深夜の首都高速。横羽線上り。
けたたましい爆音を響かせて、狭く路面の荒れた羽田線を、青いR34が駆け抜ける。
(良い……最高の仕上がりだな)
オーバーホール後の慣らしを終え、セッティングも完了。ついに、迅帝は首都高と言うステージに、蘇ったのだ。
岩崎は、路面のギャップの一つ一つを確かめる様に、GT-Rのペースを上げていく。
(……見立て通りだ。彼女は天才だ……)
現在のブーストは1,5kgだが、それでも700馬力近く発揮。
フルブーストの2,0kgまで過給圧を高めれば、950馬力を絞り出す。文字通りの怪物マシン。
一踏みで、軽く250キロオーバーまで加速させる。
(……6000より上の伸びは勿論凄い。9500まで一気に吹ける。だけど、中速域のピックアップも、決して悪く無い……)
ビッグシングルタービンの最高速仕様。だが、レスポンスも十分についてくる、絶妙な仕上がりだった。
(……足回りのセッティングも、アライメントも決まってる)
桁外れのパワーを受け止める、強靭なボディ。それに加え、パワーをしなやかに路面に伝えるサスペンション。全てが、パーフェクトなセッティングだった。
(……狭くて路面の悪い横羽で、ここまで踏める様にするとはね……。恐れ入るよ、原田さん)
岩崎は、自然とほくそ笑んでいた。
基本設計からして、フロントヘビーなGT-R。大きく重い直列6気筒をフロントに積むが故の弊害で、過去に参戦していたJGTC時代で一番苦戦した要因と言われる。
元々の車重が重い事も言われるが、軽量化を進めれば進める程、リアがばかり軽くなる傾向がある。したがって、重量バランスがノーマル以上に、フロントヘビーになってしまうのだ。
タイムアタック仕様のGT-Rでも、リアにラジエーターを移設する例がある等、第二世代GT-Rの大きなネックの一つとしてあげられる。
重量バランスがフロント寄りになると、リアタイヤの荷重変化が大きく、スープラ等のFRの場合はトラクションが抜けやすい傾向になる。
その点GT-Rの場合、トルクスプリット式4WDシステム。アテーサET-Sの制御によって、トラクション性能とハンドリングを両立している。
(リアの接地感が良い……。トーを直進安定方向に振って、キャンバーを2度くらいかな。ショックの伸び側を柔らかくして、タイヤの接地変化を抑えてる……。
ハンドリングはニュートラルから弱アンダーが一番乗りやすいって言われる……。絶妙なステアバランスになってるね)
美世のセットアップは、見事なほど決まっていた。
全盛期。否、それ以上かもしれない。
蘇った伝説は、更なる高みを目指すのか。
蒼い閃光は、闇夜を貫く。
12月22日。都内は、サンタクロースの格好をしたごついおじさんの像や、ミニスカサンタに衣装を替えたアルバイトの女の子等、クリスマスムード一色だ。
内藤自動車の窓に、ミニスカサンタの格好をしている、輿水幸子のポスターが貼ってある。お菓子メーカーの広告なのだが、店主の趣味で貰ってきたのは間違いない。
ガレージ内で愛機を見つめる原田美世。
彼女は納車の際に、岩崎とある約束にこぎつけた。
(……岩崎さん。違う……迅帝と首都高を本気で走る)
美世は、迅帝への挑戦状を叩きつけた。
首都高の伝説へ挑む事。それが、どれ程無謀な事なのか、本人も重々に理解している。
(……あのモンスターマシン相手だと、あたしのGT-Rで追いつける訳が無い)
オーバーホールとセッティングした張本人なので、迅帝のマシンが恐ろしく速い事は解りきっている。
レーシングカーの様に、レギュレーションという足枷が無いのが、チューニングカー。
往年のグループA時代、RB26は650馬力以上と言われていた。
しかし、チューニング業界はRB26DETTチューニングを極めつづけ、90年代の終わり頃には1000馬力を超えるチューンドGT-Rがゴロゴロしていた。
耐久性を犠牲にしている面も有るが、そこまでのパワーを受け止める事が出来る素材なのだ。
(……今更、馬力を上げるにしても、時間が無い。一晩で軽量化をしたとしても、足回りを仕上げる事はまず出来ない……)
美世のR33は、あくまでもストリート仕様の延長線上。パワーも劣るし、車重もはるかに重い。
迅帝のR34のスペックと比べれば、天と地ほどの差が存在する。
「……随分、考え込んでるな」
愛機を見つめる美世へ、師匠の内藤はそう声をかけた。
「……健さん」
美世は、ゆっくりと振り向く。
「しかしなぁ。お前が、迅帝を引っ張りだしてきたのは、驚いたぜ……。
しかも、美世の所属してるチームのドライバーだったとはな」
「それは、あたし自身もびっくりしてますよ。だけど……巡り合う運命だったかもしれません」
美世は、そう言ってから、視線をGT-Rの方へ戻した。
「そうか。
……んで、迅帝と走るとしてもだ。コイツで、着いていけるのか?」
「…………」
内藤からの意地の悪い質問に、美世はまだ何も言わない。
「あのマシンが、桁違いのバケモノなのは、お前自身で組んでるから解る筈だろ。
恐らく、全盛期以上のスピードを出せる筈だ。俺達ですら、追い付けなかった相手に、このGT-Rでどう立ち向かうつもりだ?」
そう言われ、美世はガレージの端に移動した。そこに置いてある荷物には、青いビニールシートが被せてあった。
「……これが、あたしの秘密兵器です」
そう言い放ち、美世はビニールシートを捲り上げた。
その秘策に、内藤は押し黙った。
「……一か八かだけど、この策なら恐らく勝負できる筈です」
埋められないスペックの差を埋める秘策。それが、美世にはあった。
「なるほどね……。
随分と面白い事考えやがるわ……」
内藤はニヤリとしていた。
12月24日。クリスマスイブ。天空に広がる闇夜は雲一つ無く、天気予報師曰くホワイトクリスマスには到底ならないそうだ。
毎年346プロでは、クリスマスパーティー兼バースデーパーティーが行われる。美世も誘われたが、今年はどうしても外せない用事が有ると、断りをいれていた。
時刻はもうすぐ、日付が変わる頃。
美世は国道246号線、三軒茶屋のコンビニの駐車場に居た。
(……そろそろかな)
R33にもたれ掛りながら、缶コーヒーを飲んで約束の相手を待つ。
クリスマスの待ち合わせはロマンチックな雰囲気になる筈だが、少なくとも約束の内容はクリスマスにそぐわない。
そして……。
「……来た」
遠吠えの様に、そのエキゾーストが響いてくる。
ジェット戦闘機が低空飛行してるかと思う程の轟音。外で待っていれば、振動がビリビリと伝わる。
駐車場に入って来た、蒼いR34スカイラインGT-RVspec。
トレードマークの“壱・撃・離・脱”と記されたステッカー。蘇ったそのマシンは、そのオーラを隠そうともしない。
「……こんばんは」
R34から降り立った岩崎。
「岩崎さん。メリークリスマス、ですよ?」
美世はそう言った。
「そう言えば、そうだったね。長い事、クリスマスには無縁だからさ」
岩崎は、クスリと笑みを見せた。
そして、少しの沈黙。
「……行きましょう」
「ええ。行きますか」
美世の言葉に、岩崎は相槌を打つ。
R33の右フェンダーを、美世はそっと撫でてから、ドライバーズシートに滑り込んだ。
(頑張ろうね……相棒!!)
ホーリーナイトの夜会。華麗なる、鉄馬の舞踏会は、始まりを告げる。
時同じくして。内藤自動車。
閉店時間は、とっくに過ぎている。しかし、店主は事務室に籠ったままだ。特に事務仕事が溜まっている訳では無い。単純に、弟子の事が気がかりなのだ。
そして、もう一人だけ。
美世の事が気がかりな人物が、閉店後の内藤自動車を訪ねてきた。
「こんばんは……」
そう言いながら、事務室に入って来たのは、担当プロデューサーだった。
「……やっぱり、あんたも来たね」
内藤は、彼が来る事を確信していたようだ。
「ええ……。美世が、クリスマス会に来ないって聞いた時に、ピンときましたから」
プロデューサーは、来る事の出来ない野暮用に、勘付いていた。
「……そっちの用事は大丈夫なのか?」
「とっくに、お開きですよ。多分、飲み足りない方々は、各自で呑みに行ってる筈ですよ」
「そうかい」
そう言って、内藤はタバコをくわえた。
プロデューサーは、椅子に座って、内藤をジッと見た。
「……今日、美世がクリスマス会に来なかったのは、前に修理していた青い車と関係があるんですよね?」
「……そうだ」
その言葉に、プロデューサーは何も答えない。
「……今から、適当な独り言を話すから、聞き流してくれ」
そう告げ、内藤はタバコに火を点ける。プロデューサーは、無言で見ているだけ。
「……アイツは、伝説の走り屋と今夜本気で走る。例えて言えば、日高舞が一晩限り全盛期の姿で復活するくらい、とんでもない話だ。
まぁ、勝ち目が有る訳がねぇ。それでもアイツは挑むんだ。アイツ自身で、R34を蘇らせた。それで、火が点いたんだろうな。
本当に、美世は凄い奴だぜ。オーバーホールして、慣らし運転を終わらせた後だ。アイツ自身で、足回りと燃調を決めた。
燃調ってのは、インジェクターから噴き出たガソリンを、空気と混ぜた混合気の比率の事だ。
これが濃いと、エンジンのレスポンスは鈍くて回らない。かと言って、薄いと爆発力が上がり過ぎて、エンジンがブローする。
チューニングカーの一番の詰めだ。
丸で、インジェクターから噴射されるガソリンが、見えてるんじゃねぇかって。燃焼室を透視出来てるんじゃねぇか。そう思うくらい、絶妙なセッティングを叩き出しやがった。
足回りもそうだ。高速領域のセッティングは、極端に大きな荷重変化が起きる。その時に、タイヤが地面に接地してなきゃ、車は何処にすっ飛んでいくか解らない。壁に突き刺さるのがオチだ。
首都高の荒れた路面で、ハイパワーを踏み切れるセッティングを、短時間で見つける。そんなもん、長い事走ってきた俺でも、まず無理だ。
この速度なら、車がどういう風に動くか。頭の中で、完全にシュミレート出来てる。
才能があるのは知ってた。だけど、原田美世がここまで天才だとは思わなかったぜ……」
一気にしゃべると、殆ど吸っていないタバコは、半分以上が灰になっていた。
「…………」
プロデューサーは、ただ聞くだけ。
「そんでもって、今夜走る為にアイツは秘策を練りやがった。
あのR33に、スリックタイヤを履かせたんだ。低温用のソフトコンパウンドのな。
更に、タイヤのグリップが格段に上がった事に耐えれる様に、バネレートを前後とも上げて、ブレーキもスプリントレース用の高温対応にしてる。
タイヤのグリップを思いっきり上げる事で、パワーと車重の差を少しでも埋めるって考えだ。
タイヤもブレーキも、今夜一晩しか持たないし、空気圧の調整も一発で決めなきゃいけねぇ。
極端な裏技だが、今夜の走りにアイツはそこまで賭けたんだ。
誰よりも本気になっちまう。それが、原田美世って奴だ」
プロデューサーは、言葉の半分以上が理解出来ていない。ただ、美世が本気になってる事だけは、よく解った。
「朝方に、美世は帰ってきます。人間も車も無事なままで。そう信じてますから」
プロデューサーは、自分自身に言い聞かせるように、そう言った。
R33、R34の順に、三軒茶屋ICから首都高速3号線に乗り、二台は渋谷方面へ向かう。
環状線に入るまでの間。美世のR33は、奇妙な動きをしていた。
小さくウェービングを繰り返し、加速したかと思えば、すぐに減速。その動きをじっくりと見つめる岩崎。
(……牽制じゃない。煽ってる訳でも無いな)
その動きは、岩崎もサーキットで見覚えがある。
(あの動き方は……フォーメーションラップの動作そのものだ。
だとすると……)
岩崎は、すぐに勘付いた。
(……スリックタイヤ)
その考えが脳裏をかすった時。口元がニヤリと笑った。
美世は、タイヤとブレーキに熱を入れる為に、この動きを繰り返している。
(……大分、グリップ感も減速感も出てきた。何とか、環状線までに熱は入るかな……)
この策は、大きな博打だった。
レース専用のスリックタイヤは、市販のタイヤより遥かにグリップ力が高い。
熱で表面のゴムを溶かして、グリップ力を高めるという構造になっているからだ。
反面、寿命は極端に短い上に、タイヤの温度管理が極端にシビアになる。一番グリップを発揮する温度域が極めて狭いため、路面温度に大きく左右されてしまう。
熱が入らなければ、スリックタイヤを履かせた意味は無い。
冬の冷えた路面温度で、タイヤに熱を入れれるかは、正直無謀な賭けと言える。
また、ブレーキの超高温用にしている為、冷えている状態では全く効かない。
ローター温度が300度を超える状態まで、発熱させなければならない為、極端な加速と減速を繰り返していたのだ。
(……もうすぐだね)
谷町JCTまで、後500メートル。
後ろに着く岩崎は、R33の丸二灯テールを、ジッと見つめる。
(……見せて貰うよ。君の全てを……)
そして、二台は巡航速度で、環状線内回りへ合流。
R33のハザードが、三回点滅する。
それに倣うと、R34はパッシングを三回光らせた。
「……行くよ!!」
3速のまま、美世はアクセルを踏みつけ、ペースを上げる。ブースト計は1.3kgを指していた。
「……オーケー」
岩崎は、一瞬2速に落としてから、全開。5000rpmから、一気に9000rpmまで、タコメーターが跳ね上がった。
クラッチペダルを蹴りつけて、シフトレバーを引っ張って3速へ。
シフトアップした瞬間。後ろから蹴っ飛ばされたと思う程の、加速Gを感じる。
(アクセルを踏むのが恐ろしくなるパワーだが……この吹け上がりこそが最高なんだ)
恐怖心と、快楽。反する気持ちが、岩崎の心に飛来する。
これこそが、スピードという魔力なのだ。
先行するR33が、一ノ橋JCTを通過。
美世の見えて居るのは、道の先だけ。
(……乗れてる)
全ての神経が研ぎ澄まされ、車体の動きが手に取るように解る。
先を行く一般車の動きが、スローモーションの様に見える。
(こんなに乗れてた事は一度だって無い……)
丸で魔法がかかった様に、美世はドライビングに集中していた。
芝公園ICから左、右と続くコーナーは、4速でクリア。熱の入ったスリックタイヤに物を言わせて、R33は迅帝を引き離す。
(凄いね……タイヤが路面に張り付いてる)
狙ったラインを、寸分狂わずトレースしていく赤いボディ。ドライバーもマシンも、今夜のコンディションは、間違いなく最高だった。
(……見事だね)
後ろから観察する岩崎は、その走りにほれぼれした。
(ライントレースも見事だし、それに加えて、スリックタイヤも使いこなしてる。
あのR33の武器でもある、レスポンスの良さを生かす為に、タイヤグリップをあげてコーナリングスピードを稼いでる……)
しかし、相手は首都高の伝説を作った走り屋。ましてや、現役のGTドライバーだ。
(……こっちも、全力を尽くさなきゃ、失礼に値するね)
岩崎の目付きは、レース時の鋭い眼光を放っていた。
浜崎橋JCTを右に折れて、首都高速羽田線へ。更に、芝浦JCTから、環状11号線へ。
緩い右コーナーを抜け、レインボーブリッジへ。
一般車両の量が、少しだけ増えてきた。
(……ここは勝負所)
美世は目を凝らし、先を走る一般車のテールランプの群れを睨んだ。
(……見える!!)
時速200キロオーバーの中で、すり抜けられるラインが、一本だけ見えていた。
右に左にレーンチェンジし、ヘビー級のマシンとは思えない身のこなしで、縫う様にアザーカーを抜いていく。
ハイレスポンスに仕上げたRB26と、スリックタイヤの強大なグリップ力は、抜群の相性だった。
ジリジリと、R33とR34の距離は離れていく。
相手がスリックタイヤを履いているとは言え、岩崎自身スラロームで引き離された記憶はあまりない。
(……夢見の生霊と同格の速さか)
どっしりと構えて、R33の動きを見極める。
そして、有明JCTから湾岸線へ合流。下りの神奈川方面へ流れていく。
勝負は、超高速ステージへ。
新環状内のスラロームと、合流地点のコーナーで稼ぎ出したマージンは、約2秒。 200kmオーバーの世界なら、その差は100メートル弱。
合流地点に一般車は少ない。ただ、前方には一般車のテールが流れていた。
(……追いつかれるかな)
パワー差は解りきっている。それでも、美世は愛機のアクセルを踏み込む。
4速、8000rpm。220km。
素早く5速へシフトアップ。6000rpmまでドロップしたエンジン回転は、咆哮を上げて再び上昇していく。
(……水温89……油温108)
外気温が低い分、オーバーヒートの心配は少ない。
ステアリングに装備されるミサイルボタンに、美世の親指が伸びた。
(頑張って……相棒!!)
1,6キロのスクランブルブースト。GT-Rを信じ、床を突き破らんばかりに、アクセルを踏みつける。
少しだけ引き離されて、R34が湾岸に合流。
(……試させて貰うよ。君の組んだRB26のフルパワーを……)
そして、岩崎もスクランブルブースト。過給圧2,0キロで950馬力。
レースフィールドでは考えられないパワーを与えられた、RB26。
「……ッ!!」
ワープしていると錯覚させる程の加速力。全身が、巨人の掌で押さえつけられていると思える程の力で、バケットシートに押し付けられている。
(……恐ろしい加速だね)
岩崎をして、そこまで思わせた。
しかし、恐怖感と裏腹に、岩崎の口の両端は吊り上っている。
(……水温96……油温119……まだまだ行ける)
猛然とR33のテールに迫りくる、R34の蒼い疾風。
(……来てる!!)
強大なグリップに任せて築いたマージンは、ストレート一本で即座に帳消し。
(……我ながら、恐ろしいマシンを組んだんだね)
ミラーに迫るヘッドライトを見て、美世は苦々しく笑った。
東京湾トンネルから、一般車両の流れに追いついてしまう。
ブレーキを踏んで、220キロまで減速。
(……右……真ん中……また右)
テールランプの流れを読んで、ラインを読む。
そして、狙ったラインをトレースしながら、一般車を次々と抜き去る。
二台は一定の間隔をキープしたまま、東京湾トンネルを突き抜ける。
迫りくる左コーナー。真ん中を走る長距離トラックを抜けば、一般車が消える。
(……右)
そして、R33が一番右車線からトラックをオーバーテイク。
オールクリア。フラットアウト。
美世は、再びスクランブルブーストを使う。
(……隣だ)
一瞬だけ、左のサイドウインドウから、横を見る。
蒼い影が、一番左車線に見えた。
最後のトラックを、左から抜いた岩崎も、スクランブルをかけていた。
(……並びさえすれば、こっちのものだよ)
絶対パワーに物を言わせて、R34を加速させる。
250キロ。
ここからの加速力は、R34が伸びる。
大井JCTを通過。美世はまだ諦めない。
(……岩崎さん、使わせて貰います)
前に出られたが、二車線一気にレーンチェンジし、R34の後方にR33のノーズを滑り込ませた。
スリップストリーム。空気抵抗を減らして、パワー差を少しでも埋める。
(……これなら、着いていける)
テールに張りついて、先行するR34の隙を覗き見る。
大井パーキングエリア。閑散としたパーキングエリアに、停車するADバンと、FD2シビックタイプR。
菊地と藤巻が、ギャラリーに来ているのだ。道路沿いの壁から、湾岸高速の流れを見つめる。
「……今日走ってるのは、確かなんだよな?」
菊地は、藤巻にそう聞いた。
「岩崎本人が言ってたから、間違いないぞ」
藤巻は、確信を持って伝えた。
藤巻は走り屋時代。そして、菊地はレーサーになってからの。どちらも、岩崎の師匠になるが。
「……首都高も、昔に比べれば静かになったなぁ。ま、当然と言えば当然だが……」
菊地は、しみじみと語った。
「とか言いながらよ。
ニュルブルクリンク24時間に出るのが決まったからって、無灯火で首都高走って、特訓してただろ……」
藤巻は、そう言ってからかった。
「バカ言え。六年前の話だ。もう時効だよ」
菊地は、そう言い張った。
「……へ。相変わらずだな」
「大体、R33のN1仕様の試走で、二人して真夜中に箱根やら、東名やら走ってただろうが。お互い様だ」
どちらも、結構な前例がある様だ。
耳を澄ませば、轟音が迫りくるのが解った。
「……来たな」
吹き抜ける風の如く、通り過ぎるのは一瞬だけ。
「蒼の34……岩崎が前か。だが、R33もぴったりと後ろに着いてる……」
菊地は、そこまでは見切った。
「……予想外だな。あいつが湾岸で張り付かれるなんてよ」
美世の予想外の健闘に、藤巻は舌を巻いた。
「……あれは、二台とも原田さんが組んだんだろ?」
「ああ。R34はオーバーホールとセッティングまで決めたし、R33はコツコツ地道に仕上げたみたいだ」
菊地の問いに、藤巻は淡々と答えた。
「そうか……」
菊地は、顎に手を当てて、何かを考え始めた。
「……どうした」
「いや……。特に何でも無い」
菊地の答えは、歯切れが悪かった。
東海JCTを通過すると、羽田空港までもう少しだ。
R34のスリップストリームを有効に使いつつ、スラロームを続ける。
(……橋を過ぎた後の左コーナーが勝負所!!)
美世は、オーバーテイクのポイントを定めていた。
時速270キロで、迫りくる左コーナー。
R34の選んだラインは、一番左から進入する、インベタのラインだ。
ペダルの操作の一つ一つを丁寧に。この速度域での急激な操作は、姿勢を乱す原因を作ってしまう。
一瞬のフットブレーキから、ヒールアンドトゥ。シフトレバーを押して、5速へシフトダウン。240キロに速度を落とす。
「……!?」
R34の右サイドミラーに、パッシングの光が反射した。
美世はコーナーギリギリまでブレーキングを遅らせていた。そして、5速のまま一瞬のチョンブレーキだけで、アウトからR34に並びかける。
(……っ!!)
コーナー中盤で、パーシャルスロットルと左足ブレーキを使って、荷重をコントロール。
出口で僅かに跳ねて、ポンポンと外へ膨らむが、強力なスリックタイヤのグリップに任せて立ち上がる。
260キロで大外刈りを決め、R33が再び前に出る。
(……今のは、結構無理したよ)
何とかコーナーを抜けて、美世は小さく息を吐いた。
再び、R33のテールを拝む岩崎。
(……こっちだと、流石にそれは無理だな)
しかし、動じる気配は無い。むしろ、抜き返した美世に、敬意さえ表する様だ。
(直線で料理させてもらうよ……)
まだ、バトルは終わらない。
羽田空港北トンネルを抜け、左手に羽田空港が見える。一般車の姿は消えない。
(スラロームだけなら何とか……)
前には出たものの、中々引き離せない。
背中に、ピリピリと大きなプレッシャーが、津波の様に押し寄せてくる。
しかし、美世の表情は、不思議と緩んでいた。
(……この瞬間なんだ)
狂ったスピードの中でしか味わえないスリル。
背徳行為の代償は、麻薬以上の快感。美世の脳内は、アドレナリンで満たされる。
(熱くなれるんだ!!)
愛機に鞭をくれる。
大きく弧を描く、多摩川トンネル。防音壁に反響する、RB26DETT。
二台のGT-Rは、互いに威嚇する様な咆哮であり。それでいて、仲間を呼ぶ遠吠えの様であった。
時代を象徴する名車、GT-R。多くのチューナーを虜にし。また、多くのファンを魅了した。
(……最高のエンジンだよ。君の組んだRB26は……)
首都高の伝説を作った男も、その車に惚れ込んだ一人に過ぎない。
一般車の流れが、少しづつ減っていく。
浮島JCTを過ぎ、海底を抜ける川崎航路トンネルへ。
(……近い。もうすぐだ……)
美世は、ただ行く先を睨みつけるだけ。
250キロでのスラローム。1キロでも速く。1センチでも前へ。
トンネルを抜けると、そこには広大な闇が広がり、道標となる街灯が遠くまで続いていた。
(……オールクリア!!)
6キロの直線。差し詰め、和製ユノディエールと形容しようか。
丸で、2台の為だけに道が有るかのように。
美世は、迷わずスクランブルブースト。
(……頼んだよ!!)
相棒を信じ、アクセルを踏み抜いた。
260キロ。
風圧に負けまいと、力任せに押し返す赤いボディ。
270キロ。
蒼い王者が、右に並んだ。
「遊ぼうぜ……」
岩崎は小さく呟いた。
サイドバイサイド。280キロで、並走するGT-R。
(……あたしは、あなたと走れて幸せです)
恋でも愛情でも友情でも無い。ただ、一瞬を共にするだけの共感。美世にとっては、何よりも尊い物だった。
285キロ。迅帝が、ジリジリと前に出る。
290キロ。高周波と化した風切音に、エキゾーストノートがかき消されていく。
295キロ。タコメーターは、レッドゾーンでビリビリと震える。
300キロ。美世の目に、異型の丸二灯テールの、赤い光が見えていた。
305キロ。迅帝の背中を見つめる。少しずつ離れていく。
全てを出し切れた。否。それ以上だった。
自分の培った実力が、120パーセント絞り出せた時だった。
(……ありがとうございました。最高の走りが出来ました……)
何の意味も価値も無い、最高の奇跡が起きた瞬間だった。
大黒パーキングエリア。かつては、走り屋で賑わっていた深夜のパーキング。今では見る影も無い程、ガラガラに空いていた。
2台共、ゆっくりと滑り込んだ。並んで停車し、車を降りる。
岩崎は、美世の元へ歩み寄った。
「……お疲れ様。良い走りだったよ」
岩崎は、笑みを見せていた。
「……お疲れ様でした。……最高の走りが出来て、何も言う事はありません。これで、心置きなく……首都高を降りれます。
岩崎さん……ありがとうございました」
美世は、右手を差し出した。
「楽しかったよ。俺自身も……もう二度とここで走るつもりは無い。だけど、最後に走れたのが……原田さんで良かったよ」
そう言って、岩崎は右手を掴み取った。
「……また、どこかで会おう。きっと、原田さんとは縁があるからさ」
そう言い残して、岩崎はR34に乗り込んだ。
RB26の快音を残して、岩崎は大黒パーキングを去って行った。
(……来年も、チームKSで仕事出来たら良いな……)
そんな希望を胸に、美世はR33へ乗り込んだ。
「……お疲れ様。相棒」
そう言いながら、ステアリングを撫でていた。