Over the lights・Under the moon(なのはと型月クロス・改訂版)   作:くおん(出張版)

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12/魔拳。

「……あーあ」

 ギル・エレクが何処か諦めたような溜息を吐いて、壁に開いた穴を見ていた。穴の向こう側では雨がぱらついて、砕けた煉瓦の破片を濡らしていた。

 煉瓦をセメントで組んだだけの壁だが、それだけでは衝撃に耐えられない。高度に処理された対衝撃、耐久力増加の魔導が仕込んであった。Aランクまでの砲撃魔法の直射でも壊れないという保障もついていた。彼自身も宝物を所蔵しているので試してみてもいる。それだけにこの状態は信じがたいものがあるのだった。

 彼は雨を防ぐ簡易の魔法防御を張りながら外に出て、ばらばらになった破片の中に何かを突き刺した跡が残っているそれを見つけて手に取る。

「どうやら、彼はとんでもない剣を創り出せるようですね」

「それも――やはり、創り出した剣の特殊能力ってこと?」

 傍らで被害状況をチェックしていたティアナが話しかけた。ギルの魔導師ランクがかなりの高等なものであり、能力が分析・防御特化であるということはすでに聞いている。その彼が口に出したのならば充分以上に参考になるとティアナは判断していた。

 ギルは「そうでしょうね」と答える。

「姉さんの分析に、まず間違いはないでしょう。あの人は論理ではなく直感の人ですけど、肝腎なことは外しません。どんな非常識な結論であっても……です。あと、僕は確かに見ました」

 奇妙な形状の短剣を突き刺すことによって、壁に仕掛けられていた魔導が無効化されたのだ。

「この面の、この範囲の魔力が一気に消し飛んでました。魔導の構築を解体すること自体は理論としては可能ですし、現状で開発されてもいますが――あんな一瞬でなんて、通常の魔法では考えられません」

「ふーん……」

「話に聞く魔導殺しというのも違いますね。あれは、なんかベルカ式だのミッド式だのとはかなり遠い――というか、まるで接点が感じられない何かです。ISというのも違うでしょう」

 これも勘みたいなものですが、と言い置いて、ギルはティアナへと振り返った。

「魔道物理の発達した現在でなお容易には原理の解析できない類の、あれは、定義的にロストロギアと呼んで差し支えないかと」

「つまりそれは、あの男は、ロストロギアをも再現する能力を持っているってこと?」

 二人の間に沈黙が生じた。

 ロストロギアといわれるモノの定義は些か混乱している部分があるが、ごく大雑把にいえば現代の魔導においてさえ原理の解析が不明で、なお稼動している古代遺産をさしている。危険度の問題ではないのだ。それゆえに一般売買もされているロストロギアというものも存在する。原理は不明だが現在の技術で同様の現象が可能なもの、危険性がまるでない効果を持つものなどである。あの短剣が単純に小規模の魔導の構築を破壊するだけの能力であるとするのならば、現状でも再現可能な技術に分類されるが、反面、用途の範囲は広く、犯罪へ使える危険性は高いと考えられ、売買不可の指定がされるだろう。

 ただ、戦闘に限定するのならばあのサイズでは使い勝手が悪いに違いなく、稼動条件もシビアなものと考えられる。簡単に使用できるのならばさきほどの戦闘の渦中で使われていたはずだ。

 それに、重ねて言うが再現は可能な能力ではあるのだ。ミッド式にしてもベルカ式にしても、ただ魔法構成を破壊するというだけならば不可能ではない。能力の特定ができていない段階での断定は危ういが、ティアナの知る魔導師でも時間をかければ似たようなことは多分、できる。できるが――。

 

 その機能を持ったアイテムを能力で複製する――などということは、明らかに常軌を逸している。

 

「再現できないものを再現する、か」

 ティアナの声は硬かった。

 それは要するに、あの赤毛の男は、現代魔法工学などを超越したレアスキルの持ち主である……というよりも、存在自体がロストロギアのようなものだと言うことである。

 いや。

「仮にあの能力を〈創出〉として、すべての剣を〈創出〉しているとも限らない……」

「ああ、なるほど」

 ギルも同意したように頷く。

「つまり、転送魔法も併用している可能性ですか」

「……まあ、自分で言ってて意味不明だけどね。それこそ意味があるのかないのか。こちらに能力の誤認させたいのだとしても、あんまり上手い手だとは思えないし」

 ティアナは頭を掻いて待機モードをとっているクロスミラージュに指をかけ、話しかける。

「〝常識的な判断〟に固執しているだけかな。だけど、ロストロギア関連の事件はそれこそ非常識なのが多いんだから、素直にあの男そのものがロストロギアみたいな存在だと考えた方がいいのかもしれない――どう思う?

 と聞かれたクロスミラージュは、解りません、とだけ簡潔に答えた。他に答えようがないようでもあった。

 最初から答えを期待していたわけでもなかった。ただ、自分が思い込みのままに突っ走ってないかを確認するための儀式のようなものである。

「しかし、ロストロギアそのものか……」

 ティアナの脳裏に、〝歩くロストロギア〟と言われている元上司と、師の養女となった〝聖王の複製〟の少女と、今は眠る冥王と呼ばれる娘の顔が浮かんだ。

 生きながらロストロギアと同等……あるいはそのものと言える存在を彼女は知っている。いずれも古代ベルカに関わる血筋だったり、その遺産を受け継ぐ者だった。

 もしかしたらあるいは、あの男も古代ベルカの王族とかの関係かもしれないとティアナは思った。クイーンブレイドの剣筋を知悉していたこと、恐らくは古魔法だのなんだのを使っていること、先日のマリアージュやらのことを考えると、ベルカの王の末裔のような特殊な異能の持ち主であると考えた方が納得がいく。とはいえ、王族の末裔がそうごろごろそこらにいるとも思えない……いや、目の前に二人いた。

(剣王アルトゥースの末裔であるウルスラ補佐官――)

 目を向けると、バリアジャケットを解除した状態で用意された椅子に座ってうな垂れている。葬送の列で見かけた時とも、さきほどまでの戦いの中でみせていた清冽な姿とも違う、力なく消沈しきった様子だった。見ていて胸が痛くなる。目を逸らすようにギルを見ると、今は瓦礫ではなく、骨董品のチェックをしていた。鈍い光沢を持つ金属性の壷を手にとっていて、ティアナの視線に気づくとやれやれと肩をすくめてみせた。

 やがて。

「姉さんは、どう判断します?」

「――私は、」

 聞かれて、それでも顔をあげたウルスラであったが、何かを言いかけて首を振り、また俯いた。

「すみません。今はちょっと思考がまとまらないのです。今は……少しだけ時間をくだされば、分析にも参加できますが」

「無理はしないでいいですよ」

 ティアナは労うように言う。いかに実力は管理局屈指のものであろうと、この数年は前線に出ていなかったのだ。そこから先日に離婚していたとは言え、元夫とは死別、それからの先ほどの得体の知れない相手との戦い――の上に、あんな真似をされては、精神に負担がかかって当然だと思えた。

 正直、戦力としては申し分はないのだが、経緯が経緯である。今回のこの人事はティアナには納得がいかない部分があった。腕の立つ局員が少ないとはいっても、つい先日に身内を事件で亡くした者を担当にまわすというのは常識ではありえない。

 そんなことを執務官が考えているのを知ってか知らずしてか、ウルスラは力のない視線で周囲を見渡した。誰かを探している。目の止まった先には、彼女の弟分が壊れた鎧を拾い上げて溜め息を吐いていた。

「――ギルッ、いつまでそんなガラクタを見ているんですか!?」

 傍から彼女を見ていてたティアナが、思わずびくりと肩を震わせるような声だった。先ほどまでの無気力な様子が嘘みたいだった。

 怒鳴られたギルはというと、落ち着いていた。この姉貴分に理不尽に怒られるのに、彼は慣れているのだろう。

 溜め息交じりの苦笑を浮かべ。

「ガラクタにしたのは姉さんですよ」

 と鎧をそっと床に置く。

 ウルスラは唇を尖らせた。

「うるさいですね。防具なのにこんな簡単に壊れてしまうようなものなどは、どうせ役立たずです。欠陥品です。そもそも現在の戦闘者なら、普通にBJなり騎士甲冑を展開させればいいのです」

「これは古代ベルカの最初期のもので、まだ騎士甲冑の展開術式が未完成だった頃のものなんですよ」

 魔法が完成していなかった時代を証言する、貴重な遺物だったんだけど――という言葉を続けようとして、ギルは黙り込んだ。自らが姉と慕う女性の目が剣呑な輝きを湛えていたのに気づいたのだ。

「……傷心している女が目の前にいるのですよ」

 と、ウルスラは目を細めながら、言った。

「はあ」

「もっとこー、男ならガラクタを弄くる前にすべきことがあるでしょう!」

 椅子から立ち上がり、すたすたとウルスラはギルに詰め寄る。

 ギルは表情の抜け落ちた顔をした。

「女って――ウルスラ姉さんでしょ?」

「私の何処が男に見えますか」

 微妙にずれたやりとりのようにティアナには見えた。そういえば剣王アルトゥースは女性なのに男装して臣下を誤魔化していたという伝承があったなあと思い出したが、思い出しただけで口にはしない。

「肩に手を廻して慰めるとかくらいできるでしょう。男なら」

「それくらいで済むんなら――」

「それから頤に手を添えて顔を上げさせてキスするとかできるでしょう。男なら」

「……………それから?」

「あとは――、そうですね。添い寝とかしなさい」

「添い寝」

 ギルは言葉を繰り返すだけとなっている。

「それから?」

「私はまだ中でイッたことがありませんから、できるだけ、」

「…………………………執務官」

「――はい?」

 いきなり話を振られて、ティアナはびくりと肩を震わせた。正直、なんか痴話喧嘩みたいなのにはあまり関わりたくないとは思っていたのだが。

「どうして女って、結婚すると品がなくなるんですか?」

「いや、私は未婚なのでそこらは……」

 とはいいつつも、別にこのくらいの話は普通にしているかと思い返していた。女同士だと遠慮がなくなるので、きわどいというかエロい話は日常的に出ていたものである。あの性欲どころか恋愛経験なんてありませんという風なスバルやフェイトとさえ、たまに冗談半分にしていたものだ。

 もっとも、三人とも仕事が恋人という状況が長く続いてる訳で、そんなに突っ込んだ話にはならないのだが。

 しかしそれはあくまで女同士での話であって、さすがに年下とはいえ、男の子の前でこういう話はしない。

 適当に言葉を濁すティアナであるが、「何をいってるんです」とウルスラは何処か呆れたような、優越感すら漂わせて言う。

「女の慎みだのそんなものは、男を得るためのパフォーマンスです」

(言い切った!?)

 あまりの言い草に、二人は言葉を失った。

「ああいう外向けの態度というものは、男からの好感度をあげるためのものです。すでに私はバツイチで、ギルは私のものだし、執務官は女性です。今更、慎みある態度とかとってカマトトぶる必要もないでしょう」

「……そういうのも極論すぎるというか、今は一応、勤務中ですので……」

 ティアナがさすがにそう言うと、ウルスラも「すみません」と頭を下げた。

「私も興奮しすぎました。ギルが聞き分けがないので」

「僕のせいなの!?」

「当たり前です」

 ティアナは溜め息を吐く。真面目な人だと思っていたのだが、どうにも違ったらしい。あるいは、無理にでも乱暴なことを口にしてから元気を搾り出そうとしているのだろうか。ビッグマウスだのエロトークだのをよく出してくる人間は、繊細な人間が多い。周囲に本当の自分を見せるのを恐がる者は、仮面として極端な態度をとることがあるということを執務官であるティアナは心得ている。自分でも覚えがあった。

 二人の口論というか痴話喧嘩はしばらく続いていたが、やがてギルが言う。

「だいたい、姉さんはランスロットと結婚しといて、何を今更……」

「……あの時は――あなたは結婚年齢に達していなかったし、それに、結局、別れたじゃないですか」

(ふうん……)

 なんか、ギルの方も満更ではないのかとティアナは思う。

 この二人の間柄は姉と呼んでいても幼馴染だということはすでに聞いているのだが、見た目にでこぼこなカップルに思えた。同じく剣王の血筋に当たるのかと思っていたが、ギルの方は別の【王】の出だという。王族のバーゲンセールだな、とティアナは思ったものだ。

 何処のなんという【王】なのかは聞いていないのだが、ベルカにおける【王】とは魔法にて改造を受けた人間兵器のようだと思ってあまり間違いではない。この少年も何某かの資質を色濃く受け継いでいるのだろう。

「別れたにしても、死んだ翌日に何いってるんですか……今日は葬儀があったんでしょう」

「ええ。空っぽの棺おけにスコップで土をかぶせる作業でした」

 自分も参加したというのもあるが、身もふたもない、とティアナは思った。

「死体はありませんでした。状況から、そう判断されたというだけです。おかげで、実感がまだもてません。ランスロットの馬鹿のことですから、実は死んだと見せかけて何処かで隠れている――くらいのことはするでしょう」

「ああ……まあ、そういうことはしそうだけど……」

(どういう人だったのかしら、ランスロットさんって……)

 勤務態度などの生前の記録に目を通しているわけではないのだが、陸士としてAランクにも達せる人間なのだから生半ではないはずである。勿論、能力と人格には必ずしも関係がないというのも承知はしているのだが、才能だけでAランク以上の能力を発揮できるようなのは、それこそ一部の怪物じみた人間だけである。

 それと、実感がないというのもティアナ解る。おそらく状況から考えて、ランスロットは変異させられてから倒されたのだろうと推測されていた。だとすると灰のようになってしまったに違いない。目の前で彼女はその実例を見ていたのだった。しかし、そのことはまだ一部の人間にしか報告していない。ウルスラはそのことを知らないのかもしれない。それに、万が一の可能性だがインナーだけ残して何処かに隠れたということもありえないわけではなかった。そも隠れてどうするのかという疑問は承知の上でだが、可能性だけならば、ある。それこそ万が一の話ではあるが。死体もなく死んだといわれても早々信じられるはずもなかった。ウルスラの振る舞いは、そう考えると納得できなくもなかった。

「〝実はAAAランクなのに、出世とか面倒だからAランク〟とか子供みたいなこと本気でやってしまうような馬鹿だったものね」

「本気で馬鹿でしたね。あれがかっこいいと思ってたらしいですが」

「―――――え?」

 由々しきことを聞いた、気がした。

 ウルスラは遠い目をしていた。

「そんな、馬鹿で子供じみたところが、私は好きでした。そんな子供っぽくても、しかしやるべき時にやるべきことをやれる男だと、私は知っていましたから……剣の腕も、魔力抜きでなら私以上だったでしょう。だから、ランスロットは今でも何処かで死んだ振りをしていて、いつか私がピンチになったら颯爽と助けにくるとか、そういうことをしそうな気が……」 

 嫌いあって離婚したわけではないのだと、その口調から解った。むしろ、今でも好意を持っているのだと聞いていて思えた。その上でギル少年への愛情だか欲望の方が上回っているのか、その辺りまでは解らなかったが。

 ギルは歳に不相応な大人びた表情で頷いてから。

「そういえば聞かなかったけど、ランスロットとはどうして別れたんです?」

「性生活の不一致です」

 いいにくければ……と言いかけていたギルよりも早く、ウルスラは即座に答えていた。

 ギルは口を何度か開け閉めしていたが、やがて諦めたように溜め息を吐く。

(【王】の末裔同士でこういう会話って、なんかシュールよね……)

 ……考えてみれば、王族だろうと神官だろうとなんだろうと、やはり人間で、性欲もあれば食欲もある。トイレにだっていくだろう。下世話な話だってして当然のことである。

 あるのだが。

「不一致って、……」

「……さすがに私でも、口に出すのもはばかられることは――」

「そういいながら耳打ちとかするんだね、……え? お尻?」

「馬鹿ですかあなたは!? 口に出してどうするんです!」

 ……でも、ほどほどにしてほしい。

 ティアナは溜め息混じりに注意しようかどうか、迷いながら口を開きかけ、

 

「――フェイトさん?」

 

 ギルとウルスラの視線がティアナに集まった。

 ティアナは虚空を睨み、「はい」とか「ええ」とか呟いている。

「解りました。――ギルくんに頼んだらいいんですね。座標は、……後はタイミングを合わせて仕掛けましょう。合図をお願いします」 

 

 

 

 

 12/魔拳。

 

 

 

 

「――なのは」

 

 フェイトは、その声が誰か別の人間が出したのかと思った。

 自分が、こんな声で彼女の名前を呼ぶだなんて。

 ――いや。

 ザンバーフォームのバルディッシュを肩に担ぐように構え、フェイトは『なのは』と対峙した。

 目の前の、およそ十五メートルほどの距離を置いて立っているその女は、確かに高町なのはに似ていた。

 だが。

 人は、人の顔を、印象で記憶する。

 フェイトの抱いているなのはの印象と、その女はまったく違っていた。

 造作だけでいうのならほとんど変わらない、と彼女は思う。この十年以上、フェイトにとっては誰よりも大切な存在がなのはだった。高町なのはだった。魔導師としての高度な魔導の演算を可能にする脳の一部に、彼女は親友であり恩人であり好敵手である――なのはの姿を焼き付けている。その彼女の脳が記録する映像と、目の前の黒い女魔導師の顔は、少なくとも髪型と目つき以外はまったく同じといってよかった。

 ただ、作り出している雰囲気が違っているのだ。

 それは単純にバリアジャケットの真っ黒な色や細部の形が違うことだけではない。

(可能性は三つ)

 フェイトはマルチタスクで思考しつつ、油断なく『なのは』を見ていた。

(私たちを混乱させるためになのはの顔を写しているか、偶々、なのはとそっくりの顔をしているか――)

 あるいは、この女は高町なのは当人か。

 それについては、すでに午前中に話をしたばかりだった。

 彼女は答え――否、覚悟を決めていた。

(ティアナ、なのはが出た。座標はX284gderY0003Z111122dis。ギルくんは防御・転送系の魔法のスペシャリストだから、彼に頼んでみて)

 指向性を徹底して高めた念話によって一方的にそれだけを告げた。

 その時に『なのは』の眦が微かに動いたのをフェイトは見逃さなかった。

(私が念話を使ったのを察した――か)

 戦闘魔導師として一線に立つ者ならば、対峙する敵が何を仕掛けようとしているのか、何かをしているのかを察知することは決して難しいことではなかった。大気を震わせて肌に伝わる魔力の昂ぶり、視線、口元の動き――それらから念話をフェイトが使っていることを察することだけなら不可能ではない。

 稀れにコード化された念話を傍受して解読できる者もいるが、それこそレアスキルの領分である。そして、そんな魔導師であっても、今のように徹底して指向性を持たせれば傍受することすらできないはずだ。

 となれば――

(早めに仕掛けてくる)

 応援の来る前に。

 いや、あるいは。

 集中を増すフェイトの前で、『なのは』は二人の間で立ち尽くしている赤毛の男に声をかけた。

「今のうちに、逃げて」

 冷静――というよりも、冷たい声だ。

 感情がまるで感じ取れない、機械のような声だとフェイトは思った。

 男の、士郎の返事には些かの間が空いた。

「……………今の俺では、足手まといか」

「役割だよ。あなたは、そもそも戦いに向いてない」

 士郎はその言葉に頷き、フェイトに背中を向けて裏路地の先へと足を進めだした。

 フェイトは思わず前に出る。

「待て――」

 いや。

 

「クロスファイヤーシュート!」

 

 フェイトの出るタイミングにあわせて突如彼女の前に転送されてきたティアナが、手に持つクロスミラージュから魔弾を

 撃つ、瞬間。

 

『なのは』はティアナの目前にまで移動していた。

 

(はや、)

 対応し切れなかった。

 脇腹を両手で包み込むように『なのは』の掌は打たれていた。柔らかく、鋭さのない、そこに何気なく置かれたと思われたかのような、そんな打撃だった。もしもその瞬間を目撃した者がいたとして、それを攻撃と看過できたかどうか。打たれてなおティアナは倒れもしなかったのだ。

 いや。

 反撃しなくては、とティアナが思考を再開させようとした時。

「……」

「え?」

 耳元に『なのは』の呟きが届いた。

 そして一瞬の硬直から。

「――――ッ!?」

 全身の神経に異様な衝撃が駆け抜けたのをティアナは感じた。腹の奥底から何か逆流するかのように湧き上がってくる熱があった。それは瞬くうちに嘔吐として口から溢れ出ようとしている。脂汗が顔に珠のように浮かんだ。足の力が抜けて膝から崩れ落ちる。ヤバい、と思った。

「ティアナッ!」

「―――と」

 側面から打ち込まれたザンバーフォームの一撃を『なのは』は両手に小太刀を顕現させて十文字に重ねて受け、そのまま衝撃で飛ばされるままに間合いをあけた。

 五メートル。

 そこから『なのは』はまた移動した。速い、とティアナは改めて思ったが。

「そこか」

 フェイトは無造作にバルディッシュを振った。

「――さすが」

 先ほどと同じく小太刀を重ねて受けた『なのは』が出現し、また間合いをとり、今度は右手を担ぐように、左手を前にした構えをとった。

 フェイトは眉根を寄せ、片膝をついているティアナの傍に歩み寄る。

「大丈夫?」

「あ、――はい。なんとか」

「そう。多分、丹田を挟み込む衝撃を打ち込まれて、太陽神経叢を揺さぶられたんだと思う。無理しないで」

「……フェイトさん?」

 自分から意識をはずし、バルディッシュを下段に落としたフェイトに、ティアナは訝しげに視線を投げかけた。

 今の言葉といい、さっきの対応といい――、

(フェイトさんは、このスタイルを知ってる?)

 ティアナは思い返す。

『なのは』は速かった。速かったが、それは彼女が知る他の近接戦闘の専門家であるところのスバルやエリオに比してどうであったかというと、よく解らない。いや、彼女の今まで知る魔法格闘の名手たちとも何か印象が違っていた。うまく説明できないが、スバルらのようなどう動かれたかも解らない絶対的な速度の差があって追いつけないというのではなく、いつ動かれたのかが判断できずに対応が遅れているという感じだった。

(なんというか、魔力の昂ぶりがなかったというか……)

 その思考は、あるいはフェイトに念話として通じていたのかもしれない。

「御神流」

 とフェイト・テスタロッサ・ハロオウンは呟いた。

 

「久しぶりに見た。御神流二刀小太刀術の奥義ノ歩法――〝神速〟」

 

『なのは』の表情は変わらなかった。

 ただ、微かに目が細まった。

「集中力を高めて脳の演算処理力を加速させ、肉体から潜在能力を引き出す技法。その速度自体は魔法のそれよりもむしろ遅いくらいだけど、入り込むタイミングが違うから、慣れてないとベルカの騎士でも不覚をとりかねない」

 ああ、そうか……とフェイトのその解説でティアナは得心した。

(魔法でもISでもない未知の、というよりも魔力を用いないことを前提とした、全然別体系の技術なんだ)

 とはいえ、魔力の直接関係しない戦闘技法というのは次元世界にもないではない。例えばストライクアーツなどでは、魔力で強化した上でだが筋肉の使い方や重心の落とし方などを変えることで普段の運動と質の違う歩法(ステップ)を用い、相手を困惑させるスタイルもある。今の〝神速〟をティアナが捉え損なったのも、効果としてはそれと似たようなものだった。人間は未知の、あるいは普段目にしないものを見たときには反応がどうしても遅れるものなのだ。

 それにしてもそれらのスタイルは速度そのものが絶対的に速くなるのではなく、相対的に相手より早く相手を打つということに焦点があてられた技法のはずだが――御神流は魔法を使わずして魔法と同様に絶対的な速さをも引き出すのだ。魔法戦闘を前提としている魔導師には、初見では防ぐのは些か困難に思えた。

(……けど)

 ティアナの目はフェイトの背中に向けられた。

「私には通じない」

 彼女は告げた。

「恭也さんと美由希さんに中学の二年の春休みの間、御神流の戦闘法はレクチャーを受けた。今の私に、御神流は通じない。通じるとしたら士郎さんの『閃』のみ」

 フェイトはいいながら、声が徐々に鋭くなっていった。

 そう。

 所詮は慣れの問題なのだ。

 知らぬ技であるから対処ができないというのならば、知ればいいだけの話である。

 フェイト・テスタロッサ・ハロオウンが御神流と訓練したのは、執務官として次元世界を渡る中で、魔法を用いずして魔導師と戦える使い手と戦うことを想定していたからだった。

 暗殺者と対峙すること、あるいは暗殺することを目的として練りこまれ、なおかつ異能相手の戦いをもその歴史に抱えている御神流は、そういう意味でフェイトにとっては格好の訓練対象だった。さすがに習得こそしていないものの、実際に執務官としての職務で、これらの経験は大いに生かされた。今もまたそうだった。

 

「あなたが高町なのはなら、知っているはず」

 

「――それで?」

 

『なのは』のその声は、冷たく、静かで、重く、鋭い。

 彼女らの知る「高町なのは」ではありえない。

 ティアナは先ほどの呟きを思い出した。伝えるべきか、と逡巡した。

 フェイトは何かを言おうとした。

 それらの前に『なのは』は動く。

 小太刀を重ね、目を閉じる。

 桜色をした、三角の魔方陣が浮かび上がった。

「ベルカ式!?」

 フェイトの声に驚愕が混じった。御神流ならまだ解るが、ミッド式以外の魔法を使う高町なのはなど想像の埒外だった。咄嗟に止めに入ろうとしたが、その前に魔法は発動していた。

 

 雨がやんだ。

 

「結界――!?」

 フェイトは空を見上げた。

 変わっている。

 空間を構成している大気成分そのものが変質したかのような、微かな息苦しさをも伴う、世界の構築そのものが限定的にだが組み替えられたこの感覚は、間違いなくベルカの結界魔法――。

 さらに『なのは』は魔法を続けた。重ねていた小太刀を離したところに、二十センチほどの桜色の魔力の塊が生じる。

 

「祝福の光よ我が元に集え」

 

(アクセルシューター ――じゃない!)

 ティアナは直観した。アレは駄目だ。アレは使わせてはいけない。

「――――――ッ」

 フェイトはためらわなかった。ザンバーフォームのままに、真正面から最速の打ち込みを仕掛ける。

 だが。

 

 魔力塊に刃が触れた瞬間、刃は消滅した。

 

「ッッ!?」

 それが魔力素への強制的な分解であったということに気づくのにコンマ二秒。

 その時には『なのは』は魔法を完成させていた。

 

「聖別の吐息となりて天地を清めよ!」

 

 散った。

 

 瞬間、フェイトは自分の展開させている魔法が崩壊するのを感じた。

 常時展開させている防御魔法の構築が維持できない――

(これ、は)

『なのは』を睨みつつバルディッシュを待機モードに戻しながら、マルチタスクでフェイトは状況を分析していた。それが声に出て口から洩れたのは、自分でも信じ難い結論であったからかもしれない。

 

「AMF――!?」

 

「正解」

 

 彼女の胸元に踏み込みながら、『なのは』は言った。小太刀を消した両の掌は、先ほどにティアナへと仕掛けたのと同じく脇腹を包み込むように打ち込まれている。決まれば彼女であっても、いや、彼女のBJは軽装でティアナよりも薄い。受けるダメージはより深刻になっただろう。

 しかし。

 軽装であるということは、より速いということであった。

 

 フェイトの反応速度は、管理局の全魔導師の中でも最速の領域にある。

 

 両手を手刀の形で振り下ろしていた。

『なのは』の両掌を迎撃していた。

 そこから繰り出された右の前蹴りまでの動作は、半ば無意識のものであったろう。

「―――――ッ」

 バックステップして回避した『なのは』は、四メートルの距離を開けて構えなおす。

 今度は刀を手にしていない、指をぴんと伸ばした掌で。

 左を縦にして前に。

 右を下に向けて後に。

 身体は全体的に正中線を隠すようにして。

「その構えは……」

 フェイトはいいかけて、BJを真ソニックフォームにまで変えた。

(結界で援軍阻止、そして高濃度AMFで私たちの魔法を阻害――AMFが結界の魔法構成を崩さないように拡散速度を遅くして濃度を高める……か。AMFの局所頒布はファーン・コラード先生の得意技だったけど)

 AMF――アンチ・マギリング・フィールドは本来AAランク以上の魔法だ。

 元々は古代ベルカの時代から伝わる特殊な魔法だ。かつては管理局でも研究されていた対犯罪魔導師の鎮圧技術の一つである。相手を傷つけず、周囲にも被害を与えないためにと使用されていた。現在では大規模なテロなどには使用されることがあるが、ごく稀である。高ランクの魔法であるということもあるが、使えば特殊訓練をしていないと領域内でろくに魔法が使えず、逆に犯罪者の物理的な攻撃にされされることになるからだ。効果も安定しないし、大規模散布となればよほどの大魔導師でも難儀する。それらのデメリットを鑑みれば非殺傷設定で攻撃して制圧するというのが主流になるのも仕方がなかった。ジェイル・スカリエッティはそれらを魔導によって自動生成するという方法を編み出して解決しようとしたのだった。

 それでも、一部の魔導師はAMFを使う独特の戦闘技術を磨き上げた。かつてのベテラン教導官のファーン・コラードの使うAMF局所頒布もその一つである。

 教え子であるなのはとフェイトも当然、その技を知っているが――

(だけど、これは、先生のそれとは展開のさせ方が違う……)

 あくまでもミッド式魔法として使うファーン教導官とは異なり、この『なのは』のそれは古代ベルカ式だ。

 AMFの効果そのものには大差はないが、ここまで高度なそれを「高町なのは」が使うというのは、まさにありえざる事態と呼ぶ他はない。

 彼女らの師であるファーン元教導官は、局所頒布で相手を心理的、魔法的に防御を一時的にも剥ぎ取り、その隙に研ぎ澄ませたタイミングで誘導弾と砲撃を叩き込むというコンビネーションを使った。かつてなのはとフェイトは、その戦技の前に敗れたのだった。

 もしも高町なのはがAMFを使用して戦いに臨むのならば、それの模倣か発展形だろう――とフェイトは予測していた。少なくとも彼女が今まで幾百と重ねた対高町なのはの戦闘シミュレーションにおいてはそうだった。

 だが、今ここにいる『なのは』は、違う。

 するりと、

 いつの間にか二人の距離が詰まった。

 

「――――!ッ」

「――――!ッ」

 

 フェイトは反射的に右手に拳を作り、振り抜いていた。

『なのは』はその拳を受けつつも相手の側面に廻り込んだ。転身を繰り返すかの如き独特の歩法。そこから突き出された掌がフェイトの右脇を叩き、さらに廻り込みながら背中に掌、下段の前蹴りを膝裏に当て、救い上げるような掌を左肱を打ち、開いた隙間に鋭く振った肘を打ち込み、顔を覆うように当てた掌を、――

 

「フェイトさん!」

 

 吐き気を塞ぐために閉じていた口を開け、ティアナが叫んだ。彼女の目の前で、黒い『なのは』はフェイトの頭をコンクリートの壁へと叩き付けたのだ!

 

 と。

 

 地を蹴って、『なのは』は後ろに飛び退いた。

 そして。

 

「さすが」

 

 と言った。

 フェイトは壁際で蹲るように腰を落としたが、それでも膝をついてはいなかった。両手は闘志の存在を証明するかのように胸元に挙げられている。それはレスリングの構えのようにも見えなくもなかったが、身を屈めて獲物を狙う猛獣のようでもあった。

 ふさり、と後ろにまとめていた金色の髪が広がった。髪留めが壊れたようだった。

「痛かった」

 僅かに顔を上げた彼女の声は、重く、掠れていた。

「BJ越しに、カバーし切れなかった打撃が伝わってきた……けど、抜ききるのには勁力が足りない」

「…………そう」

「けど、やはり、痛い」

 ゆらり、とフェイトはさらに前屈みになり、今度は左手を床に着けて上体を支え、足を伸ばして腰を上げた。クラウチングスタートのダッシュ直前の姿勢に酷似している。ただし、その右手が真横に伸ばされているのが完全に異なる。

 彼女の体表を音を立てて黄色い光が浮かび、のたうつ蛇のように踊って消えた。それは何度となく起こっていた。電気変換。彼女の生来の魔力変換資質が、感情と魔力の昂ぶりに呼応してその身に雷電を這わせているのだ。

(あの構え……)

 近接戦闘の研究をしているティアナにも、今フェイトがしているそれにはまったく覚えがなかった。

 ただ、彼女の体内をいつになく魔力が漲っているのは解る。

 

「ベルカ・クリーゲの一派、獣王手」

 

 意外にも、というべきか。

『なのは』が、何処か感心したような声をあげた。

「そんなの、隠しもってたんだ」

「そっちこそ、昨日は八極拳で――今日は八卦掌か。節操がなさ過ぎる」

「勉強熱心だね」

「シグナムがそういうのが好きなんだ。よく研究っていってビデオ鑑賞に付き合わされてた」

「そうなんだ」

「前にも言ったことがあるけど――」

 言いかけて中断したのは、彼女自身の選択によるものだった。

 弾けたように執務官は跳躍した。

 ティアナの目には消えたとしか思えない速さであった。

 

 たんっ、

 

 と音がした。立て続けに、二度。

『なのは』は驚かなかった。あくまでも彼女は冷静だった。冷静なままに両手を頭上で交差させ、その場で転身した。

 フェイトの繰り出した、真上から斧を打ちこむかのような蹴り受け、投げたのである。

 

 たんっ、

 

 とまた音がした。

「あ――――」

 この時には、ティアナにも解った。

 フェイトは壁に向かって跳び、そこを足場にしてさらに攻撃を仕掛けているのだ。

 戦闘魔導師としては珍しいものではない。むしろこんな閉鎖的な空間ならば当然のように選択肢に上がる戦法だ。ただ、その速度が常軌を逸していた。

 閃光の二つ名を持つフェイトの戦闘を目撃したことは訓練を含めて数多とあったが、これほどに高速で、こんな徒手のみでの格闘戦などというのは初めて見る。

 今度は『なのは』もまた地面を蹴り、床へと足を伸ばして駆け上がる。

 つい先ほどまで『なのは』がいた場所へと着地したフェイトもまた、追い詰めるように壁に立つ『なのは』へと跳ねた。

 振り回すような掌を捌く掌。

 突き刺すような脚を受ける脚。

 縦横無尽の言葉通り、路地裏の壁という壁を床にして、二人の戦いは続いていく。

(凄い)

 ティアナは半ば茫然とその戦いを見ていた。

 彼女の前で路地裏の壁を舞台にして跳躍と旋回と交差とを繰り返し、二人の魔導師が高速の近接戦闘をしている。その速度とレベルはティアナのよく知る二人のそれとはまるで違っていて、手のだしようがなかった。下手に仕掛けたらどちらに当たるか解らない。

(あのなのはさんモドキが使う技も相当だけど、フェイトさんに、まさかこんな隠しスキルがあっただなんて――)

 昨晩の会話を思い出す。

 ――執務官には、隠し技がある。

 それはまさに真実だったらしい。

(しかし、ベルカ・クリーゲって、ベルカ古流のことよね……獣王手――ベヘモス・ハンドか。聞いたことがある。十二種の獣の動きを模した型と五種の基本技で構築された、かつてベルカ古流の主流をなしたという伝説的な流派……)

 もう一方の『なのは』が使うという八卦掌に関しては全く知識がないので、自然とそちらのことばかりに思考がいく。

 とはいっても、ティアナとて今はとっくに絶えたとされるベルカ古流などよくは知らない。映像すら残っていないのである。概要程度の知識しかないのは無理もないことである。

(多分、高濃度AMF下での戦闘補助スキルとして習得したんだ)

 魔法の内力作用ならばベルカ式だが、ミッド式にもある。

 特にフェイト・テスタロッサ・ハロオウンの高速機動は局内でも屈指のものであり、もっというのなら最速であるとすら言われている。しかしその戦闘法の型は剣を持つことを前提としたものであり、このような狭い空間での戦いはシューティングアーツを主体とするスバルが有利に立ち回りができるとティアナは分析していた。AMF下での魔法機動戦でならなおさらである。ミッド式の内力作用は、ベルカ式よりも外部からの魔力素の供給を必要としており、AMFが散布されている状況では長時間の戦闘は向いてない。それゆえに、徒手空拳の型を使うことによってその不利をカバーしようと考えたのだと思われた。

(本来自分にとって不利な状況での戦闘を、少しでもカバーするために……長所は伸ばし、短所は埋めるという基本に、どこまでも忠実なのがこの人たちの凄さなんだ)

 リソースの振り分けの問題があるが、少しでも苦手をなくしていこうとするのは当然のことではある。問題は、それを実行してなお身につくかということにある。よほどに効率的な訓練と資質が揃っていなければ、すでに魔導師として安定期に達していながら新しいスキルを体得できるはずがない。

 ティアナの心中に大きな羨望と微かな嫉妬とが同時に生まれ、そしてその後で焦燥がそれらを焼いて灰にした。

(けど、隠しスキルをどう高めたところで――)

 

 

 

 転章

 

 

 

(大分離れたか……)

 衛宮士郎はあと少しで裏路地から抜けでようかというところで、ようやく息を吐いた。

 それでも、緊張を緩めたりはしない。

 角から鏡をだして周囲を見渡し、誰かが追ってきているかを調べている。天性の直感には欠けるが、数多の戦場を駆け抜けた彼の観察眼は常人の域を超えている。

 それでも雨が降る中では、視覚も聴覚も精度が落ちるのはやむをえないが――。

「あのもう一人の執務官も、セイバーっぽいのもいない、か」

 呟く。

(高町が相手をしているのかも知れないが……まあ、なんとかするだろう)

 その辺りには信頼があった。ほんの半年ほどの付き合いだが、彼が今までともに戦った仲間達の中でも、あれほどの力量を備えた者は滅多にいない。

 それでも。

 彼がその全てを預けられるという人間は、彼女ではなかった。

「雨が……やまないな。このままいても体力を奪われる……早く帰って、一度休むか―――」

 と。

 何かに気づいたように、士郎はビルとビルに挟まれた細い空を見上げた。

 当然のように、そこに人の姿などは見えるはずもないのだが。

「―――ふん、まだ安心というわけにはいかんか……」

 ぼやきながら、路地裏から躍り出る。

 ふらつく足で、人の波の中に混ざりこんでいった。

 

 

   ◆ ◆ ◆

 

 

「……気づかれたかしら?」

「みたいです」

 二人の影が、五キロほど離れた場所で士郎の姿を捕捉していた。

「けど、遠隔視の魔法は感知できなかったですよ。使ったとしたら内力作用の視力強化系だと思うのですけど……」

「いくらなんでも、この距離をそれでは難しいと思うわ。だけど――まあ、それくらいやってのけたとしても、不思議ではないわね」

 影たちはそんなことを話しながら、思念通話のモニターを開けて打ち合わせを続けた。

 ここからのミッションは重要であり、独断での失敗は許されなかった。

『頼んだよ、二人とも』

「はい」

「はいです」

 そして、影たちは消えた。

 

 

 雨が降っていた。

 

 

 

 

 つづく。

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