水上の地平線   作:しちご

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56 追憶の悲惨

「いつか、こんな日が来るとは思っていました」

 

日も高き熱帯のブルネイでありながら、弓道場は氷室の空気を満たしていた。

居合わせた翔鶴は頬を流れる汗を識りながら、身体の芯まで凍える冷たさを知る。

 

今、弓道場で相対する姿は二つ。

 

半身に成り引き手を腰、軽く握った拳を顔の前に置く赤城。

甲を相手に向けるのは、およそ人体の柔らかな部分を守るためであろう。

 

捌きの腕は身体の前面に、片足に重心を集め、肩に持ち上げる様に拳を引くのは加賀。

ある程度の要領はあれど、それでも打突に重きを置いている事が伺える。

 

何故こんな事になってしまったのかと、五航戦姉妹が答えの無い問いを脳内に繰り返した。

 

「前から思っていましたが」

 

極北の空気の中で青い方が、平素と変わらぬ声を出す。

 

「赤城さんは、漬物石に丁度良いですよね」

 

意味は分からないが、何だか凄い挑発であった。

 

ずんと、赤城を中心に重力が増したかの如き圧力が在る。

肩口に乗せられ射出を待ち構える加賀の拳が、さらに引き絞られる。

 

煮えたぎる釜の如くに変質した弓道場の空気に、翔鶴と瑞鶴が涙目で抱き合った。

 

 

 

『56 追憶の悲惨』

 

 

 

最近、増える一方の残留米軍とのやり取りのせいで、昼時を逃してしまう事がある。

 

まあそれでもようやく時間が空いたからと、提督と一緒に遅めの昼食に向かってみれば

間宮の中が何か異様な雰囲気のまま閑散とし、中に居るのは2隻の艦娘、紺と白。

 

アホ毛を揺らし、桜色の髪を短めに纏めているスク水姿の潜水艦は、ヨー島所属の伊58やな。

その横の全体的に白い印象のセーラー服の駆逐艦、ヴェールヌイが口を開いた。

 

「やあようこそ昼下がりの間宮へ、この冷え切った珈琲はサービスだから飲んで欲しい」

 

かー不味いでちーなどと笑顔で言いながら珈琲を啜る伊58の横、いつの間にか用意された

二つのコップになみなみと珈琲が注がれた、湯気ひとつ無く、見るからに冷めている。

 

「しまった不味飯会や、逃げるでッ」

「不味飯会ッ!?」

 

身を翻せば入口の戸は閉められ、日焼けしたホワイトブロンドの潜水艦が鍵を掛けとる。

 

「足を踏み入れたからには諦めてご馳走されるべきですって」

 

零れんばかりの笑顔で嫌すぎる内容を呂500が口にした。

 

「ふっふっふ、ヨー島潜水艦隊、巻き添えを増やす事には定評があるでち」

「まあ何や、とりあえずその頭のアンテナ引っこ抜いてええか」

 

アホ毛を抑えながら鬼だの悪魔だの騒ぐ潜水艦を横目に視線を回せば、

視界に勧められた珈琲を口にして机に虚ろな視線を向ける提督が映る。

 

「冷やした珈琲と冷めた珈琲って、まったく別の飲み物だったんだな」

 

珈琲は冷やせば酸化が進み、温めなおすとエグ味が出る飲み物やからな。

 

だからアイスコーヒーとかは急冷や水出し、あるいは豆の薄皮(チャフ)を取り除くなどの

様々な酸化を避ける工夫がされるわけで、何もせんかった場合は酸っぱい泥水と化す。

 

「察するに遅めの昼食かい、丁度良いものがあるんだ」

 

そんな事を言いながら厨房へと向かうヴェールヌイの背中を眺め、諦め半分で席に着いた。

 

「さて、ようこそ不味飯会へ」

 

厨房に入る前、両手を広げ勿体ぶった口調で言葉を述べた駆逐艦に、胡乱な視線を向ける。

 

「で、不味飯会って何だ」

 

胡乱な空気の伝染した提督が伊58に問い掛ければ、軽く笑っての答えが在る。

 

「大した事は無いでち、単に思い出の味を楽しむだけの会でち」

 

そんな感じでどうにも重大な所をスルーしそうやったんで、追補しとく。

 

「不味いけどな」

 

「不味いのか」

「不味いでち」

 

不味いねん、素直に。

 

「例えば、この珈琲やな」

「この酸っぱい泥水か」

 

目の前に掲げて例だと挙げれば、黒い水が視線を集める。

 

「潜水艦の珈琲ですって」

 

自分の分の冒涜的珈琲を持ちながら、呂500が席に加わった。

 

「潜航時は鼻の深さまでしかディーゼル回せないから、珈琲も作り置きなんです」

 

そう言って彼女は一口飲み、どこか満足した様な表情で吐息をつく。

 

「不味いけど、たまに飲みたくなるって話や」

 

聖者の様に黒く天国の様に温く思春期の様に酸っぱい泥水を啜りながら謳う。

何とも微妙な表情で口を付けている提督を見て、心の通じる思いがした。

 

「ところで鼻の深さって」

 

飲みながらそんな事を聞いてくるので、こちらも頑張って消費しながら答える。

 

「浅度潜航時に海面に出す、ディーゼル給排気用のシュノーケルやな」

 

鼻を突きだしたとか言うんはドイツ式やったか。

 

「流石に空母は詳しいでちね」

「航空戦力はんたーい」

 

潜水艦が煩い、文句言う暇があるならその汚水を消費しとれと小一時間。

 

そんなこんなとしてる内、ヴェールヌイが食い物を抱えて戻って来た。

 

「農民のシーと人参のザペカンカだよ」

 

器に取り分け、それぞれをそれぞれの前に設置する。

 

主にキャベツ、他に様々な野菜を加え半透明に煮込まれている汁物と

四角く切り分けられた卵焼きの様な色合いの生地が見えた。

 

「龍驤、解説ッ」

「説明しよう、両方ともロシア料理と言いたいとこやが、って何でやねん」

 

すかさず飛んだ声に釣られて解説を始めた所で我に返り、すびしと小手を入れる。

そんなやり取りに苦笑を零しながら、持て成しの主が料理の説明をはじめた。

 

「シーの方は伝統的なロシア料理だね、キャベツを基本にした野菜のスープさ」

「9世紀ごろにビザンチンからキャベツが輸入されて、その時に出来たレシピやな」

 

ぶっちゃけるとキャベツ、あと適当に畑で獲れる物を煮込む野菜スープや。

 

名前は古代ロシアの食べ物(シト)と言う言葉から来とって、要するに細かいレシピは

決められていない、サワークリームや肉や魚と、入れる物はお好み次第。

 

有名所としてはビートを入れたシー、つまりはボルシチあたりか。

 

「めっちゃ硬いでち」

 

キャベツを噛み切りながら伊58が言った。

 

「本来なら捨てる様な、キャベツの外側の葉を使っているからね」

 

平気な顔で応えるヴェールヌイの前で、提督がガリガリと噛みながらウチに言う。

 

「その心は」

「内側は売り物やねん」

 

微妙な酸味とめっちゃ硬いキャベツに難儀しながら呑み込めば、よく知っているねと

視界の端で、ヴェールヌイの少しばかりに驚いた顔が見れた。

 

「まあだから、農民のシーと呼ばれるんだ」

 

そんな事を言いながら、何か懐かしむような顔でシーを口に運んでいく。

 

「よく噛めば甘味がある様な気がする」

 

提督から物凄く気を遣った感想が出た頃合いに、横の焼き物へと話題が移動する。

 

「ザペカンカ、だっけ」

 

提督が聞く、黄色い焼き物生地を良く見れば、中に小さく刻まれた人参の赤が見えた。

人参の鮮やかな赤い色がセモリナ粉に伝染って、玉子焼き的な色合いに成っとるんやな。

 

「ザペカンカはオーブンで焼いた物って意味や、芋だったり小麦だったり色々やな」

「これは人参とセモリナ粉で作った、レシピ的にはソビエト料理ってとこかな」

 

まあ普通に食ってみれば、微妙すぎる甘さ、凄くパサパサ、つまりは凄く微妙なわけで。

 

「うん、素直な気持ちで言えるわ、不味い」

 

給食のあまり美味しくない人参パンのダウングレード版って感じやな。

 

「このワザとらしくまったく調和していない甘みが良いんだよ」

 

ヴェールヌイ以外の全員が、口に入れた途端に何とも言い難い表情に成っとったがな。

 

「ソビエトとはやはり相いれないですって」

 

虚ろな目をした呂500が何かゲルマン魂を発露させとるがな。

 

そのままもそもそと食事を続け、凄まじく微妙な空気の食事会がようやくに終わる。

あれやな、凄まじく微妙な料理は空気まで凄まじく微妙にするな。

 

そして気力を使い果たして倒れ伏す死屍累々って、何でヴェールヌイまで死んどるねん。

 

「懐かしくても、不味い物は不味いのさ」

 

さもありなん。

 

「龍驤ー、何か口直し的な物は無いか、何でもいいから」

 

冥府の向こうから提督の思い残しが届けば、近くの亡者どもも追随をはじめる。

 

「ああ、厨房借りて作っておいたルンダンが鍋にあるはずや」

 

ルンダン、ウコンやガランガルなどの香辛料、つまりはカレーっぽい粉とココナツミルクで

延々と肉を煮込む、インドネシアはスマトラの州都パダンを代表する、パダン料理の一種や。

 

東南アジアのみならず、遠く中東の方まで広がっている結構メジャーな煮込み料理で

レシピも様々、とりあえず今回はカレー寄りのスパイスでぶつ切りの牛肉を煮込んだ。

 

「ルンダンか、ならせっかくだ、ブリヌイでも焼くよ」

「ええな、野菜も入れてマルタバック(はさみこむ)か」

 

厨房へと向かうとヴェールヌイがとてとてと後を付いて来た。

そしてロシア式のパンケーキの様な物を焼くために、厨房で適当に粉を調達する。

 

何や働き者やなと声を掛ければ、軽く肩を竦めて韜晦が返って来る。

 

「ソビエトロシアが誤解されたままでは困るからね」

 

軽い言葉を詮索せずに、台の上に昨日の空いた時間にチマチマと手を加え続け、

結果として丸一日煮込んでええ感じに寝かせておいたルンダンの鍋を置く。

 

そしてウチは、蓋を開けた。

 

 

 

(TIPS)

 

 

 

加賀の打突を肘を回すが如き振りで捌き続ける赤城。

 

そのままに巻き込む様に腰に乗せ袖を釣りこめば、突き側は股下を交差するほどに重心を落とす。

引き手の勢いもあらば、落ち込む重心を下に潜らせる様に裏投げを放ち、赤城が飛ぶ。

 

投げられてではなく、自らが飛び上がったが故に爪先が美しき弧を描き、

猫の様に身体を回し着地して、即座に互いが距離を取った。

 

「別に、貴女のものだというわけでもないでしょう」

 

軽く頬を摺り、拳を握らぬ手を前面に置いたまま赤城が口を開いた。

 

「いいえ、アレは私の物になるべきだったのです」

 

飛びのいた勢いのまま重心を落とし、腰溜めの拳を引き絞りながら加賀が答えた。

 

そして殺戮者がエントリーする。

 

突如として弓道場に乱入した、火薬の如く飛び跳ねる赤い弾丸が赤城に迫る。

一切の反撃を許さぬタイミングで、全身の発条を使い飛び上がったのは、龍驤。

 

勢いを殺さず全ての質量を威力に変え、矢の如き膝蹴りが叩き込まれた。

 

膝蹴り、と言ったが少しばかり特殊な形である。

 

蹴り足で行われる通常のそれとは違い、踏み切り足を無理に持ち上げて蹴り飛ばす。

全体重を乗せ、膝と脛の狭間を相手の顎下に叩き込む様なその膝蹴りの名は。

 

―― ブサイクへの膝蹴り

 

龍驤の怒りが伝わってくるような技の選定に、翔鶴が鳥肌を立てた。

 

そして赤城の上、首に膝を当てたままの姿勢で乗りあげた形に成る怒りの化身は

自然の摂理に従い重力に引かれ、限界を迎えた赤城の身体がへし折れるように倒れ込む。

 

ぐしゃりと潰れる音がした、顎下に膝を当てられ頭から落ちた正規空母から。

 

「じ、地獄の断頭台……ッ」

 

自らの事の様に、蒼白のままガタガタと震える五航戦姉妹から技の名が零れた。

 

ゆらりと立ち上がり、視線だけで次はお前かと問いかける秘書艦将軍が視線を回し

摺り足を僅かに引きながら逃走の機会を伺う加賀に止まり、口を開く。

 

「で、ウチのルンダンを食ったんは」

「全部赤城さんです」

 

即座の返答と同時に正座をし、懐から今回は無罪と書かれた旗を取り出す容疑者2号。

 

「……とりあえず、簀巻いてから事情を聞こうか」

「あ、簀巻きは既に確定なんですね」

 

成すがままにぐるぐると縛られながら、いつも通りの受け答えをする加賀だった。

 


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