赭石のイアーティス ───What a beautiful dawn─── 作:6mol
ただ一章完結までは駆け足で。
─────走る。
─────走る。
─────走る。
歪んだストリートを、脇目も振らずに走り抜ける。自らの意思ではなく、背後の恐怖に追い立てられるように。魑魅魍魎さえ追い立てる、根源的な恐怖を呼び起こすあの叫びを前に、脆弱な私は逃げることしか赦されない。
ここが瓦礫の街じゃなくて良かったと、今だけは心から思う……だって、瓦礫の上では走る事さえ出来ないのだから。
───足元の石に足を取られて転倒なんて、そんなの全然笑えない。
石に躓く人生……冗談じゃない。
『─────!!!!!!』
「─────っ」
後ろから聞こえて来る、あの悪夢の声によく似た叫び。聞いているだけで、私の心臓が止まったかのように萎縮して、恐怖に足を取られそうになる。
─────振り向けない。怖くて、怖くて。
《
《大洞窟》の人々に安寧という名の死を与える、この街に舞い降りた天使の1つ。
「どうして……っ!追いかけて来るのっ!」
返答はない……当然だ。聞こえてくるのは道路と建物を壊す破壊音のみ。ひどく暴力的な音だ……私の大嫌いな音だった。
《崩落》を思い出す恐ろしい音だった。
「……っ…ぅ…」
知らずの内に涙が溢れ、視界が滲む。恐怖と困惑からくるそれは、どんなに願っても止まってくれない。
怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い……
この街はなんなの。どうして私は追いかけられているの。
思考がごちゃごちゃになって、出てくるのは結局現状に対する嘆きだけ。
「どうすればいい?……考えて、考えるんです……絶対に何かあるはず」
そう、あるはずだ……この街に入る事が出来たのだから、出る事だって出来るはず。
「─────《出口》……《出口》を探さなきゃ」
私はどうやってここに来た?
私は何を追いかけてここに来た?
─────白い蝶。
あれが……あれが何か関係がある筈。
そう思わなければ……走れない。希望がなければ頑張れない。
だから、私にできる事はただひたすらに「希望」を信じる事だけ。
飛び込むように路地に入る。狭い路地だ、あの異形の巨大ならば入ってこられないはず。
当たり前の様に考えるが、そもそもを私は失念していた。
『──────────!!!!』
すぐ後ろで響く破壊音。振り向くと、異形がその腕で建物を破壊し、路地に無理やり入って来ようとしていた。
───あぁ、そうか。追いかけてくるのは、真なる異形だった。
路地に入り込んだくらいで撒けるはずがなかったのだ。少し考えればわかること。
恐怖で、正常な思考ができていなかった?
『ここにいれば大丈夫』という安心感を求めすぎて、路地を安全だと錯覚していたのか。
───この鬼ごっこに安全地帯などないのに。
「───離れなきゃ!」
真横の壁に亀裂が走る。このままでは建物の倒壊に巻き込まれてしまう!
「───っ!!」
小さな瓦礫が頭に当たる。
痛い。痛い。鈍い痛みが駆け抜ける。
流れてきた血が右眼に入る。
まずい、視界が狭まってしまった。立ち止まりたいけど、立ち止まったら終わってしまう。
足は止められない、走りながらでは拭えない。
流れる血をそのままに路地を駆け抜ける。路地に入ったのは致命的としか言い様がない。
走る。走る。路地の出口を目指して、一目散に駆け抜ける。
目の前にある壁を見て一瞬行き止まりかとヒヤリとしたが、死角である右に通路があった。
その角を曲がる。ここに出口が……と望みをかけたのが一瞬。
「───うそ」
前方に立ち塞る、壁。
正真正銘の袋小路。到底手が届かない位置にある窓があるのみで、行き着いた先は逃げ場などない死地だった。
「───いやだ」
知らずのうちに声が漏れる。赤子の様に涙が溢れる。
こんなの、こんなのってないよ。なんで行き止まりなの?
理不尽な思考が頭を巡り、弾ける。真っ白になって、考えが覚束なくなる。
「───あ……れ……?」
ストリ、とその場に膝をつく。
あれ?おかしい、足に力が入らない。逃げなきゃいけないのに、足は震えるばかりで動こうとしてくれない。
───そもそも、逃げることなどできないのだけれど。
『───』
気配を感じ、振り返る。すると……
「─────」
───異形の瞳と、目があった。
右目が血の様な赫。そして……
左目が猫の様な
血の様な涙を流し続ける、大型の異形が目の前に迫っている。
人型の様なシルエット、いいえ違う。
『必死に人型であろうとしている』様な歪な造形。目が付いている顔に当たるであろう部分は今にも泣き叫ぶかの如き形相をしている。
───ああ、この姿はあれに似ている。
かつて学院で読まされた医学読本。その中にあった『畸形』の写真に酷似しているのだ。
あの時は読んでいる時も……失礼だけど、怖いと思ってしまった。挿絵を直視できない位には。
けれど、今、眼前にはその畸形……いや、それを超える程に醜悪な存在が迫っている。
『AAAAAAAAAAAA───』
その声を聞くたびに、私の心は擦り切れていく。気が触れる直前、とは今の状態の事なのだろうか。
絶望しているはずなのに、無意識のうちに口角が上がっていく。乾いた笑いが口から漏れる。
異形がその口を開く。───食べる、のだろうか、私を。
死ぬ。死が明確に形になっていく。その開いていく顎は地獄への門めいて、喉奥の深淵が手招きを始める。
飲み込まれる。死ぬ。
─────────嫌だ。
嫌だ、お願い、やめて、まだ、死にたくない。
死にたくない。私は、まだ、何も成せていない。
───けれど。
「……?」
いつまでたっても、暗闇が訪れない。
恐る恐る目を開く。すると……
『──────────』
異形が、私の身体を、顔を、覗き込んでいた。
じっくりと、繊細で微細な生物を注視するかのように。
まるで───『そうであって欲しくない』と懇願するかのように。
「え───?」
ギロリ、と黄金色をした左目が私を睨め付ける。今度こそ、私は体を固まらせた。
ゆっくりと異形が私に向かって
殺される──────
覚悟を決めたその時。
「上だっ!手を伸ばせ嬢ちゃん!」
言葉の通り、上からの大声。その声につられて私は上を見上げる。
するとそこには、此方に手を伸ばしている……男の人がいた。
その人は、高い位置についていた窓から身を乗り出して私に手を伸ばしてくれている。
誰───?
いや、誰でもいい。その手は、その腕は、窮地を救ってくれる釈迦の手から溢れた糸に他ならない。
無我夢中で手を伸ばし、その腕に掴まる。すると、物凄い力で上に引き上げられたかと思うと窓に引っ張り込まれた。
引っ張り込まれる直前、ちらりと下を覗く。
すると異形は……まるで、見送るかの様に私のことを見つめていた。
───ただ、ずっと、何もせずに。
* * * *
「茶でも飲むかい?」
そう言った男の人は、柔らかな椅子に私を座らせるとニコリともせずにお茶を淹れる。
見えなくなったとはいえ、すぐ外にはあの異形がいる。こんな所でのんびりとしていていいのでしょうか───
「安心しろ。やっこさんはここにゃ入ってこれねえよ」
逆に言えば、ここ以外に安全な所なんてないがな───
そう続けた男の人は私の対面に座ると、自分の淹れたお茶を飲んで落ち着いていた。私の目の前に置かれたお茶からは湯気が出ており、それが『暖かい飲み物』だとすぐにわかった。
「ここは中央機関街だぜ?全部じゃないにしても機関の1つや2つ稼働してらぁな」
吐き捨てる様にそう言うけれど、ユノコスに住んでいた自分からしてみればとんでも無い事だ。
「あの、助けて頂いて有難うございます」
「礼はいらん……貰う資格も俺にはない」
それはどういう───
聞き返そうとしたが、私の質問はそれを手で制した男の人に遮られる。
「そんなことより現状を知れよ。此処は安全だが、時間に余裕がある訳じゃない」
「現状?」
「そうだとも、
ティンダロス、というのはこの街の事だろうか。
それならば、私は白い蝶を追いかけていたら
その旨を彼に話すと───
「いや、それはない。それだけはない。偶然なんてあり得ない」
そう、断言する。
「えっと、何故ですか?」
「そうならない様に。嬢ちゃんがこちらに来れないように手を引いていた奴がいる……俺の知り合いだ」
そう答えた彼の目は、あらゆる感情がない混じりになっているように私には見えた。
「お前さん、あれを見ただろ。《霧の災厄》」
───《
見たなんてものではない。私はあれに追いかけられていたのだ。
「奴の目を見たか。奴の左目を」
───黄金の瞳の事を言っているのだろう、彼は。聞き返すまでもなくそうだとわかる。
だって、私もずっと気になっていたから。頭の片隅に引っかかって離れないから。
「お前さんにはわからんだろうな。『奴が既に黄金瞳を得ている意味』なんて」
「それは、どういう───」
「意味を知る必要は『まだ』無い。お前さんがやる事は1つ。たった1つだ」
彼は私の瞳を見据え、語る。私のやるべき事。私がこの世界で果たすべき事を。
「自分を知る事だよ。フィリア」
そう言って彼は笑う。けれど、違う。ええ、違う。確信できる、私には。
彼は笑っているのではなく。
───泣いている。
「外に出ろ。外に出て、あの異形と向き合ってこい」
「向き合うって───どうすればいいの?だって私は───」
あれがなんなのかも、わからないのに。どこから来たのかも、わからないのに。
「あれがなんなのかわからない? ───おいおい冗談言うな」
「え───」
「お前さんは、お前さんだけは知ってるだろうが。お前さんだけは知らないはず無いだろうが」
彼は断言する。彼は、私の瞳の奥をじっと見据えて私を責め立てる。
───知らない。私は、本当に知らないの。あの異形を、私は知らない。『知りたくない』の。
「本当は……わかってるんだろう?」
やめて。やめて。やめて。やめて。
聞きたくない……聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない───
「行ってこい───行って終わらせてこい」
* * * *
フィリアが出て行ったのを見届け、男は胸ポケットから煙草を取り出すと一本口にくわえて火を灯す。
蒸すように煙を吐き、揺蕩う白い煙を眺めながら瞳を閉じ、今出て行った少女の事を思い出し唸るように囁いた。
「俺には───わかんねえよ。あんた母親じゃねえのかよ」
まるで、何処かにいる誰かに愚痴を垂れるかの様に。
「いい子じゃねえか。よくできた子じゃねえかよ───あの子を差し出してまで、そんなに愛した男に会いてえのかよ」
落とした煙草を靴裏で捻り消し、男は悼むかの様に瞑目した。
「俺には───わかんねえよ、マイさん」
* * * *
お茶を残したまま、私は外へと出る。気温も何も感じない、風も何もない歪んだ景色。
私は歪んだ街路に1人立って、ただただ彼方に見えるツァト・ブグラを見つめていた。
───変わらない。
街並みは歪んで変わっても、ツァト・ブグラだけは変わらない。私が、小さい頃に見上げていた頃のまま。
『ほら?フィリアちゃん、これで見えるでしょう?』
家の窓は小さい私には少し高かった。だから、いつも私はお母さんに抱き上げもらっていたのを思い出す。
優しいお母さん。大好きだったお母さん。
《崩落》で私を庇い───いなくなってしまったお母さん。
悲しくて、悲しくて。もう、大切な人の死を見たくなくて。だから、私は───
───必死に、知らないフリをして。
『AAAAAAAAAAAAA───』
異形が蠢く。街路の先に異形が顕現する。
……わかってる。わかってるよ。わかってるんだよ。
さっきの男の人は言っていた。私は知っているはずだと。あれがなんなのかわかっていると。
必死に見ない様にしていた。必死に聞こえない様にしていた。……一目で、わかったから。
あの異形が涙を流しながら街を壊している様をみて……私は知ってしまったから。
《霧の災厄》がなんなのかはわからない。けど、『貴女』のことなら私は知っている。
『───AA…あ……ィ…ア…………!』
どうしてこんな所にいるの。どうして、そんな姿なの。
わからない。わからないよ。でも、苦しんでる貴女を見て……もう見て見ぬ振りなんてできないの。
「どうして───?」
どうして、貴女が───
『──────フィリア……』
「──────アーテル姉さん」
影の薄いヒーローエドさんの活躍は次話です。多分