堕ちた勇者は彼の地にて   作:胸焼け

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第19話 半端者

 魔神。

 

 それは、この世界(ディル=リフィーナ)における絶対的強者という証。

 その力は生物としての常識を超え、世界の枠組みを貫き、神の定めた摂理を侵さんとする理外の理。

 

 他の生物と同様に一個の生命としてこの世界に根を張りながらも、些細な気紛れで国一つを滅ぼしてしまう理不尽の化身、それが魔神だ。天災の如き存在に人々は恐れ戦き、やがて神の奇跡に縋り付く。一心不乱に祈りを捧げ、そうやって彼等から信仰の力を得た現神らは己の使徒を遣わして世の調和を乱す魔神を討滅し、人々の安寧を守ってきた。

 

 しかし、時に現神も手を焼くような、魔神の中でも最上位に位置する存在が歴史の表舞台に姿を現す事がある。

 三神戦争を生き延びた、旧き世界の聖書に綴られる天使や悪魔。或いは各神話体系の神々に仕えていた使徒。魔神の正体として、大体はこのいずれかが該当するだろう。

 

 仮に、神の加護を纏った神格者が、上位魔神と一対一で刃を交えたとしよう。

 その場合、神格者側の勝算は限りなく低い。

 無に等しい……と言い換えるべきかもしれない。

 誤解してはいけないが、これは神格者が弱いと言っている訳ではない。そもそもの立ち位置が、次元が違うのだ。

 そもそも神格者とは才ある者達の中でも殊更に突出した才覚を持った者が、血の滲む努力を重ねて漸く至る事が叶う人間の極致であって、生半可な覚悟で成れる程安い称号では断じてない。

 困難に立ち向かう不屈の精神。先人達に学び、研ぎ澄まされた武技。神より神核の一部を分け与えられる事で肉体は寿命という枷から解放され、不死身に近いものとなる。

 心・技・体、全てが最高水準に達した戦士。それが神格者であり、単独で人間の軍隊を退けるだけの力を持った、言わば人類の希望なのだから。

 

 ならば、人類の希望である神格者を塵の様に踏み躙る化物を相手にして、一介の上級睡魔にどれ程の勝算があるだろうか?

 

 

 答えは――――

 

 

「どうした、もう終わりか?」

 

 紅蓮に燃ゆる空。青々と生い茂っていた木々は、灰の雨を撒き散らしながら轟々と燃え盛っている。

 山に住まう獣達はとうの昔に逃げ出した。今この場に残っている者は、二人しかいない。 

 

「ハァっ、ハァっ……ぐ、ぅ……!」

 

 荒い呼吸を繰り返し、地べたに両手両膝を付けた格好でクルージェが睨む。

 恐怖に震え出しそうになる己を律して彼女が見上げた先。真っ赤な炎に巻かれた木々の向こうから女の声が聞こえた直後、炎の壁を切り裂く蒼い魔力の輝きがクルージェの目に映った。

 

「……ッ!」

 

 咄嗟に身を起こしたクルージェが両手を固く握り締める。指の隙間から火が噴き出し、手を包み隠すように丸く収まると、球状に圧縮された超高温の魔力の双塊は真紅から純白へと移り変わる。

 

「食らえッ!!」

 

 ――――火炎魔術『爆裂火球』

 

 視界一杯に広がる蒼い魔矢の弾幕に向かって投擲された火球は、最前列の魔矢に触れると同時に起爆。目の眩む閃光から一寸遅れて、尋常でない衝撃と轟音が周囲の木々を根こそぎ吹き飛ばす。

 

「ほう? 何だ、まだやれるではないか」

 

 クルージェ渾身の一投によって自身の弾幕を全て搔き消されたというのに、対峙する女は未だ余裕の笑みを浮かべたままその場に佇んでいる。

 至近距離で発生した爆風に全身を曝されて尚、まるで心地良いそよ風を浴びるかのように、その美しい青髪を女が靡かせていた時。

 女の足元から、二度目の閃光が広がった。

 

「ハァ、ハァ……どうじゃ!」 

 

 身を低くして、再び巻き起こった爆風に耐えながらクルージェが笑う。

 最初の爆発は捨て石。右手の火球で邪魔な弾幕を払い除け、油断し切った敵に即座に左手の火球を叩き付ける。それがクルージェの狙いだった。

 嘗ては両手を使って一つの火球を生成するのがやっとであったが、オルステッドとの旅の間に密かに特訓していた努力が実り、片手だけで火球を生み出す事が可能となったのだ。

 

「覚えておけ。地力で劣ろうとも、技を磨けば格上にも通用するのじゃ!」

 

 名付けるなら、爆裂双球とでも言うべきか。

 瞬間的な火力なら今のクルージェが習得している魔術の中で、これ以上のものは無い。

 直撃こそしなかったものの、無防備な状態で足元から大爆発を起こした瞬間を目撃した彼女は、安堵の息を吐こうとして――――笑顔が凍り付いた。

  

「そ、んな……!?」

 

 有り得ない。

 信じ難い光景だった。

 

「どうした? 何をそんなに驚いておる」

 

 白い爆炎の波が裂け、黒焦げた地面を闊歩する女は全くの無傷。

 夜の踊り子の様な煽情的な衣服はもとより、きめ細かな髪の毛一本すら焦がせず。

 己の無力に打ちひしがれるクルージェを見下ろし、怪物が嗤う。

 

「余興としては悪くなかったぞ。一応はこの我を興じさせた主に一つ良い事を教えてやろう」

「何を――が、はっ!?」

 

 女の細腕がクルージェの首を掴み、徐に持ち上げる。

 地面から離れた足をばたつかせて抵抗するクルージェに、女は涼しい顔をしながら言い放つ。

 

「小手先の技が通じるのは、敵足り得る者のみよ。……貴様程度の小物に我の相手が務まると思うてか?」

 

 ぎりぎりと歪な音を立てながら首を掴んでいる指が締まっていく。

 

「ぐぁっ……ぎ、ぁあ!?」

 

 クルージェの口から苦悶に満ちた悲鳴が上がる。

 耐え難い圧迫感、目前にまで迫った死の恐怖。

 苦痛から逃れようと足掻けば足掻くだけ、眼下の魔神は人外の美貌を喜悦で歪ませる。 

   

「笑止。慢心が過ぎるその思い違い……今この場で正してやろうぞ!」

 

 クルージェの首を掴んでいた女の腕が消える。

 直後、燃え盛る木々を薙ぎ倒しながら紅い影が一直線に吹き飛んでいった。

 

「……ぅ……っ、ぁ……!」 

 

 小石のように軽く放り投げられたクルージェは、進路上の木々を砕き、そして一際背の高い大木の幹に深々と身体を埋め込ませて、漸く勢いが止まる。

 最早、幹の中から這いずり出る気力すら無かった。

 大木に磔にされたクルージェの思考を占めるのは、絶望という二文字。

 

(……大熱風も、火炎放射も……最後の奥の手すら通じなかった……もう、打てる手が無い……)

 

 たった今敷かれた灼熱の赤絨毯を悠々と歩む青髪の魔神。一歩ずつ、着実に近付いて来る死神を前に、クルージェは抵抗を止めて力無く項垂れる。

 

 魔神。絶対者。生物の頂点。

 最初から敵う筈が無かった。少々魔力を多く有しているだけに過ぎない睡魔如きが、国を滅ぼしうる化物の相手になろうなど。冗談にもならない世迷い事だったのだ。

 まして自分が対峙しているのは、魔神という巨山の頂に立つ存在。幾多の神々を冥府の底に引き摺り込んだ、天地開闢の動乱を生き抜いた化物の中の化物。大地を統べる王者に、地を這う虫けらがどう立ち向かえというのか。

 

「主の魔力、我が糧としてくれようぞ。光栄に思うがいい、貴様は我が血肉となるのだ」

 

 間近にまで迫った為か、魔神の身体から溢れる蒼い魔力が風となってクルージェに伝わり、彼女の紅蓮の髪が大きく広がった。

 

「……あっ……」

 

 命の灯が奪われようとする刹那。クルージェは気付く。

 踊るように翻った自身の紅髪に、あるべき物が無い事に。

 

 そしてそれが――――翡翠の宝石が煌めく髪留めが、薄い笑みを浮かべる魔神の足元に落ちている事に。

 

「ま、待て――」

「見苦しいぞ。命乞いなどよせ、主の最期を汚すだけぞ」

 

 魔神はクルージェの静止を命惜しさの懇願だと断じ、愚かな事だと嘲笑を滲ませながら足を下ろす。

 

 ――パキっ、と魔神の足の下から何かが割れる音が鳴った。

 

「あ……あぁ……!?」

 

 魔神の足が緩やかに持ち上がる。

 そこに残されていたのは、無残に折れてバラバラになった髪留めの残骸。

 

「何だ、呆けた顔を晒しおって。恐怖で気が狂ったか?」

 

 怪訝に思いながら魔神はそう言うと、クルージェの視線を追う。

 彼女が見詰めていた物。つまり、己が踏み潰した装飾品を一瞥した魔神は、つまらなそうに顔を顰め、ぞんざいに吐き捨てる。 

 

「何かと思えば……くだらぬ。多少の魔力は帯びているようだが、目を見張る程ではない。こんなガラクタを大事に抱えていたとは、程度が知れるというものよ」

 

 失望したぞと侮蔑の眼差しをクルージェに向け、魔神は足元の残骸をもう一度踏み潰した。

 その瞬間、クルージェを磔にしていた大木は烈火に包まれ、白炎を纏った巨大な火柱と化す。

 

「……き、さま……! 許さん……許さんぞ……ッ!」

 

 想い人からの贈り物が、壊された。

 世界に二つとして存在しない、自分だけが持っていた彼との絆を繋ぐ髪留めが失われた。

 クルージェはこの時、己の中の何かがばらばらと音を立てて崩れていくのを、沸騰する意識の片隅で感じていた。

 

「……ハイ、シェラァアアアッ!!」

 

 爆発的に膨れ上がる白炎の嵐。

 大木は一瞬にして消し炭となり、宿木を食らい尽くした火柱は更に膨張を続ける。

 視界に映るもの全てが燃えていく。森は黒く塗り潰され、大地は真っ赤に溶け、そして灰すら残さずにこの世から消失する。

 

「はははは! よもやこの様な力を残しておったとは。これでは熱が治まるどころか、寧ろ昂ってしまうわ! 嬉しいぞ、睡魔王女クルージェよ!」

「ガァアアア!!」

 

 喜色に染まった魔神の言葉に、獣染みた雄叫びで返すクルージェ。

 死を振り撒く魔力の弾幕を憤怒の炎で薙ぎ払い、命懸けの突貫を繰り返すクルージェの猛攻を魔神は笑いながら受け流していく。

 何度も正面からぶつかり合い、互角の戦いを演じているかのように見えるが、それはクルージェが怒りで限界以上の力を無理矢理引き出しているからであり、この戦い方を続ければその先に待っているのは、自滅という非情な結末だ。

 自分が置かれている状況を誰よりも理解している彼女は、故に焦っていた。

 

(ぐぅう……! まだ、だ……認めぬッ、何も成せずして……終われるものかァ!!)

 

 一早く勝負を決めなければならない。自分が駄目になってしまう前に、せめてこの憎き女の鼻っ柱をへし折らなければ死んでも死にきれない。

 延々と繰り返される衝突。中空に描かれる蒼紅の軌跡。

 終わりの見えない決戦の終焉は、唐突に訪れた。

 

「そら、捕まえたぞ?」

「ッ! この、離せッ!」

 

 焦燥に駆られたクルージェが慣れない肉弾戦を仕掛けると、魔神は僅かな動作で彼女の繰り出した正拳を躱し、その腕を掴み――――

 

「がっ!? ァアアアッ!!」

 

 ――少しの躊躇もなく、クルージェの腕を握り潰した。

 

「睡魔族の拳は油断ならぬでの。さぁ、次はどうやって我を愉しませてくれるのだ?」

 

 興奮気味に語り掛ける魔神の前には、潰れた片腕を抱えて呻く弱者がいた。

 

「あ、ぅ……あぁあ……!」

「……フン、何と他愛無い。たかが腕一本折れただけだろうに」

 

 その余りにも哀れな姿にすっかり興が醒めてしまった魔神は、されど容赦なくクルージェの顔面を鷲掴み、眼下に広がる黒焦げた大地に叩き落とす。

 

「牙を失った者に興味は無い。潔く死ぬがよい」

 

 魔神が片腕を振り上げる。頭上に翳された掌から青白い稲光が迸り、全身から滲み出る重圧によって天地が鳴動する。

 クルージェは動けない。自滅する前に強制的に止められたお陰で辛うじて命を繋いでいたが、限界以上に酷使された肉体は言う事を聞かず。指一本動かすのにも、多大な労と苦痛が伴った。

 

「っ……足が……身体が、動かぬ……」

 

 身体から上がる悲鳴を無視して懸命に逃げようとするも、既に死神の鎌は上空より落下を開始していた。

 空が軋み、空気が罅割れ、世界が歪む。

 黄昏色の空を切り裂き、暗黒の世界より這い出てきたのは、青い炎を纏った黒鉄の塊。それは本来、星の海を泳ぐもの。夜空を彩る星屑の一片にして、魔神の手により招かれた宇宙からの訪問者。

 これこそが地脈系魔術の極意、『小隕石召喚』。絶大なるその破壊力から、後世では純粋魔術の秘儀としても語られる事となる宇宙の暴威が、瀕死のクルージェを圧し潰さんと全天に響き渡る咆哮を上げた。

 

「……ふ、フフ。惨めじゃのう……これが、傲慢な愚者が辿る……末路か……」

 

 頭上より迫る小隕石の影響で、辺りに暴風が吹き荒れる。

 弱弱しく横たわるクルージェなど真っ先に吹き飛びそうなものだが、不思議な事に彼女の身体は未だその場に留まっていた。まるで、誰かが身を挺して彼女の風除けになっているかのように。

 

「――――ッ!」

「……な、に……?」

 

 荒れ狂う暴風を飛び越えて、慣れ親しんだその声がクルージェの耳に届いた。

 燃え盛る業火を裂いて、彼女が想いを寄せるその男はクルージェの下に駆け付けた。

 

「……オル、ス……そなた、なのか……?」

 

 気を抜けば簡単に途切れてしまいそうな意識を、なんとか握り締める。

 華やかな外見とは裏腹に、人を寄せ付けないような、どこか影のある男が何か叫んでいる。

 周りが騒がしくてよく聞こえないが……いよいよ死が目前に迫って、胸の内に灯る願望が幻覚となって表に現れたのだろうか。

 だとしたらなんとも都合のいい話だ。幻覚が相手なら、何も気にせず打ち明けられる。 

 

「どうじゃ……我は、頑張ったぞ」

「――――!」

「フ、フ。僅かな時とはいえ、睡魔が魔神に抗ったのじゃ。褒めてもよい……いや、褒めろ。これは命令じゃ」

「――――っ」

「これ、なんという顔をしておる。言う事を聞かぬとは、幻覚の癖にナマイキな奴じゃのう」

 

 本人とは似つかぬ幻覚の意外な反応に、クルージェの頬が綻ぶ。

 所詮は一方的な想いに過ぎぬのではと諦観する事もあったが、こんな顔を見ると、もっと素直になっておけばよかったと今更になって後悔してしまう。

 

「我は……我は、そなたが好きじゃ。大好きじゃ。見返りが欲しいとは言わぬ。ただ、これだけは知っていて欲しい。最期まで自分に素直になれなかった、愚かな女の想いを……」

 

 

 そして――――世界が震え、全てが白に染まった。

 

 

          ・

          ・

          ・

          ・

          ・

 

 

「フッ……終わってみれば、呆気ないものだの」

 

 地に降り立った魔神は、更地と化した森を見詰めて淡々と呟く。

 小隕石の衝突の威力は凄まじいものだった。巨大なクレーターの出来た着弾地点からは煮え滾る溶岩が流れ、衝突の余波によって周囲一帯は地図を書き換える必要がある程に大きく抉れていた。

 

 魔神が興味を無くしてその場から飛び去ろうとした時、荒廃した空間に点在していた土砂の山の一つが突然、内側から膨れ上がるようにして弾け飛ぶ。

 

「……ほう、どうやら羽虫が紛れ込んでいたか?」

 

 山の中に潜んでいた一人の男を見据え、魔神が嗤う。

 全身泥塗れのその男は、両腕で横抱きに抱えていたクルージェを地面の上に寝かせると、仲間の容態を慎重に調べ始めた。少しの間を挟み、険しい表情をした男の口から安堵の声が漏れる。

 

「酷く衰弱しているが、まだ間に合う。……無茶をする。勝手に死のうとするな、愚か者め……」

「物珍しいものよ。人間が魔族を助けるとはの」

 

 人間族と魔族。相容れない二つの種族が助け合う。

 なんとも愉快な見世物だ。絶世の美貌に軽薄な笑みを貼り付けた魔神は、睡魔を介抱する男の姿に、ニアク-ルで出会ったか弱い人間の小僧を重ねて見た。

 

(あの小僧も大概であったな。まぁ、同族連中の()()()()から見て、遠からず破滅するだろうがの)   

 

 対話か、暴力か。ナーガ族への対応で意見が衝突し、醜く言い争う人間共の滑稽な姿を思い出していると、睡魔を助けた奇妙な男がこちらを振り向いた。

 

「魔神よ、一つ教えて頂きたい。何故このような真似を? 仲間が非礼を働いたのならば詫びよう」

 

 そう言うと、何を思ったのか男は仲間を散々に痛め付けた魔神に、深々と頭を下げたのだ。

 憤る訳でもなく、かと言って逃げる訳でもない。まさかの態度に魔神は僅かに面食らった様子を見せるも、直ぐに愉快気な表情に戻り、諭すように告げる。

 

「否、そこの睡魔は何もしておらぬ。我が戯れに手を掛けたまでよ」 

「……そうか。それを聞いて安心した」

 

 答えを聞いた男は下げていた頭を持ち上げる。

 終始、落ち着いた声で魔神に語り掛けていた男だが、それは男が冷静である事を意味するのではない。

 その眼に感情の光は灯っていなかった。激しい怒りも、深い嘆きも、何も感じられない。どこまでも昏い瞳の奥に潜むモノが、魔神を見詰める。 

 

「これで憂いなく剣を振るえる」

 

 ぼそりと呟いた声は、同時に響き渡った鋭い風切り音に掻き消された。

 地面を蹴り抜いた足跡を置き去りに、男は自らの得物である黒剣を抜刀し、魔神の細首に刃を走らせる。しかし、首を刎ね飛ばす黒剣の軌跡は無骨な大剣によって寸断された。

 

「はははッ! 軟弱な優男かと思えば、大層な牙を持っておるではないか!」

 

 魔神が嗤う。

 空間を歪ませて取り出した愛剣、“ジエリアの隷属剣”で黒剣を弾き、反撃の刃を向ける。修練を積んだ一流の戦士でも扱いきれぬだろう大剣が、あろうことか華奢な女の片腕によって振るわれ、縦横無尽に暴れ回る。

 

「……」

 

 剣戟を交える男の肌に無数の赤い筋が刻まれていく。

 魔神の凶刃を直に受けた訳ではない。慣性を無視した超常の一撃が生み出した風圧が、皮一枚で避け続ける男の身体を削り取っているのだ。掠っただけで半身を持ってかれそうになる暴威に曝されながら、男は時を待つ。魔神の隙を、濁流の如き連撃が途切れる刹那を。

 

「……っ」

「どうしたッ、動きが鈍っておるぞ!」

 

 全身が血に染まり、足元に鮮血が滴る。

 焼けるような痛みに襲われ、力が入らなくなった様子を魔神が指摘する。と言ってもあくまで指摘するだけで、手心が加えられる事は無い。寧ろ、嬲るように一撃一撃が更に重く、大振りなものに転じていた。

 

 ――そう、全ては男の狙い通り。

 

 敢えてこちらから隙を見せる事で相手は油断し、“戦い”から“狩り”へと移行した。弱った獲物を追い立てる狩人に、男は隠していた爪を曝け出す。 

 反撃の一手。竜族の戦士の一撃も耐えた搦め手――『ミラードライブ』を。

   

「これで終いぞ!」

 

 止めの一撃を振り下ろす魔神。それを防がんと男が剣を盾代わりに構える。

 ならばその黒剣ごと頭蓋を叩き割ってやろうと一層の力を込められた大剣は、男の構えた刃に触れ―― 

 

「――なにっ!?」

 

 驚愕の声が漏れる。

 

 ……しかしそれは、大剣を振るった魔神のものではなく。

 

「小細工を弄せば我に届くと思うたか? なんとも健気で、賢しくて――――詰まらん男だ」

 

 旋風を纏った刃に触れて尚、大剣は進路を変えず。それどころか、真向から風の層を食い破り、目を見開き唖然とする男の鼻先にまで迫っていた。

 

「お主も我の敵とは成り得ぬか……期待外れもいいところよ」

「ッ……ぐぁああッ!!」

 

 右手は大剣を握ったまま、残る魔神の左手が発光する。青い稲妻の手甲をはめた左手が男の腹部に添えられると、体内に浸透した魔力が内部から男を蝕み、眩い光を放ちながら暴発を起こす。

 

「人間とは斯くも脆き生物よ、触れれば簡単に砕けてしまう。難儀な生を背負わされたものだの?」

「がッ……ァ……!」

「だが、最早その苦悩に苛まれる必要もない」

 

 膝を着き、だらりと首を下ろした男の手から剣が零れ落ちる。

 赤黒く染まった腹部から止めどなく血が流れ、それが水溜まりとなって魔神の爪先を濡らす。

 明らかに致命傷だった。体内に埋め込まれた爆弾を起爆させたかの様な、壮絶極まる惨状の只中で、男だった躯は重力に従ってゆっくりと血溜まりに身を沈めた。

 

「お主の慎ましい奮闘に免じて睡魔の娘は見逃してやろう。さらばだ、人間よ」

 

 弱者としての宿命に縛られていた男に、その一生を終わらせた魔神は哀れみの眼差しを向け、もう用は済んだと踵を返して歩き出す。が、数歩進んだところで唐突に魔神の足が止まった。

 

「……ほう。まだ、抗うというか」

 

 振り返ると、血の海に沈んでいた筈の躯が――死んだとばかり思っていた男が、片手に血塗れの黒剣を携えて立ち上がっていた。青白い顔に凍えた鉄面皮を被せ、直立不動でこちらを見据える男の姿に、消えかけていた魔神の闘志に再び火が灯る。

 

「死んだふりでもしておけばよかったものを。身命を賭して我に一矢報いらんとするか」

「……」

「フッ、その気概だけは褒めてやろう。いいだろう、ならば望み通り……我が胸の内で果てるがよいッ!」

 

 魔神が踏み込む。

 それだけで地面が捲れ上がり、空気の裂ける轟音を背後に引き連れ、獲物を仕留め損ねた大剣が今度こそその命を刈り取ろうと上段から振り下ろされる。 

 男は上体を反らして魔神の凶撃を避けようと動くも――

 

「遅いッ!」

 

 まるで男が回避する事を予期していたのかの様に、大剣は男の頭を過る寸前に魔神の懐まで引き戻された。巨大な刃に五指を這わせ、柄を支える腕には蒼雷が迸る。それは刺突の構え。一切の無駄を削ぎ落した姿は機能美に溢れ、刃の切先を向けられている者すらその美しさに見惚れてしまうだろう。

 

「所詮は人間、我の敵ではないわッ!」

 

 問答無用で放たれた神速の一閃。空気との摩擦で赤熱した刀身が、赤い尾を引きながら男に胸に吸い込まれる。 

 飛び散る肉片。噴き出す鮮血。そして、魔神は舌打ちする。

 

「ッ……外した――だと!」

 

 その場から飛び退いた直後、魔神のいた空間を黒い半月が横切る。

 男は未だ健在。心臓を狙った刺突の刃は脇腹を抉るだけに止まり、危機を脱した男は確かな足取りで魔神に近付いて行く。

 ……その身に、致命傷という名の無数の傷を刻んだまま。 

 

(妙な。総身を内より焼かれ、腹に大穴を穿たれて尚も死なぬだと?)

 

 馬鹿な。有り得ない。

 彼女は知っている。人間とはたとえ身体が限界を迎えようとも、意思の力があれば立ち上がれる事を。仲間を守るため、国を守るため、誇りを守るため……かけがえのない何かを守ろうと決意した時、人は強くなれる事を。 

 

 ――だが、それにも限度がある。

 

 限界を越えると言えば聞こえはいいが、要は蝋燭の最後の灯火の様なもので、血液という燃料が無くなれば速やかに鎮火する仮初の光に過ぎない。

 悠久の年月を闘争と共に歩んできた彼女の知識と経験が告げる。

 既に目の前の男に戦う余力は残されていない。剣を支える事も、両の足で大地を踏みしめる事も、呼吸の為に口を開く事さえ出来ない筈。

 

 だというのに――――何故、未だに魔神たる己と刃を交えている? 

 

「往生際の悪い男よッ、ならば纏めて蒸発させてくれようぞ!」

 

 一瞬の隙を突いて死に損ないの男を蹴り飛ばし、瞬時に魔力弾を生成。距離を詰めようと駆け出していた男は、蒼い輝きと直後に巻き起こった爆炎に呑まれる。

 

「……」

「なにっ!? こ奴、これでも動く――」

 

 揺らめく炎の中から飛び出した黒い刃が魔神の吃驚を打ち消す。

 幾度も重なる二振りの刃。激化していく剣戟。

 いい加減煩わしく感じていた魔神が段々と腕に籠める力を強めていくが、血塗れの男は尚も食い下がる。

 

 異常としか言いようがなかった。

 下手な不死者よりも不死身で、それでいて生者としての精気も感じられる矛盾。

 

 ――――コイツは人間などではない。人間の皮を被った純然たる怪物だ。

 

「ええい、鬱陶しいわッ!」

 

 忌々しげに表情を歪めた魔神は、鞭の様にしならせた片足を頭の上まで振り上げ、間髪入れずに振り下ろす。細く艶やかな白い足が大地に蜘蛛の巣状の亀裂を走らせ、魔神を基点にして爆発した衝撃波が男を飲み込み、乱雑に払い除ける。

 

「人間モドキめ。答えよ、貴様は何者だ」

「……私は」

 

 剣の切先を突き付けながら険しい表情で問い掛ける魔神に、男は戦闘が始まって以来、初めて口を開く。

 

「私は、人間だ」

「……この期に及んでまだ戯言を吐くとは、そうまでして死に急ぐか。まぁよい、貴様のその奇怪な生命力も我が糧として――ッ!」

 

 不快そうに顔を顰めた魔神が剣に魔力を流そうとして――――男の異変に気付く。

 

「貴様……()()はなんだ?」

 

 魔神が凝視していたのは、いつの間にか男の身体に纏わりついていた“赤い靄”。

 身体の中から滲み出している様に見えるそれは、男の身体に刻まれた無残な爪痕を少しずつ塞いでいた。その光景だけを見れば、再生魔術に近い何らかの術を行使しているだけにも思えるが、魔神は直感していた。

 

 あれは不味い。あの赤い靄を放置するのは不味い、と。

 

「小癪な真似を、消え失せいッ!」 

 

 考えるよりも先に、身体が動いていた。己の感覚に従い、半ば無意識に放たれた雷光の槍が飛翔中に一際強く輝いたかと思えば、先程の魔力弾よりも二回りは大きい蒼炎の渦となって男を燃やし尽くそうとし――

 

「――ドラゴンソウル」

 

 その言葉を引き金に、黒剣から真紅の業火が吹き上がる。

 激しくうねりながら男の周囲を旋回し、そして膨れ上がった火柱は一匹の紅い龍と化して、迫り来る蒼炎に喰らい付く。

 凶暴な顎が蒼を噛み砕き、灼熱の渦が龍を圧し潰さんと唸りを上げる。拮抗し、互いを貪りながらやがて蒼紅は一つに混ざり溶け込み、極光と焦熱を撒き散らして弾け飛んだ。 

 

「なんと、死にかけの男に我が魔術が相殺されるか。あの靄、傷の治癒以外の効果もあるのか……?」

 

 予想を上回る男の抵抗に、魔神の口から感嘆の声が漏れる。その双眸には警戒と興味の対極の光が宿っていた。

 妖しく輝く視線の中、金色の残像が駆け抜ける。相殺し弾けた魔術の熱波を浴びて、身に纏う黒衣が発火し火達磨になるのも構わずに、焦げた灰色の手で剣を握り締め、真赤な視界の先に薄らと見える黒い女にその刃を翳す。

 

(油断した状態であれば幾らか勝機はあったが……下手に抵抗したのが仇となったか)  

 

 魔神の眼からは慢心が消え、目を細めてこちらを見据えている。どうやら明確な脅威として認識されてしまったらしい。只でさえ薄かった勝算が絶望的になってしまった。

     

(……だが、それでも零ではない)

 

 幸いというべきか、魔術が相殺した瞬間に飛び出した男に対し、魔神は予想外の結果を引き寄せた男を観察していたが為に僅かに反応が遅れた。同時に行動を起こした場合、どう足掻いても先手は魔神に奪われてしまうだろうが、この時ばかりは僅差で男が勝っていたのだ。

 

(これが最大にして最後の勝機。この一撃で確実に奴を下さなければならない。故に、私が選択する技はこれしかない)

 

 それは即ち、男が会得した剣技の中でも最高の威力を誇る奥義を開帳する事に他ならない。

 旧き世界に存在したとある王国において、国を脅かす恐ろしい魔王を打ち倒した勇者が使用したとされる伝説の技。天に選ばれし者のみがそれを使う事を許され、使用者に多大なる負荷を強制する代わりに、一振りで国を脅かす災厄を粉砕する究極の一刀を。

 

「む、これは……っ」

  

 常に余裕を滲ませていた魔神の顔色が変わる。

 男の剣から溢れる黒い奔流に対し、闘争者としての本能が警笛を鳴らす。

 大剣を振るう暇は無かった。何としてもあの黒い奔流を阻止する為にと腕に魔力を纏わせるも、腕を振り上げようとする時には既に男は魔神の懐に潜り込んでいた。

 

(間にッ、合わぬか!)

 

 一度剣から溢れ出した黒い奔流が男の剣先に収束し、髑髏を彷彿とさせる悍ましい相貌が浮かび上がったかと思うと、それは大口を開けて魔神を喰らう――――筈だった。 

 

「決めさせてもらうッ、デスト――ッ!?」 

 

 髑髏が歪み、輪郭がぼやけ段々とその存在が稀薄になっていく。

 

 奇跡の終わりは、酷く呆気なかった。

 黒剣から悲鳴の様な甲高い金属音が響き、刀身に大きな亀裂が走り、瞬く間に刀身全体を覆い尽くす。魔神との熾烈な剣戟を経ても刃毀れ一つできなかった不朽の呪剣はしかし、その技に耐えられなかったのだ。

 剣としての寿命を根こそぎ奪われ、抜け殻となった黒剣は最後に罅だらけの刀身から黒い瘴気を漏らすと、男の手中で粉々に砕け散った。

 

「……そうだったな。今の私には、これを使う資格なんて無かった。これは、勇者の――」

 

 視界が閃光に包まれ、暗転する。

 全身を激痛が襲い、奇妙な浮遊感が身体から平衡感覚を奪ってから数秒の後に、背中に強烈な衝撃が走った。魔術の直撃を食らい、成す術なく地面に叩きつけられたのだと察するのに、時間は掛からなかった。

 

「呆れたものよ。まさか己の技で自滅するとはの」

 

 軽い足音を立て、緩やかな歩調で倒れ伏す男の傍まで歩み寄った魔神が、足元に転がる男の顔を覗き込む。 

  

「お主、名は何と申すのだ? ……ああ。これはすまぬ、口が利ける状態ではなかったか」

「……」

 

 反応は無い。

 死んではいない。だが、無事とも言い難い惨状だった。全身は焼き爛れ、開いてしまった腹部の傷口から夥しい量の血が流れている。致命傷という言葉では生温い、あまりにも惨い有様だった。死に至る深手を負いながら、それでも生きている。否、()()()()()()()

 魔神の目には男の傷を癒やそうと今も不気味に蠢く赤い靄が、男から“死”という救いを奪う死神の様に見えた。 

  

「見るに堪えぬ。一思いに息の根を止めてやろうぞ……む」

 

 微動だにしない男の首を刎ねようと振り下ろした大剣が、首に触れる寸前で止まる。

 碌に身動きも取れず、血塗れになって無様に倒れ伏しながら……微塵も衰えぬ鋭い眼光が魔神の手を止めたのだ。

 

「……ふ、はは! ははははっ! なんと執念深い男よ! 気に入った、お主はまだ生かしておく事にしよう」

 

 何度倒れようと諦めず、何度だって這い上がる。鋼の如き不屈の意思を目にした魔神は心底楽しそうに手を叩き、嫣然と笑う。老若男女問わず見る者全てを虜にするだろう艶やかな笑みを向けられた男は、僅かな動揺すら起こさずに冷たく魔神を見据えている。その様子に更に気を良くしつつ、大剣を虚空の彼方に戻した魔神が何かを呟くと、魔神の足が地面から離れ、段々と空に浮かび上がっていく。

   

「我が名はハイシェラ。精々足掻くがよい、そして生き延びよ。次なる闘争は、()(

)()()()()()愉しみたいものよ」

 

 去り際にそう言い残し、ハイシェラと名乗った魔神は旋風を巻き起こしながら東の空へと飛び去っていった。  

 

 嵐が過ぎて、途端に静まり返った荒野。

 しかし、死闘の爪痕はその地に深く刻まれている。森は跡形も無く消え去り、大地は荒々しく削られ、変わり果てた荒れ野に残されたのは、灰の雨と無数の残火から立ち上る黒い煙。

 やがてそれらも時の流れと共に姿を消した頃。何もかもが消え去った灰色の空間には、誰の姿も見受けられず。唯一、一人分の足跡が南の方角に向かって伸びていたが、とても降りられないような断崖絶壁の前まできたところで途絶えてしまっていた。

 

 

          ・

          ・

          ・

          ・ 

          ・

 

 

「……侵入したゴウモール共は、これで全部か?」

「ああ。数匹逃げたが、これだけ狩れば暫くは奴らも大人しくしているだろう」

 

 鬱蒼と生い茂る深い森の中で、複数の息遣いが聞こえる。

 ガサガサと草木を掻き分けて現れたのは、布地の少ない民族衣装を纏った若い女の集団。

 浅黒い肌に、女ながらよく鍛えられた強靭な肉体を有する彼女ら――スティンルーラ人達の足元には、ゴウモールと呼ばれる人型の魔物の死体が無数に散らばっていた。

 

 場所はスティンルーラ人の集落、クライナより北に広がる森林地帯。

 女系中心の狩猟民族であるスティンルーラ人の中でも選りすぐりの精鋭で構成された彼女ら一団は、凶暴化した魔物を駆逐するべくこうして定期的に領内の森を巡回していた。領内に出没する魔物の数が急増してからは巡回の頻度を増やして対応してきたが、少人数で広大な森を回りきるのには厳しいものがあり、如何に体力に優れたスティンルーラ人といえども流石に疲労の色が滲んでいた。おまけに、連日のように繰り広げられる魔物との戦闘行為が彼女らの消耗に拍車をかけ、今のところまだ死傷者は出ていないが、それもいつまで保つか分からないのが現状であった。

 

「皆、よくやってくれた」

「エカティカ様!」

 

 後方から凛とした声が聞こえるのと同時に、その場にいた全員が即座に声の主に向かって跪く。

 少し離れた茂みの向こうから、音も立てずに彼女達に姿を見せた青髪の女――戦士エカティカは、疲労を身の内に隠して自分に忠誠を示す部下達に労いの言葉を掛けた後、研ぎ澄まされた刃物の様に鋭い眼差しを僅かに緩め、「身体を休めるように」と部下に告げて彼女自身も近場の切り株に腰を下ろす。

 この場の誰よりも奮闘し、誰よりも多くの手柄を立てながら、それを棚に上げる事もなく常に仲間達を気遣う次世代の指導者。そんな彼女は今、数時間前に発生したある事象に頭を悩ませていた。

 

(先程感じた歪な大地の震え。そして、直後に北の山脈から吹いてきた突風。一体、あの地で何が起きたのだ……?)

 

 腰を下ろしたままの姿勢で彼女は見上げる。

 此処より更に北に進んだ先に悠然と聳えるルプートア山脈。地平線を覆い尽くす緑の長城の一角が黒く染まり、天に向かって伸びる黒い筋によって汚された空をエカティカが険しい目で見詰めていると、急に森が騒めき始めた。

 

「――っ、なんだ……なにか、来る……!?」

 

 遠くから微かに聞こえるだけだった騒めきが、段々と大きくなっていく。つまり、こちらに向かって何かが近付いて来ているのだ。それも、尋常でない速さで真直ぐに。視界の殆どを制限される密林だというのに、そのなにかはまるでこちらの居場所がはっきりと見えているかの様に迷いなく、彼女らが反応に遅れてしまう程の驚異的な速度で急接近していた。

 

(敵か!? 馬鹿な、木々を飛び越えてくるにしても速過ぎる! いや、驚くより先に同胞達を守らねばッ)

 

 焦燥を押し殺しながら剣を持って素早く立ち上がった矢先、エカティカが身構えるより前に、それは木々の間を縫って彼女達の目の前に降り立った。

  

「何奴ッ! 返答次第ではタダではおかぬ――ッ!?」

 

 仲間を庇うように一歩前に出て剣を突き付けるエカティカだったが、現れた人物を直視した瞬間、その壮絶な姿に思わず言葉に詰まってしまった。

 

 擦り切れたみすぼらしい黒衣から時たま零れ落ちる粘着質な水滴。赤黒い髪は風を受けても形を変えようとせず

、錆び付いた鉄の様に凝り固まっている。黒衣は胸部の下から腹部にかけて大穴が開いており、其処から引き締まった上半身の筋肉が垣間見えた。不自然に肉を付け過ぎず均整の取れた肉体は、戦士としての理想を体現していると言える。沈黙を貫く男の相貌も実に美麗なもので、黙っていようともそれだけで一つの壮大な絵画となるだろう。

 だがそれも、全身余すところなく、()()()()()()()()()血で鮮やかに彩色されていたとあっては、全てが台無しだった。

 

「……驚かせてすまない。私に敵意は無い」

「な……なに?」  

 

 絶句していたエカティカに血塗れの男が静かにそう語り掛けると、両手に抱えていた女性をそっと地面の上に降ろした。

 男と同様に全身が赤く染まったその女性の背からは一対の翼が生えており、客観的に見てその女性が魔族に類する者だという事に気付いたエカティカが驚愕を口に出す前に、男は倒れ込むように彼女に頭を下げる。

 

「クルージェを……仲間を、助けてほしい……!」

「ま、待て! どういう事だ。その姿、貴様は先の事変に関わりがあるのか!?」

 

 切羽詰った様子で必死に頭を下げる男に、困惑した表情を浮かべるエカティカ。

 敵とも分からぬ未知の存在にいきなり助けを求められたのだから、それも無理はないだろう。が、事態はそれで収まらなかった。

 

「……! もしや、貴方は……いえ、貴方様は!」

 

 事情を尋ねようとしたエカティカの後ろで、それまで動揺しながらも主の指示があるまでじっと待機していた戦士達の内、最も年若い一人の少女が男の顔を見るなり血相を変えて飛び出した。

 

「やっぱりそうだ! 貴方様はあの時の! ああ、なんて痛々しいお姿に……!」

「お前は……戦士エーアストの末娘か。どうしたのだ、この男を知っているのか?」

 

 酷く狼狽しながら急いで男に駆け寄る小さな少女。エカティカはその少女がつい先日、自身が指揮する部隊に配属されたばかりの、最年少の戦士であった事を思い出す。彼女は確か、例の事件が原因で極度の男嫌いになってしまった筈。そんな少女が、こんなにも慌てた様子で見ず知らずの異人の男に駆け寄ろうとするだろうか。

 そんなエカティカの疑問を察したのか、少女はエカティカの方に振り返ると、仲間達にも聞こえるようにその訳を語りだした。

 

「この方は、あの悪夢のような砦で野蛮な男達に辱められそうになった私を助けてくれたんです! あの時はこの方を恐ろしく思って気を失ってしまったけど……けれど、後から砦の中に囚われていたみんなを救ってくれたという話を聞いて確信しました!」

 

 一旦言葉を切って呼吸を整えた少女は、頭を下げ続けている男に倣うように自らも頭を下げ、エカティカに懇願する。

 

「この方は悪い人ではありません! お願いします! このお方をお助けください!」

「そういう事だったのか……だが」

 

 少女の話を聞いたエカティカは悩んだ。その話が真であれば、この男を助けぬ道理は無い。

 だが、最近は忌まわしき侵略者共の動きが活発になってきている。もし、この男が彼奴らの手先だったとしたら……と、懸念していた彼女の背後で、少女に続いて行動を起こす者達がいた。

 

「エカティカ様、我々からもお願い申し上げます」

「血を分けた我が姉も、あの砦から救い出された者の一人。どうかご容赦を!」

「受けた恩を忘れるとあっては、誉れある我が一族の名に泥を塗ってしまいます!」

「お願いします!」

「エカティカ様!」

 

 口を揃えて男の嘆願を聞き入れるよう主に頭を下げる戦士達。

 一緒に少女の話を聞いていた彼女らは、そのお陰で目の前の男がカバキ砦で同胞を救ってくれた者だという事に気付き、今こそ恩を返す時だとエカティカに訴えかける。

 すると、部下達の熱意に動かされたのか、目を瞑って熟考していたエカティカは意を決して目蓋を開き。 

 

「……元より、私もお前達と同意であった。このエカティカ、一族の恩人を見捨てる程恥知らずではない。その者達を里まで運んでやれ。アメデ様には私が話を通しておく」

 

 その言葉を聞いて、心配そうに表情を曇らせていた少女がぱっと明るい笑みを見せたのに苦笑しつつ、エカティカは素早く部下達に指示を出してクライナへと引き返して行った――――

 

 

 

 

 

 

 普通に歩く事さえ困難な樹海をエカティカ達が颯爽と駆け抜けて行った直後の事。

 人気の無くなった森の中にひらりと一枚の羽根が舞い落ちた。

 重力に引っ張られてひらひらと揺らめきながら落ちていくその羽根は、血の様に紅く、地面に触れると細かな粒子となって消えてしまう。

 

 これは誰も知る事はないだろう。きっと誰も信じる事はないだろう。

 

 儚くも美しい紅い羽根が消えた後。

 その羽根を受け止めた一握りの草花が、灰となって崩れ去ったなんて。

 

 

 

 

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