模倣の決号作戦(改稿前)   作:帝都造営

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X-207Days【改】

 青天の霹靂、という言葉を知っているだろうか。

 英語で言うならA bolt from the blue。下手に遠回りな言い回しをしないから分かりやすい。

 

 確かにその日、空は青かった。

 だが……雷(いかづち)は「かみなり」じゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――西暦2022年3月1日。沖縄諸島沖――――

 

 

 俄かには信じがたい衝撃。何かが歪む音。

 

 一瞬飛びかけた意識を取り戻した時、まだ無傷であるはずの艦橋でも感じられるほど艦の被害は甚大であった。それは艦体(ハード)だけに及ばず、周囲を見回すと人員(ソフト)もなかなかやられたようだ。計器に頭をぶつけたものも入れば、倒れているものもいる。左舷見張り員はいなくなっていた。

 

「状況知らせ!」

 

 すぐさま叫んだ声が、何人に届くのか・・・そう思ったとき、素早い返事がある。副長の声だ。

 

「中甲板に大きな衝撃、何らかの攻撃を受けました!」

 

 攻撃?

 

 そんな馬鹿な、あれは『魚群』ではなく潜水艦の群れだったというのか?

 慌てて頭の中から人民共和国の保有する潜水艦のリストを引っ張り出し確認するが、スクリュー音も攻撃時に必ず聞こえるはずの注水音も聞こえなかった、なんの前触れもなく攻撃できる兵器などあるわけがない。

 

 しかし副長に負けまいと次々飛び込む報告が、現実を押し付けてくる。

 

「CICと連絡不通! 他にも通じません!」

 

 内線電話に飛びついた要員が報告。

 

「直接行け!」

 

 もちろんそれで諦める訳ではない。序列に従って指示が飛び、曹士が飛び出す。

 艦橋から直接中甲板の様子を見ることは叶わないが、海の揺りかごとはまた違う揺れ、これまで感じたことのない異様な感触。

 実戦経験がない訳じゃない。だが……被弾を経験するのは初めてだった。少なからず慌てている自分がいる。

 

 認めるほかない。不意を突かれたのだ。

 

 しかし俺だって118期の首席だ。不意を突かれてからが本番というもの。

 とはいえ……不意を突かれた時点で負けは決まっている。ならばこちらは防戦一方。教科書通りなら現代艦隊戦の防戦ほど悲惨なものはないが、やれることをやるのみだ。まずは危険要素の排除。攻撃を受けたのは中甲板。村雨型駆逐艦の中甲板には、対空誘導弾と対潜誘導弾の垂直発射装置(VLS)、そして艦隊決戦の華である50式対艦誘導弾が積まれている。

 

「誘導弾への誘b・・・」

 

 誘爆を防げ、その一言すらも無常な爆音に封じられる。艦を揺るがすような爆音。

 50式は既に型落ちしており、今度新型に換装予定であったが、現役である対艦誘導弾の威力が低いということはない。諸々の武装は間違った場所で一斉に誘爆。そのスペック通りの働きで自身の母を粉砕する。

 

 早すぎる、火でも着けられたのかと疑うほど早い誘爆だった。一瞬脳裏に破壊工作の可能性が浮かぶが、理由が如何であれ爆発は爆発。足元が揺れる。

 

 そして爆発とは違う、鼓膜を引き裂こうとするかのような連続音、船体が軋む音が聞こえてきた。

 

「傾斜止まりません、艦が折れようとしています!」

 

 それは鋼鉄の断末魔……駆逐艦「雷」はまさに今、「悲鳴」を上げているのだ。

 そう思ったのも束の間、たちまち艦橋の床は大きく傾き・・・違う、艦全体が傾き始めているのだ。中甲板を境目にして、真っ二つに折れようとしているのだ。

 

 早すぎる。だが、この艦はもう戦えない。

 

「総員退去、総員、速やかに艦を離れよ」

 

 その言葉に誰もが同意だったようで、次々と聞こえる復唱。

 

「総員退去!」

 

「ヘリを寄越せ! 手旗で連絡を!」

 

 いったい何人が脱出できるだろうか。徐々に傾く艦橋の中で互いに総員退去と叫びながら人影が動く、しかしそれらの努力をあざ笑うかのように大きな揺れが彼らを襲った。皆がよろめく中――――

 

 

 ざばん。

 

 ――――床が水平に戻った。

 

 もちろんそれは喜ぶような事じゃない。雷は真っ二つになってしまったのだ。完全に分離した二つの船体は、それぞれに空いた大きな破口から大量の海水を艦内に誘い込み、そして直ちに艦の浮力を奪うだろう。

 

 

 

 

 

 傷一つついていない艦橋のガラスの向こうに波が見えた、既に自分の軍服は水に浸かってしまっている。海水に浸かってしまった以上、クリーニングしても元通りになるか分からない。

 

 ――――いつだったか、同期のやつと話したっけ。

 

 現代の艦艇に『轟沈』というものはあるのか。轟沈の定義は攻撃を受けてから短時間で沈むこと。

 対空戦闘も、ダメコンも発達した現代。果たして攻撃を受けて即時に沈むことはあるだろうか。

 

 そんなどうでもいい話だった。百聞は一見に如かずなどとはよく言ったものだが、まさか自ら証明してしまうとは。

 

 もはや逃げる気力もなく……正確には逃げることも出来ず。体が海水に持ち上げられ始めているのを彼はぼんやりと感じていた。

 

 ――――そう言えば、時雨に救難信号を出していないな……いや、本艦の乗員救助よりも自艦の生存を優先するべきか、何が攻撃したのかもわからないんだ、早く逃げろ。嫌な感じがする、逃げてくれ。

 

 ――――西園中佐、いえ西園先輩、恨むつもりなんてありませんからね、あなたは他人がいった些細なことでもいちいち気に病む性分だ。さっさと忘れて、くださいよ……でも、仇は取ってもらいますからね。

 

 

 ああ、何人生き残れるだろうか、乗員自分含めて158名。国より預かった命。何故だか誰も生き残れない気がする。ふざけるな、沖縄近海だぞ?

 まさか、下を進んでいるの『魚群』に食われるとでも……案外ありそうな話だ、ホラーかよ。

 

 

 

 ――――嗚呼、またしても誰も護れなかった――――――――

 

 

 ――――また?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「シノブカイ?」

 

 訳の分からないイントネーションでオウム返しをされた。

 

「偲ぶ会、だよ。この前の琉球諸島事変で高校からの知り合いが殉職した。そのお別れ会」

 

 そんなことも知らなかったのかと思いつつ説明する。まぁ口にした単語が通じないことは今でもまれにあることだから別に気にはしないが。

 

「お別れ会……」

 

 そうオウム返しをする彼女は意味を理解してくれたのだろう。

 そして、慰めの言葉をかけられる。

 

「……大丈夫だ」

 

 そう返しつつ飯田は、彼女の用意してくれた礼服に袖を通す。

 

 

 

「じゃあ、行ってくる」

 

 

 いつも通りの軽い抱擁と行ってきますのキス、飯田は自宅をあとにする。

 彼の自宅は普通の一戸建て。娘が一人のごく普通の家族構成である。奥さんも娘も普通じゃないと言われれば否定はしないが、それはどこの家も同じことだろう。

 

 駅までの道のりは長くはないので、歩いて向かう。それもいつも通りのことだ。

 

 しかし不思議なものである。今日はヤケに礼服が多い気がする……いや、当然ながらそんなのは気のせいだ。自分がそうであると、周りの人間もそうであるかのような錯覚にとらわれてしまう。

 飯田はそう考えつつもしかし、もしかすると本当に礼服を着ている人間は多いかもしれないという、そんなタチの悪い冗談を頭に浮かべていた。

 あってはならない事態ではあるが……この現実を示すのにはピッタリの冗談だろう。

 

 空は濁り、その曇り空から今にも水滴が落ちてきそうであった。

 

 

 懐かしい通学経路を電車で数十分。かつては旧式車両しかなかったこの路線も今では新型車両に置き換わり、他の路線は最新型の車両に置き換わった。住宅地をのんびり眺めながら走ってゆく電車。

 

「沖縄はなぜ防げなかった? 海軍【第二機動艦隊】の『落ち度』」

「米第七艦隊の支援を拒んだ外務省! 関係者に直撃!!」

 

 車内の中釣り広告には週刊誌の政府への妄想やら責任転嫁がズラズラと書かれ、不快になった飯田は目線を車内から逸らす。しかし困ったことに逸らした先には車窓、そこから見える住宅と雲で織り成される灰色の世界。近くに高い建造物が少ないせいで遠くのビル群まで見える。

 

 ここにいったい何人、何万人の人間が住んでいるのだろうか。想像したくもない話だが、現実に人々はこの街で生きているのだ。

 

 

 そして、飯田はとある駅で降りる。かつて通った高校の最寄駅とは別の駅であるが、ここが一番学校に近い会場だったそうだ。駅を出ようとすると、堪えきれなくなった雨雲から雨が落ちてきていた。

 

「……アイツの忠告に従って、正解だったな」

 

 飯田は傘を開く。今日は軍装ではないから問題はなかった。

 

 ……それにしても、よく出席できたものだ。飯田は日取りを決めた誰かに心から感謝していた。

 ようやく設立された統合幕僚本部付きの『敵対的危険生物対策室』。それのゴタゴタがようやく収まってきたところに来たのが今回の「偲ぶ会」への案内である。

 

 自分が行くことは叶わないだろうと考えていた飯田にとって、その日が空いていたのは運が良かった。彼の偲ぶ会にはどうしても行きたかったのだ。そのために久々に定時退庁させてもらった飯田は、会場へと足を運ぶ。

 

 数時間に及ぶ残業をこなす部下を置いて私的な理由で離れるのは皆に申し訳ないが、今回だけは分かってもらおうと飯田は足を進める。

 

 

 会場には『故 松原昌平を偲ぶ会』と書かれていた。

 

 

 100万、こんな数の人間が一斉に死ぬことなどまずない。

 過去どんな災害でもこれだけの人間が死ぬことは……感染症でない限りなかった。

 

 しかし日本中で葬式が開かれているかといえばそういうわけではない。

 

 琉球諸島事変で犠牲になったと思われる人々は確かに100万。しかし沖縄諸島がやつらに「占拠」されている今、死体として確認することはできない。つまり書類上は行方不明となり、法律上は死亡したことにはならないのだ。時間が経てば死亡届を出すことができるが、それは当分先の話。

 

 しかし例外がある。

 

 それは駆逐艦「雷」乗員をはじめとする今回の事変で「殉職」――――「戦死」というべきだろうか――――した者たちだ。

 

 そして……その中に今回の主役、松原(まつばら)昌平(しょうへい)が含まれている。

 

 

 

「久しぶりだな、まさか来られるとは思わなかったぞ」

 

 

 後ろから声をかけられる。振り返れば懐かしい顔。

 

「おぉ、石井じゃあないか。久しいな」

 

 たいして親しい仲ではなかったはずだが……久しぶりともなれば会話は弾むもの。

 

「最近はお前ら皆同窓会に来なくなっちまったからな。お前が最後に来た時のはよく覚えてるぞ・・・松原の野郎と二人で肩組んでカラオケモードだったなぁ」

 

「随分と前の話をしてくるな、お前は」

 

 ふと見回せば周りも似たような様子で談笑している。これだけの人数が集まるのは本当に久しぶりだ。ここに来るまでは頭の片隅にもなかった最後のクラスでの自分の出席番号やクラスメイトたちの名前も次々思い出され、そして記憶と現実を流れ作業のように照合してゆく……意外と皆変わっていないものだ。

 

 少しの間、飯田も彼らとともに昔話に花を咲かせる。話題はやっぱり仕事のことや家庭のことになってしまうが、誰々があの人と結婚したらしい、家を買ってローンがどうのこうのなど話題は尽きない。

 

 だが、飯田は途中で話を切り上げた。

 

「悪い、ちょっとあいつのところ行ってくるわ」

 

「……ああ、まだ行ってなかったのか」

 

 じゃあ後で。そう軽く交わして飯田は会場のある一角に足を進める。

 

 もうおばさんと呼ばれても文句が言えなくなりそうな元女子学生たちが親しげに声をかけてくるが、彼女らと長々話すつもりはない。適当にあしらい、目指すはある一角、そこはこの会場で一番目立つ場所。これ以上人数が集まって偲ぶ会が始まったらきっと一人だけで彼の前につくことはできないと思ったのだ。

 

 飯田が足を止めた目の前には、松原の写真が飾られている。

 

 彼は軍帽と半袖のワイシャツを来ていて、胸には記念章がつけられ、肩章は彼が少佐であることを示している。

 

 この場に似合わない笑みを浮かべた――――だからこそこの場の写真として選ばれたであろう――――写真は彼が雷艦長を拝命した時に撮った写真らしい。

 

 同期たちの中では初めての艦長、誇らしいことだし、喜ばしいことである。

 

 彼はいつも、実質的に一番出世している飯田にお前が言うなと言っていたが……海軍幕僚長補佐官と違い、艦長とは長である。これ以上の名誉はない。

 彼だってそう思っていたはずだ、その証拠に彼の写真はただ花に囲まれているわけではなく、横に軍艦旗と海を往く駆逐艦「雷」の写真が飾られている。生前に自分の偲ぶ会には乗っていた船の写真を飾ってくれとでも頼んだのでいたのだろう。

 

 写真の中の駆逐艦「雷」の雄姿。もうこれを見ることは叶わず、軍艦の機能美を語り合った友はいない。

 

 

 会場がにわかに活気づく、振り返ると昔のクラスの人気者が会場に入ったところだった……懐かしい、過去の友人たちは今何をしているかなんて最近は考えてこともなかった。

 

 そう、松原(こいつ)のおかげで友人たちに久々に会うことが出来たのだ。本人がいないのは皮肉なことだが……ともかくそれには純粋に感謝しよう。

 

 それにしても……懐かしい顔ぶれを見れば見るほど思う。

 

 このうちのいったい何人と自分はまた再会できるのだろうか。いや自分は生き残れるのだろうか。

 

 恐ろしいものである。自分はそれを防ぐために敵対的危険生物対策室長になったというのに。

 だがそんな思いが頭を離れないのだ、現に目の前で微動だにせず笑みを浮かべ続ける親友は死んでしまったのだから。

 

「なぁ……岡沢っていただろ」

 

 そんなことを考えていたせいだろうか、飯田の耳にある会話が聞こえてきた。

 

「ああ、あの岡沢か……そういやいないな」

 

「なんでも……あいつ、那覇に出張だったらしいんだよ」

 

「嘘だろ?」

 

 聞こえてきた方を向けば一角がざわついている。もちろん話題に上がっている岡沢という人間が死んだという証拠はない。それでもまぁ、彼が生きていると信じている者は誰もいないだろう。

 

 映像もないし証言もない。

 どこを探しても政府公式発表以上の情報は得られない。

 

 あまりに現実的でない話だ、そして、これが現実として受け止められている奇妙な現実。まるでこれまでの世界が腐食されているかのようにも感じられる。いったいどうなってしまうのだろうか。この世界は。

 

 そして、そんな感傷にすら浸っていられないのが自分の立場である。親友は倒れた。飯田は残された。だから仕事は飯田に回ってくる。それだけだ。

 

 

 そんな時唐突に声をかけられる。

 

「あの……飯田さんですよね……」

 

 声のする方を向けばどこかで見たような顔。はて……誰だったか。学校の人間じゃなかったはず……。

 必死に記憶を探す飯田。微妙な沈黙。しかしどうやら相手もそれは想定済みだったようで、おずおずと切り出した。

 

「お久しぶりです……って言っても覚えていないかもしれませんが……兄がお世話になりました」

 

 思い出した。というか今の流れで思い出せなかったら流石に不味いか。

 

「あぁ……松原弟か、十数年ぶりだな」

 

「はい、お久しぶりです」

 

 松原の弟。彼とはある程度の付き合いがあった……どちらかというと消極的な性格はよく覚えている。

 そんな彼も成長したものだ。いや、最後にあったのは飯田が高校を卒業したころ。成長していなければおかしい。

 

 飯田は彼に聞きたいことがいろいろあった。家族ならお盆や正月で会う機会もあるだろう。最近の彼はどんなことを言っていたかや、雷の艦長になったことをどう思っていたのか、などなど。かつてのようにこっちが一方的に話しかけるペースになってしまうかもしれなかったが、それでも聞きたいことがいろいろあった。

 

「あの……」

 

 しかし松原弟は飯田よりも先に口を開いた。それは記憶の限りでは、随分と珍しいことだった。

 

「まだ会が始まるまで時間が少しだけあります……すこし、時間をいただけないでしょうか?」

 

「時間と言っても……」

 

 腕時計が示す残り時間は、十五分ほど。あまり長くはない。

 

「あまり時間がないが……用は何かな?」

 

「……別な場所でもいいでしょうか?」

 

 時間はない。それでも別な場所に移動する必要があるということは……いったい何の用事だろうか?

 いずれにせよ、相手は他でもない松原弟。ここは聞いておくべきだろう。

 

「構わないよ、場所を移しながら話を聞こう」

 

 そう言いながら飯田は松原弟を先導する。通っていた学校の最寄駅でないとはいえここら辺には一応詳しい。時間もないし、最も近い喫茶店でも目指すか。そう思いながら進む飯田。

 

 余程時間が惜しいのか、廊下に出るとすぐ松原弟は話し始めた。在りし日の松原と声質こそ似ているが、喋り方は異なる調子。

 

 

「兄の死から七日目、丁度法要を終えた日でしたのでよく覚えています」

 

 松原弟は、何かを迷うようにポツポツと続ける。路上に出たせいで、彼の声は雑踏に紛れそうになる。

 

「だからこそ……信じられないのです」

 

 傘を開く。傘にあたる雨の音。

 

「自分の家は世田谷にあります……父が老人ホームに入ってからは、母と二人暮らしです」

 

 まさか身の上話をするのが目的ではないだろう……一体何の話だというのか。

 

「でも母はいつも九時ぐらいになると床へ入ってしまい、寝たり起きたりを繰り返しながら決して自室からは出て来ないんです」

 

 だからその時、自分は居間に一人でいました。そう松原弟は言う。

 

「その日は雨が降っていました……今日みたいに弱い雨でしたね」

 

「……」

 

 喫茶店へと到着。松原弟は話を続ける。

 

「だから初めは気のせいだと思ったのです。だけど次第にドアの向こうが気になって……」

 

「気になる? 何が気になったんだ?」

 

 飯田はそう問いつつも喫茶店が混んでいないことを確認し、中へ入るよう松原弟を促す。

 

「……声が、聞こえた気がしたんです」

 

「声、ね……」

 

 飯田は呟くように言って、それからその言葉を頭の中で繰り返す。松原弟のことだ、まさか妄想を語ろうとしているわけじゃあるまい。

 だが……この話し方じゃ、まるで怪談か何かを聴かせるような言い方だ。

 

「……」

 

 双方ともに口を閉じ、カウンター席に腰掛ける。松原弟はさっきと変わって黙ってしまっていたが、時間も残り少ない。飯田が遅れたところで何も変わりはしないだろうが、主役の弟がいないのはまずかろう。マスターには適当に注文し、松原弟に話の続きを促す。

 

 そして、彼は躊躇いつつ口を開いた。

 

「……小さい女の子でした」

 

「……」

 

 飯田は無言で返す。

 

「小さな女の子が、傘も持たずに立っていたんです」

 

「……分からないな、お前はそれが松原の幽霊だと言いたいのか?」

 

「自分もそう思いました」

 

 でも、違うんですよ……。彼はそのままポケットに手を伸ばす。何かを探しているようだ。

 

「……私は彼女に寒くないのか、と聞きました。そしたら彼女は何も言わず、私にあるものを渡したんです」

 

 これです。

 

 そう言われて手渡されたのは一枚の写真。水に濡れ、その後乾かしたのかシワがついていたが……飯田はこの写真を知っている。

 

「……」

 

 飯田は引き込まれるようにその写真を見つめた。

 写真には若い学生が二人。飯田孝介と、松原昌平だ。背中には内堀とその対岸にある木々が見え、ここが千代田区であることを主張している。

 

 マスターの持ってきてくれたコーヒーの鼻をつく香りがなければ、あと十秒は我を忘れていたかもしれない。そのぐらいに驚いた。

 

「これは……」

 

 頷く松原弟。

 

「自分も驚きました」

 

「……なんで、持ってるんだ?」

 

 素直な疑問だった。この写真は所謂「学生のノリ」で撮ったもの、まさか松原だってこのことをペラペラ喋ったりはしないだろう。加えて複製なんて面倒なことはしないはず。松原弟が持っているはずがなかった。

 ……しかもその松原弟は、これが見知らぬ存在から貰ったものだと言うのだからお話にならない。

 

「自分も聞こうと思いました。でも、次の瞬間にはいなくなっていたんです……」

 

 イマイチ要領を得ない説明、もちろん松原弟も状況を把握していないのだろうが。

 

「……」

 

 さて、なんと言ったものだろうか。松原弟が空想の話を語っている訳ではないことは分かった。目の前の写真は小道具にしてはあまりに精巧であるし、こんなことをわざわざする価値が見つからない。

 とはいえ、松原弟が何を言いたいのか……いや、松原弟が何を経験したのかは、全くもって分からなかった。

 

「……その、『小さい女の子』の声は聞いたか」

 

「いえ……聞いていません」

 

「そうか……じゃあ何とも言えないな、俺からは」

 

 まさか幽霊が存在するはずもないし。

 そう無理矢理結論付け、コーヒーをすする飯田。

 

 何を思ったのか松原弟は自分のカップを見つめ、それから呟いた。

 

「……もう、戻らないと……」

 

 会話は終了である。これ以上互いに話すこともない。

 

「……ああ、そうだな」

 

 飯田は立ち上がり、財布を取り出そうと内ポケットに手を伸ばそうとした松原弟を止める。

 

「このぐらい払うよ……それより、主役のそばにいてやれ」

 

 松原弟は席より立ちあがり、頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

「いやいや、話してくれてありがとう」

 

 そう言いつつ、飯田は写真を手に取った。

 

「この写真は……預かってもいいだろうか?」

 

「構いません、もとよりそのつもりでした」

 

 自分が持っているよりは、飯田さんが持っていた方がいいと思います。

 

「そうか……」

 

「では先に戻ります……兄との時間を、どうか楽しんでください」

 

 と言い残して店を去る。

 

 去り際に「訳のわからない話をしてすみませんでした」と、付け足して。

 

 

 

「……」

 

 どうにも後を追う気になれなくなった飯田はまた椅子に座る。手元には松原弟が残していった写真、まだ二人共学生らしい幼さを残した顔立ちだ。松原がここにいれば、なんといって茶化すだろうか? 彼がいないからこそ成立する問に、答える者はいない。

 

「幽霊か……」

 

 幽霊という言葉が、飯田にあるものを思い出させた。琉球諸島事変発生直後に週刊誌に刑された様々な憶測まみれの記事。その中の一つに、この事変は『77年前の亡霊』の仕業だといった記事を見たことがある。飯田と同様に実施されなかった「沖縄上陸アイスバーグ作戦」と今回起きた「琉球諸島事変」の作戦開始日の一致に着目し、それを裏付けるためのいくつかの資料を並べたものだ。

 

 本当にそれが幽霊の仕業ならまあ、松原の幽霊がいたっておかしくはない。

 

「……何を馬鹿なことを考えているんだか」

 

 飯田はカップの中身を飲み干した。コーヒーの酸味が馬鹿げた妄想を否定してくれることを祈るが、たかがコーヒーにそんな判断は下せない。

 ……いや、正常な判断が下せないのはコーヒーだけじゃない。世界も同じだ。各国はこの事変への関与を強く否定した。その一方で、慌てて情報収集、他国との連携にも励んでいる。

 ジュネーブでは国際連盟の臨時総会が開かれ、それに非加入のアメリカと80年ほど前に脱退してしまった日本や英国はサンフランシスコで東南アジア条約機構SEATOの緊急会合。

 

 どちらもようやく始まったかという感じだが、これらの開催自体が事態を進展させることはないだろう。

 分かっていないのは何がどうなっているのか、ということだけではない……今回の一件に関わる自国の利益の定義すら、まだはっきりしていないのだから。

 

 そして世間も、その反応は様々だ。

 一部は平穏を望み、琉球諸島事変を忘却の彼方へ追いやろうとしている。かと思えば、声高に沖縄奪還、直ちに派兵と声高に叫ぶ者もいる。

 

 誰もが終着点、いやそこへ至るまでの通過点すら見えていなかった。

 

 

 そんな折に携帯が震える。

 

「……私だ」

 

『少佐!』

 

 通話ボタンを押すと、いつもより興奮した様子の小河原の声。

 

「何かあったか?」

 

『少佐、今しがたホワイトハウスで重大な発表がなされましたよ!』

 

「……一体何だというんだ」

 

『いいから合衆国政府のHPを見てください、それで全て分かりますよ』

 

 そう小河原に言われた飯田。鞄から私用タブレットを取り出し、お気に入りからアクセスする。

 そこには……事態の進展を示す公式発表が載せられていた。

 

『合衆国、焦りましたね。もしかするとSEATOで何か決まったのかもしれませんが……』

 

 電話の向こうの小河原は今、自分の部署にいるのだろう。米国が動いたとなればそれに関する情報収集や対策も必要だ。

 今更会場に戻る気にもなれない飯田にとっては、これがいい言い訳となる。

 

「分かった、今すぐそっちへ戻る、話はそれからだ」

 

『了解です、それでは』

 

 通話終了。携帯をしまった飯田は二人分のコーヒー代を払い、外でタクシーを止める。

 

 流石にこの服装で職場へ向かう訳にもいかないし、一度は家に戻る必要があるだろう。自身の住所を告げると、なるべく急ぐように言って走らせる。

 

 

 

 

 

 すまんな松原、この写真はしばらく預からせてもらうぞ。

 靖国にもし俺が行けたら、お前の仕業だったのかどうか教えてくれ。

 

 もういない親友にそう伝え、飯田は写真を懐にしまった。

 

 

 

 空は何かを隠すかのように、濁った灰色のまま暗くなっていく。

 

 街灯では、照らしきれない。

 

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