首都高のシンデレラ   作:囃子とも

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四章 シャドウアイズ

 内藤自動車のガレージで、美世は愛車のエンジンオイルを変えている。

「……」

 作業を進めながら、横目でパープルのスープラを少しだけ見る。

 首都高で長らくトップを走り続けたマシンに、自らの手で仕上げた愛機が何処まで通用するのか。そして、自分のテクニックが、どれ程のレベルなのか。

 美世の顔に浮かぶのは、確かな自信なのか。或いは、まだ見ぬ強敵への不安なのか。

(……JZA70スープラとBCNR33スカイラインGT-R。

 車両のポテンシャルで言えば、明らかにGT-Rが有利だけど……。それは、健さん達が全盛期の頃から解りきっていた事。

 歴戦の猛者なら、GT-Rを相手にする事なんて慣れてる筈……)

 右手でドレンボルトを取りつける。手で絞めつけた後、メガネレンチで適切なトルクで増し締めをする。

 RB26のオイルパンの材質は、アルミの鋳造。ネジ山を痛めやすい為に、オイル交換一つとっても手順が有るのだ。

(あたしのやる事は一つ……。この子を信じて、自分の走りをする)

 メカニックとして。走り屋として。美世は自身のプライドを賭ける。

「……おーい」

 呼びかけられ、ハッとしながら美世は振り返る。

「……ったく。集中するのも良いけど、仕事はやれよ?」

 内藤は、美世にそう注意を促す。なにせ、今整備しているのは、マイカーだ。

「……すいませーん」

 拗ねた様に、心のこもっていない謝罪をした。

「それにしてもよ。何時に無く、気合入ってるじゃねぇか」

「相手は、元四天王の一人ですから。緒方さんが本気で来るのなら……こっちも本気で走らないと」

 そう語る美世の目付きは、真剣だ。

「……その心意気やよし」

 美世を見つめる内藤の表情も、引き締まっていた。

 

 そして、夜。時計は11時を指していた。

 緒方は、内藤自動車にタクシーで乗り付ける。待ち構えるのは、美世と内藤。

「こんばんわ」

 笑みを見せる緒方。ノーブランドのジーンズとジャケットを華麗に着こなす様は、流石は元トップモデルだ。

「こんばんは、緒方さん」

 社交辞令程度に、美世は挨拶をした。

「おう。キッチリ仕上げといたぞ」

 内藤は、普段と変わらず淡々とした様子だ。

「ねえ、内藤。あなた、私のスープラの隣に乗ってくれる?」

 緒方は内藤にそう提案した。

「何でだよ……」

 内藤は、その案件には不服そうだ。

「美世ちゃんの走りとか車の事とか、解説して欲しいのよ。

 しっかり見極めるなら、解説者が必要じゃない?」

「マジかよ……。四十路寸前のおばさんの助手せ……」

 台詞を言い終わる前に、緒方がつま先で、スネを蹴りつけた。ゴツン、と鈍い音が聞こえると同時に、内藤は黙り込むしかなかった。

「……何か言ったかしら?」

 ニコニコしながら問い詰める緒方だが、後ろには黒いモヤモヤが漂う。

「イイエナンデモゴザイマセン……」

 引きつった顔で、内藤はそう言うしかなかった。なお、緒方の容姿で実年齢を当てるのは不可能なレベルである。

 20歳の美世と並んでも、緒方の方が少し年上に見える程度の容姿だ。

「……今のは健さんが悪いよね」

 美世は、ばっさりと切り捨てた。

「……そういう訳だから、あなたの走りを後ろから見極めさせて貰うわ」

 緒方の目付きは、打って変った様に、鋭くなっていた。

「……解りました」

 美世の顔付きも、ぐっと引き締まった。

 

 深夜の首都高と言う舞踏会場。真夜中のシンデレラが乗るのは、魔女の用意した馬車ではない。

 獰猛な力を誇る鉄馬を、自ら手なずけるのだ。直列6気筒のエキゾーストノートは、己の牙を見せつけるかの様に雄叫びを上げる。

 RB26と1JZ。どちらも、ツインカムの直列6気筒のターボエンジン。

 メーカーは異なるが、日本のチューニング界を支えてきた名機である。

 首都高速2号線から、一ノ橋JCTへ。C1外回りに合流。

 先行するR33GT-Rは、ハザードを三回光らす。ペースを上げる合図だ。

(……行くよ)

 3速にギアを入れて、アクセルをじわりと踏み込む。

 デジタルのブースト計は、1.2kgを表示。加速Gで、体をバケットシートに押し付けられる。

「ペースを上げたわね……」

 緒方も、ギアを4速に落として、スープラのアクセルをじっくりと踏み込む。

 1JZ-GTEに2JZの腰下を組み合わせ、3リッターまで排気量を上げる、通称1.5J仕様のエンジン。更に、HKS製のT51Sと言うビッグシングルタービンを組み合わせる。

 ブースト1.7キロで700馬力を発生するハイパワーを、80スープラ用のゲドラグ6速を介して、リア二本のタイヤを蹴とばす。

 下手な踏み方をすれば、簡単にホイールスピンを起こしてコンクリートの壁とディープキスする所だ。

 しかし、路面に余すことなくパワーを伝える辺りは、ハイパワーFRの乗り方を心得ている。

 

 二台のマシンが、高速のクレイジーランデブーを開始した。

「……彼女のR33は、どんな仕様なの?」

「GT2530ツインに、カムは250の252だ。ピークパワーよりも、レスポンスを重視してセッティングして有るから、C1とかサーキットは走りやすい筈だ。

 ただ、軽量化してないからクソ重たいのが欠点だな。それでも、300キロオーバーも狙えるから、全体の仕上がりは相当ハイレベルだ」

 緒方の質問に、内藤はそう評した。裏を返せば、美世のチューニングセンスの高さを認めているとも言えよう。

「……そう」

 緒方は、R33の丸二灯のテールを睨みつけた。

「……一般車の抜き方も上手いわね。間合いの取り方も丁寧だし、スパッと横に出て、一気に前に出る。

 ステアリング操作も、急激じゃないわ」

「……霞ジャンプと逆バンクで、面白い技が見せるぜ」

 内藤は得意気な顔で、緒方に言い付けた。

 

 霞が関トンネルの手前には大きなギャップが有り、200kmオーバーで進入すると車が一瞬浮き上がるのだ。そのギャップをクリアしながら、フルブレーキングで霞が関トンネルの、カントの無いコーナーに飛び込む。

 霞ジャンプと逆バンクと呼ばれ、首都高速環状線で最大の難所と言われる。

 度胸とテクニック。そして、マシンの仕上がり。全てが揃わなければ、攻める事の出来ない、デンジャラスなスポットだ。

 谷町JCTを通り越し、緩い右コーナーに差し掛かる。

(……難所の霞ジャンプ)

 4速全開のまま、美世は左足をブレーキペダルに伸ばす。軽くペダルをダブって、ブレーキラインの油圧を上げておく。

 プレブレーキと言われるレーシングテクニックで、サーキット等でハードブレーキングする際に、多用されるテクニックだ。

 右コーナーをクリアし、ジャンピングスポットに飛び込む。

 僅かにアクセルを緩めて、左足でブレーキの動力をコントロール。

 エキゾーストが途切れないまま、R33のブレーキランプが点滅する。

「……っ!!」

 一瞬浮いた様な感覚から、ドン、と四輪のサスペンションがフルバンプする。

 

 ここで、美世は左足をクラッチペダルにスイッチ。同時に、右足でブレーキペダルを踏み抜いた。

 対抗ピストンの純正ブレンボに装着されるニスモのスポーツパッドが、ローターを挟み込む。

 鉄製のローターの表面は摩擦熱で真っ赤に焼けて、発火寸前の温度まで上昇。ABSの制御のお蔭で、タイヤは転がり続ける。重量のある巨体を、一気に140キロまで減速させる。

 右足のかかとでアクセルを使い、エンジン回転を合わせて、リズミカルに3速にシフトダウン。きっちりと、ヒールアンドトゥを使いこなす。

 ジワリと左にステアリングを切り、再び左足をブレーキペダルにスイッチ。ブレーキペダルを踏み込んで、フロントに荷重を乗せる。

 トンネルに反響するエキゾーストは途切れない。だが、ブレーキランプはチカチカと点滅を繰り返す。

 

 それが、何を意味するのか。この二人に、解らない筈が無い。

「……左足ブレーキ!?」

 緒方は、思わず口走った。

「面白い攻略方法だろ。

 車が浮き上がる瞬間と、曲がり込むコーナーで左足ブレーキを使って、4輪の荷重をコントロールしてんだ。

 C1で左足ブレーキを使うのは、世界中でもあいつ一人だ」

 内藤はそう解説した。

 特徴的なレーシングテクニックを使い、C1を攻略する。美世独特の走り方に、緒方は驚きを隠せない。

 二台は、霞が関トンネルを抜け三宅坂JCTを通過。皇居の横を通り過ぎる、テクニカルなセクションに入る。

 

 スープラは、R33に少しづつ離されていく。

「……彼女、何か競技でもやってたの?」

「カートを5年やってたらしい。左足が器用なのは、そのお蔭だろうな。

 それに、仕事が休みの時はサーキットも走ってる」

「なるほどね……。確かに、あの荷重のコントロールの仕方は、普通の運転では身に付かない筈よ」

 緒方は舌を巻いた。

「……ま、このスープラとC1の相性は最悪だからな。

 美世もマージンを残して走ってるが……今日ばかりは相手が悪いな」

 内藤には解っていた。

 環状線では、緒方のスープラは乗りにくい。言い換えれば、相性の悪いコースでも、緒方はついて行っているのだ。

「……湾岸か横羽に入ればこっちの物よ……」

 緒方は、不敵な笑みで、R33のテールランプを睨みつける。

 

 江戸橋JCTを真っ直ぐに通り越し、4速で抜ける緩やかな右コーナーをクリア。ブレーキングから、3速にシフトダウン。箱崎インターの左コーナーを、アウトからインをなめて立ち上がる。

 ブラインドコーナーの先は見えない為、立ち上がりはインベタでクリアする。

 本来コーナリングは、アウトインアウトのライン取りが一番理想とされるが、それはあくまでサーキットという条件での話だ。

 加速体勢に入った所で一般車が居たとすれば、フルブレーキングしながら避けなければならない。下手すれば、一般車に追突して多重事故。皆揃って火葬場に直行と言う事も十分に有り得る。

 ストリートを攻める時は、マージンを取って走る必要が有る。つまり、いざと言う時の為の、逃げの一手を確保しておかなければならない。

 インベタで立ち上がるラインだと、必然的にクリッピングポイントが、コーナーの奥をなめる格好になる。

 脱出速度と逃げの一手を両立する、首都高ならではの常套手段だ。

 

 更に速度を乗せ、箱崎JCTの左側の合流点から、首都高速9号線へ。俗称、新環状線。C1よりもスピードが乗る、高速コーナーが連続する。

 200キロ近いスピードで、ブラインドコーナーをクリアしつつ、一般車両を抜き去る技量が求められる。

(一般車は少ない……。ロングホイールベースのR33は、高速域のスタビリティが優れているんだよ!!)

 新環状エリアは、美世とR33が一番得意とする高速コーナーエリアだ。

 

 しかし、ミラーに反射する、青白いヘッドライトは、一定の間合いを保っている。

(……突かず離れず。こういうのが、一番不気味なんだよね……)

 美世の背筋に、冷たい汗が流れ始めていた。

(……きっと、辰巳を過ぎてから、湾岸線で仕掛けてくる。湾岸でGT-Rと互角に勝負できる、唯一の70スープラ。

 シャドウアイズは、そう呼ばれてたらしいし……)

 そう勘ぐっていた。

 

「綺麗な走りね……」

 霞が関のトンネルを抜けてから、無言だった緒方が舌を巻いた。

「一応、基本の走り方とラインは教えたが、その先はあいつが自力で応用したよ。

 伊達に、レース経験はつんでねぇってこったな」

 内藤の言葉を聞き、緒方は何を思うのか。冷たい瞳のまま、口元はニヤリと歪めたままだ。

(……シャドウアイズの由来。アイツはそれを知らねぇからな……)

 内藤は、先行するR33の影を見つめる。

 

 辰巳JCTから、湾岸線下りへなだれ込む。

 右コーナーを3速でクリア。立ち上がって、4速フラットアウト。

(……ブースト1.2……水温97……油温122か)

 横目でコンディションを確認。

 再び前を見つめると、水銀灯が列を成す長く広いアスファルトが、美世の視界に広がる。

 ここまでハイペースを保ってきたRB26は、水温油温とも上がっている。このまま踏み続ければ、オーバーヒートは免れられないが。

「……ごめんね。今日だけは、踏ん張って……」

 祈る様に、美世は呟いた。

 

 GT-Rが5速に入る頃に、スープラは6速にシフトアップ。

(……ここからが本番よ)

 湾岸のストレート区間に入ると、緒方のスープラは本領を発揮する。

 JZA80用ミッションの6速のギア比は、0.818。更に、デフケースごと80スープラRZ用に載せ替え、組み合わせるファイナルは3.266。

 6速で7000rpmまで引っ張れば、300キロを僅かに超える。レブリミットの8200rpmまで吹けきると、320キロオーバー。

 200マイルを視野に入れた最強の70スープラは、ここでGT-Rを追いたてる。

 メーター読み、250キロ。

 

 緒方はウインカースイッチに手を伸ばし、ヘッドライトを消した。

(……こりゃ、コイツ本気になってるな)

 助手席の内藤は、真っ暗闇の中で顔を硬直させる。

 

 緒方がヘッドライトを消した理由は二つ有る。

 一つ目は、リトラクタブルヘッドライトを閉じて、僅かでも空気抵抗を減らす事。もう一つは、一般車に自分の存在を確認させない為だ。

 夜の運転の際、後方から迫る車を確認するには、ミラーからヘッドライトの光だけで判別するしかない。一般車両が光を発見し、慌てて変な動きをされては、貰い事故に巻き込まれるかもしれない。

 余計な動きをされない為の、ブラインド走法。

 この瞬間、緒方はスープラと共に、真っ暗闇に吹き抜ける風になるのだ。

 

 ミラーを見るのは一般車だけでは無い。

「……消えた!?」

 スープラのヘッドライトを確認出来なくなったのは、美世も同じだ。

(……ライトを消してるのかな)

 その真意までは解らないが、美世は後ろからスープラが迫っている事は解る。

(どこから仕掛けてくるの……?)

 そう。見えないという事は、何処から抜きに来るのか、解らないのだ。

 一瞬で影が抜き去って行く。

 このブラインド走法から、緒方にはシャドウアイズと異名が付いたのだ。

 5速でアクセルを踏み続ける。だが、ここまでのハイペースがたたり、水温107℃、油温129℃。

 280キロを超えた辺りから、スピードの乗りは鈍くなり、ステアリングの接地感が無くなっていく。

(……少しヤバいかも)

 美世が焦りを感じ始めるのは、RB26が熱ダレの兆候を見せるだけではない。

 迫りくるプレッシャーを、背中に受けているからだ。

 

 迫りくる、大型トラックのテールランプは、追い越し車線を走っている。

 GT-Rは一番右車線から、真ん中へレーンチェンジ。追い抜くと同時に、風を切る音が聞こえた。

(……隣!?)

 美世は、左サイドウインドウに、影がかかっているのを見た。

「悪いわね……ちょっと本気にならせてもらったわ」

 得意げに呟いた緒方は、GT-Rの真横に並んで、ヘッドライトを点灯させた。

 メーター読み290キロ。スープラはR33を、直線でぶち抜いた。

 緒方はなおも、アクセルを緩めない。

 300キロを超えても、加速を続けるモンスターマシン。

 

 遠ざかって行くスープラの四角いテールランプが、美世の瞳に写る。290キロあたりで、GT-Rの加速は頭打ちになっていた。

(……水温116……油温139。ここまでだね……)

 美世は、小さく溜息を吐いた。

 そして、GT-Rはゆっくりと速度を落としていく。

「……お疲れ様、相棒」

 労う様に、美世は相棒のハンドルを撫でていた。

 

 大井パーキングエリアに美世が入った時、スープラはとっくに停車していた。

 内藤は外に降りてタバコを吸い始め、緒方はスープラの側に立って待ち構えて居る。

 空いているスープラの隣にGT-Rを停車させる。

「……お疲れ様です」

 そう言いながら、美世は緒方に歩み寄った。

「ええ……良い走りを見せてもらったわ」

 緒方は、笑みを浮かべながら美世をねぎらった。

「ありがとうございます」

 緊迫感から解放されたのか、美世の表情はほころんだ。

「……霞ジャンプの攻略方法は驚かされたわ。

 左足ブレーキを使うって発想が、普通は無いわ。大体の奴は、度胸一発で勝負する所だけど、あなたは違う……。

 それに、一般車の抜き方もライン取りも、マージンを取っている。リスクを抑えるという事は、ストリートを走る上では鉄則。

 信用出来ない奴とは一緒に走れない。下手に事故でもされたら、こっちが迷惑だもの。あなたの走りは、信用できるわ」

 そう言って、緒方は太鼓判を押した。

「また、一緒に走って貰えますか?」

「勿論よ。是非ともお願いしたいわ」

 緒方は、右手を差し出した。美世は両手で、しっかりと握り返した。

 

 内藤は無関心を装いながらも、チラチラと二人を見る。

(……俺、空気だな)

 溜息交じりで吐き出した紫煙は、風に煽られてふわりと消えて行った。

 

 三日後。

 346プロダクションの事務所は、やいのやいのの大騒ぎだった。

 プロデューサーが作った企画書は、何人も回し読みしたせいで、既にシワクチャになっている。

「……あのフランスの一流ブランドが、日本に向けて新作をリリースする。そのモデルを346プロダクションで請け負ってほしいって話だからな。

 こっちも、気合入れてやらないと……」

 大仕事のオファーに、プロデューサーの鼻息は荒い。

「……緒方明子さんから、直々にオファーを頂いてるんです。

 先日来ていただいた時は、私達も知らなかったんですけどね。あの人が、あのブランドのデザイナーだったなんて……。

 私も詳しくは知りませんけど、志乃さんが緒方さんの古い知り合いらしくて……」

 ちひろは、聞いた話をそのまま伝えた。

「へぇ~……。まぁ、うちとしては嬉しい限りだけど」

 プロデューサーは、そう答えた。

「誰にこのオファーを頼むかな……。

 モデル上がりのまゆか美嘉か……。いや、あいさんや真奈美さんの大人組も捨てがたいし……」

 誰を抜擢するか。プロデューサーの心は揺れ動く。

「そういえば……緒方さんから、是非使いたいってご指名が、一人だけ来てるんです」

「……志乃さんとか?」

 プロデューサーの予想はそうだった。

「いえ……美世ちゃんです」

 ちひろはそう答えた。

 その裏ではどういう出来事があったのかは、この二人が知る訳が無い。

 

 その日の内藤自動車。

 路肩に押し出された、紫のバリオス。拓海はキーを捻って、恐る恐るスターターボタンを押す。

 セル一発で、4気筒エンジンが目を覚ました。高周波の様に甲高い、クォーターマルチのアイドリングが、復活していた。

「……おっしゃあ!!

 あたしのバリオスちゃん、ついに復活だ!!」

 興奮冷めやらぬ、拓海のテンションは、レッドゾーンを吹け切っている。

「キャブもオーバーホールしたし、CDIとプラグコードも新品に変えたからね。二万まで、きっちり回るよ」

 得意げに美世は言った。

 軽くアクセルを捻れば、タコメーターは軽やかに踊り、シャシーブラックで塗装された等長フルエキゾーストマフラーが、ソプラノの歌声を奏でる。

「この音だよ……。もう最高~……」

 イケナイオクスリを使っているかの様に、拓海の表情はとろけている。完全にアイドルの顔では無いし、見せてはいけないレベルだ。

 慣れた手付きでヘルメットを被り、拓海は颯爽とバリオスに跨った。

「んじゃ、ちょっくら試走に行って来るわ!!」

「えっ!? 何て言ったの!!」

 大声を張り上げるが、既にアクセルを煽っている為、何を言ってるか美世には聞こえていない。

 我慢しきれない拓海は、既に一速にギアを入れてクラッチを繋いでいる。

 美世が振り向いた時には、甲高いエキゾーストだけを置き去りにして、バリオスは公道へ出撃していた。

「……まったく。拓海らしいや」

 呆れ半分、微笑ましさ半分で、美世は笑っていた。

「さーて、残りのお仕事もがんばりますか!!」

 そう言って、再びガレージの中へ戻るのだった。

 

 




R33の販売されていた時期と、谷田部最高速トライアルの全盛期は全くかぶっています。
当時の雑誌やビデオを知っている人は、R33に憧れた方も多いと思います。自分もその一人です。
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