堕ちた勇者は彼の地にて   作:胸焼け

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第15話 小さな変化

 ――酒場 『風人魚亭』

 

 店内に入った途端に広がる、濃厚な酒気。むせ返る様な酒の匂いの次に客を出迎えるのは、彼方此方の客席から垂れ流される賑やかな笑い声だ。只その場で立っているだけでも汗が滲んでしまう程の熱気に歓迎されつつ、その青年は真っ直ぐに目の前のカウンターへ向かい、空いていた席に腰を下ろした。

 

「いらっしゃい。飯か酒か、何にするんだ?」

「適当に見繕ってくれ」

「あいよ」

 

 新たな客の存在にいち早く気付いた店主の男が、カウンター越しから声を掛ける。

 店主から注文を聞かれた青年は静かに、しかし店内の騒音にも掻き消されない凛とした声で答えた。

   

「それと、この地域一帯の情報が知りたい」

「ああ? 悪いが、見ての通り今は忙しいんでな。そんなお喋りしてる暇なんざねぇよ」

 

 青年の問い掛けに露骨に嫌な顔をした店主は、大勢の客で混雑している状況を指し示す様に顎をしゃくり、不愛想に吐き捨てる。すると青年は席の下から右腕を伸ばし、傍にあった空のグラスの上に握り拳を乗せた。

 

「そう長々と時間を取らせるつもりは無い」

「アンタも頑固な奴だな。他を当たれって言ってんのが分かん……」

 

 さも面倒だと眉間に皺を寄せた店主の耳に、鈴の鳴る様な透き通った音が響く。

 見れば、ゆっくりと開かれていく青年の手から黄金色に輝く滴が零れ、空のグラスを半分程まで満たしていた。

 

「難しいというのなら無理強いはしないが」

「……ま、まぁ待て。誰も無理だとは言ってないぜ。そういうコトなら話は別だ」

 

 店の喧噪に紛れてこっそりと黄金色のグラスを手元に引き寄せた店主は、ニヤリと口元を緩ませながら中身を懐に仕舞い込み、青年の方に向き直った。

 

「んで、一体何が知りたい?」

「先ずはこの街の神殿について詳しく教えて欲しい」

「神殿……と言やぁ、バリハルト神殿の事か。なんだ、アンタもしかして入信希望……って風には見えないな。まぁ良いぜ」

 

 ……バリハルト神殿。

 ラウルバーシュ大陸、西方と中原の中間に位置する土地、スペリアを総本山としている。

 信仰する現神は、嵐の神バリハルト。開拓の神としても有名であり、辺境や開拓地、そして世界中の冒険者から広く信仰されている。か弱き人間達を凶悪な魔物から護り、膨大な量の信仰心を集めた事によって、光側の現神の中でも特に力のある第一級神としての格を得るまでに至る。その影響力は計り知れない。三神戦争の勝利の立役者と讃えられ、同じく世界中に多くの信徒を抱える光の第一級神、軍神マーズテリアに次ぐと称される程である。

  

 数十の地方教区は、スペリアの総本山から派遣された大司祭を最高責任者としてそれぞれ管理している。青年の居るマクルの街を含むセアール教区ならば、担当は大司祭“オレノ・ユムパナキ”だ。

 

「中々目にする機会はねぇが、噂だと敬虔で温厚な人物らしい。それから、有益な情報が一つあるぜ」

「何だ?」

「この街の女神官は美人揃いなんだがよ。中でも神官長のラウネーって女はとびきりの美人で、オマケに乳もデカい!」

「…………」

「っておい待て! 冗談だって!」

 

 下品に笑いながら胸の前で大きく二つの丸を描いた店主を見て、青年は何も言わずに席から立ち上がった。

 そのまま出口に向かって歩み出した青年を、ふざけていた店主が慌てて引き留める。

 

「はぁ、冗談の通じない野郎だぜ全く! それより、今度は本当に有益な情報だ。正確に言えば有益な“噂”だな」

「美人の噂か?」

「だから悪かったって! いいからちょっと耳を貸せ!」

 

 訝し気に顔を顰める青年に平謝りをしてから、店主は上半身をカウンターに乗せて青年に耳打ちする。

 

「実はよ……この街の神殿にはヤバい代物が保管されているらしいんだよ」

「……一応聞いておくが、その噂は何処から流れてきたんだ?」

「そんなあからさまに信じてねぇって顔すんなよ。ま、俺も嘘臭いとは思うがよ」

 

 そう言って店主は青年に語る。何でも、裏通りにある娼館にお忍びでやってきた一人の神官が、相手の女性にうっかり喋ってしまったのが裏で静かに広まっているらしい。

 普段は神殿の最奥部にある祭壇で幾つもの封印を重ね、厳重に管理しているとされる、とある一つの神器。

 神の器とは名ばかりでその実、直視した者の精神を犯し、まるで心の奥底に眠る悪意を無理矢理引き出される様だったとその神官は恐ろし気に語ったとか。

 

「神官はその神器を“ウツロノウツワ”と呼んでいたらしいぜ」

「……ウツロノ……ウツワ……か」

「神殿がなんでそんなモノを所有しているのか、そもそも何処で手に入れたのか。不可解な事だらけで信憑性も低いが……それでも、知っておいて損は無いだろ?」

 

 厳しい修行を積んだ高位の神官でさえ、長くその場に留まれば気が触れてしまう程の禍々しい“モノ”。 

 青年が店主の話を頭の片隅に仕舞っていたその時、偶然なのか同じ酒場で酒を呑んでいるバリハルトの関係者がいた。

 

「……つまり、今回も俺の活躍のお陰で無事に任務を遂行したって訳だ」

「ダルノス、貴方のお陰じゃないでしょう? 貴方と坊や達、みんなのお陰。そうでしょう?」

「ハッハッハッ! そうだな、確かに俺だけじゃ奴等相手に話し合いなんて選択は出来なかっただろうな」

 

 店の奥の比較的静かな一角に配置された円卓を囲み、和やかに談笑している二人の男女。赤いバンダナを頭に巻いた男が、酒を片手に陽気に笑う。

 日に焼けた身体は逞しい筋肉の鎧で覆われ、席の横に立て掛ける様にして置かれた二振りの長剣は、外から差し込む日光を反射し眩く輝いている。一見して勇猛な戦士を彷彿とさせる男に、対面の席に座っていた妖艶な女が可笑しそうに口元を押さえ、相槌を打つ。

 

「フフフ、それに貴方も無事で良かったわ。鉄屑の谷で倒れたって聞いた時は本当に心配したのよ?」

「あー……あん時はあれだ、少し油断しちまっただけで……おいおい、そう怒んなって! 今度お前の店に寄ったらサービスしてやるから――」 

「よぉー兄ちゃん! なんだ、辛気臭い面してんなぁ!」

 

 顔色の変わった女の反応を見て、慌てて男――ダルノスが女に謝ろうと席から腰を浮かせたのと同時、店中に響く程の大声がダルノスの耳に入った。声が聞こえた方向、つまりカウンターの前に目を向けてみると、恰幅の良い中年の男が隣の席に座っている金髪の青年に何やら因縁を付けているようだった。

 

「女みてぇに白い肌しやがって、手にはタコ一つありゃしねぇ。良いトコの坊ちゃんがこんなむさ苦しい場所に何の用だ? ガハハハ!」

「ちょっとお客さん、困るよ!」

 

 物静かな青年に向かって酒臭い息を吐きながら大笑いする中年の男。カウンター越しの店主が注意しても、気にも留めていない。

 その光景を見たダルノスはやれやれと溜息を吐いて、席から立ち上がる。

 

「ゲーエの野郎、アイツまた悪酔いしてやがるな。……ったく、仕方ねぇ野郎だ」

「ダルノス、あまり手荒な事は駄目よ」

「分かってる、あんなんでも一応ダチだからな。なぁに、ちょっと注意してやるだけさ」

 

 心配する女に軽く手を振りながらダルノスはカウンターの方へと歩いていく。

 だが、面倒事を作る友人をダルノスが止める前に、調子に乗った男は店主以外にカウンターの中に居た店員を手招きしていた。

 

「おい、ミルクだ! ミルクを寄越せ!」

「は? あ、いえ! か、かしこまりました」

「よぉし……ほらよ兄ちゃん、俺の奢りだ!」

 

 動揺する店員から一杯のミルクを受け取ったゲーエは、あろうことかそれを青年の目の前に置いてしまう。 

 

「ガッハハハ! 坊ちゃんには酒じゃなくてソイツがお似合いだぜ!」

「…………」

「どうした? 遠慮しなくていいんだぜ。それともアレか、ママのおっぱいのが良かったか?」

 

 濁声で汚く笑うゲーエに対して、青年は口を閉じたまま一言も言葉を発さない。

 代わりに返って来たのは、カウンターの上を鮮やかに滑り、音も無くピタリと止まった一杯のミルク。手元に戻って来たソレを見て、上機嫌に笑っていたゲーエの雰囲気が剣呑なものへと変わっていく。

 

「あん? おかしいな、俺の目の前にミルクがあるぞぉ? コイツは一体どういうことだぁ?」

「…………」

「グハハハ! おいおい、兄ちゃんよ…………いつまでも無視してんじゃあねえぞコラァ!!」

 

 笑みから一転、激高したゲーエは怒鳴りながらミルクの入ったグラスを青年の足元に思い切り叩き付けた。

 しかし、それでも青年は何の反応も起こさない。そんな彼の態度に増々苛立ちを募らせたゲーエが青年の胸倉を掴もうと手を伸ばすが、その手は横から現れた第三者の手にがっしりと掴まれる。

 

「いい加減にしろ、ゲーエ」

「ああ!? テメェ誰にもの言って……ッ!」

 

 邪魔された事に腹を立てたゲーエが苛々と横を振り向くが、其処に立っていた男の顔を見て思わず言葉が詰まる。

 目の前に立つ男は、屈強な戦士が集うこの街でも指折りの実力者だったからだ。

 

「よう、今日は随分と威勢が良いじゃねえか」

「だ、ダルノス!? いや、これは違うんだ! まさかお前だとは思わなくてよ!」

「んな事はどうでもいい。それより、ちょっくらコイツを借りてくぜ」

 

 冷や汗を流すゲーエの前に割り込み、ダルノスは青年の肩に手を置く。すると今まで一切の反応を見せなかった青年が初めて首を動かし、ダルノスの顔を一瞥する。冷めた目をした青年にダルノスは笑顔を向けて、くいっと片手でグラスを傾ける動作をした。

 

「どうだ、一杯付き合わねえか? 金は俺が払うぜ、今回だけな」

「……私は構わない」

「よし! それじゃ奥まで来てくれ、連れを紹介するぜ」

 

 静かにその場から立ち上がった青年に、こっちだとダルノスが店の奥にあるテーブルまで案内していく。が、その途中でダルノスは歩きながら後ろを振り返ると、カウンターでまた呑気に酒を呑み始めていたゲーエに内心で舌打ちする。

 

(喧嘩を売るのは勝手だが、相手は選んどけよな……後で浮いた治療代でも搾り取ってやるか)  

 

 神殿の戦士という命懸けの日々を送っていながら相手との実力差も察せない男に、ダルノスは今日二度目の溜息を吐く。同時に、背後の青年に同じ戦士として興味を抱き、口元に小さく笑みを浮かべた。

 

 

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 ――その頃、市場では。

 

「アンタいつまで落ち込んでるのよ。いい加減切り替えなさいな」

「な、何言ってんだよ! 俺は別に、落ち込んでなんか……」

「そんな強がっちゃって。アンタの事はお姉ちゃんがイチバンよく分かってんの!」

 

 オルステッドが去ってから暫く立ち尽くしていたセリカだったが、姉であるカヤからの叱咤もあり、取り敢えずはその場から移動しようと足を動かす。しかし、見るからに意気消沈した様子のセリカにカヤはやれやれと肩を竦めた。

 

「そんな調子じゃ、次の任務にも影響しちゃうわよ」

「なぬ、任務とな? 面白そうじゃの。カヤよ、我に詳しく話してみよ」

 

 二人の横を歩いていたクルージェがカヤの言葉に反応し、興味深そうに彼女らの会話に参加する。 

 

「悪いけどそれは駄目。部外者には言えないのよ」

「なんじゃと! 高貴な我にも言えぬと申すか!」

「言えませーん。これは神殿に関わる内容だから、部外者に漏らしちゃいけないの」

「むぐぐ……なんと薄情な奴じゃ!」

 

 だが、クルージェの期待に答える事もなく、カヤは背中に擦り寄って来たクルージェをさらりと払い除ける。

 彼女の対応に憤慨したクルージェが後ろから抗議の声を上げるが、特に気にせずスタスタと通りを歩くカヤ。一緒に居たサティアは微笑を浮かべながら二人のやり取りを見守っていた。

 そうこうしている内に一行は市場の中心を抜け、その先の住宅街へと歩を進めた。人通りもまばらになり、周囲に溢れていた雑音が背後に追いやられる。青空と心地よい静けさの下、次は何処に向かうのだとクルージェが尋ねようとした時、一行の前からカツカツと小気味良い足音が近付いてきた。

 

「……あら、カミーヌじゃない」

 

 近付いてくる存在に気付いたカヤが、その人物に声を掛ける。

 彼女の身に着けている深緑の法衣はカヤと同種のもの。布地が少なく、露わになった白い太腿や二の腕が目に眩しい。聖職者にしてはやけに肌の露出が多いのは、魔物との戦闘時に支障が無いよう動き易く設計されている為だ。

 

「……フン」

 

 気さくに声を掛けてきたカヤに、金髪の女――カミーヌが鼻を鳴らし、不機嫌そうに眉を顰める。

 

「随分と楽しそうだこと。民を守るべき神官が、呑気にお買い物かしら?」

 

 くだらない――と冷たく吐き捨てたカミーヌにカヤは一瞬だけ呆気に取られるも、すぐに気を取り直し、横を通り過ぎようとしたカミーヌに食って掛かる。

  

「なによ、そんな言い方しないでもいいじゃない! アタシが買い物しちゃ悪いかしら!?」

「私は事実を言ったまでよ。それじゃ、忙しいから失礼するわ」

「まぁ待て、そう急ぐ事もなかろう」

 

 怒りで顔を赤くしたカヤの表情を見詰めながら、あくまで冷静に彼女の文句を切り捨てるカミーヌ。大の男も震えあがるだろう怒気に曝されて尚、涼しい態度を崩さないカミーヌの前に立ち塞がったのは、不敵な笑みを浮かべるクルージェだった。

 

「……其処をどいてくれないかしら? 言ったでしょ、私は暇じゃないの」

「ほうほう。成る程、この匂いはやはり……」

「ちょっと聞いてるの? そもそも、貴女は誰なのよ!」

 

 話を無視され、苛立ちで声を荒げたカミーヌにぐいっと顔を近付けるクルージェ。互いの唇が触れそうなぐらい間近まで迫られたカミーヌから、動揺と引き攣った声が漏れる。

 

「な、なによ……?」

「フフフ。そなた…………ずばり、女子が好きであろう?」

「――ッ!?」

 

 耳元で囁かれた言葉を理解した瞬間、強気だった彼女の顔からさっと血の気が引く。

 

 この女は今、何と言った? 

 何故、それを知っている?

 

「おっと、何処に行く気じゃ?」

 

 考えるよりも先に身体は動いていた。一刻も早くこの女から離れようと踵を返し、全力で逃げ出そうとした……が、それよりも速くクルージェの腕が背後からカミーヌの腰に巻き付く。

 

「やっ……離して! なんなのよアンタ!?」

 

 強引に振り解こうとするも、腰に巻き付いた腕はまるで万力のように固く、いくら暴れても揺らぐ気配さえ無い。

 必死なカミーヌとは対照的に、背後から密着するクルージェは喜色満面と言った笑みで細指をワキワキと動かし、張りのある肌の感触をじっくりと堪能していた。

 

「我の偉大さに関しては後でよぉく教えるとして……これ、あまり暴れると周りの人間共が不審がるぞ?」

「ッ……くぅ……!」

 

 クルージェの囁きに、抵抗していたカミーヌが悔しそうに押し黙る。

 周囲を歩く通行人は元より、すぐ近くに居たカヤ達はいきなりカミーヌに抱き着いたクルージェの奇行に目を白黒とさせていた。

   

(下手に暴れて、もしコイツが私の秘密をばらしてしまったら……!)

 

 最悪の事態を予想し、顔を青くするカミーヌ。

 抵抗していた腕を下ろして彼女が大人しくなると、クルージェは片手だけ離し、残る片手を彼女の腰に添えたまま背後のカヤ達に爽やかな笑顔を見せる。

 

「カヤ、サティア。ついでにセリカよ。暫しの間、我はこの娘と街を散策してくるぞ」

「あ、ちょっとクルージェ!」

 

 何処かに行こうとする二人をカヤが引き留めるが、基本的に話を聞かないクルージェには無駄な行為である。更には一緒のカミーヌからもついて来るなと睨まれ、結局街の奥へと消える二人を止める事は出来なかった。

 

 

 ――路地裏。

 

「思わぬ収穫と言ったところか。魔力の量も質も悪くない。可愛らしい娘であるというのが、何より素晴らしいのぉ」

「こんな事をして、只じゃ済まない……ぅあっ!?」

 

 カミーヌの声を無視し、クルージェは彼女を行き止まりの石壁に乱暴に押し付ける。

 

「ぐっ……今すぐ止めなさい! 今ならまだこの蛮行も見逃してあげるわ!」

「イヤじゃ」

「っ……! 嫌って、そんな……!?」

 

 背中に伝わる痛みと冷たい石の質感。深く入り組んだ路地裏の奥に連れ込まれ、叫び声を上げても彼女の危機に駆け付けてくれる者は一人もいない。決して助けの来ない絶望的な状況を理解しながら、それでも気丈に相手を睨み付ける。だが、その身体は恐怖で小刻みに震えていた。

 

「綺麗な肌をしておるの。フフ……何より、そなたの初心な反応が実にそそられる」

「……ッ……や、ぁ……!」

 

 覆い被さるように全身を押し付け、クルージェの指がカミーヌの肌の上を滑る。触手の様に蠢く細指が薄い生地の隙間から内部に潜り込み、カミーヌの口から悩ましい声が漏れる。

  

「安心せい、我に疾しい気持ちは無い」

「どの口が言って……んむッ!?」

 

 反論しようと口を開いたカミーヌの視界に紅が広がる。唇に感じる、柔らかくて温かい感触。痺れる様な快感が身体の芯を貫き、力が抜けて倒れそうになった彼女をクルージェの両腕が支える。重なり合った二つの顔が漸く離れると、二人の口元から透明な糸が垂れた。

 

「卑怯者……こんな、事で……私は屈したりなんか……!」

 

 クルージェを突き放そうと身体を持ち上げるカミーヌ。しかし、両足に力が入らず、転びそうになったところを再び受け止められる。白い肌には羞恥で赤みがさし、全身に薄っすらと汗が滲んでいた。

 汗で貼り付いた彼女の前髪をクルージェが指で除けてやると、荒い息を吐くカミーヌの潤んだ瞳と目が合った。

 

「や……めて……それ、以上は……んッ……!」

「我慢する必要は無い。それに、己の嗜好を恥じる必要も無いのだぞ?」

「な、なに言ってんのよ……だって、そんなの……あっ……」

 

 崩壊寸前の理性を必死に繋ぎ止めていたカミーヌを、クルージェは母親が我が子にするような優しい抱擁で包む。

 快楽とはまた違う、それは心の安らぐ温かさだった。ぎりぎりの線で踏み止まっていたカミーヌは、不意に与えれた温もりに抗えず、膝を着いてその場にへたり込んでしまう。 

 

「可哀相な娘じゃ。その様子だと普段から隠していたのであろう。普通ではないと、周りから軽蔑されるのを怖れて、素直になれずにおったのじゃな」

「……勝手な事、言わないでよ……他人の貴女に……私の何が分かるっていうの……」

 

 頭上から降り掛かる慈しみに溢れた言葉の雨が、カミーヌの中に染み込んでいく。

 正常な判断など出来ない。何が正しくて、何が間違っているのかを考える余裕なんてない。口ではクルージェを拒んでいるが、熱に浮かされた目は確実に()()()を求めていた。

 

「何も分からぬよ。じゃから、これから理解するとしよう。そなたの心の奥の、隅々に至るまでのう」

「だ、だめ……もう、ほんとうに……」

 

 形だけの抵抗を口にするカミーヌの頭を撫で、抱きしめるクルージェ。

 紅い瞳が妖しく輝き、穏やかな眠りを誘う色香を含んだ靄が二人の姿を隠すように周囲に満ちる。

 

「そなたの傷を甘美な蜜で癒してやろう。さぁ、我に全てを委ねよ。今だけは現を忘れ、泡沫の夢に溺れるがいい」

 

 クルージェの手が下腹部に忍び寄っていく。

 甘く囁かれ身悶えした直後、カミーヌは直後にやってきた衝撃に目の前が真っ白になり……完全に抵抗を止めた。   

 

 

          ・

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 ――酒場、『風人魚亭』。

 

「ハッハッハッ! ソイツぁ傑作だ、まさかそんな状況で断るかよ普通!」

「ウフフ、そんなに笑ったら坊やに失礼でしょ?」

 

 先ほどの一悶着から暫くして。

 

 ダルノスに席まで案内されたオルステッドは、先に座っていた艶やかな女性――セミネという名の娼婦を加え、三人で酒と談笑を交えていた。

 ……とは言っても、愉快気に笑う二人とは対照的に、オルステッドは口を一文字に結んだままにこりともしない。最初は機嫌が悪いのだろうと思っていた二人だが、どうやらそうでもないらしい。話題を振れば必ず返すし、物静かではあるが言葉に棘は無い。大人しい性格なのかと思えば、弟分みたいな小僧の嘆願をあっさり断るなど、以外と厳しい一面も持っている。

 兎に角、少なくともこの男は一部の()()()()()人種じゃ無い事だけは二人ともはっきりと理解していた。

 

「余所者が茶々を入れずとも彼は十分に強い。頼もしい師も傍にいる様だしな」 

「おっ、ソイツぁもしかしなくとも俺の事か? ハハハ、それ程でも有るぜ!」

 

 暗に自分の事を持ち上げられ、照れなのか酒のせいなのか判断に難しい赤ら顔で胸を張るダルノス。気を良くした彼は通りがかった店員に料理と酒の追加注文を頼み、その様子に隣の席のセミネが苦笑する。

 

「もう、乗せられ易い(ヒト)ね。そんなに後先考えずに注文してたら、後で泣きを見るわよ?」

「いいんだよ、金が無くなったらその辺で獲物を狩って自分で料理するだけだ」

「はぁ……もういいわ、貴方の好きにして頂戴」

「あー? どうしたセミネ、また不貞腐れて……ああ、最近抱いてやってなかったから溜まって――痛ぇッ!?」

 

 酔っ払ったダルノスが情けない悲鳴を上げる。

 オルステッドの位置からでは見えないが、この時テーブルの下ではセミネがハイヒールの踵でダルノスの足を躊躇い無く踏み付けていたのだ。

 引き攣った笑顔のセミネは痛みに喘ぐ男から目を逸らして、不思議そうにダルノスを眺めていたオルステッドに「気にしないで」と微笑む。 

 

「彼、剣と料理の腕は確かなんだけど、ちょっとデリカシーに欠けているのよね」

「……そうか。だが、悪く言う割には随分とこの男を信頼している様に見えるが」

「あら、そうかしら? うーん……何だかんだで付き合いも長いからねぇ。知ってる? 彼って今でこそこんな感じだけど、昔は相当荒れていたのよ」

「ほう……」

 

 昔を懐かしんで顔を綻ばせるセミネをオルステッドがじっと見詰める。

 今の彼女は男達に身体を売る娼婦としての笑顔ではなく、一人の男に想いを寄せる女の顔をしていた。

 

「……こんなにも自分を想ってくれる女性が傍に居るとは。この男も幸せ者だな」

「所詮は馬鹿な娼婦の勘違いよ。そうだ、今度私の店に遊びに来ない? 貴方なら店の娘達も夢中になっちゃうわよ」

「いや……折角の申し出を悪いが、私には無用だ」

「まぁ、勿体無い。ウフフ、清廉潔白な騎士様だコト」

 

 冗談めかして明るい笑みを浮かべたセミネの誘いを、オルステッドは静かに断る。

 少しも迷う事無く断った青年にセミネは生暖かい視線を送り、頑なな彼の態度に「それもそうね」と微笑ましく呟く。

 

「だって、貴方の目は一人の女性だけを見ているもの」

「…………なに?」

 

 彼女の発言に驚いたのか、少し間を置いてからオルステッドがセミネに聞き返した。

 

「図星かしら? 女はそういうコトに敏感な生き物なのよ。特に、こんな商売をやっている私達みたいな女はね」

「……」

 

 氷の様に冷たい目が僅かに揺れ、明らかに動揺している彼を見てセミネはつい笑いを噴き出してしまう。沈黙してしまったオルステッドにやんわりと謝り、ふと隣を振り向く。

 そういえば妙に静かだなと視線を向け……円卓の上に突っ伏していびきを立てているダルノスが目に映った。

 

「あらあら。眠っちゃったわ、一番の目的も忘れて」

 

 円卓を占領して眠っている男を見下ろし、セミネは苦笑いを浮かべる。

 毛布の一枚でも掛けてあげようと彼女が考えた矢先、オルステッドの座っていた椅子がガタッと動いた。

  

「邪魔者は失礼させてもらおう」

「もう帰っちゃうの? 気にしないでいいのよ」

「これ以上は酔ってしまう。この男みたいに醜態を晒す訳にもいかないからな」

「フフ、それなら仕方無いわね。時間があったら、またみんなでお話しをしましょう? 今度は坊や達も一緒にね」

 

 艶やかな唇を震わせ、妖艶に笑う彼女に見送られつつオルステッドは酒場を後にした。

 

 

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「むむッ! やっと見つけたぞオルステッドよ!」

「……その声は」

 

 太陽が傾き、青空が燃える様な夕焼けの赤に染まる頃。

 宛ても無く街を彷徨っていたオルステッドの背中を、聞き慣れた声が引き留める。 

 

「クルージェか……何処を歩いてい――」

 

 振り返るのとほぼ同時に、物理的な衝撃がオルステッドの懐を直撃する。

 かなりの勢いだったのか両足を若干後退させつつも、目の前に飛び込んで来た女を身体で受け止めきったオルステッドは、その態勢のまま首だけを下ろして視線を女に向ける。

 

「ムフフフ……」

「何をやっているんだ、お前は」

 

 しがみ付いた状態で得意気に笑うクルージェに、どんな反応をすればいいのか分からず、動きかけた両手が宙で止まる。

 

「フッ……今日は実に有意義な一日であった。新たに下ぼっ……同志も得て、我は更なる高みへと昇ったのだ」

「……言ってる意味はよく分からないが、楽しそうだな」

 

 ……何故だろうか、重苦しく一日を過ごしていた己が滑稽に思えてしまう。

 引き剥がすのも億劫だと、彼女が満足するのを待つ事にしたオルステッドは近くの崩れた石垣の上に腰を下ろした。

 

「何か変化でもあったのか?」

「ムフフ、我をよぉーく見てみろ」

 

 クルージェの言う通りに、彼女の顔を観察するオルステッド。

 頭の後ろで一つに纏められた髪は空に浮かぶ夕日よりも鮮やかだ。髪留めから翡翠の輝きが零れて落ちては、真紅の中に溶けていく。この街で新調したらしい同色のローブは豊かな膨らみによって内側から押され、見事に形作られた大きな段丘がオルステッドの胸板に挟まれて形を変えていた。

 

(……外見に目立った変化は無い。何処が変わったと言うんだ?)

 

 疑問の晴れないオルステッドは、最後にクルージェの顔を覗き込む。

 自信に満ちた紅玉の瞳。淫靡かつ鮮烈な光を帯びた二つの宝石が、いつにも増して強く輝いて―― 

 

「これは……魔力が増している? ……微妙に、少しだけだが」

「やっと気付いたか。やれやれ、やはりそなたは鈍感じゃのう……むおッ!?」

 

 首を横に振ってわざとらしく溜息を吐いたクルージェの肩を、宙で止まっていたオルステッドの両手が左右から押さえ込む。

 無表情で見下ろす青年のこれまでにない迫力に、流石のクルージェも冷や汗を流した。

 

「ま、待て待て待て! 話せば分かるッ!」

「クルージェ。お前は……」

「ち、ちょっとだけふざけ過ぎたのは謝罪しよう! じゃから早まるでない!」

「……お前は……」

 

 ――気付いているのか。

 

 そう言おうとして口を開いたオルステッドだが、しかし残りの言葉が出てこない。

 

(……今はまだ、いいか。今はまだ……)

 

 慌てふためく仲間の頭にポンと手を置き、「帰るぞ」と一言だけ告げてオルステッドが立ち上がる。オルステッドから手を離していたクルージェはその勢いで地面に転がり、呆けた顔で主人を見上げていたが、我に返ると慌ててその後ろをついて行く。

 

「ところで、何故魔力が増えているんだ?」

「迷える子羊に救いの手を差し伸べた、その報酬とでも言っておこうかの」

「……精気を奪うのは程々にしておけ」

「むぐっ!? う、奪ったのではない! 持て余していた分を少し分けて貰っただけじゃ!」

 

 性魔術は行使したが、今回は一方的に奪うものではなくお互いの魔力を高め合う形を選んだのだ。それに(結果的に)双方合意の上だから問題無いと力説するクルージェを放っておいて、オルステッドは夕日を背に歩き続ける。

 

「……あっ、さては嫉妬しているのだな? ムフフ、愛い奴よ。案ずるな、今の我はうら若き乙女しか相手にせぬ」

「……」

「今となってはそなた以外の男など欠片も興味が……む、むむ? ……どっ……何処に行った、オルステッドー!?」

 

 賑やかな仲間と共に、新たな地で新たな人々と出会ったオルステッド。

 そして、羨望の眼差しで彼の背を見詰める若き風――セリカ。

 

 “勇者”の物語が始まるまで、もう少し――

 

 

 

 

 

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