模倣の決号作戦(改稿前)   作:帝都造営

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X-124Days

 男は崩れかけた高層マンションを見遣った。爆撃によって何階建てだったのかわからなくなったそれは、おそらく浮浪者たちの巣窟となっていることだろう。壁がなくなったことで外からでも床、室内の様子が見て取れる。通行人の頭の上に落ちてくると厄介なので瓦礫と呼べるようなものは一通り排除された。しかしその建物自体を取り壊すほどの余裕は国にないようで、残ったのは半壊した床と一部残された壁だけで構成されるデザインの悪いモニュメント。これが一つだけならイイかも知れないが、街中モニュメントだらけでは景観も悪い。改めて、この国の貧弱さを思い知らされる。

 

 もともと大国がバックに付いていたからこそ成立した国家、独り立ちも迎えられていない子供が親の死に対応できるかといえば、出来るはずがなかった。現に十年前の戦争の傷は、まだまだ膿を出し続けている。

 

 

 そう、十年前の戦争。日帝の連中に言わせれば『第十次上海事変』。本当の名前は第5次日中戦争。彼らは事変という言葉が好きだ。こうして北京が爆撃を受けたというのに、奴らは上海事変と言ってはばからない。そしてそんなインチキ国家に、この中華人民共和国は敗れ、中華民国は奴隷として媚びへつらっている。

 

 そんな考えを持つ彼も、日本という国家の強さは身をもって知っていた。これでも宥和政策の中、祖国のエリートとしてかの国へ留学していたのだ。劣っているのは軍事力やインフラだけではない。もはや庶民の文化レベルも比べ物にならないところまで広がっている。中国3000年の歴史だなんて戯言をほざく気はないが、どうして資源・人的資源ともに勝るこの国が辛酸を舐められなければならないのか。

 

 

 答えは分かっている。共産主義の仕業だ。奴らが民衆に甘い夢を見せ、そして堕落させた。国は二分し、国力を内部抗争に費やした。中華民国の連中は日米帝の援助を受け、中華人民共和国はソビエトの支援を受け――――それぞれの傀儡となった。

 こんなこと、地方の農民の子供でも分かることだ。

 

 

 誰しも祖国の没落した姿など見たくないし、仮にそれを見たとしても諦めるなんてことはないだろう。もし諦めるならその国は歴史から消える。彼もまたエリートとは言え一般的な人間であったし、国家のために最善を考え、尽くす意味と価値に重きを置いていた。

 

 

 だから彼は、アクセルを踏む。

 

 

 祖国を二分する勢力の均衡は四分六分で中華民国に有利。ならば有利な方に傾け、一度このインチキな状態をぶち壊す。傾けるために日米帝の力を借りるのは癪だが・・・まあ見ているがいい。五十年経てば形勢は逆転する。人民共和国でも民国でもない、新たな中華帝国が生まれる。生まれさせてみせる。

 

 一気に加速、身体がシートに押し付けられる・・・日本車の性能はなかなかで、結構無理を聞いてくれる。品質も保証されない中古だというのに家――――崩壊した建物ではなく――――が買えるぐらいの値段がするのも納得だ。日本製品を憎むのでなく、我々はその優秀な技術を盗まなくてはならない。

 

 とはいえ、そんな未来の話は上海で事を起こす同志たちに任せることにしよう。

 

 

 

 リーダーは日帝が軍事介入を約束したといった。日帝にとっても中華人民共和国が崩壊するのは都合のいいことだし、約束を守らないなら国家失格だ。必ず介入はあるだろう。

 

 

 庁舎の入口が目の前に迫る。門の警備は早くも銃を抜いて撃ち始めた。マズルフラッシュが瞬くのとほぼ同時に、ボンネットに弾が突き刺さる嫌な音がする。まだ数十メートルも距離があるというのに、不審なものは撃つべし、といったところか・・・この国の治安の悪さを示していると言ってしまえばそれまでだが、どのみち拳銃やライフル程度で一トン近くある乗用車の運動エネルギーを消せるはずがない。無駄な努力だ。

 

 

 しかし車は止められなくとも、彼に銃弾が当たれば車は操縦者を失ってしまう。彼は身を隠し、外を見ずに車を操る。フェンスをはねのけるような金属音が響き、タイヤから伝わってくる感触が変わった、どうやら敷地内に侵入できたようだ。車止めも用意されていないのは意外だった。最悪ここまで突っ込めれば上出来と思っていただけに思わぬ幸運である。

 

 

 

 日帝はこれを、第十一次上海事変とでも呼称するだろう。だがそれは違う。

 

 

 この戦いは、第三次中華内戦である。

 

 

 心の中で叫び、既に地べたまで踏んであるアクセルをさらに強く踏みしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――中華人民共和国国内の大使館など各国政府施設が、次々攻撃を受けています!」

 

 あまりにもその報告は唐突であった。

 

「被害は」

 

「確認中でありますが、現時点で大使との連絡が取れていません」

 

 大迫は表情を崩すこともせずゆっくりと体の位置を変えた。上に立つ者は、決して部下の目の前で狼狽してはならない。それは常識だ。もちろん飯田も狼狽した様子は見せない。

 

「・・・そうか」

 

 大迫の声は落ち着いているように見える。だが大迫はいきなり報告に入ってきた男に対して先ほど声を荒げたばかりだったのだ、その異様なトーンの落ち具合は彼が冷静でないことを主張している。それから彼は少し考えるような素振りを見せてから。

 

「下がれ」

 

 と部下に命じ、退出させた。

 

「・・・」

 

「ひとまず東京に戻ろう、状況を把握するためにも」

 

「はい」

 

 二人は、それ以上言葉を交わすことなく、東京へと戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 治安という面では確かに首都である北京の方がマシなのだろう。とはいえここには人も物資も情報も集まる。首都という理由だけで辛うじて都市機能を保っている北京にいる理由はない。

 

「しっかし・・・こりゃ面白くなってきましたねぇ・・・」

 

 一体どこから手に入れたのやら、官給品の暗視装置を外した青葉はそう呟いた。

 

 中華人民共和国、上海市の放棄された高層ビルのどれか。これらは外見がボロボロの上にメイドイン・ソビエトチャイナ。聞けば誰もが住みたくなくなるであろう物件だったが、意外にも先客は多かった。もちろんそれは地上へのアクセスがしやすい下層階の話であって、この建物全体に当てはまることではないが。

 

 見かけ上、上海市は今日も平穏そのもの、確かに銃声は聞こえる。しかしそれは日常茶飯事。気にすることではない。

 

 むしろ気にするべきは、銃声の向けられた先であろう。彼女が掴んだ情報が確かであれば、あれらの銃声はマフィアの縄張り争いなどではない。全て政府組織へと向けられた銃声であるはずだ。パトカーのサイレンも途切れ途切れに聞こえてくる。風に混じって流されてくるのはヘリの羽音だろうか。制圧射撃の音は聞こえないから飛んでいたとしても警察のヘリだろう。

 

「・・・まぁ、賄賂合戦で腐敗しきった警察に抑えられるはずもないんですけどねぇ」

 

 誰に話すわけでもなく呟き、テーブルの上に手を伸ばす。確か日本から持ってきた携帯食料がまだ残っていたはずだ。こちらで入手できる食料はよく分からないものが多い。羊頭狗肉とは中国の故事だったか。

 

 その時、丁度手を伸ばしたテーブルの上に置いていたいくつかの携帯電話、そのひとつが震えだした。上海は今午前3時、時差があるとは言え日本だって真夜中のはずだ。いったい誰だろうかと震えている携帯電話を探す。そしてどの携帯電話がなっているか分かったとき。思わず彼女はほくそ笑んだ。全く、分かりやすい男だ。

 

 素早く携帯を開き、満面の笑みを作ってから通話ボタンをおした。この眩しい笑みを向こうに見せることは叶わないが、表情は口調ににじみ出るものである。相手に自分の笑みが届くことを願おう。

 

「どもっ、上海の青葉ですぅっ!」

 

『・・・』

 

 相手は無言。ノイズに小さなうめき声が混じった気もする。

 こちらの調子にうんざりしたのだろうか。それは無理もない。いきなりこんな面倒事が舞い込んで来たのだ。慌てない方がおかしいし、頼りの電話相手は相変わらずのおバカな調子。

 

 ・・・ですが飯田室長、青葉を頼っているのは紛れもない貴方ですよ?もちろん青葉は答えてあげますけど。

 

「おっかしいですねぇ・・・間違い電話だったんでしょうか」

 

『・・・変わらないな』

 

 ようやく返事が返ってきた。即座に青葉は口を開く。

 

「変わったのは世界ですからね、青葉のパーソナリティは不滅です」

 

 ちょっとからかうように言ってやれば、電話越しで飯田室長のため息が聞こえる。相変わらず反応がわかりやすい人だと思う彼女。逆に言えば、彼女は飯田に警戒されていないということになってしまうが・・・。別に彼女は気にしていないようだ。

 

「で、本日はどのようなご用件で?」

 

『・・・分かりきったことを』

 

「えぇ、まあそうですね」

 

 青葉は窓の外を仰ぎ見た。僅かに供給される電力――――恐らくほとんどが自家発電だろうが――――によって彩られた上海市街を、幾筋もの火線が飛び交ってゆく・・・というのは誇張表現だが、ともかく『普段通りの』上海ではなかった。

 

 青葉はテーブルに置かれた薬莢を手に取った。先ほど、ちょっと無理して取ってきたものだ。

 

「センターファイヤ方式の薬莢が転がっていました・・・どこ製の弾かまでは分かりませんがね」

 

『センターファイヤ方式とリムファイヤ方式の見分けがつく時点で、どこ製かは分かりそうなものだがな』

 

 センターファイヤとかリムファイヤとかいうのは、銃用薬莢の着火方式のことである。どちらも発射薬に着火して爆発させ、その爆発の力で弾丸を飛ばすところでは違いないが、着火させるまでの方式が違う。センターファイヤ方式は金属薬莢の底部中心位置に雷管を挿入、そこを叩くことで発火させる。リムファイヤ方式なら雷管を使わず、発火薬を直接詰めてそれを叩き発火させる。

 リムファイヤ方式の方が暴発や不発の危険性が高いものの、少ないコストで大量生産が可能だ。民生品や自家製ならだいたいリムファイヤ方式。

 

 センターファイヤ方式の薬莢が転がっていたということは、つまりそういうことなのだろう。具体的に言うなら、目下戦闘中の武装勢力が高性能な弾薬工場を保有している。もしくは・・・

 

「どこ製かはわかりませんねぇ・・・残念ながら」

 

 それから青葉は嗤った。

 

「・・・でも、そっちの方が都合がいい、ですよね?」

 

 リムファイヤ方式に比べセンターファイヤ方式は雷管を挿入する関係上薬莢底が厚くなっているので見分けるのはそんなに難しくない。というか、薬莢は弾そのものだ。着火方式の見分けがつく時点で、弾の見分けがつかない訳がない。

 

『・・・違いないだろうな』

 

 一瞬だけ沈黙。飯田の苦笑が聞こえてきそうだ。

 

『状況は理解した。その上で、貴様に頼みたいことがある』

 

 再び破顔した青葉。今度は心からの笑みだった。

 

「もっちろんです、『一回こっきりしか使えない連絡先』を使ってくるあたり、飯田室長の本気は青葉にもビシビシ伝わってきますからねっ!」

 

 

 気づけばヘリの羽音が聞こえなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝だ夜明けだ。潮の息吹は聞こえない。

 

 なぜならここは東京港区。統合幕僚本部第一庁舎。

 

「なんだって、もう一度言ってくれ」

 

 昨日から寝ていない飯田。紅茶のカフェインで無理矢理体を動かす。手に取った新聞紙に刻まれた活字は出来立てホヤホヤの最新ニュースで、そこには『中華人民共和国にて大規模テロ発生』と大見出しが載っていた。

 

 敵対的危険生物対策室と言えど結局は軍の一組織、敵対的危険生物よりも面倒な事案が発生した今、統合幕僚本部の情報処理を手伝っているところだった。いつも以上に騒がしい室の中で告げられた報告に、聞き間違えではないかと聞き直したのだ。

 しかし聞き間違えではなかったようで、先ほどと同じ報告が繰り返される。

 

「霞ヶ関が、五航戦を黄海に回そうとしているようです」

 

「・・・こんなタイミングでか」

 

「こんなタイミングだからでしょう」

 

 黄海とは朝鮮半島と中国大陸の間にある海のことである。どうでもいいが日本とほとんど同じぐらいの面積がある。

 

 ちなみに霞ヶ関は海軍幕僚部のこと。五航戦とは航空母艦『榛名』を旗艦とした空母打撃部隊のことだ。

 

 飯田はそろそろ回らなくなってきた頭――――徹夜が苦手なわけではないが、ソ連の核兵器投下のせいで数日前に同じように徹夜をしたばかりだったので、結構体に堪えているのだ――――のこめかみを抑えつつ呻くように言った。

 

「大迫閣下は・・・?」

 

「なんとか抑える・・・とは仰っていましたが・・・」

 

 報告する部下の自信なさげな様子を見るに、厳しいのだろう。確かに報道を見る限りでは中華人民共和国国内にいる邦人の保護も必要そうだ。部隊の派遣自体にためらう必要はないだろうし、反対意見もそうそう出ないだろう。

 

 しかし国内事情なんてどうでもいい、瀬戸内海を出ればそこは魔の海だ。超大国アメリカ、海軍国日本ですら対抗できない敵対的危険生物の群れが海底に潜んでいる。もちろん遭遇せずに黄海まで進出し、空爆やその他の支援を行うことは可能だろうが・・・無闇な出撃は控えるべきだ。

 

「なんとしても抑えるように閣下に頼んでくれ」

 

「・・・分かりました」

 

 そう言って部下は退出する。言っても無駄なのには違いないが、これは対策室の総意でもある。ここまでどれほど苦労して海軍を瀬戸内海に閉じ込め続けたと思っているのだ。絶対に何があっても、海軍戦力を浪費させる訳にはいかない。

 

「小牧」

 

「何か御用ですか」

 

 飯田の声掛けに素早く応じた小牧。自分の作業から目を離し、体ごと飯田に向けている。

 

「今回の件、どう思う」

 

 その問に小牧は微動だにせず・・・少し考えを整理しているようだ。それから姿勢を正し、答えた。

 

「今回は第十次上海事変とは勝手が違います。攻撃を行ったのは中華人民共和国国内の武装組織、攻撃対象は中国共産党」

 

 ですが、と珍しく語気を強める小牧。

 

「武装組織が各国大使館を攻撃したのは都合が悪いですね。日本政府(われわれ)が介入せざるを得ない状況に引きずり込まれかねない」

 

 海上交通は絶たれた。しかし航空機や対馬トンネルが使用可能な現在。大陸との交通は途絶えていない。物流としては細すぎると言わざるを得ないが、人の流れだけを見れば対して途絶えてはいないのが現状なのだ。

 

 世界はまだ繋がっているし、国民は自分たち日本が国際政治において重要なプレイヤーであると未だ認識している。

 

「世論を無視することはできません。大使が未だ行方不明。今の世論は大使の安否を気にかけていますが、いずれ各都市に取り残された邦人の救助を求める声が上がることでしょう」

 

 この事態、大きさから考えてそう簡単に収まる案件ではなさそうですから。と小牧。

 

 その通り。ただのテロ行為なら中華人民共和国では日常茶飯事だ。問題は今回の件があまりに大規模であることにある。

 

 

 

 日本時間で6月30日午後23時17分。間もなく7月が始まろうという時に、北京日本大使館が武装勢力による襲撃を受けた。その直後、日本時間23時25分には上海の日本領事館も襲撃を受け、ほぼ時を同じくして主要国の大使館など政府施設が攻撃を受けた。

 中華人民共和国は北京時間の7月1日午前4時丁度に非常事態宣言を発令。主要都市では散発的な銃撃戦が繰り広げられているらしい。住民が抗争に参加しているという情報もあるが、これは怪しいものだ。

 

 現時点で上海領事の安全は確認されたが、大使の安否は不明。さらには武装勢力が『中華共和国』なる国家の建国を掲げたことで、情報は見事に錯綜していた。

 

 

「しかし納得できない・・・どうして奴らは各国政府を敵に回すような行動をとったのだ・・・?」

 

 大陸の一部を蝕む共産主義国家、中華人民共和国。南の中華民国を支持する西側陣営にとっては邪魔者以外の何者でもない。もちろん日本もそう考えており、中華大陸経由での陸運を妨害する中華人民共和国の崩壊に利点こそあれど問題などない。陸輸ルートが無法地帯となったとしても、人民共和国からの妨害を受けなければ護衛をつけて強行突破することも可能だからだ。

 

 だが、普通に考えれば、武装組織は『西側寄り』の叛乱政権として蜂起するべきではなかったろうか。

 そうすれば西側諸国も支持を表明するし、表立った具体的支援も可能になる。

 

 

 その西側の手を『中華共和国』は払いのけるどころか、切り捨てた。大使館や領事館を襲うなんて、最大の敵対行為といってもいい。誇張表現だが、国会議事堂に直接切り込んでくようなものだ。

 

 

 中華人民共和国を攻撃し、西側諸国にもつかず、世界の敵になると『中華共和国』は何故宣言したのか?

 

「・・・見えないな」

 

 小河原の奴なら、どんな軽口で済ませるだろうか。いなくなって気づくペースメーカーの存在を頭の片隅で感じつつ、飯田は情報を入手しようと端末に視線を走らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ・・・」

 

 お台場。江戸時代に黒船が来航し、どうにかお引取りを願ったあの時、次黒船が来たときの対策として江戸湾を守る要塞の構築が急がれた。それがお台場の元。明治政府によって要塞としての拡張が続けられ、前大戦でも東京への米軍直接上陸を防ぐための要塞として準備が進められていたそうだ。

 戦後は港として、さらに膨らんでしまった東京の新たな開発地として埋め立てが進み、今のような巨大埋立地となった。もともと軍事施設であったお台場は、今ではちょっとした観光地なのだから不思議である。

 

 その一角。海洋・航空博物艦。船の形を模した本館の形状が特徴的な、船舶や航空機に関する展示がなされている博物館にて、一人の男が椅子に腰掛けた。

 

「お疲れ様です」

 

「おぉ、君こそお疲れ」

 

 暗がりの中――――照明がほとんど落とされているのだ――――からトレーにカップを2つ載せた青年が現れる。彼の部下だ。青年はトレーのカップを彼に一つ渡し、自分は残りの一つをもって椅子に座った。カップからコーヒーの香りが漂う。やはりインスタントとは違う良さがある。無理をして豆を調達してよかった。そんなことを思いながら、黒い液体を口に含もうと――――

 

「――――あちっ」

 

「ははは、館長、何回目ですか、それ」

 

「ついな・・・」

 

 そう言ってからカップの中へ息を吹きかける。何か考え事をしていると周りを見ないのは彼の悪い癖だ。そしてそれは、大体コーヒーを冷まさずに口にいれ、痛い思いをするという結末をもたらす。

 冷ましたコーヒーを今度はそっと口に含む。舌の先は先ほどの熱さで感覚が一時的に麻痺しているから、残った部分で黒い液体の味を愉しむ。

 

 ふと、青年が呟くように言った。

 

「『新高』これで引退ですね」

 

 新高型航空母艦一番艦『新高』。改大鳳型(高千穂型)の更なる改良型として登場した、日本海軍初の本格的アングルド・デッキ採用艦である。榛名型の就役によってその役目を終え、今ではこのお台場でのんびり余生を過ごしている。

 『新高』の寄贈によってこの博物館が「海洋・航空博物館」という現在の名称に変更されたことを考えると、この博物館にとって『新高』は大切な存在だ。

 

 それが、昨日6月30日。遂にその役目を終えた。『新高』は再び軍の管轄に戻され、すぐにこのお台場を後にするだろう。情勢を鑑みれば恐らく海軍かどこかで空母の足しにでもされるのだろうが、そんなことはどうでもいいことだ。

 ともかく職員たちは『新高』との別れを惜しみつつ展示物を撤去。急がされたこともあり作業は一日で終わり、明日には引渡しだ。

 

 館長は少し長めに、ゆっくりと息を吐いた。そしてコーヒーの黒い水面を見ながら言う。

 

「こうして『新高(ここ)』の椅子に座るのも最後と考えると、なかなか感慨深いものがある」

 

「『新高』がここへやってきたのは、館長と同じ年ですものね」

 

 青年は苦笑を滲ませつつ言う。『新高』の公開終了の期日が近づくにつれ、彼が『新高』との思い出話をする頻度が増えていくのだ。何度も聞いた話をされないよう、青年はあえてその話を先にしてしまう。

 

「ははっ・・・君にはこの話を聞かせすぎたな・・・なに、今日が終わればもう言わないさ」

 

 館長にも自覚はあったようで、『新高』と出会った頃と比べると随分薄くなってしまった白髪交じりの頭髪を掻く。それからカップの中のコーヒーを飲み干し、勢いを付けるように立ち上がった。

 

「さて、最後に艦橋にでも行って一杯やろうか」

 

 そう言って冗談交じりに指で輪を作り、一升瓶を振るジェスチャーをする館長。青年はまた苦笑いで応じる。

 

「やめてください、ミッドウェーじゃないんですから」

 

「貴様が加来艦長を名乗るとは、随分出世したものだな」

 

 結局そういったものが好きな者同士、傍から見れば先人に失礼な会話かもしれないが、彼らの会話を聴く者は『新高』以外にいない。

 

 

 ・・・いや、いないはずだった。

 

 

 先に気づいたのは館長の方だ。

 

「ん?」

 

「どうしました」

 

 館長は足を止め、暗がりの先に視線を飛ばした。向こうからチカチカと何かが光る。携帯ライトを持って誰かが、いや何かの集団が歩いてくる。

 

「いまさら『新高』との別れを惜しみに来たのでしょうか」

 

 そういう青年。まさかとは思うが、極端な鉄ちゃん(鉄道を愛して止まない人々の事)は車両の鍵を入手してまで車両に乗り込もうとする輩もいるそうだ。もちろん車管区に忍び込むという立派な罪を犯しつつである。

 

 『新高』が愛されているのは嬉しいが、その手の人間なら厄介だ。そう思ったのもわずか一瞬。すぐにそれらの集団が一般人でないことに気づく。それに気づいた館長が話しかけようとした途端、向こうから声をかけられる。

 

 

「どうしてここに部外者がいる」

 

 部外者とは失礼な。青年が僅かに顔を歪め、館長が即座に言い返す。

 

「部外者ではありません。私は海洋・航空博物館の館長を務めている――――」

 

「『新高』の管轄は既に軍に移された、直ちに退去しろ」

 

 随分と高圧的な物言いだ。軍人が市民を支配する時代は終わったのではなかったのか。

 

「そう言われましても、軍への引渡しは明日と聞いておりますが」

 

「状況が変わった、直ちに退去しろ」

 

 有無を言わさぬ声だった。

 

「・・・分かりました」

 

「館長?」

 

 青年が納得いかないといった様子で館長の方を見やるが、彼の顔はまっすぐ目の前の軍人を見据えていた。軍服を見るに空軍。海軍の艦にのこのこ乗り込むとは、随分失礼な連中だ。

 

「どうせ確認を取ればすぐ分かることだ」

 

「ご理解に感謝する」

 

 

 形式的に軍人がそう謝辞を述べ、周りに声をかける。おい、早く始めるぞ、日付が変わるまでに計器の確認を済ませるんだ。

 なるほど何かよっぽど事情があるに違いない。そう思いつつ館長は足を早める。後ろから説明を求める部下の声が聞こえるが、質問に答えるのは後だ。

 

 この件、間違いなく今中国で起きているゴタゴタと関係しているに違いない――――。

 

 

 どうか無事に帰ってきてくれよ――――。館長は心の中で、付き合いの長い空母に告げる。

 

 

 

 月が綺麗な夜だった。

 

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