ハイスクールD×D 英雄志望の少年   作:北斗七星

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 書き溜めはここまでです。次はどんくらい早く書けるかなぁ……時系列とか色々と目茶目茶かと思いますが、突っ込まんでいただけると嬉しいです。


英雄への一歩

『それじゃ、準備も終わったし早速始めるにゃん』

 

「了解です!」

 

 翌朝、何時もの修行場所へとやって来た二人。テストの準備を終えた黒歌が龍一郎の方を見ると、直立不動という表現がピッタリなくらい背筋を伸ばしていた。そんなに気合いを入れなくても、と黒歌は苦笑する。

 

『昨日も言った通り、制限時間内に私が山頂に用意した招き猫を取ってきてもらうにゃん』

 

 簡単に言ってしまえば障害物走だ。

 

「道中に大先生が用意した罠とかがあるんですよね?」

 

『にゃ。それを突破しながら山頂を目指してちょうだい。ただ……』

 

 言い難そうに黒歌が口篭る。と言うのも罠(木などの自然物を妖術、仙術などで操ったもの)の製作に気合いを入れすぎてしまい、作った張本人がドン引きしてしまうような代物が出来上がってしまったのだ。はっきり言ってしまうと今の龍一郎ではとても勝てないような相手、例えば上級の悪魔などでも無傷で完走するのは難しいかもしれない。

 

 ここまで難易度を上げるつもりは無かった。なので、黒歌は一度コースや罠を作り直すつもりでいるのだが、

 

「っし! 頑張るぞ!」

 

 やる気満々、気合い十分な龍一郎に言い出せずにいた。オロオロとする黒歌を余所に龍一郎は入念に準備体操をしていく。

 

「あ、そうだ」

 

 組んだ両手を真上に伸ばしていた龍一郎が黒歌を振り返った。その真剣な面持ちに黒歌も足を止めて龍一郎を見上げる。

 

「ニャンコ大先生。実はお願いがあるんです」

 

『お願い?』

 

「もし、このテストを上手くやることが出来たら、その時は大先生の名前を教えてください」

 

『……名前?』

 

 大真面目に頷く龍一郎。そんなことと言いかけて黒歌は気づく。そういえば、自分の名前をちゃんと伝えていなかったと。黒歌の中ではニャンコ大先生という呼び名がすっかり定着していた。

 

『そういえばそうだったわね……そんなのでいいの?』

 

「俺に取っては凄く重要なことなんです」

 

 生真面目な表情をそのままにして龍一郎は断言した。確固たる意思を持った声音に黒歌は気圧されると同時に気恥ずかしくなる。

 

『そ、そっか。重要なことにゃのね……いいわ、ちゃんと出来たらその時は教えてあげるにゃん』

 

「ぅありがとうございます!!」

 

 凄い勢いで頭を下げる。満ち満ちた気力を更に掻きたて、龍一郎はスタート位置に移動した。

 

「じゃ、行ってきます! 合図をお願いしても?」

 

『うん。それじゃあ、位置について。よ~い、ドン!』

 

 開始の掛け声と同時に龍一郎は駆け出し、『風王纏鎧』を展開する。今までの修行で厚さ数ミリに凝縮された風の鎧は装着者を一瞬で高速の世界へと誘った。地面を跳び、木を蹴りつける。時に宙を翔けながら龍一郎は山頂を目指していく。

 

『うわ、速っ。え、あんな速かったっけ? 確かに『風王纏鎧』を展開した時の龍一郎って文字通り風みたいに動いてたけど、あそこまで凄くなかったようにゃ……そんなに私の名前知りたかったのかな?』

 

 一秒と経たずに見えなくなった龍一郎に黒歌は最初唖然としていたが、徐々に口角が吊り上っていくのが自分でも分かった。黒歌の名前を知りたいがために実力以上の力を発揮する。つまり、それだけ彼女の本当の名前を知りたいのだ。

 

 こんなにも想われて悪い気などする訳が無い。少しの間、黒歌は熱に浮かされた乙女のような顔をしていたが、招かれざる客の訪れに険しい表情へと変わった。

 

「見つけたぞ……主殺しの雌猫がぁ……!」

 

 雑木林の中から現れたのはボロボロの服に血走った目、背中に生えた蝙蝠のような翼という肉屋の女性が言っていた通りの風貌の男だった。男の見覚えのある顔に黒歌はやはりと内心で頷く。その男はかつて同じ悪魔を主とした眷属仲間の『戦車(ルーク)』だ。主を殺されて以来、ずっと黒歌を追い続けている。詳しい回数は忘れたが、少なくとも五回以上は顔を会わせていた。

 

『ここまで私を追ってくるなんてあんたもしつこいわね。何、他にやることにゃいの? それとも私に惚れてるの? だとしたら願い下げだにゃん。あんた、全く私のタイプじゃにゃ』

 

「黙れ!!」

 

 黒歌の軽口が終わらない内に男、悪魔は右腕を異形のものに変えて黒歌に襲い掛かった。筋肉の膨張で二倍近くに膨れ上がった右腕の肌が岩のように固まる。拳を握り締め、ハンマーのように大上段から黒歌目掛けて振り下ろした。

 

 ドゴォン!!

 

 その見た目に相応しい威力で悪魔の一撃が地面を粉々に打ち砕いた。土の破片と土砂が吹き上がり、衝撃が波となって周囲を揺るがす。

 

「ちぃ、どこに逃げた!?」

 

 仕留めた手応えが感じられず、悪魔は目をギョロギョロさせて周囲を見回した。だが、宙を舞う濃霧のような砂煙が視線を遮り何も見えない。

 

「馬鹿ねぇ。そんな大振りな攻撃が当たる訳ないじゃにゃい。オマケに攻撃の余波で自分の視界まで奪っちゃって。そういう脳筋なとこ、変わってにゃいのね」

 

 背後から聞こえた声に悪魔は振り返りながら右拳を横薙ぎに払った。拳の動きに合わせて発生した風が舞い上がっていた土砂を吹き散らす。土砂に覆われていた視界が晴れ、悪魔の目の前に人の姿になった黒歌が立っていた。土煙に軽く咳き込みながら顔の前で手をパタパタと振っている。

 

「ほぉ、何時もみたいに逃げないのか?」

 

「こっちにも事情があるのよ。それにいい加減あんたが鬱陶しくなってきたし、ここでケリつけるにゃん」

 

 ぱっぱっと和服についた土埃を払い落とし、黒歌は戦う意思を宿した瞳を悪魔へと向ける。右手に妖力を、左手に仙力を滾らせて黒歌は悪魔と対峙した。

 

「この後、とっても大事な用事があるの。即行で終わらせるにゃん」

 

「死ねぇ、主殺し!!」

 

 

 

 

 

「よし、あともう少し!!」

 

 山中を飛ぶように翔ける人影があった。人影が宙を走る度に生じる突風が木々の枝葉を揺らし、煽られた落ち葉が舞い飛んでいく。

 

 しかし、我ながらよくテストをクリアできたものだと龍一郎はしみじみ思った。死を覚悟したのも、走馬灯が走ったのも一度や二度ではない。片足が三途の川に浸かっているような感覚を龍一郎は忘れることが出来なかった。

 

 コースの始めの方もそれなりの難易度だったが、まだ道徳的だった。中盤辺りで龍一郎の脳裏に『死』という文字がチラつき始め、終盤では実際に死にかけた。

 

 木の葉は弾幕となって容赦なく龍一郎を襲い、木その物が棍棒を振り下ろすように太い幹を叩きつけて来る。蛇のように迫ってきていた蔓や木の根は群れとなり、最終的には互いが互いに絡み合って巨大な龍のようになっていた。

 

「龍になるのは、まぁ百歩譲って分かる。何で植物で出来た龍が火を吐いてくるんだよ……」

 

 ちょっと焦げた前髪を気にしながら龍一郎は招き猫の置物を抱えた左腕に力を込める。どこぞの妖怪の名前が書き綴られた友人帳を持つ少年を守護(?)する猫もどきに似ていた。

 

「大先生、こんなのどこで見つけてきたんだろ?」

 

 胸中に生じた疑問を打ち消し、龍一郎は更に加速する。木々の間を縫うように移動していた龍一郎は開けた原っぱへと出た。ここを抜けて少し進めばゴール、スタート地点だ。

 

「まだ五分も経ってない。この調子で行けば……!」

 

 鎧内の風を放出し、龍一郎は地面に足をつけることなく原っぱを横切っていく。普通の人間にこんな芸当、出切るわけ無いのだが『風王纏鎧』を会得した龍一郎には可能だった。『風王纏鎧』を構成する風をジェット噴射の要領で使い、天を翔ける。自由自在に飛び回るというのは流石にまだ無理だが、空中である程度の自由な動きをするのは可能だった。

 

 原っぱを抜け、再び雑木林に入る。ゴールはもう目前なのだが、ここに来て龍一郎は何か争うような音を聞いた。剛力の怪獣が力任せに暴れ回っている、といった感じだ。

 

『……! ……ねぇ!!』

 

 しかも、罵声のようなものまで聞こえてきた。更に悪いことにそれらはゴールの方から聞こえてくる。明らかに近づくべきではない。ないのだが、何故か龍一郎は足を止めなかった。自分の中の勘が言っている。逃げてはいけないと。根拠も何も分からない己の勘に従い、龍一郎はゴールへと踊りこんだ。

 

 そこで彼が見たのは岩のようなゴツゴツとした外殻で全身を覆う巨大な化け物と、黒い猫耳を頭に生やした和服の美女。龍一郎は何故かその美女が敬愛するニャンコ大先生だと一瞬で見抜いていた。

 

「ニャンコ大先生!!」

 

 

 

 

(あれ、こいつってこんなに強かったっけ?)

 

 時は僅かに遡る。黒歌は予想外の苦戦を悪魔に強いられていた。

 

「いい加減、くたばってちょうだい!」

 

「温いわぁ!!」

 

 両手からそれぞれ妖術と仙術の波動を撃ち出すが、悪魔の皮膚を覆い隠した灰色の甲殻に弾かれてしまった。悪魔は鎧のような皮膚に防御を任せ、右腕を振り上げて黒歌に迫る。小さく舌打ちしながら黒歌は横に跳んで悪魔の一撃をかわす。目標を失った拳が地面を砕き、再び周囲を揺らした。

 

「そこ!」

 

 地面から拳を引き抜いている悪魔に波動を飛ばすが、結果は同じで皮膚に弾かれてしまった。

 

「あんた、一体何食べて生きてきたのよ。その体、そこまで丈夫じゃなかったでしょ」 

 

悪魔の駒(イーヴィル・ピース)』。それが悪魔が悪魔以外の存在を自分の眷属にする時に用いるものの名前だ。チェスの特性が取り入れられており、駒は『(キング)』、『女王(クイーン)』、『騎士(ナイト)』、『戦車(ルーク)』、『兵士(ポーン)』に分けられる。

 

 詳細は省くが、黒歌と対峙している悪魔に与えられた駒は『戦車』。その特性は馬鹿げた力と防御力だ。自前の能力と合わさって驚くほどの防御を誇っていたが、それを踏まえても現在の悪魔の防御能力は異常だった。少なくとも、黒歌の攻撃をモロに喰らって無事で済むはずが無い。彼女の記憶ではそうだった。

 

「主が殺されたあの日以来、俺は貴様を殺す事だけを考えて生きてきた。貴様を殺すため、そのためだけの力を求めてきた」

 

 どうやったかまでは分からないが仙術と妖術を完全に無効化する方法を見つけ出し、身に付けたようだ。悪魔の返答に黒歌は苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。妖術、仙術が効かないとなると、黒歌の攻撃はほぼ全部通じないことになる。

 

(どうやって倒せば……もうそんなに時間もないのに!)

 

 龍一郎が山頂へ向かってから二分ほど経っている。黒歌の予想が正しければ、もう三分くらいで龍一郎が戻ってくるはずだ。それまでの間にどうにかケリをつけなければ。

 

「どうやら貴様は弱くなったようだな。貴様のことだ、どうせ享楽に耽り、堕落した生き方をしていたのだろう!」

 

 悪魔の一撃を避け、波動を放つ。結果は同じだった。

 

「男でも咥え込んで貢がせていたのか、それとも洗脳して従えていたのか?」

 

「好き勝手言ってくれるじゃない。私がどうやって生きてきたか知らないのに!」

 

「知らんな。知ろうとも思わん! お前は俺達の主を殺した怨敵、真実はそれだけだ!!」

 

 悪魔の柱のような両腕をかわしていくが、じりじりと追い詰められていく。

 

「ここで誰に知られる事もなく朽ち果てろ! それが貴様にはお似合いだ、死ねぇ!!」

 

 悪魔が組んだ両手を頭上まで持ち上げた。威力の底上げのためか、魔力を纏っている。避けても余波でやられる。かと言ってとても防げるようなものではない。刹那、黒歌の脳裏にぐちゃぐちゃの肉塊になった自分の姿が浮かんだ。恐怖に足が止まる。

 

『ニャンコ大先生!!』

 

 風が奔った。優しさと激しさが同居した、暖かな風が。何の前触れも無く発生した疾風に砂塵が舞い上がり、悪魔の視界を奪った。反射的に目を閉じるが、怨敵を逃してなるものかと涙を滲ませながら瞼をこじ開ける。

 

「何っ!?」

 

 驚きに目を見開く悪魔。一瞬前まで目の前に立っていた黒歌の姿が掻き消えたかのようになくなっていた。

 

「どこだ。どこに行った!」

 

 涙を流しながら全方位を見回す。黒歌の姿はどこにも無かった。

 

「どこに行ったぁ、黒歌ぁぁぁ!!!」

 

 

 

 

『どこに行ったぁ、黒歌ぁぁぁ!!!』

 

 少し遠くから聞こえてくる怒声に顔を顰めながら龍一郎は抱えていた黒歌を木の根元に下ろした。木の幹が背凭れになるように黒歌を座らせ、片膝を折って視線の高さを同じにする。

 

「大丈夫ですか、ニャンコ大先生?」

 

「え、龍一郎? 何で、というか何が起きて?」

 

 状況が飲み込めず、黒歌は目を白黒させて龍一郎を見返す。突風を感じたかと思えば、不思議な力に抱き上げられていた。かと思えば周囲の風景が一転二転しながら変化し、気がつけば龍一郎に抱き抱えられていた……所謂お姫様抱っこという奴で。

 

「はうぅ!?」

 

 思い出した途端、黒歌の顔が爆発でもしたかのように赤くなった。白磁の肌を赤く染め、口をあうあうさせながら黒歌は龍一郎を見る。こちらを気遣う表情を浮かべた顔が至近距離にあった。微かな吐息が感じられるほどに近い。

 

「ニャンコ大先生の名前、黒歌っていうんですね」

 

 素敵な名前です、と龍一郎は穏かに微笑む。え? と困惑した後、黒歌は先ほど悪魔が自分の名を大声で叫んでいた事を思い出す。素敵な名前。この一言で黒歌は天にも上りそうな心持になるが、すぐにシュンとした様子で猫耳を垂れた。

 

「……こんな形で知って欲しくなかった」

 

 ちゃんと自分の口から伝えたかった。想いは同じらしく、龍一郎も残念そうに俯く。

 

「俺もです」

 

『出て来い、この雌猫がぁ!!』

 

 さっきよりも大きく聞こえる悪魔の怒声に龍一郎は表情を引き締めて立ち上がった。闇雲に探し回っているようだが、徐々に近づいてきている。

 

「ちょっと待つにゃ。どうするつもりなの?」

 

 音のする方へ歩いて行こうとする龍一郎のシャツの裾を掴んで止める。

 

「あいつ、ちょっと倒してきます」

 

 無理よ! と思わず声を荒げそうになりながら黒歌は声を潜めた。

 

「お願い、止めて。そんなことしたら龍一郎殺されちゃう」

 

 あの悪魔の目的は黒歌を殺すことだ。もし、その目的を邪魔しようとする者がいれば誰であれ容赦なく排除しようとするだろう。攻撃の手段が封じられたとはいえ、黒歌が苦戦するほどの相手だ。魔術を覚えただけの人間である龍一郎が勝てる相手ではない。

 

「それでも、やらないと……いや、違いますね。単純に俺はあいつを倒さないと気が済まない、そうしなきゃならない理由がある」

 

 振り返った龍一郎の表情は静かだった。何故かそれが嵐の前の静けさであると黒歌には分かった。理由は分からないが、龍一郎はぶち切れている。

 

「あの野朗、貴方の事を殺そうとした上に雌猫呼ばわりした」

 

 たった、一つのシンプルなこと。あの悪魔は黒歌を侮辱した、だから許せない。それだけのことだ。それに大丈夫です、と龍一郎はポカンとする黒歌に笑って見せた。

 

「無策、無手って訳じゃありませんから」

 

 言うと、龍一郎は自身の背後に黄金の光を放つ歪みを出現させる。ぎょっとする黒歌を余所に龍一郎は黄金の歪みから突き出た柄を掴み、一気に引き抜いた。何時ぞや、素振りの最中にレーザーをブッパした聖剣だ。

 

「龍一郎、それって……」

 

 聖剣から放たれるオーラに怖気を感じながら黒歌は恐る恐る訊ねる。何でそんな物を持っているのか、そもそもどうやって空間から取り出したのか、神器(セイクリッド・ギア)で創り出したものなのか。疑問は尽きなかった。

 

「見せたことかなったですね、これのこと。黙っててすみません。後で説明します」

 

 では、と軽く頭を下げ、龍一郎は『風王纏鎧』を纏って地を蹴り飛び出していく。黒歌には呼び止めようとする暇も無かった。

 

 

 

 

「おい」

 

 背後から投げかけられた声に悪魔が振り返ると、さっきまで誰もいなかった筈の背後に一人の少年が立っていた。オマケに右手には聖剣を携え、体全体を不可視の鎧で守っている。

 

「何だ、貴様は? 悪魔祓い(エクソシスト)か……っ! まさか、貴様が黒歌を!?」

 

 訝しげな視線を少年、龍一郎に送っていた悪魔はすぐに戦闘態勢を取った。黒歌が消え、少ししてから現れて敵意剥き出しの視線をこちらに向けているのだから黒歌の関係者と考えるのが妥当だろう。

 

「あんたと大先生がどういう関係かは知らないけど、大先生を害するならあんたは俺の敵だ」

 

「貴様、あの雌猫に術で操られているのか? ふん、下等で哀れな人間だ。自分が肉盾にさらていることも知らないなんてな。あの屑がやりそうな下衆いて」

 

「黙れよ」

 

 静かに放たれた一言は光速で放たれた抜刀術のように悪魔を襲った。思わず息を呑むほどの威圧感を孕んだ声は一言で悪魔を黙らせる。ゆっくりと聖剣を正眼に構え、龍一郎は聖剣の切っ先と怒りに満ちた目を悪魔に向けた。

 

「確かにあんたから見れば俺は下等な存在だろうさ。でもな、あの人(?)は俺にとって不出来な弟子を教え導いてくれた大恩ある先生だ。例え、誰であってもあの人への侮辱は許さない」

 

 眼光鋭く悪魔を睨みつける。聖剣が僅かに放つ聖なるオーラを揺らめかせた。

 

「あんたはあの人を、黒歌先生を侮辱した。だから……斬る」

 

「図に乗るな、下等種族がぁ!!」

 

 湧き上がった憤怒に身を任せて悪魔はドラ声で吼えた。大気がビリビリと振るえ、鼓膜が痛くなるほどの音量だ。音だけでも攻撃として通用しそうだがだが、『風王纏鎧』で身を守っていた龍一郎は小さく眉を顰めただけだ。地を蹴り、『風王纏鎧』の力で加速して一気に悪魔の懐に飛び込む。

 

「なっ、速い!?」

 

 目を見開く悪魔を飛び上がりながら斬りつける。聖剣の刀身が悪魔の甲殻に浅い傷をつけた。小さく舌打ちし、龍一郎は悪魔の頭上で体を上下反転させて聖剣を悪魔の頭部へと叩き付ける。今度は甲殻を小さく斬り飛ばすに留まった。

 

「浅いか……!」

 

 毒づきながら伸びてきた巨腕を体を捻るようにして避け、風を放出して悪魔の間合いから飛び出す。

 

「と、とと……」

 

 勢い良く地面に着地して体勢を崩しそうになる。倒れこむ寸前、龍一郎は聖剣を地面に突き立てた。肩越しに後ろを見ると、地響きと共に岩の巨体が拳を振り上げて距離を詰めてくる。龍一郎は咄嗟に駆け出し、大股に動かされる悪魔の両足の間を潜った。

 

「ぬうんっ!!」

 

 さっきまで龍一郎がいた所に拳が打ち込まれる。砕け散る地面に龍一郎は冷や汗をかく。まともに喰らえば言わずもがな。防ぐことも、受け流すことも無理だろう。

 

「分かってたけど、一発ももらえないなっと!」

 

 跳び上がり、コントロール出来るギリギリの出力で風を噴出させる。轟! と風が吹き荒んだ。龍一郎は悪魔の横擦れ擦れを超高速ですり抜け、擦れ違い様に聖剣を後頭部へと打ち付けた。超高速の一撃を受け、悪魔は悲鳴を上げて顔から地面に突っ込む。

 

 一方、龍一郎は両手から伝わってっきた硬い感触に腕を痺れさせた。思わず放しそうになるのを堪え、地面を足裏と聖剣をブレーキにして滑っていく。

 

「人間風情がぁ……ちょこまかと逃げ回りやがって」

 

 地面から頭を引き抜いた悪魔は双眸をギラギラさせて龍一郎をねめつけた。これといったダメージは見当たらない。微かに舌打ちし、龍一郎は右手に握った聖剣を見る。

 

 聖剣の力を引き出せてないというのもあるが、それ以上に龍一郎が聖剣をただの長い棒としてしか扱えないために悪魔にダメージを与えることが出来なかった。どれだけ凄い武器であっても、使っているのが素人では威力を発揮できない。

 

「やっぱり、俺に英雄の武器を使うなんて無理なのか……」

 

 思わず口から出た弱気な言葉を頭を振って払い飛ばす。剣を剣として扱えないことなど最初から分かっていたことだ。何せ、こちとらまだ武器を振り始めてから一年も経っていない若造だ。剣を手足のように扱えるほうがおかしい。

 

 自分に出切ることで、成すべきことを成す。心の中で自分に言い聞かせ、龍一郎は風となって悪魔に打ちかかっていった。

 

 

 

 

「す、凄い」

 

 木の陰から様子を窺っていた黒歌は無意識の内に呟く。彼女の眼前では疾風のような動きをする龍一郎に翻弄される悪魔の姿があった。

 

 本当ならすぐにでも加勢、いや、龍一郎に取って代わって悪魔と戦うべきなのだろう。これは本来、黒歌自身が解決せねばならないことなのだから。彼女自身、そのことは重々承知している。でも、黒歌は一歩踏み出せないでいた。

 

 一応、理由はある。龍一郎の動きが黒歌から見ても余りに速いため、下手に援護すると龍一郎に当たってしまう可能性があるからだ。

 

 何よりの理由は龍一郎の目だった。目の前の敵を絶対に倒すという強靭な意志と覚悟を宿した瞳。それほどの目をして龍一郎が悪魔と戦っているのはひとえに黒歌のためだ。彼女を守りたい、彼女に恩を返したい。そのために龍一郎は一撃でも喰らえば死んでしまう戦いに身を投じている。

 

 それだけの想いを抱いて戦っている龍一郎の邪魔をするような真似をしてもいいのか? そんな疑問が黒歌の足を止めていた。

 

「龍一郎……」

 

 悩む黒歌を尻目に戦闘は激しさを増していく。状況が終息したのはそれから一分ほど後のことだった。

 

 

 

 

 

「この人間めぇ。素直に黒歌の居場所を吐けば殺さずに済ませてやったものを……ここまで俺を愚弄した報いは受けてもらうぞ!!」

 

「報いって、俺の攻撃を、避けれない、そっちが悪いんだろ」

 

 怒りに体を震わせる悪魔の言葉に龍一郎はつっかえながら真面目に反論する。龍一郎の正論が癇に障ったようで、悪魔は砕けそうなほど食い縛った歯の間から怒りの唸りを漏らした。

 

 悪魔の体は到る所が斬られていた。頑強な甲殻は所々が斬られており、綺麗な断面図や斬られた痕を晒している。しかし、決定打になりえる傷はその中に一つも無かった。

 

 一方で龍一郎は額に玉の汗を浮かせ、両肩を大きく上下させていた。外傷こそ見当たらないが、疲弊しきっているのは誰の目にも明らかだ。聖剣を持つことすら辛いようで、切っ先を地面に擦りそうになるほど下げている。

 

「やっぱ、武器が凄くても剣の素人の俺じゃあの甲殻を斬るのは無理か……くそ、情けない」

 

 愚痴りながら聖剣を持ち上げる。斬る、と大層な事を宣言しておいてこの様だ。悔しさに龍一郎は唇を噛み締める。それ以上に聖剣に対して申し訳ない気持ちで一杯だった。

 

「ごめん。正しく使えばあんな奴、一撃で斬れるのに。俺みたいな凡人が使ってるせいで、そこら辺の(なまくら)と同じみたいになってる」

 

 再びごめんと呟く。この言葉は本心からのものだ。

 

「俺みたいな奴にお前を振るう資格がないことくらい分かってる。どれだけ自分の丈に合ってないものを渡されたかってことも……でも、守りたい人がいるんだ」

 

 そのためにはこの聖剣の力が必要だった。龍一郎の懇願にも似た独白に聖剣は無言を以って応える。

 

「頼む。その人を守るために、今回だけでいい。力を貸してくれ……!」

 

 強く強く聖剣の柄を握り締める。願った者がどれだけ矮小な存在であっても、どれ程他力本願な願いであっても守りたいという星のように輝く想いは本物だった。そしてその輝きは往々にして英雄達が胸に抱いていたものだ。

 

「っ!?」

 

 違和感に気付き、龍一郎は驚きに目を見開く。見れば聖剣が小さな鳴動と共に刀身から淡い光を放っていた。暖かく、優しい光。人々の夢と未来を守るために輝いていた強い光だ。

 

「ありがとう」

 

 言葉短く礼を言い、龍一郎は両手を側頭部に添えるように持ち上げて突きの構えを取った。半身になって腰を落とし、左足を前にして後ろに下げた右足に力を込める。

 

「非力な人間が俺と真っ向勝負をするつもりか? ぐちゃぐちゃに潰してくれるわぁ!!」

 

 明らかな突撃の構えをする龍一郎に悪魔は猛りながら自身も突撃の体勢を作った。正面から龍一郎とぶつかり合うつもりのようだ。

 

「駄目、龍一郎! そんなことをしたら死んじゃう!」

 

「『風王纏鎧』!!」

 

 木陰から飛び出した黒歌の声を無視し、龍一郎は輝く聖剣の刀身を風で覆い隠した。

 

「そこにいたかぁ!!」

 

 悪魔の注意が突然現れた黒歌に向けられる。その一瞬を見逃さず、龍一郎は自身を鎧った『風王纏鎧』の風を全て移動に回した。龍一郎の背後にあった木々が地面から根を覗かせるほどの風が吹く。音を置き去りにし、龍一郎はがら空きになっていた悪魔の胸元に聖剣の切っ先を突き刺した。

 

 暴風その物と化した龍一郎渾身の突きを受けて踏み止まれるはずもなく、悪魔は悲鳴を上げる事すら出来ずに木々をへし折りながら吹き飛んでいく。

 

風王鉄槌(ストライク・エア)』!!」

 

 聖剣を捻じ込むように突き入れ、風の鞘を解放する。解き放たれた狂風は聖剣の光を巻き上げ、慈悲の欠片もなく悪魔の巨体を呑み込んだ。

 

「ぐがああああぁぁぁぁっっっっ!!!!」

 

 風に全身を切り裂かれ、光に全身を焼かれながら悪魔は更に木々を薙ぎ倒しながら小さくなっていく。光を巻き込んだ暴雨が収まったのは十秒以上経ってからだった。

 

 聖剣を突き出した姿勢のまま、龍一郎は目の前の惨状を確認する。

 

「は、はは」

 

 思わず顔が引き攣ってしまうほど酷い有様だった。まるでドリルで作ったトンネルを半分にしたかのように地面が見事な半円に抉り取られていた。勿論、周囲一帯の草木も綺麗さっぱり無くなっている。辛うじて木の残骸だと分かるものも切り刻まれているか焼け焦げているかのどちらかだ。塹壕のように続く溝の先には全身の甲殻を削り取られた悪魔が焦げた肌を晒している。起き上がる気配はなかった。

 

「か、勝ったのか?」

 

 確認する間もなく、龍一郎を強烈な脱力感が襲った。右手から零れ落ちた聖剣が黄金の粒子になって消えていく。背中から倒れこみそうになった龍一郎が感じたのは柔らかく心地よい感触だった。

 

「……! ……!」

 

 誰かの声が聞こえるが応えるほどの力は残っていない。龍一郎は落ちていく瞼を開こうとはせず、意識を手放してホッとする肌触りに身を任せた。

 

 

 

 

「う~ん……」

 

「龍一郎! 気がついた?」

 

 ゆっくりと瞼を持ち上げた龍一郎の視界に飛び込んできたのは豊かな双山だった。状況が飲み込めずに目を丸くしていると、双山越しに黒歌の顔が覗いた。

 

「え、黒歌先生? これ、どういう状況」

 

「動いちゃ駄目!」

 

 起きようとする龍一郎を黒歌は激しい剣幕で押し止めた。ただならぬ形相とどたぷんと揺れた黒歌のバストに圧倒され、龍一郎はコクコクと赤べこのように頷く。

 

「急激に魔力を消費した反動で気絶しちゃったのよ。暫くは動けないと思う」

 

「ですか……あの、黒歌先生。この体勢は一体?」

 

「膝枕よ。気持ちいいでしょ?」

 

 やっている事を効いてるのではなく、何故やっているのかを問うているのだが。龍一郎の質問は正しい意味で黒歌に届かなかったようだ。彼女の言っていることは事実なので、龍一郎は無言で頷いた。にゃ、と小さくガッツポーズする黒歌が非常に可愛らしかった。

 

「あの、黒歌先生。教えて欲しいことがあるんですけど。あの、アメコミに出てきそうな岩の奴はどうしました?」

 

「適当に次元の狭間に放り込んだにゃん。あいつが目を覚ました頃には遥か彼方にグッバイにゃ」

 

「ですか……どういう関係だったんですか? 尋常じゃない怒りと殺意を先生に向けてましたけど」

 

 気になっていた事を訊ねる。一瞬、言葉に詰まらせるも黒歌は恐る恐るだが。ゆっくりと話し始めてくれた。自分が眷属悪魔だったこと、妹を守るために主を殺したこと、主を殺した罪で悪魔から追われていることなど、色々と話してくれた。話を聞き終えた龍一郎はそうですか、とだけ呟いた。

 

「あの岩みたいな奴って、同じ眷属だったんですか?」

 

 コクリと頷く黒歌を見て龍一郎は納得する。主を殺されたのだから、黒歌に対する尋常じゃない執念も頷けた。

 

「ごめんね、龍一郎。これは私の問題だったのに、龍一郎を巻き込んじゃった……私一人で解決しなきゃいけなかったのに。本当に、ごめんね」

 

「そんな、謝らないで下さい! 俺が勝手に首突っ込んだんです。先生が謝る事なんてありませんよ」

 

 涙声で謝罪する黒歌に龍一郎は慌てて首を振ってみせる。実際、悪魔と戦ったのは龍一郎の意思で決めたことだ。逃げるという選択肢だってあったのに龍一郎はそれを選ばなかった。例え死ぬことになったとしてもそれは龍一郎の自業自得だった。

 

「でも、私分かってたの。あいつがすぐ近くまで来てるって」

 

「あぁ、肉屋のおばさんが言ってた不審者ってあいつのことだったんですね」

 

「本当はすぐにこの土地から離れるべきだった。でも、出来なかった。ここで過ごす日々が余りにも楽しすぎて……!」

 

 何という身勝手さだろう。追っ手がすぐそこまで来ていると分かった時点で逃げるべきだったのに黒歌はそれをしなかった。先生らしいことをするなんて尤もらしい理由を付け、龍一郎といられる時間を一分一秒でも長くしようとした。その結果がこれだ。今回は龍一郎が勝ったが、最悪の結末になる可能性だってあったのだ。

 

「ごめん、龍一郎。ごめんね……」

 

 大粒の涙を流しながら謝り続ける黒歌を見上げていた龍一郎がゆっくりと体を起こし始める。慌てて黒歌が止めようとするが、押し切って龍一郎は上半身を起こす。全身の鈍痛に思わず顔を顰めるが、痛みを無視して龍一郎は黒歌と向かい合った。

 

「まずは先生、ありがとうございます。ここでの暮らしが楽しかったって言ってくれて。そう思っていただけたのなら俺も嬉しいです」

 

 頭を下げる龍一郎を黒歌はキョトンとしながら見ていた。礼を言われるとは予想外だったらしく、赤くなった目をパチクリさせている。

 

「先生は……悪くないと俺は思います。方法は絶対に間違ってますけど、やったこと事態は間違って無い筈です」

 

 家族を守ろうとすることが悪いことである筈が無い。黒歌の場合、妹を守るために主を殺したのが問題なのだ。

 

「今回のことだって先生は悪くありません。誰だって帰れる場所を失うのは嫌ですよ」

 

 帰れる場所は人それぞれ様々な形があるだろうが、全ての人の拠り所であることは共通している。いくら人に迷惑をかけると分かっていても、捨てられるようなものではない。なので、龍一郎は黒歌を責める気は微塵も無かった。

 

「だから、謝らないで下さい。先生は綺麗なんですから笑ってたほうが素敵です」

 

 ね、と穏かに笑う龍一郎の言葉に黒歌は流れそうになる涙を必死で抑えた。温かな言葉を言ってくれる龍一郎にただ胸が一杯だった。嬉し泣きしそうになるのを我慢し、黒歌はくしゃくしゃの笑顔を浮かべる。

 

「龍一郎、ありがとう」

 

「どういたしまして……次は俺ですね」

 

 今度は龍一郎が自分のことについて話し始めた。一回死んで転生したこと、その際に神様的な何かに『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』を渡されたこと。少しでも『王の財宝』に相応しい者になろうとしていたこと。黒歌は口を挟まずに龍一郎の言葉に耳を傾けていた。

 

「そっか。『王の財宝』なんてものがあったから龍一郎は私のこと普通に受け入れられたのね」

 

「まぁ、ビームや何やらぶっ放せる剣や槍とかに比べれば喋る猫の方がまだ現実的ですから」

 

 そうなのか、と黒歌は困り顔で首を傾げる。どちらにしろ一切現実的じゃない気がするが、龍一郎がそれで納得しているなら良しと何も言わなかった。

 

「少しでも英雄達に近づこうと頑張ってたけど……やっぱ無理そうかな」

 

 どこか自嘲めいた口調で龍一郎は呟く。本物の英雄であればこの程度のこと、難なく乗り越えられるのだろう。対して龍一郎は悪魔一体倒しただけでぶっ倒れてしまった。英雄とはとてもいえない。

 

 

「そんなことにゃいよ」

 

 諦観のため息をつく龍一郎に黒歌は首を振った。

 

「だって私のヒーローだもん」

 

 驚く龍一郎の首に両腕を回して抱き締める。自分のために命を懸けて戦ってくれた少年がとても愛おしかった。両腕に力が込められ、女性特有の柔らかい感触を押し当てられて龍一郎は顔を真っ赤にさせる。

 

「あの、黒歌先生。その……ありがとうござい、ます///」

 

 離れてくださいと言う訳にもいかず、龍一郎は一言礼を言った。私のヒーロー。その言葉が自分の身の丈に合っていない不相応なものだと分かっているが、言われて悪い気はしなかった。

 

 

 

 

「やっぱり、行かれるんですか?」

 

「うん。今回みたいなことがあった以上、また同じことが起こらないとも限らないにゃん」

 

 今回は退けられた。しかし、次も同じ様に出切るとは限らない。これ以上龍一郎を巻き込まないため、黒歌は一ヶ月間過ごした場所を離れる決心をした。

 

「寂しく、なります」

 

「こらこら、男の子がそんにゃ情けない顔しちゃ駄目よ。ヒーローを目指してるんでしょ? だったら、何時だって格好良くにゃいと」

 

 努めて明るく振る舞っている黒歌に龍一郎は落としていた視線を上げる。口調はどうにか普段どおりにしているが、声音と表情にはここ(というか龍一郎)から離れたくないという感情がありありと浮かんでいた。

 

「それに元々『風王纏鎧』が完成したらまた旅に出る予定だったし、それが偶々今日だったってだけの話。と言う訳で、ここまで良く頑張った。これ以上教えることは何もにゃい……にゃんちゃって♪」

 

 可愛らしくウィンクする黒歌。龍一郎も朗らかな笑顔で応えた。二人の心にしこりを残すような別れはお互いのためにならない。だから二人は笑顔で別れを告げ合った。

 

「じゃ、行くね。バイバイ」

 

 龍一郎に背を向け、黒歌は歩いていった。数歩も進まない内に足が止まりそうになり、振り返って龍一郎の胸に飛び込みたい衝動に駆られる。

 

(この馬鹿! もう決めたことでしょ。視界から見えなくなって何秒もしない内に龍一郎に会いたいとか思うってもうほとんど病気じゃない!)

 

 そう、彼女は不治の病に侵されていた。恋の病にね!!

 

 m(__)m(ごめんなさい)

 

「黒歌先生!」

 

 どうにかまた歩き始めた黒歌の決意をへし折るかのように龍一郎が声をかけてくる。大義名分が出来たと黒歌は突風を巻き起こしそうな速さで振り返った。視線の先には背筋を伸ばした龍一郎がいた。

 

「今日までのご指導ご鞭撻、本当にありがとうございました。一ヶ月という短い期間でしたが、とても充実してました」

 

 腰を直角に曲げ、深々と頭を下げる。上げられた顔には何時もの温和な笑みが浮かべられていた。

 

「何時でも帰ってきてください。あの家はもう黒歌先生の家でもありますから。だから、また会いましょう」

 

 この溢れ返りそうな喜びをどうやって言葉にすればいいのだろうか。黒歌の知識の中に今の彼女の心情を表現出来そうな言葉は見当たらなかった。

 

「……うん! ありがとう、龍一郎。またね!」

 

 短い言葉に万感の想いを込め、黒歌は泣き笑いしながら手を振る。そして今度は足を止めず、猫に姿を変えて山中へと消えていった。

 

「……行っちゃったか」

 

 後に残されたのは喪失感に胸を穿たれた一人の少年だけだった。開いて右手に視線を落とし、強く強く握り締める。無力という言葉をこれでもかと痛感させられた。

 

『俺が守ります。だからずっと一緒にいましょう』

 

 こう言えれば良かった。でも、それだけの実力を龍一郎は持っていなかった。

 

「強く、なりたいなぁ……いや、なりたいんじゃない。なるんだ」

 

 瞳に決意を宿し、龍一郎は帰路についた。英雄になれるかどうかは分からない。でも、恩人一人を守れるように強くなろう。与えられただけの少年が初めて力を求めた瞬間だった。

 

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