青天の霹靂、という言葉を知っているだろうか。英語で言うならA bolt from the blue。その日は、確かにに空は青かった。だが
「状況知らせ!」
一瞬飛びかけた意識を取り戻した時、まだ無傷であるはずの艦橋でも感じられるほど艦はダメージを受けていた。計器に頭をぶつけたものも入れば、倒れているものもいる。左舷見張り員はいなくなっていた。すぐさま叫んだ声が、何人に届くのか・・・そう思ったとき、素早い返事がある。副長の声だ。
「中甲板に大きな衝撃、何らかの攻撃を受けました!」
攻撃?そんな馬鹿な、あれは『魚群』ではなく潜水艦の群れだったというのか?慌てて頭の中から人民共和国の保有する潜水艦のリストを引っ張り出し確認するが、スクリュー音も攻撃時に必ず聞こえるはずの注水音も聞こえなかった、なんの前触れもなく攻撃できる兵器などあるわけがない。
「傾斜止まりません、艦が折れようとしています!」
「CICと連絡不通!」
副長に負けまいと報告が次々入るが、不意を突かれた時点で負けは決まっている。ならばこちらは防戦一方。教科書通りなら現代艦隊戦の防戦ほど悲惨なものはないが、やれることをやるのみだ。まずは危険要素の排除。
「誘導弾への誘b・・・」
誘爆を防げ、その一言すらも、艦を揺るがすような爆音に封じられる。村雨型駆逐艦の中甲板には、対空誘導弾と対潜誘導弾の
そう思ったのも束の間、たちまち艦橋の床は大きく傾き・・・違う、艦全体が傾き始めているのだ。中甲板を境目にして、真っ二つに折れようとしているのだ。
早すぎる。だが、この艦はもう戦えない。
「総員退去、総員、速やかに艦を離れよ」
その言葉に誰もが同意だったようで、次々と復唱が聞こえる。いったい何人が脱出できるだろうか。徐々に傾く艦橋の中で互いに総員退去と叫びながら人影が動く、しかしそれらの努力をあざ笑うかのように大きな揺れが彼らを襲った。皆がよろめく中――――
――――床が水平に戻った。
もちろんそれは喜ぶような事じゃない。雷は真っ二つになってしまったのだ。完全に分離した二つの船体は、それぞれに空いた大きな破口から大量の海水を艦内に誘い込み、そして直ちに艦の浮力を奪うだろう。
傷一つついていない艦橋のガラスの向こうに波が見えた、既に自分の軍服は水に浸かってしまっている。海水に浸かってしまった以上、クリーニングしても元通りになるか分からない。
いつだったか同期のやつと話したっけ。現代の艦艇に『轟沈』というものはあるのか。轟沈の定義は攻撃を受けてから短時間で沈むことだ。対空戦闘も、ダメコンも発達した現代で攻撃を受けて即時に沈むことはあるだろうか。そんなどうでもいい話だった。百聞は一見に如かずなどとはよく言ったものだが、まさか自ら証明してしまうとは。
もはや逃げる気力もなく。体が海水に持ち上げられ始めているのを彼はぼんやりと感じていた。
――――そう言えば、時雨に救難信号を出していないな――――いや、本艦の乗員救助よりも自艦の生存を優先するべきか、何が攻撃したのかもわからないんだ、早く逃げろ――――西園中佐、いえ西園先輩、恨むつもりなんてありませんからね、あなたは他人がいった些細なことでもいちいち気に病む性分だ。さっさと忘れて、くださいよ――――でも、仇は取ってもらいますからね――――何人生き残れるだろうか、乗員、自分含めて158名――――やはり誰も生き残れないのだろうか――――まさか、下を進んでいるの『魚群』に食われるとでも?――――案外ありそうな話だ、ホラーかよ――――嗚呼、またしても誰も護れなかった――――――――
――――また?
「シノブカイ?」
訳の分からないイントネーションでオウム返しをされた。そんなことも知らなかったのかと思いつつ説明する。まぁ口にした単語が通じないことは今でもまれにあることだから別に気にはしないが。
「偲ぶ会、だよ。この前の琉球諸島事変で高校からの知り合いが殉職した。そのお別れ会」
お別れ会・・・そうオウム返しをしながら意味を理解したのだろう、慰めの言葉をかけられる。大丈夫だと返しつつ飯田は彼女の用意してくれた礼服に袖を通した。
「じゃあ、行ってくる」
いつも通りの軽い抱擁と行ってきますのキスのあと、飯田は自宅をあとにする。彼の自宅は普通の一戸建て。娘が一人のごく普通の家族構成である。奥さんも娘も普通じゃないと言われれば否定はしないが、それはどこの家も同じことだろう。
駅までの道のりは長くはないので、歩いて向かう。それもいつも通りのことだ。だが・・・今日はヤケに礼服が多い気がする。なんていうのは気のせいだ。自分がそうであると、周りの人間もそうであるかのような錯覚にとらわれてしまう。不思議なものだ。そう言いながらも、もしかすると本当に礼服を着ている人間は多いかもしれない。そんなタチの悪い冗談が頭に浮かぶ、ありえそうでありえない話だ。空は濁り、その曇り空から今にも水滴が落ちてきそうであった。
懐かしい通学経路を電車で数十分。かつては旧式車両しかなかったこの路線も今では新型車両に置き換わり、他の路線は最新型の車両に置き換わった。住宅地をのんびり眺めながら走ってゆく電車。車内の中釣り広告には週刊誌の政府への妄想やら責任転嫁がズラズラと書かれ、不快になった飯田は目線を車内から逸らす。しかし困ったことに逸らした先には車窓、そこから見える住宅と雲で織り成される灰色の世界。近くに高い建造物が少ないせいで遠くのビル群まで見える。ここにいったい何人、何万人の人間が住んでいるのだろうか。想像したくもない話だが、現実に人々はこの街で生きているのだ。
とある駅で降りる。かつて通った高校の最寄駅とは別の駅であるが、ここが一番学校に近い会場だったそうだ。駅を出ようとすると、堪えきれなくなった雨雲から雨が落ちてきていた。妻の忠告に従って傘を持ってきたのは正解だった。
・・・それにしても、よく出席できたものだ。飯田は心から日取りを決めた誰かに感謝している。ようやく設立された統合幕僚本部付きの『敵対的危険生物対策室』。それのゴタゴタがようやく収まってきたところに「偲ぶ会」への招待状が来た。自分が行くことは叶わないだろうと考えていた飯田にとって、その日が空いていたのは運が良かった。数時間も自分の部署を私的な理由で離れるのは皆に申し訳ないが、彼の偲ぶ会にはどうしても行きたかったのだ。そのために久々に定時退庁させてもらった飯田は、会場へと足を運ぶ。
会場には『故 松原昌平を偲ぶ会』と書かれていた。
100万、こんな数の人間が一斉に死ぬことなどまずない。過去どんな災害でもこれだけの人間が死ぬことは・・・感染症でない限りなかった。
しかし日本中で葬式が開かれているかといえばそういうわけではない。琉球諸島事変で犠牲になったと思われる人々は沖縄諸島がやつらに「占拠」されている今、死体として確認することはできない。つまり書類上は行方不明となり、死亡したわけではないのだ・・・法律上は。時間が経てば死亡届を出すことができるが、それは当分先の話。
しかし例外がある。それは駆逐艦雷乗員をはじめとする今回の事変で「殉職」、――――「戦死」というべきだろうか――――した者たちだ。そして、その中に今回の主役、
「久しぶりだな、まさか来られるとは思わなかったぞ」
後ろから声をかけられる。振り返れば懐かしい顔。
「おぉ、石井じゃあないか。久しいな」
「最近はお前ら皆同窓会に来なくなっちまったからな。お前が最後に来た時のはよく覚えてるぞ・・・松原の野郎と二人で肩組んでカラオケモードだったなぁ」
随分と前の話をしてくるかつての友。たいして親しい仲ではなかったはずだが会話が弾む。見れば周りも似たような様子で談笑している。これだけの人数が集まるのは本当に久しぶりだ。ここに来るまでは頭の片隅にもなかった最後のクラスでの自分の出席番号やクラスメイトたちの名前も次々思い出す。意外と皆変わっていないものだ。少しの間、飯田も彼らとともに昔話に花を咲かせる。話題はやっぱり仕事のことや家庭のことになってしまうが、誰々があの人と結婚したらしい、家を買ってローンがどうのこうのなど話題は尽きない。
「悪い、ちょっとあいつのところ行ってくるわ」
「・・・ああ、じゃあ後で」
だが飯田は途中で話を切り上げ、会場のある一角に足をすすめた。もうおばさんと呼ばれても文句が言えなくなりそうな元女子学生たちが親しげに声をかけてくるが、彼女らと長々話すつもりはなかった。目指すはある一角、そこはこの会場で一番目立つ場所。これ以上人数が集まって偲ぶ会が始まったらきっと一人だけで彼の前につくことはできないと思ったのだ。
飯田が足を止めた目の前には、松原の写真が飾られている。彼は軍帽と半袖のワイシャツを来ていて、胸には記念章がつけられ、肩章は彼が少佐であることを示している。この場に似合わない笑みを浮かべた――――だからこそこの場の写真として選ばれたであろう――――写真は彼が雷艦長を拝命した時に撮った写真らしい。同期たちの中では初めての艦長、もちろん誇らしいことだし、喜ばしいことだった・・・一番出世しているのは間違いなく飯田なのだが・・・。
彼だってそう思っていたはずだ、その証拠に彼の写真はただ花に囲まれているわけではなく、横に軍艦旗と海を往く駆逐艦雷の写真が飾られている。生前に自分の偲ぶ会には乗っていた船の写真を飾ってくれとでも頼んだのでいたのだろう。
会場がにわかに活気づく、振り返ると昔のクラスの人気者が会場に入ったところだった。皮肉なことだが
だが・・・懐かしい顔ぶれを見れば見るほど思う。このうちのいったい何人と自分はまた再会できるのだろうか。いや自分は生き残れるのだろうか。そんな思いが頭を離れない。現に目の前で微動だにせず笑みを浮かべ続ける親友は死んでしまったのだ。
そんなことを考えていたせいだろうか、飯田の耳にある会話が聞こえてきた。
―――――なぁ・・・岡沢いただろ、あいつ、那覇に出張だったらしいんだよ
――――嘘だろ?
聞こえてきた方を向けば一角がざわついている。もちろん話題に上がっている岡沢という人間が死んだという証拠はない。それでもまぁ、彼が生きていると信じている者は誰もいないだろう。映像もないし証言もない。どこを探しても政府公式発表以上の情報は得られない。あまりに現実的でない話だ、そして、これが現実として受け止められている奇妙な現実。まるでこれまでの世界が腐食されているかのようにも感じられる。いったいどうなってしまうのだろうか。この世界は。そして、そんな感傷にすら浸っていられないのが自分の立場。
「あの・・・飯田さんですよね・・・」
そんな時唐突に声をかけられる。そちらを向けばどこかで見たような顔、だが彼は学校の人間じゃない・・・はて誰だったか・・・。
「お久しぶりです・・・って言っても覚えていないかもしれませんが・・・兄がお世話になりました」
思い出した。
「あぁ・・・松原弟か、十数年ぶりだな」
松原の弟とはある程度の付き合いがあった。どちらかというと消極的な性格はよく覚えている。
「はい、お久しぶりです」
そう答える彼は昔よりずっと成長したような気がする・・・それは当たり前か。ともかく飯田は彼に聞きたいことがいろいろあった。最近の彼はどんなことを言っていたか。雷の艦長になったことをどう思っていたのか、などなど。しかし松原弟は飯田よりも先に口を開いた。
「あの・・・まだ会が始まるまで時間が少しだけあります・・・すこし、時間をいただけないでしょうか?」
時間があるといってももう十五分ほどしかない。それでも、ここは聞いておくべきだろう。
「構わないよ、場所を移しながら話を聞こう」
そう言いながら飯田は松原弟を先導する。通っていた学校の最寄駅でないとはいえここら辺には一応詳しい。時間もない、最も近い喫茶店でも目指すか。そう思いながら進む飯田に松原弟は話し始めた。在りし日の松原と声質こそ似ているが、喋り方は異なる調子で。
「兄の死から七日目、丁度法要を終えた日でしたのでよく覚えています。だからこそ、信じられないのです」
松原弟は、何かを迷うようにポツポツと続ける。路上に出たせいで、彼の声は雑踏に紛れそうになる。
「自分の家は世田谷にあります・・・父が老人ホームに入ってからは、母と二人暮らしです。でも母はいつも九時ぐらいになると床へ入ってしまい、寝たり起きたりを繰り返しながら決して自室からは出て来ないんです。だからその時、自分は居間に一人でいました・・・その日は雨が降っていました。だから初めは気のせいだと思ったのです。だけど次第にドアの向こうが気になって・・・」
「何があったんだ」
「声が、聞こえた気がしたんです」
声、ね・・・飯田はその言葉を頭の中で繰り返す。松原弟のことだ、まさか妄想を語ろうとしているわけじゃあるまい。だがこの話し方じゃ、まるで怪談か何かを聴かせるような言い方だ。喫茶店が混んでいないことを確認し、カウンター席に腰掛ける。時間も残り少ない、飯田が遅れたところで何も変わりはしないだろうが、主役の弟がいないのはまずかろう。マスターには適当に注文し、松原弟に話の続きを促す。
「・・・小さい女の子でした」
「・・・」
「小さな女の子が、傘も持たずに立っていたんです」
「分からないな、お前はそれが松原の幽霊だと言いたいのか?」
「自分もそう思いました」
でも、違うんですよ・・・。彼はそのままポケットに手を伸ばす。
「私は彼女に寒くないのか、と聞きました。そしたら彼女は何も言わず、私にあるものを渡したんです」
これです。そう言われて手渡されたのは一枚の写真、水に濡れ、その後乾かしたのかシワがついていたが、飯田はこの写真を知っている。マスターの持ってきてくれたコーヒーの鼻をつく香りがなければ、あと十秒は我を忘れていたかもしれない。
写真には若い学生が二人。飯田孝介と、松原昌平だ。背中には内堀とその対岸にある木々が見え、ここが千代田区であることを主張している。
「自分も驚きました。でも、次の瞬間にはいなくなっていたんです・・・」
イマイチ要領を得ない説明、もちろん松原弟も状況を把握していないのだろうが。
「その『小さい女の子』の声は聞いたか」
「いえ・・・聞いていません」
「そうか・・・じゃあ何とも言えないな、俺からは」
まさか幽霊が存在するはずもないし。そう言ってコーヒーをすすった飯田に何を思ったのか松原弟は自分のカップを見つめ、それから呟いた。
「・・・もう戻らないと・・・」
「・・・ああ、そうだな」
飯田は立ち上がり、財布を取り出そうと内ポケットに手を伸ばそうとした松原弟を止める。
「このぐらい払うよ」
それより、主役のそばにいてやれ、その言葉に松原弟は頭を下げ、兄との時間を、楽しんでくださいと言い残して店を去る。去り際に、訳のわからない話をしてすみませんでした。と付け足して。
「・・・」
どうにも後を追う気になれなくなった飯田はまた椅子に座る。手元には松原弟が残していった写真、まだ二人共若者らしい幼さを残した顔立ちだ。松原がここにいれば、なんといって茶化すだろうか?彼がいないからこそ成立する問に、答える者はいない。
「幽霊か・・・」
琉球諸島事変は早くも忘却の彼方、いや世間が忘却の彼方へ追いやろうとしている。だから事変発生初期の話になるが、週刊誌が実施されなかった「
・・・何を馬鹿なことを考えているのやら・・・飯田はカップの中身を飲み干した。コーヒーの酸味が馬鹿げた妄想を否定してくれることを祈るが、たかがコーヒーにそんな判断は下せない。だが正常な判断が下せないのは世界も同じだ。ジュネーブでは国際連盟の臨時総会が開かれ、それに非加入のアメリカと80年ほど前に脱退してしまった日本はサンフランシスコで
そんな折に携帯が震える。通話ボタンを押すと、いつもより興奮した様子の小河原の声が聞こえる。
『少佐、今しがたホワイトハウスで重大な発表がなされましたよ!』
一体何だというのだ、そういう飯田に、合衆国政府のHPを見るよう指示する小河原、鞄から私用タブレットを取り出し、お気に入りからアクセスすると、またしても面倒なことが書いてあった。
『合衆国、焦りましたね。もしかするとSEATOで何か決まったのかもしれませんが』
今更会場に戻る気にもなれない飯田にとっては、これがいい言い訳となる。
「分かった、今すぐそっちへ戻る、話はそれからだ」
二人分のコーヒー代を払い、外でタクシーを止める。
すまんな松原、この写真はしばらく預からせてもらうぞ。靖国にもし俺が行けたら、お前の仕業だったのかどうか教えてくれ。もういない松原にそう伝え、飯田は写真を懐にしまった。
空は何かを隠すかのように、濁った灰色のまま暗くなっていった。