーター・ディクスン)もあるかどうかチェックして。『爬虫類館の殺人』や、『白い僧院の殺人』、『ユダの窓』は素晴らしかった。探すべき目標は『三つの棺』、『プレーグ・コートの殺人』、『皇帝のかぎ煙草入れ』――それと、エラリー・クイーンも忘れてはならない。『ドルリー・レーン』シリーズが面白かったから、次は『国名』シリーズに手を出したい。『ローマ帽子の謎』、『フランス白粉の謎』、『オランダ靴の謎』、『ギリシア棺の謎』など、国の名前がつく作品ばかりだから、探すのに手間はかからないはず。ピーター・ラヴゼイも必要。名作と名高い『偽のデュー警部』を読んでみたい。『バースへの帰還』や『猟犬クラブ』の面白さからしても、とても期待できる。E・D・ホックの著作もあるようなら、あるだけカゴに入れてきて。『サム・ホーソーン』シリーズは鉄板。『怪盗ニック』も、『サイモン・アーク』シリーズも押しなべて上質。持っていない作品があるなら、穴を埋めておきたい。それからチェスタトンの『ブラウン神父』シリーズが……」

「クリスティーだけ見てくるわ」

 いつ尽きるとも知れないタバサのリクエストの嵐から、キュルケはさっと身をひるがえして逃走した。

 今日着ているTシャツの胸に燦然と輝く「サラマンダーよりはやーい」の文字はダテではない。

 五分ほど海外コーナーをうろついたキュルケは、運良く見つけることのできた『火曜クラブ』と『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』を手に、タバサのところへ戻った。

「タバサー。言ってたの、ふたつ見つけたわよー……って、あなた、カゴの中身、またずいぶん増えてない?」

「気のせい」

 気のせいではない。商品がひとつのカゴに入りきらなくなって、ふたつ目のカゴを足もとに置いているぐらいなのだから、言いわけの仕様がない。

 ホントにおこづかい分だけで足りるのかしら、といぶかりながら、キュルケはふたつ目のカゴに遠征によって得た収穫をおさめた。

 古本屋で大量に本を売る人は珍しくないが、大量に買っていく人はそれほどいない。だから、この大人買いを試みようとしている小柄な客は、なかなか周りの目を引いていた。

 特に、タバサたちのすぐそばの棚で、商品の整理をしている店員のリョウコさん(アルバイト二年目、十九歳)は、愉快な気持ちで、ふたりの外国人の会話に聞き耳を立てていた。

 店員として、たくさん商品が売れることを喜んでいるだけではない。ひとりの本好きとして、彼女はタバサの語る本のチョイスに、心の中で満足げに頷いていた。

(クリスティにJ・D・カー、クイーンときたか。なかなかにセンスがいい。

 太田忠司も実力派だし、カゴの中に見える時代物も、優れたミステリー作品だ。あの青髪の少女、幼く見えるが、ミステリーを味わう舌は肥えているらしいね……)

 ライトノベルコーナーの『涼宮ハルヒ』シリーズを順番通りに並べながら、リョウコさんはタバサの動向を横目で追う。青い小さな後ろ姿が、現代日本コーナーに移動した。どうやらこの客は、まだ買い物をやめないつもりでいるようだ。

 さて、さすがにカゴひとつ分を超える量の商品をストックしていると、さすがのタバサも財布の中身が心細くなってくる。できるだけ多く、しかし予算の範囲で買い物をするために、欲しいものでもいくつかは諦めなければならない。

 今、タバサの頭を悩ませていたのは、松本清張の『ゼロの焦点』と、鮎川哲也の『ペトロフ事件』のどちらを買うべきかという問題だった。

 松本清張も鮎川哲也もいい。それはわかっている。松本清張の『砂の器』や『点と線』は渋くて素敵だった。鮎川哲也の『人それを情死と呼ぶ』や『黒いトランク』は切なくて印象的だった。どちらも期待感は高い。迷う。どちらか片方を買い、来月残った方を買いに来る、というのは簡単だが、先に述べたように、来月にも同じものが棚に並んでいるかは、完全に運なのだ。誰かに買われてしまったら、そこで縁が切れてしまう。

「キュルケ、あなたに聞きたい。このふたつでは、どちらが読みたい?」

 弱りきったタバサは、キュルケに相談することにした。

 二冊の文庫本を差し出されたキュルケは、裏表紙のあらすじを読んで、困ったように腕を組んだ。

「うーん、どっちかしらね……両方とも情感たっぷりで面白そうだけど……内容が難しそうでもあるのよねぇ……」

「それは仕方がない。ふたりとも本格推理小説界の雄。複雑なプロットは推理小説の肝だし、その複雑さが結末で美しく解きほぐされるのが、推理小説の醍醐味。難しさを忌避すべきではない」

「ううん、そうじゃなくてね。私もちょっと前に、コナン・ドイルを読んだから、推理小説がどういうものかはわかってるつもりよ?

 そうじゃなくてね、トリックの種類というか……ほら、時刻表トリックってあるじゃない? あれとか、日本の乗り物事情に慣れてないから、私にはいまいちピンと来なくて」

「ああ……」

 キュルケの言葉に、タバサと、少し離れたところにいたリョウコさんが、同時に頷いた。

「確かに。私たちの国では、乗り物の時間はこの国みたいに、きっちりと決まっていなかった」

「でしょう? フネだって、『準備ができたら出発する』とか、『風がちょうどいい時に出発する』みたいな感じだったもの。時間を決めても、あさっての昼間とか、夕方とか大雑把な言い方だし」

(ふーん……日本の時刻表の正確さには、外国の人はみんな驚くって言うけど、本当なんだなぁ……)

 ふたりの会話を、リョウコさんは興味深く聞いていた。遠い国の話を聞くことは、それがどんな些細なことでも面白いものだ。

 キュルケは、第三者から注目されていることなど、まるで気付く様子なく続ける。

「それにねえ……ほら、覚えてるタバサ? ルイズたちと一緒に、ラ・ロシェールの港から、アルビオンに行こうとしたことがあったでしょ」

「あった」

 ふたりの友人であるルイズ・フランソワーズが、アンリエッタ王女の密命を受けて、アルビオンのウェールズ皇太子のもとへ、とある手紙の回収に向かった時の話である。その任務に、キュルケとタバサもついていったのだ――途中、ラ・ロシェールの旅館、【女神の杵】亭で、賊からの襲撃を受けたので、キュルケたちが囮になって敵を引きつけ、その間にルイズたちが空飛ぶフネでアルビオンに向けて出発する、という作戦を取ったことがあった。

「あとから聞いた話なんだけどね。あの時も、ルイズはサイトやワルド子爵と一緒に、貨物船マリー・ガラント号で出発しようとしたけれど、その時、まだフネは出発準備ができてなかったらしくって……」

「そう聞いた。でも、何とかなったはず」

「ええ。ワルド子爵が船長と交渉して、すぐに出発してもらうことになったらしいのよ。貨物と同等のお金を出すって言ったことが、やっぱり一番効いたんだろうと思うけど」

(ほほう。子爵ということは……彼女らは、まだ貴族制の残っている国から来たのかな。

 準備ができていない船を、お金の力で前倒しに出港させるなんて、相当なお金持ちだな……)

 リョウコさんがそんな風に、異国の貴族の太っ腹ぶりに感心していると、キュルケはさらに一言を付け加えた。

「まあ、船長が出港を決めた、お金と同じぐらい大きな理由は……フネの燃料(風石)がなくなっても、ワルド子爵が代わりに貨物船を動かすって保証したからなんだけどね」

(……………………?)

 リョウコさんは、その言葉の意味がよくわからずに首を傾げた。

 対してタバサは、こくこくと二回頷いて、同意を示した。

「あのワルド子爵なら、(風のスクウェアだから)人力だけで貨物船を動かすことは可能。船乗りにとっては、非常に心強い」

「ええ。でも、だからこそ、時刻表トリックは私にはあまり馴染めないのよ……人ひとりの(魔法の)力で、何人もの人間と重い貨物を載せたフネを、海の向こうのアルビオンまで運べちゃうのよ? だったら動く時間が決まってる船や電車なんか使わなくったって、好きな時にその乗り物に負けない速度で、どこにだって移動できちゃうじゃないの」

 そう言って肩をすくめるキュルケ。

 その後方数メートルの場所では、リョウコさんがイメージに苦しんでいた……彼女の頭の中には、まだ見ぬワルド子爵(空想の中では、筋骨隆々たるゴリラのような大男として描写されている)が、ぶるわああああぁぁと気合いの雄叫びを上げながら、二本のオールで水をかき、貨物船をむりやり前進させている光景しか浮かばなかった。

「それは特殊な例。誰にでもできることじゃない」

「誰にでもできることじゃなくても、ハルケギニアにはできそうな人が何人もいるじゃない?

 タバサだってそうよ。あなたのシルフィードなんか、スピードも乗り心地も、日本の車や電車に負けないでしょ」

 キュルケのその言葉に、とりあえずリョウコさんは謎のワルド子爵(どう考えても人間の筋力では不可能なことをやってのける人物)についての思考をやめた。その代わりに、小柄な青髪の少女――タバサの持つ「シルフィード」と呼ばれる乗り物について、考えを巡らすことにした。

(ニッサンかトヨタあたりの車に、そういう車種があったような……いや、日本の車に負けないと言っているから、外国のメーカーなんだろうな。きっと大きくて、馬力のある車に違いない……気になるのは、あの小さな子でも

運転できるというニュアンスのことを、もうひとりの女性が言っているということだ。年齢が低くても、免許の取れる国……いや、あんなに小さく見えて、実はもう二十歳過ぎているとか?)

「確かに速いことは速い。しかし、問題も多いことは、あなたも知っているはず」

 タバサは、小さなため息をついて、「シルフィード」の問題を指折り挙げ始めた。

「まず、きゅいきゅい鳴きっぱなしでうるさいし」

(ブレーキ音か? いつもキーキー言うということは、少し危ないな。修理した方がいい)

「物覚えも悪い。どこどこに行ってと命令しても、かなりの確率で方向を間違える」

(ははあ、搭載しているカーナビが古いんだな。昔のやつは、入力してる地図が自動で更新されないから、ちょっと道や建物が工事で作り直されると、とんちんかんなルートへナビしてしまうというからな……)

「それに、燃費が悪過ぎる」

(外国産の車は、大きいだけあって燃料をよく食うというからなぁ……)

「毎日豚とか、鳥とかのお肉をあげないと動かない。しかも十キロ以上」

(そうそう、お肉は大切なエネルギー源だからしっかり食べないと……って、んん?)

 リョウコさんの頭では、ガソリンスタンドの店員が車の給油口に生肉を押し込んでいた。

「それを思うと、こちら(地球)の車はとても安上がり。一台手に入れられるなら、あちら(ハルケギニア)に持って帰りたいぐらい」

「……ええ、車は私も欲しいけど、とりあえずそのぐらいで乗り物の話はやめましょうか。

 なんだか遠い国で、誰かさんが涙目でか細く鳴いているような気がするから」

 地球とハルケギニアに別れていても、メイジと使い魔の絆は切れることはない。感覚共有によってタバサの発言を聞いていたハルケギニアのシルフィードは、ニホンのクルマと呼ばれる騎乗動物に対して、「きゅいぃ……この泥棒猫……!」と、怒りに震えて呟いていた。

 ちなみにこの日のタバサのTシャツの文字は「サスペンスの女王」であった。

「まあ、そんなだから、私は時刻表トリックものはどうもねぇ……タバサは、わりと気にせず読めるの?」

「全然大丈夫」

「そう。で、両方とも欲しいのよね?」

 タバサはこくりと頷く。その目は左右の手に持たれた本の間を往復しっぱなしで、どちらかを諦めるには長い長い年月を必要とするだろう。

「うん、わかったわ。じゃ、タバサは『ゼロの焦点』を買いなさい。私が『ペトロフ事件』の方を買うから」

「……いいの?」

「いいのよ。今月はお洋服とか買う予定がないから、少し余裕があるしね。

 その代わり、家に帰ったら『月は無慈悲な~』とか、タバサおすすめのやつを読ませてね。もともと、タバサと本を共有したくて、ここについて来たんだから」

「キュルケ……ありがとう」

 こうして問題は解決した。

 ふたりは買い物袋三つ分にもなる量の本を清算し、満足な気持ちで古本屋を出ていった。

 その背中に、ありがとうございました~、と声をかけながら――リョウコさんは、貨物船を人力で動かせる人がいたり、食肉を燃料にする車があったりする謎の国の幻影に、まだ頭を悩ませていた。

 その様子に違和を感じた店長が、部下を気づかい声をかける。

「リョウコ君、大丈夫かね? さっきから、しきりに首を傾げているようだが」

「ああ、すいません店長。ちょっと考え事してました。

 ……あの、ちょっとお聞きしたいんですが……どこかの国で、豚肉や鶏肉を燃料にして走る乗り物が開発されたってニュース、聞いたことないですか?」

「はあ?」

 さすがにこの質問には、店長もリョウコさんと同じく首を傾げざるを得なかった。

「何を言ってるんだね。ファンタジー世界で、ドラゴンに騎乗するわけじゃあるまいし」

「そ、そうですよね……あはは……いったい、何と聞き間違えたんだろう、私……」

 肩を落とすリョウコさん。まさか、店長の言葉がドンピシャで正鵠を射ていたなどとは、気付きようのないことだった。

 

 

「図書館で本を借りられたら、一番良かったんだけどねぇ」

 帰り道、アパートへ続くいつもの石段を登りながら、キュルケはひとりごちた。

 その意見に、タバサは頷く。図書館もいいところだと、彼女は知っていた。あの公共施設に出かけ、新聞や雑誌を読んで日中を過ごすことは多い。借りて帰りたいと思う本も、もちろんたくさんある。

 しかし、残念なことに、戸籍を持たない彼女たちには、貸し出しカードを作ることができなかったのだ。

「あっちが利用できていたら、きっとものすごいお金の節約になっていたでしょうにね……」

 それも確かなので、タバサは再び頷く。ただし、その次に、「でも」という言葉を付け足した。

「でも、古本屋を利用し始めたことを、後悔したりはしない。

 あそこもあそこで、いい場所。誰かに不用とされた本が集まり、必要に思う人のところへ買われていく。知識の流転と拡散……これはとても素敵なことだと思う。学問が貴族だけのものとして留まっていたハルケギニアとの、大きな違い」

 そんな壮大なものなのかしら、と思いつつも、思い当たる節がないではないので、キュルケも頷く。

 ハルケギニアでは、平民のほとんどが文字を読めず、学問とも縁がなかった。人間社会において、学はそれ自体が強力な武器である。貴族が平民を六千年の間支配してこれたのも、魔法の力もあるだろうが、学問の力によるところも相当に大きかったはずだ。

 書物自体、向こうでは一冊一冊が、ちょっとした宝物並みの値段だった。それを庶民が、食事一回分以下の値段で

買えてしまう地球という世界は、やはりすごいのだろう。

「それに、古本屋には、図書館にないマンガがたくさんある。

 こちらに来てすぐの頃、剣心×左之助の薄い本を手にした時の衝撃……今でも忘れられない」

「ええ……それを思うと、あなたを意地でも図書館だけに縛りつけておくべきだったと、心から思うわ……」

 タバサが古本屋の中で徘徊したのは、小説コーナーだけではない。マンガも結構たくさん買い物カゴに入れられていたのだが、キュルケはそれについて話題にしたくないため、ずっとスルーを決め込んでいた。

 ついでに言うと、タバサが押入れの天井裏に薄い本用の隠し本棚を設置していることも、毎日掃除を欠かさないキュルケは気付いている。お互いの友情のために、そのスペースは今後も話題にされることはないだろうが、そろそろ本の重みで天井がミシミシ言い始めているので、いつかは何らかの話し合いがされることになるだろう。

「それにしても、あれだけ本がたくさんあるってことは、それを書く知識人もたくさんいるってことよねぇ……。

 まあ、全部が全部、書くのに深い学識を必要とする本ってわけじゃないでしょうけど……ふふ」

 キュルケが突然、口元を小さく隠して笑ったので、タバサはどうかしたのかと、その顔を見上げた。

「ああ、大したことじゃないのよ。本を書く人がたくさんいるんなら、私やタバサも、もしかしたら何か本を書けば出版してもらえるかも、とか思っちゃったの。

 ほら、私、恋歌なら上手に書く自信あるし……自分の詩集とか出せたら、すっごく素敵だと思わない?」

「ああ……確かに、あなたはよく書いていた……」

 魔法学院にいた頃は、気になる男友達ができるたびに恋歌をつづり、それをタバサに見せていたキュルケだった。

 情熱的で官能的、なおかつ甘くメルヒェンな文体で書かれたそれは、しばしば無表情なタバサの耳を赤くさせたものだ。

「こないだね、ジャンのことをたたえる恋歌を書いて、あなたに見せたでしょ? あれ、手紙に添えてハルケギニアの彼に送ったのよ。

 彼が、メンヌヴィルから私を守ってくれた時のことを思い出すたびに、胸に情熱の言葉があふれてくるから、それを彼に伝えずにはいられなかったの。ジャンの中に潜む輝き――曇りのない鏡のような、ジャンの澄んだ眼差し――太陽のような暖かさ……激しくはないけれど、ずっと寄り添ってお互いを磨いていきたいという気持ちを、うまく表現した傑作だったわ」

「えっ。え……あれ、送ったの?」

 タバサがつっかえながら聞き返した。彼女には珍しく、その態度には動揺のようなものがあった。

 しかし、それに気付かず、キュルケは胸を張って続ける。

「ええ。昨日、ジャンからお礼の手紙が届いたわ。手紙のところどころに濡れたような跡があったから、きっと感動して泣いてくれたのね。技術のことにしか興味がないようで、意外とロマンチックなところがあるのよぉ、あのヒト♪」

「ええと、たぶんそれは別の涙……いえ、何でもない。キュルケがそう思うなら、きっとそう」

 タバサは心の中で、ハルケギニアの恩師に、同情の祈りを捧げた。

 ちなみにキュルケがジャン・コルベールに送った恋歌の文章には、『輝く』が十三回、『光』が八回、『太陽のように』が二回、『鏡のような』が三回、『磨きたい』が二回、『滑りやすい』が十一回も使用されていたという。

「それにタバサも、パソコンを使いこなして、結構長い小説を書いちゃうじゃない?

 あれ、何かの文学賞に応募したらどうかと思うのよ。描写は……その、えっと、全年齢向けに書き変えた方がいいんじゃないかとは思うけど、審査員の目にとまって賞とか取っちゃって、本にしてもらったりなんかしたら、お金もいっぱい入って、本も今よりたくさん買えるようになるわよー?」

「それは魅力的」

 でも、事実上不可能だということを、タバサはやはり知っていた。

 図書館で本を借りられないのと、同じ理由で。

「どちらにせよ、私たちには日本の戸籍がない。小説を投稿して、運良く賞が取れたとしても、本を出すまでにどこかで無理が出てしまうはず」

「あー……やっぱりそこよねぇ……残念。社会のシステム化が徹底してるっていうのは、住んでいる人たちには便利なんでしょうけど、私たちみたいなのには不便よね」

 ぶっちゃけ不法滞在者なので、肩身が狭いのは仕方がないのである。

「私は本にできなくとも、趣味で小説を書けるだけでいい。

 インターネットで公開して、それなりに人気が出てきている……感想ももらえるようになったし、こないだはあるユーザーさんが、『挿絵を描いてもいいですか』と打診してきてくれた。お金はもらえなくても、かなり嬉しい」

「へぇ~! それって結構すごいじゃないの! 気に入ってもらえてるって証拠よね」

「うん。今ごろ、頑張って描いてくれているんだと思う。できあがった絵を贈ってもらえる日が、とても楽しみ」

 氷のように動かないタバサの表情が、ほんの一瞬、春を迎えた桜のようにほころんだ。

 

 

 同日、同時刻。O市駅前の広場に、ふたりの外国人が立っていた。

 いや、この表現は正確ではない。ふたりの内ひとりは、厳密には人ではなく、亜人と呼ばれる存在であった。

 砂色の長い髪を背中に垂らした美青年。その耳は、ピンと笹の葉のように尖っていて、長い。

 ハルケギニアの東、砂漠の国ネフテスのエルフ、ビダーシャル。炎天に慣れた彼は、真夏の太陽の下でも額に汗を浮かべず、唇を引き締めてクールな表情だ。

「ジャン・ジャック。これが、サイト・ヒラガからもらった地図なのだが、目的の書籍屋はこちらの方角でいいのだろうか?」

 彼は折り畳んだ紙を広げながら、連れ合いのヒゲの男、羽根飾りのついた帽子をかぶった精悍なジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドに尋ねた。

「ああ、間違いないな。バス・ターミナルと呼ばれる馬なし馬車の集合場所があれで、その横に石造りの空中歩道があると書いてあるから、進むべき道はあっちで正しいはずだ」

 ふたりは頷き合うと、広場から移動し始める。彼らはともに男前で、しかも異国的な服装をしていたので、その様はまるで洋画のワンシーンのようだった。

「私はまだ、この国の言葉に慣れていない。店での交渉はきみに任せて構わないな、ジャン・ジャック?」

「ああ、日本語は完璧にマスターした。大丈夫だ。

 しかし、あなたから……いや、ネフテスの評議会から、地球での商取引に随行するよう依頼された時は、とても意外だったな。あなたたちは、偉い人間ほど、人間の文化を軽蔑していると思っていたのだが」

 ワルドの言葉に、ビダーシャルは苦笑を漏らす。

「悪魔だと信じられてきた『虚無』は、我々に害を及ぼさなかった。そして、我々が接した人間たちは、それなりの礼儀をわきまえていた。もはや、人間を蛮人と呼び続けるのは、時代に合わなくなったということだ。

 それに、今の評議会の老人たちは、積極的に人間文化を取り入れようと考えている。テュリューク統領がまず、この地球世界の『チハヤ・キサラギ』という偶像を崇拝し始めてしまってな……その肖像画を集めた画集、写真集とか言うらしいが、それを仕入れてこいとの指示を承ったのだ。それだけ、今のエルフは人間に友好的だということだよ」

「そうか……しかしビダーシャル殿、そこは『偶像』ではなく『アイドル』と呼ぶのが、ニュアンスとしては正しいようだぞ」

「いや、私もそう思ったのだが、統領はそれで正しいと仰るのだ」

 統領様は、如月千早のライブのチケットを、いつか何としても手に入れるべき神器的なものと解釈しておられるとか、いないとか。大いなる意志涙目である。

「それに、ジャン・ジャック。きみは異文化との交流にかけては、あちらの世界でも指折り数えられるほどの人間だ。我々エルフと地球人類との間も、うまく取り持ってくれるに違いないと期待している」

「……まあ、引き受けた任務は、責任を持って果たすさ。人を裏切ることは、もうしないと決めたんだ」

 ハルケギニアでの数々の問題が解決されたあと、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドは、ハルケギニアから一度去り、東方へ渡った。

 母の遺志を継ぎ、聖地を目指した彼の目標はすでに達成された――母が恐れていたであろう大隆起問題は解決し、彼は求めるものがなくなった。しかし、目標を追う過程で焦りすぎ、自分の国を裏切ったという過去は消えなかった。

 ロマリアに身を寄せたこともあったが、結局、裏切り者として知られすぎた彼には、ハルケギニアのどこにも居場所がなかった。唯一心を許したマチルダ・オブ・サウスゴータという女性とともに旅に出て、東の国にたどり着いた。

 そこには、ハルケギニアにはない文化があり、慣習があり、争いがあった。そこで彼はいろいろなことを学びながら、関わった人たちの争いをおさめる調停者として奔走した。一度、人を裏切った彼だからこそ、争う両陣営のそれぞれの立場に立ち、妥協点を探ることができた。一年も経たないうちに、彼は東方世界に知らぬ者はいない、争いを話し合いで解決する平和の使者となっていた。

 半年前にはマチルダ嬢と結婚し、家庭を持った。家も建て、社会的安定と責任を手に入れた。

 そんな時だ。ロマリアの知己から居場所を聞いたエルフが、ワルドのもとを訪ねてきたのは。

 エルフの依頼ということで、最初は戸惑ったものの、家庭を持った彼には、それを守る責任があった。お金はあってあり過ぎることはない。

 それに、争う者たちの間に入るよりは、危険も少なそうだ。彼は仕事を引き受け、日本語を猛勉強し、そして今日、地球の地面を踏みしめた。

「しかし、ティファニア嬢が『世界扉(ワールド・ドア)』の魔法を使いこなせるようになっていてくれて、助かった。ルイズと顔を合わせるのは、まだ、何というか、気まずいものがあるからな……」

「かつての婚約者だったそうだな。だが、もうお互いに別の相手と結ばれた身だ。いつかはあらためて挨拶に行って、苦手意識を克服しておいた方がいいのではないか?」

「ああ、そうだな……彼女もこちらにいると言うし、観光がてら足を伸ばして、ルイズの様子を見に行くのもいいかもしれない。時間もたっぷりあるのだし、な」

 野心のために余裕を失い、他人を犠牲にしてでも先に進もうとしていた男は、もういない。今ここの日本にいるのは、頼れるナイスガイのジャン・ジャックである。

 そしてその隣を歩くのは、美しきエルフのビダーシャルである――この組み合わせで街を歩くということが悲劇を招くとは、ふたりは少しも思わなかった。

「あ、あのっ」

 ワルドたちの背後から、遠慮がちな声がかけられる。

 振り返ると、素朴な顔立ちの少女がふたり、おずおずと歩み寄ってきた。

 ひとりは黒髪を胸の辺りまで垂らした、丸眼鏡の小柄な娘で、小脇にスケッチブックを抱えている。もうひとりは茶色い短髪で背が高く、肩から大きな鞄をかけていた。

「ふむ、何かご用かな? お嬢さん方」

 貴族として礼儀作法を学んでいたワルドは、自分よりずっと年下のレディたちにも丁寧に応対した。

 その優しい言葉づかいと、ハンサムな容姿とが少女たちの緊張をやわらげ、それからの会話をスムーズにさせた。眼鏡の娘が、安心した様子で口を開く。

「突然すみません。私たち、O大学で美術を勉強している者で……あるテーマのある人物画を描きたくて、そのモデルを探してたんです。

 そしたら、おふたりを偶然見つけまして、あまりに描きたいテーマにぴったりの人たちなんで驚いちゃって……そ、それで、もしよろしければ、絵のモデルになって頂けませんか? お時間は、できるだけかけないようにしますのでっ」

「絵のモデル?」

 ワルドとビダーシャルは、思わず顔を見合わせる。

「どうする、ビダーシャル。僕としては、引き受けてあげても構わないのだが、あなたの都合は?」

「統領から承った用事は、急ぎのものではない。それに、我々にも女性に優しくすべしというマナーはあるからな。……お嬢さん方、我々でよければ、モデルとやらをお引き受けしよう」

 ビダーシャルがそう告げると、少女たちはぱっと表情を明るくして、「ありがとうございます!」と、バスのエンジン音にも負けない声でお礼を言った。

「そ、それじゃ、一気にデッサンしちゃいますから、ポーズの指定をさせて頂いて構いませんか?」

 眼鏡の少女はバッとスケッチブックをめくり、茶髪の少女から鉛筆を受け取ると、絵を描く構えを取った。

「まず、おふたりで向かい合って立って頂いてですね……おひげのお兄さんが、左手をもうお一方の肩に乗せて……」

「ふむ、こうかい?」

 ワルドの左腕は、かつてガンダールヴの平賀才人に切り落とされて、今は義手である。しかし、魔法で動く義手は、本物の腕と変わらぬ滑らかな動きを見せ、その手のひらをビダーシャルの右肩に乗せた。

「そうですそうです。そして、右手で相手のあごをくいっと上げるようにして……あ、そちらのひげのない方のお兄さんは、おひげのお兄さんの顔を見つめるようにして……あと、お互いに少し顔を赤らめてくれると、さらに臨場感が……」

「待て。……いや、ちょっと待ってくれ」

 ワルドもビダーシャルも、その辺で何かおかしな空気を感じた。

「そ、それは、この国の一般的なモデルのポーズなのかな? 僕たちの感覚からすると、その……失礼ながら……少々、不健全なように思われるのだが……」

 男同士が向かい合って、熱っぽく見つめ合う。そんな肖像画は、ハルケギニアにはない。

 ワルドの問いかけに、少女はよくぞ聞いてくれました、とばかりに、目を輝かせて説明を始める。

「一般的ではないですね。実を言いますと、私たちが描こうとしているのは、ある小説の挿絵なんです。物語のワンシーンを絵にするので、登場人物たちがしているのと同じポーズを取ってもらったんですよー」

「小説の挿絵? なるほど、そういうことか。

 しかし、いったいどういう小説なんだい、僕たちがしたようなポーズを、登場人物たちが取っている物語というのは……何となく気になるんだが……」

「あ、見ますか? ネット小説なんですけど、ノートパソコン持ってきてるんで、ごらんに入れられますよ」

 茶髪の少女が、鞄からノートパソコンを取り出し、その画面をワルドたちの方に向ける。

 すでにインターネットに接続しており、画面には文字のびっしりと並んだページが表れていた。どうやら小説投稿コミュニティーのようで、タイトルと作者名があり、その下に本文が横書きで始まっている。

「どれどれ、ちょっと読ませてもらおう。ビダーシャル、あなたも見るかい?」

「いや、日本語の読み書きについては、まだ勉強を始めたばかりだ。たぶん見てもわからない」

「じゃあ、僕が朗読しよう。なになに……タイトルは『聖地への熱望』」

 

 

 聖地への熱望 第三話(作者:束さん)

 

 聖地を捜し求めるワルディー子爵は、とうとう聖地を管理するエルフ一族の幹部、ビドァーサルと接触することに成功した。

 砂漠の真ん中にたたずむ石造都市、その中心たる総評議会本部の一室で、ワルディーはビドァーサルを問い詰める。

「エルフよっ、僕は何としても、きみの隠している聖地を探検したいんだっ!

 そのためなら、力に訴えることも辞さないっ! さあ、入らせてくれ、狭く奥深い聖地に!」

 ワルディーはビドァーサルの肩をつかむ。野心にぎらついた目が、羽根飾りのついた帽子の下に輝いている。

 ビドァーサルは逃れようと後ろに下がったが、ワルディーのより強い力で押され、転倒してしまった。エルフは精霊魔法が使えるため、魔法使いとしては人間より優れている。しかし、肉体の線は細く、力はあまり強くはない。鍛えあげた元軍人のワルディー子爵のたくましい腕、筋肉で引き締まった重い肉体が、上から覆い被さってきては、ビドァーサルは非力な女性程度の抵抗しかできなかった。

「無駄だ、逃がさない……聖地はもう目の前なんだ! ほら、もう手が届く場所にある……!」

 ワルディーの手が、ビドァーサルのズボンの中に入り込む。尖った耳をぴくぴくと震わせ、ビドァーサルは必死の抵抗を試みる。

「ううっ、や、やめろ蛮人っ! そこは聖地などではないっ……不浄なる『悪魔(シャイターン)』の門だぞっ……ゆ、指を入れるなあっ……!」

 女性のような甲高い悲鳴が響き渡る。エルフは美しい種族として知られ、男性でも女性のような中性的な容姿である。とりわけ、ビドァーサルは美しい青年で、ワルディーの聖地への欲望を熱くたぎらせた。

 そして、ワルディーは見つけた聖地を深く掘り進めようと、堂々たるスコップを

 

 

「…………………………」

「…………………………」

 ワルドは、本気になったガンダールブと対峙した時以上の緊張を感じた。

 ビダーシャルは、夏の日差しにも流さなかった汗を、額に流した。

 少女たちは、ものすごい笑顔で、男ふたりの背後から黄色い声を降らせた。

「ネットで今すごく人気の、『束さん』のBL小説の挿絵を描かせてもらう許可を、私もらっちゃったんですよ~!

 この聖地への熱望シリーズ、ホント大好きで、ぜひ全力でいい絵を描きたくって……ほら、このワルディー子爵がおひげのお兄さんに、ビドァーサルがひげのないお兄さんにイメージぴったりでしょ?」

「本当はカラミのシーンのモデルをやってもらいたかったんですけど、さすがにそれはって思って、ふたりの接触のシーンを……でも、カラミを見たら、おふたりもやってみたくなるかも! ワルディー子爵の攻めがすごいんですよ、ビドァーサルを乱暴に扱ったかと思ったら、優しい言葉をかけてみたり! でも、そのあとのクライマックスもいいんですよー。精霊魔法の『反射(カウンター)』を応用した『反転(リバース)』という術をビドァーサルが使って、タチとネコを逆転させて、一転してワルディーがいじり倒されちゃうんです。この展開は、私たち愛好家の中ではもう伝説ですよ!」

 すごいよねー、とか仲良さげに笑いあう少女たち。

 ワルドは一歩引いた。

 ビダーシャルは、その地の精霊と契約した。

 ふたりは頷き合い、少女たちの隙をついて、一気に踵を返して走り始めた。

 走る、走る。鍛えあげたワルドの脚の筋肉が、地を蹴りどんどん加速する。ビダーシャルも風と地の精霊を利用して、異様な速度での疾走を可能にした。

 彼らは逃げた。地球という新たな土地で出会った、得体の知れない禍々しいものから。

「ジャン・ジャック。もはや一刻の猶予もならん。目的のモノを手に入れて、この世界から早く離脱しようではないか!」

「ああ、賛成だ。ルイズに会うとか、そんな悠長なことは言っていられぬ!」

 ふたりの意見は一致した。「こんな恐ろしいところにいられるか! 俺は自分の世界に帰るぞ!(意訳)」ということである。

(しかし、あの作者の「束さん」……いったい何者なんだ……その名に聞き覚えがあるような、ないような……)

 ふたりは首を傾げたが、その答えはついに出てこなかった。


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