遠くから何か聞こえてきた。スピーカーからぼそぼそとアナウンスが流れるが、住宅街にちらほらと建つマンションビルや地形に反響してよく聞こえない。
「また光化学スモッグ注意報か……」
飯田孝介はうんざりした様子で空を見上げた。真夏の青空にはのんびりと雲が漂っている。今日の飯田はなぜか私服で、今更ながら帽子を持ってくればよかったと後悔。
光化学スモッグというのは人類の経済活動がもたらした弊害の一つで、暑く日差しの強い日に発生する現象だ。
今日は早いうちに引き上げようか。今日何のためにこの土手を歩いてるのかは分からなかったが、とにかくそんなことを考える飯田。
「……?」
と、耳に入ってくるアナウンスの調子がおかしい。普段の間延びしたそれではなくて、どこか焦りを帯びて電子的な……違う。
「そんなっ! ありえない!」
飯田は空を仰ぐ。耳に入ってくるのはアナウンスなどではない。サイレンだ。頭の中の記憶を引きずり出せば、そのサイレンは警戒警報。警戒警報ならば空にまだ敵機は来ていない。
飯田は走った。どこに向かってるかなんて全く見当がついていなかった。だがとにかく走る。すぐに息が荒くなって、脇腹に鈍痛が走り始める。しかし走ることだけはやめない。
頭の上を飛び交うサイレンが鬼気迫ったものに変わる。空襲警報だ。もう間近まで来ているのだ。
空軍は何してるんだ。そんなことを考える余裕もない。
とにかく走って、走って。
そして、人影が見えてきた。これを見た飯田は、なぜここまで走ってきたのかを理解する。
「良かった、無事だっt……」
直後、人影の上には――――
寝室の常夜灯に照らされた寝室。
ほのかに赤い光が弱いながらも部屋のあちこちに反射してぼんやりと明るい。
つい先ほどまで棒立ちになっていたはずの飯田は横になっていた。化学繊維をふんだんに使っているであろう毛布と掛け布団が彼の体を包んでいる。
だがそれでも、息の荒さだけは健在だった。より多くの酸素を取り込もうと肺が収縮と膨張を繰り返し、肺胞の中へと空気を誘い込む。寝間着が汗でしっとりと濡れている。
夢か。理解するのに数瞬を要した。
夢というよりは悪夢だろうか。
嫌に現実味のある夢だった……というか、飯田の妄想が具現化したような夢だった。夢にまで仕事の話が入り込んでくるとは、少々休みを取ったほうがいいのかもしれない。夢自身のことはなるべく考えないよう自分の疲労を心配するふり。
疲労を消すには睡眠以上の方法はない。とはいえこのまま横になっていても眠ることは出来ないだろう。そう考えた飯田は一度起き上がろうと試みる。
真横で寝ているパートナーを起こさぬよう、ゆっくりと腕を抜こうとする。ところが飯田は手にある感触があることに気づいた。
「……」
手が添えられていたのだ。うなされていたのだろうか? 本人には分からないが、彼の手に添えられた手が何のために添えられているのかを考えれば、答えは明白。
その手の持ち主と視線を交わす。いつから彼女は自分の手を握ってくれていたのだろうか。そう思うよりも先に出てきたのは、思考ではなく感情だった。その感情は衝動となり、身体を動かさせた。
相手が一瞬だけ困惑の気配を見せる。でもそれは本当に一瞬で、すぐに全てを理解したかのように抱擁に応じてくれた。両者の寝間着は互いの熱交換を少しでも妨害しようと試みているようだが、しかしそんなものは無駄である。
――――失いたくない。
『夢の中』で彼女は間違いなく死んだ。でも目の前ではそんな夢を作り出してしまった自分のことを心配してくれる彼女がいる。いつか来るのかもしれない喪失の瞬間がいくつも連想され――――情けないことに――――涙腺の決壊を許した。彼女は何も言わずに腕を飯田の頭に伸ばし、涙で失われた体温を補充しようとしてくれる。理由すら聞こうとはしない。そして飯田が夢の話を今彼女にしたのなら、彼女は無言で聞いてくれることだろう。
とにかく情けなかったが、また同時に幸せでもあった。ここにはまだ彼女がいてくれる。こうやって自身に温もりを与えてくれる。幸せであるというのは喪失の恐怖に怯えることだ。だから自分は今、最高に幸せなのだ。腕の中の彼女は細くて弱い。いつ失われるかも分からない彼女を意味もなく抱きしめる。意味は欲しくなかった。
――――いざとなったら、私はこの温もりを捨てて国を守れるのだろうか。
不甲斐なさから生まれた保身のための自問自答に、応える術はない。
いっそのこと正解を目の前の彼女に求めてしまいたかった。自分でも言うのもアレだができた妻だ。きっと飯田の求める模範解答をくれることだろう。
だからこそ、その問は自分の胸にしまっておかねばならない。
国と家族の命を天秤にかけねばならない時が来た時、自分はどうするだろうか。
生まれて以来変わらない、変わってはならないはずの答えが揺らいでいるのを飯田は感じていた。いや前からではないか。家族を持ち、子を持ち、その成長を見守る度に膨らみ続ける不甲斐なさと無力感。
それを打ち消そうと、ただ腕に力を入れる。もっと欲しかった。
ここ最近SEATO諸国を騒がせていた米国大統領の声明と、彼が派遣した討伐艦隊。
これが壊滅した。ジャワ島への襲撃が始まってからたった二日後、4月12日の話だ。
そしてアメリカは自由の守護者である
しかし新聞の一面に踊ったのは全く異なる見出しであった。
【SEATO東南アジア最高司令部、ジャワ島放棄を決定】
「あっ、おはようございます少佐」
飯田が室に入り部下たちと挨拶を交わしていると、小河原が新聞を振りかざしつつ近づいてきた。
「ああ、小河原か。おはよう」
「それより今日の新聞見ました? 本来なら世界的ニュースになるはずの米国艦隊壊滅がまさかの三面ですよ。さ、ん、め、ん」
「そうだな……艦隊の壊滅が日常茶飯事のようでは困るのだが」
飯田もそう冗談混じりに返すが、もちろん艦隊の壊滅が日常茶飯事であるはずがない。
ジャワ島の放棄の決定。そのニュースの衝撃が遥かに大きかっただけなのである。
先日敵対的危険生物の襲撃を受けたジャワ島。ここにはSEATO本部、またインドネシアの首都でもあるジャカルタが存在する。またこの地には長らく反共の指揮所となってきたSEATO東南アジア最高司令部も存在するのだ。
それを放棄するというのがどういう意味かは、言わずとも分かるだろう。
それでも、SEATO軍としてはいかなる事態に対しても戦力の損耗は避ける方針なのだ。一箇所に留まっての抵抗が無意味どころか唯々損失につながるのは琉球諸島事変で学ばされた戦果のひとつだ。
限られた戦力で時間を稼ぎ、住民の避難の時間を稼ぐ。
しかし考えてもみてほしい。ジャワ島の人口は一億にのぼる。一億人である。いくら前もって準備していたであろうインドネシア政府であっても全ての国民を逃すことなど叶わない。確かに避難活動は実施されるだろう。他のSEATO軍だって支援の手を差し伸べるだろうが、避難といっても対象は一部の上流階級だけに限定され、ほとんどの民間人は放置されることだろう。それを分かっていても各国は上陸された島は見捨てると決めているのだ。
時間はあった。対策は立てた。その結果が避難優先のリストを作り、見捨てられる地区などが出来た。一ヶ月間という猶予は犠牲者を減らしたと言えるが、一方で犠牲者を増やした訳だ。
沖縄の悲劇が繰り返される。それも数千万人規模で。
そんな状況下なのだから、別に米艦隊を蔑ろにしている訳ではないのだ。
「まあもともと、大統領だって壊滅することは分かっていたでしょうしね」
小河原が新聞を見つめながら呟く。対する飯田はため息。
「……小河原、滅多なことを言うな」
「でもそうでしょう? 『奇跡的に』生き残った駆逐艦からたくさんの情報を手に入れられ、世論は敵対的危険生物許すまじと過熱。その圧倒的な工業力をなんとかしてお金に変えたい彼らにとってはまさに一石二鳥」
吐き捨てるようですらある小河原の台詞。それは誇張が含まれるとはいえ事実であった。
琉球諸島事変。海軍では駆逐艦「雷」を喪失するという最悪な結果に終わったわけだが、しかし得られたものがない訳ではない。
「雷」が瞬時に叩き潰されつつも、僚艦の「時雨」は無傷で生還した。その原理を学んだのだ。
「時雨」がなぜ敵対的危険生物の攻撃を受けなかったのか? 答えは簡単だ。『魚群』に対する攻撃命令を受けた「時雨」「雷」両艦のうち、攻撃を行ったのは「雷」のみ。この二艦は同型艦であるのだが、敵対的危険生物は恐らく「雷」の脅威度にのみ注目したのだろう。
つまり、仕掛けた艦に攻撃が集中するのだ。敵対的危険生物は優先攻撃目標を定めて攻撃しているということだ。
アメリカがこの理屈を応用したのは間違いない。そうやって一隻だけ攻撃に参加しない艦艇を作り、残りの艦艇で死闘を演じさせる。なかなかのデータが手に入ったことだろう。
「全くもって羨ましいですよ。こっちは万年の駆逐艦不足だって言うのに」
小河原は嘆くように言う。こんな方法では大勢の犠牲が生まれる。だがしかし、それすら利用するのが彼の国である。
感情的なアメリカ国民は必ず報復を望む。大統領はそれに応える。
喪失した艦艇は彼の国の圧倒的工業力で補充されるどころか倍増し、国債を発行して無理矢理作ったドル札の波が北アメリカ大陸を潤す。
資源が潤沢でかつ、正義が大好きな国民性から生まれるイリュージョン。そこで終わらないのが超大国たるゆえんなのだが、今回ばかりは勝てるかどうか、いや戦いになるのかどうかすらも怪しいものだ。
いくら情報不足とはいえ、米艦隊は壊滅。その犠牲をもってしても大した戦果が挙げられていないのは紛れもない事実なのだ。情報が揃ったところで勝てるかどうか。
「ま、そう言う風に考えれば、こうやって大々的に報じられず、ジャワの裏でひっそり沈んだ方が
そんなことを言う小河原。だがそれを聞く飯田の表情は、徐々に暗くなっていった。ジャワの陥落。米艦隊の壊滅。空しい展望しか見えないのだ。
……だから、余計に夢のことを思い出してしまう。
「ところで小河原、お前はどう思う……航空機のこと」
飯田の質問に、小河原は驚いたような表情を見せる。
「……なんですか出し抜けに」
小河原の言うことは最もである。国内流通の把握や陸軍の大増員。国内ですらてんやわんやなのである。それに加えてジャワ島放棄。それがもたらすのは大量の事後処理である。守備隊の配置は適切だったのか? 住民の避難での混乱は、障害は? 実際にことが起きなければ分からないことは多い。だからこそ、もしことが起きてしまったのならばそれを100%生かさねばならない。
それに対して航空機とはなんだろうか。敵対的危険生物はあくまで害獣だ。航空機など保有する訳がないのだ。それは空想上の話でしかない。
だから飯田も航空機に関しては否定的な立場を取っていた。
だがしかし、空を支配する存在。航空機はあまりに重かった。その可能性は、懸念は、むくむくと膨れ上がり、飯田に悪夢を見せるほど大きな怪物となってしまっていた。
「……これはあくまで、自分の個人的意見ですが」
そう前置きしつつ小河原は新聞を机の上に置く。そして飯田に向き合った。どうやら彼もその思いに取りつかれていたらしい。
「敵が航空戦力を持つ可能性は確かに否めません……ですが、現段階では興味を持っているかどうかすら怪しいものです」
航空機に襲われる。これは現代人なら誰もが恐れるシュチュエーションなことだろう。
遥か遠くの敵地より飛来し、的確なポイントを爆撃して帰ってゆく爆撃機。
制空権が我が手にあるのをいいことに、子供が面白半分でアリの巣をつつくように市街地を銃撃して帰ってゆく戦闘機。
有人爆撃機など時代遅れと言われる現代であっても各国は戦略爆撃機を所有しているし、あらゆる軍事作戦が制空権の奪取を前提としている。そう、圧倒的な航空機戦力の前にはかの戦艦武蔵も沈んでしまうのだ。そして、実施こそされなかったがアメリカ空軍には東京を焼き払ってしまうという計画も存在した。
エア・パワーの力には圧倒されるものが、魅力がある。
「敵はまだ、航空機の本当の魅力に気づいていない。そう自分は考えます」
そのはずである。だがそれは願望だ。ただの妄想だ。
やつらのことなど何一つ分かっていないのだ。
「……ですが少佐、空からの航空攻撃は対策さえできればそこまで怖くないと一週間前の対策会議で言ってたじゃないですか」
そうなのだ。
空からの攻撃には必ず隙がある、工場は地方に逃せばいいし、市民は疎開させればいい。畑を全て掘り返すほどの爆弾は用意することはできないし、そんな攻撃法は現実的ではない。
エアパワーは圧倒的である。しかし、それは全てではない。
そんなことは分かっているのだ。
飯田は誤魔化すように頭を掻いて見せる。
「そうだったんだがな……一昨日の対策会議で指摘されて以来どうにも頭から離れなくて、な」
一昨日の対策会議では小河原が言ったように“仮に航空戦力が出現しても、直ちに対処が出来れば大きな問題とはならない”と説明をした飯田であった。だが敢えてそのことは言わない。
……流石に昨日の夜、航空機に家族を殺される夢を見たのが理由とは言えないからだ。夢を見た後嫁に泣きついたなんてもっと言えない。
しかし、冷静になってみると、夢が気になるなんて自分も随分と大げさな人間になってしまったものだ。現実離れしたことが多すぎたせいか、神経が狂ってしまったのかもしれない。
「はぁ、そうですか」
小河原も気のない返事。彼もこれ以上妄想でしかない話にこだわるつもりはないようだった。
それからひと間。小河原はそう言えば、と話を変える。
「陸軍三大管区の件は進展しました?」
「あぁ……その件か」
もう会議は二日も前の話。しかし目の前の小河原にその内容は伝わっていない。もちろん報告書は提出済み。室員には内容を確認するよう室内の共有データで通達したのが……それを配布したのは今朝、丁度たった今この瞬間の話だ。まだ端末に目をやっていない小河原がまさかそれを読んだはずがない。
本当に仕事は溜まる一方で、減る気配を見せない、猫の手は機密に関わるので借りれないが、誰か手を貸して欲しいというもの。
そう、だからあんな夢を見たのだ。飯田は今日何度目か分からなくなるほど悪夢の説明をしようとしていた。だがそれは彼の頭の中での話。現実の飯田は小河原へと返答をする。
「ああ、経産省の方も満足気だったし、恐らくは上手くいくだろう」
「おぉ、それは良かったですね」
三大管区というのは、敵対的危険生物の本土上陸に備えた陸軍の再編計画である。
今はまだ準備段階である陸軍大増員。これが実施に移されるのと同時に行おうと計画されているもので、これまでの沖縄から本州を担当していた西南方面軍と中部方面軍、そして東部方面軍を解体、東海から関東を守る第一軍、四国九州を守る第二軍、そして山陰と北陸を守る第三軍に再編成しようというものである。これは、敵対的危険生物が上陸してくるエリアに二つの方面軍が存在することによる指揮系統の混乱を避け、確実な迎撃を行うための計画だった。
また同時に第一軍の司令部は前橋。第二軍は広島。第三軍は長野といったように、なるべく外洋から離れていてかつインフラの整備された場所に置かれることになる。広島はまあ海沿いであるが、日本海軍の庭である瀬戸内海まで侵されるようでは、陸軍がどう頑張っても勝ち目はないだろう。というか、流石の海軍もそこまで押し込まれはしまい……恐らく。
「まあ経産省が反対する訳はないですか……第三軍なんて、ほとんど経産省のためのものですからねぇ……産業界も喜ぶことでしょう」
「そう言うな、原発がなければ
もっとも、どこに電磁投射砲を回すかでひと悶着あるとは思わなかったが。そうため息混じりで飯田は締める。
僅かな燃料で大量の電力をもたらしてくれる原発は、激しい反原発運動の中でも財閥たちに愛され、その数を減らすことなく国内にまだ大量に存在している。第三軍が担当する地域に群がる原発は二十七基、これは国内にある五十八基の原発の約半数に当たる。さらにこの中には高出力の新型原子力発電所「もんじゅ」なども含まれており、若狭湾を中心とした日本海沿岸は日本にとってのアキレス腱となりかねない場所だった。現在でもかなりの数が運転を見合わせている原発だが、その分潜伏的な電気供給能力も高い。これは『資源』なのである。エネルギー資源なのだ。これを生かさない手はなく、電磁投射砲のための電源もここから供給されることになっている。
でまあ、そんな電磁投射砲なのであるが、経済産業省は、送電線での電力のロスなど様々な理由をつけて、電磁投射砲を第三軍に集中配備すべしと主張してきたのである。
もちろん陸海軍省関係者は反対したが、空軍庁が足並みを揃えなかったためイマイチ効果的な反論ができず、見事に保留事項とされてしまった。
やはり本物の官僚との論戦は厳しいものだ。
各省庁の担当者があのような形で集まることは本当に珍しい、聞いているだけでも有意義な会議だと初めは前向きに捉えていた飯田にとってはまあ、少々残念な結果となってしまった。
「第三軍に電磁投射砲を配備してなんの意味があるのやら……あれは平野部でロングレンジを活かした戦いをするものでしょう?」
やっぱし官僚は、ここが硬いですねぇ……小河原は自分のこめかみをトントンと突きつつ笑う。軍隊も立派な官僚組織だが、まあここでそういう突っ込みは野暮だろう。
ちなみに小河原の言ってることが全て正解という訳ではない。現状の電磁投射砲が平野部や沿岸部での運用を想定されているのは電磁投射砲が開発されたばかりの――――厳密にいうなら実戦を経験したことのない――――兵器であり、まだ命中精度に不安が残るからである。電磁投射砲の本質は成層圏まで弾道を大きく打ち上げる超ロングレンジ射撃であり、仮想敵がソビエト・ロシアであることからも配備は日本海側の方が良い、そういう考えも出来た。まあ満州を飛び越えなければいけないのでそう簡単には運用できないだろうが……。
まあそれは後々の話。飯田が課せられたのは本土上陸の阻止であり、そんなことはいいのだ。
「まあそれは大迫閣下たちが時間をかけて何とかしてくれるだろう、その件抜きならなかなか意味のある会議だったとは思ってはいる、各省庁の置かれている状況を再確認できたしな……わざわざ閣下が自分を呼んでくれた理由も頷ける」
「なるほど、成果はあったわけですね」
「いくつか仕事を押し付けられたのはなんとも言えないところだがな」
「ははは……あ、少佐、その会議の報告書上がったんですね」
と、端末を除いた小河原が先ほどの報告書に気付く。
「あぁ、ひとまず概要と解決すべき点だけには目を通しておけよ」
「了解です……無理に報告会は開かなくていいですかね? 時間もないですし」
そう言った小河原に飯田は沈黙。
「……いや、問題点の精査だけは班をつくってやらせてくれ」
「分かりました、じゃあ小牧大尉に振っておきます」
「助かる……それで小河原。今日の予定は?」
室長のデスクに備え付けてある椅子に座ってからまだ数分だというのに飯田は立ち上がる。最近は防御陣地の選定などで各地を飛びまわることがとても多くなってきたのだ。
もちろんそれはいいことだ。紙上でのみ進んでいた計画が現実のものとなり、そして進んでゆくのである。まさか悪いことであるはずがない。
だがそれは東京にいる時間も、家族と過ごす時間も減ってしまうという意味でもある。できることなら予定なしと小河原には言って欲しいものだが……そんな訳があるはずもなく、小河原は端末を確認しつつ言う。
「関西の飯田製造神戸工場での視察、その後は九州で対馬トンネル拡張工事の視察になります。その後一九〇〇より釜山基地にて陸軍北西方面軍幹部との報告会ですね」
今日も予定は多いようだ。飯田は必要な書類の再確認に入る。
「少佐、結構予定が詰まっていますし……対馬トンネルの方は他に任せて大丈夫だとは思いますが?」
そう小河原。気を使ってくれるのは有り難いが、対馬トンネルは海上輸送が途絶えた時の数少ない外部との連絡手段の一つとなる。
産業が干上がれば戦闘もクソもない、敵対的危険生物が手を下さずとも国は滅んでしまうだろう。そういう点では、むしろ対馬トンネルの方が重要であった。
「どうせ釜山には行かなきゃいけないんだ、トンネルを通るついでに視察していこう……ああそうだ、
「了解」
そして小河原は室の喧騒の中へと消えてゆく。彼にも準備があるのだから当然だ。
飯田は自分のデスクを見下ろす。会議のゴタゴタで放置していた二日間の間に、未処理の書類が山を作ろうと集結し始めている。移動中に片付けられるなら片付けてしまいたいものだ。
「今日も帰れそうにないな……」
そう嘆きつつも、飯田は頭の中で今日の行程を思い描いていた。
『……ANA神戸行157便は、使用機到着遅れのため、十五分ほどの……』
東京都の端、多摩川の河口に存在する埋立地。ここに存在するのはかの有名な新東京国際空港。
「それにしても……久々の民間機だな」
そしてその出発ロビーを第一種軍装をキチッと決めた二人の男が歩いてゆく。民間人ばかりの空港では、どうしてもこういった制服は目立つ訳で……時折手を振ってくれる子供もいる。小河原が笑顔で手を振り返してくれるので飯田はそのまま歩き続けていた。
「最近は軍用機の乗り合わせばっかりでしたからねぇ……ようやくのんびりシートに座れますよ」
飯田に肩を回しつつ返す小河原、二人の間に流れる空気が示す通り、新東京国際空港――――羽田空港は平和そのものだった。人々はのんびりと、一部は急ぎつつゲートに向かい、そこで保安検査を受ける。
「まあ保安検査といえど国内線なら軽い手荷物のX線検査と金属探知機を通るだけの軽い検査。本当の悪意なら簡単にすり抜けてしまうでしょうね……しかも
効率化バンザイってやつですよ。そんな小河原と共に保安検査場を身分証と検査場職員への返礼だけで通過した飯田は飛行機の搭乗口へと向かう。
アナウンスは落ち着いた調子を保ちつつ、出発間際の機への乗客の呼び出しや航空機の遅延状況。もしくは搭乗開始といった情報をお知らせしている。
待合席に目をやれば……今日が平日ということもありそこに座る人影は少なくはないが多くもないといった感じ。流れるように歩いてゆくスーツ服達の先に壁の存在を感じさせない一面張りのガラス窓。
そこから観察できるのはエプロンで羽を伸ばす巨大な鋼鉄の鳥。
「わぁー、いっぱいあるー!」
と、視界の端にそんな鳥たちを見て興奮したのか走ってくる子供が見えた。その子はこちらまで駆け寄ってくると、飯田たちの目の前で見事にコケた。飯田がその子を起こしてやると、母親を思しき女性もこちらに駆け寄ってくる。
「も、申し訳ありません!」
慌てた様子で謝る彼女。別に謝るようなことは何もしていないと思うのだが、まあ向こうからしてみればこちらは鍛えた体に権力の権化とも言える制服、なんだか恐ろしい存在に見えてしまうのかもしれない。まあ、単に彼女に謝りぐせがあるだけかもしれないが……そんな失礼なことを考えつつも飯田は笑顔を作り、なるべく柔らかく返事をする。
「いえいえ、気にしないでください」
持っている荷物が少ないということは時期はずれの帰省か何かだろうか。
走っちゃダメでしょと子供を注意する母親、子供は頷くや否や走り出す。そのままガラス窓にベッタリと張り付いて飛行機たちを観察しているあたり、空港に来るのは初めてなのかもしれない。
「やんちゃですねぇ……少佐のお子さんもあんなんでしたか?」
まだ独身だという小河原、彼が振る話題もこの場の空気に合わせるように穏やかなものであった。そういえば娘の望も初めて空港に来た時はあの様に興奮していたっけか。そんな思い出に浸ったのも一瞬のこと、またしても今日の夢が思い出された。たかが夢を気にしすぎだ。
「……さて、どうだったかな」
搭乗口は目の前だ。
座席に座りシートベルトなどを装着していると、アナウンスが流れ始める。
行き先の天候やら到着予定時刻など、恐らくは旅人に役立つであろう情報を英語と日本語で教えてくれるアナウンス。
『……電波を発する電子機器は電源を切るか、機内モードなど電波のでない状態にしてください』
そんないつも通りのアナウンスに小河原が慌てて携帯端末の電源を落とす。ちゃんとしろよと飯田が目を向ける。これもまた、一つの平和なのだろう。
そう、こうして民間の飛行機が飛べるというのは、まさに今が平時である証拠なのだった。
エンジンをふかす音が聞こえる。
ゆっくりと動き出す旅客機。小さな窓から見える空は快晴で、春らしい暖かさをもたらす為に太陽がさんさんと輝いている。春といえば、望のやつ遂に高3か。結局どこの大学に行くのだろうか。本当なら移動中だけでもそういった平和ボケした一市民らしいことを考えていたいのだが……飯田は鞄より紙を取り出す。もちろん仕事である。
まもなく離陸とのアナウンスの後、戦闘機と比べれば大したことのない轟音と共に機体に加速がかかった。
――――もしも敵対的危険生物が航空機を持つ日が来れば、このように自由に空を旅することは出来なくなるのだろう。
そんな時に思い出されたのは出かけ間際の彼女の言葉。飯田は思わず、“行ってきますのキス”が触れた場所に手を伸ばしていた。時間が経っているので感触は他のところと同じだが、他にはできない心の暖かさを感じ……いや、なに感傷的なことを言っているのやら。
そうは言いつつ飯田の口元は緩んでいた。
それに気づいて慌てて横に目をやるが、小河原は雑誌を読んでいてこちらには気づいていない。
人間単純なもので、その程度でやる気が出たり反って落ち込んだりするものなのである。
なに、うまくやれるに違いないさ。
そんなテキトーな憶測が飛行機の離陸時特有の浮遊感と相まって、ある種の全能感に変わる。
何にも遮られることなく、鋼鉄の鳥は空へ羽撃く。