堕ちた勇者は彼の地にて   作:胸焼け

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第19.5話 水と油

 

 ――レウィニア神権国 王都プレイア

 

 燦々と輝いていた太陽は地平線に沈み、冷たい夜風が吹き荒ぶ真夜中の王都。

 日中はあれほど活気に満ちていた街並みも、住民たちの殆どが寝静まる深夜ともなれば流石に静かなものだ。表を歩く者といえば、王都の治安を守る警邏の兵士ぐらいで、彼らの持つ松明の灯火が其処彼処で揺らめいていた。無数の灯火は定められた道筋を辿り、朝日が出るまで延々と街を回る。王都の住民は窓から見える仄かな光に心強さを感じながら、今夜も良い夢を見るだろう。

 だが、大多数の人間が楽観的とも言える感情を抱いて眠るその裏で、夜の王都を覆うこの闇に危機感を覚え、密かに動き出す者がいた。

 

 ――ローグライア邸 裏口

「お待ちしておりました! 夜分遅くにご足労をおかけし――」

「御託はいい、通せ」

「はッ! では、こちらからお入りください!」  

 

 貴族達の住まう王都中心部。豪奢な屋敷が立ち並ぶ華やかな表通りを抜けた先に、一軒の白い屋敷が悠然と佇んでいる。周りの屋敷と比べて外観に派手な装いは見受けられず、かといって寂れている訳でもない。慎ましくも奥床しい、飾り気が無いからこそ感じられる気品とでもいうべきか。分厚い外套で身を隠したその人物は、顔を覆うフードの下でほうと感心したように声を漏らす。

 

(ふむ……質実剛健を体現した、如何にもあの男らしい造りをしている。部下もよく指導されているようだ)

 

 前を歩く若い兵士の背中を見ながら、内心で屋敷の主に賛辞を贈る。

 立場上、口にする事はないが、男はこの屋敷の主であるローグライアの能力を高く買っていた。本人と直接言葉を交わす度に、良くも悪くも貴族らしからぬ彼の性格に頭を悩ませられるという点に目を瞑れば、あれほど頼もしい男は他にいない。少なくとも権力に擦り寄る浅ましい輩よりは断然、信用出来る。以前のように距離を置くのではなく、裏で手を結ぶのが得策だというのが、一度お互いの本音を曝け出した末に彼等二人が導き出した結論だった。

 

(良い機会だ。今夜のうちにローグライアにも打ち明けるとしよう。彼の協力が得られれば、計画はより確実なものとなるだろう……)

 

 程無くして、屋敷の最上階にまで辿り着いたところで案内役の兵士の足が止まる。

 

「この廊下の突き当たりを右に、奥の部屋にて主がお待ちです!」

「ご苦労。ここから先は私一人で十分だ」

「かしこまりました!」

 

 要人の案内を終えた兵士は、すっと身を退いて男に一礼すると、階下へと引き下がっていった。

 兵士の姿が消え、段々と足音が遠ざかる。それが完全に聞こえなくなると、男は分厚い外套のフードを脱いで深く息を吸い、そして一気に吐き出す。冷えた夜の空気が肺の底に溜まっていた息苦しさを洗い流し、幾分か気が楽になったように感じた。

 

「このような夜更けに息を潜めてこそこそと……まるで盗人だな」

 

 非常識な行動をしている己の姿を振り返り、自嘲気味に笑う男の横顔を薄紅色の月明かりが照らす。

 窓の向こうに見えるのは、黒雲の犇めく重苦しい夜空と、雲の切れ目から顔を覗かせる紅い月。月女神ベルーラの司りし紅き妖月を見上げ、煩わしそうに眉をひそめた男――ルーノは、直ぐに視線の先を正面の廊下奥へと切り替え、一歩を踏み出した。

 

 ……皆が寝静まる深夜に、態々人目を避けるようにして彼がローグライアと接触を図ろうとしているのには、当然ながら訳がある。実はある時を境に、王都の民達が次々と行方不明になるという怪事件が現在進行形で起きているのだ。未だ犯人の影すら掴めていないのが現状だが、一つだけ判明している事がある。姿を眩ました者達は皆、どこか後ろめたい過去を持つ、脛に傷を持つ人種であるという共通点だ。

 誰が言い触らすでもなく、この事件は奇妙な噂話として民達の間に水面下で広まっていき、愉快な話のタネとして王都中の酒場を賑わせている。被害者は過去に罪を犯した者に限定されているという事もあり、噂を聞いた住民の中には下手人の行動を賞賛する者まで現れる始末だった。

 

「愚かな。巫女様の御膝元であるこの王都で、そのような蛮行は断じて許さん……!」 

 

 拳を握り締め、静かに怒気を滲ませるルーノ。

 貴族の間では寡黙な男として知られているが、この時ばかりは珍しく怒りを露にしていた。普段のルーノを知る者が今の彼の姿を見れば、きっと我が目を疑うだろう。いつ如何なる時も冷静に謀を進める男が、ここまで露骨な不快感を表に出す事があるのか、と。それ程に憤る理由はやはり、信仰する神の治めるこの国の治安を乱された為か。

 

 或いは、行方不明者の一覧に、手塩にかけて育てた部下の名が挙がっている為だろうか。

 

「……いかんな、冷静さを欠いては部下に笑われてしまう」

 

 廊下の奥に到着したところで、深呼吸をして精神を鎮めてから、ローグライアが待っている部屋の扉に手をかける。

 

 『事件の根幹に関わる重大な情報を入手した。邪魔の入らない場を設ける故、是非とも会って話がしたい』

 

 ローグライアの使者から、その様な内容が記述された書簡を受け取ったのは今朝の事だった。

 とある出来事を経て、険悪だったローグライアとの仲がある程度改善されていたルーノは、この要請を承諾。最低限の護衛を連れ、誰にも悟られないように細心の注意を払いつつ此処まで足を運んだのである。

 

「失礼する」

 

 扉を数回ノックし、金属の取っ手を捻り部屋の中へと足を踏み入れる。

 室内に入って真っ先に目に付いたのは、部屋の中心に据えられた白い円卓だった。周りを等間隔に配置された同色の椅子が囲み、円卓の上には高級感のある葡萄酒の瓶が一本と、綺麗に磨き抜かれたグラスが二個置かれている。壁には刀剣や獣の剥製といった調度品が並び、円卓と部屋の壁際にそれぞれ用意された燭台から、蝋燭の火が柔らかく揺れていた。

 ルーノは挨拶もそこそこに、円卓の脇を通り抜けて部屋の奥へと歩いて行く。

 左右の壁に並ぶ調度品には目もくれず、ただ真っ直ぐに進んだ先でルーノを待っていたのは、格式高い礼服に身を包んだ一人の偉丈夫。彼はこちらへと近付いてくるルーノに黙って背を向けたまま、壁一面を占める大きな窓硝子を通して、街の夜景を眺めているようだった。 

 

「らしくもない。貴卿の性分を鑑みるに、もっと騒々しい出向かえを受けると予想していたのだがな」

「……」

 

 貴族らしからぬローグライアの突飛な行動力を嫌というほど味わっていたルーノは、いつも騒がしいこの大男が、未だ沈黙を保っている事実に内心で驚いていた。同時に、それだけ彼はこの事件を重く見ているのだと察し、皮肉を漏らす口を閉めてローグライアの隣に並び立つ。

 

「嫌な空だ。貴卿もそう思わぬか?」

「……」

「紅き月の浮かぶ夜は魔物共が活発になる。あの月光は意志無き者の理性を狂わせる毒でしかない。しかしながら、我々人間の中にアレを崇める輩が存在するのもまた事実。実に嘆かわしい事だ」

「……」

「……ローグライア殿?」

 

 夜空を睨みながら淡々と語っていたルーノだったが、ここでふと違和感を感じた。

 先程から、ローグライアが妙に静かなのだ。……いや、あまりにも静か過ぎる。

 決して、話を無視されているだのと自意識過剰な考えに至った訳ではない。もっと根本的に、何かがおかしい。例えるなら、等身大の人形に話しかけているかの様な――――そんな馬鹿げた考えが脳裏を掠め、有り得ぬと即座に切り捨てながら隣を振り向いた矢先。

 

 目の前に飛び込んできたのは、力なくその場に崩れ落ちるローグライアの姿だった。

 

「なっ!? ローグライア殿ッ!」

 

 咄嗟にローグライアを支えようと手を伸ばす。受け止めた両手に伝わる彼の身体は温かく、急いで握った手首からは力強い脈が感じられた。死んではいない。まだ生きている事に安堵の息を漏らしそうになった時、背後でポンと乾いた音が鳴る。それは、葡萄酒のコルク栓を抜いた際によく耳にする音だった。

 

「ッ……何者だ!」

 

 反射的に振り返った先に、ソレは居た。

 円卓の上で胡坐をかいてこちらを嘲笑うその人物にルーノは酷く見覚えがあった。

 

「愉快な見世物を見せてもらった。中々に滑稽だったぞ、お前の独り語りは」

「貴様は……?! まさか……馬鹿な……」

 

 栓の抜けた葡萄酒の瓶から、円卓に置かれたグラスに無造作に酒を注いでいるその()()は、行方知れずだったルーノの部下――――キスケ・クレイン。

 

「貴様ァッ!!」

 

 瞬時に少年の置かれた状況を理解したルーノが、激情の叫びを上げながら腰に差した剣の柄を掴む。

 腹の内から煮え滾った怒りが込み上げる。荒ぶる己の感情が眼前の魔を今すぐに斬り捨てろと囁くも、平静を保っていた理性が辛うじて剣を抜こうとする手を押し止めた。

 この魔物を斬る前に、確認しなければならない事がある。怒りを飲み込み、震える声でルーノは問いかけた。   

 

「……貴様、誰の手引きでこの王都に侵入した? 私の部下の身体を奪って何を企てている?」

「まぁ待て、そう逸るな小僧。見て分からんのか? お前の問いに答えてやる為に、渇いた舌をこうして潤しているのではないか」

「ふざけるなッ!」

 

 常人ならば腰を抜かしてしまう程の激しい怒気が、卓上で愉快気に酒を呷っていた魔物にぶつけられる。

 しかし魔物は素知らぬ顔でルーノの怒気を受け流し、空になったグラスに二杯目の酒を注いでいた。

 

「騒ぐな。下々の者が起きてしまうぞ」

「黙れッ! 相次ぐ民の失踪、貴様が関わっているのだろう。答えろ、民達を何処に隠した!」

「答えを急くなと言っておるだろうが。喧しい男だ。仕方ない、お前に付き合ってやる」

 

 確信の籠ったルーノの追及を受けて、酒を飲む手をピタリと止める魔物。そのまま酒瓶とグラスを足元に置くと、膝の上に手を乗せてジッとルーノを見詰める。少年の身体を介し、魔物のどす黒く濁った眼が昏い光を灯す。そして、徐に口を開いた。

 

「奴らはもうこの世に居らん。会いたければ地獄にでも行くがいい」

「ッ……! なんという事だ……」

「何を嘆いておる。役に立たん屑共を掃除してやったのだ、寧ろ感謝するのが筋ではないか?」

 

 肩を震わせ、沈痛な面持ちで歯を食いしばるルーノを魔物が嘲笑う。おどけたその口振りからは、罪の意識など微塵も感じられない。軽薄な笑みを浮かべた魔物は、膝にやった手を腰の方へと移す。魔物が操る少年の腰元には、二振りの刀が差してあった。血染めの鞘に納まる不気味な刀を撫で、黒塗りの鞘に納まった美麗な刀に指を添える。敵を殺す武器として同じ目的の下に造られた二刀であるが、その在り方はまるで正反対だった。

 

「この国の市場には刀が流通していないようでな。コイツを見付けた時など、それは驚いたものよ。それでまぁ、興が乗ってつい斬り過ぎてしまってな。一体ずつ丁寧に灰にするのは流石に骨が折れたわ」

 

 最初から隠すつもりなど無かったのだろう。問い詰められた魔物は己の所業をあっさりと白状し、更に追及せんとするルーノに飄々とした態度で言葉を返す。

 

「お前もこんな夜更けにご苦労な事だ。克明な家臣をよく労うよう、俺からあのしつこい人魚に確と伝えておいてやろう」

「戯言を抜かすな! その刀は貴様に与えたのではない、魔物風情が手を触れるなッ!」

「ハッ、毛並みの良い犬にしてはよく吼える。まぁ、これでも飲んで少しは落ち着け」

 

 そう言ってもう一つのグラスになみなみと酒を注ぎ、円卓の上を器用に滑らせてルーノの前にグラスを差し出した。酒を前に剣呑な空気を滲ませるルーノに、魔物は白い歯を剥き出しにして満面の笑みを向ける。

 

「ヨシユキの銘も知らぬ犬畜生には惜しいが、一人で飲むのも詰まらん。ほれ、はよう飲め。犬らしく這いつくばってな。クハハハ!」

「……ッ!!」

 

 完全に相手を見下した魔物の無礼極まる物言いに、遂にルーノは剣を抜いた。

 最後の一線を踏み越えた怒りの刃が、目の前に置かれたグラスを叩き割る。粉々に砕けた硝子片に混ざって赤紫の液体が卓の上に飛散し、白い円卓を汚しながら床へと流れ落ちていく。

 

「やはり魔物に話など通じぬ。貴様は生かして返さん、部下を返してもらうぞ!」

 

 長剣を振りかざし、円卓の上に飛び掛かるべく足に力を込める。

 ――――恐らく、あの魔物は生者に憑りつく悪霊の類だろう。そうルーノは推測していた。

 そして、少年の腰に差された二振りの刀の片方。禍々しい気配を垂れ流すあの紅い刀こそが魔物の本体に違いないと確信し、刀に狙いを定めて身構える。

 

(どんな手段を用いたかは分からぬが、相手はローグライアを下した強敵だ。油断は出来ん。牽制を交えつつ神聖魔術を――)

 

 

「抜いたな?」

 

 その一言で、幾重にも張り巡らしていた思考の糸がぷつりと断ち切れた。

 

「――っ!? なん、だ……」 

 

 頭の中が真っ白になる。不動の構えを取っていた筈なのに、何故か視界が小刻みに揺れている。それに、何処からかカチカチと耳障りな音も聞こえてくる。両足は床に縫い付けられたかの様に動かなくなり、背中を冷たいものが流れた。何が起きたのか、まるで理解出来なかった。

 

「貴様……私に、なにをした……!」

「……あ? 俺はまだ何もしていないぞ?」

「ふざ、けるな! いい加減、にっ――!?」

 

 魔物を糾弾しようと口を開いた直後、舌先に痺れるような激痛が走る。

 思わず空いていた手で口元を押さえると、顎が震えている事に気付く。口元から手を離し、ゆっくりと視線を下ろしていく。掌は血で真っ赤になっていた。

 

(まさか……舌を噛み切った、のか? 馬鹿な、この私がこんな!? これではまるで……!)

 

 事ここに至り、彼は初めて自身の異常を自覚した。

 足元が震え、剣を握る手には汗が浮かび、浅い呼吸が不規則に繰り返される。傍から見れば、その姿は底知れぬ恐怖に震える弱者そのもの。本人は決して認めないだろうが、事実、蒼褪めた顔からは滝の様な汗が流れ、心臓は破裂しそうな程に激しく鳴り響いていた。

 

「先に抜いたのはお前だ。お前もこの国のモノノフなら――――死ぬ覚悟は出来ているだろう?」

「ぐッ……!?」

 

 ――――殺される。

 

 手から零れ落ちた銀色の刃が、カランと音を立てて床に転がる。

 もはや自分を誤魔化す余裕など無かった。足元に落ちた剣を拾う事も、一瞥すらも出来ず、背筋を走る正体不明の悪寒に身を震わせるしかなかった。目に見える程の黒い殺意が、濃密な死の匂いが、脳裏に囁かれる怨嗟の声が、ルーノから僅かな敵愾心すらも余さずに奪い、呑み込んでいく。

 

(駄目だ……これは駄目だ……! なんだこれはっ……こんなものが存在していいのかッ!?)

 

 油断はしないと言いつつも、心の何処かではこの魔物を甘く見ていたのだろう。

 所詮は部下の肉体を借りただけの悪霊に過ぎない、ローグライアも情に流されて剣を鈍らせたに違いないと。

 だが、それは誤りだった。

 相対するだけで全身が総毛立ち、ただの一言で抵抗する気力を根こそぎ奪われる。それはまさに、この世に顕現した“死”そのもの。すべての生物に等しく訪れる運命。絶対的な概念が人型を模して、あろうことか向こうからやって来たのだ。

  

「むう……? ……そうか、お前もか」

 

 恐怖に竦む男の姿を目にして、魔物の顔から笑みが消える。失望した様にぼそりと呟くと、途端に部屋中に犇めいていた殺気が霧散し、重圧から解放されたルーノが息も絶え絶えに膝を突いた。その様子を無視して魔物はひょいと円卓から飛び降り、焦燥したルーノの横を足早に通り過ぎる。

 

「話にならんな。この国での手練れとは、軟弱者を指すらしい」

「……ま、待て……っ!」

 

 青白い顔をしたルーノが、震えながら立ち上がる。しかし、やっとの思いで吐き出した制止の声も、相手に聞く気がなければ意味を成さない。もうお前に興味は無いとでも言うように、魔物は開いた窓の縁に足をかけ、今にも屋敷の外へ飛び降りようとしていた。

 

(……ッ、舐めた真似を……その慢心が命取りだッ!)

 

 湧き上がった怒りが恐怖を覆い隠し、ルーノの身体を突き動かす。

 隙だらけの背中を睨み、言霊を紡ぐ。すると眩い光が両手から膨れ上がり、薄暗闇を白光が塗り潰していく。厳かな空気すら感じられるその輝きは、紛れも無い神聖魔術の光。如何に相手が強大であろうが、霊体である以上、神聖属性の一撃は致命打となる。彼我の距離が開いた今、未だ背を向けたままの魔物に反撃する暇は無い。

 

「不浄なる者共に裁きの光を! 神聖ま――――ぐッ?!」

   

 詠唱が終わろうとしたその瞬間、ルーノの身体が大きく仰け反った。

 感じたのは額を貫く様な強烈な衝撃。同時に走った鈍い痛みに、最後の一句を詠む寸前で詠唱が止まってしまう。当然ながら魔術は発動せず、待機状態になった魔力光が、それを繰り出そうとしていた男の呆然とした横顔を淡く照らす。その目は一点を見詰めていた。 

 額から離れ、目の前に落ちてきたモノ。薄暗いこの部屋では、間近でよく目を凝らさないと気付けないだろう程に小さなモノ。何の変哲も無い、葡萄酒のコルク栓。

 

「阿呆が」

 

 魔物の呆れた声が聞こえたと思った、その直後。

 いつの間にか背後に回っていた魔物がルーノの後頭部に酒瓶を叩き付け、彼の意識はそこで途絶えた。

 

 ――ルーノが魔術の詠唱を開始した時点で、魔物はある行動を起こしていた。

 大それた事ではない。やったのは指でコルクを弾き飛ばすという、些細なお遊び。精々、一瞬だけ相手を怯ませる程度の効果しかないだろう。

 だが、逆に言えば、一瞬だけは時間をつくれるのだ。そしてその一瞬さえあれば、怯んでいる隙に男の背後に回りこみ、懐に忍ばせていた葡萄酒の瓶を叩き付けてやるぐらい造作も無い。

 しかし予想外な事に、もっと抵抗らしい抵抗をしてくれるだろうと期待していた男があっさりとのびてしまった為、仕掛けた側は別の意味で驚いていた。

 

「何故だ。人間はここまで軟だったか? ……いや、そんな筈は無い。その様な筈が無いのだ……」

 

 倒れているルーノに止めも刺さず、ぶつぶつと呟きながら窓辺へ歩み寄る魔物。開け放たれた窓から一足飛びで部屋を飛び降り、敷地内の芝生の上に着地すると、幽鬼の様な足取りで正門へと向かっていく。

 その間も呪詛めいた独白は止まらない。虚ろな目で妄言を垂れ流しながら暗闇を彷徨う姿は、夢遊病を患った病人か、精神の破綻した狂人にしか見えなかった。

 

「違うだろう。お前達はもっと強かで、欲深く、浅ましい生き物だ。俺は知っているぞ。その底無しの欲望を満たさんが為の手段として、四百年もの長きに渡り血を吸い続けてきたのだ。そうだ、俺はお前達の本質を誰よりもよく知っている」

 

 過去の記憶の中の人間達は、もっと輝いていた。誇りの為に喜び勇んで死地へと赴いた武者の覚悟が“彼”に自我を与え、復讐の鬼となった村娘の妄執は“彼”が人間に興味を抱く切っ掛けを生んだ。

 我欲に溺れた亡者共の手を渡り歩いていくうちに芽生えた自我は狂気に染まり、盲目の浪人の肉体を取り込み強大な力を手にしてから暫くの後、一人の忍びと偶然の邂逅を果たす。四半刻に及んだ死闘の果てに、地に膝を着けたのは“彼”だった。

 それからは忍びの懐刀となり、日ノ本を脅かす化生共を滅ぼす為の刃となった。時代の夜明けと共に姿を消した、冷たい朧月の様な忍びの手によって封印されるまでのたった数年の記憶だが、その僅かな時間はそれまで人間に抱いていた価値観を根底から引っ繰り返す程の衝撃を“彼”に与えた。誰かに命令されたからではなく、自らの意志と信念に従い動乱の世を駆け抜けて行く男達の背を見続けた“彼”は、人間だけが持つ特別な力を真の意味で知ったのだ。

 

 ……だからこそ、今の世に蔓延る人間達の堕落した姿が信じられなかった。

 主人に尻尾を振るしか能の無い、去勢された飼い犬と成り果ててしまった、愛しい人間達の醜態が。

 

「確かにお前達は、肉体的には強くなったのだろう。世の中にこれ程の神秘が満ちていれば当然だ。だが、今のお前達からは一欠片の脅威すら感じない。灰色の国で魅せてくれた連中の様な、あの――」

 

「そこまでです」  

 

 あと数歩で正門に辿り着くかというその時、背後から透き通った女の声が耳に届いた。

 その声に反応してゆっくりと後ろを振り向いた魔物は、緩慢な動作から転じて即座に腰の刀へと手を伸ばし――――刀が二振りとも凍り付いている事に気付く。

 

「……今思い出した、この屋敷の庭には噴水があったな」

 

 薄ら笑いを浮かべながら尚も刀を抜こうと試みるが、器用に刀の鍔と鯉口の間を氷で埋められたせいで、いくら力を込めても一向に刀は抜けない。それどころか、柄を掴んでいた右手は凍てついた柄にピッタリと貼り付き、刀から手を離せなくなってしまう。更に追い打ちをかける様に、地面から湧き上がった水塊に両足を呑み込まれ、瞬時に凝固した事でその場から逃げるという手も封じられた。 

 

「邪なる者よ。貴方は我が国の民に危害を加えました。国を治め、民の安寧を見守る者として、貴方という存在を赦す事は出来ません」

 

 庭園の隅に建てられた噴水から水が膨れ上がり、緩やかに収束し、やがて人間の女性の形を模った。

 それはレウィニアの民なら誰もが知っている存在だった。言葉ではとても表しきれない、この世と隔絶した美貌。澄んだ清流の如き美しさと、最上級の絹糸が霞んでしまう程に艶やかな長い髪。触れれば折れてしまいそうな儚い肢体を包むのは、人の手では絶対に作り出せぬだろう神秘的な水の羽衣。

 その御業でもって荒れ果てた大地を瞬く間に潤し、瘴気に犯された多くの人々の命を救った彼女を、レウィニアの民は畏敬を込めてこう呼んだ。

 

「偉大なる建国の母――――水の巫女、か。なんとも御大層な肩書きだな」 

「随分と余裕がお有りのようですね、魔神を自称する亡霊よ」

「勘違いするな。魔神竜之介の名は人間共が勝手に付けたのだ。その点では、お前も似たものだろう」

 

 左手一つしか動かせない危機的状況にも関わらず、軽薄な笑みを顔に貼り付け悠々と語らう魔物。その正体である魔神竜之介はしかしその裏で、どうにかこの面倒な氷の枷を外せないかと画策していたが……

 

「そもそも、お前の有様は道理に合わん。何ゆえ、人魚が陸の上を歩くのだ。黙って水の中を泳いで――」

 

 発言の最中、足元から噴き出した水流が竜之介を急襲する。片手両足と刀を封じられた今の竜之介にそれを防ぐ術は無く、彼が操っている少年の身体は一瞬で水の檻に囚われた。

 

(……この女、本気で俺を消すつもりか。俺が奪ったこの肉体ごと……)

 

 生きた人間にとり憑いている今の状態では、選べる選択肢も限られてくる。

 通常なら容易に突破できる拘束も、非力な少年の身体ではどうにもならない。逃げる為の手足は氷の枷で塞がれ、段々と息苦しさが増していく。深海に沈んだ様な圧迫感に襲われた身体が、悲鳴を上げる。

 

(さて、どうしたものか。強引に抜け出す事も可能だが……その場合、()()()は死ぬ)

 

 自重を止めれば、枷を破壊して水の檻を吹き飛ばした上で、上手くいけば間合いの中に入っている水の巫女の首を落とす事も出来る。その代償として、限界を何段階も突き抜けた少年は血塗れの肉塊へと生まれ変わるだろうが。所詮は代用の効く肉体。その時はその時だと割り切り、終わった後に代わりを探せばいい。 

 

(……むう……。……いや、それは止すか。どうせこの人魚は都中に点在する写し身の一つ。そこまでする意味も無い)

 

 この状況で最善となる筈の手段、敢えてそれを切り捨てた竜之介に残された選択肢。

 それはつまり、とり憑いた肉体を捨て、自力で水の檻から脱出するという力技だ。

 

「名残惜しいが、致し方あるまい」

 

 少年の背後から禍々しい瘴気が立ち上る。透明だった水は黒く濁り、澱み切った水流の中に黒髪黒目の男が現れた。

 

「さらばだ小僧。ヨシユキは有難く頂戴していくぞ」

 

 黒い着流しを纏いぼさぼさの髪を後ろで一本に縛った異国の装いの男は、直前まで自らが操っていた少年から二振りの刀を奪い、水流を無理やり突き破って水の巫女の前に躍り出る。しかし、彼の動きを察知していた水の巫女が腕を横に振るうと、上空より四本の氷槍が飛来し、男の手足を貫いて地面に縫い付けた。

 

「ぐっ……」 

「貴方は人々の心に濁りを生む。穢れたその一滴が、澄んだ湖面を黒く濁らせてしまうのです。貴方を野に放つ事は、この世界に火種を蒔く事と同義」 

 

 静かに目蓋を下ろし、両腕を広げ、人間では理解の及ばない言語が巫女の口から詠い上げられる。

 術式の起動を示す魔法陣が水の巫女の足元に浮かび上がり、溢れ出した魔力が荒々しい風を呼び起こす。

 

「……随分と頑丈な氷だ。無理に外そうとすれば手が裂けるな」

 

 薄く発光する氷槍を眺めて他人事の様に呟き、竜之介は跪いた恰好のまま視線だけを横に向ける。そこには、空中で氷槍に貫かれた際に手から離してしまった刀が落ちていた。この状態では刀を回収出来そうにない。周囲を渦巻く魔力と風が一層強くなり、間もなく術式が完成するだろうと察した竜之介が、水の巫女を仰ぎ見て口を開く。

 

「人魚よ、何ゆえお前は俺を殺そうとする?」

 

 その言葉に、水の巫女の動きが止まる。

 

「……貴方は、御自分が犯した罪をお分かりでないのですか?」

 

 詠唱を中断し、薄く見開いた双眸で竜之介を見詰めながら逆に彼女は問う。

 私欲の為だけに護るべき民に危害を加えた、お前がそれを言うのかと。

 だが、水の巫女の至極当然な、この世界では正しい反応を見た竜之介は何故か表情を曇らせる。理解出来ぬと、深い疑問に頭を悩ませている竜之介の不可解な姿に、水の巫女は困惑する。  

 

(時間を稼いでいる? ……いいえ、その割には彼から何の兆候も見られない。正気を失っているのか、それとも……?)

 

 目の前の亡霊からは魔力の流れを感じられず、それどころか殺気すら掻き消えてしまった事に戸惑いを隠せない水の巫女に、竜之介は真顔でもう一つの問いを投げる。

 

「なぁ。お前達はいつから、そうも()()()()()()()()()のだ?」

「……仰る言葉の意味が解りかねます。貴方は何を――」

「お前達は」

 

 水の巫女の疑問を遮り、竜之介が断言する。

 

「お前達は血も涙も無い外道の集いだ。現に、石山合戦の時も、あの島原の虐殺の時さえも、己ら神仏共は雲の上で高みの見物をしていたではないか。それが今更になって、何ゆえ心を入れ替えた?」

 

 竜之介の手足を封じる氷槍からギシギシと嫌な音が鳴る。両の掌からは血が流れる代わりに、青白い炎が漏れ出し、傷が大きくなるに連れて噴き出す炎も強くなっていく。

 

(……っ、いけない……!)

 

 相手に生じた不気味な気配を感じ取った水の巫女が、急いで詠唱の最後の一節を詠み上げた。すると足元の魔法陣が一際強く輝き、竜之介の四方にも同様の魔法陣が次々と浮かび上がる。

 しかし竜之介は周囲の変化が気にならないのか、特に慌てる様子もなく、最後にまた一つ問い掛けた。

 

「神よ。答えろ。貴様らにとって、人間とはなんだ?」

「……」

 

 発動寸前の大魔術の影響で辺りは暴風の渦巻く魔境と化していたが、この瞬間だけは奇妙な静けさに包まれていた。まるで台風の目に飛び込んだ様な静寂の中、水の巫女は少しも迷う素振りを見せず、跪いたままこちらを睨み上げる亡霊に自身の答えを告げた。

 

「人は可能性という名の小川です。人々が集まれば小川は大河となり、善き心を持った人々の大河は清流としてその地に住まう全ての生命に繁栄を齎すでしょう。ですが、悪しき心を持った人々の大河は濁流となり、その地の全てを破滅へと誘うでしょう」

「面倒な言い回しをしおって。つまりなんだ、己らは世を繁栄に導く為に治水をしていると言いたいのか?」

「いいえ。確かに一部の現神達には人々に過度な干渉をしている節が見られますが、全てがそうとは限りません。運命とは自らの手で手繰り寄せるもの。決して誰かの手に委ねるものではないのです」

「……」

 

 水の巫女の答えを亡霊が聞き遂げた直後、魔術は完成した。 

 四方を取り囲む魔法陣から膨大な魔力を帯びた氷槍が次々と飛び出し、竜之介の頭上に向かって斜めに伸びて行く。その槍は樹齢を重ねた大木の様に太く、槍というより柱と呼んだ方が妥当かもしれない。無数の氷柱群は数十秒で屋敷の屋根に頂点が達する程の巨大な四角錐の氷塊となると、地響きを立てながら捻じれ曲がり、その威容を変貌させる。

 

「手加減は致しません。犯した罪の重さを、その身で受け止めなさい」

 

 外部から想像を絶する程の圧力が掛かり、螺旋状の氷山は見る見るうちに縮んでいく。当然、氷山の中に囚われた者に逃げ場など存在せず、暗闇に圧し潰されて果てるという無惨な最期しか残されていない。

 これが水の巫女の力。これが、神を敵に回した愚者が辿る末路。すべては己が招いた結末であり、そこに同情の余地は無い。いよいよ最初の半分程度の大きさにまで縮んだ氷山を見据えて、水の巫女が魔術を解除しようと片手を持ち上げ―― 

 

 

 ――――『破道法』

 

 閃光と爆音が唸り、氷山が爆ぜた。

 

「ッ……! これは……っ」

 

 氷山の表面に大きな亀裂が走り、砕け、魔力を何層にも編んで生み出された堅牢な氷が一瞬で溶解する。それは地上から天へと打ち上げられた落雷。夜空を白く染める、絡み合う二条の稲光だった。

 

「そうだ、その通りだ。人間に手助けなど不要。逆境に立たされて初めて、奴らは真価を発揮する。だからこそ……己らは目障りだ」

 

 砕けた氷の破片が雹となって降りしきる。淡く煌めく闇の中を、二振りの刀を差した人影が猛然と駆けて行く。風穴の開いた両手から青白い炎の尾を伸ばし、大地を踏み締める度に原型が崩れていく両足を限界まで稼働させる。隙を見せた水の巫女を仕留める、それ以外の一切の思考をかなぐり捨てて竜之介は地を蹴った。

 

「死ね」

「しまっ……」

「――させません!」

 

 竜之介の手が水の巫女に触れようとする刹那。地面から激しく水が噴き出し、両者の間を挟んで第三者が介入する。主の危機を察して飛び出した水の巫女の眷属、氷精ラクス・レニアと呼ばれる強力な精霊だ。身体から漂う冷気は温暖な土地を真冬へと変貌させる。一説には広大な湖に氷精が住み着いた事によって、その湖は一晩で凍り付いたとも云われている。

 

「むっ」

 

 突如として、眼前に現れた新たな敵。それに対し竜之介は短く声を漏らすも、氷精が振り抜いた氷剣の軌道を冷静に見切り、大きく跳躍して彼女らの頭上を飛び越える事で難を逃れる。すかさず後ろを振り返ると、水の巫女の背に隠れる形となった件の氷精に加え、更に出現した四体の氷精達が主の周囲を守っていた。

 

「お下がりください! あの魔物は我々が排除します!」

「貴女達……! いけません、あれは貴女達の敵う存在ではないのです!」

 

 駆け付けた眷属達に水の巫女は戦ってはならないと告げるが、氷精達は誰も逃げようとせず、氷剣を構えて竜之介の前に立ち塞がる。その光景を見た竜之介は気怠げに首を鳴らし、手に持っていたモノを彼女らの足元に放り投げた。

 

「雑魚共が群れおって。あと()()も潰さねばならんとは、面倒だ」

「――――っ!?」

 

 転がってきたモノを見て、水の巫女と氷精達は絶句する。

 それは、飛び掛かってきた竜之介から主を守る為に最初に現れた氷精の首であり、言葉を失った彼女達の背後で首をもぎ取られた死体がぼろぼろと崩れ落ちていった。 

 

「……ふむ。中々の魔力だ。見ろ、一匹殺っただけで俺の傷が塞がったぞ」

 

 そう言って元通りになった手足を見せびらかす竜之介に、誰も言葉を返す事が出来ない。

 静まり返った庭園には暫く男の笑い声だけが響いていた。だがそれは唐突に途絶え、笑うのを止めた竜之介はゆっくりと前のめりに倒れていく。脱力し切った身体は柳の枝の様にしなやかに曲がり、そして頭が地面に触れそうになったその瞬間、竜之介の姿が消える。

 

「えっ」

 

 敵がその場から消え去り、直後にそれまで敵が立っていた場所から土煙が舞い上がった。転移魔術を使用したのであれば急激な魔力の流れを感じる筈だが、そういった形跡も見られない。ならばどうやって消えたのかと氷精の一人は考え、万が一に備えて背中に守る主に注意を促そうとし――――気付けば、自らの胸に生えていた黒い腕を呆けた目で眺めていた。

 

「二匹目」

「貴様!」

 

 背後からの貫手で胸を貫かれた仲間の無残な姿に、傍に居たもう一人の氷精が激昂し、剣を振り上げて竜之介に斬り掛かる。しかし、再び竜之介が消えた事で袈裟斬りの刃は虚しく空を斬り、敵を見失った氷精は動揺しつつも辺りを見渡しながら叫ぶ。

 

「何処だ! 卑怯者め、隠れてないで出てこ――」

 

 暗闇の奥から鋭い風切り音が響いた直後、狼狽していた氷精の右の眼窩に氷剣が突き刺さった。

 

「三匹目」

 

 眼窩を貫通し、頭蓋を粉砕させて獲物が死に絶えた事を確認した竜之介は、こちらに向けて魔法を発動させようとしている二人の氷精へと視線を移す。

 

「動きが止まった!」

「消えろ、邪悪な魔物めッ!」

 

 氷精達の手から水と氷の弾幕がばら撒かれる。苛烈なその勢いは上級精霊の名に相応しく、真冬の極地に吹くブリザードの様相を呈してした。激しく吹き荒ぶ嵐に足を止めたら最後、無数の氷の刃に全身を切り刻まれるだろう。 

 

「クハっ、壮観よな。だが、まぁ……」

 

 猛然と迫る白い壁を無言で見据える竜之介。その口元には笑みが浮かんでいた。

 

「これでは足りん。俺と殺り合うならせめて烏賊女と同等の化物を引っ張り出してこい」

 

 そう言うと竜之介は――――自分から白い壁の中に突っ込んだ。

 

「っ!? 気が触れたか!」

「ならばお望み通り貴様を滅ぼしてやる!」 

 

 まさか敵の方から魔術の渦中に飛び込んでくるのは流石に想定外だったのか、氷精達の口から戸惑いが漏れるも、これ幸いにと魔術の出力を上げて確実に敵を殺そうと動く。

 ただの人間であれば一秒と掛からずに血煙に変わり、頑強な魔物であっても絶え間なく降り掛かる氷の刃に晒され続ければ、あっという間に細断される。何人も生き残る事を許されない地獄の只中にあって、それでも男はまだ立っていた。

 

「――大陸に伝わる仙術の一つに、地脈を歪める事で千里先にある物を目の前にまで引き寄せる術があるそうだ。もし使えれば、さぞかし便利だろう」

 

 大小無数の氷片に少しずつ肉を削がれながら、致命と成る氷片だけを避け、手刀で弾き、身体を屈める。

 軸となる右足を後ろに流し、身を低く狭め、音も無く左足を滑り出す。見る者が見れば、その姿は老境に入った武芸者の様であり、天賦の才を持つ剣豪の様であり、日ノ本に夜明けを齎した忍びの様であった。

 

「生憎と俺は仙術を覚えておらん。だが、()()は出来る」

 

 目蓋を下ろし、余計な情報を遮断する。そもそも、この状況で飛び道具を避けるのに視覚は必要無い。

 幾多の合戦場を練り歩き、硝煙の匂いを嗅ぎ、鏃が風を裂く音に耳を澄ませ、彼方此方に漂う殺意の刃を肌身に突き刺した。そうして鍛え上げられた彼の第六感は未来予知に近いレベルにまで昇華し、古今東西の達人たちの技術を盗み己の内で練り上げた事で、彼は兵法の極みを体現する存在となった。  

 

「赤鉢巻のウツケの話だと、モリベなる武芸者は瞬き一つする間に十間あった距離を詰めたらしい。ならば、化生の身の上である俺が達人の歩法を模倣すれば――」

 

 果たしてどうなるか。 

 そう呟いた時点で、既に竜之介はブリザードの中には居らず。

 

 ――――『袈裟懸け二刀流』

 

 紅白の剣閃が二人の氷精の間を擦り抜ける。一拍遅れて、彼女らの身体は斜めに分断されて崩れ落ちた。

 

「一つ飛んで五匹。詰みだ」

「……なんてこと……っ!」

 

 一人残った水の巫女は手で口元を押さえ、悲痛な表情で眷属達の亡骸を見詰める。 

 そんな彼女の後ろでは、悲嘆に暮れる水の巫女に背を向けて二刀を鞘に戻す竜之介の姿があった。

 

「お前の思想は嫌いではないが、やはり神は好かん。ではな」

「……お待ちなさい。私は、貴方を赦しません……!」

「知った事ではないわ。悔しければ、今度は写し身ではなく本体を寄越すのだな」

「何を言って――――ッ?!」

 

 立ち去ろうとする竜之介に魔術を放とうとして、水の巫女は今度こそその顔を驚愕に染める。竜之介の背に向けて振り上げた右腕が、肩の付け根から滑り落ちたのだ。

 

「何時の間に……なにも……見えなかっ……」

「ああ、そうだ。一つお前に言伝を頼んでおこう」

 

 零れた右腕は落下中に石に戻り、地面に当たって砕け散る。その拍子に左腕が取れ、両足が外れ、胴体は輪切りに三分割されてずれ落ち、粉々になった身体から首が転がった。

 

()()のモノに手を出すな。神々(おのれら)は黙って見ていろ」

 

 地面が陥没する勢いで足元の首を踏み潰し、夜空を見上げてその向こうに隠れている者達を睨む竜之介。そうしていると、ふと視界の隅に()()が入り込んでいる事に気が付く。

 

「あれは……っ、ク、ハハっ……ハハハハハハッ!」

 

 美しい星空を飛んで行く人影。それは蒼い髪を伸ばした若い女だった。女は煽情的な衣装を纏っており、妖しい色香を醸し出すその肢体で誘惑されたら、靡かない男はいないだろう。が、竜之介の目を惹いたのはそれではない。女から溢れ出す暴力的なまでの魔の波動を全身に浴びて、心を躍らせていたのだ。

 

「ハァ……アレは何者ぞ? 明らかに魔でありながら、どこか人の息吹を感じる。奇妙な女子よ、そんなに目を輝かせて何処ぞに参るのだ?」

 

 南東の方角に飛び去って行った女の姿を脳裏に焼き付けた亡霊は、濁った眼を狂喜に歪めて歩き出す。

 女が向かった先――――“リブリィール山脈”を目指し、狂った妖刀が闇に消える。朝日が射す頃には、王都を騒がせた犯人は国の何処にもいなかった……

 

 

 

 

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