「久しぶりだな」
声の張りはかつてより衰えたようだ。しかし、以前より増した深みがただの挨拶に別の意味を持たせる。向こうは経済界にそこそこの影響力を持つとは言え、結局はただの退役軍人。それなのに、こちらが国防色で身を包み胸にどれほどの略綬をつけようと、彼との差は決して縮まらない。
「何を畏まっているんだ。私はもはやただの老いぼれ、気を遣わんと、ほら座れ座れ」
「ただの老いぼれは陸軍省に怒鳴り込んでこないのが常識のはずですが」
ささやかな反抗にテーブルに座った彼は爽やかな笑い声を上げる。
「だからこうしてここへ呼び出した、男臭い省よりもずっと眺めがいいここへ、な?」
ただの老いぼれは高層ビルの最上階に陸軍将官を呼び出せませんよ。そう思いつつ彼の待つ席へと進む。階級こそ追い越したが、彼は既に二つの顔を得ており、その圧倒的な差は縮まるどころか広がるばかりだった。椅子に座る。すぐに寄ってきたウェイトレスからメニューを受け取る。値段はともかく、このレベルの食材をまだ提供できるとは。驚きを表皮に滲ませるほど愚かではないつもりであったが、彼には見抜かれる。
「戦争に一番重要なのは兵糧だ。ことさら最前線に立つ輩はな。貴様だって飯だけ食って適当に指示を出す野戦指揮官ではないのだろう?」
一瞬生まれた沈黙、そんな様子を見た彼は少し口角を歪め、なら頼み給えと告げる・・・こちらの考えていることもお見通しか。この人は変わらないな。と思えるあたり、自分はまだ彼にとってマシな部類に入るのだろうか。彼の言葉に、注文で応える。
「私にも彼と同じものを頼むよ」
注文を受けたウェイトレスが去ろうとした間際にそう挟み込む彼、ウェイトレスはもう一度恭しくお辞儀をし、去っていった。それを見届けてから目の前の彼は座り直し、ゆっくりとこちらを見据える。
「久しぶりだな。
冗談混じりの変わらぬ元上司の声に、千駄ヶ谷中将は笑顔で答えた。
「そちらこそ、変わらぬようで何よりです。飯田閣下」
閣下はよせ、と笑う彼、飯田インダストリー会長の飯田啓介。傘下の飯田製造は自衛陸軍の大口径兵器の生産を一手に引き受け軍需産業の一翼を担っているものの、鉄鋼業、化学工業ではそれぞれ業界第五位。規模は決して大きいとは言えず、海外に工場を持っているわけでもない。
皮肉なことに海外との繋がりが絶たれかけている今それが評価され、現在の株価の値上がりは同種企業の中では一番順調であった。
飯田啓介は世間話をするかのような口調で話し始めた。
「息子は元気でやっているか?」
飯田啓介の息子、すなわち飯田孝介。自衛海軍少佐。そして、統合幕僚本部に新設された敵対的危険生物対策室、その室長。少佐という階級でありながらの大抜擢である。近いうちに昇進させないと不味いのではないだろうか、とも思うが、陸軍である千駄ヶ谷にどうこうできる問題ではなかった。
ともかく、彼の質問には事実を述べるのみ。
「ええ・・・まあ・・・、最近は相当忙しいようで顔も合わせていませんが」
「そのぐらいは知っているよ、それだというのに、我が社の生産計画は遅れ気味。息子には迷惑をかけてしまっている」
「お待たせしました」
幸か不幸か、話を遮るように二人の間に現れたカップ。なんだか高級品の匂い――――実際、値が張るに違いない――――を漂わせたそれは、中に液体をたたえている。水ではなさそうだ。
「すまんな、先に頼んでおいたのだよ、今日も雨のせいで冷えるからね、一人だけで飲んでいるのもアレなので、ついつい二つ頼んでしまったが――――ホットチョコレートだよ」
わざわざ二つ頼まなくてもいいだろうに。そう思いつつ、感謝と了承の意、どちらもこめた返事をしてからカップに手をかける。飯田啓介もカップを口に近づけ、しかしそのまま触れず、香りを楽しむように一瞬の間を空けてから静かにカップを傾けた。すぐにソーサーの上に戻されるカップ、彼は一千万人の住む帝都が一望できる窓の向こうへ視線を投げる。たかが高層ビル程度では雨雲より上に行くことはできず、雨雲を通り抜けられた僅かな光のみが力なくこの国を照らしている。
「チョコレートは知っての通りアフリカの原産だ。ヨーロッパの人間がそれの存在を知ったのは15世紀末。しかし固形で嗜むようになってからはまだ200年しか経っていない。案外、歴史は短いものだ」
少しばかり調べれば出てきそうな情報をゆっくり語る飯田啓介、彼が無駄に長く喋る時は、だいたい面倒事を話す時なのだ。千駄ヶ谷は彼から視線を逸らさず、茶色くほの甘い液体を口に含む。恐らくは人工物の含まれていない自然本来の甘味が舌の受容体にぶつかり、脳内で味覚となって再現される。本当ならばここで緊張をほぐしたいものだが、目の前の老人相手にして気を緩めるのは失礼というものだろう。
「その短い歴史、僅か百年前まで、我らの盟友であるSEATO――――いや、大東亜経済会議と言っておいたほうがいいかな、米国が入ってない分正しい表現になる――――諸国は植民地として自国とは何の関係もない嗜好品や工芸食品を作らされていた。プランテーションという名前ぐらいなら、君も聞いたことがあるだろう」
わざとらしげにカップを持ち上げてからこちらに視線を投げる飯田啓介。こちらが答えるのも待たず窓とは反対方向、すなわち待機している係――――ウェイトレスというよりはボーイと呼ぶべきだろうか――――の方を向いた。
「なあ、君。このチョコレートに使われているカカオは何処で作られたものだい?」
「インドネシア産です」
キチンと把握しているのだろう。素早く答えた彼に一言お礼を言い、それから飯田啓介はかぶりを振る。
「なあ、どう思うかね千駄ヶ谷、カカオの原産は南アメリカなのだろう?」
何が悲しくてインドネシアでカカオを生産しなきゃならんのだ。そう言った飯田啓介の顔には既に答えが書かれている。
嗚呼、本当にこの人は変わっていないのだな、千駄ヶ谷が感じたのはそれだけだった。彼が言外に訴えることに対しては何の感傷も起こらない。
そして、それは飯田啓介も同じだったようだ。
「しかし、私もこれに対して疑問を抱くような事はないのだよ。目の前の同盟国が未だ植民地時代の経済に縛られていてもね」
目の前にいるのは紛うことない老人であるはずなのに、まるで悟った学生のように半端に覚めたことを言う。悟りを気取る学生と異なるのは
「空軍の『英雄様』が変な事を画策していること、それぐらいは知っているな」
「・・・」
もちろんその件は耳に入れている。しかし千駄ヶ谷の声帯は何も発さず、不意に沈黙が訪れた。その沈黙がなんなのか、実際問題千駄ヶ谷自身にも分かっていない。そうであれば飯田啓介がそれを理解できるはずがなく。
「なんだ、その顔は」
「いえ・・・閣下、それに
まだ言葉にならないような言葉を無理矢理言葉にする。それから飯田啓介の顔を見て、それが正しかったのだと確認する。自分の中ですら固まっていない意見を口から出すのは無責任な行為であるが、さっき彼が言ったとおりこれは
そしてほんのわずかな間、飯田啓介はほんの少し息を吐く、ただの呼吸、もしくはため息かもしれない。
「論ずる意味か・・・そうだな、『彼』の計画を止めることは不可能だろう。しかし、論ずる意味はある。唐突にその事実を知って慌てるよりも事前に何か対策ができるなら、最悪を避けることぐらいは可能なはずだ。違うかな?」
情報収集で防げるものはない。それが彼の持論である。防ぐのではなく、身の振りようを考えるための材料とするのだ。用意周到に、しかし型にはハマらず流動的に動く。
飯田啓介は続ける。
「空軍がその作戦を実行するには、どうにかして連中を作戦域まで引っ張ってこなければならない。それと同時に奴らの頭に投下する爆d――――いや、連中とは戦争をしていないから、この場合は「危険物」だな――――ともかくそれを用意しなくてはならない」
それが最大の問題になる。どうやって敵対的危険生物を誘導するのか、どのような攻撃法が最も有効なのか。
そういった内容を彼が言っていると悟った時、千駄ヶ谷の中で彼が唯一優っていた事実が崩壊した。
「・・・知っているのですか。レポートを」
今日、初めて千駄ヶ谷の師匠は笑みを見せる。
「当然だ」
私が知らないとでも思ったのかね、そう言いたげな飯田啓介。
・・・その彼らしくない言動に、ふと、不安と疑念が持ち上がる。
「・・・いつからですか」
「大分前からだ、なんせ空軍は奴らの頭に投下する『危険物』を求めている。大量に、短期間にそれを調達するならば、
こっち、そう彼は言った。つまり、
千駄ヶ谷の頭から一瞬だけ空軍のことが消えた。彼が財閥の側に立ったことの方がずっと大事だった。
かつて彼に言われた言葉、それが
「あなたは、何を目指して・・・いえ、あなたの最終目標は何ですか?」
かつてあなたはこう言ったはずだ。陸軍と財界の繋がりを絶ちたい、と。
軍部と財閥の癒着は今に始まったことではない・・・もっと正確に言うならば、昔の方が結びつきは強かった。軍需産業は書類上で調達数が決定される。購入どころか生産する前から調達数が決まっているのだ。従って決して作りすぎるということはないし、売れ残るなんてありえない。確かに軍需向けの生産ラインは維持費が高いうえに市場を一定以上広げることはできない。確実ではあっても、成長は見込めないし政治的なリスクもある。
それでも両者の連携は成立した、「国の勢力圏」=「市場」が成り立った時代だったから。
軍以外に
それの状況は冷戦初期まで続き、足跡は現代でも色濃く残る。
自衛軍は予算のため、資本をブン回すことにしか興味のない資本家のために武装するのではない。訓練を積んでいるのではない。そう言ったのはかつての飯田啓介。
――――だが、今目の前にいる『飯田会長』はなんだ。陸軍の、それもほんの一部しか知り得ていないはずの「レポート」の存在も財閥にはお見通しだと言い、財閥として空軍に支援を行った事を示唆した。資本家としての戦争を進めるつもりなのか。
・・・まさかとは思うが、空軍の作戦は彼らの差し金か。まさかとは思ったが、それも疑わざるを得ない。それだけのことを、目の前の老人は言ったのだ。
資本家のために働けと、資本そのもののように何の感情もなく言い放つつもりか。
だからこそ、千駄ヶ谷は問うた。飯田「元」陸軍少将の目指すものは何か。
飯田の顔に、感情はこもっていない。本当に彼は資本となり果てたのか、はたまた、感情が入り混じって色を成していないだけなのか。
「変わらないものだよ、千駄ヶ谷」
こちらを見据えての回答。こんなところで本心に反する発言をする彼ではない。
だからこそ言わずにはいられない
「ではあなたは・・・国の大事ならばそれを捨て置いても構わない、そう考えているのでありますか」
・・・
・・・・・・
沈黙は、肯定。その場の二人は互いに言葉を失う。もし二人きりであれば、その激しく冷たい視線の攻防がいつまでも続いたであろう。
しかしそれを遮るべく颯爽と登場する料理。何を頼んだか、いや頼んだ事自体忘れていた。
二人はほぼ同じ調子で食事前の感謝をする。飯田啓介はこれをどんな時でも欠かさぬようにし、千駄ヶ谷も常にそれに習ってきた。いくつかの素材を口に含み、飲み込む。今回の食事に栄養以上の価値は無いようにも感じられた。そう感じられるほど、二人の間に流れる空気は重い。
「千駄ヶ谷・・・レポートを読んだなら分かるだろう」
諭すような声ではない。
「今や、この国、いや民族が置かれている状況を」
それでも、諭すように聞こえるのは、何故だろうか。自分が飯田啓介を上と見なしているから?
「理想を語るならば、まずは演壇を守らねばならない。それが結果として、演壇で発言する機会と権利を失うことになっても、だ」
飯田啓介、彼には覚悟がある。そして迷いがある。だから自然と、自分自身を諭す論調に聞こえてしまうのだろう。
「私も過去の熱情を捨てる気はない、だが、国を滅ぼす気も毛頭ない。どっちを選ぶか。それだけのことだ」
沈黙。
「千駄ヶ谷・・・お前の悪いところはすぐ本題から逸れるところにある。私がその世界に足を踏み入れた途端に堕ちるほど私は安い人間か?」
二人だけしかいないこの空間でも、互いの立場に立ち、現実を語ることしかできない。それが、その事実が料理を不味くさせる。
「電磁投射砲製造の視察、瀬戸内海封鎖計画の調整、四国九州の防衛施設建築の視察・・・わざわざ出向かなくてもいい用事ばかりです」
「こちらは単に防衛計画の立案を任された立場、トップでないだけ動きやすいし、海軍少佐という階級を普通に使うのなら帝都では何もできない」
「その割には、あちこちで『時間を喰う』ようですがねぇ?」
時間をとっている理由を知っているだろうにわざわざとぼけた口調の小河原。彼は余裕がなければ遊びを入れてこないので、今は余裕があるということか。いや違う、動ける範囲が狭すぎるのだ。
今日も一日中雨。東海道新幹線の車内にいれば濡れることこそないが、こういった風景を見ているとどうしても憂鬱な気持ちが鎌を持ち上げる。それを振り払うように飯田孝介は顔を小河原の方へ向けた。やはり手持ち無沙汰になっていたようで、薄くなった週刊誌――――内容が「薄い」とかそういう喩えではなく、本当にページ数が減らされているのだ――――をパラパラめくっている。
「そういや最近、その手の雑誌見てないなぁ・・・どんな調子?」
一般向けの報道を見ていると、ついつい「ここはこういう風に解釈されるのだろうな」などと考えてしまう。妻も娘もそれを察してか、自分が家にいるときはテレビをつけずにいてくれる。テレビは最高の休憩であると言う奴もいるが、それは何も考えずぼおっとテレビを見ていれば、の話だ。
「華のスキャンダル系がなくなってちょっと寂しい感じですかね。敵対的危険生物襲撃下で起きた美談がこういった雑誌にも乗り始めたあたり、この国の限界を感じます」
美談は、滅多にないものである。例えば、誰かが素晴らしい行為をしたとしよう。それを見て他人は自分にはできないと感じる。しかし実際にそれは為された。ならばきっと理由があるのだ。その個人にしかできない大切な理由が。その理由も無視して平均的な尺度で測り評価する美談と言う奴を、飯田はどうにも好きになれなかった。
まあ、敵対的危険生物に関する美談であればきっと人間味の滲みでた美しいものなのだろうが、さっきも言ったとおり美談は滅多にないものなのだ。つまり、実際に敵対的危険生物の襲撃に晒された地域ではもっと凄惨な光景が広がっているのであろう。
そういった穿った見方もあり、記事を覗き込んでから顔をしかめる飯田。
「なんでもかんでも美化するのは嫌いだな」
「言っても始まりませんよ、ただでさえ娯楽が激減している現状なんです」
小河原は視線を逸らすことなく記事を読んでいる。
現代には娯楽が溢れている。数千円程度でいい思いが出来る場所はたくさんあるし、駅前にあるゲームセンターにでも行けばそれこそワンコインで楽しめる。格安ツアーなら10万程度で海外にも行ける時代だ。100年前の人々がこれを知ったらどう思うだろうか・・・いや、100年前といえば1922年はワシントン海軍軍縮条約が締結された年だ。当時は国防で国家が、経済が成り立っていた時代。そもそも現代の価値観を押し付けること自体間違っている。
それでも、昔から娯楽は様々な形で存在した。やはり人間生活に娯楽は必要だ。
それゆえに、資源不足を理由とする
時たまページをめくる手を止める小河原、ほとんどの記事を読み飛ばしていたせいで、もう最後まで読み終わったようだ。パタンと閉じられる音がする。
「『欲しがりません、勝つまでは』・・・どこかの優秀な国民学校生の言葉でしたかね?」
「いや、その娘の父が書いたものだよ、あれは」
そうでしたか・・・小河原はさも興味なさげにそう言ってから、もう一度雑誌を初めから読み始める。しかし先ほど以上に、ページをめくるペースは早い。あれでは次の駅――――数ヶ月前までは次の駅といえば名古屋だったのだろうが、今では東海道新幹線を走る列車は「
そして飯田は自らの手元にある端末に目を落とす。愛国者予備軍とかなんとかのたまう青葉記者、彼女から貰った『ご褒美』。内容は――――琉球諸島事変から自衛陸軍が纏めていた敵対的危険生物に関する調査書である。まだ小河原たちにこのことは話していない。どこまで話したものか、それを判断するだけの情報がなかった。
レポートは渡された64GBのメモリーでは容量がギリギリなほどの量で、内容は敵対的危険生物の行動パターン、生命活動の限界、身体能力とそれを生み出す身体組織を構成する物質――――いずれも突撃してくる故に『鹵獲』が容易かった『駆逐級Ⅰ型』の研究に留まるが――――かなり詳しく記載されていた。
こんなレポート、
――――陸空軍が共犯である。実質的に敵対的危険生物への対処を指揮している海軍を出し抜こうと?
そんな事をしてなんになるというのだろうか。自分たちの自己満足の為だけにそれをするのであれば、今すぐ投機家にでもなってしまえばいい。国防の席で自己の利益のための駆け引きはしないで欲しいものだ。
そして、決して消えないもう一つの疑念。大迫閣下である。
――――いや、彼がこの情報を知っている知っていないはどうでもいいのだ。理由はともかく彼は自分たちに情報を降ろさなかったのだから。問題は――――
彼がかつて示唆した『陸上への半永久的な侵攻』――――とりあえず予想されることとしては、南九州に大規模な基地を作られること――――について、このレポートでは可能性としてすら触れられていなことであった。というか「これだけ」の情報でそれを予想することは不可能である。
では、大迫閣下はその情報をどこから手に入れたのか。一度問いただし、言うことはできないと言われたことであれ、彼だけが抱え込むことに納得したわけではなかった。大迫閣下がこのことを知ったら、笑うだろうか。
ともかく今は、視察の合間に用意した時間を有効に活用するための準備をしよう。そう思った飯田は、飯田製造神戸工場に「偶然」同じ日に視察に来ることになっている陸軍将官・・・千駄ヶ谷中将の個人資料に目を通し始めた。場は新幹線の駆動音だけに支配される。
「それでは、失礼します」
「気をつけてな」
「閣下こそ、お体をお大事に」
いつもと同じようなお辞儀をして去ってゆく千駄ヶ谷。高層ビルのレストランには老人だけが残される。彼はもう一度窓の外を見る。雨こそ止んでいたが、どんより灰色の雲は、帝都上空に留まっている。彼はゆっくり呟いた。
「早くも国内経済は逼迫、規模を縮小すれば当面は持つだろうが、いつまで持つ保証もない、そしてそれは国民の不満に直接結びつく、その上国が臆病風に吹かれているとなれば・・・この国どころか大東亜経済会議は空中分解だ」
仕方ないのだよ。それが息子に向けたものなのか、それとも押し込めた自分の熱情に向けてか。彼は雨の止んだ空を見つめた。そこには僅かに残されたソース。東南アジアでは、もはやソースも、それをかける食材も残っていないという、それほどの危機的状況なのだ。収穫の時期になれば、輸出できない分だけ国内に回せる食料は増えるだろうが・・・実は東南アジアの農業は致命的な問題を抱えている。かつての宗主国、そしてSEATOの盟主が彼らをそういう状況に追い込んだのだ。東南アジア全体を守りたければ今動くしかない。
そして、動かなければ東南アジアは沈み、沈む際に起こった渦潮にこの国も飲み込まれる。大東亜経済会議は反共だけを掲げたSEATOとは違う、一蓮托生の運命共同体なのである。
「守り一辺倒で、勝てるわけがないじゃないか・・・すまんが、勝手に動かさせてもらうぞ、孝介」
雲に隠されて、遠くの景色を見ることもできない。