そろそろネオンが瞬き始める頃だろうか。久しぶりにほぼ定時に退庁した飯田は、彼と同じく第二種軍装に身を包んだ海軍将校の後を続く。夏服扱いの第二種軍装。純白の軍服、海軍さんと言えばこれ、みたいなイメージが定着しているが・・・まあ着る方としては難しい気持ちもある。
確かに白い服の良さは分かる。年がら年中国防色に染まっている陸軍とは違い知性を感じさせる白。とはいえ知性的な海軍軍人だって人間だ。ラーメンを食べればこぼすし、風が吹けば埃がつく。もちろん服が汚れるような不用意な行動は慎むようにしているが、いざ汚れた時に汚れが目立つのは困る。見せつけるのは埃でなく、海軍軍人としての誇りでなければならない。
・・・その点では、こんな事を考えている自分よりも彼の方がずっと純白の白は似合うだろう。飯田は自分を先導するように歩く彼を見やる。
海軍幕僚長、
歩けば道が開くとはまさにこのことだろう。夕日が照らす帝都中枢、その歩道の上、最近増員された警邏の近衛兵は彼に道を譲り、背広姿も彼を無視しようとはしない。外部との貿易ができなくなったのは海軍の責任であるのだが、あのアメリカすらパナマで苦戦している。同情的・・・とまではいかないものの、海軍に批判が集中するようなことにはまだなっていない。
どんな時代であれ、軍人が国民にとって最後の拠り所であることは変わらない。国民は、いや当の軍人たちですら自分たちには皇軍がいるからと言い聞かせ、安息のかけらを感じようとしている。
「飯田、お前と二人でここへ来るのはいつぶりだろうか」
大迫は振り返らずに飯田に問う。二人の仲であれば世間話のひとつもしていいだろうに、その声はやけに突き放すようなものだった。久しぶりに二人で食事をしようと誘ったのは向こうの方なのに、距離を置こうとしているのだろうか。だとすれば何故?考えて答えが浮かぶ訳もなく、飯田は問われるままに答える。
「二年前、自分が閣下の補佐官に就いた時です」
「そんな前だったか・・・」
そのまま途切れてしまう会話。無言で二人は歩き続ける。
目的地は目の前だった。
大迫が顔を見せればそのまま奥へと通される。通された先の部屋、そこで二人は向かい合うように座り、ひとまずは軍帽を取る。ほんの僅かな沈黙の後、大迫は再び口を開いた。やはり何かを探るような雰囲気は消せない。相手がそうなら飯田も合わせる。互いが同じように警戒し、続いて漂ったのは僅かな困惑、飯田はもちろん、大迫も何に警戒しているのか理解しているとは思えなかった。
飯田は何を言おうかと迷うが、今は大迫の言葉を待つべきだと判断し口を閉ざす。空気が肌にまとわりつくように感じるのは、湿度が高いせいだけではないに違いない。
大迫が口を開く。軽い口調に見せかけることもせず、ゆったり重く告げる。
「まずは・・・明るい話でもしよう」
口調は全く明るくなかったが、大迫は続ける。
「昇進が決まりそうだ。七月付での昇進には間に合わなかったが・・・」
「このタイミングで、ですか」
純粋な驚きの声、何の話をするかと思えば昇進の話・・・もちろん昇進するのは飯田だ、琉球諸島事変以前なら単に嬉しいだけだろうが・・・どうも純粋に喜べない。
「・・・お前は幕僚部員としてもよく働いてくれているし、前回の昇進からもまあまあ時間が経っている・・・本当は大佐あたりまで引っ張りたかったんだが」
流石にそれは無理だったよとわずかに肩をすくめる大迫。それから言う。
「これで雀の涙ほどの特別手当以外にも給金が出せる、娘さんはいよいよ進学だろう?好きな大学に入れてやれよ」
軍人の給金は少なくない。別に昇進しなくても望には好きな大学に入れてやるつもりだったが・・・。飯田は僅かに顔を背けた。敵対的危険生物とは関係ない話が出たことで先程まで張り詰めた不思議な違和感は少し和らいだが、飯田にとっては別の心配事を思い出しただけ。のしかかるストレスは変わらない。
「・・・どうも奴は
「・・・尊重してやれよ」
「無論です、後に続くものがいなければ、国防は成り立ちません」
本音ではある。止めるつもりなどない。
「・・・お前は相変わらずだな、私の娘が――――当の昔に結婚してしまったが――――もし同じ事を言ったら、私はなんて言うだろうか」
問題発言かね、そう言う大迫の顔に僅かに冗談めかした笑みがようやく垣間見えた。
「失礼します」
とその時、大迫も飯田も真似できない柔らかい女性の声が聞こえ、それから彼らの座っている部屋の襖が開く。大迫は襖の方を向き、それから親しみを込めた笑みを浮かべた。飯田はそちらへ向き直り小さくお辞儀する。
「ああ、女将さん、今回も急に取ってもらってすまないね」
部下に向けることのない視線を女将さんに投げる大迫。
「いえ、大迫様は大事な常連さんですもの・・・お料理をお持ちしました」
「おう、ありがとう」
「それでは、ごゆっくり」
ゆっくりと、しかし素早く膳を二人の前に並べて退出していった女将。わざわざ彼女が出てきたあたり、流石は大迫閣下行きつけのお店だと思う。ここの店とどんな縁があったのか、彼に連れられてゆく料亭はほとんどここだった。それは研究会の頃から変わらない。
「・・・」
「さっきも言ったが、二人だけで来るのは久しぶりだな・・・さあ、ひとまず飲もう」
大迫は持ち込まれた陶器の瓶に手を伸ばし、飯田に差し出す。飯田も素早く応じ、ほんのりと温かい透明な液体を
「我が美しき祖国に」
大迫が僅かに盃を掲げ、飯田もそれにならって腕を持ち上げる。二人の視線が僅かに絡んだ後、ほぼ同時に透明な液体がそれぞれの喉へと流し込まれた。
ここは帝都の一角、庭に並べられた木々のおかげでほんの少しだけ都会の喧騒から逃れられる空間。二人の海軍軍人が話をするには、なかなかのセッティングと言える。盃に注がれた液体が少し喉を焼く、そんな感覚を飯田が楽しむなか、大迫は壁に掛けられた文字の羅列を見やった。檜か何か、ともかく高級そうな木の板の上に濃い墨汁で力強く刻まれたその言葉、知らない日本人はいないだろう。
「『皇国ノ興廃此ノ一戦ニ有リ』・・・これを言ったのはかの東郷元帥でもなく秋山参謀でもない。誰が言った言葉か知っているか?」
「いつも閣下が仰っています」
飯田はそう応じる。大迫は僅かに目を細めて続けた。
「そうだな・・・どうもここへ来るとこの話をせずにはいられない。この言葉は英国の大提督であるネルソン郷、彼がトラファルガ海戦の時に発した訓令だ・・・結局、今も昔も日本の歴史は猿真似ばかり・・・情けない話だよ」
「まあ、日露は英国の助力なくして勝てない戦でした。むしろ英国へのリスペクトという意味でもこの言葉を『引用』したのは間違いではないかと」
猿真似と言われて悪く思わない日本人はいない。飯田は僅かに力を込めて「引用」という言葉を使うが、大迫は薄ら笑いを浮かべる。
「『模倣』だよ、先進国に見せかける為、当時は何でもかんでも真似しようとしていた」
それは紛いもない事実だった。先進諸国に追いつき追い抜くこと。それだけが開国以来の絶対目標であり、そうしなければ植民地化の波に飲み込まれてしまう時代だった。
しかし圧倒的な技術力の差で世界を席巻していた欧州諸国もいまや故郷を赤く染められ、アジアやアメリカへ逃げて来て早70年、時代の流れはあまりに早く、残酷であった。
しかし奴らは、時代の流れ以上の破壊力をもって、この国を、いや人間の世界を打ち砕かんとしている。
そのまま天井を仰ぎ、歌うかのように呟く大迫。やはり普段の調子ではない。
「敵は幾万、我らに戦う大義なし」
「国民を守るのは正しき道理だと思いますがね・・・」
「原爆の使用は体面上許されないことだ。効果があったにせよ、共産主義者はマダガスカル島民の生活を奪った・・・やめよう、こんな話は」
するだけ無駄だというように自ら始めた話を断ち切った大迫、それから彼の前に置かれた膳に手をつける。小さく流れる水の音が聞こえ、時折軽い音が響く・・・ししおどしでも設置してあるのだろう。客人たちの心が休まるように奏でられているはずのそれが、飯田と大迫の間に沈黙の代わりとして流れる。そして二人は声を発さず手を合わせ食材への感謝の意を示し、それから食材を口へと放り込む、栄養補給以上の労力と資源が注ぎ込まれた料理が、二人の軍人により浪費されてゆく。
少し彩られた静けさと出汁の効いた料理の味。気まずい沈黙ではなく、準備運動のような食事。飯田は目の前の上司が話し始めるのを待つ。
「武士は食わねど高楊枝・・・と、昔は言ったものだな」
大迫が唐突に口を開いた。箸を持つ手は止まっている。飯田は咀嚼を終えてから返す。
「当時は保証された誇りがありました。それを保つために多少の無理はする・・・そういうものと自分は解釈します」
飯田の言葉に小さく頷く大迫、その後にだが、と小さく付け足した。
「平時の軍人の実情かもしれない」
「時代が合わないと思いますが」
今の時代は四民平等だ。武士などという特権階級は存在せず、四民から外された差別階級も存在しない。誰もが自由で、軍人から商人、何にでもなれる。穢多・非人のように差別されるのも、するのも自由だ。
「心意気の話だよ、言葉通りに解釈すれば、ただの見栄張りだがな」
大迫は話を続ける。置かれた箸はそのままだった。
「今こうして我々は美味と呼ぶに値するものを食している。他方、物価上昇で今日の食にも苦しむ者もいる。いや、苦しむ程度ならまだマシか、配給品を奪い合う国もあるというからな」
自己批判のつもりなのだろうか。それは違うだろう。場所を決め、飯田を連れてきたのは彼自身である。まさかこの期に及んで罪の意識を感じているわけではあるまい。
表情を変えない飯田に、大迫は僅かに表情筋を動かす。
「いや、別に高尚な考えを抱いているわけではない。そもそもここへお前を連れてきて、料理を注文したのは紛れもない私だ、こんなこという資格もない」
それから大迫は膳に再び箸を伸ばし、高級品に違いない食材たちをつつく。
「お前は話をしたいと持ちかけてきた。何の話かは知らないが、丁度私も直接話がしたかった・・・出来ることなら、階級差をなるべく感じないような場所でな・・・だからここを選んだ」
ずっと階級ありきの軍隊で付き合ってきたのだ。もちろん飯田の階級が大迫のそれを抜いたことはない。だから上下関係は初めから決まっている。
それなのに、階級差を感じないように、とはどういうことだろうか。大迫の真意を感じさせない言動に、顔にこそ出さないが少なからず戸惑う飯田。
「もうすぐ七月だ・・・気温が上がれば電力消費の変動幅も増える」
あからさまに話題を変えてきた大迫に合わせ、飯田は国内電力需給の現状を思い浮かべた。
夏の気温はギリギリまで読めない。従って消費量は日によって大きく変動する。原子力発電や自然エネルギーによる発電は調整が難しく、その場で素早く発電量を増やすこともできなければ、減らすこともできない。貯めておくことの出来ない電気。消費量と発電量が合わないことで電圧が変動し、一定以上変動すると保安の観点から自動的に供給が遮断されてしまう。つまり停電になってしまうということだ。これを避けるためには、常に細かい発電量の調整が可能な火力発電。これを動かしたり止めたりすることで発電量を調節するしかない。
「節電の呼びかけは・・・これ以上は難しいですよね」
虎の子の原発をほぼフル稼働で動かし、国民に節電を呼びかけ続けて数ヶ月。一人一人の僅かな取り組みが一億五千も積み重なり、馬鹿にならない量の消費が抑えられている。
とはいえ、暑ければエアコンに頼るのが主流の現代だ。打ち水や団扇だけで暑さを凌げる人間は少ないし、そもそも地球温暖化が進行している――――どうも最近、その手の話を聞かなくなってしまったが・・・誤報だったのだろうか――――状況でエアコンを使うなというのは無理な相談だろう。
それに、もし熱中症で倒れられて救急車が出動した日には・・・ガソリンが無駄に消費されてしまう。
「まあ、結局なるようにしかならんさ・・・私が気に食わないのは、むしろ最近の経済動向だ」
「購買意欲の向上が見られますからね・・・大体は『不思議な』戦時政策のせいですけど」
一応自由資本主義を採用している国家だけのことはある。こんな状況でも食料品は自由に売買され、店舗にはある程度の品揃えがある。一部の生活必需品は生産がギリギリのラインに追い込まれたことで配給制に移行したが、それは本当にごく一部だ。
そんな中、報道陣がこぞって『耐久消耗品の購入に関しては規制の閣議決定が秒読み段階』であると騒ぎ始めた。もちろん『圧力』が働いているのは間違いなかったが・・・ともかく大々的に報道されている。
もし本当に規制が決定されるとなれば大騒ぎである。なんせ店頭から耐久消費財が消えてしまうのだ、耐久消費財とは冷蔵庫やPCなどの家電製品、ベッドや椅子などの家具。車は勿論のこと自転車も含まれる。閣議では自転車や冷蔵庫などの『国民生活に直ちに影響を及ぼすもの』は除外する方針をまとめていると報道されているが・・・今が最後の買い時と必要もないのに消費者がたかり、売上はうなぎ登り。もちろん各店舗が全力で在庫処分に励んでいるという事情もある。
「この現象、一部では『規制特需』と呼ばれているらしい」
「規制なのに特需とはこれ如何に、といった感じですね」
経済は消費者の気分で動く。たしかに耐久消費財の購入が制限されるのは生活に直結することだ・・・しかし、もう少し混乱を生まないやり方はあったはずだ。具体的にどのような商品が規制されるのか。リストは閣議決定の後に作成されるというので何が規制されて何が規制されないのか全くわからない。
それが無闇な購買行動を招いていた。産業界の思うツボである。
大迫はそのまま話を続ける。先程までの『らしくない』調子は見事に消し飛び、普段通りの彼の口調で話は続いてゆく。
「もちろんこれは全工業力をこの戦いに注ぐということを国民に宣言し、それと同時に締まり気味の財布を開かせておくための動きと見ていいだろう、閣議決定秒読みと初めて言われたのは一週間ほど前、しかしまだ閣議決定には至っていない・・・リストの作成も視野に入れれば、まああと一ヶ月は猶予があるとみていい、モノを買わせるためのわかり易すぎる誘導だよ」
在庫処分もしなければならないからな。と言う大迫。各種製品を作るのに用意されているのはそれ専用の生産ライン、民需向け生産を止めたからその生産力の余剰を軍需に回せるかと言われるとそうではない。しかし大量生産により無用に浪費される資源や人的資源を軍需に回すことならできる。国家が夜警国家などと呼ばれていた時代はともかく、今や資源を消費するのは民衆だ。足りないと嘆かれる資源の貯蓄も、全て軍需に回せば足りるのだ。
もちろん、全て軍需に回しでもしたら暴動どころの騒ぎではないので、何だかんだで民需に資源を割かねばならないが。
「話によれば、内閣は久々の戦時国債発行も視野に入れているそうだ」
そう言いながら箸を手に取り、再び食事を再開した大迫、飯田はここまで無言で食事を進めていたが、今度は飯田が手を止める番だった。
「ですが自分の記憶が正しければ、現在は戦時ではないはずでは?」
そう言い返した飯田。確かに日本政府が対峙しているのは『敵対的危険生物』という名前の『害獣』であり、戦争行為は誰も行っていない。もちろん詭弁といわれればそれまでだが、それでも戦争ではないと政治家は言いたがった。確かに、あんな化物共を国家同等に扱うなど、誰もやりたくないことだ。
しかし、そのせいで事前に整備してある戦時法制が利用できない。
「まあ例外だらけのこの件においては、既存のシステムに囚われることなく『対処行動』を行えるということなので
時限法案で無理矢理生み出した法的根拠にて行われるこの『対処行動』・・・言わば国民の同意なしに行われる戦いだ。もちろん国民は自衛軍が銃を取ることを望んでいるに違いないが、選挙をやってみない以上本当に賛成かどうかは分からない。
そんな飯田の言葉に、大迫はゆっくりと反応する。
「いや・・・流石に国民から『いつまで対処行動で済ますつもりだ』という声も上がってきている。近いうちに敵対的危険生物全体への宣戦布告、国家総動員法の施行なども視野に入れているそうだ・・・友民党や
大した妨害も受けずに承認されることだろう。大迫は言葉を濁しつつもそう結論づけた。
「『生物』に対してどういう風に宣戦を布告するのでしょうか・・・?」
「それが今日、話しておきたかったことだ」
「・・・敵対的危険生物を、勢力として扱う、と?」
なるほど、ここまでの話は全て枕だったわけか。飯田は僅かに拳を握る。
「まだ正式に決まったわけではないがな、御前会議にて承認され次第、即座に公表されるだろう・・・その勢力の名は――――」
そこから躊躇う様子もなく続いた大迫の言葉に、飯田は先日、淵曽根議員が口にした言葉を思い出した。彼が敵対的危険生物の呼称にこだわったのは、こういう事情があったからに違いない。
「――――深海棲艦――――ですか」
「聞いたことがある・・・と言わんばかりの顔だな」
「無論です・・・大島のレポートに書いてありましたからね」
それから控えめに、今日のお話は彼のレポートについてです。と付け加える飯田。
「なるほど、私もお前も、結局しようとしていた話は一緒か」
口角を釣り上げる大迫、話題が話題なので笑えなかったが、こうして話がトントン拍子に進むと気持ちの良いものがある。
ところが、飯田の顔色は変わらない。確かに気分は悪くはないが、少なくとも良くはなかった。
「ですが・・・これで疑問点が増えてしまいました」
「そのようだな・・・深海棲艦という言葉は確かに一部で囁かれてはいた言葉だ、艦という明らかに生物でない言葉が『我々は未知の存在と戦っている』という事を強調する意味でもなかなかのネーミングだろう・・・しかし所詮は噂話程度に囁かれていた名称だ。その割に」
「それ以外の通称を聞かない・・・ということですか」
飯田の言葉に、ああ・・・と小さく漏らした大迫。
「敵対的危険生物の新しい呼称だけじゃない。海軍大臣から聞く話も、最近の統幕会議も、まるで見えない大きな力が働いているかのように進んでゆく、私が知らない流れができているように見えるのだよ」
「大きな力って・・・そんな、下手なアニメじゃないんですから・・・」
そうは言いつつも、飯田の中では一つの仮定が出来始めていた。大迫閣下だって決して政治的嗅覚がない人間ではない。彼は見えない流れを掴みかけている?
その流れとは、「オペレーション・ニイタカヤマノボレ」の流れではないだろうか?
しかし飯田は動かずに大迫の次の言葉を待つ。敵対的危険生物の本土上陸作戦という情報、その情報源も含め、大迫閣下はホイホイと胸の内を話す人間ではない――――基本的に機密で構成される国防を司る人間がホイホイ話したら不味いどころの話ではないので当たり前だが――――こうして何かを匂わせるような発言をするだろうか。あるならあるとはっきり言って、可能性しかないのなら誰にも何も言わないのではないだろうか。
そう考えるとムクムクと湧き上がるのは疑念だ。初め漂っていた大迫閣下のなにかを探るような雰囲気はすっかりなりを潜めたが、それはつまり隠しているということではないだろうか。
「オペレーション・ニイタカヤマノボレ」の全貌は謎に包まれている。淵曽根議員はこのことから手を引けとわざわざ忠告に来てくれた。つまりそれほど公に出れば問題が大きい作戦なのだ。しかし飯田はその全貌を探り続けている・・・かつて青葉に言ったように、自分が本当に純粋な
自分が「オペレーション・ニイタカヤマノボレ」を知っていると大迫閣下に知れれば何が起こるか分からない。何をされるか分からない。
いや・・・そもそも大迫閣下がこれを知っているのかどうかすら分かっていないのだが、だからこそ知られるわけにはいかないのだ。
「・・・まあ、お前にいうような話じゃなかったな、忘れてくれ」
飯田は大迫が次の言葉を紡ぐことを期待していたが、大迫はそれ以上言わず、それよりもレポートの話をしようと話を変えた。飯田も追求するつもりはなく、まるで大迫が愚痴を零しただけのようにその話は埋もれていく。
「閣下は、大島のレポートをどこまで」
「目は通してある」
その言葉に、飯田はほんの僅かに腰を折り、大迫の方へと寄る。
「如何思われますか」
大迫は、ゆっくり口を開いた。
「嘘ばかりというわけではないだろう・・・嘘は真実に混ぜたほうが良いというからな・・・しかし、第4章のように信じるどころか目を通すのにも値しない情報もある」
「・・・自分はその可能性を捨て置くべきではないと考えます」
第4章――――深海棲艦の核兵器の保持に関する可能性と輸送手段について。
大島がもたらしたレポートで最も馬鹿げており、そして、最も興味を引く内容。飯田にとっては――――おそらく大迫にとってもだろうが――――このレポート最大の特徴と言って差し支えないだろう。
最大の特徴ということは、大迫の情報との最大の対立項であるということだ。
「確かに――――大迫閣下の情報では核兵器の存在・・・いえ、航空兵器の存在すら触れられていません」
「実際の問題として、海の底からきた奴らが航空戦力を持つことは考えられないだろう、核兵器もまた然り」
「・・・学ぶ、という可能性は考えられないでしょうか」
やや力を込めて繰り出した飯田の台詞。大迫はそれを噛み砕く様子も見せず、即座に否定する。
「ありえないな、奴らは連戦連勝で自分の戦略を省みることもしないに違いない・・・この前のブルネイ襲撃だって、ジャカルタの時とほぼ同じ戦術だ」
それに――――核兵器の製造に必要なプラントや濃縮ウランを奴らが確保できるわけがない――――と言い切る大迫、それはそうだ。核兵器はウランを手に入れただけで作れるものではない。核軍備を宣言している国家は
そこまで開発が難しい核兵器を、そう簡単に作れるわけがなかった。
「核は確かに難しいでしょう、ですが・・・航空機を飛ばしたのは国の研究機関じゃなかった」
昔の航空機と言えば鈍足の気球ぐらいで、通信技術も発展していない当時では軍事転用には難しいものがあった――――弾着観測ぐらい出来ただろうが、砲兵が気球部隊を取るに足らないものとして考えていたので、連携は無理な話だったろう――――。
しかし、翼をつけて鳥より早く飛ぶ航空機は、戦場を変えた。
「航空機を鹵獲し少しでも研究されてしまえば、奴らが航空戦力を持つ日が来る・・・かもしれません」
「対処は可能である・・・と君の部署はしているじゃないか」
突っぱねるように大迫は言う。
少し話がややこしくなるが、対策室は『航空戦力が出現しても大勢に影響は出ない』という結論を出している。確かに航空戦力自体が地上部隊に与える影響は少ない――――隠れるところがない海上ならともかく、壕に隠れればやり過ごせる地上へ被害を与えるのは難しいのだ――――しかしそれは、航空戦力が『それ単体』で運用された時の話だ。
地上戦における航空機の真髄は偵察と支援空爆だ。偵察により敵軍の行動を察知し、精密爆撃で後方の補給や司令部を爆撃、敵の戦闘継続能力を削る。
「あの想定は航空機がそれ単体で運用される場合の想定です。学習能力があるならば、航空機単体での運用はないでしょう」
学習能力があるということは、敵はこちらの戦術を見よう見まねで真似てくるということである。各国軍が航空機と他の戦力をセット運用しているのだ。真似ているのにまさか航空機だけで攻めてくることはないだろう。
となると、航空戦力は非常に大きな脅威となる。
「とはいえ、結局大島のレポートも航空戦力に関しては推論で済ませている」
どんな話題にせよ、予想や予感だけで物事を語ってはならない。敵対的危険生物が航空戦力を持つ可能性を挙げるならある程度の証拠が必要だ。もちろんそんな証拠はない。ある訳がない。しかし大島のレポートに書かれた敵航空戦力存在の可能性は、この敵航空戦力が現れるまで決着しないであろう水掛け論の突破口になる、そう飯田は踏んだ。このレポートは敵対的危険生物が「成長」することを前提として書かれているから。
「ですが奴らに学ぶ機会があるとしたら・・・例えば航空機による一方的な攻撃を受けたらどうなるでしょうか」
それは、言ってみれば「オペレーション・ニイタカヤマノボレ」だ。飯田は少なくともそう予想している。もちろん、それ以外の場面でも航空戦力は使用されるているし、そもそも奴らの学習能力があるかどうかも分からない。
しかし山本元帥がタラント空襲に真珠湾を見出したように、奴らに今後航空戦力を持つきっかけがあるとしたら、それが空軍主導の「オペレーション・ニイタカヤマノボレ」であることは間違いなかった。
「貴様の言うことは最もだが・・・大前提が不確定だ。学習能力を奴らが持つ可能性は低い」
飯田の意見を先読みするかのような大迫の台詞。
「群れとしての意識、何らかの意思があっても、そう言い切れますか」
琉球諸島事変、ジャワ島の悲劇、アウトブレイク・・・敵対的危険生物はまるで段階を踏むかのように地上への侵略を進めている。それらの行動は唐突に起こり、たちまち目標の地域を無力化・占領、それ以降は元の活動パターンに戻る・・・。組織全体としての意思がない方がおかしいだろう。
「それも結局は傾向から見出した可能性だ」
明らかに無理のある否定だった。普段の大迫はこんな頭ごなしに否定をしたりはしない。だからこそ、飯田は攻勢を仕掛ける。
「大島のレポートの信憑性はある程度あると自分は考えます」
「大島の逮捕を命じた人間の台詞ではないな」
「問題はそこにありません」
「ではどこにあると?」
「閣下の情報が大島のそれより内容が薄く、しかもほとんどの点で一致していることです」
「・・・おもしろい発想だな」
大迫の眼が僅かに凄んだように見える。当然のことだ、飯田は今、大島と大迫、二人のもたらした情報を同じ土俵に並べたのだから。
巨大組織をどのように運営するか。アイデアはいろいろあるだろう。だがどんなシステムも信頼できる人間同士で繋がるからこそ構築できるもの。結局根底にあるのは人と人との繋がり、コネクションである。
にもかかわらず、飯田の言葉を平たくその通り解釈するなら出会ったばかりの海上保安官と長年ともに働いた上官、二人から得た二つの情報を同等のものと見なすということ。
「面白い発想とは言えません。敵対的危険生物というイレギュラーに対抗する上で、情報の誤り以上に危険なものは存在しません。そう考えれば、とにかく正しさだけを追求する必要があります」
「私のことが信じられないのはまあ、分かる」
「そんなことを言ってるわけではありません」
大迫は飯田の次の言葉を待つように動きを止める。
「同じ情報ならば、より詳しい方を読むに限る。そちらの方が真偽を見極めやすい・・・そういうことです」
大島の情報が虚偽である可能性は高い。しかし大迫の情報が虚偽である可能性も高い。
敵対的危険生物が日本に上陸してくるという点では、両者は全く同じ主張なのだ。
両者は同質のものと考えるのが、少なくとも今は最善だろう。
「・・・とはいえそれはあくまで『最善』であって、結局丸呑みするわけにはいきません。ですが閣下。あなたには情報、その根拠がある・・・あなたがそう言った」
答えず大迫はゆっくり腕を組んだ、しかしそれは何かを思案する様子でなく、むしろ覚悟を決めるかのような様子であった。
「ですが閣下は大島のレポートを頭ごなしに否定しました・・・それは閣下の情報と大島の情報が、同じところからもたらされたからではありませんか?」
初めから分かっていたことだ。大島のレポートと大迫がもたらした情報。共通点が多すぎる。
「・・・」
沈黙は、肯定である。しかし彼はそれ以上何も教えてはくれない。それが大迫善光という一人の軍人の選択であったから。飯田もそれを問おうとはしない。
それゆえに、大島の情報が何なのか、信用に足るのか、知る人間は、飯田の知る限り大迫しかいない。
「教えてください、大島の情報は・・・いえ、あなたの情報は、どこからもたらされたものなのですか」
飯田はその問を再び大迫へ投げる。
今度は教えを請うわけではない。
大島という死地から帰還した人間。敵の手先と疑われて当然の人間がもたらした情報と大迫の情報が同じ・・・。ここまで来れば、大迫にだって疑いをかける。それが妥当というものではないだろうか。
従って、大迫に回答しないという選択肢は存在しない。
ししおどしが丁度傾いた。耳を打つような軽い音が、両者の間を駆け抜けた。