そこは冷たかった。
夢から覚めた先の世界はただ暗く、ただ冷たく、ただ寂しい。
彼女は叫んだ。
その寂しさを叫んだ。
それは波紋となって広がり、その波紋に何かが応えた。彼女と同じモノ。彼女と同じ叫びを持つ者。それらは応え、波紋は更に大きく広がっていく。
──ここにいる。ワタシはココにイル。消さないで。キエナいで。もっと。ズット。ワタシハ。アタシハ──
反響は反響を呼び、その悉くは残響となり消えていく。
彼女は求めた。彼女達は願った。哀しみを叫ぶように、苦しみをもがくように、楽しみに震えるように、嬉しさに涙するように。
見上げる先には淡い光。朧気で儚い揺らめく炎。彼女達はその場所を目指す。
溺れるように暴れて、空気を欲するようにがむしゃらだった。
辿り着いたその場所は呆れるほどに何もなく、その代わりに果てもない。
どこまでも広がる暁の水平線。
いつかの夢。遠い日々。戻れぬ時間に、この光景を彼女は目にした。そんな気がした。
「■■■■■■■■■■■ッ!」
気が付けば叫んでいた。
意味不明の感情が渦巻いている。理解不能な自分が駆り立てる。その慟哭を。その歓喜を。その切望を、ただ吐き出す。
「■■■ッ、■■■■■■■■ッ!!」
志向性は僅かにそれだけ。行動原理など元よりそれだけ。
彼女にはわからず、彼女達にもわからない感情を声を荒げてただただ叫ぶ。
──どうか忘れないでくださいと。
艤装を装備した時雨は確認を取りつつ艤装を起動させた。
動作は良好。外装は過去の艤装と同様だったが、かつてを越える性能を時雨は感じた。
「これはすごいな。伊達に百年も経っていないね」
「当然だ。名目上とはいえ研究の方も怠ってはいない。……あとはこれを」
男は懐から小さな桐箱を取り出して時雨に手渡した。
中には髪飾りが一つだけ入っていた。その髪飾りを見た時雨は目を丸くした後、懐かしむように目を細めた。
「大切にしていたものだと記録されていたので本営より取り寄せておいた。余計な世話だっただろうか?」
「ううん、そんな事ないよ。素敵な思い出の残滓に今更頼るつもりもなかったけど、やっぱり手元にあると安心するものだね。ありがとう」
時雨は笑みを浮かべて髪飾りを身に付ける。暗い色の彼女の髪に、鮮やかなその髪飾りはよく映えていた。
シャラン、と髪飾りを鳴らして戦闘準備を済ませた時雨は男へと向き直る。男を見る眼光は鋭く、一瞬前の温かな表情は姿を隠していた。
「さて、ここまで準備がいいんだ、すぐに出撃だよね」
「……いかにも」
急変した彼女の雰囲気に呑まれかけた男だったが、辛うじて言葉を返す。
彼が想像していた以上に艦娘という少女はその可愛らしい容姿から乖離した存在だと認識した。視線だけで気圧されるなど、彼の平穏だった人生において初めての経験である。
男は視線から逃げるように身体ごと顔を海に向けた。
「敵戦力は?」
「分類は不明だが四隻の反応をレーダーが捉えている」
「僕一人で四隻か……、相手次第だね。それで、今から出撃してどのくらいで接敵できる位置にいるのかな?」
「恐らく……、すぐに」
男は冷や汗を流しながら時雨に答える。
そんな様子を見て、時雨は直感的に「これは悪い事が起きるな」と察した。
「もう少し具体的に教えてほしいな」
「既にここから視認できるくらいの位置」
「…………」
時雨も男が見ている方向へと目を向ける。暗い夜空と荒れた海で視界は劣悪だったが、そのような視界など見慣れている時雨には敵の姿がはっきりと視認できた。ましてや艦娘の視力は人間のそれとは比べるべくもない。
荒れ狂う海をゆっくりと進む死神の列。黒と白に染められた異形の存在。見間違いなどするはずもなく、正しくアレこそ艦娘たる彼女の宿敵──深海棲艦に他ならなかった。
……だが、そんなことよりも時雨は大きく溜め息を吐かざるをえなかった。
「深海棲艦はここを目指しているの?」
「どうやらそうらしい」
「……キミね、今が切羽詰まった状況だってわかっているのかい?」
「正直混乱している」
男の冷汗は留まる事を知らず垂れ流し状態である。
「レーダーで捕捉していたなら、どうしてすぐに教えてくれなかったのさ」
「まずは状況説明すべきかと思った」
「だったらまず第一に彼女達が迫ってきている事を説明してほしかったよ」
「……すまない。まさかここを狙ってくるなんて思いもよらなかったんだ」
「ここだから向かってくるんだよ、彼女達は」
小さく呟いて、時雨は敵がいる海を見つめる。そしてもう一度大きく息を吐いた。
百年も平和な時代が続いたんだ。適切な対応ができなくても仕方ない──と、時雨は眉間に入れた力を抜く。
「イ級2、リ級1、ル級1」
海を進む敵を目視で分類する。人間の視力では確かな像を認識できない距離であったが、艦娘の時雨には正確に認識できた。
「駆逐艦が二隻、重巡と戦艦が一隻ずつか。……とても駆逐艦一隻に相手させるような編成じゃないね」
「……う」
呆れている目を向けて、時雨は男へと不満を訴える。未だ止まらぬ汗を拭いつつ男が言う。
「貴方ならやってくれると信じている」
「生憎僕は第一希望の『雪風』ほど優秀じゃないけどね」
「……ぬぅ」
涼しい顔して割と根に持つタイプか、この娘──と、男は心中で吐露する。
男の困り顔を見て満足したのか、時雨は肩をすくませて笑みを浮かべた。
「冗談さ。大丈夫、ちゃんと守るよ」
「いや、やはりここを放棄して一度体勢を立て直そう。こんな形骸化している鎮守府よりも、貴方の無事の方が大切だ」
「ううん、僕は行くよ。佐世保には思い入れがあるんだ、失いたくない」
そう言って背中に装着する艤装にマウントされた単装砲を取り外し、右手に装備した。臨戦態勢。有無を言わさぬその姿勢は、喰らい付こうとする男の心配を封じる。これはもう止まらぬと、男は肌で感じ取った。
「了解した。一階までの昇降機はこちらだ」
覚悟を決めた男は、時雨を外へと繋がる出入口がある一階へと案内する為に昇降機へ歩き出す。だがしかし、当の時雨は依然として海を見下ろしたまま動こうとしない。
「それじゃ間に合わないよ。先行する駆逐艦に上陸されてしまう」
男に目を向けずに呟く時雨は、右手に構えた単装砲で眼前の大きな窓を狙った。
「な──」
男の驚きを尻目に、砲撃を四度放つ。ガラスの四隅を狙った砲撃は全てガラスを貫通し、穴を穿った。けれど強化ガラスであるその窓ガラスは単装砲の衝撃を受けて尚、崩れる事なく形を保っている。
そんな健気なガラスに時雨は粛々とトドメを刺した。
後ろ回し蹴り。艦娘の力で放たれたそれは四隅を穿たれ、強度を損なっていた強化ガラスを容易く破壊するには十分な威力を持っていた。
破壊し、蹴り飛ばしたガラスが海に沈んでいくのを確認して、時雨はようやく男へと視線を向け──
「ここから行くよ」
──平然とそう言った。
「こ、ここは地上二十階だぞ。真下も海ではない。いや、海だったとしても無事では……」
「百メートルくらいだよね? うん、そのくらいならアスファルトに落ちようと平気さ」
無理して言っている訳ではない。強がりなどでは決してない。そう感じさせる目をしていた。故に男は言葉を無くす。同じ人の姿をしながら、そこまでの埒外なのかと息を呑んだ。
「ねぇ」
時雨の声に、男は我に返る。
「な、なんだ」
「キミはここの、佐世保鎮守府の責任者なんだよね?」
「ああ」
「それじゃあ提督ってことでいいんだよね?」
「末席ながら私は将官だが、果たしてそう呼ばれていいものかわからんほどの未熟者だ」
「いいんだ、誰だって最初はそうさ。大切なのはそう呼ばれる覚悟があるのかどうかだよ。……キミはどうなのかな?」
破壊した窓から吹き付ける海風を受けながら時雨は男へ問い掛ける。
少女の姿をした一個の兵器が、自身を扱う人間へと覚悟を問う。共に闘う決意はあるか──と。
「恐れは……ある。深海棲艦にしても、貴方方艦娘にしても、そして自分自身の資質にしても」
男は正直な気持ちを吐露する。
今、目にしている深海棲艦や艦娘という人外の存在。それに畏怖を覚えている自分自身の情けなさを素直に吐き出す。
「しかし、だからと言って何もせずに震えている訳にはいかない。私は戦う為に準備をしてきたのだから」
──故に覚悟ならある。そう男は言った。
時雨は男の言葉に頷いて、破壊した窓に足を掛ける。
「安心したよ。キミのような恐れを知る人間なら、きっと彼女達の事も理解してあげられるはずだ」
「……彼女達?」
「行ってくるよ、提督」
男──提督の疑問に答える事なく、駆逐艦『時雨』は窓より飛び立った。