カルネアデス・パラドックス   作:水上玲良

2 / 2
・後編

 

集められる限りの部下たちをまとめ上げたところに、仕事の早いキャゼルヌから端末の電波の発信元を特定できたという連絡が入った。

場所はシェーンコップがもしやと予想していた通り、今彼らがいる盛り場の近くの雑居ビルの一角だという。やはりあの時見たヤンらしき人影は気のせいではなかったようだ。

 

一糸乱れぬ動きと無言の連携で、薔薇の騎士たちはくだんの雑居ビルを即座に取り囲み、静かにしかし着実に一室一室調べつくしていく。

やがてビルの五階の一角から、ただならぬ声がするとの報告が上げられた。報告を受けた隊長のリンツは、シェーンコップに視線を移すと互いに無言でうなずき合う。

手短に伝えられた指示を受け、薔薇の騎士たちは音も無く階段を駆け上がると、即座に問題の部屋の前を静かに取り囲む。

 

いつでも突入できる体勢は整っていたが、チップとして掛けられているのがこの要塞の司令官の安全である以上、軽々に行動には移れない。

まずは少しでも室内の様子を探るべく、ドア越しに中の様子を伺った。

 

「――――……が、大将閣下とはな。一体どんな汚い手を使ってのし上がった? ええ!? エル・ファシルの英雄さんよぉ!」

 

ドアの向こうからは、荒んだ雰囲気の罵声が聞こえてくる。呼びかけた階級からして、相手は確実にヤン・ウェンリーだと分かった。なにしろこの要塞に、大将閣下は彼しか存在しないのだ。

しかも罵声の内容からして、明らかに逆恨みの輩が今回の下手人のようである。前々からのキャゼルヌの懸念は大当たりだったというわけだ。

 

しばらく中の様子を伺ったが、他に仲間がいる様子は感じられない。下手人が一人だけならば、一騎当千の薔薇の騎士連隊が数人いれば容易に制圧も可能だろう。

それにあまりに手をこまねいていると、このまま犯人が激昂するに任せるうちに罵声では収まらず、ヤン本人に直接危害が加えられる恐れがある。ここが決断の潮時だ。

 

シェーンコップはリンツに向かって無言のまま視線だけでGOサインを出すと、己もまた戦闘態勢を整え、ドアのノブに手を掛けると、一気呵成に部屋の中へなだれ込んだ。

 

「閣下!」

 

シェーンコップは部屋に踏み込むと同時に素早く周囲の状況を確認し、まずはヤンの安全確保が第一と、視線を巡らせ彼の姿を探し求めた。

瞬時にして探し求める黒髪を視認し、そちらへと手を伸ばしたのだが、紙一重の差でその身を捉えそこねてしまう。

官憲の突入を素早く察知した犯人が、その場で生き残るための最善を即座にはじき出した上で、ヤン・ウェンリーの身柄を盾にするために咄嗟にその腕に確保したのだ。

 

「う、動くな貴様ら! こいつがどうなってもいいのか!?」

 

犯人は左手でヤンを抱き込むように捉え、右手に銃を持ってそれをヤンに突きつける事で、その場の薔薇の騎士達を威嚇した。

途端に彼らの動きがぴたりと止まる。止まらざるを得ない。彼らがこの場に乗りこんで来たのは、この要塞の唯一無二の存在を守るためだった。その身の安全を盾に取られては、手も足も出ないというものだ。

 

「よし…そのまま動くなよ…」

 

犯人の男はにじり足で少しずつ後ろに下がり、非常口だろうか、背後のドアを器用に開けた。そこから逃げようとしたのだろうが、外を一瞥して愕然となる。

なんとドア一枚隔てた向こうは階段など付いておらず、絶壁の壁面が真下まで続いていたのだ。適当な雑居ビルの哀しさで、非常階段をつける予定だったのだろうが施工されないまま放置されていたらしい。

 

「くそっ! なんだこりゃあ!」

 

男は焦るが、どうすることもできず、悔し紛れの罵声を吐き散らすのが関の山だった。

 

「諦めるんだな。お前に逃げ場はない。大人しく投降しろ」

 

相手の意図がくじかれた隙を見逃さず、シェーンコップが相手に降伏を勧告した。

実際のところはヤン・ウェンリーを人質に取っている現在、犯人の優位は揺らいでいないのだが、相手の心理を揺さぶる効果を考えての勧告だった。

だが男はその意図通りに心理的に追い詰められても、いや追い詰められたからこそ、その感情を爆発させた。

 

「お前ら、そんなにこの司令官様が大事なのかよ…! こいつはな! エル・ファシルで俺達軍人を囮にしてそれでうまいこと逃げやがったんだ! 何がエル・ファシルの英雄だ! お前達だって、いずれこいつの踏み台にされて野垂れ死にするはめになるだろうよ!」

「戯言を!」

 

シェーンコップはその身勝手な言い分を一言で切って捨て、耳を傾ける価値すら認めなかった。民間人を見捨てて逃げた軍人が今さら何を言って己を正当化しようともむなしいだけである。

だのに、苦し紛れの男の言い分を全面的に認めた者がいた。男に拘束され人質にされている当の司令官からだった。

 

「――――その通りだよ。私は君を含めたエル・ファシルの軍人たちを、見殺しにした。私は早い段階から、リンチ司令官が民間人を見捨てて逃げることが分かっていた。分かっていて、司令官を咎めることも、思い直すよう進言することもしなかった。…だって、進言してどうなるっていうんだい? 万が一司令官が正道に戻って、民間人の乗る輸送船を護衛しようと考え直してくれても、たった二百隻ぽっちの戦艦だけで、その三倍もいた帝国軍相手にどうやって抗戦できる? 結局、五万人の軍人も三百万人の民間人も一緒に捕まって捕虜になっておしまいさ。だから、司令官が逃げようとしていると気が付いた時、私は司令官とそれに付き従う軍人たち皆を囮にしようと決めた。―――――他の誰でも無い、この私が、君たちエル・ファシルの軍人を捕虜生活の地獄に落とした。…それで間違ってはいないさ」

 

淡々とそう述べるヤンの表情は凍りついたように静かで、その瞳は深淵の宇宙の如き虚無に彩られていた。全ての事象を呑みこんだ上で、冷徹な決断を下したのだと怯む事なく言い切り、そしてそんな自分を欠片も誇ってはいないことは明白だった。

その言い分をすぐ横で聞かされたエル・ファシル帰りの男は、ヤンに突きつけた銃を持つ手を震わせて叫んだ。

 

「だから、呼び出しに応じたのか? 俺を憐れんだのか! ヤン!」

 

「私もそこまでお人よしじゃないよ。着信はグリーンヒル大尉の端末のものなのに、通話の相手はあなたとなれば、大尉の身に何かあったんじゃないかと思ったんだ。単に端末が盗まれただけで、大尉に何事も無いようなのは良かったよ」

 

そんなヤンの台詞を聞かされたシェーンコップは、不審な呼び出しの時点で小官に相談して下さい! と内心で叫んでいた。声に出さないのは、今はそういう場面ではないと判断していたまでで、無事に救出できた暁には、キャゼルヌ辺りと一緒になってみっちりヤンを説教してやらねばなるまいと心に決めていた。

そのためにも絶対にヤンは無傷で解放してみせると、シェーンコップは人知れずやる気をみなぎらせる。

 

「もう一度言う。銃を捨てて投降しろ。お前に逃げ場はない。エル・ファシルだって、リンチ司令官やお前達は、別にヤン提督にそそのかされたわけではなく、自分の意志で逃げたんだろうが。それが何かに利用されようがどうしようが、結局はお前自身の決断だったんだ。ヤン提督を恨むのは筋違いだろう」

 

シェーンコップは男に向けて、最後通牒とも言うべき説得の言葉を投げかけたが、それは思わぬ激昂を呼んだ。

 

「違う!!」

 

余計な事まで言って、下手に男を刺激してしまったかと臍を噛んだが、男の激情は思わぬ方向へと向かった。

 

「ヤン…お前…なぜあの時、俺に声をかけた! 『良かったらあなたも脱出計画の方を手伝ってくれませんか』と! 俺は断った。リンチ司令官の幕僚だったから…。でも、帝国軍に捕まって…その後、何度も何度も夢に見た。あの時、お前の要請を受けていたら、俺は捕虜収容所なんかにいなかったかもしれない。そう思うたびに、俺は運命を、お前を、呪った…! なぜだ! なぜなんだ、ヤン!」

 

エル・ファシルの脱出劇の影でそんな一幕があったとは意外に思ったが、それでもあってもおかしくない一幕ではある。

300万人の民間人と5万人の軍人がいれば、その人数分だけの悲喜劇もあろうというものだ。

 

しかしその男に取っては、単なる悲喜劇で済ませられない運命の岐路だった。何度も何度も夢に見、その選択をしていればと悔やみ続けたことだろう。

いっそそんな提案など最初からされていなければ、共に捕虜として捕まった他の軍人達と一緒になって自らの境遇だけを嘆くことができただろうに、棘のように引っかかったヤンの一言がいつまでも彼を縛り続けた。

 

「――――その事は、本当にすまないと思っているよ」

 

今も男から銃を突きつけられているというのに、神経が太いのか何も感じていないのか、相変わらずヤンはひょうひょうとした態度のまま言葉を綴る。

 

「自分一人で決めて…自分一人で背負おうと思っていたのに…あの時は私もまだひよっ子だった。心のどこかで覚悟しきれず、せめて誰かあともう一人くらい…そう思って、通りがかったあなたについ声をかけてしまった。でも結局私のした事は、あなたを余計に苦しめただけだったんだね…」

 

ヤンは淡々とした口調で語り続けていたが、その言葉に潜む温度は深淵の宇宙のように静かで、そして底の見えない暗さに塗りつぶされていた。

ヤンに取ってエル・ファシルの脱出劇は、当時称賛されたような美談でも英雄譚などでもなく、300万人の民間人と5万人の僚友達を天秤にかけ、片方だけを選択し、もう片方を捨て去る決断を迫られた苦い記憶でしかなかったというのか。

 

 

―――― カルネアデスの板

 

 

唐突に、その言葉がシェーンコップの脳裏をよぎった。

溺れそうになり、わずかな希望を求めて板きれに縋った手を、無理矢理引きはがされ再び荒波の中に放り出される男。

その男の姿が、目の前でヤンに銃を突きつけるエル・ファシル帰りの男に重なった。

 

 

―――― カルネアデスの板って知っているかい?

―――― じゃあ、これが軍人同士とかだったらどうなるんだろうねえ

 

 

戯言のように、軽口で問うてきたヤンの姿が、幻のように浮かんでは消えていく。カルネアデスの板から、その男を突き落した者の姿がヤンに重なっていく。

その事をずっと、ヤンは心の奥底に抱えて生きてきたのだろうか。民間人を救おうとも、艦隊戦で勝利しようとも、ただ陣営が違うのみで、結局は屍の山の重さをその身に背負いこむ事に違いはなかったというのか。

 

「違うでしょう? あなたのした事は、300万人の民間人を救うために必要なことだった。言わば、300万人の人間に代わってあなたが代行しただけだ。そのことでどうしてあなただけが責められ、思い煩わなければならないんです!?」

 

どこまでも自虐的に自分を責め苛むヤンの有り様に、シェーンコップはいっそ怒りさえ覚えて、場所柄もわきまえずに思わず反論してしまった。

 

「いいや、違う。私一人が決めて、私一人で行動して、私一人が背負うべきものだ。民間人は関係ない。彼らに返り血の一つもつけさせない。軍人というものはそういうものだろう? 国民が生きるために、敵に殺されないために、我々が前線に出て敵を屠る。その代価として、我々は国民の血税から給料を貰っているんだ。だからこれは完全に対等な契約であり、我々が血に汚れることは当然のことなんだ」

 

ヤンは屍の重さを、誰かに転嫁して逃げることすら良しとせず、頑なに民間人をそこから除外しようとする。

日頃、彼が軽口としてその口に乗せる『給料分』『軍人しか能がないからさ』という言葉が痛烈な重さを持ってのしかかってきた。

 

何気なく同盟政府から支給される金銭は、それほどの強制力と重みを持って彼を縛っていたのか。軍人以外に生活の糧を持たない彼が、その金銭を得るために、屍の山の重さに向き合い続けることを課せられてきたというのか。

 

そして、唐突にシェーンコップは気が付いた。

そうまでして返り血に濡れることから防いできた当の民間人の中に、かつてのフレデリカ・グリーンヒルがいたことを。そしてエル・ファシルの英雄の名声を聞かされて育った幼子のユリアン・ミンツがいたことを。

 

二人とも、英雄の輝きに魅せられ、その眩さを心に刻みつけて、軍人になることを志してしまった。

血に汚れることから必死に守ろうとした子供らが、己の存在ゆえに最前線で血を被らねばならない軍人になってしまった皮肉。

ひょうひょうとした態度の裏側で、その事にヤンがどれほど苦悩したか想像に難くない。

 

英雄である事を、戦争を厭いながら、それを辞めることも止めることもできず、彼ら自身の職業選択の意志を無視する事も出来ず、その矛盾を受け止め続けてきた。

淡々とした表情の裏に、どれだけの苦悩を押し殺してきたのだろう。それなのに、その苦悩を理解しようとしない世間は彼を英雄として持て囃し、あるいは目の前のエル・ファシル帰りの男のように嫉妬にまみれて彼を糾弾する。

 

世界は、どうして彼に取って苦痛をもたらすものでしかないのだろう。

シェーンコップのそんな思索は一瞬のことだったが、その間に現実は大きく動き出した。ヤンの冷厳な言葉を受けて、今までヤンに銃を突きつけていた男が狂ったように笑い出した。

 

「クックックッ…アッハッハッハ…! …契約! そうか、契約か! さすがはヤン、商人の息子らしい言い草だな。俺達軍人は政府や国民と契約し、給料を代価に彼らを守る責務を負う、か。だったら確かに俺やリンチ司令官は契約違反もいいとこだ。そりゃあ契約不履行で見捨てられもするか…。だったら、ここで野たれ死ぬのも当然なんだろうな…」

 

最後は消え入るような勢いで呟いたかと思うと、右手の銃をゴトリと地面に落とし、同時に拘束していたヤンを対峙していた薔薇の騎士連隊の方に向かって突き飛ばすと、己自身は床を蹴りつけるようにして背後に身を躍らせた。

 

――――非常階段の付いていない、虚空が広がる非常口へと。

 

「…っ! 大尉!!」

 

ヤンが、かつてのエル・ファシルでの男の階級を、いや昇進が停止された現在もそうであろう男の階級を叫び、反射的に手を伸ばしたが届くわけも無い。

男の身体は虚空の暗闇へと消え、ほどなくして地面に激突した鈍い音が辺りに響いた。それが事件の終わりを告げる音となった。

ヤンが虚空に伸ばした手は空しく空を切り、ただ所在なさげに指が虚空を泳いでいた。ヤンはそのまま視線を床に落とし、一人の男の死を悼むかのように唇を噛みしめていた。

 

「…あの男は、死に場所を求めていたのでしょう」

 

だからあなたのせいではない、という意味を言外に含ませて、シェーンコップがヤンに声を掛けた。だがヤンはそれに応えず、何とも言い難い雰囲気が辺りを覆う。

その空気を察したのか、もう危険は去ったと判断したこともあり、薔薇の騎士連隊はシェーンコップとヤンを残してその場から退出する。

パタンと扉が閉まった音が合図だったかのように、再度シェーンコップが口を開いた。

 

「あなたも…死ぬつもりだったのではないでしょうね?」

「…何を馬鹿なことを」

 

「そうですか? いかに因縁有る相手とは言え、不審な呼び出しを受けて誰にも相談することなく、うかうかと誘いに乗って、不用心過ぎるにもほどがあります。あなたにもしものことがあったら、この艦隊は、要塞は、いえ、自由惑星同盟はどうなると思っているのですか? あなたはもう少し、自分の重要性を自覚された方がいい」

 

「そんなことはないさ、私一人いなくなったところで何も変わりやしない」

「そんなことはあります! どうしてあなたはそう自己評価が低いのです!」

 

どうしても自分を低く見積り、軽く扱おうとするヤンに苛立ちを感じて、シェーンコップが思わず激昂したが、それでもヤンはびくともしない。

 

「私がいなくなれば、誰かが代わりにそれを補うだろう。民主主義と言うのはそういうものだ。不可欠で代替のきかない個人の存在なんてものは認められない。衆知を集め、一人一人の力を結集して全員で事を為していく。たった一人いなくなるだけでガタガタになるような社会なんて不健全だよ。宇宙は広いんだ。現在世に出ていないだけで、空席が出来れば、必要とされれば、私の代わりを務める者は絶対に世に出てくるだろう。エル・ファシル以前にヤン・ウェンリーを知る者が誰もいなかったようにね。知られていないだけで、潜在的には存在するんだよ、必ず」

「……」

 

ヤンの言い様に、シェーンコップは言葉を無くす。ここまで徹底的に自分というものを客観的に、悪く言えば機械的に、民主主義における一個の部品のように評価していたとは思いもよらなかった。

『不可欠で代替のきかない個人』とは、すなわち『英雄』のことだ。しかしヤンの思想では、それは衆知を集め全員で事を為す民主主義国家に置いては認められないのだと言う。

 

一人一人の力を出しつくさず、不可欠で代替のきかない個人一人に頼りきり、全てをその個人に任せ切る政体の行きついた先が、銀河帝国であり、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの存在なのだ。

 

そこまで考えて、シェーンコップはぞっとなった。世間がヤンを英雄と褒め称えれば褒め称えるほど、彼の方にしてみれば、自身が民主主義国家におけるありえざる異物でしかないと認識させられることでしかないのではないだろうか。

だから彼は自分を英雄ではないと否定し、いくらでも代替の利く一個人であると思いたがろうとするのだろうか。

 

民主主義を信じているから。民主主義が人類の幸福に取って、よりましな政体だと考えているから。一人一人が平等で、公平で、一人の英雄に率いられる羊の群れではなく、人が人として生きられる社会を愛しているから。

それなのに、自分自身がその政体の全否定になりかねない存在であることの矛盾と絶望。そしてその政体に取っての異物であることの孤独。

 

どうして、なぜ、彼がそんな矛盾と理不尽に苦しまねばならないのだという思いがシェーンコップの中に渦巻いた。

そうしてシェーンコップは思い至る。自分や薔薇の騎士連隊がヤン個人によせる信頼や忠誠心すらも、民主主義国家の一軍人でいたいヤンに取っては、迷惑なものでしかないのだろうかと。

 

我知らず、シェーンコップの拳がぐっと握りしめられた。

 

一人一人が平等で、公平で、不可欠で代替の利かない特別な人間が存在しない世界。確かに理想的だろう。

でもそれは裏を返せば、誰も彼もが同じでいつでも替えの利く、大切な唯一が存在しない世界でもあるのではないだろうか。

そこまで考えて、自分のヤンに対する思いすらも否定された気がして、シェーンコップは思わずヤンに言い募る。

 

「でしたら、薔薇の騎士連隊はどうなるのです?」

「…シェーンコップ?」

 

静かな怒りを抑えたシェーンコップの常ならぬ様子に、ヤンが困ったように小首を傾げて問い返す。

 

「あなたは、自分一人いなくなっても何も変わらないと言う。あなたがいなくなってもその代わりが現れるからと。でも、それなら薔薇の騎士連隊はどうなるのです? 成立から数十年、あなたのような司令官はついぞ現れなかった。常に転向者、いつ裏切るかわからない不穏分子として疑われ、遠ざけられ、粗末な扱いしか受けてこなかった。今ここであなたがいなくなれば、また数十年、不遇に耐えることになる。もしかすれば永遠に」

 

「…シェーンコップ…」

 

思いもよらぬ視点を示されて、ヤンの瞳が意外性に丸く見開かれ、シェーンコップをじっと見つめ返す。そんなこと、考えてもみなかったと言いたげに。

 

「あなたの代わりなど、いないのです…!」

 

そう言って、シェーンコップはやるせない想いに突き動かされるようにして、ヤンを抱きしめた。

薔薇の騎士連隊に言寄せたが、シェーンコップはそうではないと内心で呟いた。

ワルター・フォン・シェーンコップ個人が、ヤン・ウェンリー個人を代え難いものに思っているのだ。

 

民主主義国家においては、一人一人は平等で、それぞれの価値は皆同じかもしれない。でも個人が個人に抱く思いは、不可欠で、代替の利かない特別なものなのだ。

その事を、目の前のこの黒髪の魔術師にどう理解してもらえばよいのだろう。ヤンをその腕に閉じ込めながら、シェーンコップは戸惑い、途方に暮れていた。

 

親を求める幼子のように目の前のヤンに縋るシェーンコップは、いつもの不遜な態度が嘘のように心細げで、その様子にヤンの顔は困惑を帯びつつも、包み込むような柔らかさが表情に浮かび、おずおずと口を開いた。

 

「うん、ごめん。シェーンコップ…。そうだね、君の薔薇の騎士連隊のためにも、少しは気をつけるようにするから、それで勘弁してもらえないだろうか…」

 

ヤンはヤンなりにシェーンコップの思いを理解しようと努力してくれたようで、いつもの困ったような笑みを口元に浮かべ、シェーンコップの腕の中に大人しく収まっていた。

 

 

 

これらの騒動は、ユリアンなどの周囲を心配させたくないというヤンの希望もあり、内々に処理されて終わった。

報告を受けたキャゼルヌなどは渋い顔をしたが、当の犯人が既に死亡している以上、追及しても意味がないことは分かっており、不承不承その処理に当たることになる。

その分、ヤンの軽率な行動に対しては、シェーンコップ以上の熱意で説教を食らわせてやったのだが。

 

そうやっていくつかの事件を内包しつつ、捕虜交換にまつわる騒動は終わりを告げたのだが、それは続く平安を約束するものではなかった。

時を置かずして、同盟領内で地方反乱が頻発し、とどめに首都星ハイネセンにおいて、救国軍事会議を標榜する軍部の一団が政権を強引に奪取し、クーデターを成立させる。

 

そのクーデター派を率いる一団の長の名は、ドワイト・グリーンヒル。ヤンの副官、フレデリカ・グリーンヒルの父親であった。

 

同盟全域に向け軍事会議の成立を宣言する映像の中で、中央に立つドワイト・グリーンヒルの後方の片隅に、その場に似つかわしくない酒びたりの雰囲気を漂わせた男の姿があった。

 

男の名はアーサー・リンチ。

 

ただ一度の逃走により、それまでの功績全てが否定され、人生の大半を失意と自棄で塗り固めた男。

ドワイト・グリーンヒルが、何を思ってこの男を重用しようと決めたのかは分からない。

アーサー・リンチの転落の出発点、エル・ファシル。そこにはドワイト・グリーンヒルの妻と娘が居合わせていた。

彼らを含む三百万人の民間人を救うために、カルネアデスの板から突き落された男。

 

 

―――― それは、ドワイト・グリーンヒルに取っても負い目であったのだろうか。

 

 

 

 




以上です

半年くらい前から急に銀英愛が再度沸騰して、つい書いてみたくなりました

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。