――――文部省管轄外 国防大学校広島 飛行科 判定C
国防大学校広島――――旧海軍兵学校。海軍士官の育成を目的とした学校である。数十年前から流行っている女性の社会進出の影響もあり、女学生が進学できない学校ではないし、航空母艦パイロット育成が目的の飛行科なら女子率も低くない(2022年度入学生の女子率は航海科1.2%に対し飛行科4.7%)。それでもまあ、もの好きの女子しか行かないような学校だ。
「・・・変えなさい」
おそらく自分の言葉は届かない。それは自分が同じ立場に立ったことがあるから分かる。しかしそれは、娘を死地へ送る理由にはならない。
「いやだ」
普段の娘の様子からは想像できない強い視線を返される。こういったところで気の強いのが娘の持ち味ではあるのだが・・・敵に回すと厄介とはこのこと。
「何故だ、お前の学力なら国公立ぐらい狙えるだろう・・・文部省管轄外の学校に行かなくても・・・」
「石川大尉みたいになるのが、私の夢だから」
娘は海軍航空隊のトップエースを挙げることで飛行機乗りを目指していると宣言。悲しい話だ。昔はお父さんのお嫁さんになると言ってくれたのに・・・そう言えばその時の妻の反応が尋常じゃなかった。あの頃のあいつはまだまだ落ち着きがなかったとはいえ、子供の発想に付きあ・・・待った、現実逃避はなしだ。飯田孝介は自身の娘に険しい顔を向ける。
「夢で自衛軍を、国防を語るな」
「・・・っ、それは私の勝手でしょ」
「そもそも、お前みたいな性格の奴が軍隊に入るのは無理だ」
強めに言い放ち、その後になぜ相談しなかったと続けようとして、やめる。孝介の娘・・・飯田望は反対されると分かっていたから黙っていたのだ。もしここで志望校判定を見せられなければ、それこそ望が入学してしまうまで気づかなかったことだろう。望は孝介と机を挟んで向こう側の椅子に座った。彼女なりの反攻姿勢だろう。食卓を挟んで
――――時は少しばかり遡る。
飯田は窓の外へと視線を向けた。
時代は節電である。しかし節電といっても無闇矢鱈に電気を使わないのは間違っている。机で本を読むなら読書灯を点けるべきだし、暗い部屋でPCやスマートフォンを弄って時間を潰すと己の目も潰してしまう。
街を照らす街灯は明るい。明るくなければ犯罪が起きてしまう。ただでさえ人心が乱れているこの情勢なのだ。無闇に犯罪の温床を作り出すわけにはいかなかった。
帝都を縦横無尽に走る高架、それの継ぎ目を通過するごとに小さく揺れるシートに身を預けつつ、飯田は不満げに呟いた。街灯はともかく、一人の佐官を車で家まで送る必要はない。
「ガソリン一滴、血の一滴だ」
「たかが数リットルの血で対策室長を憤ったヘイワ主義者の刃から守れるのなら、これほど安い出費もありません、いやこの車
運転席から即座に返事が帰ってくる。TNPって、何年前のCMだよと突っ込みたくなるが飯田にはもう突っ込む気力もない。沈黙を保ちつつほのかに赤いナトリウムランプに照らされた高架の上を走ってゆく乗用車。時間が時間だ、乗用車の数が少ないのは納得であるが、数ヶ月前ならこの時間帯はトラックが多く走っていたはずだ。
「・・・それにしても、寂しい首都高だな」
海外からは海運、国内は整備され尽くした鉄道網と勘違いされがちな日本の運送業だが、国内輸送はその多くをトラックによる陸運に頼っている。自動車ほど便利なものはなく、24時間常に商品を絶やさず営業するコンビニエンスストアや、ネットショッピング。量販店もトラックによる陸運がなければ成り立たない。
「血の一滴です。多少の不便は我慢しなくては」
「・・・言っていることがさっきと違うぞ」
とは言え、首都圏での影響はそこまで大きくない。コンビニエンスストアは24時間営業という点で治安維持に大きく貢献している。それゆえに国はこれの維持費を供出してでもコンビニには営業を続けて欲しいと考えていた。コンビニは元から完備されていたネットワークシステムを生かし、行政の出張端末すら展開、品目こそ少ないが遂に始まった配給の拠点としても機能している。商品が数ヶ月前のように『溢れて』いないコンビニに情報や配給を求めて集まる人々というのも不思議な光景であるが、この国の現状を上手く表した景色とも言えるだろう。
「コンビニが配給所となり、新鮮な野菜は鉄道で輸送、駅付近で売買される時代か」
「鉄道は各社の自家発電なんで燃料ガバガバ食うんですけどね」
「しかし、鉄道のほうが燃費がいいのは間違いない。物資を輸送せずに都市を維持することは出来ない、仕方ないさ」
そう、コンビニに配給物資や商品を運び込むとき、路線バスを動かすとき、農家から鉄道まで野菜を輸送するとき・・・どんなに節約しても燃料は消費される。小河原が言ったように鉄道だって燃料を食うし、そもそも常に全体の消費量が変化する電力を原発や自然エネルギーによる発電だけで賄うのはシステム的に不可能なのだ。火力発電も使わなければならない。
「備蓄はあるんだ。飛行機もあるから多少の輸入もできる。袖があるなら振らないと国民は怒る。最低の消費量でなるべく国民の不満を作らないようにしないといけないんだろう」
どことなく他人事のように話してしまう飯田。戦略物資の残量は作戦立案において非常に重要なのだが、口の出しようがないからどうしても他人事のようになってしまう。それは小河原も同じようで、いつもと変わらぬ口調で応える。
「流石は内務省、官僚の中の官僚と呼ばれるだけのことはある、国民生活に決定的な影響を及ぼさないように配慮しつつ、状況が極限まで悪くなっているように見せる。うまいやり方ですよねぇ」
「実際問題、徐々にとはいえ状況は悪くなり続けているからな。下手に見栄を張って備蓄を食いつぶすよりはマシだろうが・・・いつかは底が見えて来るだろう。生活水準をもう一段落とさなきゃ回らなくなる時が来る」
そう言いながら飯田はタブレット端末を覗いた。内容はソビエト連邦の核兵器投入に対する報道各社の電子記事。紙を作るパルプも消費に制限がかかっている現状で号外を発行する余裕などなく、電子版新聞はとても重要なツールとなっていた。大衆の心を揺する新聞は煽るような内容も多いから、心をかき乱されぬよう注意する必要はあるが、影響を受けないのであれば見ておいたほうがいい。世論を知るためにも。
沈黙。
飯田は電子版を読み、小河原はハンドルから手を離さない。そうして乗用車は出口へ向かい、ETCレーンをくぐって市街地へと紛れ込んでゆく。そこで飯田が口を開いた。
「・・・マダガスカル行きの件、すまなかったな」
「何言ってるんですか、久々の海外出張でワクワクしてますよ」
小河原は本当に楽しそうな様子で返した。
敵対的危険生物の止まらぬ侵略に対し、遂に人類は核兵器を投入した。してしまった。報道各社はこれを批判的な見出しで報じたが、実際に本文を読んでみると割と核兵器投入に同情的な論調も目立つ。
しかし結局、兵器に求められるのは結果だ。
マダガスカルならば日本やソビエトに届く放射能物質はごく僅か、人類が受けた被害は見かけ上少ない。
そして、敵対的危険生物はマダガスカルより撤退。汚染された島は、人類で初めて敵対的危険生物を撃退した聖地となった。
「核兵器の有効性を確かめるための調査団・・・危険な仕事だ、放射能汚染された地域にわざわざ部下を送りたくはない」
撃退したのは事実だ。しかし敵対的危険生物に実際に与えられたダメージは?それを調査し、敵対的危険生物と渡り合う『道具』に核兵器がふさわしいのかの最終決定を下すための判断材料を持ち帰る。それが小河原に課せられた任務だった。
「どうせ誰かが行くんです。私は独り身を貫きますからね、別に睾丸が死んだって構いやしませんよ」
「・・・」
沈黙で飯田は応える・・・といえば聞こえがいいが、飯田はどう突っ込んだらいいのか分からなかった。
「では、お気を付けて」
「ああ、小河原こそ、しっかりやってこいよ」
そのやりとりを経て小河原は乗用車を走らせた。彼はこのまま飛行場へ向かい、向こうへ飛ぶ予定だ。マダガスカル周辺は激しい汚染が心配される為、コロンボから潜水艦で移動することになっているが・・・長い旅になりそうだ。
ともかく、飯田孝介は静かな住宅地に残された。もちろん孤独というわけではなく、目の前の家の扉に近づき、鞄から鍵を取り出した。
ガチャりといつもの音を立てる鍵穴。地球の裏では核が破裂したというのに、この音は変わらない。扉を開く。柔らかい光と家族の姿が孝介を迎えた。
「ただいま」
「ん、あぁ、父さんじゃん、今帰ったの?」
出迎え、というよりもバッタリ出会ったかのような反応をする少女、肩にバスタオルが掛かっているあたり、丁度風呂上りだろうか。飯田孝介の一人娘、飯田
「ああ、と言っても明日から四国だけどな」
「ふぅん」
心底どうでもいいといった様子の返事をしてから、父さんが帰ってきたよーと声を出す望、今日の核兵器のことで何か言われるんじゃないかと半分恐れ、また半分期待していたが、そう言えば望のやつはこういう性格だった。自分に関係なければ聞こうともしない。
心配なのは、むしろリビングにいるあいつの方だ。そう思いながら靴を脱ぎ、カバンを置いた。軍服のボタンを外そうと手をかける頃に、彼女がハンガーを持って出てくる。少しだけ瞳に不安げな色を浮かべているように見えたが気のせいだということにして思考を回避、挨拶とちょっといつもより強めの抱擁。そしてただいまのキス。脱いだ上着を彼女に渡し、ハンガーにかけている間にネクタイを外す。正装は面倒が多いものだ。そんな事を考えていると肩に羽織が掛けられた。そのまま腕を通す。まだ雨が降っていて寒いからいいけど、そろそろ羽織も仕舞う時期かもしれないな、そう言うともうすぐ夏が来るのかと感慨深く返される。梅雨が明ければ夏だ。
リビングとキッチンが合体しているよくある設計のコンパクトな居間に入ると、彼女から夕食は食べたのかと聞かれる。孝介はもう食べてきたと答え、すると彼女は紅茶を入れようと提案してきた。全くもって賛成である。頷いて同意の意を示す。
淹れるまでちょっと待ってくれと言われた孝介は食卓の一つの椅子に座る。遠目で見るとやはり彼女の髪は目を惹かれるものがある。日本人に明るい茶髪は珍しいというのもあるが、まあ単純に妻を贔屓目で見ているという現実もある。人間の主観とは適当極まりないものだ。そんな感じで、ようやく我が家に帰ってきたのだと感じる。明日の朝には四国へ飛ぶわけだが、出来ることならずっとこの空間にいたいものだ。
「父さん、これ見てよっ、これ」
「何だこれ・・・おお、センター模試か。受験生だものな」
敵対的危険生物の話で世間が持ちきりなので忘れがちだが、世の中は平常を装いつつ回転している。学校が配給所とならないのも平常を装っている証拠の一つだ。孝介が大学受験をしていたのはもう二十年以上前の話になるが、判定やら偏差値やら、様々な数字が踊っていたのはよく覚えている。
「C判定に遂に上がったよ~、ここまで長かった~」
心底疲れたという様子で紙を振る望、そう言えばこいつに勉強を教えていたのはいつまでだったろうか。
「この時期にC判定まで持って行けたのなら希望が見えてくるな・・・望はどこ大学を志望するのかな?」
そう言いつつ望から紙を受け取り、いくつか書かれた志望校を見てゆく。キッチンの方からいつお風呂に入るかとの質問。核兵器投下のゴタゴタのせいで、昨日は結局仮眠もとっていない。出来れば早く寝てしまいたかった。紅茶を飲んだらすぐ入ると伝える孝介。しかし、第一志望に書かれた文字が飯田の眠気を吹き飛ばした。
「・・・望、第一志望。これは何だ」
「え、んまぁ第一志望だよ、私の」
そう答えながらこちらを向く望。彼女の髪がそれに合わせて揺れた。母親譲りの綺麗な茶髪だが、その眼には意志が篭っているのが見て取れる。ぼんやりとした調子の言動に反して望らしくない強い視線。怖気づきはしないが感じた。こいつは本気だ。
第一志望の欄に印刷された文字は――――文部省管轄外 国防大学校 飛行科
ここで場面は冒頭に戻る。机を挟んで対峙する飯田孝介と飯田望。
バカ、馬鹿、Foolish。孝介の妻が彼女にしては珍しく孝介につけた辛口な評価である。結論から言えば危機は回避された。今回も救世主は紅茶。見計らったような――――いや、見計らったに違いない――――タイミングで両者の間、つまり食卓の上に彼女が紅茶を置いてくれたのだ。
望はもう自室に戻った。よって居間にいるのは孝介と彼女の二人だけ。彼女が軍に入ろうとしていること、知っていたんだろうと問えば、なんと三月に宣言していたそうだ。琉球諸島事変に感化されたのは間違いないだろう。典型的な愛国者か、はたまた、ただの馬鹿か。そう言えば「なら貴方は馬鹿」そう返されたのだった。軍に入るのはみんな馬鹿か。蔑む意味はないのだろうが、気を悪くしないわけではない。そんな孝介の言葉に、周りに心配かけることを厭わない点で馬鹿なのだと返す彼女。
・・・日本語が上手くなったものだ。彼女の言葉が結構重く突き刺さる。
「・・・しかしまあ、馬鹿なら親バカの方がいいかな」
気を取り直すように言う孝介に、それを自分で言っちゃあ・・・と言いたげな呆れ顔を浮かべる彼女、構うものかと紅茶を啜る。
軍に入って欲しくない。軍人になれば、必ず戦場に立つ日が来る。それも国に勝利をもたらす為の戦場ではなく、国を延命させるだけの戦場に。
・・・結局、娘が危険にさらされるのが嫌なだけなのだ。それは孝介の思考回路からしてみれば、なによりも自己中心的な我が儘だった。
「これじゃあ、とてもじゃないが愛国者とは名乗れんな・・・」
そんなことはないと言う彼女。家族が大事なのは誰しも一緒だと言われ、その後にもう一度、一緒だと言われる。強く。孝介は聞かぬふりで席から立ち、カップとソーサーを台所へ持ってゆく。丁度彼女は食器を洗っているところで、孝介もそのまま手伝おうとするが。疲れているだろうから早くお風呂に入ってきてとせがまれる。
ちょっと突き放されるような雰囲気もあったが、ともかく風呂でリラックスして欲しいという気遣いだろう。そう解釈し、浴室へ向かった。
庁舎に備え付けられていたのはシャワーだけだったのでこうして浴槽に浸かるのは久しぶりだ。野郎の入浴シーンなど誰も嬉しくないだろうから描写は割愛するが、ともかく孝介は肩まで使って全身を温めていた。
そしてまた、こういった時間はあまりに多い情報を処理するのにはもってこいである。孝介は両目を閉じ、思考の海に沈もうとした。
水底深くに潜り、魚雷とよく似た爆発物で貨物船や巡視艇を沈める『潜伏級』。これの出現により護衛船団でも対処しきれなくなったのが五月の末・・・つまり海運が途絶えてからまだたったの一ヶ月しか経っていない。
だというのに・・・既に生活水準は低下しているように見える。小河原が言うように内務省が過剰な規制をかけ、生活水準が低下しているかのように見せているだけとも言えるかもしれないが。
・・・驚くべきことでもないが、海運がこの国にもたらしてくれるのは富、そして高い生活水準だ。日々を豊かにする海外の珍しい品々、精巧な電子機器を作り出すためのレアアース。近年では日本企業の生産拠点も海外に移転されるケースが増え、意外な生活必需品が足りなくなることもある。生活必需品である以上、直ちに代替商品が発売されたが・・・。ともかく、海運がなければいつも通りの豊かな日々を送ることはできない。
ただ、忘れてはならないのは豊かな日々以前の生活、つまり衣食住を支えるのは「石油」であるということ。
絶対的な需要を持つ石油は巨万の富をもたらす。宥和政策で共産圏の国々も石油市場に参入したとき、問題となったのが基軸通貨であった。ドルは確かに強いが、それはあくまでアメリカが戦後に支援を行った国々だけでの話。共産主義国にドルはそこまで浸透していなかった以上、そう簡単にドルを基軸通貨に据えることはできなかった。それでもアメリカは、必死に原油取引をドル建てに持っていこうと努力した。それは、アメリカが原油という汚い黄金の価値を知っていたからである。
このように、石油の価値は高い。高すぎる。もし架空の世界を見られるなら、孝介は石油の存在しない世界を見たがったことだろう。石油が石炭に代わるエネルギーとなって以来、文明は全てを石油に依存してきたと言ってもよい。例えば・・・兵隊は戦争をする。戦地へ赴くのに石油を使う。自動車、飛行機、鉄道。そして戦地に着くと装備品を身につける。防弾ガラスには強化プラスチックも使われている。小銃にも素材としてプラスチックが使われている。ショットガンなどではもうプラスチック製の薬莢を使っている。石油を欠いて、現代の軍隊は動けない。
「まあ、対馬パイプラインの拡張も済んでいるわけだし・・・石油の方は事欠かないか」
幸いなことに、石油に関しては最低限の供給体制が確立されている。対馬―釜山を繋ぐ対馬海底トンネルと石油のパイプライン。
さらに石油の備蓄は公には半年分。生活を絞ればもっと。すべて軍需に回せば日本が滅びるまで戦えるだけの備蓄、十分と言っていい量の石油がある。枯渇する事態は考えづらかった。
作戦行動に必要な石油は確保できる。鉱物資源も最低量なら対馬トンネル経由で入手できるだろう。もっとも、大陸は大陸で情勢が不安定なのだが・・・。
そう、大陸。
大陸の情勢は不安定である。少なくとも核兵器を投下し、敵対的危険生物を撃退したという事実を作り盛大なプロパガンダを打つ必要があるぐらいには不安定である。
考えてみれば宥和政策で貿易が解禁されて以来、SEATO諸国の商品は意外と共産圏の国々に出荷されている。影響は少なくないだろうし、そもそも共産主義圏は今非常にデリケートな時期なのだ。小さな花火が陸奥爆沈に繋がりかねない・・・例えが不謹慎で申し訳ないが、そのくらい何が起こるか分からないのが大陸の情勢なのだ。
また、報告によれば共産党を覆そうとする不満分子を摘み取る動きもあるらしい。
その他にもソビエト・ロシア海軍から人民解放海軍への航空母艦譲渡が近日中に公表され、引渡しの作業が行われるという情報も回ってきている。情報が正しければ、日本国内の世論も穏やかではいられないだろう。
・・・とはいえ、今までした話を考える前に乗り越えねばならない壁がある。
敵対的危険生物による日本本土上陸。かつての大戦の際、米軍が計画した「ダウンフォール作戦」を模したものと思われるそれは、四ヶ月後の11月1日に控えている。
備蓄も使う人間が居なければ意味がない。国が滅びたのに外交をする奴もいない。世論は日々の生活あってこそ。日本が死すか、それとも絶望の生存戦争を続けることを許可されるか・・・全ては四ヶ月後の『X-Day』にかかっている。
ただし、この情報も信頼に足るものではない。孝介にこの情報を元に防衛計画を立案せよと命じた
それゆえに孝介は、明日、いや今日東京が火の海になることも頭の片隅に置いていた。もちろん可能性としては低いだろう。だが、たとえ根拠があっても情報を過信するわけにもいかないのだ。今日上陸される、その可能性を捨て置くわけにはいかなかった。
小さくため息。孝介は少し深めに湯船に浸かる。国防という誇らしくもあるが、多くの苦痛を孕む職業。自分の娘もこの道を選ぶのだろうか。自分がした決断には責任が持てる。だがもし彼女が自分なんかの後を追って――――望は石川中尉を目指して海軍に入りたいと言ったが、自分と同じ道を目指してくれたのではないかと思ってしまうのは仕方のないことだろう、親バカなんかじゃない――――海軍に入ろうとしているのなら、全力を持って阻止しなければならない。自分がどれほどの綱渡りをしてきたのか、彼女は知らないのだから。
その時、脱衣所と浴室を繋ぐ扉が開かれた。
そう、開かれた。
この状況で扉を開くような奴は一人しかいない。ここ数年は大人しかったのだが・・・。孝介は呆れ半分で声を出した。
「全く、お前も歳を四捨五入すれば40だぞ・・・いつまでそんなことするつもりだ?」
返答はまさかの「いつまでも」片言の陽気さ混じる声で言うもんだから返答に困る。まだハリのある今ならともかく、老婆と混浴する気はさらさらないと返しつつ、僅かに体の位置をずらす孝介。以前の浴槽なら「狭くなるから帰れ」と言えたのだが、いまの浴槽はギリギリ入れる。無下にあしらう気にもならないし、丁寧に説明してお帰りいただくのも時間と労力の無駄だった。特に抵抗せず浴槽の水位上昇を見届ける。
彼女が奇行に及ぶのは、だいたい自分か彼女どちらかもしくは両方が無理をしている時。自分の無理はともかく、彼女に負担をかけてしまうのは申し訳ない話だった。
だから奇行を見ても、孝介は半分しか呆れない、残り半分は呆れより遥かに深い贖罪の意思。
贖罪は誰かの為じゃなく自分の為にやるものだ。だから彼女の奇行を受け入れるのも、結局自分のため。
・・・そう言えば、彼女はどんな言葉で自分を慰めてくれるだろうか。
少しの間を置いてから、怖いと小さく声が漏らした彼女。そう言いながら孝介にゆっくりと体を預ける。二人を隔てるのはほんの僅かな隙間に入り込んだお湯だけで、鼓動すら共有しているようにも感じられた。
彼女の綺麗な茶髪を撫でてやり、息を漏らす。何か言わなくちゃいけない。だが、続く言葉が見つからない。
大丈夫・・・何が大丈夫だというのか。敵対的危険生物は日本に上陸する。自分はそれを防ぐために戦場に立つ。後方に残した彼女に伝える大丈夫は気休めにもならない。
必ず帰ってくる・・・これも嘘だろう。平時の訓練ですら死傷者は出る。戦場にも日常にも絶対など存在しない。
結局選ぶ言葉は――――
「――――ごめん」
言葉にできないほど多くの意味を孕んだ謝罪。地位が上がれば上がるほど簡単に口に出せない謝罪。こんな言葉に何の意味もないというのに、口に出しただけで自分は終わり。彼女の願いに沿おうともしない。
それなのに、自分は彼女を都合のいい時だけ求めている。
本当はそう言いたかった。迷惑かけてごめん、依存してばかりでごめん。でもそんな事言ってはならない。彼女はそれを自分が苦しんでいるサインと取るに違いなく、きっと少しでも苦しみを和らげようとしてくれるだろう。彼女に自分のことでこれ以上思い悩んで欲しくない。だから口に出すのは謝罪だけ。
それを聞いた彼女は動いた、孝介の肌に彼女の茶髪が触れる。また、心配をかけてしまっただろうか。
「・・・謝るなんテ、Darlingは水臭いデス」
――――本当に、ごめん。
結局謝ることしかできない。
二人の夜が、ゆっくりと過ぎていった。