赤城の視界に入った物は矢羽根であった。
そして、天井。
一本の矢が突き刺さった弓道場の天井を見上げては、意識が覚醒する。
―― 片付けておきなさい
記憶の最後に在るのは、冷たい言葉と小柄な背中。
その頃には、ようやく自分が仰向けに倒れていると想到する。
起き上がり、頭を振る。
弓道場へと散らばっているであろう惨憺たる矢羽根の有様に思い至り、
面倒なと眉を顰めた視界の端、的場あたりに蹲る、見慣れた銀の色が在った。
自らが昏倒していた射場より遥か、矢道、的場と、的に至るまでに
さんざと散らばる数多の矢を、拾い集めている誰かが居る。
「何をやっているのですか、翔鶴」
純粋に疑問に思った声色で問い掛ければ、相手の背筋が伸びた。
「あ、後片付けを」
直立不動で応える姿に苦笑が漏れる。
場内に動きは消え、朝の静かな空気だけが在った。
「ありがとうございます」
かけられた言葉に、目を見開き大きく頷く謎の生物の生態に疑問を持ちながらも、
それはそれとしてと、視線を動かし鍛錬の成果を視界に入れる。
赤城の口から溜息が漏れた。
八寸の白地に黒丸のあるそれは、綺麗なままにそこに在る。
「ああ本当に、憎らしい平面」
星的、結局今日は一度たりとも、掠る事さえも無かった。
陽光に照らされた弓道場へ、何処からか朝告鶏の声が響いてくる。
『74 猶予の月』
気が付けば龍驤が居らぬ。
何故にあやつはあの目立つ風貌で、器用に気配を消して行方をくらませる事が出来るのか
龍驤の乗員に中野学校出の者でも居るのかと、益体も無い事を考える。
それはともかくとして、何処で駄弁っておるのかと呟きながら執務室を後にした。
埠頭で水雷の教導が行われておる。
振り向いて、射撃、振り向いて、射撃。
「そこ、遅れていますよ」
「だから狙わなくていいって、同じ動作で同じ場所に撃つ事だけを考えてねー」
橙の制服を着た軽巡洋艦が3隻、2隻と1隻、長姉は視界の隅で吊るされておる。
そして列に並び、何やら鬼気迫る様相で連装砲の素振りをする駆逐艦たちの姿。
どうにも普段と違う様相に、教導にあたっていた神通と那珂に問い掛けた。
「龍驤さんですか、ついさっきまで此処に居た、と言いますか……」
眉間を抑えて曖昧な内容を紡ぐ神通に、隣の那珂が言葉を継いだ。
「駆逐に混ざって水上射撃やっていったんだよ」
あまりの違和感の無さに、的を撃ち抜くまで誰も気付かなかったと言う。
ご丁寧に水干を脱いだ朝潮型的な風貌で、巡航速度から振り向きざまの速射。
「素晴らしい腕前の艦が居たのですねと、よく見たら龍驤さんなんですよ」
虚ろな目で笑っている川内型2隻と言うのも、珍しい光景じゃな。
見れば並んで素振りをしている駆逐艦は、一部が涙目に成っている者も居り。
教導側として色々と効果が高いのは認めますが、護衛艦とか水雷戦隊と言う存在意義に
対して、かなり強烈なダメージの入った光景でしたと神通が語る。
遠い目をした那珂が口を開いた。
「龍驤ちゃんって、そこらの駆逐を越える砲戦のキャリア積んでいたからねー」
そう言えば、艦の昔から吶喊砲撃馬鹿じゃったなと思いだす。
いかん、頭痛がしてきた。
とりあえず邪魔にならぬ様にと、行き先を聞いてそそくさと移動する。
まったく、あやつは何をやっておるのじゃ。
海岸縁に、あまり見ない艦の姿が在った。
焦げ琥珀の髪を後ろで短く括り、特型を示す落ち着いた色合いの水兵服。
特Ⅱ型2番艦の敷波じゃな。
飴の袋を持ち、同型の綾波と一緒に飴玉を舐めておる。
聞けば、バンコクから睦月型2番艦の如月と一緒に船団護衛で訪れたと、
自由行動なので、たまたま空いていた特型組と一緒に買い物に行くと言う。
目的地はセリア目抜きのプリティ通り、そう言えば外出許可を出したのと思い出す。
現在、吹雪が叢雲と如月を呼びに行っているとか。
それはともかくとして、龍驤を見なかったかと尋ねてみた。
「龍驤さんでしたら、さっきまでここに居ましたよ」
飴玉を舐めながら綾波が応え、敷波が言葉を継ぐ。
「んー、何か突然アタシの頭を抱えてワシャワシャーッてやって行ってさ」
濃い笑顔を浮かべたまま、飴玉の袋を押し付けて去って行ったらしい。
何をやっておるのか。
変な所で不器用なあたり、加賀の同期なのじゃなあと溜息を吐く。
「まあ何ていうか、優しいよね龍驤さん」
苦笑を伴う言葉の向こうで、真顔で首を横に振る綾波が見えてしもうた。
行き先を聞いて歩んでみれば、白い航空母艦が居った。
帰投した所に、龍驤が迎えに出て居ったと聞く。
突然の不在はこのためじゃったかと得心が行き、連報相ちゃんの不足を反省する。
何やら散々に乗せて満足そうなグラーフが曰く、弓道場の方へ向かったらしい。
そんな事を話している内、何やら艦影が視界に入った。
「グラーフ、逢いたかっタッ」
茶の長髪を後ろで括り、紅色のカザカンを身に纏う異国風の姿。
洋弓と甲板の艤装は航空母艦であることを示し、何処か見覚えのあるカタパルトが在る。
首元のチョーカーに、鷲の翼を模したタイピンが見えた。
「おおッ」
白と紅が感極まるが如く情熱的に抱き合い、映画の場面の如き光景が生まれる。
切り取った絵画の如き美しい光景も暫く、やがてグラーフが身体を離し、
その何者かの両肩に両手を掛け、慈しみを秘めた冷静な顔で問い掛けた。
「で、誰だ貴様」
「はじめましてッ、アクゥイラです」
初対面かい。
聞けばイタリアの商船改造、大型なので分類上は正規空母だと言う。
グラーフ・ツェッペリン級2番艦、ペーター・シュトラッサーの部品を流用して
完成する予定だった未成艦、何と言う未成艦尽くしか。
何故、わざわざこれを建造した、何故、どうやって此処に着任した。
聞けば聞くほど、イタリアの異様に偏った政治力を感じる話じゃ。
流石は火薬の庭の中東を抜けて、珈琲豆を買い入れる工作員の居る国じゃな。
まあ何にせよ悩むのは龍驤と提督じゃ、別にかまわんか。
「そんなわけで、グラーフの妹の様な存在なのでスッ」
「ふむ、つまり龍驤型3番艦と言う事だな」
撃てば響くような即答じゃった。
何やら龍驤型が三国軍事同盟を締結しようとしておる、泊地の枢軸か。
「え、ええと、龍驤型、ですか」
「うむ、話せば長く成るな」
だから考えるな、感じろとか無茶を言う2番艦、待て、納得するなそこのイタリア。
止めるべきじゃろうかと考えて口を開こうとして、ふと、2隻の胸部装甲を見て止まる。
―― あやつ、呪われておるのじゃないか、割と本気で
つまりは龍驤じゃからなあと、甜瓜の如きたゆんたゆんを見て納得してしもうた。
弓道場に向かえば吹雪が居った。
何でも、如月を探して居るらしい。
「加賀さんと一緒に、弓道場の方に向かったと聞いたんですよ」
記憶の中の如月を、何と言うか可憐と表現するべきか、そんな駆逐艦の姿を思い描き、
弓でも見ているのかと思いながら互い違いに扉を開けば。
重苦しい空気が立ち込めて、綺麗な正座で射場に相対する2隻。
長く、緩やかに波打つ髪に3枚羽の髪飾りが揺れる。
制服の如く青い顔をしている航空母艦の前には、冷たい視線の睦月型2番艦が居た。
そっと扉を半分締めて、中の様子を伺う。
「―― 加賀さん」
は、はいッと珍しく怯えた音色が加賀の口から漏れた。
「これは、何ですか」
2隻の間には、紐の付いた布地が置かれていた。
「りゅ、龍驤の、下着、です」
口に出せば赤面し、消え入りそうな声で俯く正規空母からは、
どうも母親に艶物を見つけられた男子中学生の如き雰囲気が醸し出されておる。
「一航戦として、そして乙女として、その様な行動が自らに相応しいと思いますか」
どうも所持しておったらしいと、会話から察する。
「まあ、駆逐艦の私では、加賀さんに注意するなど烏滸がましいとは思いますが」
「い、いえ、そんな事はありません、決して」
顔色を青に戻し、全力で首を振る一航戦の姿を、何か見なかった事にしたい気持ちで。
そっと扉を締めた。
吹雪と顔を見合わせ、静かに頷き合う。
ここまで来たのなら、恐らく龍驤はあそこに居るじゃろうと想到が在る。
「じゃ、私は叢雲ちゃんを探さないといけないので」
吹雪と別れ、後にした弓道場から誰かの悲鳴が聞こえて来た。
やはりと言うか弓道場の向こう、龍驤の巣に見慣れた水干の姿が在る。
「あ、ちょっち瑞鳳と入れ違いで一航戦行ってくるわ」
「待ってそれ死亡フラグゥッ」
尖り頭の陰陽師と馬鹿を言いながら、後ろで黒尽くめの揚陸艦が笑っておる。
まあ悪企みも終わった様じゃなと察し、遠慮なく言葉の端に乗ってみた。
「そうか丁度良い、なら吾輩が
「ゲエェッ、利根ッ」
言いつつ肩を組み、逃げられない様にガッシリと捕まえる。
「ああ、龍驤さんが
笑いながら黒い事を言う隼鷹が居った。
そして、ちょ、ちょい待ちと焦った様相で口を開く逃亡者。
「働き過ぎだから休め言うてくれた、優しい利根は何処逝ったんやッ」
「日々の暮らしの中で擦り減って消えて逝ったわッ」
即答じゃった。
何か思考よりも早く自然に口から出た感が在る。
「畜生、納得してしまうッ」
天を仰いだ嘆きの姿に、どこまでも空は高かった。
(TIPS)
龍驤の巣から紫煙が伸びる。
廃材再利用で作られた武骨な灰皿の横で、煙に巻かれているのは赤と黒。
核心の外側を撫でる様な会話の末、そんなわけでと、あきつ丸が言葉を紡いだ。
「そのうちブルネイ鎮守府群に、大規模な査察を入れたいのでありますよ」
出てきた言葉に、エクトプラズムの如く煙を吐き出した龍驤が言う。
「実は空母は第一鎮守府の所属やったんや」
「露骨な嘘しか出せないあたり、切実さが偲ばれますな」
暗く笑いながら細かい事を語り合う所に、影が伸びた。
紅白洋装仕立ての制服に、尖り頭の軽空母。
「あきつサン、名古屋行くんだって」
喫煙所に訪れた隼鷹が、開口一番に愉しそうな問い掛けを置いた。
「何やっ手羽先、初耳や田楽味噌、お土産頼んで良いか名古屋コーチン」
「あ、アタシは土手煮と良い感じのおサケが良いな」
何かやたらと濃い味のセレクトですなと言葉が在る。
「憲兵も長いですが、流石に集って来た艦娘ははじめてでありますよ」
「うん、実は隼鷹は第一鎮守府の所属なんや」
「即座に切り捨てる潔さは惚れ惚れとしますな」
頷く揚陸艦の前に、雷に撃たれたかの如き衝撃の顔芸をしている軽空母。
「そんな龍驤サン、四航戦の絆を忘れてしまったのかいッ」
「ウチ二航戦ですぅ、蒼龍パイセンの後釜ですぅ」
「二航戦にも居たよなアタシ、アイム戦友、アイム腐れ縁ッ」
全力で切り離しに行っている龍驤に、派手なリアクションで追いすがる隼鷹。
「あ、ちょっち瑞鳳と入れ違いで一航戦行ってくるわ」
「待ってそれ死亡フラグゥッ」
そして腰まで下げた両掌を地面に向けて、お断りしますと距離を開けた龍驤に
煽り顔の横、後ろからガッシリと首周りへと腕を回す航空巡洋艦が居た。
「そうか丁度良い、なら吾輩が
昨今は、絹を裂く様な悲鳴が泊地の名物であると言う。