水上の地平線   作:しちご

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邯鄲の夢 品

湯煙の漂う中、豊かな肢体が長門の隣に座り込む。

 

赤金の髪は結い上げられ、手拭いで包まれ湯に浸からぬ工夫がされている。

軽く息を吐く音の通った湯舟には、脂肪で作られた豊かな膨らみが浮いていた。

 

第一本陣、入渠ドック。

 

防衛戦も未だ序盤、修復材を水雷戦隊に優先的に融通している状態のため、

かすり傷程度の大型艦は、ドックで修復を受ける次第と成っている。

 

「髪は、自分で結えるのだな」

 

手持無沙汰な時間を持て余していた風情の長門が、サラトガに話しかけた。

 

そんな長門の黒髪は、容赦なく湯舟に浸かっている。

 

通常の湯ならば髪が痛むために言語道断な有様ではあるが、

入渠ドックに満ちているのは湯ではなく、低濃度の霊的物質。

 

仮に頭頂まで浸かろうとも、特に問題は無い。

 

「龍驤みたいな事を言いますね」

 

苦笑に言葉が乗れば、きまり悪げに頬を掻く問い手が居る。

 

「まあ確かに、アイツも私もそこらへんは雑で極まりない」

「泊地では機会が在る度に、彼女の髪を私やカガが結っているんですよ」

 

変な所で無精者と言うかと、軽い溜め息。

 

「お前も随分と、龍驤に執心しているよな」

「何といっても彼女は、私の最大の戦果ですからねー」

 

伺うような問いには、豊かな胸を張っての得意気な言葉が在り

その妙に幼い仕草に、長門がつい頬を緩めた。

 

暖かな湿気が満ちる空間に、柔らかい静寂が訪れる。

 

かぽんと、何かの音が湯気に満ちるドックに響いた。

 

「To put them simply, Ryujo is a force for going forward」

 

―― 簡単に言えば、龍驤とは前に進むモノ。

 

ぼそりと、小さく呟かれた言葉には、真摯な色が乗っていた。

 

「空母なのにか」

 

それだけを聞けば、航空母艦にあるまじき有様。

 

「あの時代、あの戦場で、私たちの攻撃はどれほど当たりましたか」

 

柔らかな笑みで、諭すような言葉に、長門の言葉が詰まる。

 

魚雷も、砲弾も、何十、何百と撃ち出してなお当たるとは断言できない。

 

戦況にも因るが、総じて命中率は1割を切る。

当然ながら、対象を移動目標に限定すればさらに低い。

 

50を放ってようやく当たる、100を放ってようやく沈む。

 

動かない敵に、夜戦で、圧倒的物量で、制空圏下で、様々な工夫で僅かでも

命中率を上げる必要があるほどに、話に成らないほどに、見事に外れる。

 

航空戦力ですら、水平爆撃に於いては動く相手に無力極まりなく、

 

それ故に、圧倒的な命中率を誇る急降下爆撃は戦術の革命と言われる。

 

「どうせ当たらないのだから、前に出ても変わらない」

 

そして、非常識極まりない結論が導かれた。

 

「理屈はわからんでもないが」

「普通は実行しませんよね」

 

呆れた様な笑いが、軽く語り手から滲む。

 

そして事実、彼女は沈まなかったと言葉を繋げた。

 

「私たちキャリアーは皆、航空隊を我が子と表現します」

 

母と子の様に、航空母艦と言う名前の通りに。

 

しかし、龍驤だけは違うと。

 

「彼女は前に出ました」

 

何故、前に出るのか。

 

「初期の空母だからな」

「ええ、もちろんそれが事の発端だったのでしょうけど」

 

初期とはつまり、航空母艦と言う艦種の存在しなかった時代、

当然の如く乗員は別の艦種の経験しか持っていない。

 

航空母艦龍驤の乗員は、主に水雷戦隊の経験者で占められた。

 

故に隙あらば砲撃をし、無理にでも夜間に発着艦を試みる。

潜水艦を見つけたら何故か砲をぶっ放した。

 

完全に足柄の同類である。

 

そう、航空戦隊と言うよりは、水雷戦隊としての運用に極めて似通っている。

 

「装甲の薄い航空戦艦か、アイツは」

「航空駆逐艦と自称するのも、意外と本音なのかもしれませんね」

 

いつ魚雷を積み込むか知れたもんじゃないと、苦笑が響いた。

 

一息、湯舟の壁にもたれかかったサラトガが、

軽く見えない空へと手を伸ばし、湯舟に波紋が出来る。

 

何故、前に出たのか。

 

「航続距離を僅かでも減らすため」

 

大戦に於いて、練度の低い航空隊を任されたが故の、苦肉の策でも在った。

 

「砲撃に参加し、対空砲火で制空を支援するため」

 

しかし、戦場に一本でも多くの砲を、僅かでも短い距離をと。

 

「彼女の運用は、常に航空隊の負担を減らす方向での意図が在った」

 

艦が隊のために全てを捧げ、そして、隊は艦のために全てを捧げた。

 

欠陥空母とまで言われた劣悪な操作性を、非常識な練度で補い、

教導艦としても名を遺すほどに、航空隊は真摯に飛び続けた。

 

龍驤ほど、乗員を酷使した艦は居ない。

龍驤ほど、乗員を慈しんだ艦も居ない。

 

親と子ですらなく、左右の腕の如く密接に繋がったそれ。

 

航空母艦と航空隊ではなく。

 

全ての乗員を纏め、龍驤と言う一個の戦力としか表現できないほどに。

 

「だから妖精は、彼女を慕うのです」

 

どれほど無惨な扱いをされようとも、

それが必要だと、自分自身が求めているのだから。

 

「羨ましかった、のか」

 

長門が、得心がいったと零した。

 

そしてサラトガが、静かに頷く

 

「ええ、あの時代、あの世界でしか通用しない」

 

それは、兵器の発達と共に失われた仇花の如き生き様。

 

「それでもそれは確かに、航空母艦の理想ですから」

 

音の消えた浴室に、遠く砲撃の音が響いていた。

 

 

 

『邯鄲の夢 品』

 

 

 

いつからやろうか、空が赤く見える様に成ったのは。

 

そんな事を考えながら、龍驤が雲龍に抱えられていた。

 

赤い空、黒い海、蠢く霊魂を視認するのに、もはや視界を切り替える必要も無い。

抱えられたままに伸ばした手は、記憶に在るよりも白く見える気がする。

 

陰陽に曰く、黒は陽、白は陰。

 

全てを内包する、生命としての黒と

何一つ存在しない、死を表す色の白。

 

そして、乳は定位置に置かれている。

 

「うん、そろそろ降ろして貰えんかな」

 

乳圧に僅かに残った生命力まで潰されそうやと、艦娘型抱きぐるみがほざいた。

 

動かない雲龍に、ここらへんでええからと言葉を重ねる。

それでも動かない自称弟子に、そっと静寂で時間を待つ。

 

「でも、師匠は、足が ――」

 

絞り出すような声が、龍驤の頭上から零れた。

 

抱かれぐるみが軽く息を吐き、腕を捻って頭を軽く叩いてから、そっと戒めを外す。

 

二の足が地面に着き、途端、軽くよろめいた。

 

慌てて支えようとする正規空母を、身振りだけで抑えて姿勢を正す。

 

龍驤の身の内に、泥の様な何かが足を染めた感触が在った。

 

強く、踏みしめる。

 

さて、このよくわからない身体には、一体何が巡っているのだろうか。

 

赤い水干の艦娘からは、もはや苦笑しか零れない。

 

「大丈夫や」

 

諭すような言葉に、抱えて居たモノが言葉を失う。

 

そのままに埠頭へと向かう横、雲龍が歩調を合わせば、

会話の無い歩みに耐えかねてか、小柄な方から言葉が漏れた。

 

「天城は、その内に来るやろう」

 

16世代型建造式に於いて、未だ報告の無い艦の名を挙げる。

 

雲龍型の姉妹艦の名。

 

「葛城も間を置かず、そんな気がすんねん」

 

雲龍が、常日頃に気に留めていると知っているが故の言葉。

 

だからと言う言葉は無く、無言の中に響くのは足音だけ。

そのままに数歩の距離を渡り、雲龍が口を開いた。

 

「征かなくても、良いと思う」

 

軍艦としてあるまじき発言だったかと、雲龍の表に軽く羞恥が乗る。

 

「妹たちに、師匠を紹介しないといけないし」

 

それでも何かを伝えようとして、何とも言い難い言葉しか出てこない。

 

龍驤の顔に、柔らかな苦笑が在った。

 

「雲龍は、優しい子やな」

 

軽く頷いて、再び歩み始める。

 

一航戦(ウチら)に似なくて、本当に良かった」

 

零れた言葉が、風に乗って消えた。

 

そして静寂のままに進み続ける。

 

「よう」

「暇そうやな」

 

埠頭の前に、提督が居る。

 

「人間の身じゃ、埠頭までしか出てこれないからなー」

 

連日の業務で忙殺されていた互い、心にも無い言葉を交わす。

 

「被害を受けながら、じりじりと数を減らし続ける」

「うん、被害を受けながら遅延戦闘、それぐらいしかできん」

 

やがて敵味方共に限界を迎え、戦場は消えるだろう。

 

問題は、次の侵攻までに回復可能な被害に抑える事が出来るかどうか。

 

「それで、いいんじゃないか」

 

やるだけやってるし、どこからも文句の付け様が無いと提督が嘯く。

 

「つーてもヤツら、固まっとるからなー」

 

報告に在る深海の軍勢には、妙に指向性が在る。

このままなら、全てを薙ぎ倒した後にボルネオ島を直撃する。

 

人類は生き残るだろう、日本も生き残るだろう。

 

しかし、ボルネオ島は地図から消える。

 

「指揮官、というか頭が居るって話だな」

「まあ、だから言うてもどうにもならんけどな」

 

筆頭秘書艦が、肩を竦めてそう言った。

音の消えた埠頭に、僅かな冷気が混ざった様な気がした。

 

「諦めが肝心だと思うぜ」

 

提督の声色に滲む、僅かに隠し切れない心が龍驤の視線を下げる。

 

地面に、線が引かれていた。

 

他の誰にも見えない、一本の線。

 

ここで素直に踏み止まり、防衛戦に参加するのが最も賢明な選択なのだろう。

軽空母とは言え1個の航空戦力、間違いなく有効な遣い方が出来る。

 

「不器用でな」

 

何せ加賀の同期やからなと、声に出ない内心。

 

「前に出るしか、出来る事を知らん」

 

そして、何の気兼ねも無く踏み越えた。

 

霊的な視界の中、周囲の霊魂が喝采を挙げる。

 

―― それでこそ龍驤だと

 

我らは前に進むモノ、と。

 

妖精が、怨霊が、世界の負の側に在る諸々が騒ぎ立てる。

 

「首狩り戦術か」

「ちょいと有象無象を掻い潜り、指揮官の首を獲ってくるわ」

 

笑いながら、夢の様な事を言い合った。

 

「被害は拡散するな」

「総数では減るやろ」

 

軍勢を統べている頭さえ潰せば、妙な指向性も無くなると。

 

「幾つか小国が地図から消えるか」

「ボルネオ島は、残るんやないか」

 

提督が天を仰ぎ、肩を竦め、息を吐いた。

 

「出来んだろ」

「まあ無理やろな」

 

当然の様に、言葉。

 

有象無象とは言うが、海域を埋め尽くす軍勢である。

 

「でもまあ運が良ければ、案外何とかなるんやないかな」

「うわあ、雪風や時雨でもドン引きする幸運を期待してやがる」

 

信じていれば奇跡は起こるらしいでと、白々しい言葉に笑い合い、手を出した。

 

軽く互いに打ち付ければ、埠頭に音が響く。

 

そのままに懐から煙草を取り出し、口に咥える前に、

龍驤の背後から伸びた手が取り上げた。

 

同じぐらいの背丈の誰かは、火を点けて一息吸い、そのままに吐き出して消す。

 

「やはり、煙草は好かんな」

「何してくれとんねん、利根」

 

恨めしい言葉に、馬鹿が突っ込みそうじゃと思ってのと、笑った。

 

「筑摩に恨まれるんは嫌なんやけどな」

「何、さきほど説き伏せて来たわ」

 

吸殻を提督に渡す利根の向こうに、数隻の艦娘が近寄ってくる。

 

「龍驤サーン、相棒がご入用だろ」

「壊滅したら逃げるからね、期待しちゃ駄目よ」

 

軽く言ってくるのは隼鷹と飛鷹、既に出来上がっている様にも見える。

 

酒臭いわと叫ぶ横から、軽巡洋艦が声を掛ける。

 

「決戦ですね」

 

そんな神通の後ろに、貼りついたような胡散臭い笑顔の川内が居た。

 

「ちぇいさ」

「あぅ」

 

そして、謎の当身で意識を刈り取って、倒れそうになる妹を両手で支える。

 

「もう一度先に沈まれるのは、流石に勘弁だよ」

 

言いながら身柄を提督へと渡しつつ、駆逐艦に旗艦交代を告げる。

 

「距離的に、夜戦の1回ぐらいは期待できるよね」

「ブレんよなあ、キミも」

 

第二艦隊旗艦として、川内が名乗りを上げた。

 

「はーい陽炎隊、また貧乏籤でーす」

「この泊地に来てから、充実しているのだか地獄なのだか判断に迷いますね」

 

「私に思い残す事など少ししか無しッ」

「昨日屋台で食べ損ねた品目の事じゃないでしょうね」

 

付属するのは死んだ魚の眼をした陽炎型長女と次女、そして随伴艦志望2隻。

 

そこへ雲龍を押しのけて、白い空母が歩み寄る。

 

「姉妹の絆の見せ所と聞いた」

「だからちょっと待て自称妹」

 

飄々としたグラーフに、龍驤が堪らずと声を返した。

 

「アレだ、ドイツ艦が置物に終始するのも、それはそれで後々問題に成るだろう」

「嫌な理由を持ってくるなあ」

 

結局のところ、戦争が終わるのなら日独の国交もある程度は回復させる必要が在る。

 

誰かが血を流さねば、話も纏まるまいと語り、

 

眉間を揉みながら呻く暫定長女の向こう、自称次女が

私もと突っ込んできた推定三女を押し返していた。

 

その横を、赤と青の正規空母が通りすがる。

 

「キミらは駄目」

「承知していますよ」

 

赤城が、涼しい顔で言う。

 

泊地正規空母本隊は、これより本陣に移動する所であった。

 

「まあ、後ろは任せておきなさい」

 

通りすがり、声を掛ける加賀と軽く拳を突き合わせる。

 

そのままに通り過ぎ、後ろを激励を飛ばしながら翔鶴と瑞鶴が追いかけていく。

 

「残りの空きは、バトルシップが2隻デスネー」

「足は在りますし、少なくとも邪魔には成りませんよ」

 

気負い無い言葉で、金剛と霧島が提督の横を通り過ぎた。

 

「他2隻はどうしてんねん」

「叩きのめしてきました」

 

軽い龍驤の疑問に、涼しい顔で霧島が応える。

 

「なら大丈夫やな」

「流すのかそこッ」

 

涼しい顔で流した龍驤へ、提督が思わずと突っ込みを入れた。

 

「これで12隻、と」

「立派に空母機動部隊だねー」

 

華麗にスルーを続ける秘書艦の嘯きに、飲酒母艦が軽く所感を漏らす。

 

「ニ航戦、は既に蒼龍らが居るしなあ」

「四航戦は、日向サンらが名乗ってるか」

 

そしてくだらない事を言い出した所に、飛鷹が口を出す。

 

「逆に考えるのよ、後日伊勢姉妹も誘いましょ」

 

「うわ、この娘ってば帰ってくる気満々や」

「弁慶張りに立ち往生した飛鷹に言われると説得力あるわー」

 

揶揄いの混ざる返答に、あんたらねーと、

軽空母3隻が埠頭で姦しく騒き続けていた。

 

 

 

(TIPS)

 

 

 

ほな逝くかねと、気楽に言う旗艦に締まりが無さすぎると叫ぶ隼鷹の向こう

神通を抱えたまま金剛と会話を続ける提督が龍驤の視界に入る。

 

しばらく見ていれば、何とももどかしい空気が在った。

 

ふと、眺めていた龍驤が思い付いたような表情を見せ、何かと問う声に忘れ物がなと返す。

 

そのまま停滞している空間に歩み寄り、声を掛ける。

 

「何や、両手に花やないか」

「片手に失神されているあたり、微妙に喜べない」

 

言いたくないが、地味に艤装が重いと。

 

切実な言葉に、長い付き合いの筆頭秘書艦が苦笑を零す。

 

「右手と、左手」

 

そしてそのまま、花を指し示すような動作と共に、言葉を繋げた。

金剛も、提督も、何を言いたいのかと察するために言葉を待っている。

 

「真ん中は、空いとるな」

 

そして言うなり、提督の胸ぐらを掴み上げた。

 

背丈が足りないから、引き寄せる。

 

厚底の艤装の上で、軽く爪先立つ。

 

周囲の視線を集める中、時間が止まった。

 

動きを止めた世界で、視線だけが二人へと注がれ続ける。

 

「キミ、ミント噛み過ぎや」

 

凍り付いたような静寂に、一言が過ぎた。

 

そのまま加害者が身を翻し、次いで横目に金剛へと声を掛ける。

 

「空いたで」

 

そして赤面した高速戦艦が、声に成らない悲鳴を上げる姿を背後に

眼を見開いた僚艦へと、カラカラと笑いながら歩み出した。

 

「か、帰ったら覚えてなさいよッ」

 

凝視していた天津風が提督に向かって意味不明に叫ぶ。

 

同時、提督の首筋へと、視認できそうなほどの殺気が叩きつけられた。

 

見れば爆乳エルフの窓から、加賀が弓を構えている。

 

蒼白に成る提督の視界の先、新編四航戦抜錨するでと気楽な掛け声が在り

次いで両肩を掴まれれば、その視界には赤面し切羽詰まっている様相の金剛の顔。

 

後の事は言うまでも無く。

 

龍驤は、何か悲鳴だか歓声だかわからない声を小さな背中に受け流しながら、

 

「顔が赤いで」

「シャラーップ」

 

少し遅れて追いついた金剛と共に、海原に舵を切った。

 


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