遂に暦は7月となった。旧暦の水無月に当たるのに雨ばかり降る6月は終わったが、梅雨明けまではまだ時間がある。
その関係で今日もまた雨。夏の夕立も厄介だが、しとしと柔らかく、しかししつこく降り続ける梅雨の雨は憂鬱だ。
東京湾にもいつも通りの雨が降り、ゆったり揺れる海面に吸い込まれてゆく。背景はやっぱり灰色の空と灰色のビル群。ここお台場には人影がまだほとんどないが、社会情勢も相まって人々の顔色も灰色である。
そんな全てが灰色に染まった東京湾を、2隻の小型な船がゆく。
小さくまとまった船橋と船体。低い喫水線を持つそれは外周に衝撃を和らげるための古タイヤなどが多数設置され、いかにも作業用といった雰囲気を醸し出している。ずんぐりした見かけの上に鈍足に見えるから誤解されがちだが、あんな船でもエンジンは4000馬力程度の物を持っているのだ。それ自身が動くだけなら1000馬力程度で十分なことを考えると、相当不釣り合いなエンジンを積んでいるのである。
基準排水量71,000トン。超大型空母として数多くの戦場をくぐり抜けた航空母艦『新高』。その・・・およそ40年ぶりの航海が始まろうとしている。
「・・・偵察衛星『千里眼Ⅵ』のもたらした情報に基づき航空偵察を行った結果、ミッドウェイ陥落の報告はビーコンの故障による誤報であることが分かりました」
「おお、それは良かった」
「まだ中部太平洋は大丈夫そうですね」
久々にいい報告を受けた面々から安堵のため息が漏れる。既に放棄されている太平洋の孤島には、敵対的危険生物に占拠されたか否かを監視するためのビーコン発信施設が設置されているのだが、二日ほど前からミッドウェイ島に設置されたビーコン施設からの連絡が途絶してしまったのである。途絶したということは破壊されたと考えるのが妥当だろう。遂に中部太平洋にも侵入を許したかと――――もともと、攻めてきたら止めるつもりも力もないのだが――――統合幕僚本部は慌てたが、結局調査の結果ビーコン施設は破壊されたのではなく単なる発信装置の故障が原因であることが分かった。
修理するリスクを冒すかどうかは領主たるアメリカ合衆国に委ねられるが、まあ修理されることはないだろう。パナマを失い、中南米諸国の領土を侵されている現状なら、彼の国だって太平洋の小島に注意を払うことはしない。
これがいい報告・・・だろうか、侵略がなかったというだけで、別にいい報告だとは思えない。
しかし、こんな報告で室員たちは安堵の溜息を漏らす。その禍々しい姿からも大きな話題となった『巡洋級』の出現以来、急速に進展してゆく事態・・・『潜伏級』による海上交通網の徹底破壊、勢いを一気に増したSEATO各国への攻撃。そして、世間一般には「アウトブレイク」と呼ばれる爆発的侵略。そしてソビエト連合による、核兵器投下。
あまりに短い期間、その間に多くのことがありすぎた。室員たちの疲労は溜まり、そろそろ限界だろう。いやもう限界に違いない。
新たな侵攻の報告が誤報だと分かっただけなのに、嬉しく感じてしまう。少なくともそのぐらいには追い詰められていた。
どんな組織でも存在する定例会。今対策室は定例会の真っ最中であり、敵対的危険生物の侵攻状況や防衛陣地構築の進捗などの情報を室員で共有するために各員が報告を行う。
「他に報告はありますか」
定例会の司会進行を委ねられている小牧が全体を見渡しながら聞き、特に報告がないことを確認する。全員が椅子に座るとこの室もなかなか大世帯だ。これだけの人材を使える敵対的危険生物対策室に掛けられた期待と責任は、やはり大きい。
「・・・それでは、最後に現在中華人民共和国で起きている事件について、橘中尉」
橘と呼ばれた陸軍尉官が立ち上がる。全体の視線がそちらに向けられ、橘中尉は手元の資料に視線を落としつつ説明を始めた。
「事態の発端は北京市内で起きた攻撃からです。2022年の6月30日、現地時刻の午後10時24分――――日本時刻で11時24分ですね――――に中華人民共和国国務院民政部の建築物に対して自爆テロが仕掛けられました。攻撃を受けたのは本庁舎ではなく中央より僅かに離れたスラム近くにある施設だったようです。その直後に出動した軍警察も攻撃を受け、それとほぼ同時に7カ国の大使館が攻撃を受けました」
そこで橘中尉は説明を止め、一旦息をついた。攻撃を受けた大使館は日本含め全てが
僅かな時間のあいだに耳にタコができそうなほど聞かされた報道だ。流石に皆理解しているだろうから橘中尉は説明を省いたのだ。
「それと時を同じくして上海市内でも同様の攻撃が発生、我が国の領事館も襲われましたが、こちらは上海の共産党支部を占拠、『中華共和国』たる国家の発足を宣言しました」
それから上海市の完全制圧を宣言するのに僅か数時間。もともと磨り減った軍事力を国境警備に回さざるを得なかった人民解放軍の上海駐留戦力は規模こそ小さいものではあったが、正規軍をこうも簡単に撃退するとは、
橘の話は続く。
「一時は連絡がつかなかった領事は上海からの脱出に成功したようですが、以前大使の行方は不明。我が国は人民共和国に大使と邦人の保護に対する援助は惜しまない。場合によっては直接的な支援も行う。と発表しておりますが、人民共和国側は内政不干渉を理由にこれを断固拒否する意思を談話で示しています」
橘中尉は語らなかったが、この談話では今回の事件が他国による謀略であることを匂わすような発言が含まれている。名指しこそしなかったものの、西側諸国を疑っているのは間違いないだろう。むしろ西側諸国は大使館などに攻撃を受けた被害者のはずであるのだが・・・。多方、猜疑心で凝り固まった向こうは大使館への攻撃はカモフラージュとでも思い込んでいるのだろう。
しかし考えてみて欲しい、これが例えば日本の謀略だとしたら、どうしてアメリカの大使館を襲わねばならないのだろうか。発覚したときのリスクを考えれば、なんの利点もない。
「東側政府の反応は?」
橘中尉が再び話をやめてペットボトルの水を口に含んだ時に――――橘中尉は喉が乾きやすい体質らしいので注意はしないが、説明途中で全く関係ない動作をするのはやめてほしいものだ――――誰かがそう質問する。東側政府・・・ソビエト・ロシアやソビエト・ヨーロッパを始めとする共産主義陣営の諸国のことだ。中華人民共和国と同じ理想を追い求める国家群であるはずだが、意外なことに中華人民共和国と東側諸国が歩調を合わせることは少ない。
「・・・ロシアのこの件に対する言及はありません、もともと人民共和国内にロシア人はほとんどいませんからね。
その言葉に誰かがうんざりした様子で漏らす。
「相変わらず赤熊はやりたい放題だな」
西はパナマから東はインド洋。SEATOの主要な海域は完全に敵対的危険生物のプールとなった。それに対し、東側陣営はどうだろうか。彼らの主要な領土はほとんどがユーラシア大陸。強いて例外を挙げるならグレートブリテン島があるが・・・いや、あそこは海底トンネルが開通してしまったから最悪海路は必要ない。
・・・そんなこと言ってしまったら、日本も対馬トンネルで大陸とつながっているのだが・・・隣の芝はなんとやらと言う奴だろうか。いや日本列島に住む人間の数は一億を超える。その上、これまでの経済を同盟諸国の資源に依存していたのだ。細いトンネルだけで成り立つわけがなかった。
もちろん、グレートブリテン島も今後封鎖が始まれば成り立たなくなっていくのかも知れないが。
ともかく、海上が封鎖されようと東側陣営に大きなダメージを与えるようなことにはならないだろう。
東側の共産主義経済が崩壊し、宥和政策として自由主義経済を受け入れ始めて早十数年、思想の戦争に勝ったはずの自由主義陣営だけが、何故か没落しようとしている。
話が逸れた上にやや沈み込んだ対策室の面々。橘中尉が断ち切る。
「・・・話を戻しましょう、東側の反応と比べるとやはり西側の反応は非常に激しいです。特にアメリカ合衆国では自国の大使館が襲われたことで、中華共和国に直ちに制裁を、といった声も挙がっているようです」
「それは我が国でも同じことだろう、人民共和国の方はあくまで内政不干渉を盾に介入させない腹積もりだろうが・・・」
「英国印度やインドネシアはどうだ?」
「両国のそれに対する具体的な声明はありませんね、やすやすとテロを許した中華人民共和国に対する非難声明は出されていますが・・・それ以上の行動はできないと思われます」
英国印度はともかく、国土の7割がたを放棄してしまったインドネシアには非難声明以上の何かをする力は残っていないだろう。英国印度もインド洋が敵対的危険生物の手に渡った今、沿岸部の警備を強化しなければならない。そう考えると実際に介入するとなった時に介入できるのは以前から中華人民共和国でのゴタゴタが引火しやすい日本と中華民国、敵対的危険生物の脅威を他のSEATO諸国ほど感じていない満州国といったところだろうか。
しかし一番の問題は、人民共和国が未だ「中華共和国」の件を内政問題としていることにある。下手に介入すれば国際問題になりかねないのだ。大使館が攻撃を受けた時点で国際問題なのだが、隣国に敵国しか持たない――――地図上では外蒙古やソビエト・ロシアと接してはいるが、主要都市がほとんど海岸よりに存在する中華人民共和国にとって、はるか内陸に居座るだけの二国は遠い存在だろう――――中華人民共和国からしてみれば、どんな形であれ介入や援助を受け、相手国に恩を売られるのを拒もうとする気持ちも分かる。
そして、日本政府や自衛軍の間にだって出来ることなら介入は避けたいという思いがあるに違いない。第十次上海事変の時ですら、空爆を行えば二週間はかからないと言われていたのだ。だが結局、中国大陸には多くの兵員と時間が費やされた。
敵対的危険生物に備えねばならぬこの状況で、無駄な資源を割くことは許されないのだ。
「陸軍部隊の日中国境線はどうなっているんだ?」
と誰かの質問。声の聞こえた先に座っていたのは、海軍士官であった。以前は日本と人民共和国の国境に緩衝地帯が設けられたこともあったが、現在両国の国境は隣接している。
「お互い特に増強される様子もなく、平穏な国境警備が続いています」
その後の会議は、介入の可能性がある前提で話が進んでいった、介入を行うことになれば、一部の防衛計画は見直しを迫られることになるだろうからだ。しかし介入がどういった規模になるか、どの程度長引くかが不透明な以上、なるようにしかならないという認識を室員間で共有しただけでそれ以上の議論には至らなかった。
定例会はそのまま閉会。室員たちは各々の仕事へと戻ってゆく。書類仕事に励む者、関係省庁との調整会議に臨む者、防衛陣地や防衛計画の進行具合を確認するために地方へ出かけた者もいる。
そんな中、小牧が飯田のデスクへと近寄ってきた。まるで資料を探すかのような素振り。その割には下手な探し方にも見える。こちらに一度目配せをし、それに飯田は小さくうなづいて応える。それを確認した小牧は自分のデスクへ戻っていった。
小牧と事前に決めておいたサインである。
飯田は立ち上がり、部屋の外へと歩き出した。
「小牧は吸うんだったか?」
「いえ」
相変わらず必要なことだけを答える小牧。飯田はそうかと返し、付け足すようにそうだったな。と一言。
統合幕僚本部第一庁舎の屋上にとりあえず設置された太陽がサンサンと降り注ぐテラス。朝こそ雨が降っていた東京であるが、なんの気まぐれか今の天気は快晴。恵みの雨にさんざん打たれてきた鉢植えの緑たちも、喜ぶように光を浴びている。
「で、探し物を見つけられずに上司にフラフラ付いてくるとは、何があった」
飯田が室を出てここへ来てから数分後、官庁街を流れてゆく初夏の風に吹かれていた飯田のもとにやって来たのは小牧であった。
「
オペレーション・ニイタカヤマノボレ。空軍が独自に遂行していると思われる敵対的危険生物撃滅作戦である。独自に、いやむしろ隠すように進められるその計画は、少なくとも公のルートで飯田の耳に入ってきたことはない。隠す必要があるということは、何か公表されると不都合なことがあるのだろう。
「そうか、で?」
飯田は小牧に先を言うように促しつつ背を向けた。小牧と飯田が
オペレーション・ニイタカヤマノボレに関する利害。それが何なのか、誰に対して不都合なのかはどうでもいい。自らに課せられた使命が祖国を敵対的危険生物の手から守ることであるならば、各軍に勝手な行動を取られては困るのだ。もちろん飯田は一少佐に過ぎないし、敵対的危険生物対策室長という役職なんて形だけと言われればそれまでだ。
こんなことを考えてしまうのは・・・自分のエゴだろうか?
背中の小牧は答えず、いつもの調子で報告を続けた。
「退役済みの航空母艦『新高』が東京湾を離れました」
「・・・やはり、動いてきたか」
疑念が確証に変わった瞬間だった。『新高』が博物艦としての営業をやめたのとほぼ時を同じくして発生した中国でのテロ事件。関連があると疑わない方がどうかしている。
「とはいえ、旧式空母を一体全体何に使うつもりだ」
小牧はすぐに返答した。
「『新高』は確かに旧式艦艇でありますが、カタログスペック上は榛名型を凌ぐ艦です。使用用途はいろいろ考えられます」
「らしくないな、お前が
「・・・自分の想像の範囲を超える案件ですので」
それが小牧の返答だった。仕事を果たした彼は、お辞儀だけして無言で去ってゆく。小牧が先に帰るのは別々に出て行ったはずの二人が一緒に部屋に戻ってくると不自然なので合理的な行動なのだが、個人的見解の一つでも述べてから去っていって欲しいものだ。推論は役に立たないかもしれないが、発想のきっかけは必要だ。
ひとり残された飯田は、空を仰ぐ。椅子に座れば、それは使命を果たす時がきたと言わんばかりに飯田の体重を支え、足の裏だけにかかっていた重力が椅子との接面に分散される。
飯田は一度まぶたを閉じた。太陽光は強力で、まぶたに力を入れて閉じてみても光を網膜が認識してしまう。それから飯田は一枚の写真を取り出した。20年以上前に撮った同期との写真。
松原昌平。国防大学校広島(旧海軍兵学校)の118期を首席で卒業した彼と飯田は、一番の友人だった。高校の頃から読めないヤツであったから向こうが飯田のことをどう思っているかは知らないが、少なくとも飯田は松原が自分の一番の友人であったと認識している。
この写真も、久々に帰った東京にて撮ったものだ。
そしてその写真は、今や海水に浸ったせいでしわくちゃになっている。表面を保護するフィルムと写真の印刷面の間に空気が入り込み、松原の顔はかなり判別が難しくなっている。
「・・・」
死者にかけるべき言葉などない。というのは、きっと賢者が思いついた最高の言い訳なのだろう。死者に放った言葉は返ってこない。間違いを訂正することも、情報を補足することも叶わない。そして、言葉が届こうと届くまいと、自分の記憶にだけは刻まれる。自分だけに還ってくる言葉など、意味を成さない。
死者にかける言葉など思いつくわけでもないのだ。
彼は死の間際に何を思ったのだろうか、誰一人帰ってこなかった駆逐艦『雷』の乗員たちは何を思ったのだろうか。
こんなことを考えてしまうのも、自分が弱気になっている証拠であった。敵対的危険生物対策室長ともあろうものが、と自分で喝を入れようとするが最近の精神的疲労もあるのだろう。どうにも身体に力が入らない。
もう少しここで休憩していようか。
そんなことを考え始めた飯田に喝を入れるかのように、携帯電話が振動した。
「どうした、なにかあったのか」
飯田を呼び出したのは対策室の部下だった。急いで室に戻ると、待ち受けていたのはTVと、それに見入る室員たち。
「おい、一体どうした」
「あぁ・・・室長・・・」
声をかければ半端な声量で返事をされる。どこか遠くにいるような様子の部下の返事に疑問を抱きつつも、皆の視線が集まっているTVへと視線を向けた。
「ああ、そう聞いている・・・そうしてくれ」
大迫海軍幕僚長は大きなため息をつきながら受話器を戻した。彼の執務机に設置された小型TVは官房長官の公式会見の様子を中継していた。
『我が国は、中華人民共和国国内に取り残されている邦人保護のために・・・』
分からない。
2022年7月3日。日本国及び満州国は中華人民共和国で起きた一連の事件を『第十一次上海事変』と呼称。介入の決定を宣言した。その二日後に中華民国、アメリカ合衆国もこの動きに追随することとなる。